悪くない奴らが成功できるための日記

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悪くない奴らが成功するには、恐怖心を無くすこと

2013-02-28 21:26:03 | 成功法則

恐怖は、現実もしくは想像上の危険、喜ばしくないリスクに対する強い生物学的な感覚です。(ウィキペディアより)

 

子供の時に井戸に落ちて、密閉空間に閉じ込められたり、水泳の途中で溺れたりした経験した者は、トラウマ的な恐怖心を大人になっても持つ事が多く有ります。また突然に職を無くす可能性が起きた場合(リストラ)や、癌の宣言をされた場合や、家計のやりくりが出来なくなって家を失う状況に迫った場合、伝染病が広がって死に追いやられた場合、戦争が始まってしまった場合、飛行機が怖い、地震、雷、台風、洪水など数え切れないほど、恐怖心は付いて来ます。 

また大勢の人達の前に立って演説・発言をすることを怖がったり、先生の質問に対して答えが出来るのに、恥ずかしいために級友の中で発言することを怖がったりする気の弱い人達が沢山居ます。 

更に、医者が怖いとか、蛇が嫌いだとか、悪魔が呪いを掛けるなど、経験はしていないのですが、想像上から発想した危険を感じて、恐怖心が沸き起こることも多く有ります。 

このように恐怖心は、知らない間に、あちこちで経験をしているのです。これらの怖い経験・想像、いやな経験・想像が潜在意識に溜まってしまうことで、これらの恐怖心を無くすことは非常に難しいと思われます。 

しかし、完全に削除する事が出来ない人でも、多くの恐怖心を無くすことは可能なのです。 

バイブルの中にマタイの福音書第14章22~33節、マルコの福音書第6章45~52節、ヨハネの福音書第6章15~12節には、ペテロとイエスがガラリア湖の水面を歩いた事が記載されています。

 

嵐の日、船に乗っていた弟子達は、薄闇の中、遠くからイエスが湖面を歩いて来るのを見たのです。ところが弟子達は、イエスの姿を見て幽霊だと言って恐れてしまいます。 

イエスは、「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と弟子達に向かって言ったのです。 

その時、一番の弟子であるペテロが「主よ、貴方でしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」とイエスに願ったのです。 

そしてイエスはペテロの願いを聞き入れ、「来なさい」と命じたのです。 

そこでペテロは舟から降りて、イエスの方に向って湖面の上を歩き出したのです。他の弟子達は船からペテロを見て大変驚くのです。当然水の上を歩くことは、不可能なことだからです。 

しかし、イエスに向かって水面を歩いていたパウロは、強い風と荒れる水面を見て、そして足下の水を見てしまったのです。そして恐怖心がペテロの頭の中に走ってしまい、自分の心の恐怖に呑まれて沈んでしまったのです。そしてイエスに助けを求めたのです。

 

そしてイエスはペテロに、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱ったのです。そして、そのすぐ後に手を伸ばしてペテロを助けるのです。そして2人は船に乗り込んだとたんに、嵐が止んだのです。そして弟子達は心の中でとっても驚いたのです。 

この話は、恐怖心と信仰との関係が描かれたストーリーなのです。恐怖心に曝された人達は、恐怖のために信仰を忘れてしまうのが通常です。 

ドイツの作家であるゲーテは、「人間は信仰と新鮮な気概によってきわめて困難な事業も成し遂げるであろう。 これに反して逡巡するどんなに小さな疑いがあっても直ちに失敗するものであるという優れた教訓が語られ」と残しています。 

シルバーバーチの霊訓のアン ・ドゥーリー女史は、「恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。」として記しています。 

ではどうすれば恐怖心を取り除くことができるのでしょうか? 

