五里夢中於札幌菊水 

野戦病院へ出向予定。
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北海道の医療崩壊をなんとか防ぎたい。

29歳の地図 北海道 日高 開拓編

2007-05-05 22:18:49 | 29歳の地図
北の零点と酷評された北の零年の元になる日高開拓ストーリーです。

苫小牧で勤務していたとき、撮影に関係した方が馬にけられ入院しましたが、
トヨエツがお見舞いに来て大騒ぎになっていました。

日高の思い出は日高ポロシリの登ったことと、
苫小牧に搬送されたたくさんの脳卒中患者さんを診た事と、
札幌ー帯広を数え切れないほど車で往復しました時の目に焼きついている景色でしょうか。

北海道の歴史を素人が語るページ→なまら北海道からの抜粋です。
いつもお世話になっております。

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北海道に入地した元・武士たち。その多くは東北諸藩の出身者たちでした。いずれも幕末の戊辰戦争で、旧幕府軍として新政府軍と戦い、朝敵とみなされた人々です。

しかし、戦争で新政府軍に加わり、朝廷の味方であったにもかかわらず、北海道に入地せざるを得なかった人々もいました。淡路島に領地を持っていた稲田藩の人々です。

そうなってしまったのには、深い訳がありました。時は1500年代の戦国時代にまで遡ります。

織田信長の美濃侵攻の時に、墨俣の一夜城という奇策を成し遂げた羽柴秀吉。彼はこの作戦を実行するために、野武士集団を起用しています。蜂須賀小六という人物が有名ですが、この小六を助けたのが稲田大炊助貞祐(さだむら)という人物でした。

この貞祐の3男が植元(たねもと)といい、小六と義兄弟となって常に小六を助けていくことになります。

小六が秀吉から播磨国・竜野6万石の大名になった時、秀吉は稲田植元を独立した大名にしようとしますが、植元は小六と別れるわけにはいかないと、竜野の客分となっています。

その後大阪の陣の功で、蜂須賀家が淡路8万石を加増された時に、徳川家康自らが、植元を淡路城代としました。このように常に稲田家は蜂須賀家と共に出世をしていきました。

初代のころは何の問題もない間柄でしたが、その関係は約300年後に、どうにもならない軋轢を生むことになっていきます。

幕末期、徳島藩の藩主は将軍・徳川家斉の22男、斉裕が入りました。世の中は、尊王か佐幕かで揺れに揺れている時期でした。徳島藩は、将軍の子どもが藩主ということもあり、佐幕傾向が強かったとされています。

そんな蜂須賀家の姿勢に対して、稲田家は鳥羽伏見の戦いでいち早く軍勢を薩長軍側に送り込みます。藩の姿勢として、倒幕の旗幟を鮮明にして名をあげました。この行動は徳島藩にとっては方針に従わない裏切りに見えました。

やがて明治維新がなった時、稲田藩も本藩の徳島藩も共に朝廷側で戦い、本領は安堵されるはずでした。しかし、そこに版籍奉還という藩の運営権利を放棄する動きが、新政府の元で行われていきます。藩主は、藩知事という役職になり、土地も人民も朝廷に返還することになります。

ここで問題となったのが、藩士の身分でした。殿様は華族に、その家来は士族に、そのまた家来は卒族になります。厳密には、徳島藩の家来の稲田の殿様は士族になり、その家来たちは卒族になります。

稲田藩士は、自分たちは陪臣であっても特別で、本藩と同格だと主張しました。

稲田藩は徳島藩からの独立を画策します。これも徳島藩にしてみれば、格下の藩の裏切り行為でした。ふたつの藩の仲は次第に険悪になっていきました。

明治3年、新政府はついに仲介に入り、両藩の代表者を呼び寄せることにします。

代表者同士の会談で、朝廷から命令が出ては何もできない。しかし、事をおこせば藩主の責任になる。徳島藩の藩士たちは、会談が行われる前に、自分たちが行動し、責任をも取ろうと覚悟します。そして、密かに稲田藩士たちのいる洲本の襲撃を計画しました。

