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行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

プロヴァンスを巡ろう 34 アルプスから来てプロヴァンスを潤す大河 <ヴェルドン河 その渓谷美と美しい村々 2>

2021-01-05 00:26:52 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
ヴェルドン河渓谷の村『カステラーノ」の 夕景



ヴェルドン河の渓谷地帯は
「地方(州)自然公園」に指定されている
流域には
いくつもの魅力あふれた村々がある
それらを順にご紹介してみよう


『Allemagne-en-Provence   アルマーニュ・アン・プロヴァンス村』


『Château d'Allemagne   アルマーニュ城』

この村には見るべきものはそれほどないが
城は国の重要文化財に
指定されている


村名は
実はフランス語で「ドイツ」である
古代ローマを滅ぼしたゲルマンの諸族の中の
『アレマン人』たちの拠点だったのではないかいわれている
結局彼らは「ライン河「の向こう側に定着して
フランス人から「アルマン人(ドイツ人)」と呼ばれるようになった
国名はアレマン人の国で 「アルマーニュ」

ローマ化以前の原住民族『ガリア人』の
豊穣の女神『アレマノア』から来たのだという人もいる


『Aups  オプス村』



ここの村名は
通常なら「オー」か『オップ」と発音すべきだが
実際には「オプス」と発音される

『Château de Turenne  テュレンヌ城』



城壁の名残


『Tour des Sarasins  サラセン人の塔』

10世紀に『サラセン人(イスラム)』に町が占領された
その当時のサラセン人が建てたと言われている塔

『Tour de l'Horloge  時計塔』

カエサルはこの辺りの原住ガリア人を征服して
この土地がいたく気に入り
「ローマで No2になるよりこの土地のトップになりたい」
言ったと言う伝承がある

※  ※

『Bargème  バルジェーム村』

遠景

『Châtau de Bargème  バルジェーム城址』

城門の名残



民家


これが
村の目抜き通り


村役場




例によって
頂上は城址と教会





『Chapelle Notre-Dame des Sept-Douleurs 七苦の聖母礼拝堂』



教会から城址を望む


車が登ってこられる道は
ちゃんと有る




※  ※


『Banon バノン村』





村の中は
当然とはい坂道だらけ


そして
行き止まりのように見えて
アーチのパッサージュだらけ






この村の頂上は
城ではなく教会

『Eglise Saint-Nicolas 聖ニコラ教会』

それとは別に
頂上のさらに外れに


さらに小さな礼拝堂あり


『Eglise Saint-Marc 聖マルコ礼拝堂』

加えて
礼拝堂の裏側に
修道院の廃墟も残っている



小さな小さな村に見えるが
当然
村の広場もあって
カフェも噴水もあるのです


最後に
ラヴェンダーの上にそびえる『バノン村』です




※  ※

『Bauduen ボーデュアン村』


何を隠そう
『サント・クロワ湖』の湖畔にある







『共同洗濯場』


教会

『Eglise Saint-Pierre 聖ペテロ教会』

側面











 ※  ※

『Esparron de Verdon エスパロン・ド・ヴェルドン村』


俯瞰してみると
こんなに小さな村なのに

『Château d'Esperron エスペロン城』

お城は
こんなにでかい



別の角度から見た方がよく分かる



城の門の脇の城壁にある噴水


『共同洗濯場』


『Eglise Saint-André 聖アンドレ教会』

田舎の村の教会らしく
外観は古いロマネスクの部分もかなり残っているが


中は実に素朴で
かつ
結構ゴチャゴチャしてる

実は
城のすぐ裏はヴェルドン河の小さな人口湖


そのままレジャー基地になっている


結局この村は
かなり広い斜面の位置にあり
上からも
下からも
見る事が出来る様な立地のあるのです






『ヴェルドン渓谷の美しい村々』
次回に持ち越します
= = = = = = = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
ご感想やご意見ご要望をお間7ています
下の「コメント」ボタンからどうぞ
実名でなくとも構いません
旅行自体にご興味をお持ちの方は次のサイトもどうそ
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プロヴァンスを巡ろう 33 アルプスから来てプロヴァンスを潤す三大河川 <ヴェルドン河 その渓谷美と湖と美しい村々 1>

2021-01-04 00:10:28 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『Lac de sainte-Croix  サント・クロワ湖』



プロヴァンスで重要な河川が三本
フランスとスイスの国境にある『レマン湖』から東に流れ
リヨンで「ソーヌ河」と合流してまっすぐ南下する
『Le Rhône  ローヌ河』

レマン湖よりかなり南
イタリア国境のアルプスのフランス側に源を持ち
南西に流れて
「アヴィニヨン」で「ローヌ河」に合流する
『La Durance  デュランス河』

「ヂュランス河」よりもっと南のアルプスから西に流れ
『エックス・アン・プロヴァンス』北東10kmで
「デュランス河」に合流する
『Le Verdon  ヴェルドン河』


地図右端のグレーのギザギザ線がイタリアとの国境線
一番下の『ヴェルドン河』が『デュランス河』に合流する10kmほど手前に
『Lac Sainte-Croix  サント・クロワ湖』
という湖がある

ちなみに『ムスティエ・サント・マリー』は
その湖のすぐ北側







ウォーター・レジャーのメッカとなっている


実は『サント・クロワ湖』は人造湖
勿論「水力発電」のための


湖の
当然ですが『ヴェルドン河』の入ってくる方と逆が
ダムになる


少し離れてみるとこんな感じ
逆方向



ヴェルドン河が湖に入る方向は
同じように橋がかかって
同じように狭くなるが


カヌーの基地は
夏には多くのヴァカンス客達で賑わう


なぜなら
ここから上流に入って行くと急激に両岸が高くなり
大峡谷を形作る絶景だから


『グラン・キャニヨン』の入り口






『Le Grand Canion  グラン・キャニヨン』
という名が付いている


滝もある

勘違いしてほしくないが
ネヴァダの「グランド・キャニヨン」をパクった
バッタもんではありませぬ
こちらが本家です
「Canyon」はフランス語で「(切り立った)峡谷」
「Grand」がつけば
『大峡谷』

17世紀以後ヨーロッパから大西洋を新大陸へ渡った人々が
今のアリゾナ州で巨大な峡谷を見つけ
フランス語から英語になっていた同じ言葉で呼ぶよになっただけ

ちなみにフランス語では「グランド」ではなく
『グラン・キャニヨン』
となる


ダム湖に近いあたりは水量も多いが


流れを遡るに連れて
徐々に水かさが減って行く



そして
この独特の水の色
『Vert(ヴェール)  緑』
から
この河の名前「ヴェルドン」がつけられたそう

上から見ると


さらに上流に進むと
さらに切り立って高くなる


高いでしょう
狭いでしょう
急峻でしょう
『グラン(ド)・キャニヨン』の名にふさわしい景観ですよね




やや「Y字」に分岐しているところも


もはや
上から覗き込んでも


流れが見えなくなる





そして
さらに上流に進むと


両側の絶壁が絶壁ではなくなって
穏やかな
しかし深い谷に姿を変える




この谷底を
見てみたくはないですか


ということで
降りられます


切り通しの見学ルートがある


そして
改めて断崖の絶壁ぶりが物凄い事に
気がつくのです


こうして
本家『グラン・キャニヨン』探検は終わります






「サント・クロワ湖」を離れて
『ヴェルドン河』を遡る左岸の道に入ると
どんどん上り坂になっていって
振り返ると湖がまだ見えるあたりに
フランスらしくない妙に美しいお城がある

『Château de l'Aiguine   レギーヌ城』

湖を見晴らす絶好の位置に立っている
四隅の丸い塔の三角屋根が
色が
違う


色タイルの瓦は
ブルゴーニュ
その領地だったフランドル(ベルギー/オランダ)にも
そのフランドルの大公女を娶ったハプスブルクのウイーンなどにも
あるのだが
南仏風の背が低く(と言っても4階建)
勾配がないに等しい屋根で見ると
とても不思議に見える


近づいてよく見ると
四重の刳り型軒蛇腹などは完全に南仏だ

お庭は見学できる




糸杉の風情といい


四つ折れ階段の繰り返しといい
広いプールといい


まるで
イタリアのパラッツォみたいだ


せっかくだから
城内にも入れていただこう




エントランス・ホールに入っただけで
というより大富豪の大邸宅
という雰囲気



パソコンの存在が
書斎らしくて良い感じ



さらに
トレーニングマシンが
「大富豪」の日常生活を感じさせる



ダイニング・ルーム



サロン



正面大階段





建物の基礎の地下室みたいな壁と天井だが
窓がある通り
ここは半地下なのです
何の部屋だかは不明だが構造上は基礎部分



当然「家族の礼拝堂」もあります
ここは屋根の下の最上階


湖を背に城を見る



『Aiguine   エギーヌ村』
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
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実名でなくても構いません
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プロヴァンスを巡ろう 31 山国プロヴァンスの三つの山地 4 <リュベロン山塊 2>

2020-12-28 00:13:35 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
アプトの町の満開の桜からリュベロンの山並みを望む


