本日は今年初となる窯焚きをしております。
火をつけて30分くらいは水蒸気を飛ばすために窯を少し開けておきます。
しかし、バーナーの点火の調子が悪い・・・。
一度点検しないとだめですねえ。
さてさて、今月は大雪が降ったり
下の子の学年はインフルエンザによる学級閉鎖があったりして
なかなか仕事に集中するのも難しかったのですが
なんとか窯焚きにこぎつけることができて、よかった・・・。
窯焚きの日の一日前がねえ、いつもキツキツなんですよね。
前々日に素焼き、これは半日くらいで終わるのでいいのですが
明けて本焼きの前日。
素焼の窯を開けて、釉薬かけてまた窯詰めして・・・
これを一日でこなそうと思うとほんとにギリギリ。
というのも、窯焚きの日に出掛けられなくなるぶんのごはんの買い物したり、
燃料の灯油を買ってきたりもしないといけなくて
おまけに農園の出荷日が重なると伝票とか通信などの準備も・・・。
夕べも夜なべでしたが、今の時期は特に寒さが身にしみる(涙)。
まあ、もっと余裕をもった日程で仕事しろ、ってことですけどね(笑)
で、やっと窯に火も入ったところで
ブログ書いちゃおうという余裕がね。
書き始めると長くなるんでね(笑)、忙しい時は自戒してるわけです。
この年末、お正月はこどもたちも私の実家に長く滞在させてもらってたこともあって
久々に本をたくさん読んだりしました。
本好きとしては「読書=娯楽」という気がして、なかなか普段は
じっくり読んだりできないわけで(いや、こそこそ読んでるけど)、
たまには罪悪感のない読書、いいですねえ(笑)
というわけで、特におもしろかったこんな2冊
全然分野は違うけどどっちもすごくおもしろかったです。
基本的に「科学ノンフィクション」みたいなのが好きなんですよね、きっと。
思いっきり文系のくせして(笑)
「奇跡の脳」は、ジル・ボルト・テイラーさんという
アメリカの脳科学者の女性が、自分自身、脳溢血に見舞われてしまい
その自身の研究テーマである「脳」の機能が停止していく様子を
患者として、医師として、内側から克明に記録したノンフィクション。
患者としての発症時の自覚症状の様子から、
世界を認知している脳が出血により機能低下していくことで
見慣れた世界がいつもと違う世界へと変わっていくさまが、本当に興味深い。
著者の出血は左脳に起こり、左脳の機能を停止させてしまったために
右脳のみでの外界の認知しかできないわけです。
左脳が働かないとどうなるかっていうと、物事を客観視する視点を喪失するんだそう。
時間と空間の概念、とか、物事のつながりとか順番とか。
ただあるのは圧倒的な主観、なんですって。
自我というしばりのない、すべてのものとひとつになった一体感。
もちろん、物理的には出血による強い痛みがあるというのに、
そこにはなんと圧倒的な幸福感があった、と。
具体的に言うと、自分の体がどこから始まって、どこで終わるのかがわからない、
「自分」と「自分以外のもの」の堺が消失するように、
外界に存在するものも、「それ」に付属する意味とかつながり
「それ」と「それ以外のもの」っていう区切りがなくなってしまうんだって。
脳溢血を起こした朝、一人暮らしの彼女は仕事に出かける支度をしていて
自分の異変に気付きます。
強い頭の痛みと朦朧としていく意識の中で、助けを呼ぼうと電話をかけるのですが
そのときに電話に向かった様子がこんな風に描かれています。
“しかしこの時点では、私にとっての電話は、非常に面白くて変わった種類の何か、という感じでした。
奇妙な話ですが、それを何に使うのかが理解できません。
目の前にあるこの「物体」が、ケーブルを通して全然別の場所につながるのだということを、どうにか理解しました。
きっとケーブルの向こう側に私と話してくれる人がいて、その人はわたしをわかってくれるはず。すごい!”
