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『 私の人生 』と題して、私自身の事、両親や身近な偉人の事や、オススメの曲の紹介など書いたりしています。

私の人生 16  

2019年05月28日 19時05分00秒 | 日記
5月28日(火)

いつも ブログをご覧いただき ありがとうございます。
昨日は 71名の方が 閲覧くださいました。
71名の方が 応援してくださっていると 嬉しいのですが、
恐らく 一部の方々は 冷ややかな負の視点でご覧いただいているのではと思われます。
とっても残念です。 心痛めています。

でも でも
私が少しでも元気になって・・・という 愛あるお声も聞こえてきます。

「私たちは 生かされているのよ。
生かされて生きるとは 愛することなの!」って 母がよく言っています。

今日は、私の曾祖母の弟 新村出 について記したいと思います。
母から聞いた話ですが、母は、言葉の意味が分からないと「新村のおじさんに聞いてごらん」と言われ 広辞苑をよく開いて調べていたそうです。

父方の祖父も、母がお嫁に来て すぐに 広辞苑を買い求め、自慢していたそうです。

ブログをご覧の皆様のご家庭にも、きっと 広辞苑(電子辞書?)をお持ちかと思います。

下記は、Wikipedia からのコピーです。

旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前に生まれる。
「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。

1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は慶喜家で子弟の家庭教師も務めていた。

1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。





新村出も、愛ある人だったそうです。
祖父母が、新村家を訪ねた時も、玄関外まで見送り、恐縮するくらい深々と頭を下げられたそうです。

あの出来事があってから、テレビを観る気力さえも無くなってしまいましたが、母の影響で『東大王』というテレビ番組が好きになりました。
しかし最近はテレビであまり放送されない為 You Tube で 母とよく観ています。
超難問クイズで よく 広辞苑が出てきます。
やはり 広辞苑 って すごいな! と、私の曾祖母の弟の新村出の偉大さを再確認してしまいます。




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