植民地北海道の産みの苦しみの物語の一つです。
開拓の物語は小学校の社会科の郷土史の時間で「おびひろ」という教科書でよく勉強しました。
北海道の歴史を素人が語るページ→なまら北海道からの抜粋です。
いつもお世話になっております。
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北海道の開拓は、一攫千金の夢を持ってやってきた人々も多数いました。土地を開き、大地主となって富を得ることを夢見ていたのです。 十勝、帯広を開いた依田勉三も事業という形で入植しています。 彼は、1853年に伊豆の裕福な農家の3男として生まれました。 彼は学業に精を出しました。18歳で横浜の英学塾に入り、20歳で慶応義塾に西洋学を学び、福沢諭吉にも教えを受けていました。 しかし、胃の病気と脚気にかかってしまい、2年で中退。その後は故郷の伊豆に帰り、彼の兄が勉三のために開いた塾で教鞭をとっていきます。 彼は伊豆の小さな村では、いつかは村を背負って立派な仕事をしてくれる人になるだろうと周囲の期待を一身に背負っていました。 そんな彼を一冊の本が変えてしまうのです。その本は開拓使が雇った外国人・ホーレスケプロンの著作でした。 「ケプロン報文」と題されたその本には、北海道の将来性について書かれていました。 この本を読んで以来、勉三は北海道での開拓のことが頭から離れなくなっていきます。 そしてついに明治14年28歳の時、視察のために、北海道の土を踏みました。勉三は北海道の広大な土地を見て、宝の山であることを実感して帰りました。 勉三は、北海道での開拓の将来性を人々の語って聞かせます。その熱心さに依田一族が手を上げました。 一族は北海道開拓に参加することを決定し、明治15年に勉三が発起人となって、北海道開墾を目的とした晩成社を設立しました。 会社は、15年間で1万ヘクタールの土地を開拓していく計画を立てました。 晩成社が用意した資金は当時のお金で5万円でした。これは現在のお金に換算すると約150億円もの大金でした。そのうちの半分を依田一族が負担しました。 そして、ついに明治16年、31名の移民団を引き連れて勉三は北海道に入りました。このとき彼は30歳になっていました。入地先は下帯広でした。 晩成社一行は、アイヌ民族の小屋に寝泊りさせてもらいながら、原野の開拓に着手しました。 ちょうど、そのあたりは現在の国道38号線と南6丁目が交差しているところだったといいます。 しかし、生活の方は最悪でした。開拓の仕事を終えて帰ってくる人々が待つものは、虫だらけの布団と、やぶ蚊の大群でした。 作物は順調に生育しているように見えましたが、6月、7月の炎天下のために、作物の発育が止まってしまいました。8月には、トノサマバッタの大群が発生し、ほとんど全ての作物を食い尽くされてしまいます。さらに、9月になると霜の影響で、作物はほぼ全滅状態になりました。 人々は勉三に騙されたと憤り、内輪もめにまで発展しました。それでも勉三は強気の姿勢を崩しませんでした。 しかし、翌17年も18年もトノサマバッタの被害が出て、入植者の中には郷里に帰りたいと願望する者も出始めました。しかし、勉三はそれを許しませんでした。彼もまた故郷に残してきた幼い子どもが亡くなった時も帰ることはしませんでした。 晩成社は15年と定めていた事業を10年間延長しました。25年間とした事業は、やがて50年の計画に修正されました。 しかし、会社は大正5年に活動を停止せざるを得ませんでした。 このときの晩成社が持っていたものは、680ヘクタールの田畑と1700ヘクタールの牧場だけだったといいます。 勉三は状況を打破しようと牛肉の生産、乳製品の製造などえお手がけましたが、ことごとく失敗に終わりました。 勉三は大正13年に73歳でなくなりました。その最後の言葉は「晩成社には、もうほとんど何も残ってはおらん。でも、十勝野は…」というものでした。 彼の言葉から、これからの十勝・帯広の将来が明るいに違いないと考えていたことがうかがい知れます。 そのとおり、現在帯広は十勝地方の大都市として、経済の中心になっています、しかも、酪農をはじめとした多くの産業が栄えています。 勉三たちの開拓から約130年。十勝・帯広は、輝く土地になっています。
