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📖本『劉暁波 伝』余 傑。劉 燕子、横澤 泰夫、和泉ひとみ訳 (集広舎)

2021-05-05 04:19:41 | 日記

 

📖本『劉暁波 伝』(りゅう・ぎょうは でん)

 

 

内容紹介

 

 

「心の自由のために、彼は身体の不自由という代償を支払った。」 

1989年天安門事件、〇八憲章、ノーベル平和賞。 

度重なる拘束や監視にもかかわらず中○にとどまり続け、(中○の)民主化を訴えた劉暁波とはどのような人間だったのか!

最後まで彼と行動を共にした若手知識人作家による劉暁波の人生録。 

 

○劉暁波の略歴 

1955年12月28日、吉林省長春に生まれる。文芸評論家、詩人、文学博士(北京師範大学大学院)、自由を求め中○民主化に尽力。 

1988年12月から米国にコロンビア大学客員研究員として滞在するが、天安門民主化運動に呼応し、自らも実践すべく予定をきりあげ急遽帰国。 

1989年6月2日、仲間3人と「ハンスト宣言」を発表。4日未明、天安門広場で戒厳部隊との交渉や学生たちの無血撤退に貢献し、犠牲を最小限に止める。その後、反革命宣伝煽動罪で逮捕・拘禁、公職を追われる。釈放後、文筆活動を再開。 

1995年5月~1996年1月、民主化運動、反腐敗提言、天安門事件の真相究明や犠牲者たちの名誉回復を訴えたため拘禁。1996年9月から1999年10月、社会秩序攪乱により労働教養に処せられ、劉霞と獄中結婚。 

2008年12月8日、「08憲章」の中心的起草者、及びインターネットで発表した言論のため逮捕・拘禁。 

2010年2月、国家政権転覆煽動罪により懲役11年、政治権利剥奪2年の判決確定。 

2010年10月、獄中でノーベル平和賞受賞。 

2017年7月13日、入院先の病院で多臓器不全で死去(一説では事実上の獄死)。 

著書多数。日本語版は

『現代中○知識人批判』、

『天安門事件から「08憲章」へ』、

『「私には敵はいない」の思想』、

『最後の審判を生き延びて』、

『劉暁波と中○民主化のゆくえ』、

『牢屋の鼠』、

『劉暁波・劉霞詩選』(近刊予定) 

 

目次 

第I部 伝記篇 

序 / プロローグ 

第1章 黒土に生きる少年 

第2章 首都に頭角を表す 

第3章 天○門学生運動の「黒手」 

第4章 ゼロからの出発 

第5章 僕は屈しない 

第6章 「〇八憲章」と「私には敵はいない」の思想 

第7章 劉霞 土埃といっしょにぼくを待つ 

第8章 ノーベル平和賞 ― 桂冠、あるいは荊冠― 

   エピローグ 「中○の劉暁波」から「東アジアの劉暁波」へ― 日本の読者へ― 第II部 資料編 

  資料「天○門の四人」の「ハンスト宣言」(1989 年6月2日) 

  資料「〇八憲章」(2008 年 12 月 9 日) 

  資料「私には敵はいない― 最終陳述―

 

「ぼくは、ぼくの行った事業が道義にかなったものであり、中○はいつかある日、自由で民主的な国になり、あらゆる人が恐怖のない陽光の下で生活するものと信じている。ぼくは代償を払った けれど悔いはない。独裁国家の中○では、自由を追求する知識人にとっては、監獄は自由へ通じる第 一の敷居であり、ぼくは既にこの敷居に向かって前進した。自由はそう遠いものではない。」 

(本文劉暁波の言葉より抜粋) 

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

心の自由のために、彼は身体の不自由という代償を支払った。1989年天○門事件、〇八憲章、ノーベル平和賞。度重なる拘束や監視にもかかわらず中○にとどまり続け、民主化を訴えた劉暁波とはどのような人間だったのか。最後まで彼と行動を共にした若手知識人作家による劉暁波の人生録。

 

著者について

劉暁波(りゅう・ぎょうは)