リュベロンの
魅力あふれる山あいの町や村はもっとあるので
今回も同じテーマでご紹介


『Apt  アプト市』

この町は
昔からフルーツ
特にサクランボの砂糖漬けで名高い



町のシンボルは大聖堂

『Cathédrale Sainte-Anne  聖アンヌ大聖堂』

建立は11世紀に遡る

中央大円蓋天井

『Chapelle Royale  王室礼拝堂』

17世紀
ルイ14世の妃『アンヌ・ドートリッシュ』の
寄進によって造られた

『聖遺物櫃を収めた収納庫』


外壁の一部には13世紀の装飾

ところでこの大聖堂は
クリプタ(地下祭室)が結構あれこれありまして

9世紀の教会の部分が利用されている地下祭室の祭壇

そのもう一段下の層に


一つ前の写真の床を支える天井部は
9〜10世紀の石材を使って11世紀に作られた



9世紀頃の町の有力者であった
「カリウス・アリウス・セレール」を讃える文を彫り込んだ石碑
この上に当物の彫像が飾られていたらしい

街中に残る塔 1

街中に残る塔 2

時計塔

そしてここアプトにもアレが

『苔むす噴水』

中心部を出ると田園風景が残っており


小屋掛した屋内井戸が
残っている



かつての「共同洗濯場」も


 そして郊外には城

『Chateau de Roquefure  ロックフュール城』




※  ※

『Lourmarin  ルゥマラン村』


リュベロンの山を背景にしたルゥマラン村
二つの塔は
城と新教寺院




この位置に
12世紀から城塞があり
15世紀に城館に再建し16世紀半ばに今の形に再度再建





  



プロテスタント寺院はというと


19世紀になってすぐ
ルゥマランの資金提供により最初から新教寺院として
建てられた
普通は使われなくなったカトリック教会を転用することが多い

裏通り

噴水 1

噴水 2

噴水 3
苔むした三姉妹噴水

最後に
ノーベル文学賞受賞者『アルベール・カミュ』は晩年をここで過ごし
自動車事故で亡くなった後
この村の墓地に眠っています








※  ※

『Céreste  セレスト村』


他と同じような丘の上の村に見えますが
確かにその通りなんですが
とっても小さい
沢山の子猫が
バスケットの中でぎゅうぎゅう詰めに固まって寝てるみたいに
愛らしい

『Eglise Saint-Michel de Céreste  聖ミカエル教会』
ロマネスクの古刹です

『Hospitalet saint-Jean de Baptiste  洗礼者ヨハネ救済院』
貧しい病人や一人暮らしの病人を収容し
最後を看取る
「病院」と「養老院」とを兼ね備えたような宗教施設
『施療院』とも呼ばれる



13世紀の民家



『La Tour d'Embarbe  アンバルブの塔』


『豚飼いの塔』と呼ばれている塔

共に城址

集落の境界の出口にも古い教会があった

名称不詳

そして
集落を離れた林の中に

『Chapelle Saint-George de Céreste  聖ジョルジュ礼拝堂』

それに
街道の村に入るあたりには古代ローマ時代の
千八百年は経た橋がある






 ※  ※

『Ansouis  アンスゥイ村』


ここも小さな小さな集落
城と教会だけ
己の存在を主張している


左が城 右が教会

城の門

城館の入り口

城館

物見の塔

庭園


教会も
いざという時は村人が中に避難して立て籠もれる
「武装教会」

『Eglise Saint-Martin d'Ansouis  聖マルタン教会』


攻撃から身を守るために壁が非常に厚く開口部は非常に少ない
右の窓を見ると壁の厚さがわかる
矢狭間すら切ってある


13世紀の建立らしいが
遅めのロマネスク
内部の彩色も昔ながらに続いている

村は狭い

民家


 ※  ※

『Saignon  セニョン村』


この村の立地条件はかなりダイナミック
そして
教会もダイナミック

『Eglise Notre-Dame de Pitiée  慈悲の聖母教会』


これも
見るからに「武装教会」


何の飾りもなく質実剛健で美しい
裏側が墓地になっている



オリーブの産地として名高く
昔の搾油所も残っている



= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 30 山国プロヴァンスの三つの山 3 <リュベロン山塊>

2020-12-25 00:24:59 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
リュベロン山地の一景


プロヴァンスの山
最後の第三回目
『Massif du Ruberon  リュベロン山塊』







リュベロン山地で名高い村には
『ゴルド』や『ルシヨン』
と並んで
『ミネルブ』がある

『Minérbes  ミネルブ村』


典型的な丘の村

『村と葡萄畑』

そして
お約束の城が最も高い位置に残る


『Chateau de Minerbes  ミネルブ城』


壁の上にあるべき
凸凹の防壁を持つ巡警路も
城門を守る石落としの出っ張りもなくなっているが
美しい城だ

そして教会

『Eglise saint-Luc  聖ルカ教会』



中世の城壁に割り込むように建てられている
おそらく18世紀頃のこの家は
『時計塔』と呼ばれ


アーチをくぐって城壁内に入ると
裏側に時計塔がついているから
この塔は城壁の外からでは見えない


昔の城壁の一部をいつの時代にか利用して
家が建った
細い通りの向こうに『時計塔』が見える

『Villa de Dora Maar』

『ドラ・マアール館』と呼ばれている
有力家系のこの屋敷も18世紀か


城壁の足元を通り防御の門をくぐって進んで
旧市街に入るようになっていた


城壁の上から『リュベロン山塊』の山が間近に迫る


さらに一段高い
城の城壁の位置から村を見下ろす
右下の
小さな鐘楼壁のついた三角屋根は
『Chapelle Saint-Braise  聖ブレーズ礼拝堂』

『Chapelle St-Braise』



そして
抜けるように明るい陽光と花と青空との
この平和な光景こそが
イギリスのジャーナリスト『ピーター・メール』が愛してやまなかった
プロヴァンスそのものなのです

  ※  ※

『Cavaillon  カヴァイヨン村』

古代ローマ時代のアーチ

この町は
それ以外の小さな村々と違い
平地にある

『Cathédrale Saint-Veran  聖ヴェラン大聖堂』

この大聖堂は全景の写真が撮れる空間がない
しかし
内部は素晴らしい


南仏独特の
「ゴシック」の要素がない
ロマネスクからそのままルネッサンス
そしてイエズス会様式からバロック様式
のライン上にある


聖ヴェラン礼拝堂(大聖堂の中の礼拝室)祭壇の黄金の天蓋


同じく「聖セザール・ド・ビュスの礼拝堂」の
木彫金張りの天蓋


サン・ヴェランの聖遺物を収めた黄金張りの木製収納庫

ここ『カヴァイヨン』は
フランス屈指のメロンの産地

『Melon de Cavaillon  カヴァイヨンのメロン』

いわゆる『ハニーデュウ・メロン』ですね
毎年5月の吉日
カヴァイヨンの小学生男女2名がパリを訪れ
大統領府『エリゼー宮』で
「大統領閣下、今年の最初のメロンをお届けに来ました」
という儀式をやる伝統があるんだそうです



 ※  ※

『Beaumettes  ボーメット村』

『Eglise de l'Annonciation   受胎告知教会』

この教会の
右背後の茂みの上の方の「岩棚」を覚えておいてほしい


村の中は
意外と空間がたっぷりしている感じがする


そして
お約束の「乾石積み」の坂を登って上に行くと

『Maison troglodyte  岩穴住居』

山の岩肌が風化によってくぼんで入り部分を利用して
足りない部分を補って住居を建てる


地形自体はこうなっている
ネアンデルタール人の時代から
人類はこういう岩の窪みを住居に利用してきた
時代とともに
掘り込んだり
立てましたりしながら



そして
いつしか
このボーメット村の後背地にこんな集落ができた

現役の部分は
内部は立派で快適な室内がある



昔の水場(井戸)は
今は引退してちょっとした池みたいな存在か


道の端にいきなり立ってる家も


前の道も
しっかり石畳で舗装されているわけです



※  ※

『Goult  グゥ村』



再び
丘陵の村

『Châtreau de Goulu  グゥ城』

反対側から見たら丸い塔のはずの角の塔の裏側に
結構新しいの窓が取り付けられている


城壁の名残と城門





切り通しの道もお約束





『Eglise Saint-Sébastien  聖セバスティアン教会』


『Maison Présbytère  司祭館』

集落のはずれに古そうなお堂があった

『Chapelle St-Veran  聖ヴェラン礼拝堂』



傍にはもっと古そうな遺構


風車もある


※  ※

『Opedde  オペッド村』



頂上は城址

『Château de Oppedes  オペッド城』





その横
一段下がって教会

『Notre-Dame de Gabrielli  ガブリエッリの聖母教会』
イタリア
ウンブリア地方の大貴族『ガブリエッリ家』の領地だった



下からのアプローチで見ると
大きな教会だ


『Maison des Gabrielli  ガブリエッリ家の館』




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プロヴァンスを巡ろう 29 山国プロヴァンスの三つの山 2 <アルピーユ山塊 周辺の魅力溢れる村々>

2020-12-23 00:24:59 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
「モウサンス・レ・ザルピーユ村」近くの『アルピーユ山塊』の一山



