11月29日(日)オッコ・カム指揮 フィンランド・ラハティ交響楽団
~生誕150年記念 シベリウス交響曲サイクル 3~
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
1.シベリウス/交響曲第5番変ホ長調 Op.82
2.シベリウス/交響曲第6番ニ短調 Op.104
3.シベリウス/交響曲第7番ハ長調 Op.105
【アンコール】
1. シベリウス/アンダンテ・フェスティーヴォ
2. シベリウス/ある情景のための音楽
3. シベリウス/交響詩「フィンランディア」Op.26
シベリウス生誕150年の今年はシベリウスをたくさん聴こうと思っていた。シベリウスをやる演奏会はよく行われていたが、記念年ならではの企画や、珍しいプログラムがあまりなかった気がする。結局、シベリウスがメインの演奏会へ足を運ぶのは、今日の演奏会だけになりそうだ。指揮のオッコ・カムと言えば、はるか昔の学生時代、1982年に聴いたヘルシンキ・フィルの演奏会の感動が今でも深く心に刻まれている。感動を「音友」の読者のページに投稿して載せてもらったほど。今日はその時に聴いた第5シンフォニーもやるし、自分にはあまり馴染みのない6番と7番も楽しみ。
まずは第5。ここでとても印象的だったのは弦。ふくよかで温もりがあり、湿り気も感じる音色は、他のオーケストラとは確実に異なる個性がある。音色だけでなく、溜めやアクセントといった節回し、表情に民族的と言えるようなクセがあり、特徴のある音色と語り口が、実際には見たことのないフィンランドの深い森の風景を想像させた。それは写真や映像のようなバーチャルなものではなく、実際に森の中に佇み、風や、光や、木の脂や苔むす匂いまで感じているようなリアリティに満ちた感覚だ。そこに加わる金管楽器は武骨なほどに自然の声を体現し、全体が生命力に満ちた森の鼓動を奏でているようだった。
第6番では、弦が5番のときとはまた異なる音色や表情を聴かせた。高音域で多声部に分かれた響きは、実に声楽的な柔らかさと温もりがある。ワーグナーのローエングリン前奏曲のような透明で神々しい世界に通じるものがあるが、超越した異次元の世界というよりも、より親密で人の呼吸が感じられる。これはカム指揮ラハティ響ならではの味わいではないだろうか。やがて音楽はウキウキと息づき、キラキラと輝く。この曲からも自然の息吹そのものが伝わってきた。
最後に演奏されたシベリウス最後の交響曲。これは大規模な単一楽章によるシンフォニーだが、それまでに演奏された第5や第6、更にはシベリウスのそれまでの作品の集大成のように様々な要素が動員され、しかも洗練され研ぎ澄まされた、純度の高いスピリチュアルな世界を実現していると感じた。
カム/ラハティ響は、作品の輪郭を骨太に大きく捉えながら、細部では細やかな筆致で多彩な表情を描いて行く。そこから連想するのがやはり森の情景だ。梢が芽吹き、鳥がさえずり、動物たちが命を繋ぐ… 深い森の中で起こる様々な生命の営みが、それぞれの息遣い、それぞれの律動、それぞれの表情で謳歌している。「命の饗宴」のただ中に居合わせているような感覚に胸が高鳴る。これこそ「交響曲」の名に相応しい音の世界だ。終盤に差しかかるところで出てくるトロンボーンによるコラール風の調べは、それらを司っている神様が天上から降りて来たように鳴り響き、眩いばかりの神々しさの中に身も心も幸福感で満たされた。すごい音楽、そしてすごい演奏だった。
こんなすごい演奏の後はアンコールなしでもいいぐらいだったが、3曲もやってくれ、しかも3曲目は「フィンランディア」!33年前にカム/ヘルシンキ・フィルが最初に演奏した曲。これがまた骨太、情熱的、飛びきりの爆演で、33年前の衝撃が甦った。会場は最高潮に達し、スタンディングオベーションでカムと団員を見送ったあとも拍手は鳴り止まず「一般参賀」となった。ここでカムは独り喝采を浴びるのではなく、楽員達も全員ステージに呼び戻し、ステージと客席は完全に一体となった。