まずは、自分が何が怖いのかを分析することから始まります。そして具体的に何が怖いのかが理解できれば、恐怖心を克服することができる場合が多く有ります。 

そしてバイブルの言葉、即ち神の教えを信じることです。 

ヨハネの福音書第14章1節、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」 

マルコの福音書第5章36節、「恐れることはない。ただ信じなさい」 

イザヤ書第41章10節、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 

先の話のように、ペテロはイエスを信じて湖面を歩きました。私達もイエスを信じることで恐怖心を取り除く事が可能となるのです。しかし、少しでも信仰心が弱くなった場合、恐怖心はサタンの攻撃の武器となり、私達を神から離そうとするわけです。 

ですので、神そしてイエスの力を信じることです。神は神の息子を地上に送り、人間の苦しみ、恐怖心を味わっています。ですのでイエスは私達の悩み、恐怖心は良くわかってくれているのです。ですので心配なく何でも話掛けることです。それがお祈りの根本なのです。そして神に感謝、感謝、感謝することです。


悪くない奴らが成功するには、物やお金はあくまでも代用品であることを理解すること 

2013-02-27 20:48:08 | 成功法則

今日はバイブルのマタイの福音書(25章)とルカの福音書(19章)の中から取り上げて話を進めていきましょう。 

イエスはエルサレムに入る前にエリコの町を訪れます。エリコの町の人達は、イエスの噂を聞き、一目みたいと集まって来ました。 その群衆の中に、取税人の頭で金持ちのザアカイも居たのです。彼は背が低いためにイチジクの木に登ってイエスを見ようとしたのです。その群集に対してイエスは説教をします。

 

この説教の中に、「タラントンの譬え」が有ります。そして貨幣単位が記載されています。マタイの福音書は、「タラントン」とし、ルカの福音書には、「マナ」と記載されています。そしてその説教は、パラブル(たとえ話)を使うことで、群集に神の言葉を説明するのです。以下は「タラントンの譬え」を私のなりの解釈で書いています。 

ある金持ちの主人は、1人目の僕に10タラントンを渡しました。そして2人目の僕に5タラントンを渡しました。そして3人目の僕に1タラントンを渡したのです。そして主人は王様に会うために旅に出たのです。

 

その間、3人の僕がしたことは、10タラントンを得た僕は、その2倍の20タラントンを生み出しました。そして5タラントンを得た僕は、同じように2倍にさせ、10タラントンにさせたのです。しかし、1タラントンを得た僕は、地に穴を掘り、その1タラントンを埋めたのです。その理由は安全で誰からの盗まれないように埋めたのでした。

 

そして主人が一年後戻って来て、それらの僕に対して僕のお金を数えたのです。主人は最初の2人の僕に、お前達は忠実で良い僕だとほめたたえたのです。そして彼等に主人の土地を管理させることをしたのです。しかし3番目の僕に対して主人は、怠け者の悪い僕だと、叱ったのです。

 

このたとえ話には2つの事が隠されています。

1つ目は、神から貰ったタレント性をフルに生かさせること、そして2つ目は、富・お金を上手に生かすことなのです。しかし権力者である貪欲な王、大金持ち、神殿貴族など、富・お金・物に執着したり、彼等の資産を増やすことが人生の最大目的となっていることで、才能の無い人達を見下すことや、奴隷制などを創り上げて、彼等の権力を悪いことに使うことは天国に入る事がないことを教えているのです。 

資産運用の上手な有能な人間、つまり悪辣なやり方で利益を上げる人達が尊重され、その反対に正直に管理することでリスクをとらない人達や、銀行に資産を保管しないような小心者達、即ちお金を生む事が出来ない才能のないに人達は追放されるのです。 

イエスは、こうした社会構図の世界(弱肉強食)において、貧富の格差を助長する飽くなき富・お金・物への執着への批判・警告をしたのです。貧富の格差が広まる現代世界には、この様、批判・警告は聞き入られることはないのですが、バイブルからの言葉を少しでも理解することで、物質的だけ追って生活をすることが、いかに愚かな事か解るのではないのでしょうか。 