今回は山の二つ目
『Massif des Alpilles  アルピーユ山塊』
です



この山地はすでに
「アルル」
「ボーケール」
「タラスコン」
「サン・レミー・ド・プロヴァンス」
等の回で話題にした











『アルピーユ山塊』の只中にある
まだ紹介していない小さな村々を幾つかご紹介しよう

※  ※

『Eygaieres  エゲィエール村』




『Chapelle Sainte-Sixte  サント・シクスト礼拝堂』






『Eglise saint-Laurent  サン・ローラン教会』





正面奥にアルピーユの山々が垣間見える



※  ※

『Barbentane   バルバンターン村』

『Chateau de barbentane  バルバンターヌ城』

『Maison des Chevaliers  騎士の館』


 ※  ※

『Noves  ノーヴ村』




『Eglise Saint Baudile  聖ボーディル教会』




※  ※

『Boulbon  ブゥルボン村』
有名な王家の名前とは綴りも発音も違うのでご注意


『Ghateau St-Marcelin  聖マルスラン城』
村のシンボルの城と風車小屋






突き当りの建物の入口の右に


こんな聖者様がいらっしゃる

『聖クリストフル』
子供の守護神です


城門が『石落とし(水平狭間)』の部分の幅だけ
残った

『Eglise Saint-Marcelin  聖マルスラン教会』
実に美しいrマネスク時代の古刹

『Chapelle Saint-Julien  聖ジュリアン礼拝堂』


真下から見上げると
城の建物の最上階の周囲にあった『巡警路』が
「石落とし」の支えだけ残っているのが
よく分かる

そして
もう一つの名物が

『Moulin Bonnet  ボネの風車小屋』


使用する際は骨組みにキャンバスの幌を掛けて
しっかりと羽が風を受けて回る

村自体は
典型的なアルピーユ山塊の只中の村の佇まいである


アルピーユの山々の起伏に
城を頭(かしら)にゆったりと抱き込まれている様な
時の止まった村である


※  ※

『Frigolet  フリゴレ』

ブゥルボン村から10kmほどの森の中にある
『Abbaye Saint-Michel de Frigolet  フリゴレ大修道院』


この大修道院は
フランス北部『プレモントレ』で結成された
各地の司教区・大司教区の『大聖堂』で
運営に携わる重要な地位にある
『律修司祭』たちで構成される特殊な修道会の修道院


各地の律修司祭たちが
それぞれ期間を区切って「任務を外れ」
ここに集って
新たな修行を行っては
また
任地に帰って行く


『大修道院のアクセス階段』

『回廊』



内部は昔ながらの彩色

『運営会議の間』

『小礼拝室』

『小礼拝室の天井』

『全景』


修道院へ向かう一般道に
敷地の入り口を示す三つの塔の目印が立っている


  ※  ※

『Lamanon  ラマノン村』

『Chateau de Lamanon  ラマノン城』


村は
山の斜面にへばりつく典型的な形で
新旧取り混ぜた家々が並んでいる
しかし
この村の山の上に「途方も無いもの」残っているのです
『Les Grottes de Calès  カレスの洞窟』
と呼ばれています


『石窟都市』の廃墟

紀元前3500年「新石器時代」から人が住み着き
集落を作って以来
なんと16世紀まで同じ場所に人が住み続けた


山の岩肌を切り取り
くり抜き


必要な部分だけ切石を積み



床全面も削った岩盤


床に何やら穴ぼこが


おそらく
オリーブ・オイルや小麦の貯蔵のための「甕(かめ)」ではないか


天井には
何かを吊るす仕掛けもある


舗装道路


集落全体を防御する「城壁」もあった

『Chapelle Saunt-Denys-de-Calès   カレスの聖ドゥニ礼拝堂』

廃墟の教会
一般的には『St Denis』と綴るが
古語の綴りで表記され
今日も教会として機能塩ています

この村には
もう一つ「名物」がある


フランス最大の「プラタナス」です


1564年植樹
高さ25m・幹の周囲7,5m・枝が覆う地面が1500㎡
国の『芸術的自然文化財』に指定されている


数10年に一度剪定する
翌年には新生小枝に出る葉っぱで
このまま緑の塊になり
20年後にはまた枝が地を這うようになる
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プロヴァンスを巡ろう 28 山国プロヴァンスの三つの山脈 1 <ヴァントゥー山>

2020-12-21 00:24:59 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『Mont  Ventoux  ヴァントゥー山』


プロヴァンスを語る際に
山と川とが
重要な役を果たす

川は
『ローヌ河』とその3本の支流
『デュランス川』
『ヴェルドン川』

山は
『ヴァントゥー山』
『アルピーユ山塊』
『リュベロン山塊』

ちなみに
プロヴァンスには
Massif (マッシフ : 山塊=小山脈・山群)が17
Montagne (モンターニュ : 山=単独峰)が10座あまり
Mont (モン : 山=単独の大きな山)が主だったもので4〜5座
ある

川に関しては
再度機会を作ってご紹介したいと思っています

従って
今回は『山』です

北から順に
『Mont Ventoux  ヴァントゥー山』
からご紹介しよう

ローヌ河が
二つの分かれるアヴィニヨンの北北東の『オランジュ』から
さらに北東『ヴェゾン・ラ・ロメーヌ』あたりから東南にある大きな高山


標高1912mで
北側の頂上付近は夏でも冠雪
冬はスノー・スポーツ
夏は自転車の山岳ロードレースで賑わう










この『ヴァントゥ山』の周辺には
『Haute-Provence  高地プロヴァンス』らしい
魅力あふれる小さな村々が
点在する

幾つかご紹介しよう

※  ※

  『Bédoin  ベドゥアン村』




村から見たヴァントゥ山

※  ※

『Crillon-le-Brave  クリヨン・ル・ブラーヴ村』


『Eglise Notre-Dame des Acces  ノートルダム・デ・ザクセ教会』




ここの領主は
代々優れた人物が続き
王家の重要な地位を占めたりして
パリでも有数の高級ホテル『Hôtel de Crillon  クリヨン・ホテル』
に名前が残っている

村からヴァントゥ山を望む

 
※  ※

『Le Barroux  ル・バルゥ村』


『ル・バルゥ城』

『Eglise Notre-Dame de Brune  ノートルダム・ド・ブリュンヌ教会』



※  ※

『Cartantra  カルパントラ町』



『Ancienne Cathédrale Sainte-Trinitée  旧聖三位一体大聖堂』
のロマネスク時代部分

大聖堂ゴシックの部分『ユダヤ人の扉口』




旧司教館

『Château de Dubesson  デュベッソン城』



※  ※

『Crestet  クルステ村』

『クルステ村』から『ヴァントゥー山』を望む

『Eglise Saint-Sauveur  聖救世主教会』

『Château de Crestet  クルステ城』


共同洗濯場


 ※  ※

『Entrechaux  アントルショー村』


『Eglise Notre-Dame de Nazareth  ナザレノのノートルダム教会』

『Eglise Immaculée Conception Saint-Lauren  無原罪のお宿り・サン・ローラン教会』




※  ※

『Gigondas  ジゴンダス村』


『Côte de Provence コート・ド・プロヴァンス』
という「原産地呼称法」で守られた
名高いワインの産地の村





※  ※

『Mazan  マザン村』

『Château de Mazan  マザン城』

この城は
ずっと以前は『シャトー・ド・サッド』という名で
南仏の名家で数多くの爵位を併せ持ち
各領地に城を持っていた
『サド侯爵家』の持ち城の一つであったそうな

『Chapelle des Pénitens   贖罪巡礼団の礼拝堂』

ロマネスク時代の『Eglise Notre-Dame de nazareth  ナザレのノートルダム教会』

中世の「屋内公益市場」

村から見た『ヴァントゥ山』
頂上の気象観測所のポールまでしっかりと見える


※  ※

『Perne-les-Fontaines  ペルン・レ・フォンテーヌ村』

『Porte Noire et Chapelle  黒の城門と礼拝堂』
礼拝堂は城門の城壁に付属する左の2つの窓がある部分

『Eglise Notre-Dame de Nazareth  ナザレのノートルダム教会』

『Place Notre-Dame  ノートルダム広場』
教会側面の扉口前の広場が
住民たちの憩いの場

市場の前の広場の噴水

ディテール
村の名前はこの噴水に由来する


※  ※

『Séguret  セギュレ村』


城壁に名残と城門の一つ 共同洗濯場



家屋に組み込まれてしまった噴水

昔の洗濯場




※  ※

『Vanasque  ヴァナスク村』



ロマネスク時代の洗礼堂

『プロヴァンスの山』シリーズは
続きます
= = = = = = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
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プロヴァンスを巡ろう 25 <エックス・アン・プロヴァンス は 100の噴水の街と呼ばれてきた>

2020-12-14 00:34:02 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『Fontaine de la Rotonde  ロトンドの噴水』夜景



『エックス・アン・プロヴァンス』
という街は
フランスにおいて
パリに次いで二番目に「文化財」が多く集まっている街

そして
「100の噴水の街』
とも呼ばれてきた

そこで
エックスの街の主だった噴水を
順次ご紹介しておこう

まず最初に理解していただきたいことは
「噴水」と訳すと観賞用の装飾に思えるが
昔は
各町内各村々の住民たちの生活用水の汲み取り場所
つまり
「共同井戸」みたいな生活に欠かせない公共施設だった
ということなのです


もちろん
「いの一番」は『苔むした噴水』

まず古い絵はがきから


1930年の姿
今と違って「お湯」がたくさん流れ落ちている

1666年 建築家ジャック・フォッセ作
当初は海神ネプチューンの子トリトンの彫刻で飾られ
のちに
4頭のイルカに置き換えられた

今は全く痕跡もわからない


次に


これは2004年の姿

そして


2014年当時

そして


2018年

なぜこの様なご紹介をしているかというと
「苔」という
自然の植物を身に纏っている以上
いつも同じ表情ではない
という事をわかって頂きたいのです


2017年に撮影した表面の一部ですが
と一言で言っても
葉っぱのあるタイプや無い様に見えるタイプなど
様々なのです
天候も大きく左右します

この
『苔むした噴水』
と同じタイプの噴水が他に幾つかあります

まず例の
同じ『クール・ミラボー』に有るもう一つ


実はこの噴水は
『Fontaine des Neuf Canons 9門の大砲の噴水』
という名前が付いています
1691年 建築家ローラン・ヴァロン作
重要文化財

