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エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XV-3

2025-05-06 11:08:23 | 地獄の生活
彼はここで言葉を止めた。
カジミール氏が入って来た。口をハート形にして追従笑いを浮かべ、平身低頭、司祭のような黒づくめの服に、首枷のような白いモスリンのネクタイを首にきっちり巻き付けていた。
「やぁ君、来てくれたか」 ド・ヴァロルセイ氏はウィルキー氏を手で示して言った。「こちらは、君の元の御主人の唯一の相続人でいらっしゃる……。君が私に話してくれたことは、こちらの方に大いに関係することなのでね、その話をもう一度して貰えないだろうか……」
カジミール氏はどうしても良い働き口を得たいと躍起になって、ド・ヴァロルセイ侯爵に話しかけたのであった。彼は大いに喋りまくり、侯爵の方では相手にそれと気づかれぬようにしながら相手を利用し、自分の策略の片棒を担がせることが出来るのではないか、と考えた。
「わたくしは前言を翻したりすることは決してございません」と彼は断言した。「こちら様が相続人であらせられるのでしたら、わたくしははっきり申し上げます。亡くなられたド・シャルース伯爵の財産のうち相当な額が横領されましたことを……」
ウィルキー氏は椅子から飛び上がった。
「相当な額!」彼は叫んだ。「そんなことが可能なのか!」
「そうなのでございますよ!……どうかご自分で判断なさいますよう……伯爵が亡くなられた日の朝には、紙幣と持参人払いの有価証券で二百万フラン以上が伯爵の書き物机に収められていたのでございます。それが、治安判事がいらっしゃって家財目録を作成する段になりますと、それが消えていたのでございます。私ども邸で働いていた使用人たちは皆大いに憤りました。私どもが疑われることになる、と思ったからでございます……」
ああ、このときもしウィルキー氏が一人であったら、どうなっていたか……。しかし侯爵とド・コラルト氏が見ている前で自制心を失うことなどあってはならない。彼は踏ん張り、殆ど成功した。いつもとさほど違わない声で彼は言った。
「それは遺憾なことです……二百万フランとは、なかなかの金額ではないですか! で、教えてください、それは誰の仕業か分かったのですか?」
カジミール氏の困惑した視線に、彼の後ろめたい気持ちが現れてしまっていた。が、ここまで言ってしまった以上、後には退けなかった。
 「無実の人に罪を着せるようなことはしたくありません」と彼は答えた。「ですが、その書き物机の鍵を一日中身に着けていた人間が一人おります。私以外にも、その人を疑っている使用人は邸に大勢います……」
 「で、それは誰なのですか?」
 「マルグリット嬢です」
 「そんな人は知らないなぁ!」
 「若いご婦人で、伯爵の私生児だと申す者たちもおります。この方は邸を思いのままに動かしておられまして……」
 「彼女はどうなったのです?」5.6
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2-XV-2

2025-05-02 10:47:50 | 地獄の生活
このようなことをしていると時間はあっという間に過ぎ、彼は『親愛なる侯爵』との約束の時間に少し遅れて到着した。
ド・ヴァロルセイ侯爵は、彼が辞去したときと全く同じ姿勢で喫煙室に座り、ド・コラルト子爵と話をしていた。しかし、その間侯爵は外出をしていたのだった……。だが、彼が昨夜以来練り上げていた策略を実行する準備をするのに、ものの一時間とは掛かっていなかった。
「勝利です!」とウィルキー氏はドアのところで叫んだ。「いや、なかなか大変でしたが、僕の底力を見せつけましたよ……僕は相続します。何百万という財産は僕のものです!」
彼の『身分の高い友人たち』がおめでとうを言う暇も与えず、彼はマダム・ダルジュレとのやり取りを語り始めた。自分の非道な振る舞いを誇張し、実際には全く言っていない『非常に傲岸な』言葉を自分が言ったかのように語り、自分がいかに情に流されない毅然とした男かということを強調しようと躍起になっていた。
「ほう、あなたは私が思っていたよりずっとやり手のようですな」とド・ヴァロルセイ氏は、彼が語り終えたとき重々しい口調で言った。
「そう……ですかね?」
「そうですとも! それだけじゃありません。あなたの前途は洋々たるものですよ。あなたのことが噂になると、きっとそうなるでしょうが、あなたは一躍有名人です。パリ中の人々が呆気にとられますよ。マダム・ダルジュレが実は息子のために身を捧げた貞淑な女性であり、彼女がスキャンダルにまみれた女だというのは、上流階級の紳士たちが出資した賭博場の偽りの宣伝文句に過ぎず、彼女はその犠牲になっていただけであることが明るみに出れば。新聞はこぞって一カ月は書き立てますよ、この世にも数奇な物語を……。そしてこういった世間の注目を一身に浴びるのは誰だと思いますか? あなたです。更にあなたの何百万という金が拍車をかける。今やあなたは社交界の寵児です。(原文は「冬のライオン」となっている。Lionは社交界の花形という意味で使われることがあるが、「冬」が謎。パリでは冬場にパーティなどの催しが多く行われたとのことなので、晩餐会や舞踏会でもてはやされる、というような意味か?)
ウィルキー氏は喜びで我を忘れるほどだったが、謙虚なふりを装って言った。
「どうかお願いですから、侯爵、お手柔らかにお願いします。そんな大袈裟に仰らないでください……そんな……持ち上げすぎですよ……」
しかしド・ヴァロルセイ氏は、にこりともしなかった。
「私の方でも、あなたにお約束したように、出かけていって情報を集めて来ました。そこで得たものは、殆ど遺憾であると申し上げざるを得ません。実に奇妙なことです」
「えっ」
「あなたが入って来られたとき、コラルトにもそう言っていたところなのですよ……。私がこの件に関与するのは耐え難いと思うのはこの点なのです。というわけで、私に情報を与えてくれた者たちをここに呼びました。あなたは彼らの話をよくお聞きになって、ご自分で判断してください……」
こう言って彼が呼び鈴を鳴らすと、すぐに召使が現れた。
「カジミールさんをお通しして」と彼は命じた。
召使が命令を果たすべく引き下がると、侯爵は言葉を継いだ。
「カジミールというのはド・シャルース伯爵の下男だった男です。しっかり者で、実直、頭も良く、すべてを心得ていて、手元に置いておくと重宝する人間です。正直に申しますが、あなたにお仕え出来るかもしれないという可能性をちらつかせると、彼の舌は大いに滑らかになりましたよ」5.2
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2-XV-1