因みにイエスは、弟子達に家族を捨て、何も持たず、最下層に身を置く事を薦めています。そして貧しい人々が優先的に救済・支援されなければならないという真の意味での社会福祉の理論の構築,つまり神の働きに従って貧しい人々が救済されることの正統性を明証する論理なのです。 

マルコの福音書第10章21節に、「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた、ひとつ足りないことがある。行って、持っているものをみな売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、わたしに従ってきなさい」とあります。 

現在私達が所有している物理的なものは、神の創造物であることを認識してください。私自身も神の創造物なのです。神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、失敗・ミスをしてもすぐに立ち上がること 2013年2月26日

2013-02-26 18:33:50 | 成功法則

今の日本の世の中には、失敗・ミスを起こしたことを後悔したり、こだわったり、くよくよする悪くない奴らが多すぎると思います。それらの悪くない奴らは、失敗・ミスは失敗・ミスとして頭(脳)の中から削除させることが出来ないまま生きているために成功することが出来ないのです。 

否定的な考えはとは、悲観的、自虐的、自己否定、内気、うつ的傾向、過去にこだわり、非社交的、劣等感が強い、過去の失敗にこだわる、「まだ」と考えず「もう」と考える、他人は幸福だと考える、自分の考えが否定されると全人格を否定されたと考える、気分転換ができない、細かいことや人の目が気になる、いい事はなかなか信用しないが、悪い事は簡単に信用してしまうなどのマイナス思考のことを指します。(ウィキペディアから) 

ウィキペディアに描かれている船井幸雄氏の造語の中にマイナス思考の説明があります。 

「古くは心配性、取り越し苦労などとも呼ばれたが、行動を起こす前に否定的な結論を出したり、想像をめぐらせたりして内向的になりやがて自己否定につながってゆく。多くは一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考え、自分は何をしてもだめなんだ、どうせやってみても無駄だろうと脳内において負の連鎖が起こり何事にも消極的になる。原因は生まれつきの性格や小児期における親のしつけや教育、友達からのいじめや喧嘩などのなかで、否定的な思考を植え込まれたケースなどが考えられるが、最近の脳生理学的な研究によりセロトニンという脳内物質の不足との関係が指摘されている。」 

即ち失敗を繰り返すことの不安心・恐怖心が最大の問題なのです。オリンピックの選手達は、勝利・成功を脳に写すことをすることで、不安心・恐怖心をコントロールするのです。不安心・恐怖心が先に来ることで失敗を招くわけですが、この失敗・ミスを頭の中から削除することで、成功するための力が働き、すぐ立ち上がることが出来、次の勝負に挑んでいくのですが、この失敗・ミスが無ければ、勝利・成功には繋がる事が出来ないのです。 

成功はすべて過去の経験が積み重なって作られるのです。悪くない奴らが成功できないのは、頭(脳)に蓄積された過去の悪い経験・情報に縛られ、自分が望む未来、即ち成功の映像を作ることが出来なくなっているのです。 

バイブルの箴言第23章7節に、「彼はその欲望が示すとおりの人間だ」と記載されていますが、この意味を考えて見ましょう。一言に言えば、「自分の思いが人生を創る」と言う意味なのです。 

ジェームス・アレンは彼の書籍(アズ・マン・シンクス=原因と結果の法則)の中で、「心の中の思いが、私達を創っている。私達は 自分の思いによって創り上げられている。私達の心が邪悪な思いで満ちている時私達にはいつも痛みがつきまとう。もし私達が清い思いばかりをめぐらしたなら私達には喜びばかりがつきまとう」とあります。 

このように過去の悪い出来事(失敗・ミスなど)を思い起こせば、当然気もちが落ち込むことと成ります。そして、過去の良い出来事を思い起こせば、当然気もちが良くなりますでしょう。このように人間は今までの経験から、自然に判断をしているわけで、否定的思考(ネガティブ思考)を頭(脳)から削除することで、肯定的思考(プラス思考)が自然に反映するわけです。 