1955年12月28日、中○吉林省長春に生まれる。文芸評論家、詩人、文学博士(北京師範大学大学院)、自由を求め中国民主化に尽力。 

1988年12月から米国にコロンビア大学客員研究員として滞在するが、天○門民主化運動に呼応し、自らも実践すべく予定をきりあげ急遽帰国。 

1989年6月2日、仲間3人と「ハンスト宣言」を発表。4日未明、天○門広場で戒厳部隊との交渉や学生たちの無血撤退に貢献し、犠牲を最小限に止める。その後、反革命宣伝煽動罪で逮捕・拘禁、公職を追われる。釈放後、文筆活動を再開。 

1995年5月~1996年1月、民主化運動、反腐敗提言、天○門事件の真相究明や犠牲者たちの名誉回復を訴えたため拘禁。1996年9月から1999年10月、社会秩序攪乱により労働教養に処せられ、劉霞と獄中結婚。 

2008年12月8日、「08憲章」の中心的起草者、及びインターネットで発表した言論のため逮捕・拘禁。 

2010年2月、国家政権転覆煽動罪により懲役11年、政治権利剥奪2年の判決確定。 

2010年10月、獄中でノーベル平和賞受賞。 

2017年7月13日、入院先の病院で多臓器不全で死去(一説では事実上の獄死)。 

著書多数。日本語版は『現代中○知識人批判』、『天○門事件から「08憲章」へ』、『「私には敵はいない」の思想』、『最後の審判を生き延びて』、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』、『牢屋の鼠』、『劉暁波・劉霞詩選』(近刊予定) 

 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

 

余 傑 

作家。1973年、中○四川省成都に生まれる。1997年、北京大学卒業、大学院に進み、2000年に文学修士取得。剤学中に発表した評論は一躍脚光を浴び、新進気鋭の作家として論壇にデビュー。2002年、アメリカ・ニューヨーク万人傑文化新聞基金「万人傑文化新聞賞」、2006年、長編青春小説『香草山』が香港湯清基督教文芸賞など数々受賞。鋭敏な感性と優れた洞察で独裁体制を痛烈に批判したため中○本土のメディアやインターネット空間から完全に封殺され、2012年1月、米国に事実上亡命し、精力的に言論活動を続けている 

 

劉 燕子 

作家。現代中○文学者。北京に生まれ、湖南省長沙で育つ。大学で教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳 

 

横澤 泰夫 

昭和13年生まれ。昭和36年、東京外国語大学中○語学科卒業。同年NHK入局。平成6年熊本学園大学外国語学部教授(平成22年退職) 

 

和泉 ひとみ 

関西大学非常勤講師、博士(文学)。関西大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

以下、レビュー

 

①日本人が読むべき本

 

中○共産党政権が樹立したのは1949年10月です。もう間もなく70年になります。いつ中○共産党が解散するかと思っていましたが、どうやらいよいよその時が来たようです。

ここに出版された『劉暁波伝』は現代中○の秘密がみごとに白昼のもとにさらされ、太陽が真上に昇りさえすれば影がまったくなくなるように、正午定着の時を迎えつつあることが分かります。

中○では『劉暁波伝』を出版できないので中○よりも早く日本で、日本人に先に読んでもらって評価してほしいという願いを込めて、日本語に翻訳されて出版されたと書かれています。

500ページに及ぶこの伝記はノーベル賞受賞獄中作家の伝記という形式を採用していますが、読んでみると、これは明らかに現代中○共産党政権の終焉を宣言しています。

中○共産党政権は「ことば」以外には何も持たない劉暁波という一人の作家を極秘裏に闇に葬り去ろうとして、ありとあらゆる謀略を張りめぐらして組織を動員したにもかかわらず、ついに闇ではなく白昼のもとに、中○共産党政権自身の罪状を露呈してしまったからです。

