浅草溜の牢内で、嘉右衛門は文字どおり易によって奇跡的に命を救われる体験をする。牢破りの相談をもちかけられ、断ったために恨みを員い、狭い牢内に血で血を洗う地獄絵図が展開されたことがあったのである。破牢の相談を受けたとき、嘉右衛門は「天沢履」が「水風井」に変化するという卦を得た。「天沢履」は、『易経』に「虎の尾を履むも人をくらわず」とあるように、どう猛な虎の尾を踏むような危険が身に迫るが、その虎に食われることはない、つまり危地を脱するという卦である。その方法なり方向が、次の「水風井」に示されているのだろうが、井戸を意味するこの卦が何を暗示しているのか、嘉右衛門にはわからなかった。
そうこうしているうちに、ついに牢破りの日がきた。事前に牢番を買収して入手した「蟹」(牢内の隠語で鋏のこと)から手槍・ヒ首などの得物をつくっておいた破牢首謀者らが、文久2年(1862)8月18日夜の四ツ時(夜10時ごろ)、新米の入牢者が牢に入る機会をついて一気に役人を3人突き殺し、そのまま破牢に打ってでたのである。
牢側はただちに鐘を乱打し、警護勤番に当たっていた六郷・加藤両藩士らが駆けつけて、渦中の二番牢を取り囲んだ。そのため、牢からでるにでられなくなった破牢者たちは、網行燈の弱い光がぼんやり照らすだけの薄暗く狭い牢内で、邪鬼にでも憑かれたように荒れ狂い、パニックに陥った囚人同士の血で血を洗う修羅場が展開された。
このときの嘉右衛門の行動を、嘉右衛門自身の言葉から引いてみよう。「熱狂せる彼ら(脱獄一味)は自殺を図るに先立ち、平生、名主の圧制を蒙れる鬱憤を晴らさむと一目散にこれ(名主)を突き殺し、次ぎて一味に加わらざりし怨みをふくめる彼らは、余(嘉右衛門)を目がけて打ってかかりたり。余はあらかじめ用意せる棍棒をもって立ち向かい必死となりて防戦したるも、先方は多勢にて我は一人なるが上に、棍棒にて刃物に打ち向かいしことなれば、勢いあたかも狼群中の孤羊に異ならず、ついに右の二の腕に切り込まれしが上に、鼻を衝かれたりL(『自叙伝』)
まさに絶体絶命、死が鼻先のその鼻先まで迫ったまさにそのとき、嘉右衛門に、ある天啓が閃く。「余は……暗中に模索し、名主畳と唱うる十五、六畳積み重ねたる畳の上に飛び乗り、さらに打揚天井に手を掛けて道成寺と称するザルの中に飛び込み、その中にありたる衣類を投げ出して、辛くもその内に身を潜むることを得たり」 当時の劣悪な牢獄環境では、衣服は湿気によってじきにかびが生える。そこで、湿気防止のためにザルに衣服(私服)を入れ、紐で天井から吊り下げておくのを原則とした。その姿が、歌舞伎の『道成寺』で上げ下げする鐘と同じようだというので、牢内の隠語でザルを「道成寺」と呼んだのだが、嘉右衡門はそのザルに飛び込んで難を避けた。
下で殺し合った囚人はほぼ全員が死亡し、死者は100人以上にのぼったという。嘉右衛門が腕と鼻を切られただけで助かったのは、まさに奇跡としかいいようがなかったのである。このとき嘉右衡門が無意識的にとった行勲、それはまさしく先に示された易の啓示どおりの行動にほかならなかった。絶本絶命の危地に陥り、嘉右衛門は「虎の尾を踏んだ」。しかし、最後の最後で、衣服を上げ下げするザルに入って助かったわけだが、この旅は井戸水を汲み上げるツルベにほかならない。嘉右衛門は「天沢履」の危地を、まさに井戸を意味する「水風井」によって脱したのである。
次回へ続く
●「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」 より抜粋
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