当初は九箇所から水を吹き出していたことから
この名がついたらしい


そして
南国プロヴァンスといえども
冬季にはこういう光景も見られます


もう一つ同じタイプを



『Fontaine Amado / des Cardeurs  アマドの噴水(カルダーの噴水)』
1963年
新たに「カルダー広場」を建設した際
彫刻家アマドにより製作

新しい噴水ですが
年と季節によりしっかり苔が付いきます






『Fontaine des deux canons  2門の大砲(2出水口)の噴水』
1532年
当初は繊細なヒトの頭部の彫刻だったらしい
それがいつしか蛇口に変わって
今の名になった




『Fontaine des Trois Ormeaux  3個のアワビの噴水』
1632年
皆様のご期待に背きますが
この噴水に「アワビ」はどこにもいません
作られた場所が「3個のアワビ通り」だったから
作った背景には歴史的な逸話があるが
長くなるので割愛



『Fontaine d'Espéluque  エスペリュックの噴水』
1618年



当時その場所にあった修道院の回廊の角に置く聖水盤として作られた
その後1750年に第三者に譲られて場所を変え
交通に邪魔にならぬよう
ローマ時代の壁際に設置された
引いてきた水の水源の所有者の名前が付けられたらしい




『Fontaine de l'Hotel du Valori  ヴァローリ館の噴水』
1750年
重要文化財
チーズで名高い「ロックフォール」の領主が建てた館
のちに
エックスの大司教となった息子が相続し
その後
ヴァローリ家に譲られた




『Fontaine des Augustins  オーギュスタンの噴水』
1620年
その200年後1820年に完全に作り変えられた
その際
プロヴァンス伯の宮殿(現裁判所)にあった
ローマ時代の円柱を使用し
天辺に12針のブロンズ製の星が乗せられた
重要文化財



『Fontaine des Bagniers  バニエールの噴水』
1687年
その後1758年に元の場所から数メートル移動された
最初は温泉水で温水だったが
水量が減少していたので地中に暗渠を掘って全て『苔むした噴水』に回し
移動の際に市が供給する普通水に変えられた
さらに1926年に
ルノワール製作になる『ポール・セザンヌ』の青銅製のレリーフが
オリジナルの装飾を失っていた壁面にはめ込まれた
重要文化財




『Fontaine des Pecheurs  漁師の噴水』
1758年 ジャン=パンクラス・シャテル作
バロックの装飾
「Place des Pecheurs 漁師の広場」にあるためこの名
重要文化財




『Fontaine des Quatre Dauphins  四頭のイルカの噴水』
1667年 彫刻家ジャン=クロード・ランボー作


バロックの傑作
「四頭のイルカ広場」にある
重要文化財




『Fontaine de l'Hôtel de Ville  市役所の噴水』
1756年
貯水槽は建築家ジョルジュ・ヴァロン
出水柱は彫刻家ジャン=パンクラス・シャテル
写っていないが上に立つ柱は
ローマ時代の遺跡に建つプロヴァンス伯の宮殿から
重要文化財




『Fontaine du cours Sextis / de Pascal  セクスティス広場の噴水』
「パスカルの噴水」
とも呼ばれる
1713年
もともと水源の水量が十分ではなく
異常気象の夏に住民への給水が不可能になった際に
新たにもっと深い井戸を掘り直し
噴水も作り直した
1833年
建築家リュウトー設計
彫刻家バイユ製作
重要文化財





『Fontaine d'Argent / de la Mule Noire  銀の噴水』
お金がとってもかかる噴水だったから
いつしかこう呼ばれるようになったとか
ミュール・ノワール通りにあるので別称「ミュール・ノワールの噴水」
1758年
全体設計はジョルジュ・ヴァロン


18世紀大流行していた「トルコ人」の顔の彫刻はシャテル
重要文化財




『Fontaine des Neuf Puits  新しい井戸の噴水』
「新しい井戸通り」と「ミニエ通り」の角
何も言われの伝わっていない
ただ古い噴水




『Fontaine de Boulegon  ブウルゴンの噴水』
1532年
「ブゥルゴン通り」にある




『Fontaine de Saint-Jean de Malte  マルタ騎士団十字の噴水』
起源は1759年
「マルタ島の聖ヨハネ教会」の前に設置
ヴァロン製作
その後1862年に壊して現在のものに作り替えられた
当時は2匹の「魔物」の口から水を出していた
マルタ島騎士団の十字架は確認できる
グラネ美術館の前




『Fontaine des tanneurs  鞣し革職人の噴水』
六本の通りが集まる広場
そのうちの一つが「鞣し革職人通り」
皮なめしの職人たちはその一角に集まって住んでいた
1761年
ジョルジュ・ヴァロン設計
陶器製の総帥パイプが水藻でつまり
行き交う馬車の振動でパイプが壊れ
1861年に改修
現在のデザインで作り直された
重要文化財


まだまだ有るがキリがないので
最後に
もう一度『クール・ミラボー』に戻って閉めよう



『Fontaine du Roi René  ルネ王の噴水』
1822年
「クール・ミラボー」の一番奥にある

ピエール・レヴォワル設計
ダヴィッド・ダンジェ彫刻
正方形の基礎石の二カ所から水を出す
王が立つ縦長の四角柱は白大理石

ルネ王生誕600周年を記念して
需要文化財協会が
2009年に大々的な修復工事を行った


フランス王家カペー王朝の権威に抵抗し続けた
ロワール河下流域の「アンジュー家」の殿様は
アンジューの首都「アンジェ」でも『Bon Roi René(善き王ルネ)』と呼ばれて
同じ様に愛され続けている
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 24 <エックス・アン・プロヴァンス といえば ポール・セザンヌ>

2020-12-11 00:03:33 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『サント・ヴィクトワール山』



『ポール・セザンヌ』
この「エックス」の街で生を受けた

そして
終盤この地に戻り
エックスで亡くなった


ロトンドの噴水広場のすぐ横
観光案内所の前に立つ『ポール・セザンヌ』

旧市街の歩道には
主だったゆかりの地に向かう道筋に


10cm四方ほどのブロンズのプレートが
埋め込まれている


こんな感じで


まず
彼の誕生から始めよう

セザンヌの生家のある建物

彼はこの家で生まれた
もちろんこの集合住宅の建物の中の両親のアパルトマンで
1839年1月19日

父親は有能な「 帽子」のセールスマンで
稼ぎを貯めて「クール・ミラボー」に自分の帽子店を開業

父親の帽子店のあった建物

商売はうまくいき
かなりの蓄財をしてエックスの街の銀行を一行買い取った

『セザンヌ・エ・カボッソル銀行』所在地(当時)

共同経営から
単独で銀行のオーナーとなる

セザンヌ銀行の当時の所在地

彼はリセ(中高学校)で
パリから来ていた一学年下の『エミール・ゾラ』と出会う
ゾラは生涯の友で良き助言者となった

『Lycée Mignet  ミニエ高校』

このリセは
17世紀ルイ14世の御代に創設された旧王室高等学校
名門校である

その後
ポールに銀行を継いで欲しかった父親は
息子を「エックス・アン・プロヴァンス大学」の法学部に行かせる

彼が籍を置いた法学部


石畳に
「旧法科大学 ここでセザンヌは学業を収めた」
という銘板がはめ込まれていた

しかし
絵を描くことに興味を覚えていたポールは
同時にデッサン学校にも通った

その頃父親は
街中の2軒のアパルトマン以外に
街のすぐ東に
くつろぐための農場屋敷を所有して
そこでも暮らしていた
『Bastide du Jas de la Bouffan  ブッファン農園』
Bastide も Jas も 街の外の農場屋敷をを意味する



若きポールは
家屋に何面かの壁画と父親の肖像画を描いている

『エヴェンヌマン紙を読む父の肖像』

この屋敷は
父親の死後ポールの意思に反して家族が売却しているため
中の壁画が現存するのかわからない
数年来修復工事で閉館中

この
旧市街から一歩外に出ただけの位置にある
いわば別荘のようなこの屋敷がポールは大好きだったらしく
エックスに戻った後も頻繁に滞在し
屋敷と庭園とを
多くの油彩画と水彩画に書き残している

彼は「法学部」に馴染めず悩んでいる頃
すでに実家のパリに帰っていた「エミール・ゾラ」による
何度もの手紙での励まし
「パリに出て絵を学ぶべき」との説得で大学を止め
パリに出る

そこからの複雑な画家としての歩みは今回は割愛させていただくが
若手からは尊敬を受けながらも
主流派である「アカデミー」の支持は受けられず失意の連続
年齢とともにパリの気候に馴染めなくなった彼は
結局
エックスに引き上げてきた

父親の遺産を相続して生活に困らなくなり
終盤の彼の制作活動のテンポは凄まじい

まず
自分のアトリエ用に家作を一軒構える

大好きな『サント・ヴィクトワール山』の方向へ街を出るあたりに
『Atelier des Lauves  アトリエ・デ・ローヴ』
と名付けられた
Lauve に四阿(あずまや)という意味がある


通りから小さな門をくぐるとすぐ建物
敷地は広大な雑木林になっており木々が邪魔して正面全景の写真は撮り様がない




玄関を入って入場料を払い二階に登ると
アトリエ


ポール・セザンヌ生前の状態を留める努力が
なされている
右の家具の引き出しは自由に開け閉めできて
中に
彼の直筆の書簡や出生証明書
当時の写真や新聞記事などが収められている