ネガティブ思考:     未来の悪い状況を想像すれば、不安や恐怖を感じさせる

                             人を悪く考えれば、悪感情が湧く

                             現状の悪いことを考えれば、悪い気もちになる

                             不幸になる考え方をすれば、不幸な気もちになる 

プラス思考:             将来の幸せを考えれば希望や期待感を感じ明るい気もちになる

                             人を良く考えれば、良い感情が湧く

                             現状の良いことを考えれば、良い気もちになる

                             幸せになる考え方をすれば、幸せな気もちになる 

さて以上の事を箇条書きにしてみましょう。

1)  自分のお思い(思考)は、必ず自分のものになるのです。

2)  言葉は鋭い刃物と同様の力をもっていることです。ですのでネガティブな言葉はそのままネガティブの状況を生んでいきます。

3)  自分の目標・目的を確実に心そして頭に焼き付けることです。

4)  どんなネガティブなことを言われても、良い想い出をすることで、ネガティブをすぐに削除することです。 

ほとんどの悪くない奴らは、「もしもお金があれば、xxxxができる」とか、「今の苦難が解決できれば、もっと良い事が出来る」などと言いますが、この発想は、間違えなのです。 

悪くない奴らが成功するには、この言葉の反対から発想することから始まります。

1)  まずはポジティブ思考が出来る言葉を言うことで、自分に元気つけることです。

2)  神が自分と一緒に働いてくれるので、恐れることはないと確信することです。

3)  お金は神から預かった物だから、神の意向にあった仕事であれば、必ずお金はついてくると宣言することです。

4)  今の苦難は一時的で、神は全て良い事をするために、常に助けてくれることを確信することです。 

最後に、バイブルのエペソ人への手紙第4章22~24節から、「古い邪悪な性質をかなぐり捨てなさい。古い性質とは、悪い生き方の道連れでああった以前の貴方自身のことなのです。それは肉欲と誤魔化しにまみれ、骨の髄まで腐りきっていました。今や貴方々の態度や考えをみな良い方向へ転換しなければなりません。そうです、貴方々はまったく別人、清く善良な人々になるべきです。この新しい性質を身に纏いなさい。全ての人達は選択することを身に着けて育って来ました。」とあります。 

悪を削除することを徹底的に身に着けることを心がけて、成功することをお祈りいたしております。そして神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、一時的な満足感に溺れてはいけない 2013年2月25日

2013-02-26 14:04:58 | 成功法則

一時的な満足感とは一般的には、官能的な欲望の満足によって起こる快い感情こととされています。そして淫楽と言う言葉がありますが、色欲による快楽とされています。そのために人間は古代から色々な発明をしてきました。そのなかで読者が確認できる有名なこととしては、「お酒」と「セックス」ではないのでしょうか?

古代の性的暴力は、戦争下、少数民族や奴隷、先住民、貧困層などによって生まれた社会的弱者に対して行われたり、権力者による性の専横もありました。

特に古代戦争において兵士達による女性の強姦が付き物で、征服された民族や捕虜となった兵士の褒美として強姦を許されていたのです。また兵達を癒やすための娼婦も許されていました。野蛮な世界であったことは確かです。しかし近代戦争の裏にも、必ず強姦や娼婦が存在しています。

しかしバイブルには、この強姦や娼婦、即ち「淫欲」に対して厳しく批判しています。自らの欲望を絶対視し、その実現のために相手の自由を侵害するばかりか、暴力的な手段に訴えるからです。

バイブルは、私達に理性を求めさせるべき、それらの人類の悪事の経験を繰り返し描き挙げているのです。そして更にバイブルには、一時的な満足は肉体上の現象、本能行動だけではなく、人間の人格性社会を有するものとして描いているのです。そしてバイブルには、いかに立派な信仰者・権力者であっても、容赦なくその人間の罪を暴露しています。 

