亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

新聞「恵妙」誌が顕正会の国立戒壇論を論破したんだって?

2016年11月24日 08時24分51秒 | 亡国の坂道 
宗門第二の機関誌と云われる「恵妙」の平成28年9月16日号に、顕正会が主張する国立戒壇論を「○○の一つ覚えの『国立戒壇』」として、下記に記したような特集記事が組まれていました。今回はその記事の全文を紹介しながら、宗門が日達管長以来依然として固執している、反国立戒壇に転じた邪義を破折することにしましょう。

今回恵妙に記された邪義を破折するに当たり、読者の便を計るために破折箇所の頭に番号を付けて論を進めたいと思います。

云く「『顕正新聞』八月五日号に七月度の総幹部会での浅井の発表が記載されている。その中で浅井は、日達上人、日顕上人及び宗門僧侶方を誹謗している。それは、愛知県の男子部幹部が末寺住職との話の中で、住職が「顕正会のいう国立戒壇は謗法だ」と述べたことについて、噛みついたものである。

浅井は「この坊主、大事の御遺命が何もわかっていない。細井日達・阿部日顕の己義を聞きかじっているだけです。(末寺住職が)『立正安国論の立正の具体的な姿は誰にもわからない』と。バカを言ってはいけない。『立正』が国立戒壇建立であることは、三大秘法抄・一期弘法附嘱書に明々白々ではないか。国立戒壇を建立すれば、国が安泰になる。これが立正安国ということなのです。国立戒壇を否定したいから、『立正の具体的な姿は誰にも分らぬ』などとごまかすのです」などと、自前の謗論を吐き散らしている。

①「顕正会にとって国立戒壇論は、自らの存在意義を主張するための唯一の拠り所であるから、何があっても死守したのであろうが、これまでも様ざまな角度から、その誤りを指摘されているにもかかわらず、頑なに聞く耳を持たない。その概要を以下にまとめておく」について

①に対する破折
未だに宗門の坊主らは、顕正会の叫ぶ国立戒壇論に対して「何があっても死守したいのであろうが」などと、こうした脳天気なお門違いの言辞を弄して喜んでいるようですが、国立戒壇こそが御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願なのであります。それは立正安国論の御精神を正しく理解すれば三歳の稚児でも解ることなのでありますが、戦後、日蓮正宗最大の信徒団体に成長した創価学会は、真の日本の広宣流布を実現するとなれば、政治的にも発言力を持たなくてはならないとして、政界に打って出ることにしました。創価学会は当初「創価学会文化部」という政治結社に相当する別組織を作り、国立戒壇を実現する方法を選択したのであります。

日蓮正宗が唯一の大目的としてきた国立戒壇を実現するため、創価学会第二代会長の戸田城聖氏は、次のような所感をのべていました。云く「我らが政治に関心も持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華 昭和31年8月号)と、政界進出の理由を高らかに宣言していたのであります。

ところが世間は、創価学会が主張する国立戒壇に対する風当たりは意外に冷淡で、創価学会が国立戒壇を掲げて選挙戦を戦うとなると票が全部逃げてしまう。思った以上に票が取れないばかりか、国立戒壇を前面にだすと、選挙にまったく不利だとう事が解ってくると、学会は宗門に対して、奇想天外なとんでもない言いがかりをつけて来ました。云く「今、国立戒壇を云うと日蓮正宗は憲法違反で潰される」などと。一般世間の法律に疎い坊主たちは、こうした学会幹部の口車に乗せられて、大聖人以来七百年、唯一の大目的としてきた国立戒壇を簡単に捨ててしまったのであります。要するに、創価学会の選挙は、目的と手段が完全に入れ替わってしまったのであります。つまり選挙に勝つためには、国立戒壇は邪魔だから捨ててしまえとなったのです。

当時の坊主の多くは、国立戒壇に対する意識が希薄なあまり、国立戒壇を放棄することへの重大性が理解できなかったのか、やれ「民主主義だ」「憲法20条の信教の自由だ」「憲法違反だ」という学会流の選挙戦を中心にした論法で攻め立てられる坊主坊主らは抗弁の理由も定まらず、あっさり、国立戒壇を捨ててしまったのであります。その重大性が未だに解っていないために、顕正会の云う国立戒壇論を「○○の一つ覚えの国立戒壇論」あるいは「何があっても死守したのであろうが」などとした、能天気な邪義を垂れ流し、高笑を決め込んで喜んでいるのでありますが、この構図は、脳性小児麻痺を患いそこなった悪ガキが、取り返しのつかないような犯罪を犯して、己を産み育ててくれた父母の顔に泥を塗り、はしゃぎまわっている姿と哀れな姿なのであります。
   
御本仏大聖人様は立正安国論の中で、仏国の実現を図ることが、国家・国土を安泰ならしめる唯一の方法であることを懇切丁寧に御教示であります。安国論に云く「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」と御教示せられ、つづけて「日蓮は日本の人の魂なり」(種々御振舞い御書)と仰せでありますように、御本仏を魂とする国は、まさしく仏国となるのであります。それは、日本国の魂が日蓮大聖人になるという事であります。したがって御本仏日蓮大聖人を魂とする国は、御教示の如く防非止悪の戒により、凶悪犯罪は夢のごとく無くなり、飢餓もなければ、災害もない、悲惨な戦乱からも解放された、永遠不滅の国家・国土となるのであります。

その仏国を実現する秘術とは、一団体の漠然とした帰依による戒壇建立、あるいは、一宗門の私的な戒壇建立にとどまったのでは到底仏国は実現しないのであります。それは、全国家的な帰依による戒壇の建立、即ち、全国民の燃えるような帰依による国立戒壇でなければ適わないのであります。仏法のためには身命も惜しまぬ護法の大道信が国の朝野に満ちた時、国の命運を賭して戒壇の大御本尊を御守護申し上げる。そうした全国民的な規模の国立戒壇を立てることによって、はじめて仏国が実現するのであります。今の日蓮正宗の坊主らには、そうした三大秘法の妙々甚深の功徳と秘術がまったく理解できていないのであります。

②まず、浅井が国立戒壇の依拠とする大聖人の御言葉は、「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書1595頁)また、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。事の戒法と謂ふは是なり」(御書1675頁)と、「国主」「王臣一同」が正法に帰依して、戒壇建立を発願する時、最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」について

②に対しする破折
尤も此の二つの御文こそが、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇の建立を勧奨せられた大切な御文であります故に、妙信講・顕正会が国立戒壇の衣文とするのは当然であります。

広宣流布の暁の「事の戒壇」建立の地たる最勝の地とは、第二祖日興上人以来、日本国の富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原に国立戒壇を建立することが七〇連綿と連綿と伝承されてきたのであります。故に第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。仰せられているのであります。

ところで浅井会長が妙信講を名乗っていた昭和51年当時、「三大秘法抄を拝し奉る」と題して、妙信講員のために講義された「三大秘法抄」の講義録が拙者の手元にあります。今となってはこうした正しい講義禄は人目に触れることは、ほとんど無くなってしまいました。今、富士門流の中で国立戒壇に関する邪義が横行するなかでは、この講義禄は大変貴重な存在となってしまったようです。時に当たってこの機会に、浅井会長が妙信講員のために講ぜられた三大秘法抄の講義録の国立戒壇論の項目のみを抜粋して謹んで掲載させて頂くことにしました。

これこそが、大聖人様以来富士門流大石寺に存在した三大秘法抄の解説文であり、就中国立戒壇に関する正論だと確信しています。

云く「本門寺の戒壇は大聖人究極の御願業である。これは、本門の本尊の妙用により、日本国を仏国土に、ひいては一閻浮堤(全世界)の仏国土化を事相の上に顕現するものである。大聖人の御在世においては、本門の題目と本門の本尊は顕われ給うとも、この本門の戒壇の一事においては未だ時至らず、よってその実現を未来に御遺命されたのである。しかしながら、本門の戒壇に安置すべき御本尊だけは、弘安二年十月十二日、末法万年のことを慮(おもんぱか)られ堅牢なる楠木の厚き板に御自らお認(したた)め遊ばされ、未来の御用意と遊ばした。この御本尊を『本門戒壇の大御本尊』と申し上げる。これぞ三大秘法の随一、大聖人出世の御本懐、日本を始め全世界の一切衆生に授与せられた一閻浮堤総与の大御本尊である。

よって聖人御難事には『此の法門申し始めて今に二十七年弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつしろしめせり』と。まさしく弘安二年の大御本尊建立を以って出世の本懐と仰せられる。よって日寛上人は『なかんずく弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟・本懐中の本懐なり、すでにこれ三大秘法の随一なり、いわんや一閻浮堤総体の本尊なるゆえなり』と。而して大聖人はこの御本尊を弘安五年に日興上人にご付属され、本門戒壇の建立を御遺命遊ばしたのである。その御付属状(一期弘法抄)に云く『日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり』と。『日蓮一期の弘法』とは大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事、そして本門戒壇の建立については、『国主此の法を立てらるれば富士山に』と仰せられ、委細をすべて日興上人に口伝遊ばされたのである。

但し、門家には未だ本門戒壇の何たるかを知る者はいない。よって未来のため、その内容を明かし給うたのが本抄である。本抄が一期弘法抄の助証であるとの意はここにある。実に、御書四百四篇の中に、本門戒壇の意義・内容を明かされたのはこの三大秘法抄だけである。さて、本門の戒壇は、どのような時に、どのような手続きで、何処に立てられるべきか、以下本文にそれを拝する。まず時については『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』とお定めである。これは広宣流布の暁の、国家と仏法の関係状態を明かされたものである。日本国家がこのような状態になった時が戒壇建立の時と定められたのである。

以下一文づつ拝すれば『王法』とは、国家統治の最高権力・統治主権・国家権力の意である。またその活動に約して一国の政治、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等をも意味する。要するに、国家統治に関わる種々の概念を包括した言葉である。『王法仏法に冥じ仏法王法に合して』とは、国家権力が三大秘法を根本の指導原理として尊崇擁護し、また三大秘法が国家の繁栄・国民の幸福のために生かされる状態をいう。これは大聖人の仏法が単に個人の信仰の次元にとどまらず、国家次元において受持されるということを意味する。そもそも国家の盛衰は国民一人一人の幸・不幸をその中に包含している。ゆえに大聖人は『一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事』と仰せられる。よって、個人が安穏であるためには国家が安泰でなければならない。国家が安泰であるためには王法が仏法に冥ぜざるべからずというのが立正安国論の御趣旨であり、また本抄の御指南である。

さて、王仏冥合の具体的姿はいかにといえば、それを次文に明かし給い『王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』と仰せられる。『王』とは国主、『臣』とは国政にたずさわる者、『王臣』の二字の中に全国民が含まれていることはいうまでもない。すなわち、国主も、国政にたずさわる者も、全国民も、心から本門戒壇の大御本尊を信ずるのである。『有徳王・覚徳比丘』とは涅槃経に出てくる故事である。昔、歓喜増益如来の滅後・仏法まさに失せんとする時、覚徳比丘という聖僧あって身命も惜しまず正法を説いた。この時、多くの破戒の悪僧あって怨嫉しこれを殺害せんとした。その時、有徳王がかけつけ、身を以って覚徳比丘を守り、ついに命を失ったが、その功徳により阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じたという。この覚徳比丘の姿はまさしく御在世の大聖人のお姿であり、また事の広布の時の御法主上人のお姿である。

但し御在世には国家権力は大聖人を守るどころか流罪死罪にし奉ったが、事の広布の時には王臣一同に戒壇の大御本尊を守護し奉るのである。この時の王臣の三大秘法受持は、ただ護法の大導念より出る純粋なものである。覚徳比丘も法の為・国のため不借身命の説法なら、護法の有徳王も純粋捨身である。いやしくも為政者が自己の政治野心のために宗教を利用したり、また宗門が権力にへつらって栄達を計ったりするような関係は、大聖人のもっともお嫌い遊ばすところである。王仏冥合の大精神はこの『有徳王・覚徳比丘』の仰せを規範として深く拝さなくてはならない。末法濁悪の未来に、大聖人の御在世の信心に立ち還って立正安国の大精神を以って一国を諫める宗門、そしてそれに呼応して本門戒壇の大御本尊を護持せんとする不借身命の熱誠が一国上下に満ち満ちる時が必ず来る。これが大聖人の未来を鑑み給うた御予言であり、御確信であられる。その時が戒壇建立の時なのである。

次に戒壇建立の手続きについては『勅宣並びに御教書を申し下して』の一文がそれに当る。『勅宣』とは天皇陛下の詔勅、『御教書』とは当時幕府の令書、いまでいえば国会の議決がそれに当る。日本一同に信ずる事の広布の時がくれば、国会の議決も問題なくなされよう。要するに『勅宣並びに御教書』とは、国家意思の公式表明を意味するものである。〝本門戒壇の大御本尊を日本国の命運を賭しても護持し、本門戒壇を建立いたします〟という国家意思の表明である。かかる手続きを経て建立される本門戒壇なるゆえ、これを宗門では国立戒壇と称してきたのである。しかるにいま、世間にへつらって国立戒壇を否定するため、御本仏の聖意を曲げ『勅宣・御教書』を解釈して『建築許可書』などという無道心の麤語(そご)が宗門に横行しているが、これらはまさに魔説と断ずべきである。