彼の静物画のモチーフでよく知られる
林檎やオレンジなどは月一くらいで取り替えている様だが
それ以外の展示品は
全部
生前の本人のもの






画家は人体描写の勉強のために「解剖学」を学ぶ
そして
頭蓋骨は聖書の絵画のモチーフにも使われるので
かなりの画家は所有していた


それを
そっくりそのまま描いている




このアトリエを出て
少し上り坂を行くと展望台がある


見張らせる遠方の村や『サント・ヴィクトワール山』を
描いた方向が示されている

そのまま街を出て
『La Route Cezannne  セザンヌ街道』
と呼ばれる街道を
例の赤いオークルの土壌の松の森を通り抜けながら東へ10kmばかり
20分ほど曲がりくねった道に車を走らせると
『Le Thoronet  ル・トロネ』という村がある

『Château du Tholonet  トロネ城』

この村にある美しい城は
現在『プロヴァンス運河会社』の本社機能が置かれている

南仏は
古代ローマ以来運河が発達していて
別の機会に触れることにしよう

道のすぐ脇に
いきなり風車小屋が現れる


現在は使われておらず羽根もないが
中を見学することができる

ここからさらに15分くらい行くと森や林が途絶えて
田園となる

そして
この「光景」が現れる

『Montagne Sainte-Victoire  サント・ヴィクトワール山』

もちろん
エックスの『アトリエ・ローヴ』近くの展望台からも遠景で見えるが
彼は
体調が良い時はここまでやってきては
色々な角度から
計20点ほどの油彩と無数の水彩画とを残した

『Montagne Ste Victoire vue du Carrieres de Bibemus 1897』

この絵は
『ル・トロネ村』からすぐ北側の
オークル採石場『Bibemus』から見た角度で描いたもの

その近くに『Château Noir  シャトー・ノワール』という
小さな古い城があり
それを含めた角度の絵も何点かある


そのシャトーを彼は買い取りたかったが
直前で他の人に飼われてしまった

この辺りで制作に励んでいる時は「ル・トロネ村」の旅籠に滞在した


その旅籠は今
『Auberge Cezanne  オーベルジュ・セザンヌ』と
名乗っている

この村には
セザンヌの頭部のレリーフを飾った石碑もある


そして
エックスのロトンドの噴水の広場近くにあったのと同じ
セザンヌの銅像が
もう一体置かれている



彼は
パリとその周辺での制作活動を打ち切り
1890年頃にはエックスに腰を据えて地元での制作に励み
パリの官展には出品しなくなって
中央の画壇には全く彼の情報は伝わらなくなってしまう

そして
1906年10月23日
この建物で生涯を閉じた







中央画壇で否定されていた印象派の制作意識
の光と色彩の表現を
正統的絵画手法として
世に受け入れられるきっかけを作り出し
さらには
それにこだわり続ける姿勢に反発して印象派の仲間たちとの行動をやめ
ルネッサンス時代以来のテーマに回帰しながら
平面と輪郭線の影響を追求し
その後の
ピカソやブラックの『キュービスム』を生むきっかけを作り出すまでになり

不条理主義からアウストラクトまで
20世紀西洋絵画のほとんどの流れに影響を与える仕事をした

「ポール・セザンヌ」がいなかったら
絵画史は違うものになっていたはずだと
言われている

『Cathedrale Sint-Sauveur  聖救世主大聖堂』
での葬儀で送られ
街の『サン・ピエール墓地』
眠っている





= = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 23 <いよいよプロヴァンスの首都 エックス・アン・プロヴァンス を訪れる>

2020-12-09 00:19:47 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『Fontaine de la Rotonde  ロトンドの噴水』


プロヴァンスの首都は
『Aix-en-Provence  エックス・アン・プロヴァンス』

その中心地への入り口にあたる広場が
ロトンドの噴水のある広場です

そこから
街で一番知名度が高い通り
『Cours Mirabeau  クール・ミラボー』
が始まる

『COURS』は
並木を伴う大通りの事を言います

ところでエックスの街は
別名「100の噴水の街」と言われます

このクール・ミラボーには
二つの苔むした噴水があります

噴水と訳しますが
「Fontaine』には泉とか湧水口
あるいは共同水場などの意味もあります

一つ目


ちゃんと水が流れ出ていますよね
これは昔からの湧き水を引いているのです

南仏の夏は強烈な暑さ
その時この噴水に手を浸すとひんやり冷たくて嬉しい

そして二番目


こちらは
水の出水具合がわかりにくいですが
何箇所かちょろちょろと水が垂れ下っている

また手を水に差し伸べると
なんと
ほのかに暖かい

実はこの地は
古代ローマ時代にアウグストゥスが好んで湯治に訪れて以来
湯治場として栄えた

ラテン語で水 AQUA と言いますが
そのアクアが鈍って
そのうち『Aix  エックス』という街名に
なりました

この噴水の水こそ
アウグストゥスが愛した温泉と同じ泉源からもたらされているのです

どちらも「苔むした」噴水ですが
この熱泉を特に
『Fontaine Moussus   苔むした泉』
と呼んでいます




この『クール・ミラボー』には
両側にお店やレストランやカフェが軒を連ね
エックスの市民にとって最も象徴的な場所なのです
日本人にとっての「銀座通り」
パリジャンにとっての「シャン・ゼリゼ大通り」

それらの中に
世界的に有名なカフェがあります
『Café des Deux Garçons  カフェ・デ・ドゥ・ギャルソン』


このカフェこそが
パリから故郷に帰ってきた『ポール・セザンヌ』が
入り浸った店だった


『カードをする二人の男』
このカフェでスケッチをした


ところで
ここ「エックス」のカテドラルにはとても大切な文化財が
残されています



正面屋根の上の大天使ミカエル像

この
『Cathédrale St Sauveur  聖救世主大聖堂』
の特徴の一つが
両面の壁で向き合う「二重連パイプオルガン」


もう一つが
「歴史的に重要な文化財」
なのです

古代ローマ崩壊以後
ゲルマンの諸族の跋扈で旧ローマ帝国領域が細分化し
文化が一挙に衰退してしまった西欧に
5世紀後半フランク族の王『クローヴィス』がローマ・カトリックに改宗して
『メロヴィング王朝』を立て
8世紀半ば
宰相(宮宰)ピピンによって『カロリング王朝』と変わり
旧西ローマ帝国の領土の大半を再統一し
次の王『シャルル』が
ローマ教会から『皇帝位』を授けられた事でローマ帝国の権威が再興
その
『神聖ローマ皇帝シャルル・マーニュ(カール大帝)』
ヨーロッパの基礎を打ち立てた

その頃の様式の『洗礼槽』が残っている

エックスのそれの起源はなんと6世紀



『シャルル・マーニュ(カール大帝)』
低地ドイツの地の湯治場を好み
『フランク王国』を打ち立てた際
最初の宮廷所在地(首都)となった『エックス・ラ・シャペル』
(独名アーヘン 蘭名アーケン)
に建てた宮廷大聖堂が
外側が円形で内側に八角形という形式


そちらは絢爛豪華だが
その起源がこの『エックス・アン・プロヴァンス』

まだこの頃の「洗礼」は
小さなプールに自ら浸かってなされた

八角形の槽
それを円柱が八角形に立てられて取り囲む形



この形式は
イタリアではルネッサンス時代まで受け継がれた


ミラノ大聖堂の地下
ロマネスク時代の洗礼槽の遺構



北イタリア
ピエモンテ地方のノヴァーラの例



フィレンツエ
名高き『花の大聖堂』の脇にある「大洗礼堂」は好例

この『エックスの聖救世主大聖堂』にはそのほか
地下祭室にも古い時代ロマネスクの頃の遺構が見られる


当時の祭壇とその背後の彫像とフレスコの名残



『聖ミートル』の「石棺」と
その上に「聖遺物」



壁面から四半ドーム天井のフレスコの名残


ここにも回廊がある


その
アーケードを支える二列柱が
何も装飾のないシンプルな円柱だったり
らせん模様だったり

門の太い柱は「ねじん棒』だったり



四角柱と円柱のペアだったり
多角柱と円柱の対だったり


シャピトー(柱頭)が無装飾だったり
組紐文様や人物の物語だったり



一箇所の門の太い柱の装飾には
「天国の鍵」を持つ
聖ペテロがいらっしゃった




大聖堂から外に出ると
広間の太陽は冬でも眩しい


カフェには人が鈴なり






中央に立つ像は
ロワール河下流域アンジューの大伯爵にして
プロヴァンス伯爵
その他
数々の王位爵位を併せ持った
『Bon Roi René  善き王ルネ』




旧市街は17世紀の家並みが続き


人気のない裏通りはとても良い感じ



旧大司教館は
今では『タピスリー博物館』になっている


最後に
エックスの誇る美術館をご紹介しよう
『Musée Granet  グラネ美術館』


地方都市の美術館にしては
規模も所蔵品も有数の見事さです






ただ
ご当地の美術館なので
『ポール・セザンヌ』の晩年の代表作
『Montagne Sainte Victoire  サント・ヴィクトワール山』
の連作のうち4点を所有しているのですが
ガラス越しで
光の反射と距離の不足とで
写真が撮れなかったのが心残りでした