これが庚午事変・稲田騒動といわれるものです。稲田藩の人々は、主に洲本で襲撃を受けました。襲撃の気配を感じていた藩士たちは、無抵抗を貫こうと決めていました。そのため多くの被害が出ました。ここに稲田藩と徳島藩は完全に袂をわかったのです。

庚午事変で稲田藩を襲った蜂須賀側は首謀者10人が切腹。20数人が八丈島への島流しとなりました。

稲田側は、家臣の士族としての身分が認められるということになりました。

しかし、淡路の地にそのまま住むことはできませんでした。新政府は、稲田藩に北海道静内郡と色丹島への移住開拓を命じました。

明治3年5月、稲田藩の人々の先発である137戸・546人が静内に入っています。人々は、とりあえず寺や番屋などに分宿して開拓の準備をすすめました。開拓の中心人物は、岩根静一(いわねせいいち)という人物でした。

彼を中心とする十数名は、目名川のあたりから開拓を始めました。当時の静内地域はまったくの原生林が広がっていました。アイヌ民族の集落はありましたが、彼らは狩猟に従事して土地を開くことはしませんでした。

開拓を始めるにあたり、彼らが最初に行ったのは、現在の静内市街地と開拓地を結ぶ道路の開削でした。ブヨの来襲に辟易しながらも小さな小屋に寝泊りして開拓を進めていきます。

翌明治4年には、新冠地域の増支配がかないます。さらに稲田邦植(くにたね)が従5位に叙任されるなどして、開拓にはずみがついた頃、不幸が彼らを襲いました。

ひとつは7月の家財保管倉庫の火災でした。番屋にまとまて管理していた家財が、一度に失ってしまいました。その中には、これからの冬を過ごすための防寒具がふくまれていました。

もうひとつは8月。第2回目の移住者たちを乗せた平運丸が沈没し、100名近い人々が亡くなった事件でした。

さらには開拓使が発足になり、全道的な支配がなされ、分藩での支配が終焉しました。稲田藩の人々にとっては、何のための独立運動と静内入地だったのかと残念に思う人々が多くいました。

そのような試練もありましたが、静内は稲田藩の人々の、不屈の闘志で徐々に開拓が進められていきました。

明治5年に稲田本邸が完成し、人々の生活の中心は目名地方になっていきました。そして、明治6年、稲田邦植が永住の気概を持って、家族と共に静内に移り住みました。明治9年には、一戸あたりの耕作面積は1町2反歩に達しました。

その後、邦植は弟の邦衛に静内の土地、家屋の全てを与えて徳島に引退。弟の邦衛は静内に残り、明治31年に、静内・新冠の各村長に就任しています。

まさに静内地域は稲田の人々の作り上げた土地であったといえるでしょう。

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4 コメント

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Unknown (くらいふたーん)
2007-05-06 23:04:30
静内も帯広も私には大変縁のある土地でおおよそ知っている話ですが、改めて読ませていただいて勉強になりました。
有り難うございます。
「北の零年」なんてきれいすぎですよね・・
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郷土史 (脳外科見習い)
2007-05-07 00:08:46
町の歴史がわかると味わいがまた違って出てきますよね。
こんな北海道ですけど、ずっと住んでいると
いろいろと愛着がわくもので・・・。
自分で調べたわけではなくコピペなので御礼を言われますと恥ずかしいです。

北の零年は?という設定が多すぎでしたね。
お金をかけている割には・・・。
結局何が言いたいのか、メッセージが伝わりませんでした。
返信する
Unknown (くらいふたーん)
2007-05-07 17:09:15
今までの経験で 新任の医師に地域をまず理解してもらうためには 小学生用の社会の副読本が非常に役立つことがわかりました。
平易で簡潔に書いてあり すぐに読めますし。
医局には是非備えたい一冊だと思っています。
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小学生用の副読本 (脳外科見習い)
2007-05-07 17:59:07
小学生用の副読本だった「おびひろ」
大好きだったのですが、
紛失してしまい、どこにも売ってなくて
悲しかった記憶があります。

医局に備えておくのは
good ideaだと思います。
いつか僕もマネさせていただきます。
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