さらに、本抄に『勅宣』と仰せられた深意を拝するに、当時皇室は幕府に実権を奪われて有名無実・衰微の極にあったのである。しかるにこの仰せあるは、未来を鑑みての深き御聖慮と拝し奉る他はない。大聖人は一往時の国家統治者を『国主』と呼ばれている。ゆえに北条時宗を指しても『国主』と仰せであるが、再往日本の真の国主は天皇であることの御意は諸御書に明らかである。末法万年に伝わる仏法を守護する王法が、一時の英雄や覇王ではふさわしくない、それらには永続がないのである。日本が三大秘法有縁の妙国ならば、永遠の仏法を守護するに本有の王法が存在しないはずはない。この使命を持っているのが日本の皇室である。この使命あればこそ、世界に類を見ぬ永続を見るのである。たとえ時により衰微があろうとも、時来たれば必ず仏法有縁の『本化国主』が皇室に出現し、以後万年にわたり三大秘法守護を以って皇室の唯一の使命とすることになるのであろう。とまれ、本門戒壇の大御本尊建立の五ヶ月のちに、事の広布の時の天子のために紫宸殿の御本尊を顕わし給うた御事跡と、本抄の『勅宣』の仰せとを思い合わせるに、ただ凡慮の及ばざる甚深の御聖慮を感ぜずにはいられない。

次に『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて』とは場所についての定めである。ここには形容詞だけで地名の特定はないが、一期弘法抄の御文よりして、日本第一の名山富士山を指し給うものであることは明らかである。さらに富士山の広博たる裾野の中には、南麓の景勝の地『天生原』がその地域と定められ、歴代法主により伝承されている。すなわち日興上人は『国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて三堂並びに六万坊を造営せらるべきものなり』(大坊棟札本尊裏書)と。また日寛上人は『事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり』(報恩抄文段)と。

次に『時を待つべきのみ』とは、門下への勧誡である。勧とは、事の広布は必ず来るによって身命を惜しまず不断に弘通せよとの御激励。未だ時の来たらざるうちに戒壇を建立することは断じて不可なりとのお誡めである。いま正本堂を見るに、まさしくこの御聖意に背くものである。もし一国の謗法と邪正を決せぬうちに戒壇を立てれば、一国において邪正肩を並べ、謗法与同の義を生ずるから不可なのである。世間にへつらい謗法呵責の道念を失えばこそ、時至らざるに濫りに立てるなどの違法がなされるのである。論より証拠。正本堂にキリスト教神父を招いた事実こそ、何より謗法与同の実態を雄弁に物語るものではないか。大聖人の御心を冒涜することこれより甚だしきはない。

次に『事の戒法と申すは是れなり』とは、迹門の戒壇に対して、如上の国立戒壇を『事の戒壇』と仰せられるのである。すなわち一国総意の国立戒壇建立により、始めて本門戒壇の大御本尊は公開され、そこにおいて戒儀が執行されるのである。それまではあくまで内拝であるから義の戒壇と申し上げる。『三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給う戒壇なり』とは、本門戒壇の利益広大を仰せ給うのである。この戒壇は日本のためだけではない、中国・印度さらに全世界の人々がここに参詣し、懺悔滅罪・即身成仏を祈る処である。いや大梵天王・帝釈等も来下参詣する戒壇である。まさにその利益の広大なること、人界ばかりでなく天界にまで及ぶことを仰せである。

いま、国立戒壇を否定する理由の一つとして、大聖人の仏法は全世界の仏法であるから国立は不可、などという者があるが、これまた全く為にする己義である。本門戒壇が日本だけのもの、日本だけに閉鎖する意ではない。実に全人類のための大仏法を日本が守護するという意味である。これは、日本が大聖人御出現の本国であり、三大秘法広宣流布根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。ゆえに本抄には、日本の広宣流布・王仏冥合を以って国立戒壇を立てよとし、それが三国並びに一閻浮堤の人々のためであると御意せられるのである。全世界に広宣流布した暁を待って立てよとは全く仰せられていない。本抄に仰せの『王法』とは、まさに日本の『王法』、『王臣一同』とは、日本のそれ、『勅宣・御教書』とは、日本の『勅宣・御教書』なのである。かくのごとき国立戒壇が全世界に開かれるのである。

考えてもみよ、全人類の即身成仏の大法を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護する日本は、全世界から感謝されて然るべきではないか。もし、かかる仏国日本を怨嫉憎悪する他の国家・国民があれば、罪はその方にある。ゆえに本尊抄には『堅王と成って愚王を誡責し』と仰せ給うのである。いずれにしても、御本仏の御遺命のまま、全世界のために国立戒壇を立てるのに、何の遠慮・気がねがいろう。実は国内の選挙のために国立戒壇を曲げたにもかかわらず、その理由を〝世界宗教のゆえ〟などというはまことに見え透いた誑言というべきである。実に国立戒壇の建立こそが、一閻浮堤に広宣流布する重大な鍵なのである」と。国立戒壇の項を締め括られています。

さて、本題に戻るとして、恵妙の記事には「最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」などと記してありますが、宗門の本心は那辺にあるのでしょうか! かつてはニセ戒壇正本堂を指して「広宣流布の事の戒壇」等と大宣伝していたのであります。また、第六十七代を継いだと称する阿部日顕管長は、次のような己義を喧伝していました。云く「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。天母原の問題がありますけれども、かえって天母原でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和48年8月号)などと。こうした恐るべき邪義を声高に叫びながら、それを他人の性にしていたのであります。これは阿部日顕隠居の本心から出た邪義の最たるものと思われたのでありますが、阿部日顕隠居は日達の邪義を忖度しながら己の本心を言い振らしているのであります。この坊主の狡さが透けて見えます。

③「浅井は、この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はなくても義がある、という。しかし、この御金言を拝すれば明らかなとおり、国主が立てるのは「此の法」であって、戒壇とは示されていない」について

③に対する破折
バカを言ってはいけません。坊主のいう「この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はない」などと、とんでもないバカげた事を言っていますが、ここでいう「二つの御言葉」とは、三大秘法抄にお示しの「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、乃至霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」の御文と、一期弘法抄の「日蓮一期の弘法白蓮日興に之を付属す、乃至国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる二つの御文を指しているのであります。これら二つの御文を素直に拝読するならば、いずれの御文の後には「時を待つべきのみ」として、時に至らぬうちに事の戒壇と称して、決してニセ戒壇を立ててはならないと誠誡を加えられているのであります。坊主にはその意味が理解できないのか「国主が立てるのは『此の法』であって、戒壇とは示されていない」とする御文の解釈こそ、屁理屈の最たるものであり、切り文の典型であります。

大聖人様が三大秘法抄で戒壇について、わざわざ「戒壇とは」と断わられて、つづけて「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」と仰せられる王仏冥合の本門戒壇とは、広宣流布の暁の王仏冥合が成った時の戒壇であります。したがって、その時立てられる本門戒壇とは国立戒壇に他ならないのであります。また、一期弘法抄の「国主此の法を立てらるば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる如く、日本国の本有の国主である時の天皇陛下が三大秘法を信受して妙々甚深の功徳を感得し、紫宸殿御本の御下付を発願された後に、勅宣を発せられて立てられる本門戒壇とは、これまた国立戒壇に他ならないのであります。今の宗門の謗法僧のバカ坊主には、此の二つの御文が全然読めないのであります。

大聖人様から二祖日興上人が賜った一期弘付嘱書には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御下命遊ばされていますように「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」で、一節の文章になっているのであります。それを『此の法』だけにとどめて「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文を切り捨てるとは恐れ入りましたね。こんな僧侶は国語能力に著しく欠けるバカ坊主と云うべきで、こういう坊主は元々仏飯を食む資格はないのであります。こんな邪義を垂れ流す坊主が、のうのうと只飯が食らえる環境が未だに存在すること事態、絶対にあってはならないのであります。

④「勅宣並びに御教書を申し下して」との国主の意思表明(戒壇建立の発願)があったとしても、国家が戒壇の建物を建立することにはならない」について

④に対する破折
この坊主には「勅宣並びに御教書」の意味が理解できていないようです。「勅宣」とは、天皇陛下が発する詔勅の事であります。「御教書」とは、鎌倉時代に於ける国主の発する令書の事でありますが、現代的に訳せば、国会の衆参両院の本会議に於ける議決となるのであります。したがって、本門寺の戒壇=国立戒壇を建立するに当たっては、こうした二重にわたる国家的手続きを経て、建立される戒壇とは、まさしく国家意思の公式表明を内外に示して建立する戒壇となるのであって、これは国立戒壇に他ならないのであります。

⑤現に、大聖人が戒壇建立の先例として挙げられる、日本天台宗・伝教大師による迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている。宗門で建てたものが国立戒壇であるはずがない」について

⑤に対する破折
伝教大師の建てた迹門の円頓の戒壇について、大聖人様は次のように仰せであります。「去ぬる延暦二十一年正月十九日天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず、最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり」(報恩抄) とあります様に南都六宗の碩徳は、伝教大師の発する鋭い舌鋒に打ち負かされて、十四人全員が桓武天皇の御前で謝状を認め叡山の天台法華宗に改宗して、伝教大師の弟子となっているのであります。

伝教大師の戒壇建立に至る戦いは、今にして思えば、専政政治の封建時代の想像を越えた困難を乗り越えて、桓武天皇の勅許を経て建立された法華経迹門の戒壇なれば、簡単に「宗門で建てたものが、国立戒壇であるはずがない」などと、まるで鬼の首を取ったかのような喜びようですが、この坊主は専政政体と民主政体の区別すら理解が及ばない、相当とろい坊主のようです。伝教大師の時代は大聖人様以前の専政政治の真っ只中であれば、桓武天皇(国主)一人の正法(法華経)受持で事は足り、国家意思の決定は成されたのであります。

ところが今日の民主政体、すなわち民主主義の時代には多数決によって物事が決せられるのであります。その大前提を度外視してこの坊主は「迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている」などと、伝教大師の立てた法華経教迹門の戒壇を貶めていますが、伝教大師一人命がけで闘って戒壇を建立した時代的背景を考えれば、法華経教迹門の戒壇といえども、国立戒壇に匹敵する大戒壇だったのであります。

ゆえに大聖人様は撰時抄の中で「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒(けんどく)尸那(しな)一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」と述べられています。

さらに四信五品抄には「夫れ人王三十代欽明天皇の御宇に始めて仏法渡りしより以来、桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず、爰に延暦年中に一人の聖人有って此の国に出現せり。所謂伝教大師是なり。此の人先より弘通する六宗を糾明し、七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。王法も二に非ず。法定まり国清(す)めり」と仰せられています。

こうした伝教大師一人の闘いに依って、日本の仏法はただ一門となったのであります。そして王法も一つとなって、桓武天皇も、より威徳が増し、国家が法華経迹門の功徳により、清らかに澄み渡ったのであります。しかしながら、いかに伝教大師の立てた法華経迹門の戒壇と雖も、像法過時の「理の戒壇」である上に、第三・第四の慈覚・智証の二人によって真言の毒が混ぜられ、土泥に終わってしまったのであります。

⑥「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない。その時、どうやって本門戒壇の大御本尊を護れるというのか。過去にも、国王が一旦は仏法に帰依しておきながら、後に変心して仏法を破滅に追いやった前例は、インド・中国・日本にも見られる。よって、大御本尊安置の堂宇が国立(国家が建てて国家が管理することになる)ことは、絶対にあってはならないのである」について

⑥について破折
坊主らは「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない」などと言って、この不安は浅井会長の発言のごとく装っていますが、それは自らが懐く不安を、あたかも浅井会長の発言の如く見せかけているのであります。「政権が変わればどのようになるかわからない」とする不安は、何処から出て来たかといえば、彼のニセ戒壇正本堂の建設から端を発しているのであります。

思い起こせば、昭和40年の春、創価学会の池田大作と第六十六世を継いだ日達管長との間で、下手な漫才の掛け合いを思わせるようなやり取りが、大白蓮華の巻頭を飾ったのです。「もはや広宣流布」と題した記事が掲載されたのですが、それによりますと、日達管長の云く「昨年の春、池田会長と談話をした時、私がすでに広宣流布している。と言ったら、池田会長は『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられました。私はその見識に深く感嘆したのであります」(大白蓮華 昭和40年1月号)という二人の驚くべきバカげた談話が紹介されていました。

つまり舎衛の三億という逸話を引き合いに出して、日本の人口の三分の一が、創価学会員となった時が広宣流布という邪義でありますが、この論法では、未だ、国民の三分の二は日蓮正宗の信徒でもなければ、創価学会員ではないことになります。そうした場合、坊主が心配するような「政権が変わればどのようになるかわからない」といった心配が消えないことになるのは当然のこととして、国が建てる国立戒壇は坊主は絶対に反対したいのであります。

大聖人様は、何も国民の三分の一が入信したら、広宣流布だとは一言も仰せになっていないばかりか、「権教・権門の輩を一人もなく攻め落とせ」(如説修行抄)と仰せられ、それまで「時を待つべきのみ」(一期弘法抄・三大秘法抄)と仰せられているのであります。大聖人様が仰せられる、権教・権門の輩を一人もなく攻め落とすほどの大折伏が敢行され、戒壇の大御本尊様を守護するに於いては、全世界の人々の為に、日本国の命運を賭しても御守護申し上げるという機運が日本の朝野に満ちてきた時には「政権が変わればどのようになるかわからない」といった不安は起こるべくもない、為にする杞憂となるのであります。

