
「生きるための場所奪わないで」「排除してる」万博で大阪・グリ下に“塀”設置。「根本的な解決ならない」の声も
蜘蛛の子を散らすような見栄え重視のシノギな処置…
万博での目玉的な高額メニューにせよ、この記事のような排斥姿勢にせよ、正直「最も大阪らしい」に一番遠い振る舞いに見えてしょうがない。
安さと寛容さが、他地域に図抜けて鷹揚であってくれる人情の風味が大阪だと日本人の多くは印象してる。
この万博ではその真反対の振る舞いを頻発してる。
払拭というか脱却というか…そこもある意味大阪らしい。
「この機にワンチャンのイメチェン」目論見は、どこか「東京っぽく」と「東京よりも」を一気呵成にとしてる気概がありありと分かるが、よそから一時期大阪に住んだ身としては常々「そんなんしていらんわ」って感じてしまう。
知事の選び方でもノックさん以来ずっとどこか的がズレる。東京は大阪を「全くライバル視」の片鱗もないが、大阪は「せめて一太刀!」が隠してる風で微塵も隠れない。
それはこうした税金投入クラスの催し時に殊更「大阪らしさ」に常に遠ざかることで顕著になる。
逆張りなんです。
ここでこそ図抜けた「庶民価格のコナモンプライス」の異常なまでの貫徹と、弱い人にも居場所と救済の寛容のある大阪、であったら、アイデンティティのある関西・大阪・ここにあり!を標榜し、国際的に喧伝の一助な心柱になったのに。
大阪はここぞで常々「東京には負けへん」な「東京もどき」という「悔しすぎて・でも羨ましくって」という選び損じをとってしまう。
堀作ってどないすんねん。人が看板の大阪が人排してどないすんねんと。
こんなんして「いのちかがやく」も「未来」も大阪らしくはないやんか。遠いわ。
なんでいっつも「ここぞ」をしくじんねん!と。オモロいことに、そこだけが「いつもの大阪らしい」とは感じた。
(これは伊集院さん風味の「気づく機会にしてよ」だと思うのです)
東京圏が行きたくなるオーサカを今回の万博にインパクトさせられんはそこな気がします。
毎回思う。ちゃうねん、って。
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