団塊団子

団塊世代の暇潰し冗談 ぼやき と たわごと

ラスコーリニコフ

2013年06月24日 20時10分54秒 | 女と男の


性犯罪は犯罪ではない、
などという考えが 一般的に通用する訳のないことは明らかで、
刑法第177条(強姦罪=暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫)や
刑法第176条(強制わいせつ)や
条例に明示されているとおり
犯罪構成要件に該当するでしょう。
性犯罪は犯罪ではない、
というのは実社会を超越したレベルでの話しということです。

生&性の欲求に基づく行動は犯罪ではない、
というのが、 ここでの考え方の基本にある訳です。

あらゆる生き物、・・・
細菌や植物も含めて良いが、 含めると
話しが輻輳するから迷惑かも知れないし、
先ずは動物という理解でいけば、 あらゆる動物たちが、
今現在この世界に生存していられるのは、
雄と雌との生&性の営みがあった結果であり、
性欲の命ずる所に従って 本能的に行動したことの結果なのです。
生&性の欲求に基づく行動を否定しようというのは、
生物である自らの存在をも否定しかねない
愚かな考えであると言えるのです。

性犯罪と呼ばれる行動であっても、
理性では抑制の効かない性欲の命ずるまま前後の見境も無く、
衝動的に行動を起こしてしまった結果であって、
その原因は生物の生物たる所以に在るのです。
性犯罪の誘因となる性欲は悪で、
性欲を抑制出来ないものは悪者であるなどと、
いったい人間に言う権利が有るのでしょうか?

人間の進化を辿れば、
旧い脳の上にそれをコントロールする新しい脳が
覆い被さり肉体を間接的に支配するという、
複合的構造が見えて来るのです。
人間は他の動物とは異なる崇高な存在である、
という立場と、
人間は他の動物と同じけだものなのだ、
という立場の根本的な違いがあるのです。

動物が犯罪を犯すことは有りませんし、
犯罪とは大脳新皮質&前頭葉の仕業、
子育ては?
強姦の子は生まれるか?
生(性)の営みが有ればこその結果なのだという事は分かると思います。

何故、このようなたわ言、戯れ言を言うのかといえば、
それは、現代文明社会の危うさに気が付いてほしいからなのです。

非凡人は、あらゆる犯罪を行い、
かってに法律をふみこえる権利をもっている。
歴史上の偉人たちは、みな法を犯し
血を流した犯罪者であったのです。
ラスコーリニコフが
「ぼくはナポレオンになろうと思った、
だから殺したんだ」
と言ったように、この世に実現可能な事象は、
殺人も強盗も性犯罪も痴漢もセクハラも、
何もかも実行可能なのです。
可能だからと言ってそれが
凡人に許される訳はありません。
他人を殺せば自分も殺されます。
自らの行動の結果に対して自ら責任を負う、
という前提でのみそれは許されるのです。

責任を負う能力の無いもの


刑法とは人権を拘束する法であり、
人を罰する法であって、
刑法にはどういう行為をすれば犯罪になるかが示されていて、
正当防衛の場合は犯罪にならないし、
当人に責任がない場合には、犯罪は成立しないのです。
犯罪は人間社会の必然であり、
犯罪の原動力たる欲望が、
同時に人間を動かす原動力でもあることを
忘れてはならないのです。



オウムの教えは直接はよく知りませんが,推測す
るに,輪廻の思想を基本にしているようです。
人間とゆ~か生物はすべて業(カルマ)を背負って
いるという。生物が生きていくことは,食事を始めす
べて他の生き物の犠牲が伴う。そして,この犠牲
は欲望が大きければ大きいほど大きくなる。
他方で、他の生き物の犠牲の上に満たされる欲望
が何か意味を持つかというと何もない。
すべての欲望は苦しみを生み出すだけである。
つまり、出世したいと
思うから,出世できないことに苦しみを覚え,
あるいは出世したら一時は楽を覚えるかもしれないが,部長にな
ったらなったで,さらに重役になりたい,と思い,
そのことから新しい苦しみが生まれるという。
これが無限地獄である。
この無限地獄から抜け出るためには,すべての欲望、
雑念を捨て去るしかない。このために必要な行為が
カルマ落としすなわり修行である,とゆ~ことです。