それともう一つ、宗門が絶対に譲れない問題として挙げているのが、国立戒壇を立てるとなると「国家が建てて国家が管理することになる」という問題でありますが、広宣流布の暁に国立戒壇を立てるに当たっては、国が口だけ出して国家の財政負担を一切伴わないという事は絶対にあり得ないのであります。したがって、国立戒壇は当然の事として、国と信徒の有志が浄財を拠出して建立することとなり、戒壇の大御本尊は、国家が時の天皇陛下(本化国主)と共に国の命運を賭して、全世界の人々の為に御守護申し上げる事になっているのでありあます。それが三大秘法有縁の国、日本国の仏法上の使命なのであります。

またその事を「富士一跡門徒存知事」には「右、王城においては、殊に勝地を選ぶべきなり。就中、仏法と王法とは本源体一なり。居処随って相い離るべからざるか、仍って南都の七大寺、北京の比叡山、先蹤これ同じ、後代改まらず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城を一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。

本門戒壇の大御本尊様は、決して、宗門の坊主の所有物にとどまるものではなく、国家的な監理と帰依を基本としているのであります。その趣を「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)との仰せを拝せば明らかなのであります。

⑦そもそも、浅井は宗門僧侶を種々誹謗するが、現に七百数十年の間、様々な歴史的危機を乗り越えて、戒壇の大御本尊を直接的に守護してきたのは、宗門であり、それを支えてきたのが在家信徒の外護の赤誠である。かくのごとく、仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない。この一点でも、顕正会が異流義の異教徒と化していることがわかろう、というものだ」について

⑦についての感想
ここに記載されている過去の歴史的事実については、何も否定するものではありません。また「仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない」との指摘については、まったくお話の通りであります。今日の顕正会は、彼の英邁な第六十五世を務められた日淳上人から認証状戴いた当時の、熱原の法華講の命を継ぐ正直にして信心一筋の集団と云われた内の妙信講が、名誉と誇りをかなぐり捨てて、外の顕正会へと名前を変えて飛び出して行ってしまいました。今や、僧侶の一人も居ない在家教団となってしまったことについては誠に残念の一語に尽きるのであります。
 
最後に法華経本門戒壇が、何故に国立戒壇でなければならないかについて、簡単に説明しておきます。

第一に、伝教大師が建立した法華経迹門理の一念三千の戒壇と、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の戒壇とは、法体が違うということを第一に挙げなくてはなりません。第二には、衆生の機根の違いを挙げなければならないのであります。

はじめに法体の違いを説明するならば、法華経迹門理の一念三千は、生命の本質、即ち、生命の極理を未だ解き明かしていません。それに対して、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千は、二乗作仏、あるいは、女人成仏を説き明かし、我らが一念に、三千種の世間が具わる実相を説き明かしています。そのことを開目抄には「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果を説き顕わす、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」とあるのがそれであります。

此処で仰せられる「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」の御文の意を一言で説明するならば、法華経本門寿量品に来て始めて生命の永遠、即ち、生命の本有常住が説き明かされたという事であります。

第二に機根の違いを挙げるなら、大聖人様は病と薬の関係を衆生と経の関係に置き換えて説明されています。すなわち病の軽い者には少薬を飲ませ、病の重い者には高貴薬を施すのです。釈尊滅後、一千年を正法年間としています。次の一千年を像法年間としています。合わせてこの二千年間の間に生まれてくる衆生のことを「本已有善」の衆生といっています。これらの衆生は過去世において、心田に仏になる種を下種されている衆生とされています。正法一千年の衆生には、小乗経、権大乗経が最も適している。後の像法一千年の間に生まれてくる衆生も「本已有善」の衆生といって、過去世に聞法下種を受けていますが、病が少々重い衆生なので、法華経の迹門が最も適した衆生とされています。

亦、それ以後の、釈尊滅後正像二千年以後の末法に生まれてくる衆生は、最も病の重い「本未有善」の衆生といって、未だに一度たりとも、心田に下種を受けた事のない、荒凡夫ばかりが生まれてくる時代となるのであります。そのため末法に生まれてくる衆生には、最も効き目の強い三大秘法でなければならないのであります。

その事を三大秘法抄に次のように説かれています。「問う、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し、機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給うべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給うは教主釈尊の慈悲に於いて偏頗あるに似たり如何。答う、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照らすと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず、正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗叶えり、像法一千年には法華経の迹門機感相応せり、末法に入って始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり、機法相応せり。今此の本門寿量品の一品は像法の後の五百歳機尚耐えず、況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや、末法に入っては爾前迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量品の一品に限りて出離生死の要法なり、是れを以て思うに、諸仏の化導に於いて全く偏頗無し等云々」と。

要約しますと「問う、諸仏の施す慈悲は皆平等である筈である。仏の慈悲は何時の時代にあっても平等であるべきなのに、それほど優れた三大秘法を、正像二千年の衆生には与えず、末法に限るのは、仏の慈悲に偏頗、えこひいきがあるように思うがどうか。答う、〝仏の施す慈悲と利益には基本的に偏頗は無いのであるが、濁水に月影が宿らないように、謗法一闡提の者には慈悲と利益を施そうとしても謗法者が受付ないのである〟として、正法一千年の衆生には、小乗・権大乗が相応し、像法一千年の衆生には、法華経の迹門の教えが衆生の機根に合っている。末法入ると本門の寿量品の一品のみを弘通すべき時である。今此の寿量品の一品は像法の後の五百年の衆生の機根には尚耐えられない。況んや始めの五百年の衆生には耐えられない。如何に況んや正法の機においては迹門すら尚日浅し、増して本門をや。末法に入ってくると爾前迹門は全く、出離生死の法(成仏の法)にはならない。衆生の病と薬が合わなくなってしまったのである。是れを以て思えば諸仏の化導に於いて全く偏頗はないのである」と説かれています。

正像末の三時における仏様の慈悲には偏頗なしということは良く理解できたはずです。しかしながら、正法千年、像法千年を過ぎれば、時は五五百歳の末法万年の時代に移行するのであります。正像ニ千年の衆生と末法の衆生の機根の違いを知るならば、末法は時間的には尽未来歳まで続くとされていますので、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の三大秘法の広宣流布の暁に建立される戒壇は、道理として国立戒壇でなければならないのであります。そのことを次文に斯く仰せであります。

云く「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」と。

此処では御本尊の体相の違いを示されています。すなわち「五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊」とは、諸経に秘して未だ説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊、末法御出現の日蓮大聖人様の御事であります。その日蓮大聖人様こそ、久遠元初以来日本国に最も縁の深い、人法一箇の御本仏であらせられます。日本国は末法唯一人の御本仏出現の根本の妙国であるが故に、この御本仏様を国を挙げて尊崇申し上げなければなりません。もったいなくも、全世界の人々の懺悔滅罪と即身成仏を叶えて戴ける尊貴な御本仏様の御座所としては、当然の事として、日本国の威信を掛けて建立する、国立戒壇でなければならないのであります。

今、唯一の正系門家と謂われ、大聖人様の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心がこれほどまでに堕落し、大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇に目を剥いて反対し、異議を唱えています。それでいながら始末が悪いのは、自らの間違いを他人になすりつけて未だに反省するこを知らない。日蓮正宗の信心に一切の功徳を喪失した根本原因が、まさしくここに存するのであります。

この事は、まだほんのわずかな小事であります。今、ここで日蓮正宗の僧俗信徒は改めて自らの信心を振り返り、己の傲慢と浅識と不信を潔く捨てて歪曲を正し、急いで、御本仏大聖人様の顕わされた立正安国論で仰せられる四経の金文を改めて拝し直して、速やかに正信立ち還るべきであります。さもなければ、悔いを千歳に残すことになります。

安国論に云く「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り聖人所を辞して還らず、是れを以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起る、言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」と。

金光明経に云く「其の国土に於いて、此の経有りと雖も未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し賛嘆せず」と。

大集経に云く「仏法実に隱没せば、髭髪爪皆長く、諸法も亦茫失せん」と。

仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来たりて国を劫かし、百姓妄喪し、臣・君・大志・王子・百官共に是非を生ぜん」と。

薬師経に云く「若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月博蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」云々と。









妙信講員としての誇りと宗門僧侶の堕落

2016年10月06日 17時07分00秒 | 亡国の坂道 
いま、拙者の手元にかつての妙信講が発行していた、機関誌「冨士」157号と159号がが手元にあります。その中に昭和51年8月20、池袋の豊島公会堂で挙行された「特別講習会」に参加した妙信講の、壮年、婦人、男子、女子の四者の代表がそれぞれ発表した、妙信講員としての誇りと確信が綴られ、同年10月13日、同じく豊島公会堂で開催された妙信講の第六回婦人部大会での決意発表並びに宗門の堕落の実態を暴いた、歴史的驚くべき記録が記載されていますが、時に当たり今回はそれらの一部を紹介することにしましょう。

妙信講は昭和49年8月、国立戒壇を捨てないという理由で理不尽な講中解散処分を受けて、ちょうど二年目に開催された特別講習会は、浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長を中心に、益々燃えるような純粋な信心に立ち、希望に燃えて広宣流布は妙信講の手で成し遂げようと、入信者に御本尊が下付されないばかりか、御登山も叶わぬ中で、講中一丸となって頑張っている様子が綴られていますが、何故に、当時の妙信講員はこれほどまでに純粋にまとまって意気軒昂を貫き、一人の落伍者を出すどころか、日ごとに強力な折伏戦を展開しながら講員の増加は日ごとに増し、御遺命守護の闘いに組織を挙げて取り組む事が出来たのでしょうか!

それは一にも二にも、妙信講講頭浅井甚兵衛氏の裏も表もない、大聖人様を恋慕渇仰する純粋な信心と、講員一人一人の幸せを願う温情溢れる姿勢が組織の隅々まで浸透していた結果、組織全体は生き生きとして活力に満ち「自分ごとき者が良くぞ三大秘法を正しく実践する良き師匠に巡り会え、時と所を違えずして、正しい講中に縁できたものよ」という不思議な宿縁に粛然とした感謝の気持ちと妙信講員としての誇りが、個々の信心活動に反映されたものと思われるのであります。 

それとは対照的に当時の宗門内の様相は、三大秘法の精神をねじ曲げて正本堂なる偽戒壇を建てて、大聖人様の究竟の御願業たる国立戒壇を投げ捨てた揚げ句、政治野心に燃える創価学会と宗門と法華講連合会の三者が結託して、国立戒壇を主張する妙信講を宗門から追い出すことに成功した彼らは、「これで邪魔者はいなくなった。頸を切られた妙信講はやがて空中分解するに違いない」などと、妙光寺住職柿沼広澄前総監をして言わしめたものでありますが、それから三十数年という長い年月を要しましたが、その予言らしきものは完全に的外れのバカげたうわごととなってまいりました。

それは置くとして、今回は妙信講を代表した方々の「特別講習会に参加して」と題した決意発表と、第六回婦人部大会で暴露された、昭和51年当時の宗門の恐るべき謗法与同の実態を紹介することにします。

はじめに「特別講習会に参加して」と題して、「妙信講の歴史の原点といわれる八月、この意義を深くかみしめ、去る二十日の特別講習会に参加させていただき、まさに時が来たとの感激を強くこの身に実感したものであります。当日は豊島公会堂始まって以来、場内に立錐の余地のないことは云うまでもなく、講員が舞台から袖に至るまで埋め尽くし、会場にはすさまじいまでの熱気がみなぎっておりました。信心の新旧を問わず、参加した全員が浅井先生の烈々の指導に目頭を熱くし、師匠と運命を共にせんとの決意を充満させ、妙信講の歴史と使命の重大さをあたらためて命に染め、我々こそ妙信講の歴史を作って行くのだとの強い自覚に燃えたものであります。

云く「妙信講こそ、重大な御遺命守護のために生まれるべくして生まれてきた講中であり、仏勅を受けて立つとの常の先生の指導が、実感として胸に迫り、妙信講員としての誇りをむせかえる感激の中で、あらためて肚に納めたものであります。いま千載一遇の重大時に、我々しかできない大事の御奉公に青年として参加できる身の福運を思う時、自からも、御遺命守護のために生を受け、大聖人様との契りを果たすべき一分の使命を背負っているのであるとの自覚を、さらにさらに強くするものであります。顧問先生より始まって現在に至るまでの、一貫した妙信講の歴史と使命を始めて指導いただき、顧問先生・浅井先生の大聖人様にお仕えする純粋捨身の信心に、ただ々々弟子として良き講中、またとなき良き師匠に縁できたものと、熱いものが胸にこみあげてくるのをとどめることができませんでした。

