まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

江差のニシン御殿

2017-11-02 22:57:04 | 建物・まちなみ
江差の続き。

まずは横山家住宅を見学しよう。
その昔、ニシンが山ほど獲れた時代があって、松前藩はニシンとアスナロヒノキの交易で繁栄した。
特に江差港は北前船の終点として、「江差の五月は江戸にもない」と言われたほどの栄華を極めた。
横山家は200年以上にも渡り江差で漁業、商業、廻船問屋を営んでいた旧家である。
この建物は約160年前に建てられたものという。


道路側に帳場のある母屋が建ち、土間がのれんの奥へと続く。
奥に向かって下り坂になった通り庭に面して、1番蔵から4番蔵までが並ぶうなぎの寝床型の建物。
裏はかつて海辺に直接面していたというが、戦後埋め立てられ海側に道路ができてしまった。


いちばん奥の蔵はハネダシと呼ばれる海に向かって2階が張り出した形状になっているのが特徴だ。
船から直接荷おろしをしたり、倉庫、作業場などとして便利に使われたらしい。
展示されている昔の写真を見ると、浜辺の端から端までこれと同じような建物がギュウギュウとひしめき
合うように建ち並んでいる。すごい数だな!!今では全く想像もつかない。

江差のニシン漁は前浜漁業といい近くの漁場で行う刺網漁が1673年頃から行われてきた。
また北海道沿岸各地で行われる出稼ぎ漁の基地としての役割もあった。

以前余市の福原漁場を見たことがあるが、あちらは出稼ぎ漁夫が親方と共に寝起きして作業する現場であった。
横山家は漁師ではなく商家であったので、蔵の中には帳簿や荷印をつける道具などの商売関係の資料や
北前船で京都や大阪から運び込まれた美術品などが展示されていた。
ニシン漁は3月~5月頃、その期間だけで1年間暮らせる利益を得られるため、オフシーズンには
関西へ遊びに出かけたりしていたので、意外にも情報は早く文化的な暮らしをしていたのだとか。


200年もの間、毎年回遊してくるニシンの群れによって江差の経済は支えられていたが、
1913(大正2)年を最後にニシンはピタリと来なくなる。いったいニシンに何があったのか。。。
それについてはいろんな説があるようだが正確なことはわかっていない。
商売ができなくなった人々は江差を離れて行ったのである。


今では全く、まちなかで魚の匂いすらしないのは不思議な気がする。


今度は廻船問屋であった旧中村家住宅を見学。これを建てた近江商人の大橋宇兵衛は、日本海沿岸各地の
海産物の仲買商を営んでいた。


北前船で運んできたという越前石が積まれた建物の基礎。


ここもいちばん表に帳場があり、通り庭に面して部屋が並ぶ。床の間や建具の普請は手の込んだものと
なっている。


囲炉裏の自在かぎは松竹梅と太陽をデザインしてあってカワイイな!


灰ならしもまた秀逸なデザイン!!「心」って何だろうと思ったら、「火の用心」か!


地の底へ下りていくような通り庭。


文庫蔵の土台の石積みはこんなふっくら仕上げになっていた。外部の人に見せるわけでもないのに、
凝っているなぁ!


こちらもニシン漁全盛期の熱気が伝わってくる写真がいろいろ展示されていた。
明治10年の江差のまちなみ。海岸線が見えないほどにハネダシがひしめき、背後の山の上にまで
建物が建っている。あぁ、あれからニシンはどこへ行ったやら、、、


檜山郡役所を見たあとお昼ごはんを食べようとチェックしていたところへ行ってみたらお祭りのため
ランチが休みで、横山家に戻り併設のお蕎麦屋で食べる。


もちろんニシンそばを。ほっとひと息。。。




続く。
コメント (2)
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