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パリで美術三昧 キュービストを超えたリアリスト <モンドリアン> を 2019年マルモッタン美術館特別展でたどってみよう

2021-02-09 00:06:27 | 素晴らしき世界/パリ/美術
ピート・モンドリアン『赤と黄と青と黒のコンポジション』1921



20世紀前半の美術史を語るときに不可欠の鬼才
モンドリアン
2019年秋「マルモッタン美術館」の特別展でたどってみよう

名前でピンとこない方々も
この巻頭写真には反応されるのではなかろうか

縦横の太い黒線に囲まれた空間をカラフルに埋めてゆく
格子のサイズの違いはあるが
戦後の世界各地の絵画やポスター
建築装飾や家具調度や食器からモードまで
あらゆる分野で取り入れられたこのパターンこそ
モンドリアンの求めていた結論の作品なのです

特別展では

『二人の人物像』 1908〜09

会場の冒頭にこの作品が飾られていた
世界中に知られたモンドリアンの早初期を知ってもらうために

1872年
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』は
オランダはアメルスフォールトで生を受けた
『Pieter Cornelis Mondoriaan ピェテール・コルネリス・モンドリアアン』
が出生時の姓名

幼少期より親と共に郊外でスケッチをする環境で育ち
1891年20歳から3年間アムステルダムの国立美術アカデミー(美大)に学び
伝統的理論(アカデミスム)を学ぶが
その頃から
パリで一世を風靡していた表現主義や後期印象派などに強く影響され
輪郭線より色彩に重きを置いていたことが現れており
卒業後はアカデミスムのリアリスムから徐々に離れて行く事となる

『幼な子』1900〜01

なんだかルノワールを彷彿とさせる画風
そもそも輪郭がない


『色彩の印象』1905


そして1906年
名前をオランダの綴りからフランス風に
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』
と改める

『ゲイン川 水辺の樹木』1906


『ゲイン川畔の風景』1907


『水辺の森の樹々』1907

そして
1908年からの数年間は
「Luminisme 光線主義」と呼ばれる
ベルギーとオランダ及びスペインの
フランス印象主義に影響を受けた若手画家の同時多発的傾向で
光の追求を
色彩と筆使いでいかに現わせるかを追求した

『赤い木(りんご)』1908〜10


『春の陽光 城の廃墟』1909〜10


『若い女性像』1908

あたかもモディリアーニかドゥランを彷彿とさせる色使いです


『瀕死の向日葵 1』1908

『瀕死の向日葵 2』1908


『アルムユリ 赤い花』1908〜09


『砂丘 1』1909


『砂丘 2』1909

後期印象派の最後の光芒『点描主義』の技法も
取り入れている

『砂丘 3』1909


『砂丘 4』1909


『ウエストカッペルの灯台』1909
部屋のいたるところにある証明ライトの反射を画面に入れないように
無理に斜めの角度で撮らざるをえなかった事ご容赦ください


『ドンブルグの教会』1909


『オオストカッペルの教会』1909


『ウエストカッペレの灯台』1909

1910年になると
ピカソとブラックの「キュービスム」に非常な刺激を受ける
「キュービスム それは 象形か抽象か」
リアリスムを「具象」と訳すと
キュービスムは具象の一表現形態かそれとも抽象表現か
模索しながら彼の表現が変わる

そして1911年
アムステルダムの美術展でキュービスムに触れてショックを受けた

『ゼーラントの鐘楼』1911

この鐘楼は
上に掲げた数年前の
「印象派」風の
「後期印象派点描派」風の
「フォービズム」風の
いずれとも異なっている
「実態の具象を平面に分割再構築する」発想の
萌芽と見て良いんではないだろうか