浅井先生は、妙信講の歴史を創立期・再建期・試練と忍従期・そして諫暁期の四期にわけて指導され、その指導を伺う中、まさに妙信講こそ、宗門史上かってなき重大御奉公のために生まれるべくして生まれたのであることを再確認すると共に、妙信講の使命の何かも明かされなかった時代においても、先輩の方々が師匠に付ききり、黙々と御奉公を為し築きあげてきた今日に至る歴史をしっかりと受けとめ、さらにこの歴史を切り開くことこそ、我々青年部の使命であることを強く決意するものであります。妙信講の試練と忍従の歴史を命に刻み、“妙信講青年部こそ日本一の青年部たれ”との浅井先生の指導に応えるべく、まずは十二月の精鋭男子一千結集めざして万全の体勢を整え、御遺命守護に生涯をかける者として、使命を全うすべく死力を尽くして闘い、浅井先生にどこまでも付ききる決意であります」(男子部 鈴木 志郎 )と。

つづけて云く「去る二十日の特別講習会に参加させて頂き、妙信講創立以来の歴史を諄々と指導頂きまして、妙信講のただならぬ使命を胸に刻んだものです。まさに大使命あるがゆえに弾圧の嵐は吹きすさび、その一つ一つを顧問先生・浅井先生が乗り越えられた歴史を伺い、先生の弟子として御奉公できる福運をありがたく思ったものであります。創立期にはじまる顧問先生の剛直なる信心のお姿、そしてただ三大秘法の広宣流布を熱願して濁れる安易を捨て講中を再建された顧問先生・浅井先生。そして日淳上人猊下の「熱原の如く闘う法華講として御奉公せよ」との御命令こそ、今日、御遺命守護に御奉公せよとの大聖人様の仏勅と感じたものです。

そして試練と忍従の数々、いわれなき悪口・中傷・妨害の事実を伺い、云いしれぬ憤りを覚えると共に将来の御奉公を思われ耐え忍ばれた先生の御胸中を涙の中に排したものであります。さらに諫暁期に五年ぶりの御登山。その直後、謗法与同の「聖人展」をきっかけに浅井先生が一死を賭して立ち上がられたこと、まさしく大聖人の御命令でありました。いま日本の運命、世界の運命を背負っているのが妙信講の御奉公であることを実感するものであります。いまや先生の闘い、道理の前に悪は打ち破られ完結へ向かって一日一日と進み、悪が白日のもとに晒される日も近づいております。いよいよ始まった五万への本格的な斗いに向かい、妙信講の伝統精神に立ち、大聖人様よりおうなずきを頂く大前進をなしてまいります」(女子部 栗島 悦子 )と。

つづけて云く「さる八月二十日の特別講習会で、再建以来一貫した妙信講の大精神を学ばせて頂き、感激で胸がいっぱいでした。立錐の余地なき会場で浅井先生の一言々々をかみしめて拝聴する中に、よくぞ自分如きが宿縁深くして、熱原の法華講の大精神を継ぐ妙信講に縁し、憂国優宗護法の一念で捨身不退の御奉公に立たれるまたとなき師匠につききり、間に合って御奉公できる福運に、ただ熱涙の中に今後の御奉公を堅くお誓いしたものであります。これまで頂いた数々の指導の中に、再建以来使命あるがゆえに受けた試練と忍従の歴史を断片的に伺ってまいりましたが、時まさに御遺命守護の重大なる段階を迎えて開かれた特別講習会に、歓喜勇躍して出席さて頂き、当日は全身を耳にして拝聴いたしました。

実に妙信講創立期より顧問先生のひたぶるな赤誠にただただ頭の下がる思いと共に、大聖人様の御願業たる三大秘法広宣流布を唯一の目的とせられ「権勢に諂うな、阿るな、曲げて安易に住するな、唯恐れるは仏の金言に違わんのみ」との再建の精神、さらに時の日淳上人猊下より「熱原の如く闘う法華講となって御奉公せよ」と、今日あるを見通され御認証を賜った講中の大精神をしかと命に刻んでまいりました。そして試練と忍従の年月、さらに御遺命守護の御奉公に至る今日まで、三千、五千、七千と涙の中に折伏は進められ、その間、顧問先生・浅井先生がお受けになられた想像を絶する弾圧の数々をつぶさに伺い、胸の中から思わず熱いものが込み上げてまいりました。また管長猊下を利用して池田がなさしめた歪曲と謀略の卑劣な実態を知り、心の底から憤りを覚えると共に、日興上人の「時の貫主たりと雖・・・・」の御文の重みをひしひしと感じ、妙信講の使命の重大なることを強く胸に焼き付けたものです。

すでに全講中は、五十六年めざし七月初陣の勝利の中に堂々の前進がなされております。実に再建以来の使命とは今日の御奉公であり、いま宗門広しといえども誰人も御遺命の正義を口にせず、またその資格もない時、仏勅を受けて立つ妙信講なるがゆえに大聖人様の御守護を得、五万への前進の中に厳たる御裁断が下り、完結の日がくることを強く確信するものであります。いま『仏法は体のごとし』の御金言の如く、日本の崩壊は速度をまし、政局は極度に混迷し、異常気象・地震等の恐怖はかねて浅井先生の御予見の通り現実となって迫りつつあります。この一触即発の世界情勢の中で、御遺命守護の御奉公がいかに急を告げ、五万の前進がどれほど重大なるかを肝に銘ずると共に、再建以来十九年の歴史と重大使命を命に刻んだ者として、今後、いかなる事態があるとも不惜身命の決意に立ち、本部会館の大御本尊に祈りをこめ、力の限り御奉公してまいります」(婦人部幹事)と。

次に第六回婦人部大会で明らかにされた、昭和51年当時の、宗門の恐るべき謗法与同の実態を紹介することにします。

はじめに「本日ここに浅井先生をお迎えして、第六回婦人部大会が開かれまして、まことに感激でいっぱいであります。この大会こそ、五年後五万達成に向かう婦人部の本格的な出発であります。顧問先生・浅井先生には、再建以来、今日の御奉公のため使命あるがゆえの試練と忍従の十二年、更に四十四年五月謗法同座の聖人展に講中の命運をかけて諫訴いらい、諫暁七年、この十九年を、ただ一国広布・国立戒壇建立の一点を見つめられての御奉公でありました。ことに御遺命守護に至っては、四十七年、先生の捨て身の諫暁により一度は歪曲を訂正しながら、宗務院・学会は一分の懺悔もなく、度重なる違約と怨嫉についに第十六回総会で、『徹底してその悪を断つ』と先生は決然と立ち上がられ、講中一結して新たな前進が開始されたのであります。そして昨年を『降魔の年』として、折伏・法廷斗争・諫暁運動の三大路線が強力に進めらられる中、本年は『大諫暁の年』と銘打たれ、今こそ御奉公も解散弾圧以来三年目を迎えて、大聖人様の御守護と先生の大確信に守られ、ますます鉄石の団結のもと、完結を目指した斗いが進められております。

今、三大路線の強力な進展を見る時、池田は三度にわたって公開討論を逃げ、管長猊下には公開御伺書に御回答もなく、いまや攻守全く所をかえ、正邪歴然であり、大聖人様の御裁断が下る日も近きことを大確信するものです。去る五月の第十八回総会の席上、浅井先生は、『内に御遺命の歪曲、外に戒壇の大御本尊誹謗の仏敵あり、この内外二重の失(とが)により、一国は傾き災難は必ず起こる。まさしく七十年代は末法濁悪の入り口、八十年代こそその直中(じきちゅう)であり、仏法世法共に大変な時代が到来する。妙信講こそが正しい力を持って大聖人に御奉公しなければならぬ。大聖人御入滅七百年の五十六年までに五万を達成して、熱原のごとき鉄石の大法華講を作り、来たるべき仏法上の御奉公に備えよう。その実践の中に御遺命の完結が必ずなされいるのである』と指導され、五年後五万達成が打ち出されたのであります。

そして本年を第一年目として、その初陣の七月法戦を大勝利し、五万への確証が沸く時、本日ここに講中の先陣を承わってこの大会が開かれたのであります。先生は、『五万の大法華講は熱原のごとき不惜身命の信心を今に移さなければとうてい成し得ない』と、さらに、かの熱原の法難のおり捕らえられた二十数人の中に、女性一人がいたことが後世に伝えられていることをあげられ『妙信講の婦人部が、熱原の歴史に残る不惜身命の女性に負けない婦人部に成長すべき出発がこの大会である』と指導され『五万達成は婦人部の手で』と大号令を下されたのであります。先生は常々『婦人の強盛なる信心なくして広宣流布はあり得ない』と指導でありますが、婦人部こそ広宣流布の母体であります。婦人としては一家の要(かなめ)である共に主人の信心の支え柱であり、母として子供に影響を与えることまことに大なる上、御本尊の功徳を大衆に知らしむる最前線であります。御在世には求道心の鑑(かがみ)と称される日妙殿を初め、大聖人様に内助の功をめでられた千日尼、そして主人の信心が危急存亡の時、大きな支えとなった池上兄弟の奥さんの信心があり、今に伝えられております。

今、私達は値い難き御本尊に値い得、良き講中でまたとない師匠のもと、生涯二度とない御奉公が叶い、しかもこの前進の中に罪障深き婦人も宿命転換ができることをまことに有難く思うと共に、御遺命守護の御奉公も重大なる段階を迎えて、今こそ仏勅を受けて立つ妙信講の婦人部として、御在世の婦人に勝るとも劣らぬ強盛な信心に立ち、五万への土台となって力強く前進しなければなりません。今歪曲を諫めるべき宗門は池田と心合わせの上、七百年来かってなく腐敗し、先生の予見されたごとく、一国社会の世相が、新尼抄の御文を眼前にせんとする時、一国諫暁の基盤たる五万達成は急ぐ旅であり、先生の命がけの法廷斗争にお応えできるのは、ただ折伏以外にはないと心に堅く決意し、本日の先生の指導をしっかり受けきり、婦人部長のもと一丸となって各支部の中で強力な推進力となり、五万めざして力いっぱい前進してまいりましょう」(婦人部幹事 佐藤 真理子)と。

次に「十月十三日、大聖人様の御入滅遊ばされた桂(よ)き日を三日後にした本日、第六回婦人部大会が堂々と開かれたこと、感激でいっぱいであります。大聖人様御入滅なされるに当たり、最後に立正安国論を御講義遊ばされたと伺っておりますが、御一生を通じて大聖人様の仰せ遊ばすところ、願いとされるところは、『破邪・立正安国』の一言に尽きるものと拝するものです。宗門七百年の伝統も、謗法厳禁・破邪立正安国の精神でありました。大聖人様は、『一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり』と仰せであります。ところが、今回、顕正新聞に掲載された宗務院役僧並びに夫人達が、大聖人様が『真言亡国』と破折せられた真言宗の本山・高野山、さらには平安神宮と、のうのうと謗法の寺社めぐりをしている写真を見て、激しい憤りを感じたのもです。仏法の深い道理はわからずとも、日蓮正宗の信徒として入信した時より、謗法禁断は誰もが承知している基本的なことであります。にもかかわらず、宗門役僧と寺族という、まさに信徒を教化すべき立場にある者が謗法の寺社めぐりをするとは、大聖人の御金言、日興上人の身延離山の御精神をなんと拝するのか、あまりの無信心に呆れるばかりであります。

そして、ここまで腐敗し堕落しきった宗門首脳部だからこそ、池田の御遺命歪曲を諫めることもできず、その腐敗・堕落につけこんだ池田の歪曲の陰謀が生じたことを痛感するものです。あの正本堂の完工式にキリスト教の神父を招くという、我々の度肝を抜くような事実を知った時の驚きは計り知れず、そのようなことが許される不思議さに理解に苦しんだものでしたが、いまそのいきさつが判然といたしました。学会はその財力にまかせて、本山に対し献身的にふるまっているごとくに思わせる道路造り、いろいろな建造物の建設、また管長猊下を海外にまで連れて行ってのお祭り騒ぎ等々、お山の繁栄のためにあたかも貢献したかのようなこれらの行為は、すべて本山を制圧するためのものでありました。そして、大聖人の御遺命を御守護申し上げんとする妙信講は解散処分にし、松本・八木両御尊能・尊師までも擯斥に処し、宗門の御僧侶は慢心した池田の権力にひれ伏していったのでした。

いまや大聖人の御目を恐れるよりも池田の権力に諂(へつら)っている宗門役僧の現状を見る時、まさに宗門の濁悪はきわまったというべきでありましょう。ゆえに『仏法は体、世間は影』の御金言のごとく、異常気象・大地震の恐怖・迫る食糧危機と、内外二重の謗法の失(とが)により、国は大きく傾いております。まさしく、『八十年代は末法濁悪の直中(じきちゅう)』との先生の指導を実感するものであります。だが先生は、『闇が深ければ深いほど暁は近い』と指導されております。この濁悪がきわまれば、必ず大聖人様の御裁断は下るものと確信いたします。本来、御金言に違う者を誡めなければならない立場の宗門高僧が、いま自己保身に汲汲(きゅうきゅう)としている時、国の為、身を捨てて学会の歪曲を諫めてこられたのは、宗門で浅井先生ただ一人であります。ここに御遺命守護の仏勅は、厳として妙信講に下されたのであります。

