みなさんはいわゆる世襲の農家さんと、わたしたちのような小規模経営の新規就農農家には、同じ「農家」という存在でありながら、実際にはかなりの違いがあることを、ご存じですか?
わたしもなんとなく、農業を営む仕事、ということでひとくくにり思っていたのですが、実際のところその二つの農業にはかなり違う要素が多いのです。
まず、在来農家の特徴は、家屋や耕作地が代々受け継がれているということ。それから、いわゆる「近代農業」と呼ばれる、農薬や肥料などの科学薬品を使った大規模経営であることが多いこと。(もちろんそうでない農家さんもあります。あくまで傾向として)そして、この辺りではそのような農家さんは他にも山林地などの土地を所有していることも多く、農業経営にあたって国からなんらかの補助金を受け取っているということも多いようです。
それに対して、主に有機農家などの新規就農農家。
まず、新規就農農家は移住者であることが多いので、その土地に家屋や耕作地を持っていません。したがって就農に当たっては、まず田畑にする土地を借りるなり買うなりしなくてはなりません。(就農資金の問題や、地主さんはなかなか土地を手放さないという事情もあり、現実には買うというより借りるのが一般的です)。もちろん住む家も自分で建てるなり借りるなりしなくてはなりません。
それから新規就農者は自発的に農に対するなんらかの志を持って就農することが多いので安易に科学薬品を多用する近代農業に迎合する、ということが少なく、できるだけ自然のサイクルに近い形の農業を目指す傾向が強いと思われます。
すると、自然と農業の規模は小さくなり、野菜を販売するのも自分達に近しい範囲、近隣の生協や個別宅配や引き売りなどお客さんの顔の見えるような距離感になってきます。
そして、その小規模さゆえに農家と認定すらされていないのか、これまでのところこのような小規模農家に国からの補助金などは一切支給されていません。新規就農農家の収入は、純粋な作物の販売代金のみで成り立っています。(もちろんそこから地代や家賃を支払うわけです)
これらが在来農家と有機農家の違いなのです。
ひどい話、近代的農家では余剰米を増やさないため、米をつくらず違う作物を栽培すると補助金が発生するという「減反」「転作奨励金」などという政策の条件を満たすためだけに、田畑におざなりな作物が育てられていて、そこから得られる収入は作物の代金より補助金のほうが多いというケースさえある、という話さえ聞きます。
だから近代農家がどうだとか言いたいわけではないのです。ただ、農産物は形になって出来てしまえば、どれも見映えは変わらないかもしれない。近代農法だろうと有機栽培だろうと、外国からの輸入野菜だろうと、売り買いの段階ではたいして見分けはつかないかもしれないけれど、それぞれの作物のもつ「背景」や「物語」が全然違うものが同じように出回ってしまう世の中なのだと思うのです。
わたしは有機農家が土つくりから思いを込め、栽培の作業ひとつひとつに試行錯誤しながら、誇りをもって作物を栽培していることを知っています。彼らが口に出して自分達の仕事をそのように言うことはまずありませんが、そんな思いなしに補助金もなんにもない、大量生産もできない「金にならない」仕事をやれるはずがないと思うのです。そんなふうに手間暇かけて思いを込めて作られた作物が金になりゃいいや、といって作られたものといっしょくたにされてしまうとしたら、あまりにも切ないです。
在来農家の方々だってもともとは小規模な自分達の暮らしに根付いた農業をされていたのだと思います。数羽の鶏や家畜を飼い、山へ行って落ち葉を集めて自然の素材からたい肥をつくり・・・。
けれど、高度成長期、効率だ、大量生産だといって頼みもしない科学薬品が、要するに「商品」として日本中の農家にどんどん持ち込まれ、あれを買え、これを買えといってなんでも商業ベースにのせて農作業をどんどん科学化・機械化していってしまった。そして、工業製品を工場で製造するがごとく、命を扱う農業が「工業化」され、安定した食糧供給が食糧不足をなくした変わりに、それまで農家の方が守ってこられた何か大切なものを農業から奪い去ってしまった。
それは他の生き物とともに「天の恵みに生かされている」というようなもともと人間の持っていた謙虚な思いそのものかもしれません。
近代農業が失って(時代の流れにムリヤリ失わされて)、今、有機農業が取り戻そうとしているのは、もともと農の中にあり続けたそんな思いなのかもしれないとわたしには思えます。
そしてそんな有機農業が法律によって推進されようとしている今、わたしたちが取り戻さなくてはならないのは、古来からの在来農家の方々がかつて一番知っておられたであろう、人が自然のサイクルの中で他の生き物とともに生きる知恵なのだと思うのです。だって、「近代農業」が広まる前には、田畑のどこにも、科学物質なんてなかったのですからね!