ちょっと視点を変えて、
性犯罪が発生する理由を考えてみましょう。
それは性欲の命ずるまま前後の見境も無く自由奔放に
行動を起こしてしまった結果であって、
抑制の効かない性欲が原因で犯罪が誘発されてしまう訳です。
性犯罪の誘因となる性欲は悪で、
性欲を抑制出来ないものは悪者なのでしょうか?


ポルフィ-リイ(予審判事)
「問題は、彼の論文によるとすべての人間はまあ《凡人》と《非凡人》に分
  けられる、ということにしぼられているんだ。・・・非凡人は、あらゆる
  犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利をもっている。たしかにこう
  いう思想でしたね。」上453
ラスコ-リニコフ
 「マホメットやナポレオン等歴史上の偉人たちはみな一人残らず血を流した
  犯罪者であった。」上455ff。
ポリフィ-リイ
 「良心の声にしたがって血を許すということは、・・・法律による許可より
  もおそろしい」上461-462
ラスコ-リニコフ
「しかし、それほど心配することはありません。いつの時代も民衆は、彼ら
 にこのような権利があるとは、ほとんど認めません、そして彼らを処罰し
 たり、絞首刑にしたりします。」上457
ラスコ-リニコフ
  「ぼくはナポレオンになろうと思った、だから殺したんだ」下248


あなたは自分で裁判官と犯罪者の両方を常にしていることに気づいていますか?
あなたが自分の外も内も裁きつづける限り、
あなたは本当の意味での自由ではないことに気づいていますか?
罪と罰を自分に科すことで、納得しているのです、アタマは。
罪を意識し、罪悪感を背負い込むことで、
自分がどれほどの悪人かを自分に対して証明しようとしているのです。
自分を慰めているのです。
自分が悪であり、善に戻るために”罰”を受け、浄化される、
そういう図式が「罪と罰」には入っているのです。
ですが、この世の、自然の法則にはそのような人間的な要素は含まれていません。何故か?
人間の純粋な想いに対してそれを実現するよう、法則は働くのです。
この世に実現可能だからこそ、自然の法則を満たすからこそ、殺人も強盗もハタラクことが出来るのです。
この世に存在するもの(人、出来事)に対して、一つたりとも、不必要なものはありません。
殺される方は殺されるべくしてこの世を去り、強盗は盗まれるべくしてものを失うのです。
そういう目に遭遇された方には同情は致しますが…
すべての出来事は必然的な現象となります。
例え自らに苦を与える物であってもです。
苦痛、不幸、不都合は何故起こるのか?という問いに対しては別のところで述べたいと思います。
これは、必然性の観点(偶然はこの世にはない)から眺めるとき、
それぞれにいちいち善悪正誤の判断、裁くことの無意味さを見出すことは
出来ると思います、どうでしょうか?
ですが、このような意見もあることだと思います。
「殺人や、極悪非道を行う者を野放しにして良いのか?」
「善人や正直者はバカをみるのではないか?」
「罪を意識しないで良いのなら、なんでもかんでも好き放題していいのか?」
最初の意見「殺人や、極悪非道を行う者を野放しにして良いのか?」
は、 いいのです。OKです。
利己主義のワガママを押し通せるほど、世の中は甘くありません。
力で奪えば力で奪い取られます。他人を殺せば自分とも殺しています。
因果応報ということばがあるように、行動しただけのことが自らに帰ってきます。
どのような形で帰ってくるかは決まって(アタマの予測どおりで)はいません、
あくまで本人が受け取る(体験する)ものです。
現代社会では(法律という制限基準で)決まっていますが。
そういうものに口出ししていると、あなたはまだまだ「裁判官」をやって、
善人面をしていることを白状しているのと同じです。
「自分が善(正しい)で相手が悪(悪い)」ということも「自分が悪(悪い)で相手が善(正しい)」も
どちらも根本的には同じゲームなのです。
ただ自分のみのゲームになるか、相手も含むゲームになるかの違いはありますが。
次の意見「善人や正直者はバカをみるのではないか?」
はバカをみることはありません。
”バカを(損を、不幸を)見ている”ように見えることがあってもです。
本人がバカを見た、損を見たと言っているようでは本当に善人で、正直者なの?と問い掛けたくなります。
この矛盾がお分かりいただけますか?
損得保身を抱くものが本当の善人や正直者といえるのですか?
何に対しての善であり、何に対しての正直なのかを明確にした上でこの話は進むことが出来ます。
損得保身を抱いての善、正直は誤った”善”であり”正直”でもあります。
最後の意見「罪を意識しないで良いのなら、なんでもかんでも好き放題していいのか?」
は”自分だけの勝手”と”自分勝手”は違うということ、必然性がお判りの方にはOKです。
判らない方には「自らの行動の結果に対して一切の文句を言わない自己責任の態度を持つ」
のでしたら実行して見てください。
そのような態度の上で罪と罰は抱くことが出来ないことがおわかりだと思います。
最後の意見はよくよく吟味される必要があります。
履き違えると単なる利己主義の自分だけ勝手の暴君を生み出すことになるのでね(笑)


