悪くない奴らが成功できるための日記

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悪くない奴らが成功するには、受難の週の出来事の意味をもっと理解すること(2)

2013-03-26 19:40:33 | 成功法則

前記ではイエスがエルサレムに入城して、宮殿を清め、最後の晩祭、イスカリオのユダが裏切り、イエスの苦痛の祈りがあり、そしてイエスが大司祭達に捕われたところまででした。(聖日曜日から聖木曜日)

今回はその続きとなります。この聖金曜日(グッド・フライデー)が、私達人間が学ばなくてはいけない重要な箇所なのです。キリスト教で、最も重要な出来事は、イエス・キリストの死とその後の復活で、キリスト教の基盤となっている箇所なのです。

このエピソードが起きなければ、キリスト教は無かったのです。そしてここが他の宗教と違う点なのです。

ユダヤ教の大司教、長老などが、私達人間のために死にましたか?

イスラム教のモハメッドは、私達人間のために死にましたか?

仏教の阿弥陀は、私達人間のために死にましたか?

神道の天皇は、私達人間のために死にましたか?

聖金曜日: 夜が明ける前、イエスに対しての大司祭、長老、議員らの審問が行われます。そして、大司祭カイアファは、イエスを死刑にする決議を下したのです。ところがこのサンヘンドリンと言われる最高法院では、当時死刑の裁判をする権限が与えられていなかったのです。そのために、イエスの身柄をローマ総督のピラトの下に送ったのです。その間、鞭を打たれたり、あざけりを受けているのです。(マタイの福音書第26章57~68節、マルコの福音書第14章53~65章、ルカの福音書第22章45~65節、ヨハネの福音書第18章24節)

 

その夜明け、聖徒ペテロは、イエスの後を追って大祭司邸の中庭まで入るのですが、使徒であることが分かりそうなるのですが、彼は、イエスの弟子ではないと3回否定するのです。そして鶏が鳴くのです。イエスの予告は的中するのです。(マタイの福音書第26章69~75節、マルコの福音書第14章66~72節、ルカの福音書第22章54~62節、ヨハネの福音書第18章15~27節)

 

そのころ、イエスを裏切ったエスカリオのユダは、自殺をするのです。(マタイの福音書第27章1~10節)

 

早朝、イエスは、総督ピラトの官邸に連れられてきます。 そしてピラトの裁判を受けるのですが、ローマの法律では宗教的な理由による罪人は死刑に出来ないとされていたために、大祭司カイアファから引き受けたイエスを、「イエスは、ユダヤの王としてローマに対する反逆罪」として十字架に掛けることを決めたのです。そして総督ピラトはイエスに尋問するのです。

 

しかし、総督ピラトは、「私は、イエスが何の罪をも見出すことが出来ない」と語り、イエスをちょうどエルサレムに訪問していた、ヘロデ王のもとに引き渡すのです。 そしてヘロデ王は、イエスを審問するのですが、イエスは、黙ったまま何の返事をしなかったのです。そのため、ヘロド王は、イエスを総督ピラトのもとに送り返すのです。

 

イエスは、再び総督邸に連れてこられ、総督ピラトの裁判を再び受けることになるのですが、総督ピラトは、イエスを鞭打刑として釈放することを判決したのですが、扇動された群集は、「十字架につけろ」とローマに上訴しかねない勢いで叫んできたのです。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、群集に、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言ったのです。

 

そして祭りの時には一人の罪人を恩赦することを思い出し、ローマの反抗罪となったバラバを連れ出し、「イエスとバラバのどちらを恩赦するのか」と群集に聞くのです。しかし群集は、バラバを選んだのです。

そのために、総督ピラトはむなしくイエスを「イエスはユダヤ人の王」として処刑を決断したのです。そしてバラバは釈放されたのです。

 

さてこうして総督ピラトは、鞭打ちをさせるためにローマ兵士に引き渡すのです。そしてローマ兵達は、兵舎に連れ、服を剥ぎ取り、紫のガウンを着せ、茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」とイエスを嘲り、蹴ったり、殴ったり、唾を吐いたりして、鞭打ちをされ、陵辱の限りを尽くすのです。

そして傷ついたイエスは、自分の処刑にもしいる思い十字架を背負わされ、死刑場のゴルゴタの丘に続く道を歩かされるのです。これが「悲しい道」であり、「ヴィア・ドロローサ」なのです。