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【曲目】
1.シベリウス/交響曲第5番変ホ長調 Op.82
2.シベリウス/交響曲第6番ニ短調 Op.104
3.シベリウス/交響曲第7番ハ長調 Op.105
【アンコール】
1. シベリウス/アンダンテ・フェスティーヴォ
2. シベリウス/ある情景のための音楽
3. シベリウス/交響詩「フィンランディア」Op.26
シベリウス生誕150年の今年はシベリウスをたくさん聴こうと思っていた。シベリウスをやる演奏会はよく行われていたが、記念年ならではの企画や、珍しいプログラムがあまりなかった気がする。結局、シベリウスがメインの演奏会へ足を運ぶのは、今日の演奏会だけになりそうだ。指揮のオッコ・カムと言えば、はるか昔の学生時代、1982年に聴いたヘルシンキ・フィルの演奏会の感動が今でも深く心に刻まれている。感動を「音友」の読者のページに投稿して載せてもらったほど。今日はその時に聴いた第5シンフォニーもやるし、自分にはあまり馴染みのない6番と7番も楽しみ。
まずは第5。ここでとても印象的だったのは弦。ふくよかで温もりがあり、湿り気も感じる音色は、他のオーケストラとは確実に異なる個性がある。音色だけでなく、溜めやアクセントといった節回し、表情に民族的と言えるようなクセがあり、特徴のある音色と語り口が、実際には見たことのないフィンランドの深い森の風景を想像させた。それは写真や映像のようなバーチャルなものではなく、実際に森の中に佇み、風や、光や、木の脂や苔むす匂いまで感じているようなリアリティに満ちた感覚だ。そこに加わる金管楽器は武骨なほどに自然の声を体現し、全体が生命力に満ちた森の鼓動を奏でているようだった。
第6番では、弦が5番のときとはまた異なる音色や表情を聴かせた。高音域で多声部に分かれた響きは、実に声楽的な柔らかさと温もりがある。ワーグナーのローエングリン前奏曲のような透明で神々しい世界に通じるものがあるが、超越した異次元の世界というよりも、より親密で人の呼吸が感じられる。これはカム指揮ラハティ響ならではの味わいではないだろうか。やがて音楽はウキウキと息づき、キラキラと輝く。この曲からも自然の息吹そのものが伝わってきた。
最後に演奏されたシベリウス最後の交響曲。これは大規模な単一楽章によるシンフォニーだが、それまでに演奏された第5や第6、更にはシベリウスのそれまでの作品の集大成のように様々な要素が動員され、しかも洗練され研ぎ澄まされた、純度の高いスピリチュアルな世界を実現していると感じた。
カム/ラハティ響は、作品の輪郭を骨太に大きく捉えながら、細部では細やかな筆致で多彩な表情を描いて行く。そこから連想するのがやはり森の情景だ。梢が芽吹き、鳥がさえずり、動物たちが命を繋ぐ… 深い森の中で起こる様々な生命の営みが、それぞれの息遣い、それぞれの律動、それぞれの表情で謳歌している。「命の饗宴」のただ中に居合わせているような感覚に胸が高鳴る。これこそ「交響曲」の名に相応しい音の世界だ。終盤に差しかかるところで出てくるトロンボーンによるコラール風の調べは、それらを司っている神様が天上から降りて来たように鳴り響き、眩いばかりの神々しさの中に身も心も幸福感で満たされた。すごい音楽、そしてすごい演奏だった。
こんなすごい演奏の後はアンコールなしでもいいぐらいだったが、3曲もやってくれ、しかも3曲目は「フィンランディア」!33年前にカム/ヘルシンキ・フィルが最初に演奏した曲。これがまた骨太、情熱的、飛びきりの爆演で、33年前の衝撃が甦った。会場は最高潮に達し、スタンディングオベーションでカムと団員を見送ったあとも拍手は鳴り止まず「一般参賀」となった。ここでカムは独り喝采を浴びるのではなく、楽員達も全員ステージに呼び戻し、ステージと客席は完全に一体となった。
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