こうして、彼女は電話に向い、助けを求めるために、
職場の同僚の名刺を探してその番号にかけようとするわけですが
彼女はやっと名刺を見つけたものの、そこに書いてある文字がひとつも判別できなかったそうです。
“私の脳はもはや文字を文字として、シンボルをシンボルとして、地を地として判別することができませんでした。
それどころか、名刺は小さな画素を寄せ集めた、抽象的な織物のように見えたのです”
“「A」は「B」ともはやなんのつながりもなく、「1」も「2」と何の関係もない・・・
順序だった配列を理解するには、知的なつながりをみつけることが必要で、
もっとも簡単な計算さえ、数時の間の関係をきちんと読み取ることが必要です。
私の頭はすでに、組み合わせをつくれません。”
(ときおりやってくる明晰な思考の波と朦朧とした意識のはざまで)
”周期的に、名刺の上で踊っている数字と、電話のプッシュボタンの上で身をよじっている数字が
一致します。人差指で電話番号を押すとすぐ、名刺の上に書いてある数字を左の指で覆い隠します。
なぜなら、自分がどの数字を押したのか、覚えていられなかったからです・・・”
こんな必死の努力を経て、彼女はなんとか自力で助けをもとめ、
病院に搬送されました。
本の後半では、危篤状態からの脱出、手術、リハビリの様子が描かれています。
(この間の、右脳感覚で世界の様子を捉えるさまや、失った脳の回路・ネットワークを
再構築すべくトレーニングしていく様子もすごく興味深いのですが、その話はまた今度・・・)
彼女は術後の肉体的および精神的な機能を完全に回復していくまでに
8年の期間を経て、この本を書き上げたそうです。
卒中の最中、物事を区別し、客観視させている左脳が機能しない脳で
彼女が感じたというこんな一節がとても印象深かったです。
“うわ、わたしって、すごく変でびっくりしちゃういきもの。生きてる!
これって生きてるってことよね!海水が袋にいっぱいにつまってるのよ。
ここで、こんなかたちで、意識のある心があって、このからだは生きるための乗りもの。
ひとつの心を分け合う、数兆の細胞のカタマリ。それが今ここで、命として栄えてるってこと。スゴイ、
これってスゴイよね!わたしはさいぼうでできた命、ううん、器用な手先と認識のこころをもった、
分子でできた命なんだわ!”
わたしたちが普段当たり前に感じている感覚や世界認知は
奇跡のような緻密な生命のシステムが織りなすものなんだ、と感じさせてくれる一冊です!
あああ、また話が長くなって
そしてアンティキテラまで話が回らないという・・・(笑)
もう一冊の本、アンティキテラについては、また今度~!
火をつけて30分くらいは水蒸気を飛ばすために窯を少し開けておきます。
しかし、バーナーの点火の調子が悪い・・・。
一度点検しないとだめですねえ。
さてさて、今月は大雪が降ったり
下の子の学年はインフルエンザによる学級閉鎖があったりして
なかなか仕事に集中するのも難しかったのですが
なんとか窯焚きにこぎつけることができて、よかった・・・。
窯焚きの日の一日前がねえ、いつもキツキツなんですよね。
前々日に素焼き、これは半日くらいで終わるのでいいのですが
明けて本焼きの前日。
素焼の窯を開けて、釉薬かけてまた窯詰めして・・・
これを一日でこなそうと思うとほんとにギリギリ。
というのも、窯焚きの日に出掛けられなくなるぶんのごはんの買い物したり、
燃料の灯油を買ってきたりもしないといけなくて
おまけに農園の出荷日が重なると伝票とか通信などの準備も・・・。
夕べも夜なべでしたが、今の時期は特に寒さが身にしみる(涙)。
まあ、もっと余裕をもった日程で仕事しろ、ってことですけどね(笑)
で、やっと窯に火も入ったところで
ブログ書いちゃおうという余裕がね。
書き始めると長くなるんでね(笑)、忙しい時は自戒してるわけです。
この年末、お正月はこどもたちも私の実家に長く滞在させてもらってたこともあって
久々に本をたくさん読んだりしました。
本好きとしては「読書=娯楽」という気がして、なかなか普段は
じっくり読んだりできないわけで(いや、こそこそ読んでるけど)、
たまには罪悪感のない読書、いいですねえ(笑)
というわけで、特におもしろかったこんな2冊
全然分野は違うけどどっちもすごくおもしろかったです。
基本的に「科学ノンフィクション」みたいなのが好きなんですよね、きっと。
思いっきり文系のくせして(笑)
「奇跡の脳」は、ジル・ボルト・テイラーさんという
アメリカの脳科学者の女性が、自分自身、脳溢血に見舞われてしまい