兵隊達は、ちょうど田舎から来合わせていたクレネ人のシモンという男に、無理やりイエスの十字架を背負わせるのです。(マタイの福音書第27章32節、マルコの福音書第15章21節)

ゴルゴタの丘に着いたイエスは、その十字架に釘を打ち込まれます。

そのゴルゴタには、他の二人の罪人も十字架に架けられていました。そしてイエスに、「貴方は何の罪を犯していない」とささやくのです。その男はかってイエスが癒やしたことのある女の息子だたのです。そしてイエスはその男に、「貴方は今日私と共に楽園に入る」と言ったのです。

 

その後すぐにゴルゴタの丘は、黒い雲に覆われ、まもなく激しい嵐が起きたのです。その中イエスは悲痛な叫びを上げ、「父よ、貴方は私を見捨てられるのか」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶのです。

 

 

そして息を引き取るのです。その時に、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けるのです。

まもなくイエスの死体を引き取りに、議員の一人アリマタヤのヨセフとかつて深夜にイエスを尋ね、神の国の福音を教えられたニコデモでした。彼等は、すぐさまイエスの遺体を十字架から引き降ろし、白い亜麻布に丁寧にくるんだのです。そして女たちも集まって来ました。

そして、彼等は、ゴルゴタの丘の西側の岩に彫られた新しいヨセフのための墓に手厚く葬ったのです。そして墓の入り口は重い石で蓋をしたのです。(マタイの福音書第27章57~60節、マルコの福音書第15章42~46節、ルカの福音第23章50~54節、ヨハネの福音書第31~41節)

 

聖土曜日: 安息日のために、使徒達は静かに行動をしませんでした。

聖日曜日: イエスが処刑されたその日(金曜日)は夕方から安息日になるため、正式な埋葬は、安息日が明ける日まで待たなくてはならなかったのです。そして安息日明けの朝、マグダラのマリアとヤコブの母のマリアの女達、イエスの遺体に香油を塗ろうと墓に行ったのですが、その時、地が揺れ、天使がマリアの前に現れたのです。そして天使は、「あなた方が探しているイエスはここにいない。復活したのだ。弟子達にガラリアでイエスが現れることを告げなさい」と命じるのです。(マタイの福音書第28章1~8節、マルコの福音書第16章1~8節、ルカの福音第24章1~8節)

マグダラのマリアが安息日の翌朝早く墓に出かけると、イエスの死体が消えていたために、ペトロやヨハネにすぐ様報告をするのですが、使徒達マリアも含め、遺体が消えたことを見届けるとすぐに家に帰ってしまったのです。しかし、マリアは墓に戻り、墓の前で泣いて、墓の中にはいるのです。その時、イエスのしたいが置かれてあった、場所に2人の白い布の天使が座っていたのです。そしてマリアの後ろから声が聞えたので振り返ります。するとイエスが立っていて、「マリア、私だ」と言って、復活したことを弟子達に伝えることを命じたのです。(ヨハネの福音書第20章1~18節)

十字架の死刑は、当時極悪の罪人にのみ課された残酷な死刑のやり方なのでした。金曜日の朝6時ごろ、イエスは捕られ、鉄のついた鞭で打たれ体の全てに傷がついたのです。そして茨の冠をかぶさられ、顔から流れ落ちる血、体から流れる血、その体で、十字架をかつぎ、ゴルゴタの丘まで、歩いていったのです。この苦しみは、普通の人間では、途中で心臓が止まってしまう可能性が高いのですが、イエスは、この痛みそして陵辱されことに耐えたのです。そして十字架上でイエスは、「父よ、彼等をお許しください。彼等は何をしているのか解らないのです」と言って、その後息を引き取ったのです。

悪魔・サタンの毒牙(誘惑)のもとに、私達人間は自分自身を見失ってしまっているのが、現代の世界ではないのでしょうか?イエスのように、他人、まったく知らない人達のために恵みを与えてくれたのです。それがイエスの死であり、復活なのです。コノエピソードは、神だけが創れるものなのです。

だからローマの百卒長や群集は、「誠にこの人は、神の子であった」と証言しているのです。このエピソードを信じるか信じないかは読者の方々が判断してください。

ですので、悪くない奴らが成功するには、このエピソードを深く理解・認識することなのです。

そして神に感謝、感謝、感謝することなのです。


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