それは「ことばには力がある」ということを証明しています。

わずか数千円の本が現代中○にも人間の尊厳性と自由ために命をささげる人がいるということを証明しています。

そして、今やこの本が燎原の火のごとく、日本中、津々浦々、このような人類共通の価値を大切にしている人の心に火をつけると思います。

4度の獄中生活の中から紡ぎだされた「ことば」が命に代えて、もはや、中○共産党政権の支配が及ばない日本で発表されたからです。

確かに日本は中○と戦争をし、満州を支配し中○共産党と同じような罪深いことをしてきた負の歴史を清算できないでいますが、今こそ、この『劉暁波伝』を読みさえすれば、それだけで、中○人と一緒に人間の尊厳性と自由を回復することに貢献でき、中○人と手をつなぐだけで中○共産党政権が解散に追いこまれ、そのことによって、日中間の負の歴史問題も雲散霧消、解消できるのであればどうでしょうか。

現代中○の本当の姿を知りたい人、中○の知識人や宗教者を助けたいと思っている人、そして、中○のことはわからないけれども人間の尊厳性と自由を探し求めている人、何らかの絶望を感じている人等々、動機は何でもいいと思います。

日本人であればだれにでも読んでほしいと思います。

 

 

(👴👨👩👧👶

📖『劉暁波 伝』を手に取るとずっしりと重い。

表紙には、右肩に小さな男の子の人形を乗せた劉暁波さんの顔のアップが写っている。彼は中○の民主化を呼びかけている。

表現の自由の国 日本のゴールデンウィークの5月5日、こどもの日にちなみ、この書籍を紹介いたします!)

 

②劉暁波のことは、日本人にもっともっと知ってほしい!

 

劉暁波(りゅうぎょうは)は、中○人で初めてノーベル平和賞を受賞し、その活動のために中共政府により投獄され、2017年の7月に獄中でほとんど治療もされないまま癌で亡くなった、中○の詩人、人権活動家です。(死亡は、世界中で大きく報道されました)

 

本書は、生前劉暁波の活動を支えていた若い中○人作家による劉暁波の伝記です。私は、本書を読むまで、劉暁波がどのような業績でノーベル平和賞を受賞したのか、どのような人物であったのか、をまったく知りませんでした。本書は、劉暁波の人がらや思想がわかるだけでなく、その輝かしい人権活動家としての業績が丁寧に描かれています。また、現代中○の政治の移り変わりも劉暁波の人生と共に大変面白く描かれています。

 

劉暁波の詩想・思想には、底深い孤独、懸命にもがく鈍痛、不屈の信念、希望と愛への敬意、が交錯しています。その内容が彼の詩(日本語訳されています)と、様々なエピソードと共に、優しく熱く語られています。

 

中○の人権活動家の伝記翻訳書…というと何か難しい内容を想像してしまいがちですが、易しい日本語で翻訳されており、特に専門知識がなくても、どなたにでも読みこなせる好著になっています。本書は、歴史の記録書としての価値も高いのではないかと思います。

ご一読をお勧めします。

 

 

 

 

 

③中○の「ガンジー」すごい男がいたもんだ

 

劉 暁波って名前は彼が2010年にノーベル平和賞を受賞するまでは全く知らなかった。受賞時彼は獄中にあり授賞式に参加できなった。そんな類の内容をメディアが盛んに伝えていた。なんで犯罪者にノーベル賞委員会はノーベル平和賞を受賞させたのか疑問を持った。それである程度調べてみた。なんとなくその人となりと、彼が犯した罪名とノーベル賞委員会が賞を与えたのかが分かった。またメディアでは中○当局がノーベル賞委員会に猛烈に抗議していたのを取り上げていた。受賞発表直後に中○○○共和国外交部は劉 暁波の受賞はノーベル平和賞を冒涜するもので、中○とノルウェーの関係に損害をもたらすと批判した。更に中○○○共和国政府は在北京のノルウェー特命全権大使に対して劉 暁波のノーベル平和賞受賞に強く抗議を行った。そのような内容をメディアが盛んに伝えていた。2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり服役していた。