その自身の研究テーマである「脳」の機能が停止していく様子を
患者として、医師として、内側から克明に記録したノンフィクション。
患者としての発症時の自覚症状の様子から、
世界を認知している脳が出血により機能低下していくことで
見慣れた世界がいつもと違う世界へと変わっていくさまが、本当に興味深い。
著者の出血は左脳に起こり、左脳の機能を停止させてしまったために
右脳のみでの外界の認知しかできないわけです。
左脳が働かないとどうなるかっていうと、物事を客観視する視点を喪失するんだそう。
時間と空間の概念、とか、物事のつながりとか順番とか。
ただあるのは圧倒的な主観、なんですって。
自我というしばりのない、すべてのものとひとつになった一体感。
もちろん、物理的には出血による強い痛みがあるというのに、
そこにはなんと圧倒的な幸福感があった、と。
具体的に言うと、自分の体がどこから始まって、どこで終わるのかがわからない、
「自分」と「自分以外のもの」の堺が消失するように、
外界に存在するものも、「それ」に付属する意味とかつながり
「それ」と「それ以外のもの」っていう区切りがなくなってしまうんだって。
脳溢血を起こした朝、一人暮らしの彼女は仕事に出かける支度をしていて
自分の異変に気付きます。
強い頭の痛みと朦朧としていく意識の中で、助けを呼ぼうと電話をかけるのですが
そのときに電話に向かった様子がこんな風に描かれています。
“しかしこの時点では、私にとっての電話は、非常に面白くて変わった種類の何か、という感じでした。
奇妙な話ですが、それを何に使うのかが理解できません。
目の前にあるこの「物体」が、ケーブルを通して全然別の場所につながるのだということを、どうにか理解しました。
きっとケーブルの向こう側に私と話してくれる人がいて、その人はわたしをわかってくれるはず。すごい!”
こうして、彼女は電話に向い、助けを求めるために、
職場の同僚の名刺を探してその番号にかけようとするわけですが
彼女はやっと名刺を見つけたものの、そこに書いてある文字がひとつも判別できなかったそうです。
“私の脳はもはや文字を文字として、シンボルをシンボルとして、地を地として判別することができませんでした。
それどころか、名刺は小さな画素を寄せ集めた、抽象的な織物のように見えたのです”
“「A」は「B」ともはやなんのつながりもなく、「1」も「2」と何の関係もない・・・
順序だった配列を理解するには、知的なつながりをみつけることが必要で、
もっとも簡単な計算さえ、数時の間の関係をきちんと読み取ることが必要です。
私の頭はすでに、組み合わせをつくれません。”
(ときおりやってくる明晰な思考の波と朦朧とした意識のはざまで)
”周期的に、名刺の上で踊っている数字と、電話のプッシュボタンの上で身をよじっている数字が
一致します。人差指で電話番号を押すとすぐ、名刺の上に書いてある数字を左の指で覆い隠します。
なぜなら、自分がどの数字を押したのか、覚えていられなかったからです・・・”
こんな必死の努力を経て、彼女はなんとか自力で助けをもとめ、
病院に搬送されました。
本の後半では、危篤状態からの脱出、手術、リハビリの様子が描かれています。
(この間の、右脳感覚で世界の様子を捉えるさまや、失った脳の回路・ネットワークを
再構築すべくトレーニングしていく様子もすごく興味深いのですが、その話はまた今度・・・)
彼女は術後の肉体的および精神的な機能を完全に回復していくまでに
8年の期間を経て、この本を書き上げたそうです。
卒中の最中、物事を区別し、客観視させている左脳が機能しない脳で
彼女が感じたというこんな一節がとても印象深かったです。
“うわ、わたしって、すごく変でびっくりしちゃういきもの。生きてる!
これって生きてるってことよね!海水が袋にいっぱいにつまってるのよ。
ここで、こんなかたちで、意識のある心があって、このからだは生きるための乗りもの。
ひとつの心を分け合う、数兆の細胞のカタマリ。それが今ここで、命として栄えてるってこと。スゴイ、
これってスゴイよね!わたしはさいぼうでできた命、ううん、器用な手先と認識のこころをもった、
分子でできた命なんだわ!”
わたしたちが普段当たり前に感じている感覚や世界認知は
奇跡のような緻密な生命のシステムが織りなすものなんだ、と感じさせてくれる一冊です!
あああ、また話が長くなって
そしてアンティキテラまで話が回らないという・・・(笑)
もう一冊の本、アンティキテラについては、また今度~!