2025-04-25 10:48:15 | 地獄の生活
XV

 驚きのあまり茫然となり、ウィルキー氏は両腕をだらんと垂らしたままサロンの真ん中に立ち尽くしていた……。
 「え、あの、ちょっと……」 彼は口の中でムニャムニャ呟いた。「僕の話、聞いて貰えませんか……」
 無駄だった。マダム・ダルジュレは全く振り返る素振りも見せず、ドアは閉められ、彼は一人取り残された。
 いかに『出来る男』といえども完全な人間ではない。彼は内心すっかり動転しており、今まで味わったことのない雑多な感情が押し寄せてくるのを感じた。咄嗟に判断したところによれば、悔恨の情に襲われたのではなかった。彼は悔恨とは無縁の人間だった。が、眠っていた良心が活動を起こす時間があるものだ。道を誤った本能が主張を開始するときが……。
 このとき彼が心に思い浮かんだことをそのまま行動に移していたとすれば、母の後を急いで追いかけ、その前に跪くことだって十分にあり得た。しかし、ド・コラルト子爵とド・ヴァロルセイ侯爵のことが頭に浮かぶと、このまっとうな行為を圧し止めたのだった。
 「そんなことしたら、彼ら、俺のことを揶揄って笑いものにするだろうさ」と彼は思った。「仕方ないね!これを望んだのは彼女なんだから!」
 それから勿体ぶって口髭を捻りながら、昂然と彼は出て行った。ダルジュレ邸の外に出るまで召使たちのひそひそ声が彼の背後から追いかけてきたが、それは殆ど罵声に近いものだった。
が、そんなこと構うものか!身分の低い者たちが何を言おうが、この俺はびくともするものか……。
しかし通りに出て百歩も歩かぬうちに、彼の気持ちの昂ぶりは消えてしまい、ド・ヴァロルセイ侯爵によって定められた時刻までどうやって時間を潰すかということしか頭になかった。彼はまだ昼食を取っていなかったが、胃の調子はあまり良くないな、と独り言ちた。確かに、何も喉を通らなかったであろう。自宅に戻る気にはなれなかったので、馴染みの友人の一人を探すことにした。自分の身に起きた素晴らしいニュースを大いに吹聴してやろうという腹だった。が、その友人は見つからなかったため、自慢したくて堪らない気持ちで息が詰まりそうになった。その気持ちに捌け口を与えるため、彼は一軒の印刷屋に入り、想い上がった尊大な態度で名刺を印刷してくれるよう注文した。『W. ド・ゴルドン-シャルース』という名前、そして隅に伯爵の印の王冠を添えたものを。4.25
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2-XIV-18