2017年6月26日に末期の肝臓癌と診断された劉 暁波は治療のための仮出所申請が許可され、中○医科大学付属第一病院に移された。 7月13日午後5時35分、劉 暁波は妻の劉霞ら家族に看取られ、肝臓癌による多臓器不全のため61歳で死去。訃報を受け、ノーベル委員会は北京当局のずさんな治療責任に対して非難声明した。 投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。 また2018年7月10日、北京で8年間、自宅軟禁状態に置かれていた妻の劉霞の出国が認められ、ドイツに到着した。などがメディアで報道されていた。それで興味を持ちこの本を読んでみた。読んだらびっくり、まーすごい、自分を犠牲にしすべての人を愛し平和に民主的な生活を送れるように活動していたことがわかる。「国家政権転覆扇動」などは行ってはおらず逆に過激派の学生を説得してハンスト活動などを行っている。平和的に物事を解決させようと活動をした。しかし段々支持者が出てきて影響力が出てきたら当局から煙たがられた存在へとなっていく。投獄と出所を繰り返していくうちに、出国の機会もあり亡命の道もあったが中国に残り活動を続けることになる。中国とゆう国は影響力の大きな人に警戒を持つらしい。

 

内容紹介 

「心の自由のために、彼は身体の不 自由という代償を支払った。」 

1989年天○門事件、〇八憲章、ノーベル平和賞。 

度重なる拘束や監視にもかかわらず中○にとどまり続け、民主化を訴えた劉暁波とはどのような人間だったのか?! 

最後まで彼と行動を共にした若手知識人作家による劉暁波の人生録。 

 

○劉暁波の略歴 

1955年12月28日、吉林省長春に生まれる。文芸評論家、詩人、文学博士(北京師範大学大学院)、自由を求め中国民主化に尽力。 

1988年12月から米国にコロンビア大学客員研究員として滞在するが、天○門民主化運動に呼応し、自らも実践すべく予定をきりあげ急遽帰国。 

1989年6月2日、仲間3人と「ハンスト宣言」を発表。4日未明、天○門広場で戒厳部隊との交渉や学生たちの無血撤退に貢献し、犠牲を最小限に止める。その後、反革命宣伝煽動罪で逮捕・拘禁、公職を追われる。釈放後、文筆活動を再開。 

1995年5月~1996年1月、民主化運動、反腐敗提言、天○門事件の真相究明や犠牲者たちの名誉回復を訴えたため拘禁。1996年9月から1999年10月、社会秩序攪乱により労働教養に処せられ、劉霞と獄中結婚。 

2008年12月8日、「08憲章」の中心的起草者、及びインターネットで発表した言論のため逮捕・拘禁。 

2010年2月、国家政権転覆煽動罪により懲役11年、政治権利剥奪2年の判決確定。 

2010年10月、獄中でノーベル平和賞受賞。 

2017年7月13日、入院先の病院で多臓器不全で死去(一説では事実上の獄死)。 

著書多数。日本語版は『現代中○知識人批判』、『天○門事件から「08憲章」へ』、『「私には敵はいない」の思想』、『最後の審判を生き延びて』、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』、『牢屋の鼠』、『劉暁波・劉霞詩選』(近刊予定) 

 

目次 

第I部 伝記篇 

序 / プロローグ 

第1章 黒土に生きる少年 

第2章 首都に頭角を表す 

第3章 天○門学生運動の「黒手」 

第4章 ゼロからの出発 

第5章 僕は屈しない 

第6章 「〇八憲章」と「私には敵はいない」の思想 

第7章 劉霞 土埃といっしょにぼくを待つ 

第8章 ノーベル平和賞 ― 桂冠、あるいは荊冠― 

   エピローグ 「中国の劉暁波」から「東アジアの劉暁波」へ― 日本の読者へ― 第II部 資料編 

  資料「天○門の四人」の「ハンスト宣言」(1989 年6月2日) 

  資料「〇八憲章」(2008 年 12 月 9 日) 

  資料「私には敵はいない― 最終陳述― 

  あとがき 

前書きなど 

「ぼくは、ぼくの行った事業が道義にかなったものであり、中○はいつかある日、自由で民主的な国になり、あらゆる人か?恐怖のない陽光の下で生活するものと信じている。ぼくは代償を払った けれど悔いはない。独裁国家の中では、自由を追求する知識人にとっては、監獄は自由へ通じる第 一の敷居であり、ぼくは既にこの敷居に向かって前進した。自由はそう遠いものではない。」 

(本文劉暁波の言葉より抜粋) 

 

出版社からのコメント

 

