原爆の核分裂反応が引き金となって大気の燃焼連鎖が起こり、地球の大気がすべて燃え尽き「世界」が消滅してしまう可能性。科学者にとっては「near-zero」(ほぼ無い)のはずだったそんな現象は、政治的にはゼロどころではなく必然だった「世界」を今、私たちが生きているということ。
科学者と為政者の欲望が期せずして一致してしまった悲劇。トルーマンはオッペンハイマーを前にして言う。歴史に名を残すのは原爆を開発した者ではなく、それを使用した者なのだと。そして原爆の開発以降、80年経とうとする今も「世界」は核兵器を手放すことが出来ずにいる。
自らのスパイ容疑を査問する聴聞会で、成すすべなく部屋のすみに座るオッペンハイマーの虚ろな目が印象的だ。その目は死んでいる。彼には研究者の実績や栄誉を汚されることに対する怒りや反論する気力など微塵もない。オッペンハイマーは自身の科学的欲望が起爆剤となって、為政者の政治的欲望の無限連鎖を引き起こし「世界」を終わらせてしまったことに気づいている。
あの目は絶望のすえの虚無の目だ。その虚ろなオッペンハイマーの目(心情)に重ねられたクリストファー・ノーランの今の「世界」への諦観をみた気がした。ノーランの関心は、いわゆる市民レベルの「人」ではなく、人が属している現状(世界)そのものにあるのだろう。だから私は本作のどこにも反核のメッセージなど感じなった。あるのはむしろ遅々として進まない核の廃絶への諦念であり、今の「世界」への絶望だと感じた。
冒頭に、天上の火を盗んで人間に与えた罪で、永遠に罰せられ続けられるプロメテウスの神話が紹介される。20世紀のプロメテウスは誰なのか。それはオッペンハイマーであり、トルーマンであり、核兵器保有国家であり、ノーラン自身であり、私(たち)なのだと、ノーランは言っている。
だから・・・余談ですが、広島や長崎の惨状が描かれていないという批判に対して、いや水爆開発に反対したオッペンハイマーの自省に反核・反戦の意が込めらえているのですという言い訳(詭弁)に意味はなく、広島や長崎やビキニの映画は私たち被爆体験(を親身に知る)者にしか作ることはできなし、作り続けるべきことなのだと思います。
(4月16日/TOHOシネマズ南大沢)
★★★★