『サント・ヴィクトワール山』に関しては
日を改めて別項目を立てようと思っています

最後に街のもう一つの名物もご紹介
15世紀半ばに期限が遡る「銘菓」です
『Calissons d'Aix-en-Provence (カリッソン)』


クール・ミラボーに店のある老舗『Léonard Parli』のもの

アーモンド・パウダーに
各種ドライ・フルーツを砕いたものと砂糖混ぜ込んで生地を作り
上を白砂糖でコーティングしたものです

1450年代の「ルネ王」の二度目の結婚の披露宴に出された
菓子だった

十字軍での中東との触れ合いが
ヨーロッパ人に「アーモンド」をもたらし
最後の十字軍主唱者ルイ9世と同時代のルネ王にとって
時期を得たな菓子だったはずです
その後は
地元の「ベネディクト派修道院」が細々と作り続けて
収入源にしていました

量産(と言っても手作りです)が可能になった19世紀から
カリッソン専門の菓子屋が登場

その最古参が
『Maison Bremond』


店の日よけに「1830年創業」と
誇らしげに謳ってます


店内も歴史を感じさせる雰囲気です

20世紀初頭には20数軒あったらしいカリッソン専門店も
今では8軒くらい
でも未だに
毎年9月の第一日曜日に『カリッソン祭り』が行われます
= = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 22 <紅蓮の炎に燃える村 ルシヨン を訪れる>

2020-12-07 00:37:47 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
土壌全体が赤い「オークル」のルシヨン一帯


『Massif du Luberon  リュベロン山塊』の一角には
赤い土壌の土地があります

日本画の絵の具である『泥絵の具』の
赤や黄色の原料を
「黄土」
と言います
フランス語で『オークル』
英語では「オーカー」

地中海沿岸地帯の土壌はオークルであることが多く
その土地その土地で色合いが微妙に違い
薄い「黄土色」から
真っ赤な「緋色」まで
様々です

そこで
地中海沿岸諸国は
家屋の外壁を
歴史的にその土地のオークルで塗ってきた

ギリシアなど
極端に夏の太陽が強烈な土地では
熱を遮断するために生石灰で白く塗るけれど


丸ごと真っ赤なオークルの丘にある
『ルシヨン村』は
結果として「真っ赤」なのです

丘の麓の方は
比較的新しく広がった新村域
それで
新しい建物も結構あって
家ごとに違う色のオークルを塗ったりしているものの


村の中で上に行くほど
赤くなる






しかも
下の方は3階建などもあるが





上に行くほど
家屋の背が低くなり
赤が心なしか濃くなっていく










そして
旧村域に入る「赤い門」を入ると


あとはもう
ただひたすら赤い

まず
今の門の内側が


あとは家屋の数がまばらになり
小さくなり
赤 赤 赤
となる




そして
丘のてっぺんは広い平らな草木の茂る空間

その端から
反対側を見晴らすと
ガイドブックで有名な光景が現れる


そして
さらにその先が


 世界に名高い光景の写真が
あなたにも写せます

真っ赤なオークル剥き出しの断崖

これぞ『ルシヨン』なのです

村の周りは


ほんの少し行くと
山林の中のあちこちに
オークルの剥き出しの「鉱脈」を見ることができます



こんなだったり


こんなだったり


またまた
こんなだったり


もっともっとあります



こんな
妙ちきりんな姿をしたのやら



一箇所で
何色もの「オークル」のヴァリエーションを
見ることのできるポイントです

当然
この辺りは
「オークル採掘・精製工場」もあって


採掘跡のトンネル

そこが運営する
『エコミュゼ』もあり子供達に人気です









いかがですか?

かの孫悟空が身を焦がした「火焔山」もかくや
と言わんがばかりの
『ルシヨン村』
一生に一度は訪れてみたいですよね



プロヴァンスは
もっと素敵なところが沢山あります
だから
このシリーズは
もっと続きます
お楽しみに
= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 20 <プロヴァンスの代名詞ラヴェンダー畑で名高い セナンク大修道院 と ボリーの村>

2020-12-02 00:00:02 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
セナンク大修道院


プロヴァンスには
三つの最重要な大修道院がある

『Abbaye de Sénanque  セナンク大修道院』
『Abbaye du Tholonet  ル・トロネ大修道院』
『Abbaye de Silvacane  シルヴァカンヌ大修道院』
です


まず今回
丘の村ゴルドのすぐ近くにある
「巻頭の写真」であまりにも世界的に名高い修道院をご紹介しよう
『Abbaye de Sénanque  セナンク大修道院』
です

街道が高地を通っていて
谷地にある修道院に近づくと下り坂になり
その途中から
全景が俯瞰できます


アップにするとこうなりますが


建物群の右側の
未だ緑の部分が紫色一色の時期に来れば
目を疑うような
この世のものと思えない美しさです



下り坂を下りきると
こんな感じで低地に到着


そして
この角度で近づいて行くことになります

あとは


訪問の季節
時間帯
天候
などによって

こう見えたり


こんなだったり


百変幻の光景です

このセナンク大修道院の教会は


『Abbaciale Notre Dame de Sénanque  ノートル・ダム大修道院聖堂』
という名前です

聖堂内部は


それなりに大きく


平面図上十字架形の交差部の天井が高く
左右に紐が垂れ下がっているのが
お分かりだろうか


この
交差部の屋根の上は「鐘楼」が有って
ミサの時に
修道僧がこのロープを引っ張って
鐘を撞くのです


修道院である以上
『回廊』が必ずあります


その四面の壁のうち
一面
内側の部屋に素通しになっている壁があり


その内側の部屋が
『Salle des Chapitres  運営会議の部屋』


週に一回
主だった修道僧が全員集まって
周りの三段のベンチに座り
前の週の反省と次の週の目標と
定めるのです


今の時代は
修道僧の数も限られて
半円形に並べた椅子で用が足りるそうですが

その回廊から上階に登れます


通常
上階には
「書庫」「写経の間」「宝物殿(聖遺物の間」
などと並んで
『大寝室』
があります


こんな階段もある


12世紀半ばに作られたこの修道院は
最も戒律の厳しい『Sistercien  シトー会』に属しているので
個室などはありません


天井の痛みが
胸を痛める


『大食堂』
今は見学者は入れません

なぜなら未だに現役の修道院だから
ですが
特別に


通常
この写真は撮ることはできません
(修道院から特別にいただきました)




言うまでもないことですが
ラヴェンダーが伸びていない時期に来ると
とても寂しい光景です


春の訪れとともに
ラヴェンダーも息を吹き返します


そして
6月半ばから7月一杯の一月半ほど


この『眼福』を
堪能できるのです


この後に併記を予定していた
『ボリーの村』
次回に回します
= = = = = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
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プロヴァンスを巡ろう 18 途中でちょっと気分転換 <水のプロヴァンス フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ と イル・シュー・ラ・ソルグ>

2020-11-27 00:26:19 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
ルネッサンス期の知の源泉『フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ』



今回は不思議な水源地をご紹介しようと思います
その名は「ヴォークリューズの泉」『フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ』

アヴィニヨンの北から北東に伸びる
『ヴァントウー山塊』の中
山だらけの土地に巨大な湧き水の洞窟がある

この場合の「泉」は
『水源地』
という意味です

冬場の最大水位

夏場は
源泉の水位が下がりほとんど溢れださなくなる

最低水位


途中から染み出す経路が他にいくつもあるので下流の流れは途切れない

ほんの少し水面が現れ始めた頃



そろそろ
洞窟から外に溢れ始める

最高水位になると
上の写真の右端の木が半分以上水没する


中規模水位


ほぼ最大水位

それが冬場になると
20m以上も水位が上がり
激しく溢れ出て様相が一変するのです

ここの水深は
数百メートルあると言われるが
正確には計測されていない

潜水夫が潜って事故が起こったこともあるそう


 水源地から流れ出した清水は
ソルグ川と呼ばれる

源泉以外の出水口の一つ




背後の岩山の上に城がある
アヴィニヨンの大司教(教皇ではない)の城



このような風光明媚な場所に
大詩人『ペトラルカ』が別宅を構えた


政変で故郷フレンツェで財産を失った
当時ペトラルコという名の公証人が
詩才を発揮して全欧に認められ

ローマ教皇ボニファティウス8世の特使
プロヴァンス伯でありナポリ王ロベール1世の寵を受け
ミラノ大公ヴィスコンティの特使
などの要職を歴任したのち

ローマ教皇がアヴィニヨンに法王庁を移すと
彼もアヴィニヨンに挙措定めた

最高権威者「ローマ教皇」の宮廷である法王庁には
全欧から
富と権力と文化が集中したのです

ただ
法王庁とヨーロッパ各国権力者とのは間で疲れ切り
ここ
ヴォークリューズに瀟洒な屋敷を購入し
従僕2名馬1頭
集めた膨大な書物
だけを持って引きこもる

その間に
架空の貴婦人『ラウラ』への全身全霊の愛を捧げる詩文を書き
友人『ダンテ・アリギエーリ』や
『ボッカチオ』が
訪れては
友好を深めた

ダンテは
この源泉池の水の噴き出す幻想的な光景に触発されて
『神曲』
を書いた


このような清流が
林の中を2キロほど流れると
地形が開けて村になる

途中に水車を使った製紙アトリエもあり
未だに観光用に稼働していたりする







水車の回転軸が


カムを通して槌を上下させる


その大小の槌が
古紙や布切れを水に浸した原料を砕き
何段階かの
同じ操作を経てドロドロにする


それで紙を漉く


その際に
南仏の花々の「花びら」を混ぜ込んだりもする

漉き終わって乾燥中

花びらを漉きこんだ
カラフルな手漉きの紙が出来上がる

村までくると



両岸にレストランが立ち並び



夏場は観光客があふれて


一躍
観光地の風情を高める



さらにその先に
何かの工場があり


あとは
林を抜け畑を横切り
鉄道も横切り




いくつかの村々を通り過ぎて
7〜8kmで
『イル・シュー・ラ・ソルグ』
という町に至る

※  ※  ※

『L'Isle-sur-la-Sorgue リル・シュー・ラ・ソルグ』
直訳して「ソルグ川の島」

その名の通り
川が二股に分かれて大きな中洲を挟んで流れる土地


町全体が『ソルグ川』で成り立っている
かのような町



かつては
製糸業や製粉業で成り立っていた


今は
骨董の専門業者が集まる町
として名高い


『Village des Antiquaires de la Gare  駅骨董店村』
とい一角には
『Quai de la gare  駅ホーム』
という名の40店舗ほどの塊りを始め
多くの骨董・古物商が集まっている