前書きなど 

「ぼくは、ぼくの行った事業が道義にかなったものであり、中○はいつかある日、自由で民主的な国になり、あらゆる人か?恐怖のない陽光の下で生活するものと信じている。ぼくは代償を払った けれど悔いはない。独裁国家の中では、自由を追求する知識人にとっては、監獄は自由へ通じる第 一の敷居であり、ぼくは既にこの敷居に向かって前進した。自由はそう遠いものではない。」 

(本文劉暁波の言葉より抜粋) 

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

心の自由のために、彼は身体の不自由という代償を支払った。1989年天○門事件、〇八憲章、ノーベル平和賞。度重なる拘束や監視にもかかわらず中国にとどまり続け、民主化を訴えた劉暁波とはどのような人間だったのか?!最後まで彼と行動を共にした若手知識人作家による劉暁波の人生録。

 

著者について

 

1955年12月28日、吉林省長春に生まれる。文芸評論家、詩人、文学博士(北京師範大学大学院)、自由を求め中○民主化に尽力。 

1988年12月から米国にコロンビア大学客員研究員として滞在するが、天安門民主化運動に呼応し、自らも実践すべく予定をきりあげ急遽帰国。 

1989年6月2日、仲間3人と「ハンスト宣言」を発表。4日未明、天安門広場で戒厳部隊との交渉や学生たちの無血撤退に貢献し、犠牲を最小限に止める。その後、反革命宣伝煽動罪で逮捕・拘禁、公職を追われる。釈放後、文筆活動を再開。 

1995年5月~1996年1月、民主化運動、反腐敗提言、天安門事件の真相究明や犠牲者たちの名誉回復を訴えたため拘禁。1996年9月から1999年10月、社会秩序攪乱により労働教養に処せられ、劉霞と獄中結婚。 

2008年12月8日、「08憲章」の中心的起草者、及びインターネットで発表した言論のため逮捕・拘禁。 

2010年2月、国家政権転覆煽動罪により懲役11年、政治権利剥奪2年の判決確定。 

2010年10月、獄中でノーベル平和賞受賞。 

2017年7月13日、入院先の病院で多臓器不全で死去(一説では事実上の獄死)。 

著書多数。日本語版は『現代中○知識人批判』、『天○門事件から「08憲章」へ』、『「私には敵はいない」の思想』、『最後の審判を生き延びて』、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』、『牢屋の鼠』、『劉暁波・劉霞詩選』(近刊予定) 

 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

 

余 傑 

作家。1973年、四川省成都に生まれる。1997年、北京大学卒業、大学院に進み、2000年に文学修士取得。剤学中に発表した評論は一躍脚光を浴び、新進気鋭の作家として論壇にデビュー。2002年、アメリカ・ニューヨーク万人傑文化新聞基金「万人傑文化新聞賞」、2006年、長編青春小説『香草山』が香港湯清基督教文芸賞など数々受賞。鋭敏な感性と優れた洞察で独裁体制を痛烈に批判したため中国本土のメディアやインターネット空間から完全に封殺され、2012年1月、米国に事実上亡命し、精力的に言論活動を続けている 

 

劉 燕子 

作家。現代中○文学者。北京に生まれ、湖南省長沙で育つ。大学で教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳 

 

横澤 泰夫 

昭和13年生まれ。昭和36年、東京外国語大学中国語学科卒業。同年NHK入局。平成6年熊本学園大学外国語学部教授(平成22年退職) 

 

和泉 ひとみ 

関西大学非常勤講師、博士(文学)。関西大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

(書籍)が売れすぎ会場が満席になると公演を中止させるらしい。主催者としてはたまったもんじゃない。日本では万々歳の出来事だけれども、中○は影響力がある人はマズイらしい。劉 暁波もそのようなことだろう。ノーベル賞平和賞を贈られ、そのことは当局との関係が決定的になる。彼の人柄を伝えるエピソードがある。監視下にある時友人の家を訪れたとき監視中の警官が体調を崩し劉 暁波に電話して友人のトイレの使用を申し出たとき快く応じたことがある。また正月の監視の警官にきずかったりしている。監視の警官とは関係は良好だったみたいである。この本には、前妻との関係や前妻との間にもうけた子供との関係、天安門事件の詳細が時系列的に書かれており興味を引く。08憲章を含む思想と主張も詳しく取り上げられており。読むには価値ある本である。