2025-04-19 10:14:33 | 地獄の生活
彼女はトリゴー男爵からその秘密の計画について聞いていた。悪党の中でも最も危険と彼女が判断したその男に警戒せよと、一言息子に忠告したかったが、その権利が果たして自分にあるだろうか、と自問した……。いや、断じてない。
 「どういう何なんです?」 とウィルキー氏は驚いて返事を促した。
 が、マダム・ダルジュレはもう既に冷静さを取り戻していた。
 「ただこう言いたかっただけです。ド・ヴァロルセイ侯爵にはちょっと用心した方がいいと……。あの方の地位は素晴らしいけれど、あなたのそれはもっと素晴らしいものになる筈……。あの方の行く先には陰りが見えているけれど、あなたはこれからの人です……あの方が失ってしまったものを、あなたはこれから手にしていくことになる……。あなたのことを密かに妬ましく思い、何か悪い方向にあなたを押しやることだってあり得る……」
 「彼が、まさか! ああ、あなたは彼のことをあまり知りませんね、彼は大事な友人で……」
 「ともかくも警告はしました……」
 ウィルキー氏は帽子を取り、出て行こうとしたが、そのとき気まずい空気が流れた。はっきりとは分からなかったものの、このような形で母のもとを去るには忍びないと彼は感じた。
 「ええと、その」と彼は言い始めた。「近いうちに良い知らせを持って来られると思います……」
 「今日のうちにも私はこの館を出て行きます」
 「ご尤もです……でも、僕に、その、引っ越し先の住所を教えて貰えますね……」
 「いいえ」
 彼女は悲し気に首を振り、きっぱりとした声で言った。
 「私たちはもう二度と会うことはありません」
 「え、それは! でも二百万フランはどうやってあなたにお渡しするんです?」
 「パターソン氏からあなたに連絡が行くでしょう……私のことは、死んだものと思ってください……私を生に結び付けていた唯一の絆をあなたは断ち切ってしまったのです。どんなおぞましい犠牲も無駄だったことがあなたを見て分かりました……。でも私は母親です。だからあなたを許します……」
ウィルキー氏はいつまでも動こうとしなかった。彼女の方でも自分の力が尽きて本心を曝け出してしまうことを怖れたためか、彼女は自分自身を無理やり引きずって行くかのように部屋を出て行った。去りがてに、こう呟きながら……。
「これでお別れね……」4.19

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2-XIV-17

2025-04-13 07:45:38 | 地獄の生活
「で後の百万は?」
 「残りの百万は……あなたに譲渡できない形の財産として保管するつもりです。あなたがド・シャルース一族の世襲財産を自分のためやあなたにおべっかを使う者たちのために最後の一スーまでも浪費し尽くしてしまったとき、せめて食べるものには事欠かないように……」
 この予言的な対策を聞くとさすがのウィルキー氏もショックを受けずにいられなかった。
 「僕のことをアホだと思ってるんですか!」と彼は叫んだ。「ああ、それはとんでもない間違いだ。僕はこんな人の好さそうな顔はしてますがね、実は人より悪知恵のある方でね……能ある鷹は爪隠すってやつで……」
 「サインなさい!」とマダム・ダルジュレは冷ややかに遮って命じた。
 しかし、ウィルキー氏の方では、自分はそう易々と騙されるような愚か者ではないことを証明しようと、公証人により作成された契約書を二度読み返してから、ようやく書面の下の方に署名した。それが済み、彼があれほどまでに欲しがっていた相続を確かなものにする書類をついにポケットの中にしまい込むと、マダム・ダルジュレが言った。
 「それでは、私からあなたにお願いがあります……。あなたの父親が現れて、この財産が自分のものだと主張するかもしれません。というより、彼ならそうするでしょう。そして訴訟騒ぎということになれば、もう既に世間に洩れているあなたの母の恥が更に上塗りされ、これまで何の汚点もなかったシャルース家の名前を汚すことになります。どうかお願いですから、それを避けて欲しいのです……和解してください。あなたは少々のことではびくともしないだけの富を持つことになるのですから」
 ウィルキー氏は黙っていた。まるで自分の取るべき行動について熟考しているかのように。
 「もし僕の父が話の通じる人なら」と彼はついに言った。「僕もそうしましょう……。僕たち二人の間の仲裁役となってくれる人を選んで、その人に頼みます。僕の友人の一人で、僕と同じようにきっちりした人です。ド・ヴァロルセイ侯爵に」
 「まぁ何ですって!侯爵と知り合いなの?」
 「僕の最も親しい友人の一人というわけですよ、あの名士は!」
 マダム・ダルジュレの顔は蒼白になった。
 「馬鹿な子!」 と彼女は叫んだ。「あなたは知らないの、ド・ヴァロルセイ侯爵というのがどういう人間か、あれがどういう……」
 ここで彼女はぴたりと口をつぐんだ。もうちょっとでパスカル・フェライユールの秘密をばらすところであった。4.13
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