いま御遺命守護完結目ざしての法廷斗争は、顕正新聞にもその証言が報道されておりますが、まさに斬るか斬られるか、命をかけた先生一人の斗いであります。その法廷での弁論は大音声をもって、進められていると伺うところであり、御遺命歪曲の陰謀が白日のもとにさらされる日近きを確信するものです。ここにいま私達にできる御奉公は折伏以外にありません。先生は常に『婦人の強盛な信心無くして広宣流布はあり得ない』と指導されております。また『家庭の要(かなめ)である婦人の信心がしっかりしていれば、必ずその家庭は守られていく』との指導のごとく、婦人の信心の大事をしっかりと肝に銘じ、五年後五万世帯への先駆けとして開かれた本日の婦人部大会の先生の指導をしっかりと受けきり、五万目ざして、先ずこの十一月法戦を断じて勝ちきってまいりましょう。(早稲田支部担当 丸山 淳子)と。

つづけて「第十八回総会において打ち出された五年後五万達成の新たなる前進の中、本年最後の十一月の法戦を前に、止暇断眠の激斗を続ける浅井先生をお迎えして、第六回婦人部大会がここに開催されたことは、時に当たり意義まことに重大であり、いま御遺命守護の御奉公に身命をかける妙信講婦人部の一員として婦人部大会に出席させていただけること、有難い思いでいっぱいであります。思えば、法燈連綿七百年、化儀化法純然として清純に受け継がれてきた宗門が、いまや濁悪のまっただ中にあるという、まことに憂うべき現状となりました。既に十数年前に、宗務役僧と寺族が宗門の憲法たる日興上人の御遺誡を無視し、見学と称して謗法の寺社めぐりをやり、宿泊までしていたという事実に接し、あきれるとともに、強い憤りを覚えたものであります。自らの名利と政治野心のために大聖人一期の御遺命を歪曲した池田大作を諫めるべき立場の宗門が、諫めるどころか、『聖人展』の謗法与同、そして正本堂を事の戒壇といつわり、キリスト教の神父まで招きいれてしまった不可解な行為の、そのカラクリをかいま見た思いです。

しかも悲しむべきは、いまや妙信講を除いて、宗門全体がこれらの行為を、大聖人様の御金言・破邪立正の精神に背く大悪とは感じないほど腐敗・堕落の極に達していることであります。そして、大聖人様の御法魂は、いまわしき正本堂の中に既に四年もの間押し込め奉っています。先生のお叫びのごとく、大聖人様の御憤り御悲しみを思う時、仏勅を受けて立つ妙信講員として、一日も早く宗門の腐敗堕落を一掃し、法の為には身を惜しまぬ気風に立ち還らせ、大御本尊を清浄の奉安殿に御奉還申し上げなければと、はやる思いであります。『仏法は体・世間は影』の御金言のまま、体なる宗門の乱れを映して国の傾きは加速度を増し、打ち続く異常気象による食糧危機、そして近づく地震の恐怖は、そのよってきたる原因を知らぬ世間の人の目にも、否定し得ないほど明らかになってまいりました。『八十年代は末法濁悪の直中』との浅井先生の指導を強く感じ、新尼抄の重みを拝して、断じて油断なき前進を決意するとともに、『五万が先か、地震が先か、御本尊に時を貸していただきたいと祈らずにはいられない』と云われる先生の思いを身に体し、絶対にこの斗いを遅らせてはならない、いまこそ五万達成は婦人の力でと決意するものです。

御金言に『やのはしるは弓のちから、をとこのしわざはめのちからなり』と。母として妻として強い信心を奮い起こし、いかなる逆境にも一人立つとの自覚に燃え、御在世の婦人の信心を今に移して、夫の、また子供の信心の要となり、講中の母体としての役目をまっとうせんと、誓うものであります。いま御遺命守護の三本の柱は激烈に進められ、なかでも法廷斗争は浅井先生一人が命がけの斗をなされております。顕正新聞七十一号の先生の法廷証言を読んで、獅子王のごとき火を吐く正論と、悪を砕く痛烈な論旨に強い感動を覚えたものであります。この十一月、先生の斗いの背景として、我々の御奉公は折伏以外にはなく、いま大事の御遺命守護の方人(かたうど)させていただける身の福運と宿縁の深さをかみしめ、国立戒壇建立のその日を見つめて浅井先生の驥尾(きび)に付し、婦人の立場で全魂込めた御奉公をなしてまいります。(小石川支部担当 河野 綾子)と。

御本仏日蓮大聖人様の嫡流を誇る唯一の正系門家たる日蓮正宗は、大聖人様以来七百年の間、最重要教義として広宣流布の暁の本門戒壇=国立戒壇建立を、宗門究竟の大目的として不動の宗是として来たのでありますが、戦後、創価学会という強大な信徒団体が政治進出を図り権力を握って世間的にも注目されるようになると、創価学会は、宗門に対してもさまざまな圧力を加えて来るようになりました。中でも広宣流布の暁の国立戒壇は、宗門七百年来唯一の大目的としてきた宗是は、あっという間に投げ捨てられてしまいました。大目的を失った宗門僧侶は先を争って、創価学会の顔色を伺いながら権力に諂い、池田大作の下部(しもべ)にくだってご機嫌とりに専念する。まるで、飼い犬が主人に尻尾を振って餌にありつく、鎖に繋がれた番犬のような存在になってしまったのであります。

日達管長の云く「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(昭和45年5月3日、創価学会第33回本部総会に於ける説法)と。ところが、これから十年前の日達上人は「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日連 昭和35年1月号)などと、宗門七百年来の正論を叫ばれていたのでありますが、とても同じ人物の発言とは思えないほどの変節であります。

さて、ここに出てくる「聖人展」と「法廷斗争」について簡単に説明をしておきたいと思います。はじめに、「聖人展」とは、昭和44年5月、創価学会の呼びかけで、日蓮宗を名乗る各派から日蓮大聖人様の遺品を集めた展覧会が東京池袋の東部デパートで開催された、日蓮大聖人の「聖人展」のことであります。この展覧会には日蓮宗を代表する、身延・池上・中山をはじめ、日蓮宗各派からさまざまな日蓮大聖人様に関係する遺品が出展されることとなり、日蓮正宗冨士大石寺からは、御開山日興上人の御身影像が出展されたのであります。そして、日蓮宗身延派からは、五老僧の一人と言われた、謗法僧の日朗の書いたニセ本尊が出品され、日興上人の御身影像と、偽本尊が同座させられるという形で陳列されたのであります。

まさにこの様は、日興上人が遺誡置文の中で「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」と制誡せられた誡めが現実の姿として堂々と破られ、多くの衆目に晒されるという大事件がおきたのであります。その実体を目撃された妙信講の浅井本部長は飛び上がらんほどの衝撃を受け、何をさておいても本山に飛んでいき、早速「聖人展」の中止を申し入れました。浅井本部長の三度にわたる必死の諫訴にも拘わらず、応対に出た宗門高僧の阿部信雄(日顕)教学部長と早瀬道応(日慈)総監の二人は、何が悪いかと云わんばかり、歯牙にもかけない高圧的な態度に終止し、けんもほろろに追い帰され、結局「聖人展」は計画通り実施されのでありますが、宗門はすでにこの時、謗法禁断の精神は完全に失われていたのであります。

次に「法廷斗争」についても簡単に説明しておきたいと思いますが、この法廷斗争の和解に至るまでの経過は、浅井本部長の後日談によるものです。妙信講が昭和49年8月12日、講中解散処分を受けた直後、創価学会は日蓮正宗の名を語って、妙信講は講中解散処分に付されのであるから、妙信講本部(東部東上線の常盤台)の大広間に掲げてある、第六十世、日開上人のお筆による「紙幅の大御本尊を返却せよ」という訴訟を東京地方裁判所に提訴してきた法廷闘争のことであります。

妙信講はこの裁判を受けて立つに当たり、御本尊様に対しては、誰人も指一本触れさせない為の、現状変更禁止の仮処分を東京地裁に申請し、それが受理され、法廷斗争に臨んだのであります。そうした中、妙信講は公判が進む中で、東京地裁が勧める和解勧告を受け入れる事にしました。原告創価学会が示してきた和解案を飲むことによって、事実上その裁判は終結したのでありますが、その和解案は次のようなものでした。①一寺を建立して差し上げます。②今後日蓮正宗の名称を名乗っても構いません。③今後、二度と再びこうした裁判は提起いたしません。というものだったそうです。

浅井本部長は、原告側から示された此の和解案を受け入れることは実質的な勝訴であり、これは勝訴判決を受けた以上の成果だとして、和解に応じることにしたのであります。和解案の中の、①一寺を建立して差し上げます。として学会から建築してもらったお寺が、埼玉県和光市にある「顕正寺」だったのでありますが、浅井本部長はある時、こんな発言をしたことがあります。「御遺命守護完結の暁には顕正寺は総本山に御供養申し上げたい」と。ところが言う口の下からその発言はうやむやの内に反故にされ、後に、その顕正寺の住職を務めていた村松禎道師を罷免して還俗させ、顕正寺を典礼院として名称を改め、納骨堂に作り替え、顕正会員に区分けして販売しているのであります。

いずれに致しましても、大聖人様の終窮究竟の御本願たる広宣流布の暁の本門戒壇の建立は、御開山日興上人御一人に一期弘法付属書を以て御下命あって、大事を託されているのでありますが、その実現は未だ道半ばにして将来に属する問題として我等末弟に委ねられているのであります。本門戒壇建立は二祖日興上人以来、宗門七百年の唯一の宿願、遺された最後の大目的である故に、広宣流布の暁の本門戒壇建立を称して大聖人様の「御遺命」と称するのでありますが、その最終・最大の目的たる本門戒壇=国立戒壇は、創価学会の政治進出によってドブに捨てられ、宗門僧侶が三大秘法を徹底して破壊した邪義を構える中で、妙信講員が一結して御遺命守護の闘いに一途に打ち込む姿は、異彩を放つ特別な存在になったのであります。

しかしながら内の妙信講が、外の顕正会へと、名称と立場を変えたことは誠に残念としか言いようがありません。いま、ここで顕正会の路線の間違いを糺すならば、大小織り交ぜてさまざまな間違いを指摘することができますが、最大の間違いは、妙信講が日淳上人から唯一認証状を頂いた誇りある講中をかなぐり捨てて、外の僧侶の存在しない在家教団・顕正会として、存続する道を選んだ愚かを指摘せざるを得ないのでありますが、それのも増して宗門の間違いと堕落は、許しがたい問題であることは誰人も否定しえないことも事実であります。それを指摘し、厳しく弾呵し、くい止めなくてはならないのは云うまでもありません。思うに、この間違いと堕落は許しがたいものでありますが、いずれ時の流れで必ず解決するものと確信するものであります。

それは自分ごときが勝手な憶測で云うのではありません。三大秘法抄には、大聖人様が法華経薬王品を引かれて断言為されているのであります。云く「教の第七薬王品に云く『後の五百歳の中に閻浮堤に広宣流布して断絶せしむること無けん』等云々、謹んで経文を拝見し奉るに、仏の滅後正像二千年を過ぎて第五の五百歳・闘浄堅固白法隱没の時と云々」と。

つづけて云く「諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん、此の人は守護の力を得て、本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩・我深敬等の二十四文字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し」(顕仏未来記)と。これらの御文は、法体の広宣流布を顕わされた御文でありますが、化儀の広宣流布、すなわち順延公布は必ず時と共になるのであります。

そもそも日蓮正宗が正系門家と云われる所以は、次の三つが存在する故にと謂われています。①本門戒壇の大御本尊様がおわします故に。②唯授一人の血脈相承が連綿とまします故に。③国立戒壇を堅持する故に。と。この三つが御本仏大聖人様以来連綿と伝承されてきたのであります。依って、一時期不幸にも大聖人様の究竟の御本願たる、③の国立戒壇が否定されるという災いもありましたが、本門戒壇の大御本尊様がおわします正系門家・日蓮正宗が、何時までもそうした間違った変則的な教義を展開する時代がつづく筈は絶対にないのであります。やがて時がくれば顕正会の  かんぎょうにょり必ず上代の清浄な姿を取り戻し、宗門の中から広宣流布の息吹に燃える若き強信の僧俗信徒が現われ、真の地涌の流類が日本の全国津々浦々に涌き出る(いずる)日が訪れるのであります。それは間違いなく妙信講・顕正会で国立戒壇の正義を学んだ者が立ち上がる以外にはないのであります。

後に顕正会を脱会し、今日日蓮正宗の信徒として法華講員となった方々の中には、宗門が折伏の大切さを叫べども、唯一の大目的である筈の国立戒壇の正義を一言も口にしない事に、どこか弱々しい物足りなさを肌身で感じ、宗門の誤りを身をもって味わっている方々も多々あるものと思われますが、貴方がたが間違っていたと申し上げるのであります。大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇の正義を叫ばすして、絶対に絶対に成就しないことを深く知るべきであります。

それを知る者として、妙信講・顕正会で国立戒壇の正義を学んだ者こそが、広宣流布の先駆けとして、満々とした闘志を内に秘め、一刻も早く国立戒壇が宗門の公論となるべく、先頭に立って闘わなくてはならないのであります。日蓮正宗を上代の清浄の姿に立て直す必要を感じている方々は相当数いるものと思われますが、闇は依然として深い故に、国立戒壇は封印したまま坊主顔色を窺いながら時の到来を待つ以外に方法はないのが自分でありました。卑怯者! 意気地なし! 罰当たり!