どんな人間でも一時的満足感を得ることを経験していますでしょう。 

バイブルの中に2人の主人公が記載されています。それはダビデ王とその子であるソロモン王の話です。

 

ダビデ王は、常に神に対して忠実であったために神は、ダビデに対して国を反映させイスラエル国を安定させたのです。ところが、完璧と思えるダビデ王にも弱点があったのでした。ある日、彼の忠実な軍人ウリヤの妻バテシバの入浴姿を見て、その美しさに心を奪われてしまい、バテシバと不倫の関係を結んでしまったのです。そして、ヨアブ大将に命じウリヤを前線に遅らせたのです。そして戦死させたのでした。その後すぐにダビデはバテシバを自らの妻として迎え、第一子を産むのです。

 

このことは神の怒りを買うことと成るのです。神は預言者ナタンを通して、ダビデに忠告しました。その結果、ダビデは神の前に悔い改めたのです。しかしながら、その預言の通りバテシバとの間の不倫の子は病死したのです。そして、ダビデは心底から神の前に深い懺悔をなし、第二子を生みます。それがダビデの後継ぎとなった賢人ソロモン王だったのです。 

そしてソロモンはイスラエル王国の三代目の王とり、人類史上最高の知恵者(知恵の王)となったのです。そしてソロモンの名前は後に、「シャローム=平和」と同語源されたのです。そしてソロモンの王国は、輝かしい黄金造りの神殿や豊かな繁栄に支えられた平和な国家を創り上げたのです。またソロモン王は、エジプト王(パロ)の娘を王妃としているのです。 

 

ソロモン王は、異教徒の女を次々に自分の妻にして、妻は700人、そばめが300人もいたとバイブルには記載されています。更に悪いことには、イスラエルの神は唯一である一神教を信仰していたのですが、ソロモン王は神の意向に逆らいシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従ってしまっていたのです。

アシュタロテは、イスラエルの北にいるシドン人が拝む神で、性欲の女神だったのです。そしてアモン人、死海の東では、ミルコムが拝まれていました。これは別名モレクで、乳児をいけにえとして火の中にささげなければいけない神です。これにもソロモンが従ってしまったのです。

 

ソロモン王の晩年は、信仰が薄れ異教の妻を多く抱え、異教の風習がイスラエル全体に流れていてしまったのです。そして淫行に溺れたソロモンの不信仰により、神の怒りを受け、ソロモンの死と共に王国は、北のイスラエル国そして南のユダ国に分裂する事となってしまったのです。 

ソロモン王は現世において、全ての人間的な楽しみ(物理的・性的など)を経験したわけで、巨万の富、権力を持ち、神のお陰でなんでも欲しい物を得る事が出来たのです。しかし、ソロモン王はそれらの物がいかに空しいことであるかを晩年になって味わうのです。 

聖人パウロはソロモン王の晩年をこのように述べています。 

「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者の書12章13節)


悪くない奴らが成功するには、悪の情報を削除すること 

2013-02-25 18:01:34 | 成功法則

米国時間で24日(日曜日)ドルビー劇場で第85回アカデミー賞の模様がテレビで映像されました。アカデミー賞の最後に発表される「作品賞」の発表時に、ファースト・レイディのミシェル・オバマ米大統領夫人がホワイト・ハウスからテレビ画像で映し出され、イランの米大使館占拠事件での人質救出劇の「アルゴ」を発表しました。この演出は史上初めてのことで、ホワイトハウスとハリウッドの強い関係を国民に知らさせたこととなり、色々な意見が交わされています。

以下の写真の赤丸は、オバマ米大統領夫人の衣装を変えて放映してた映像です。

その理由は、中東向きの放映のため米大統領夫人が袖なしで胸を出している事が、宗教上許され居ないため、胸や肩を包むことをしたわけなのです。このように、テレビのような自由化されているメディアでさえ悪の情報を削除しているのです。

