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易聖 「高島嘉右衛門」物語 ③

●囚人生活が、易開眼の修行期間

高島嘉右衛門の名占の数々は、彼の大著『高島易断』に詳しく紹介されている。嘉右衛門にとって、未来はすべて卦の上に投影されていたといっても過言ではない。が、彼はもともと易によって生計を立てる売ト者ではなかったし、易一本に専念するようになってからも、字義どおりの売ト者だったためしはなかった。「ト占は不売(占いは売らない)」である。金銀の謝礼を受けず、困っている者に親切に教示してこそ、はじめて神官の名に値する」

明治18年、請われて皇典講究所で行った「神道実用論」と題する講演の中で、嘉右衛門はこう語っている。それはまた、易を「神と人をつなぐ電信機」と見、「占告神示説」(卦を神のお告げとする説)の立場を貫き通した嘉右衛門の、生涯変わることのない信念でもあった。

易聖・高島嘉右衛門は、どのようにして生まれたのか。次に、彼の半生を駆け足で追っておくことにしたい。高島嘉右衛門、幼名・清三郎は、天保3年(1832)11月3日、江戸京橋で生まれた。父は土木建築請負を営む遠州屋嘉兵衛。商人にしておくのは惜しいと評判の、きわめて度量の大きな男であった。この父のもとで、嘉右衛門は商人としての修行を積んだ。4歳ころまではひとりで歩行もできないほど虚弱だったという嘉右衛門だが、記憶力は抜群で、3度声をだして通読すれば文章はほとんど記憶できたという。

父の嘉兵衛は義侠心に富み、利益にならないとわかっていても「それが人助けになるなら」とひと肌脱いでしまうような男だったから、南部藩の懇願を入れて鉱山開発に乗りだし、大きく家産を傾けた。加えて娘婿の放蕩で遠州屋は膨大な借金を背負い込み、それが19歳で家督を継いだ嘉右衛門の肩に、どっとのしかかってきた。この借金返済の際の嘉右衛門の獅子奮迅の働きぶりは、それだけで一編のドラマになるが、それを紹介しているいとまがない。父親譲りの胆力や誠実な人柄に加え、父の代から懇意にしていた南部藩や佐賀鍋島藩のひいきもあって、嘉右衛門は20代半ばには押しも押されもせぬ身代を築きあげた。しかし波欄に満ちた彼の人生の幕は、まだようやく上がったばかりであった。

一大転機は29歳のときに訪れる。
この年、嘉右衛門は横浜居留の外国人に小判を売り、銀で支払いを受けて利ざやを稼いだ罪で伝馬町の牢につながれた。今日でいう外為法違反だが、これは当時目先のきく商人ならだれもがやっている商法ではあった。幕府の屋台骨が完全にきしみだした万延元年(1860)に入牢した嘉右衛門は、翌年には浅草溜の牢に移され、その後、佃島への流刑といった具合に刑地を変えながら、長い囚人生活に入る。当時の囚人の生活は悲惨をきわめた。ろくに食物がないのは当然としても、口減らしのための牢内リンチは日常のことであり、病死者やリンチによる死者を横目に見ながら、明日はわが身かと恐れおののく毎日が数年続いた。

が、この囚人生活は嘉右衛門にとっては人生最大の試練であると同時に、易に開眼するための恰好の修行期間ともなった。たまたま伝馬町の牢内に残されていた『易経』が、彼の魂の唯一の慰めとなった。それまで易を知らなかったわけではない。しかし商人として寝食を忘れて仕事に没頭してきた嘉右衛門に、じっくり易に取り組む時間はなかった。その時間が、今ならいくらでもある。嘉右衛門はひたすら『易経』を読み耽った。文章は残らず頭に刻み込まれた。さらに彼は、こよりで笠竹をつくり、牢名主などの求めに応じては易を立て、彼らの過去を占った。楽しみのない牢内で、これは名主クラスの囚人の慰みになった。この特技が嘉右衛門を獄死から救ったのである。

次回へ続く



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不二 龍彦
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