 

 

 

 

④権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想を目指した人

 

1,「80年代中期「文革」の大災厄を経た中国では万物がよみがえる兆しが現れ、各種の文学・文化思潮が次々に起こった。哲学ブーム、美学ブーム、主体性討論、国民性批判、『今天』を中心とする朦朧詩、白洋淀派、「黄色い大地」や「赤い高粱」など第五世代の映画、西部の風、尋根(ルーツ)文学、実験小説、星星画展に誕生を促された現代芸術、崔健のロック「一無所有」・・・」 余傑はこう書いている。p99

このような雰囲気について私はほとんど知らないが、想像することはできる。人々は自らの自由を自ら確認し展開してことができることを知り、喜び、世界が変わっていくことを信じた。おそらくどのような人にでもそうした高揚期というものはあるはずだ。そのとき人は自由であり恐れを知らない。後になって振り返れば(かんちがい)だったかもしれないが、自由という名のかんちがいが人間の本質に属することもまた確かなのだ。

このようないわばシュトゥルム・ウント・ドラング中に、劉暁波ははなばなしく登場した。しかし彼は新時期文学に冷水を浴びせるような形で、登場したのだ。

 

「中○の作家は相変わらず個性の意識に乏しい。この無個性の深層にあるのは生命力の萎縮、生命力の理性化、教条化であり、中国文化の発展は一貫して理性により感性の生命を束縛し、道徳的規範で個性の意識の自由発展に枠をはめてきた」と彼は語った。

 

彼は後に20世紀末の中○政府のあり方に異議申し立てをすることになるが、彼の思想は決して権力の批判にとどまるものではない。中国数千年の歴史が真に権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想、思想家を生み出し得なかったことへの深い反省が常に彼にはあった。

 

2,

1988年8月から三ヶ月間劉暁波はオスロ大学に招聘された。次いでハワイ大学、コロンビア大学で海外の学者との交流を楽しんだ。89.4.15胡耀邦が死去し、民主化の動きが高まった。劉暁波は最初海外からこの動きに参加しようと、「改革建言」「全中国の大学生に宛てた公開書簡」などを公表した。4.26日、彼は危険に身を晒すことになるから今は帰国するなという友人たちの忠告に逆らって帰国した。権力との関係において敗北しながらその敗北を直視せず自己を偽りそれを言葉で飾り立ててしまう中○インテリの伝統を、自分で断ち切らなければならないという思いが劉暁波には強かった。

それまで劉は「個人主義と超人哲学を尊び、群衆を見下し、社会は烏合の衆だ(p141)」とみなしているきらいがあった。

天安門広場の学生たちの運動に、まさに情況の核心に劉はつっこんで行き、そのなかでそうした個人主義も訂正されていく。

 

5.13学生たちはハンストを初めた。

5.19戒厳令敷くことに反対だった趙紫陽総書記は広場に現われ、学生たちとの対話しようとした。しかしその時点でもはや、趙は権力を失っていたようだ。5.20戒厳令が下される。

追い詰められた劉暁波たちは、ハンスト宣言を出し、ハンストに入る。「李鵬政府が非理性的で専制的な軍事管制を以て学生の愛国民主運動を鎮圧することに抗議する。また、一中国知識人として、この行動を以て、ただ口先を動かすだけで、手を動かさないという軟弱性に終止符を打とうとする。」ここでも劉は知識人としての自己否定(変革)に大きな比重を置いていたことが分かる。

 

6.3戒厳部隊は、西、南、東三方から広場に向かって進軍し、バリケードや投石で阻止しようとする市民たちと衝突し、流血の惨事が起こる。

緊張が高まる広場で、一部銃で武装しようとしていた労働者クループがいたが、劉らは説得し武装解除に応じさせ、武器を叩き潰した。そして次に、劉らは広場を死守しようとする学生らを説得し、ついに学生らは撤退することになった。広場での流血の惨事は避けられたが、周辺ではすでに多量の血が流されてしまっていた。

ここで、彼の人生の前半は終わる。

 