  

浅井会長の思い出話

2016年06月02日 11時55分24秒 | 亡国の坂道 
最近の浅井会長の発言を見ていますと、大別して二つあります。その一つは「重層な免震構造の新御宝蔵を速やかに造って戒壇の大御本尊を厳護し奉れ、宗門に若しお金が無いなら顕正会で新御宝蔵の建設資金を御供養申し上げる」というものと、もう一つは、宗門唯一の秘宝中の秘宝とされる大聖人様の「御生骨」についての発言であります。

それは昭和31年4月、第六十四世日昇上人~第六十五世への日淳上人への血脈相承による御座替わり法要を執行した時の事であります。富士門流では御開山日興上人以来、貫主上人の代替わりを正宗信徒全般に披露せしめるための法要の後には、伝統的に御生骨の拝観が許されているのでありますが、浅井会長はその時の法要の後、執り行われた厳粛な儀式において、大聖人様の御生骨を拝観する機会に恵まれ、その御生骨を目の当たり拝観したというお話であります。

はじめに「御生骨」について申し上げますと、別名「御肉牙」とも呼ばれるものであります。この御肉牙(御生骨)は、広宣流布の進展に伴って、御肉牙の周りの御肉の盛り上が大きくなり、広宣流布の時にはその御生骨が不思議にも光を放つという富士門流七百年来の言い伝えがあります。

浅井会長がその御生骨を拝観できた法要の席には、先代の第五十九世日亨上人と第六十四世の日昇上人と御当職の日淳上人の三上人が静かに見守られる中で、御生骨拝観の儀が厳粛に行われた。その時、御生骨は早くも幾分御肉が盛り上がりを見せ、広宣流布の近きを実感する事ができた。とのお話でありました。そのお話を聞いていて背筋がぞくそくするような、何とも言えない厳粛な気分を味わったものであります。

浅井会長云く「御生骨はまさに、羅什三蔵の『舌焼けず』の現証に勝ること百千万億倍の大現証です。第三十七世・日琫上人の御説法本には『御生骨、是れは御肉付きの御歯とも云い、宗祖大聖人より当山の開基日興上人へ一期弘法残る処なく御付嘱これあり、御歯に少し肉の付きたるをぬきて賜わりしなり。それより御肉次第に増え、此の頃にてあらまし御肉に成り、御歯は少し見ゆるなり。金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり。信心の人々拝見の上、疑いを晴らし信心を増すべし』と仰せであります。このとき、忠誠を貫き通した顕正会員は、全員で、これを目の当たり拝観させて頂ける。そしてこの『光を放つ』の大現証が、もし映像に記録されて全世界の知るところとなったら、三災七難に苦しむ全世界の人々は、竜の口の荘厳なる大現証と併せ拝し、やがて一同に他事を捨てて頭を地につけ掌を合わせて『南無妙法蓮華教』と必ず唱えるに違いない。まさに御生骨の大現証こそ、大聖人様が末法の荒凡夫に、理屈抜きに御本尊様を信ぜしめる大慈悲なのであります」(顕正新聞平成28年5月5日号)と。

さて、次の重層な免震構造の新御宝蔵を速やかに造って戒壇の大御本尊を厳護し奉れ、というお話でありますが、会長云く「いつ巨大地震が襲来するかわからない。いつ大御本尊を狙う悪人が奉安堂に潜入するかわからない。ゆえに、不敬の御開扉は直ちに中止し、早く完全免振の堅固なる新御宝蔵を作り、近き広宣流布のその日まで、戒壇の大御本を秘蔵厳護しなければいけない。宗門にもしお金がないのなら顕正会ですべて御供養申し上げたいとすら、私は思っております」(顕正新聞平成28年5月5日号)等と。

まことに立派なお話であります。此処で仰せられる「不敬の御開扉は直ちに中止し、早く完全免震の堅固なる新御宝蔵を作り、広宣流布のその日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護」云々の段は大いに賛成するところであります。それは、広宣流布が達成されるまでの間の戒壇の大御本尊様の御座所は、何処までも御宝蔵の奥深くに秘蔵厳護せられて広宣流布を静かにお待ち遊ばされる御姿が本来の在り方なのであります。その事を日寛上人は文底秘沈抄に斯く仰せであります。

云く「夫れ本門戒壇に事あり、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当る故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり」として、三大秘法抄を引かれて事の戒壇の説明に代えておられますように、広宣流布するまでの戒壇の大御本尊様は「塔の中に住す、即ち是れ塔の義」と仰せでありますから、戒壇の大御本尊様の御座所は、御宝蔵の奥深くに、何処までも秘仏の形でお休みになられているのでありますから、如何に正宗信徒といえども、軽々な御開扉は大聖人様の御意に反する謗法行為となるのであります。広宣流布するまでの間は、御宝蔵にお在す戒壇の大御本尊様は、閉扉したまま遠くから遙拝申し上げる姿が正しいのであります。

ところが宗門は創価学会の政治選挙の為に、正本堂なるニセ戒壇堂を信徒の墓を掘り返して是れを建て、これを「事の戒壇」と称して、大聖人様の御心に背逆した上、内には八百万信徒を欺き、外には国家を欺いて三大秘法を破壊してしまいました。その後、その過ちが露見すると、またまた信徒の大金を投じてニセ戒壇正本堂は解体してしまいました。悪僧日顯はその後、今度は「奉安堂」なる建物を建て、法華講員を駆りたてて怨嗟の起こるような不敬の御開扉を繰り返し、御開扉料稼ぎに狂奔しているのでありますが、これは明らかな間違いであります。不敬の御開扉は直ちに中止すべきであります。

浅井会長云く『「仏法は体なり世間は影なり」、今一国を詐わり、政治選挙のため御遺命を詐り建てた殿堂、しかも謗法のキリスト教神父を呼び汚した正本堂、その中に恐れ多くも戒壇の大御本尊を御安置申し上げること自体、身延離山の御精神から思うと大聖人はどんなに御悲しみなさっていられるか。大聖人がどんなに御憤りなっておられるか。妙信講が知って言わなければ、たとえ解散させらようと、これを言わない者は本当の弟子でしょうか。本当の壇越でありましょうか。ここに妙信講は要領よく生きるのではない。何よりも大聖人の御目を恐れ、大聖人の御悲しみを我が悲しみとし、この講中がどうなっても諫めていこうと立ち上がったのであります。

妙信講は再建以来、本当に妙信講の指針というものは「何の兵法よりも法華経の兵法を用い給うべし」です。妙信講は政治団体でもない経済団体でもない。ただみんな成仏のため妙信講に参加して大聖人の御心を心としてこの広宣流布をしていこうと、この清浄なる団体が妙信講です。そこに要領よく渡って組織を維持しようということではない。この組織の存在自体が大聖人の御意のまま即ち「何の兵法よりも法華経の兵法を用い給うべし」です。大聖人様の仰せのまま進んで、その結果妙信講が最後の本当に損をするか得をするか。最後に妙信講の言うことがやっぱり本当だった。妙信講のお陰で宗門に本当の正義が蘇ってきた。

御法主上人猊下も、誰はばかることなく国立戒壇を標榜して、一国を諫め遊ばす時になれば、それが妙信講の大功徳なんです。その時妙信講にその福運というものが全部集まってくるのです。「法華経に勝る兵法なし」です。要領よく渡る必要はない。大聖人の御目を恐れてそのままいくことが、最後には必ず講中を守り、個人を守る所になってくる。凡夫の小手先の要領は必ず行詰まるのです。「法華経に勝る兵法なし」これを御遺命完結までお互いに合言葉として進んでいきたいと思います』(冨士 昭和五十一年一月号)等と。


歴史を歪曲し罪刑法定主義を犯しているのはいったい誰?

2015年09月20日 11時34分29秒 | 亡国の坂道 
我が国には、どうしても解決しなければならない問題として、絶対に譲ることのできない領土問題があります。韓国との間には竹島問題をかかえ、ロシアとの間には、歯舞・色丹・国後・択捉等の北方領土問題があります。

いずれの問題も日本国が一にも二にも強力な軍事力を持つことなくして、絶対に解決し得ない問題であります。その上でまず、国内の領土返還運動を盛り上げることが大切であります。それには子供たちの学校教育の中で、日本の近現代史を徹底して教え込む必要があります。次に大切なことは、日本固有の領土である竹島と北方領土が、相手国によって一方的に強奪された歴史的事実を明らかにし、彼らの許し難い不法行為を国際社会に向けて、根気良く訴えていく以外には解決の道はないのであります。

先ず竹島について韓国の軍事力を背景にした不法行為でありますが、敗戦後の昭和27年1月、サンフランシスコ平和条約の発効によって、廃止されることが決まっていたマッカーサー・ラインに代わるものとして、韓国が一方的な軍事力によって、独断で公海上に突如設定した排他的経済水域のことを李承晩ラインといいます。

ここでマッカーサー・ラインと李承晩ラインについて説明します。

マッカーサー・ラインとは、「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって決められた、日本漁船の活動可能領域のことであります。

次いで李承晩ラインとは、韓国の李承晩大統領が1952年1月18日に「海洋主権宣言」によって、朝鮮半島周辺の広大な水域にマッカーサー・ラインに沿った形で主権を主張し、画定した排他的経済水域として海上に勝手に引いた防御線のことであります。この時、竹島が李承晩ラインによって韓国の領土として組み込まれ強奪されたのであります。

さて、ここで李承晩のことについて簡単に触れておきたいと思います。彼は朝鮮半島を代表する過激な独立運動家といわれ、また独裁的な暴力政治家としても有名です。李承晩は昭和20年8月、日本の敗戦と同時に亡命先のアメリカから帰国した後、大韓民国の初代大統領に就いた人物です。次いでこの男の許し難い行状を思い起こせば、明治42年10月にハルビンで、朝鮮半島の併合に反対していた伊藤博文が、朝鮮人の安重根というテロリストに暗殺されるという事件がありました。李承晩は、その2年後の明治44年に、初代朝鮮総督に就任した寺内正毅の暗殺計画をくわだて、目的のテロ事件が未遂に終わるとアメリカに亡命し、亡命先のアメリカで壮年期の大半を過ごしています。

帰国後、韓国の初代大統領となった李承晩は、マッカーサー・ラインが撤廃される直前になって、突如として悪だくみを働き、それに代わるものとして、彼は一方的に海洋主権宣言なるものを発布し、日本海の海上に勝手に軍事境界線ともいうべき李承晩ラインなるものを敷いたのであります。ところがその中に、日本固有の領土である島根県に属する竹島が含まれることになったのでありますが、韓国の一方的な軍事力によって強奪された竹島は、それ以来韓国領となったまま今日に至っているのであります。

この竹島のある海域は、対馬暖流と樺太の沿岸流域から発生する、冷たいマリン海流のぶつかる海域で、魚の餌となるプランクトンが大量発生する所でもあり、豊富な海洋資源の宝庫といわれる日本有数の漁場といわれています。

李承晩は昭和23年に大韓民国の初代大統領に就任した後も、国内でも暴政を振るい、同年の4月には、済州島で燃え上がった反政府運動を鎮圧するため、韓国軍と武装警察を動員して島民の内、5人に1人に当たる、約6万人にのぼる大量虐殺を実行した上、島全体の民家70%が焼き払れたと言われています。この済州島の虐殺事件をイギリスのBBCは、映像を交えて生放送で全世界に配信し、李承晩の冷酷無比な殺人鬼の実体を克明に報じていますが、その惨たらしい大量虐殺の当時を写した静止画像は、現在もネットで見る事が出来ます。

李承晩は金日成とまったく同様、権力の亡者であり、李承晩は己のライバルは勿論、近い将来に自分のライバルになりそうな人物を、情け容赦なく、暗殺という卑劣な手段で消し去っています。一例を挙げれば、1945年12月、先ず、民主党委員長の宋鎮禹が、李承晩が差し向けた謎の人物に暗殺され、翌1946年11月には、民主党政治部長の張徳秀が何者かに暗殺されています。

宋鎮禹と張徳秀は、日本の早稲田大学に学び、朝鮮民族のために貢献すべく自らの身を削って祖国に尽くしていた有能な人物といわれた政治家でした。日本の敗戦後、これ等の二人は、あらゆる機会をとらえて韓国の青年たちに民主政治の要諦を指導したといわれています。まさに、これから活躍しようという矢先になって、権力の亡者・殺人鬼の李承晩の指示によって二人は暗殺され、この世から葬り去られています。

また昭和33年には、進歩党党首の奉岩をスパイ容疑で逮捕し、翌年の34年には彼を裁判にもかけないで処刑しています。おなじく昭和34年に、朝鮮人の帰国事業を妨害するため、李承晩は韓国領事館の三等書記官金永煥を使って、新潟県の日赤センターの爆破未遂事件を直接指揮するなどして、亦復テロ事件を起していますが、こうした卑劣な暴虐を日本政府に謝罪するどころか、テロ事件を起こした犯罪者を国家で顕影し、彼らに報奨金まで与えているのであります。

その同じ年に今度は、大統領選挙にまつわる不正選挙が問題となり、国内で野党や国民の批判が公然化すると、不正選挙を糾弾するデモ隊を鎮圧するために、大量の武装警察を投入してデモ隊を鎮圧し、武装警官隊がデモ隊に銃弾で襲いかかり、186人の死者を出すという大惨事をおこしています。彼はその責任を追及されて下野を表明したかと思うと、再びアメリカのハワイに亡命した後、昭和40年7月、亡命先のハワイで90歳で客死しています。