追伸・・・
先日参加させていただいた有機農研の交流会には、戦前から『有機農』を貫いてこられたという農家の古老もいらっしゃっていました。
高度成長期の奔流の中、ひとり時代に逆らって化学薬品を拒み続けることには、周囲から(農協の指導部やきっとときには身内の方、同業の農家の方・・・)のどれだけの圧力がかかり、どれほどの強い信念が必要な営みであったことでしょうか・・・。
そして時は流れ、今、有機農業が国から推進される時代が到来している。それはなによりも時代からはみ出し続けた彼が、本当の正しい方向を見据えていたということの証明に他ならないのだと思います。
わたしもなんとなく、農業を営む仕事、ということでひとくくにり思っていたのですが、実際のところその二つの農業にはかなり違う要素が多いのです。
まず、在来農家の特徴は、家屋や耕作地が代々受け継がれているということ。それから、いわゆる「近代農業」と呼ばれる、農薬や肥料などの科学薬品を使った大規模経営であることが多いこと。(もちろんそうでない農家さんもあります。あくまで傾向として)そして、この辺りではそのような農家さんは他にも山林地などの土地を所有していることも多く、農業経営にあたって国からなんらかの補助金を受け取っているということも多いようです。
それに対して、主に有機農家などの新規就農農家。
まず、新規就農農家は移住者であることが多いので、その土地に家屋や耕作地を持っていません。したがって就農に当たっては、まず田畑にする土地を借りるなり買うなりしなくてはなりません。(就農資金の問題や、地主さんはなかなか土地を手放さないという事情もあり、現実には買うというより借りるのが一般的です)。もちろん住む家も自分で建てるなり借りるなりしなくてはなりません。
それから新規就農者は自発的に農に対するなんらかの志を持って就農することが多いので安易に科学薬品を多用する近代農業に迎合する、ということが少なく、できるだけ自然のサイクルに近い形の農業を目指す傾向が強いと思われます。
すると、自然と農業の規模は小さくなり、野菜を販売するのも自分達に近しい範囲、近隣の生協や個別宅配や引き売りなどお客さんの顔の見えるような距離感になってきます。
そして、その小規模さゆえに農家と認定すらされていないのか、これまでのところこのような小規模農家に国からの補助金などは一切支給されていません。新規就農農家の収入は、純粋な作物の販売代金のみで成り立っています。(もちろんそこから地代や家賃を支払うわけです)
これらが在来農家と有機農家の違いなのです。
ひどい話、近代的農家では余剰米を増やさないため、米をつくらず違う作物を栽培すると補助金が発生するという「減反」「転作奨励金」などという政策の条件を満たすためだけに、田畑におざなりな作物が育てられていて、そこから得られる収入は作物の代金より補助金のほうが多いというケースさえある、という話さえ聞きます。
だから近代農家がどうだとか言いたいわけではないのです。ただ、農産物は形になって出来てしまえば、どれも見映えは変わらないかもしれない。近代農法だろうと有機栽培だろうと、外国からの輸入野菜だろうと、売り買いの段階ではたいして見分けはつかないかもしれないけれど、それぞれの作物のもつ「背景」や「物語」が全然違うものが同じように出回ってしまう世の中なのだと思うのです。
わたしは有機農家が土つくりから思いを込め、栽培の作業ひとつひとつに試行錯誤しながら、誇りをもって作物を栽培していることを知っています。彼らが口に出して自分達の仕事をそのように言うことはまずありませんが、そんな思いなしに補助金もなんにもない、大量生産もできない「金にならない」仕事をやれるはずがないと思うのです。そんなふうに手間暇かけて思いを込めて作られた作物が金になりゃいいや、といって作られたものといっしょくたにされてしまうとしたら、あまりにも切ないです。
在来農家の方々だってもともとは小規模な自分達の暮らしに根付いた農業をされていたのだと思います。数羽の鶏や家畜を飼い、山へ行って落ち葉を集めて自然の素材からたい肥をつくり・・・。
けれど、高度成長期、効率だ、大量生産だといって頼みもしない科学薬品が、要するに「商品」として日本中の農家にどんどん持ち込まれ、あれを買え、これを買えといってなんでも商業ベースにのせて農作業をどんどん科学化・機械化していってしまった。そして、工業製品を工場で製造するがごとく、命を扱う農業が「工業化」され、安定した食糧供給が食糧不足をなくした変わりに、それまで農家の方が守ってこられた何か大切なものを農業から奪い去ってしまった。
それは他の生き物とともに「天の恵みに生かされている」というようなもともと人間の持っていた謙虚な思いそのものかもしれません。
近代農業が失って(時代の流れにムリヤリ失わされて)、今、有機農業が取り戻そうとしているのは、もともと農の中にあり続けたそんな思いなのかもしれないとわたしには思えます。
そしてそんな有機農業が法律によって推進されようとしている今、わたしたちが取り戻さなくてはならないのは、古来からの在来農家の方々がかつて一番知っておられたであろう、人が自然のサイクルの中で他の生き物とともに生きる知恵なのだと思うのです。だって、「近代農業」が広まる前には、田畑のどこにも、科学物質なんてなかったのですからね!
追伸・・・
先日参加させていただいた有機農研の交流会には、戦前から『有機農』を貫いてこられたという農家の古老もいらっしゃっていました。
高度成長期の奔流の中、ひとり時代に逆らって化学薬品を拒み続けることには、周囲から(農協の指導部やきっとときには身内の方、同業の農家の方・・・)のどれだけの圧力がかかり、どれほどの強い信念が必要な営みであったことでしょうか・・・。
そして時は流れ、今、有機農業が国から推進される時代が到来している。それはなによりも時代からはみ出し続けた彼が、本当の正しい方向を見据えていたということの証明に他ならないのだと思います。