3,

流血のさなかよろよろと広場を出た劉暁波は、数日後捕らえられ秦城監獄に入れられる。

劉暁波は反省文を書き、91年1月獄を出る。知識人や学生リーダーに対する罰は比較的軽かったが、一般市民の「暴徒」は死刑や重罪になるものも多かった。反省文について、「ぼくは個人の尊厳を売り渡したと同時に、六・四で冤罪を被った死者の霊魂と流血を売り渡した。」と劉は書いた。

多くの血が流され、それを証し立てなければならない立場に劉は置かれたようだった。

 

1991年劉暁波はオーストラリアから招聘を受け、当局は出国を許可した。当局は劉が亡命してくれたほうが厄介払いができると考えたらしい。しかし、六・四び流血と民主化の中断の場所に劉は戻ってきた。「四六時中の監視、尾行、嫌がらせ、さらに定期的な「談話(事情聴取)」、召喚、軟禁、家宅捜索p223」を覚悟の上で。

彼は毎年、6月には六四の死者を追悼し続けた。詩集『独り大海原に向かって』には19もの鎮魂歌が収められている。

二千年代に入ると彼はインターネットを始め、海外の友人と話し合ったり、海外で文章を発表したりすることが比較的容易にできるようになった。

2008年、〇八憲章の起草と署名の中心人物になった。自由・平等・共和・民主・憲政と言った理念に基づき、国家の政治制度、公民の権利、社会的発展についての具体的主張を提起したもの。最初の署名者は三百三人だったが、彼らの思想がすべて一致していたわけではなく、小異を残して大同につき、公民社会を作っていくための基盤として、提起されたものだ。

ところが、当局の警戒と弾圧は劉たちが予想したより厳しかった。2008.12.8警察官が「国家転覆扇動罪の嫌疑」で彼を連れ去った。そして、結局その後彼は死ぬまで釈放されなかったのだ。なんという非道!!そして隣国にいて、幾分かの関心をこの事件に向けていたものとして、日本国内でこの問題への関心と劉暁波への同情をもり立てることができなかったことを、とても残念に思う。

 

劉暁波は世界のすべてを思索しようとする大柄な思想家だった。彼は西欧的な自由や制度だけを求めた思想家だったわけではない。彼は若くして荘子や司馬遷、屈原などと深く対話した。そして東洋において真の自由を得るためにはどうしていったらよいかを、素直に実践していった。

現在、六四から約30年、中国では経済的な驚くべき発展に伴い習近平独裁体制が完成しようとしているかに見える。しかしそれは歴史の一面に過ぎず、劉暁波を引き継ぐ自由と民主主義への模索が中断されることはないだろう。

 

 

 

 

 

⑤劉暁波とは誰か よく分かった

 

ヤンチャでケンカっぱやい少年時代、文革の「下放」でもしたたかに、文革が終わっても労働者、だがへこたれずに勉強し、大学入試が再開されると合格、さらに大学院へ、博士号取得へ、それに終わらず既成の論壇に大胆に挑戦! やっぱり読みごたえは、天○門広場で必死に学生を説得しつつ、戒厳部隊と交渉し、広場からは無血撤退と実現(他では流血の武力鎮圧だったが、、、)。その後、幾度も投獄されるが、粘り強く自由と民主を求め、「08憲章」へ! 海外に亡命できるチャンスは幾度もあったが、現場に踏み止まり闘い続けた姿は、鹿児島で最後まで意気地と義理を貫いた西郷ドンと重なりあう! 言葉だけのやからなど顔色なからしめる知行合一。

 

 

 

 

(👩👧人権が確立されており自由の国 日本。

ゴールデンウィークの最後を飾る国民の祝日5月5日に📖『劉暁波 伝』をご紹介します。

この本を手に取るとずっしりと重い。この本の表紙には右肩に小さな男の子の人形を乗せた劉暁波さんの顔のアップが写っている。だからこどもの日にちなんでこの本を紹介いたします。

強制収容所内に家族や両親を収容され、

お迎えにくるおとうさんやおかあさんがいないウイグル人の幼稚園のこどもたちが、1日も早く家族に会えることを願っています。)