そもそも李承晩ラインなるものは、建国されたばかりの韓国が海洋資源の独占を企図した上に、領土拡張を目的としたものであり、この海域内での漁業は、韓国籍の漁船以外は一切行えないようにしたのであります。これに違反した漁船(主として日本国籍の船)は、韓国軍によって臨検、拿捕、接収等が日常的に繰り返され、容赦ない銃撃を受ける事となり、韓国軍の一方的な狂気の銃撃によって、日本漁船の乗組員が李承晩ラインを超えた等と言い掛かりをつけて、竹島の沖合で平和的に漁をしている日本漁船を手当たり次第に銃撃して乗組員を殺害するという、陰惨な事件が頻繁に起こるようになったのであります。

昭和27年1月、日本国はサンフランシスコ平和条約を受け容れて、公式文書に署名はしていたものの、条約発効三ヵ月前に、日本国の主権は未だ回復していない隙を突いて、韓国は勝手に李承晩ラインなるものを設定しました。その当時はまだ海上自衛隊の前身である海上警備隊・警察予備隊の存在は名ばかりで、装備も貧弱で独自の行動を許されていない間隙を突いて、国際法を平然と無視して日本領の竹島を政治的・軍事的に強奪しているのであります。

それでいて韓国が日本国に向かって歴史認識を云々する様は、まさしく盗人猛々しいと言わざるを得ないのであります。1910年、日本国が朝鮮半島を併合するに至った経緯は、当時の国際連盟からの強い懇請を仕方なく受け容れて朝鮮半島の統治に踏み切ったものであって、今になって、朝鮮半島を武力で侵略したなんて、とんでもない言い掛かりを繰り返し今日に至っているのであります。それに国際法上認められた「日韓併合条約」に対して、韓国政府が何時までも日本政府に謝罪と保障を求めるのは、道理としてまるで成り立たない問題なのであります。日本国の朝鮮半島統治は、イギリスやフランスの植民地政策とは違い、半島全体に急速な近代化と経済発展をもたらした歴史的事実を指摘しなければなりません。

日本国が朝鮮半島を併合した当時、朝鮮人の平均寿命は24歳だったといわれていましたが、日本統治の約40年の間に平均寿命は2倍以上に延び、人口も倍増しているのであります。また徴税制度を確立するために耕作地全体の土地調査を実施し、土地台帳を作成して未申告の闇耕作地の撲滅を計った結果、穀物の収穫量も併合前と比較すれば反当り3倍に増加し、公平な徴税制度も確立されて、今まで満足に食事の取れなかった餓死者は根絶されています。このように我が国が朝鮮半島を併合する以前は、公平な徴税制度も存在しない、両班(ヤンバン)の支配する不公平な弱肉強食の地だったのであります。

更にインフラ整備については、100キロに満たない鉄道は6000キロに延ばされ、ダムと発電所の建設、あるいは都市計画にともなう道路や橋の新設等、また学校教育に於いては、日本語ならぬハングル文字を学校教育に導入し、5000校を上回る学校を作ったのも、日本の総督府であったことを忘れてはならないのであります。

日本が統治する前の朝鮮半島の識字率は、わずか4パーセントに過ぎなかったものが、61パーセントへと飛躍的に上がり、京城帝国大学1924年創設(現在のソウル大学)も、日本の大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも先に創設されているのであります。これらの内地と分け隔てのない施策によって、めざましい発展を遂げた朝鮮半島は、当時の日本の国家予算の中から、毎年20%強の財政資金が朝鮮総督府の活動と朝鮮半島の近代化に注がれたのであります。それほどの資金を約40年間にわたって投下し続けた日本の経済的負担は、内地の経済を窮乏ならしめるほどだったのであります。

そのような特段の恩恵を受けながら、二言目には「従軍慰安婦の補償はどうだ、やれ歴史認識だ」等と大騒ぎをして日本を貶めようとする。従軍慰安婦の問題にしても、第一義的には彼女たちの貧困の克服と、興味本位の欲望充足がもたらしたものであって、日本政府は慰安婦の募集等には一切関わっていないのであります。今日においても韓国はアジアの売春輸出大国としても有名で、その数、20万人とも30万人ともいわれています。それは国連の統計にも性輸出大国として、常にトップの座を占めているのであります。いずれにしても、今日の韓国人の反日一色に染め上げられた風景を一言で評するならば、要するに彼らは、契約の整わない恩知らずな異質な人種といえるのであります。

日本の朝鮮半島に於ける統治は、植民地政策というものではなく、むしろ併合によって日本国民となった朝鮮民族は、世界に類例がないほどの厚遇を受け、日本の朝鮮半島に於ける併合政策は朝鮮半島の近代化に計り知れない甚大なる貢献を齎した誇るべき業績なのであります。

それは置くとして、昭和40年(1965年)に、日韓基本条約が締結されると同時に発効した、日韓漁業協定が成立した年に、李承晩ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は、3929人にのぼり、拿捕された船舶数は328隻、銃撃されて死亡した漁師は、44人もの多くにのぼったのであります。この年に李承晩ラインは廃止されたとはいえ、竹島はいぜんとして、韓国に軍事力で占領されたまま、早くも70年が経過してしまいましたが、この問題をこのまま見過ごすならば、竹島はいずれ既成事実化され、永遠に韓国領として世界的に認知されることになるのであります。

李承晩により拿捕された多くの日本の船舶はもとより、長年にわたり抑留され、あるいは銃殺されて一家の働き手を失って、路頭に迷う多くの残された家族や遺族には、何等の保障措置も無く、家庭崩壊に至ったケースも数多くあったのであります。

こうした許し難い不法行為に日米両政府は「国際法上の慣例を無視した措置」として韓国に強く抗議をしましたが、何の効果もありませんでした。うがった見方をするまでもありませんが、当初、サンフランシスコ平和条約の締結前に、マッカーサー・ラインが敷かれていたものが、それが廃止される直前になって、韓国の李承晩が一方的にマッカーサー・ラインに重畳して、海上に李ラインなるものを敷いて竹島を強奪している経緯を考えれば、韓国とアメリカは合意の上で出来レースをやってのけたと見るのが、正しい歴史の見方かもしれません。

その証拠にマッカーサーは、昭和20年8月、敗戦国の日本の統治を進めるに当たり、何故に、日本固有の領土である竹島を日本領から外す形で、「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」なるものを作成した上で、マッカーサー・ラインを敷設する必要があったのでしょうか! しかも、そのマッカーサー・ラインの管理を事もあろうに韓国政府に任せていたのであります。この事実は、あのマッカーサーと韓国李承晩との間で、巧妙な政治的裏取引が有ったとものと考えるのに、何等困難な問題は存在しないのであります。要するにアメリカは、韓国が竹島を自国領として主張する、決定的な根拠を与えてしまったのであります。

とにかく戦勝国のアメリカは、日本国の永遠の弱体化を図るために、中国や韓国と我が国との間に常に紛争のネタになるような、反日感情を植え付けて陰で糸を引いてると言われています。それが韓国との間の竹島問題であり、慰安婦問題であります。

亦、アメリカは「日本はアジアに於ける大切な同盟国」などと持ち上げるかと思えば、その裏では何故に、アメリカ在住の韓国系反日団体が、アメリカ本土に於いて多くの慰安婦像を立てている事実を、なぜ黙って見逃しているのでしょうか! 真に日本国がアメリカに取って大切な同盟国であるならば、「此処はアメリカの土地だ。そんな物は自国に建てろ」と言って、止めさせれば良いだけの話であります。

そして亦、中国との間には、歴史認識や南京大虐殺等の問題が何時までも蒸し返されて誇張して取り上げられ、戦後70年を経た今日於いても益々勢いを得て「日本軍による30万人におよぶ南京大虐殺」などと、言いたい放題のデタラメ極まる宣伝を広く国際社会に垂れ流していますが、すべてが根も葉もない中国政府による政治的プロパガンダなのであります。

また中国が二言目に「歴史認識だ、南京大虐殺だ」等と大騒ぎをしている事実をアメリカは横目で見ながら平然と聞き流しているようですが、これらは日本国の永遠の弱体化を図るための、悪意に満ちた国際的包囲網と言っても、決して過言ではないのであります。

序でに申し上げれば、中国が垂れ流す南京大虐殺なるものが、如何にデタラメな政治的プロパガンダであるか、それを何時までも黙ったまま許してはならないのであります。

日中戦争の最中、昭和12年(1937年)12月13日、日本軍は南京市(中華民国の首都)に攻め入りましたが、当時日本軍の総司令官を務めていた松井石根(いわね)は、「一人として中華民国人を傷つけてはならない」との訓令を出し、日本軍の規律保持に腐心しているのであります。

また、松井石根総司令官は、南京市に入場一週間前に蒋介石の引き入る中華民国軍に対して「戦闘を止めて降伏するなら日本軍は一切攻撃しない」と記した大量のビラを空から撒き、蒋介石に降伏を迫ったところ、蒋介石は中華民国軍を率いて、我先に武漢に向けて一斉に逃げ出しているのでありますが、それは日本軍を大陸の奥地に誘い込んで、日本軍を疲弊させるための蒋介石の作戦だったのであります。

ところが指揮系統の乱れた中華民国軍の中には、逃げ遅れた多くの兵士が南京に取り残されていたのであります。逃げ遅れた彼らは、兵服を脱いで南京市民の中に紛れ込むために、多くの民間人を殺害して被服を奪い、夜は便衣兵となって夜陰に乗じて数多くの民間人を虐殺・強姦・略奪・放火等を繰り返し、その全ての事件を日本兵の仕業として、南京市におかれていた国際委員会にデタラメな報告をしているのであります。

日本軍はそうした悪辣極まる便衣兵を拘束して、何十人かを処刑したのは事実でありますが、それは国際法の上からも許されている、戦闘行為の範囲内だったのであります。
     
日本軍が南京市に攻め入る直前に、中華民国政府の警察庁長官を務めていた王固磐の発表によれば、南京市の人口は、20万人と公表しているのであります。20万にしか居ない所で、どうやって、30万人の大虐殺ができるのでしょうか! 亦その事は、南京市に置かれていた敵性国の牧師を中心に結成された「国際委員会」が、南京市の人口は20万と発表している事実からも明らかなのであります。

中国共産党政府が未だに「日本軍が30万人の大虐殺を行った」とする政治的プロパガンダを世界に広めて我が国を貶めようと躍起になっていますが、それに何の反論もなく、ただ聞き流す態度は絶対に許されないのであります。ここで中国共産党政府に一言反論するならば、その30万人が虐殺されたとする遺体を、一体誰が、何処にどういう形で処理したのか、それを明らかにしなければならないのであります。カチンの森事件ではありませんが、中国共産党政府があくまでも日本軍による「30万人の大虐殺」を言い続けるならば、今からでも遅くないのであります。日本政府は、旧日本軍によって大虐殺されたとする30万人の遺骨を掘り出して「30万人の大虐殺を国際社会に向かって証明しなければならない」との声明を発表すべきであります。横柄に目を吊り上げて発掘を拒絶したり、発掘したけれども、遺骨は何処にも存在しなかったでは済まないのであります。

仮に、今日の中国共産党政府が日本軍によって、30万人が虐殺されたとする遺骨発掘に反対するなら、まさしく二度と訪れない絶好のチャンスであります。その時こそ「日本国政府は、進んで発掘費用を供出して差し上げますから、是非とも、その30万人の大虐殺の歴史的事実を立証してください」と、堂々と中国政府と、国際社会に向かって日本国の立場を説明すれば良いのであります。困るのは間違いなく、今日の中国共産党政府ではないでしょうか!

