ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 瞳をとじて (2023)

2024年02月19日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

劇中映画のタイトルは「別れのまなざし」だ。それはきっと別離を惜しむ哀しいまなざしだろう。その視線を受け入れて幕を下ろすように自ら瞳をとじたとき、その闇のなかに人は何をみるのだろか。終われずにいる者に向けたビクトル・エリセの自戒を込めた惜別の映画。

フランコ独裁体制下の1947年に舞台が設定された劇中映画「別れのまなざし」はクラシカルな風合いを湛えたフィルム撮影による作品だ。俳優のフリオ(ホセ・コロナド)が演じる男は志なかばで挫折した反体制活動家のようだ。その男に依頼事をする館の老主人もまた死期が迫るなか"未練"を抱えている。二人が微動だにせず対峙する執拗な切り返しカットの視覚吸引力に圧倒される。

一方、その未完成に終わった「別れのまなざし」の監督で今は地方で引退同然の生活を送っているミゲル(マノロ・ソロ)の2012年に設定された現代パートは当然のようにデジタル撮影だ。その(もうすっかり見慣れてしまったが)どこかギザギザした硬質な映像が、いっそう「別れのまなざし」の映画的風格を引き立てる。そんな画質のギャップにも、私はエリセの計算された企みを感じてしまった。

過去のこととして(あえて忘れていたのかもしれない)フリオの存在(行方)をめぐるミゲルの現代パートのエピソードは、まるで「瞳をとじる」ようにフェードアウトしなが次々にスクリーンの闇のなかに消えていく。それはエリセの周りを過ぎて行った時間への敬意(あるいは経緯への無念)であり、今も残るやり残した「映画」への思いの清算なのだろうか。

最終盤、デジタルの物語は映画館の闇を媒介に時空を超えるようにフィルムの物語へと昇華される。そこで繰り広げられる「惜別のクライマックス」の文字通り"息詰まる"ような映画的な美しさに息を呑む。圧巻でした。

(2月18日/ヒューマントラスト渋谷)

★★★★★

 

【あらすじ】
すでに映画界を離れていた初老の監督ミゲル(マノロ・ソロ)は、22年前に自作の撮影中に失踪し、いまだに行方が分からない主演俳優フリオ(ホセ・コロナード)をめぐるTVドキュメンタリーへの出演依頼を受けていた。映画はフリオが演じる探偵が老齢の資産家(ホセ・マリア・ポウ)から中国人を母に持つ娘の捜索を依頼される物語だったが、撮影は冒頭と結末部分だけ撮影されたまま未完に終わっていいた。この番組出演をきっかけにミゲルのなかで止まっていた時が動き始め、当時の記憶をたどり始めるのだった。そんななかミゲルはフリオの娘アナ(アナ・トレント)と再会する。ビクトル・エリセの長編としては31年ぶりの監督作。(169分)


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