『女性の肖像』1912


そして人物の肖像画が完全にキュービスムと化している

当然風景描写も変わらざるをえない

『グレーの樹』1911

この「樹木」は背景の色彩的処理が
まだ印象派的なタッチを残しているようだが
次になると

『花の咲くリンゴの木』1912


『風景』1912

もはやポスト印象派としか言いようがなくなっている

『コンポジション 樹木2』1912〜13

そして遂に1912年から2年間パリに滞在

さらに1913年になると
彼はその葛藤に回答を見出した
「抽象と表象の間には間違いなく共存する余地がある」


『コンポジション 13』1913

実はこれも樹木(リンゴの木)
この作品と上述した「グレーの樹」「コンポジション(構成) 樹木2」
そして
次に挙げる作品とは
必然的に同じ感性の流れの中にある

『色彩の平面における楕円形のコンポジション』1914

キュービスム理論に従って
対象の表現を平面的幾何学的な形態への変換する方法に注力する

『大洋 5』1915

その上で
キュービスムが
本来の自分の求める「リアリティー」の表現に到達できない事を感じ
さらにその先を求め始める

父親の訃報にパリからオランダに一時帰郷するが
第一次大戦の勃発で再びパリに戻る事が出来なくなってしまった

『ドゥイヴェンドレシュト付近の農家』1916

具象絵画について
「美しいと思ってくれるなら嬉しい」
「なぜなら自分もまだそれが好きだからだし
好きでいるこことを続けていくだろうから」
「自分の構想はそれ以上に発展しているとはいえ
構想と言う物は人間とともに発展してゆく外面的なものであり
精神という内面的なものは変わらないのだから」

1919年にはパリに戻るが
オランダで多くの芸術家たちと出会い構想を同じくする芸術家集団を作り
雑誌を創刊し
『ネオ・プラスティシスム 新造形主義』を確立する

『格子のコンポジション8 濃色の市松コンポジション』1919

ここで彼は初めて現実の何物にも根ざさない
彼の創作活動の出発点であった

『コンポジション 14』1919

進め方は
風景でも樹木でも構造履のファサード(正面)でもない
単純に画家としての彼の「精神的」なところからの
すべての物事の本質を尊ぶこと
「完璧なる美しさ」を尊ぶために

わずか1年前の

『二本のアラムユリ』1918

と比較すると
彼の突然の開眼が見て取れる
しかも
「花」はモンドリアンにとって
生涯絶えることなく毎日描き続けたモチーフだった
「縦横の線の交差と色彩」に過ぎない『ネオ・プラスティシスム』では
食べていけなかったこともある

しかし本質的には
モンドリアンは新造形主義者『ネオ・プラスティシスト』で
生涯を送る

『色彩範囲のコンポジション』1917


『タブロー』1921

この年1921年
上下左右に直行する縦と横の黒い線と
赤黄青の3色の色彩を使う
『コンポジション』
の作風が完成する

ただ
ナチスの攻勢が強まり
1939年に彼は戦火を避けてロンドンに移る

さらに
ロンドンも空爆が酷くなり始め
1940年にはニューヨークへ再度移住した

『コンポジション 10』1939〜42


『Broadway Boogie Woogie』1942〜43

結局『ピート・モンドリアン』は
ヨーロッパに帰ることなく
1944年2月
滞在地ニューヨークで客死した
ブルックリンの墓地に眠っている

上の『ブロードウエイ・ブギ・ウギ』が遺作となり
書きかけであった大戦の勝利を祝う

『Victry Boogie Woogie』1942〜44

未完で残された

彼の影響は
その後の現代美術に大きな影響を残し
現代でも『ミニマル・アート』『抽象表現主義』などの芸術家たちに
受け継がれている

下の写真は
サンローランの
1966年プレタポルテ春夏コレクション


抽象画も結構面白いんですよ
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-02-10 09:38:22
抽象画大好きです
タイトルを想像しながら見るのが
とても楽しいです
パリは美術館も沢山あるし街並みも綺麗で
コロナが終息したら旅行したいです
返信する
Unknown 様 (ポタトハウス)
2021-02-13 22:39:09
抽象あが好きな方は早々いらっしゃらないので、ちょっと嬉しいです。
絵画史の中で抽象画が生まれてくる過程を見ると、現実をいかに事実通りに再現できるかの結果であり、具象も抽象もリアリズムなんですね、広い意味で言えば。
返信する

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