さてコンピュータは演算装置制御装置記憶装置入出力装置(まとめてI/O と呼ぶ)から成り立っていますが、人間がコンピュータへの命令を機械語で直接書くことは通常はなく、高水準のプログラミング言語を使います。プログラミング言語で書かれた命令が、インタプリタやコンパイラと呼ばれる特別なコンピュータプログラムによって自動的に機械語に翻訳されて実行されるわけです。

その時の入力が間違ったものであれば、プログラムは当然働きません。そして記憶装置にこの悪い情報が蓄積されてしまいます。そして色々な情報を入力した場合、立ち上げた場合、その悪い情報が遮り、正常な情報を得る事ができません。ウイルスなどもあくの情報として考えて見てください。

 (http://www.checkpc.go.jpから拝借)

このコンピュター・ウィルスを綺麗に削除しない限り、正常な動きは出来ず、コンピュターを使うことが出来なくなってしまいます。読者の方々もこのような経験をお持ちだと思います。

ですので、悪の情報を早く見つけ削除することで最悪の状況をさけることができますし、防御するためのソフトを組み込むことで、悪の情報を削除する事が可能となっています。 

このように人間にもこの悪の情報を削除させるソフトが必要ではないのでしょうか? 

私はそのソフトをバイブルとして、常に悪の情報を削除する処理をさせて、脳を綺麗にしています。 

人間は悪魔の情報が居る限り、良いことをしようとしたときでも、悪の手が廻り、その結果、悪の奴隷の傘下に入ってしまうのです。その良い例が、ストレスからおきる病気です。癌はその良い例でしょう。 

肝臓癌は飲みすぎから来ます。糖尿病は、糖分、脂分の取りすぎから起こります。心臓病はストレスが原因と見られています。このように悪は体を食いつぶしていくのです。 

ストレス=悪の情報です。以下を参考にして見てください。

感覚としてのストレス

鬱屈(うっくつ) ・ 鬱積(うっせき) ・ 欲求不満 ・ いらいら ・ フラストレーション・緊張感などと解釈

心配または感情的な緊張を引き起こす困難 = ストレス  

精神的または感情的な緊張または不安の状態 = ストレス 

このような経験は読者の皆様はすでにされておられると存じますが、ではどのようにストレス=悪の情報から自由になる事が出来るのでしょうか? 

実際、私達人間は生まれたときから罪を背負っているとされています。その理由としてアダムとイブの出来事を照会しましょう。 

創世記第2章の中に「エデンの園」の話が出てきます。その園で神はアダムに、果実をどこの木から採って食べても良いといわれたのですが、悪・善を見極める事が出来る知能・知恵を与えてくれる木だけは触ってはいけないとし、その木に触れると死ぬことを伝えたのです。そしてアダムを深く眠りにつかせ、彼のあばら骨から女性を創りました。そのとき男と女は裸の状態にあったのですが、恥と言うことは備え付けていなかったのです。 

その後蛇(サタン)がイブに声を掛けてきました。神の教えたことは一切嘘であって、その実を食べると神のように良いこと悪いことをはんだんすることが出来るといって、イブを誘惑したのです。その結果、イブは知恵の実を採り、ひとかじり、更にその実をアダムに食べさせたのです。 

その結果、自分達が丸裸である事が判明して、イチジクの葉っぱを局部に覆って身を隠したのです。そしてその夕方、神の足音がエデンの園で聞え、彼等は木の後ろに隠れたのです。

 

