カルチェラタン

連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして仆れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する。

吉原大門

2010年01月28日 | 筑波大学
また卒業の季節が近づいてきましたね。

こんばんわ。笑福亭鶴瓶でございます。
芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、恵まれない芸人、私が、上岡龍太郎です。

大学の研究室では、毎年恒例となっている四年生の卒業論文発表の準備があった。四年にしろ、修士にしろ、俺みたいなバカ垂れに卒論やら修士論文を見られているのは気の毒ではある。指導教員も俺に彼らの卒論と修士論文を見てやってくれと言うのは明らかにキャスティングミスだ。

やらしい話だけど、四年には大学の浴衣コンテストに出た経歴の持ち主がいて、大げさに言えば俺の人生でそんな人と身近になること自体が驚きだったが、基本的に当たり前だけど普通の人だ。それでも、そんな人の発表スライドを見て偉そうにアドバイスをして、それに素直に従ってもらっている俺は改めて大変おこがましく思えたりもする。

かつての俺の卒論は本当にどうしようもないもので、修論よりも博士論文よりも出来ることならやり直したい気持ちがある。気持ちだけだけどね。その後も自分の卒論のテーマについて触れる機会が何度かあったが、揉み消せるものなら揉み消したい。

一方で、これまでの何年かずっと研究室で見てきた四年の卒論は明らかに俺の卒論よりもレベルは上だ。そして、出来ることならレベルが上であるだけでなく、彼らに良い気持ち卒論を終えてもらいたかったりもする。自分が良くなかったから、彼らに何かを押し付けているところもあるような気はするが。

そんな俺が語るのも大それた話だが、レベルが高いというのは内容そのものもそうだが、何というか研究の進め方というか、研究が始まって終わるまでのプロセスというか、何というかそんなものが確立されていて良くまとまっているような気がしなくもない。

何かと前者に重点を置こうと高望みしてしまうことも少なくないと気がしなくもないが、後者を良くできる方が充実感が倍増する気がしなくもない。所得倍増計画的に。あくまでも現段階での個人的な意見だが。あくまでも最低な卒論を仕上げた俺の意見だが。

そんな感じで、わーわー言うとります。お時間です。さようなら。ということでね。よろしくどーぞー。