日曜日ごとに「骨董市」が
周辺の人々を呼び集める





さらに
毎年8月に60年の歴史を誇る
『リル・シュー・ラ・ソルグ国際蚤の市』
が催され
 町中が
世界中からのお客で溢れかえる

世界三大骨董市の一つと言われている







さらに
8月の第一日曜日は『舟市』
近隣の農家の作物である「野菜・果物」と
特に「花」
を売る船が河岸を賑わせる
これも60年の歴史がある












こうなると
もはや収拾がつかない大騒ぎ


そして
なんと川の中に


こんな
ユーモラスな飾りまでありました

普段は


こうなんですけどね


島の中に
狭い水路が通っていたりもします


水車も
一つや二つではございません







では
普段の静かな『リル・シュー・ラ・ソルグ』
に戻って






今回はおしまいにしましょう

プロヴァンスを巡るのは
まだまだ続きます
= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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皆様方のご意見ご感想をお待ちしています
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プロヴァンスを巡ろう 17 <アルル以東 アルピーユ山塊で最後に訪れるのは サロン・ド・プロヴァンス>

2020-11-25 00:11:35 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
Musée Grévin (グレヴァン蝋人形博物館)の外壁


「レ・ボー」から30km
やはりアルプスから流れてくる『デュランス川』のほとり
『サロン・ド・プロヴァンス』

ノストラダムスの終焉の地
として知られている

やはり
以前は城壁で囲まれていた中心部は
城壁を取り去った跡に通りがあり
城門はいくつか残っている

時計の門

旧城壁内は
16・17・18世紀の建物が綺麗に修復された
清潔で落ち着いた商店街になっていて




その中の
商店の少ない比較的静かな一角に
ノストラダムスの終(つい)の住処が記念館として
残されている


4階建ての家で
小さな中二階付きの生家と比べると
彼の社会での成功が想像できる


玄関口の右に
彼がここで最後過ごして亡くなったことが
明記してある


【この家で
『ミッシェル・ノストラダムス』
占星術師にして
国王担当医
『諸世紀』の著者
最後を生き ここで終いえる】

ここには書いてないが
宮廷での成功が周囲のやっかみを呼び
1547年には地元に帰り
この家を購入して19年ほどを過ごし
その間に
天恵を得て『諸世紀』を認めた

自分が見た「衝撃の未来のあまりの驚愕的内容」に
公にしたくない気持ちと
後世に残しておきたい気持ちとがせめぎあい
結局
一見具体的内容は感じられない4行詩120数編という韻文
を編纂し
リヨンの印刷行者に出版を委ねた

内容の正確な解釈は
未だなされていない


実は
建物の内部はあまり対して見るべきものあありません

多少の古い調度と人形などを使った
歴史的足跡の再現


一心に信頼を受けた
「王妃カトリーヌ・ド・メディシス」との情景が
何景かある



姓はラテン語綴りで『ノートルダム(我らが夫人=聖母マリア)』
名は『ミッシェル(大天使ミカエル)』
という錚々たる名前

ちなみに
息子の名は『セザール(カエサル)』

その
息子が書き残した『父ノストラダムス』の
肖像画が残っています



そのミッシェルは
この家で亡くなり

墓碑銘

彼の遺骸は
街の『サン・ローラン教会』に葬られ
この壁に封じ込められて
色違いの部分に墓碑の彫刻があったであろうと思われる




教会の全体像は
修復されすぎているものの
極めてシンプル
鐘楼と正面扉口のみ
古を忍ばせる



先ほどの『時計の門』から内側にまっすぐ入って
最初に出る小さな広場に
ノストラダムスのモダンな彫刻が飾られている





この不思議な彫像とは別に
昔の彫像も
ちゃんとあります


さらには

泉水にも


 巻頭の写真は
パリに本館があり各都市に支館を持つフランスの蝋人形館
『Musée Grévin  グレヴァン博物館』

ここにも
ノストラダムスのコーナーがあったが
残念ながら
閉館してしまったらしい


話変わって
南国は町のいたるところに噴水がある
イタリアもスペインも
思い思いの彫刻などの意匠を凝らして

ここ『サロン・ド・プロヴァンス』の市民にとっての街のシンボルは
『苔むした噴水』
なのです


実は
後日ご紹介する予定の
『エックス・アン・プロヴァンス』にも
シンボリックな苔の噴水があります

それから
この町のはもう一つ歴史的建造物があります
町に隣接する高台にそびえるお城
『Chateau de l'Emperi   シャトー・ド・ランペリ』


この町サロンの領主は
アルルの司教を兼ねており
夏の居城として10世紀頃からここの城を建てはじめ
13世紀頃まで増築していたらしい





だらに16世紀にルネッサンス期の増築もなされた


中は
ルイ16世時代から第一次大戦までの
フランス陸軍各部隊の
制服や制式サーベル
銃器の類
あらゆる兵器の展示がなされる
『Musée del'Epmeri』

特に
ナポレオン時代は
資料も多く
部隊ごとの美しい軍装は
戦争の現実を忘れさせられる

ただ
お城自体は
町の反対側から見た方がはるかに量感も美しさも
堪能できます



町の『サン・ミッシェル教会』に
カトリーヌ・ド・メディシスの末息子
シャルル9世に
『褒賞をもらうノストラダムス』
のレリーフが残っている



右側の
左手で杖をついているのがノストラダムス

小さな町で
アルルやアヴィニヨンみたいに見るものがたくさんあるわけではないが
静かで雰囲気の良い町だ




苔の噴水の周りのカフェは
昼も夜も市民で賑わっている





そして
市役所には『オキシタン』の旗が

プロヴァンスという国は
やっぱり
『オキシタン』なんだな





※  ※  ※

サロン・ド・プロヴァンスの町の郊外に
見事なお城があります
『Château de la Barben  シャトー・ド・ラ・バルバン』


マルセイユの『サン・ヴィクトール大修道院』所有の城で
紀元1000年頃の要塞を
代々拡張し

15世紀後半に
ギーズ公にしてロレーヌ伯
アンジュー公にしてプロヴァンス伯
ナポリ王にして
エルサレム王
そして
アラゴン王
であった
『Bon Roi René  善良王ルネ』
こと『ルネ1世』にゆ譲り渡され
その後
地元の有力領主の手に渡って500年間維持されてきた


このルネッサンス期の美しい階段が特に名高く


内部も見学できる
見せてもらえる数々の部屋は素晴らしい
のですが

しかし
もっと凄いことに

ここに
泊まれるのです


こんなお部屋に泊まって



こんなお部屋でお食事をいただいて



こんな雰囲気でお茶やお酒がいただける

大きな広間や
様々な空間があるので
披露宴
パーティー
コンサート
など
多目的に借りることができます

プロヴァンスを訪れるのは
実に多くの体験ができますよ
= = = = = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
「長すぎないか」「説明がくどすぎないか」「説明不足ではないか」「単なる案内書みたいじゃないか」
あれこれ悩んでおります
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プロヴァンスを巡ろう 16 <アルピーユ山塊の中で 生ける村と死せる村が共存する中世の村 レ・ボー>

2020-11-23 01:28:11 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『レ・ボー・ド・プロヴァンス』遠景


サン・レミーから10km南に下ると
この世の奇観
と呼ばれてきた場所がある
『Les Baux de Provance  レ・ボー・ド・プロヴァンス』
「Baux」
「美しい」
と一字違いの同じ音