神は彼等に対して「どこに居る」と声をかけたのです。そしてアダムは、「神の声は確かに聞きました。でも裸なため恥ずかしく、怖いために隠れてしまったのです。」と答えたのです。そして神は、「誰がお前が裸だと教えたのか?お前は禁断の実を食べたのか?」とアダムに言ったのです。そしてアダムは、「神が創造した女が、実をくれそれを食べました」と答えたのです。そして神は女に、「何故この様なことをしたのか」と聞き、女は、「蛇が私をだまして実を採らさたの」と答えました。その言葉を聴いた神は蛇に、「お前はこの悪態のため、一生地を這うものとする」とし、更に女に対して「妊娠の苦しみを与える」そして「地はのろわれ、生きるために働くこととし、全ての創造物を地に戻させる」として人間が苦労することを予期させたのです。そしてこの予言通り、人間は苦労をすることとなるわけです。

 

彼等の罪が私達に残されているわけです。そのために、神の意向に合うことをすることで、罪が軽くなるわけです。しかし、神の子であるイエス・キリストの血によって、私達の罪は流されたのです。悪の情報が人間から削除されたことなのです。このことを理解・解釈してください。 

タバコ、酒、ポルノなどに関して罪悪感を持っていない人達が、世界中には沢山居ます。私もその中にずばり漬かっていた経験を持っています。そのことで家族を壊し離婚の経験をしています。しかし、その罪悪から這い上がった経験もしています。その良い経験が現在の私を支えてくれているのです。それが神の言葉を伝えてくれるバイブルなのです。 

バイブルのお陰で、悪の情報を完全というほど削除する事が出来たのです。 

神に感謝、感謝、感謝です。


悪くない奴らが成功するには、祈りの力を信じること 

2013-02-21 17:11:07 | 成功法則

メルマガを読まれている読者は数多く居られると思いますが、その中に村川享男さんによる「今日もイエス様と共に」と言うタイトルで毎日書かれている方が居られます。 

以下のサイトを訪れてください。

http://melma.com/backnumber_151486/ 

彼のメルマグは2005年の9月ごろから始まり毎日バイブルの言葉を書かれていたのですが、昨年の9月の中ごろから一切記載されなくなっていたのです。その理由は頭部硬膜下血腫で入院されていたのです。そして奇跡的な回復が起こったのです。(バックナンバー2012年10月12日を参考にしてください) 

マタイ書第18章19節には、「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」と記載されています。

祈りは奇跡をもたらせる1つの手段なのです。その1つが「信仰」なのです。では「信仰」とは一体何なのでしょうか?

ヘブライ人への手紙第11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。即ち神の存在、受肉を信じることから始まります。

日本の神社には、仏像などを置いていませんでしょう。ですから日本人はこの神、見えない神を拝むことは馴染深いことなのです。しかし日本人の信仰は、大木、大石など神が創った自然を対象とし、お祈りをしています。

偶像とは、人間が作ったもので、人間が作ったものを崇拝するということは、すなわち人間そのものを崇拝していることになるわけで、「信仰」とは、人間の世界を超越したものなのです。

ご存知のように偶像の材料は木・石・鉄・紙・土などで、時間が経つにつれ衰えてしまいます。神は、崇高な存在であり、永久な存在なのです。

さてキリスト教会にはイエスやマリアの像が置かれていますね。その理由は、「受肉」から派生しています。キリスト教では、イエスはただの預言者ではなく「神の子」とされ、イエス(人間)を通して神の姿を見ることができ、イエスの名前を唱えることで祈りが叶うとされているのです。そのために色々な芸術家がイエスの姿を視覚化、似姿を描いたり、イエス像を創ってきたわけです。西洋の美術の根源は、聖像画、聖像、聖建築、聖教音楽から成り立っているのです。

ヨハネの福音書第14章13~14 節に、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とイエスは宣言しています。

そのことを前提として偶像そのものを拝むのはいけないのですが、それを通して神に祈るのはよしとされたのです。祈りの対象物があったほうが、祈りやすいのが人間でしょう。

読者の皆様、是非友人である村川享男さんの回復のお祈りをお願いします。そして奇跡を起こしてください。

(キリスト教における偶像崇拝の本義から参考)