犯罪はあたかも人間社会の永遠の同伴者であるかに、
われわれにつきまとい続けている。
それはおそらく、犯罪の原動力として登場する経済的欲求や性欲、
権力欲などというものが、同時に人間と社会を積極的・肯定的なものへと
突き動かす原動力でもあることによるのであろう。
「罪と罰」はわれわれの宿命的な課題であり、
したがって、この作品を通じてドストエフスキーの
われわれに投げかけている問題はいつまでも新しく、
また深刻でありつづけるのである。



      I.刑法とは
   現在の刑法は、通常人(狂人・精神障害者ではない人)を標準にして、自分の行為には行
  為者自身に責任があるとの根本思想の上に築かれている。その限りにおいて、それは道徳規
  範とも一致するし、古典学派的思考が基調になっている。無論、すでに実証主義の洗礼を受
  けたことだから、単純に行為に釣り合う刑罰ということばかり考えているのではなく、行為
  者がどのような人間かということも考慮にはいるけれども、基調は古典学派的だと言ってよ
  い。これは刑法という法規の構造がそうだからである。
   刑法はもともと人権を拘束する法である。それはなによりもまず人を罰するための法だか
  らである。ただその限界をはっきりさせる機能を有する点で人権保障の役をもしているので
  ある。


      Ⅱ.犯罪とは
   犯罪が成立するためには、(一)行為が犯罪構成要件に該当し、(二)実質的に違法であ
  り、(三)責任があることが必要だとされている。
   この要件がなんであるかは「人ヲ殺シタル者」(第一九九条)とか「他人ノ財物ヲ窃取シ
  タル者」(第二三五条)など条文に明示されている。これは、どういう要件に当たる行為を
  すれば原則として犯罪になるものであるかを示す。(正当防衛の時や狂人は犯罪にならない)
   犯罪構成要件に該当していてもかならずしも犯罪が成立するとは限らないが、通例は、構
  成要件に該当する行為は違法なことが多い。犯罪が成立するためには最後にもう一つ、「責
  任」が第三の要素として必要である。したがって、構成要件に該当しかつ実質的にも違法な
  行為であっても、責任の点で欠ける場合には、犯罪は成立しないのである。


刑法第177条は強姦罪を、以下のように規定する。
  暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、
強姦の罪とし、二年以上の
 有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
「強制わいせつ」というのは法律上、六ヶ月~七年間の懲役期間を伴う重罪である
(刑法、176条)。

痴漢については、基本的に性別には関係がないと考えてください。
  (関連・刑法第174・176・177・178・179・180条)






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