カルスト高地の一山全体が
奇観


山肌の両側ともに切り立つ絶壁で
中腹に
未だに人が住み暮らす「生ける」中世のままの村があり
頂上に
中世の終わる頃打ち捨てられた「死せる」村が残る


駐車場からアクセスを進み


突き当りの建物と旗の間を抜けると
壊れていた(敢えて壊した?)古の建物の跡の空間が
村の入り口になっている

本来ここは村はずれで
ここから入れる様にはなっていなかった




村の中は
お土産屋と
カフェが並ぶ「人の住む」中世のままの村







この村も一つの小教区で
教会もある


『Eglise Saint-Vincent  聖ヴァンァン教会』

その側面の屋根の高さに
小さな丸い塔が乗っかっている


これは鐘楼ではなく
「野辺送りの火」を灯す塔なのです

先回『モーゾレ』でご紹介したように
この地方では
死者が出ると一定の期間
夜間に火を灯して葬った習慣が有った様です


それから
白衣の贖罪団礼拝堂というのも


重罪ではない軽微犯罪人が
白い貫頭衣に荒縄のベルトを腰に結んで
贖罪の巡礼を刑として言い渡されたことがありました

その時立ち寄る礼拝堂なのです


右が『サン・ヴァンサン教会」
左が「贖罪礼拝堂」


ところで


「生ける村」の端は100mはありそうな断崖絶壁
家並みの右の緑地は谷底です

その絶壁に
城壁の一部と城門が残っている


『Porte Eygières  エギエール門』


ここが
この村の主たる入り口(大手門)だった


レ・ボーは小さな村だが
「生ける村」の細い道を左右に寄り道しながら登っていくと


土産店やレストランが無くなって行き


やがて
岩盤をくりぬいて作られた『切り通し』の道になります


わかりにくいですが
左右が岩盤を削って作った道
突き当りでやや右に曲がると
関門がある

そこまでが
普通に人々が暮らす「生ける村」なのですが
そこから先は
「死せる村(ゴーストタウン)」となり
文化省の史跡なので有料となる

そこから先の
唯一の原型をとどめている建物が
礼拝堂


そこからは「廃墟」です
頂上の城の足元に家並みが集まって
まさしく「城下町」を形造っていました

15世紀頃の病院の後は
壁の基礎部分だけ残っていて50mx30mほどもあった

村はずれであった平らな場所に
中世戦国時代の「カタパルト(投石機)」などの複製が
飾られている


そして
いよいよ17世紀頃にペストの大流行のあと住民が去り
打ち捨てられた「死せる村」となる


この高さが
当時の村の地面で
右側の突出した岩の中をくりぬき
外側には切石を積んで騎士たちの館や
住民の住居が立ち並び
石畳の道路には側溝すら切ってあったのです


このように刳り貫いた岩盤の空間に
柱を立て梁を渡して
住居を作っていた


ここが
何階建ての建物であったか想像できるだろうか


岩山の天辺で町を創る
人間の英知には驚かされるものがありますね


天然の岩山の張り出しと
その下に
人工的に立てる建物との
支えの柱の作り方も見えている

その
頂上の上にさらに突出する岩塊の上が
お城の有った位置

途中まで登ると
城の真下の町の遺構が理解出来る


写真では不明瞭だが
幅1mほどの通りが曲がりくねって
その左右に家が建っていた
もちろん
天然の岩塊の中にも組み込まれて
通り自体も
岩盤を削りとって路面も側溝も一体構造で出来ているところすらある

その城だが



村の反対側の外の斜面からの光景よく見ると
右上の手すりが見える
そこが岩塊の頂上の高さ

この写真は
完全に全体の外側の斜面から撮ったっもので
村にいては
この光景は見えない

天守は
その頂上のえぐれているくぼみを利用して
半地下(二階か三階)
半地上(二階か三階立て)だったと思われる
地下の部分は
外側にはちゃんと窓があり採光に問題はなかったはず

それ以外の建物も
岩塊の長く伸びる先まで続いていた


この手摺りから左側は断崖絶壁で
250mもあろうか


この写真は内側(村側)から
天守より先(右側の部分)を見ている


こういう角度で見ると
いかに多くの建物がぎっしり集合的に建てられていたか
理解出来る


ここは
城跡の突出部とは違う
単一で高くなっているところの塔の跡だが
ここから「生ける村」を見下ろすと
屋根屋根が非常に美しい


こう
見えるのです

位置関係はこうなる


左端の突出部のすぐ右のくぼんでいるところが
「地面」の高さ
その右の高く右に伸びるところが城跡の頂上です


最後にとっておきの話題をご紹介しよう


これ
なんだかお分かりだろうか?

『Bauxite ボーキサイト』

 そして
これが「アルミニゥム」の原料なのです

19世紀になってすぐ
化学実験室で原子番号13を与えられた
新しい金属原子が人工生成され
『アルウム』
と名付けられ
その後
実際の金属が『アルミニゥム』となる

その直後
レ・ボー・ド・プロヴァンスの鉄鉱石鉱山で
その
アルミニゥム元素を含む鉱石が
発見された

その鉱石は
アルミニゥムを60%程も含有していた

世界で最初の
アルミニゥムの天然鉱石の発見が
レ・ボー
でなされたのです

それを記念して
「現場=サイト」という言葉を末尾につけた造語
『ボーキサイト』
が生まれました

私たちが現代に
飛行機や宇宙船
レーシングカーや iPhone などを手にしているのも
この発見がなされたから
と言っても過言ではありません
= = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 15 <古代ローマと ノストラダムスと ゴッホの サン・レミー・ド・プロヴァンス>

2020-11-20 00:55:26 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『サン・ポール・ド・モーゾレ修道院病院』正面進入路


モンマジュールから南南東の10kmほどで
『サン・レミー・ド・プロヴァンス』
という
小さな町がある

その町に所縁のある歴史的人物が二人
『ミッシェル・ノストラダムス』と『フィンセント・ファン・ゴッホ』

まず
一周車で6〜7分で足りそうな
かつて街を囲んでいた城壁の外の皮堀を埋めた道路から
ほんの3分内側に入った狭い路地にある
小さな家で
『ノストラダムス』の生家がある



二階部分の十字架型の支えの入った
埋められた窓のある建物で
1503年12月14日
彼はここで生を受けた

父親は公証人
ということはインテリ階級に属する中産階級の出
なぜなら
当時
庶民は石造りで十字架支え窓の建物を所有することは
庶民にはありえなかった



彼の誕生を記した名盤がはめてある

彼は
オキシタンの都会モンペリエの大学で医学を修め
人はまだ疫学的知識を持たなかった当時
患者の隔離と
手洗いと消毒の徹底を教えて
大流行していたペストからある町を救ったことすらある
優秀な医学者で
薬学者で天文学者で
詩人で
占星術師
であった

リヨンとパリと宮廷とで大活躍したのち故郷に帰り
ここから40kmほど離れた『サン・ポール・ド・プヴァンス』で没している

その町に関しては後日触れることにしましょう


今は無き城壁から外側方向に車で10分ほどで
ゴッホが入院加療を受けた『サン・ポール・ド・モーゾレ修道院病院』がある



巻頭の写真のアクセスで至る二番目の門

アルルの町の係りに半強制的に入院させられたゴッホは
永久に閉じ込められることを恐れて逃げ出し
20km離れた
ここ「精神病者の治療」で知られていた修道院の戸を
自ら叩いたのでした


修道院ですから
お約束の回廊もある


この周りの上の階に
彼はふた部屋を与えられた


病院で
王侯貴族以外に「個室」など発想すらなかった時代に
病院長を兼ねていた修道院長は
一部屋を病室として
更にもう一部屋制作室として与えて
院内を自由に歩き回って良いという許可とともに
彼を厚遇したのでした



こんな感じの個室であったろうという再現



入院患者の治療用の
ブリキの浴槽


上の写真の二番目の門の奥
突き当りが修道院の聖堂で入院患者の教会でもあった

そこから向かって左に病院の本棟がある


更に
進入路の左側はオリーブ畑で
そこも彼は何枚も描いている







更に
教会の裏側は時期によってラヴェンダー畑になる


当然そこも絵の対象となった




この『サン・レミー・ド・プロヴァンス』に関する作品の中で
もっともよく知られているものの一枚が
『星空のサン・レミー』ではないでしょうか



修道院のすぐ脇に
フィンセント・ファン・ゴッホの銅像が立っている

『Vincent van Gogh』Gabriel Sterk 

それから
サンレミーの要所要所の歩道の敷石に
ゴッホのサインの自体で
ブロンズのメタルがはめ込まれています


これは
彼にゆかりの他の街にも見られますし
『エックス・アン・プロヴァンス』の旧市街の歩道には
セザンヌのメダルがはめてあります


そして「修道院」からほんの5分車で走ると
不思議な湖西ローマの遺跡がある
『モーゾレ』
と言います

帝国に大きく貢献した将軍や皇帝が亡くなると
出身の町では
夜を徹して「野辺送りの火」を焚き続ける
その施設を
『モーゾレ』と言い

三段重ねの塔で
下段が正方形
中段は4面とも凱旋門型
上段は円柱で円形に囲んだ古代の円形神殿風
その中に
該当者の像絵を飾り
一定期間毎夜火を灯し続ける

文献などで古来よりその存在は知られていたものの
実物は失われて存在しないと思われていた
19世紀までは

それが
ここにあったのです


下段は
4面それぞれに
故人の武勲を讃える戦場の場面のレリーフ

その
すぐ横に「凱旋門」風の
一風変わった門もある


上部が欠損してしまっているが
これは
厳密には凱旋門ではない

なぜならば
凱旋門とは古代ローマの元老院が
移民を苦との戦に勝利して広大な新たな領土を帝国にもたらした
将軍や皇帝をローマの街に凱旋行進で迎える栄誉のために
造らせた門をいう

ここはローマではない

実は
この場所の街道をまたいだ反対側から先の方に
古代ローマ都市が埋まっているのです
『グラヌム』と言います

その
功績を称えられたローマの勇者とは
その『グラヌム』出身の双子の将軍であったらしい

従って
ローマの街以外にあるこの手の門は
『市門』と犬のだそうです



さて
せっかくなので
『グラヌム』遺跡にも立ち寄ってもましょうか


このグラヌムという街も
人口数万人の大都会であったそうです

ゲルマン民族の襲来の際に
市民たちは難を逃れて街を捨てて逃げ出した

その後
帰ってくるものがほとんどおらず廃墟となり
周囲のアルピーユ山塊から大量の土砂が流れ込んで
完全に埋まってしまったのだそう










実は
この遺跡は
見て回るにみ30分ほどあればよく
ほとんど大したものはありません

ただ
実際の街の規模は
現在見られる規模の50倍とか100倍とか言われています
発掘する
人でも資金も時間もない有様です



いかがでしょうか
アルピーユ山地の旅ももう少し続きます
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