ぺるちえ覚書

兎追いしかの山… 懐かしい古里の思い出や家族のこと、日々の感想を、和文と仏文で綴ります。

天界の魂

2021-03-14 01:03:03 | 日記/覚え書き

夫の親友の息子さんが亡くなった。留学先のプラハで明け方に星を見ようと友達4〜5人と上った5階建てのアパートの屋根から、手から滑ったライターを取ろうとして落ちてしまったと言う。19歳だった。


お父さんに似て感受性豊かで繊細で、少年の頃から優しく物静かな微笑みが印象的なスラッと背の高い美しい青年でした。


夭折という言葉がある。語源が知りたくなって広辞苑を見ると「年が若くて死ぬこと。わかじに。夭逝。夭死。」とだけある。そこで字統で夭を引いてみる。*「夭 : ヨウ(エウ) 。くねらす、わかい、わざわい。形象: 人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。(中略) 若い巫女が身をくねらせながら舞い祈る形で、両手をあげ髪をふり乱している形は芺で笑の初文。その前に祝祷を収める器である口(サイ)をおく形は若。いずれも若い巫女のなすことであるから、夭若の意がある。それで若死を夭折、夭逝という。(中略) ソク(頭を傾けて舞う人の形)が祝祷を収めた器の口(サイ)を奉じて舞う形は呉で、娯の初文。神を娯しませることをいう。笑もまた神を娯しませることであり、神楽の古い形式は『笑いえらぐ』ことであった。」とのこと。若い巫女が神さまに祈り舞う姿、夭という一字に秘められた意味を知り、大いに腑に落ちる。


学生時代に好きでよく読んだ作家 三島由紀夫は「夭逝に憧れていた」と、どこかで読んだことがある。澁澤龍彦だったかも知れない。天才は夭逝するものだから、と。それで彼はあのような死に方になったのか知ら? でもあれは夭逝ではなかったけれど。


実は夭折とは、神さまの目を盗んで天界からここ人間界に遊びに来ていた純真無垢の無邪気な魂が、遊んでいる途中で神さまに見つかってしまい、「いいから早く帰っておいで」と呼び戻されてしまう事なのではないか? 


きっとそうに違いない。


そうとは知らずに彼らの受け入れ先となっていた家族や友人達は、まだこれからという彼らの天への突然の呼び戻しにただ呆然となり、意味もわからないまま早すぎるお別れを強要される。残された私たちに「呼び戻し拒否」の選択肢は与えられていないから。どのように引きとめようとしてもかぐや姫が月に帰ってしまったように。


全て今だけの神さまからの預かりものだったことを思い出す。


かぐや姫と違い、私たちはどんなに悲しくても愛しい彼らと過ごした時間を忘れない。彼らは私たちの魂に深く刻み込まれて心の中で生き続ける。ずっと一緒に。


「彼ら」の思い出は「私」がいなくなった後も、今度は「私」と共に過ごした時を忘れずに覚え続けてくれる別の誰かの記憶のどこかに、「私」の思い出と共にこっそり刻み込まれはしないだろうか? 沈黙したまま引き継がれてゆく隠れた遺伝子のように、ひとつひとつ鎖の輪が繋がれていくように、人が出会い慈しみあう限り、いつまでも。


当たりまえに過ごしている愛しい人達との今をもっと大切に生きなきゃと思う。もったいない毎日を過ごしている。


ほんの束の間でも下界に降りて来た天界の魂たちへ感謝を捧げます。


皆さま、どうぞご自愛ください。



*新訂 字統 [普及版]著作者-白川静 出版-平凡社 2007年より


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。