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開拓の物語は小学校の社会科の郷土史の時間で「おびひろ」という教科書でよく勉強しました。
北海道の歴史を素人が語るページ→なまら北海道からの抜粋です。
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北海道の開拓は、一攫千金の夢を持ってやってきた人々も多数いました。土地を開き、大地主となって富を得ることを夢見ていたのです。 十勝、帯広を開いた依田勉三も事業という形で入植しています。 彼は、1853年に伊豆の裕福な農家の3男として生まれました。 彼は学業に精を出しました。18歳で横浜の英学塾に入り、20歳で慶応義塾に西洋学を学び、福沢諭吉にも教えを受けていました。 しかし、胃の病気と脚気にかかってしまい、2年で中退。その後は故郷の伊豆に帰り、彼の兄が勉三のために開いた塾で教鞭をとっていきます。 彼は伊豆の小さな村では、いつかは村を背負って立派な仕事をしてくれる人になるだろうと周囲の期待を一身に背負っていました。 そんな彼を一冊の本が変えてしまうのです。その本は開拓使が雇った外国人・ホーレスケプロンの著作でした。 「ケプロン報文」と題されたその本には、北海道の将来性について書かれていました。 この本を読んで以来、勉三は北海道での開拓のことが頭から離れなくなっていきます。 そしてついに明治14年28歳の時、視察のために、北海道の土を踏みました。勉三は北海道の広大な土地を見て、宝の山であることを実感して帰りました。 勉三は、北海道での開拓の将来性を人々の語って聞かせます。その熱心さに依田一族が手を上げました。 一族は北海道開拓に参加することを決定し、明治15年に勉三が発起人となって、北海道開墾を目的とした晩成社を設立しました。 会社は、15年間で1万ヘクタールの土地を開拓していく計画を立てました。 晩成社が用意した資金は当時のお金で5万円でした。これは現在のお金に換算すると約150億円もの大金でした。そのうちの半分を依田一族が負担しました。 そして、ついに明治16年、31名の移民団を引き連れて勉三は北海道に入りました。このとき彼は30歳になっていました。入地先は下帯広でした。 晩成社一行は、アイヌ民族の小屋に寝泊りさせてもらいながら、原野の開拓に着手しました。 ちょうど、そのあたりは現在の国道38号線と南6丁目が交差しているところだったといいます。 しかし、生活の方は最悪でした。開拓の仕事を終えて帰ってくる人々が待つものは、虫だらけの布団と、やぶ蚊の大群でした。 作物は順調に生育しているように見えましたが、6月、7月の炎天下のために、作物の発育が止まってしまいました。8月には、トノサマバッタの大群が発生し、ほとんど全ての作物を食い尽くされてしまいます。さらに、9月になると霜の影響で、作物はほぼ全滅状態になりました。 人々は勉三に騙されたと憤り、内輪もめにまで発展しました。それでも勉三は強気の姿勢を崩しませんでした。 しかし、翌17年も18年もトノサマバッタの被害が出て、入植者の中には郷里に帰りたいと願望する者も出始めました。しかし、勉三はそれを許しませんでした。彼もまた故郷に残してきた幼い子どもが亡くなった時も帰ることはしませんでした。 晩成社は15年と定めていた事業を10年間延長しました。25年間とした事業は、やがて50年の計画に修正されました。 しかし、会社は大正5年に活動を停止せざるを得ませんでした。 このときの晩成社が持っていたものは、680ヘクタールの田畑と1700ヘクタールの牧場だけだったといいます。 勉三は状況を打破しようと牛肉の生産、乳製品の製造などえお手がけましたが、ことごとく失敗に終わりました。 勉三は大正13年に73歳でなくなりました。その最後の言葉は「晩成社には、もうほとんど何も残ってはおらん。でも、十勝野は…」というものでした。 彼の言葉から、これからの十勝・帯広の将来が明るいに違いないと考えていたことがうかがい知れます。 そのとおり、現在帯広は十勝地方の大都市として、経済の中心になっています、しかも、酪農をはじめとした多くの産業が栄えています。 勉三たちの開拓から約130年。十勝・帯広は、輝く土地になっています。
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