序に申し上げれば、1993年宮沢内閣の時代に官房長官を務めた、河野洋平なる日本を代表する売国奴がいましたが、彼は、慰安婦問題でも日本政府が直接積極的関わった等と発言し、韓国を喜ばせ、それが直接の引き金となとって、慰安婦問題が国際的に大きく取り上げられることになったのであります。それにつづいて、またまた彼は、日本国の敗戦にともない旧日本軍が遺棄したとする化学兵器の処理費用の拠出を惜しげもなく中国政府に約束しました。これは国際慣習を無視した暴挙であります。

通常戦争に負けて武装解除に応じた場合、その時点で兵器も弾薬も全て戦勝国に所有権が移るのであります。彼は、そういった国際的慣習を平然として破り、遺棄化学兵器の処理費用の全額と、プラント建設費用を中国政府に気前よく約束をしたのであります。ところが今日、ハルバ領から出て来たとされる遺棄化学兵器は、全て旧日本軍のものではないと言われている代物だそうです。今やその莫大な処理費用は際限なく、既に一兆円を超えて止まることなく、第二のODAといわれています。それから比べると、30万人の虐殺遺体を発掘する費用なんて取るに足らない微々たるものであります。

それはそれとして、日本軍が南京市を占領してから1ヵ月後、南京市の人口は、逆に25万人へと増加しているのであります。今日の中国政府の言うような「30万人にもおよぶ大虐殺」が仮にあったとしたら、人々は危険な南京市をめざして集まってくる筈はないのであります。日本軍が南京市に入場した後の南京市内では、とても戦闘地とは思えない、床屋や洗濯屋や飲食店等の店が軒を連ね、以前よりは賑わいを見せているのであります。

そもそも南京市の安全区に置かれた「国際委員会」なるものも、裏では敵性国のアメリカの牧師たちが、イギリス人やドイツ人に呼びかけて、国際委員会なる組織を結成したようですが、当時の国際連盟から認められた正式な機関ではなかったのであります。また国際委員会の委員長を務めたドイツ人のジョン・ラーベは、ナチスのヒトラーに、中華民国の便衣兵が起こした殺人・強姦・略奪・放火等のさまざまな事件は、全て日本兵の仕業として報告していたのでありますが、後にドイツに呼び戻された後、原因は分かりませんが、彼はヒトラーから処刑されているのであります。

日本軍と戦っていた蒋介石自身が「南京大虐殺」なんて事は、一言も口にしてはいないのであります。何故にアメリカは、日本国との間に安全保障条約を結び「アジアの大切な同盟国」等と甘い言葉を発しながら、今日の中国政府が垂れ流す「30万人におよぶ南京大虐殺」なるプロパガンダを見て見ぬ振りをしているのでしょうか! 尤も、この見過ごすことの出来ない重大なデマは、極東軍事裁判(東京)の中で、中国共産党の一方的な好い加減な作り話を、GHQのマッカーサー元帥が主導して作り上げたプロパガンだといわれています。

それは日本国が、二度と再びアメリカに刃向かって来れないようにするための、狡賢い戦後政策の重要部分であり、日本国民に「日本軍はこのような悪辣な虐殺をあらゆるところで繰り返してきた」と思わせる。つまり軍から国民を離反させるための老獪な仕掛けだと指摘されています。アメリカはそうする事に依って原爆投下の責任を逃れ、日本国民の間に戦争に対する贖罪意識と自省の念をうえつけ、いつまでも自立の出来ない、どこまでもアメリカに従属する弱い日本国をつくり上げることができるという仕掛けであります。

南京攻略の指揮を取った日本軍人の模範ともいうべき松井石根総司令官(陸軍大将)は、あの仇討のような極東軍事裁判で「平和に対する罪」或いは「人道に対する罪」という罪名を着せられ、A級戦犯として、マッカーサー元帥から絞首刑に付され、命を奪われているのであります。

さて、次に北方領土の問題でありますが、北方領土とは、北海道の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島は勿論、樺太の全土は、日本人によって開拓され、日本人がそれ以来住みつづけていた島々であります。その歴史的事実を挙げれば、ソ連の奇襲攻撃を受ける前の南樺太には、約45万人の日本人が住みつき、北方四島には、約1万7千人の人々が平和な暮らしをしていたのであります。

それらの北方領土は、歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがない我が国固有の領土であり、また、国際法からみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。先の大戦から70年も経過した今もなお、ロシアの不法占拠の下に置かれている、我が国固有の領土である北方領土の返還を一日も早く実現しなければならない、まさに国家の主権にかかわる重大な問題であります。

ソ連は昭和16年(1941年)4月、日本との間に「日ソ中立条約」(日ソ不可侵条約)を結んでいました。そんな事から、日本国政府はソ連のスターリンを信用して、大東亜戦争(太平洋戦争)の早期終結を目指し、連合国との仲裁を依頼していたのでありますが、彼からのらりくらりと時間を稼がれ、8月6日に広島に第一発目の原爆が投下され、日本の国力は虫の息ほどに疲弊し、8月9日に長崎に二発目の原爆が投下されたその日、ソ連は突如として、「日ソ中立条約」を一方的に破棄してソ連軍の奇襲攻撃を受けたのであります。逃げ遅れた島民の三千人を超す多くの者が殺害され、あるいは婦女子は手当たり次第凌辱されて殺害されました。それ以来南樺太と千島列島並びに北方四島は、ソ連(ロシア)に不法に占拠されたまま、それ以来、日本国民の住めない島々になってしまいました。

そもそもソ連が、南樺太と千島列島並びに北方四島を自国領と主張する理由については、あの忌まわしい「ヤルタ協定(会談)」を抜きにしては考えられないのであります。

その「ヤルタ協定」なるものは、昭和20年の2月11日、アメリカ民主党のルーズベルト大統領と、イギリスのチャーチル首相と、ソ連のスターリン共産党書記長が、ソ連のクリミヤ半島の南部に位置する保養地のヤルタに集まって、この三人が共謀して取り決めた秘密協定の事でありますが、その内容は、昭和16年4月に日本とソ連との間で結んだ「日ソ中立条約」をソ連が一方的に破棄して、ソ連に大東亜戦争に参戦させることを促した秘密協定であります。その中身は、ソ連参戦の見返りに、南樺太・千島列島・北方4四島を、引き出物としてソ連に贈呈するという、とんでもない秘密協定が「ヤルタ協定」といわれるものであります。

その後ソ連のスターリンは、アメリカの駐ソ大使を通じて南樺太と、歯舞・色丹・国後・択捉を含む北方四島並びに、千島列島の領有をルーズベルトに執拗に要求していたのであります。ルーズベルトは、スターリンの要求に応じるには、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して対日参戦に加わる事を条件に、ソ連の参戦に成功するのでありますが、そもそも「ヤルタ協定」なるものは、日本国の関知しない所で悪党ども三人が集まって、勝手に他国の領土を、対日参戦の引き出物にするとは、あまりにも馬鹿げた話であります。したがって、日本国はこのような「ヤルタ協定」の中で謳われた、如何なる取決めにも一切拘束されないのは当たり前の話であります。

さらに言えば、日本国は敗戦によって連合国のアメリカから、竹島・沖縄・千島・歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島並びに南樺太などの地域における行政権の全てを剥奪されてしまいました。また、サンフランシスコ平和条約の調印によって、日本国は、千島列島の全部と樺太の南半分を放棄させられましたが、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島などの北方四島は含まれていないのであります。

ここで負け惜しみを言うわけではありませんが、サンフランシスコ平和条約そのものが連合国が一方的に定めた強行規定であり、敗戦国の日本国が再び主権国家として生きて行く為には、連合国アメリカの定めた、こうした不条理な強行規定に黙って従う以外に、他に選択肢は無かったのであります。

そもそも昭和18年(1943年)11月に発せられた「カイロ宣言」には「第一次世界大戦で取得した太平洋の諸島、満州、台湾および澎湖島、朝鮮半島を暴力および貪欲により日本国が略取した他のすべての地域から追い出さなければならない」と記されています。

それは、日本国の固有の領土である樺太の南半分と千島列島の18島も含まれる内容であります。すなわち、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を除いた、ウルップ島以北のシュムシュ島までの18島のことであります。

ところがソ連(ロシア)は、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を含んだ全島が千島列島であると主張しているのであります。

その後の「ポツダム宣言」(昭和20年7月)には、「カイロ宣言の条項は履行されれなければならず、また、日本国のおよぶ主権は、本州・四国・九州・北海道並びに我らの決定する小島に限られる」と記されています。

いずれにしても、これ等の「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」は、罪刑法定主義の重大なる違反であります。所謂、法の不遡及、つまり事後法の禁止という重大違反を犯して、アメリカは連合国の名に於いて、日本の固有の領土である、南樺太と千島列島の18島を奪い取ろうとして、極東軍事裁判(東京)おいて判決しているのであります。

しかしながら、千島列島が日本の領土として編入された経緯は、1875年(明治8年)ソ連との間で締結された「樺太.千島交換条約」で、カムチヤツカ半島の隣のシュムシュ島から南端に下ったウルップ島までの18島と、樺太の全土を交換し、千島列島は平和裏に日本国の領土になっているのであります。

その後、1095年(明治38年)の日露戦争の勝利で「ポーツマス条約」によって、南樺太(半分)はロシアから割譲されて、再び日本国の領土となっているのでありますが、ただ不思議に思う事は、日露戦争の終結は、アメリカ政府の仲介によって、成立しているのであります。

ところが戦勝国のアメリカは、極東軍事裁判(東京)に於いて、やりたい放題の好き勝手をやってのけ、文明国に絶対に有ってはならない「罪刑法定主義」すなわち事後法を平然と用いて、大東亜戦争とはまったく関係の無い、1931年の満州事変以来の、日中戦争や日露戦争によって既に解決済みの問題等まで持ち出してきて、南樺太と千島列島を日本国から奪い取ってソ連(ロシア)に引き渡し、ヤルタ会談の陰謀を忠実に履行しているようですが、こうした卑劣な行為が、罪刑法定主義の重大な違反に当たるのであります。

サンフランシスコ平和条約によって放棄させられた、南樺太と千島列島が、何処の国の領土に帰属するかは、未だに決められてはいないのは確かな事実であります。

そうした歴史的事実からすれば、当時のソ連は、サンフランシスコ平和条約には調印していないのでありますから、日本国は、ソ連(ロシア)に対して、歯舞・色丹・国後・択捉島の返還は当然の事として、南樺太と千島列島の返還も求めることが出来るのであります。

ただ、日本国の既存政党の中で、日本共産党のみが、全千島と北方四島の返還を主張し、それを党の綱領に掲げているとの事であります。

いわゆる罪刑法定主義、すなわち事後法を用いて極東軍事裁判(東京)を指揮してA級B級C級の多くの戦犯なるものを生み出し、合わせて937人が死刑判決を受けました。アメリカから仕掛けられたあの忌まわしい戦争が終わって、敗戦による窮乏と虚脱状態の中から抜け出すことのできないまま、運よく復員した兵士は疲弊した我が家の再建にこれから取りかかろうとした矢先になって、マッカーサーから呼び出されて「共同謀議」という罪名を科せられ、尊い多くの将兵の命が奪われたのであります。

南樺太と千島列島を奪い取ったマッカーサーは、東京裁判から2年後に本国に呼び戻されて一切の軍歴を剥奪されているのでありますがその理由は、朝鮮戦争(昭和25年6月25日勃発)を拡大し、中国大陸へ進撃して原爆投下を企図していることが発覚、アメリカ政府を大いに狼狽せしめているのであります。

後にマッカーサーは、アメリカの上院外交委員会に於いて査問され、その時、彼の言い残した有名な言葉に「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」「日本人の精神年齢は12歳だ」という思い上がった言葉を残しております。

そして亦その時の証言として、マッカーサーは「日本が第二次大戦に立ちあがったのは、自衛のためだった」と証言し「東京裁判は誤りであった」と証言しているのでありますが、マッカーサーの命令によって処刑された数多くの将兵の尊い命は帰って来ないばかりか、奪われた領土も未だに返って来てはいないのであります。




   

国際社会から舐められない方法とは

2015年08月22日 14時59分18秒 | 亡国の坂道 
今、端的に国家としての防衛政策を論ずるならば、難しい論理は何も必要ないのであります。

それは卑近な例を挙げるまでもなく、子供の世界も大人の世界も、あるいは亦、国家間の問題も理屈は同じなのです。例えば、小中学校でいじめの対象になる学童は、必ず「弱い者」が格好の標的になるように、それは大人の世界でも、冷厳な国際社会でもまったく同じ理屈なのであります。

早い話、例えば相手が喧嘩に強いガキ大将だとか、空手の有段者だとか、プロレスラーだとしたら、仮に、少々憎たらしい相手だとしても飛び掛かって行って、喧嘩を売る者は絶対に居ない理屈であます。そんな強い者に下手に喧嘩を売ろうものなら、逆に殴り返された揚句、喧嘩を仕掛けた者は酷い目に会って、ボコボコにされて痛い思いをするのは、目に見えているからであります。

それと同じように、国際社会においても相手が強力な軍事力を保持しているとなれば、如何なる国と雖も、脅しや、生意気にちょっかいを掛けて来る国は何処にも存在しなくなるのであります。

まさしく今日の日本国は、自虐史観の蔓延と平和ボケの余り、軍事力を持つ事が「悪」だと決め付けて、「戦争は嫌だ、戦争は二度とすべきではない」などと、左翼や革新政党を名乗る者が大騒ぎをしていますが、こうした愚かな贖罪意識が、逆に反日、侮日に拍車をかけ、いつまでも不必要な謝罪を強いられた揚句、大金を毟り取られているのであります。そうした悪弊が厭戦気分を醸成し、北朝鮮や中国から何百発ものミサイルを向けられ、無気力な国家に成り下がってしまったのであります。

謂わばこのところの日本人は悉く自信を無くして負い目に立たされていますが、是れこそが軍事力を持たないが故の悲劇であり、アメリカに日本国の安全を委ねた、おんぶにだっこの外交的敗北であります。

今日の日本国が隣国の中国や韓国からいつまで経っても、歴史認識や、彼らがいう日本政府が直接関与したとする慰安婦問題等で執拗に因縁を付けられている現状を脱するには、強力な軍事力を持つ以外には、有効な手段は絶対に存在しない事を認識すべきであります。

仮に、日本国が強力な軍事力を持つに至った場合、慰安婦問題や歴史認識などは手品のごとく雲散霧消するだろうし、あるいは亦、北朝鮮との間の拉致問題を何処までも引きずることはなくなるのであります。彼らは、忽ち手のひらを返したように、おべんちゃらを使って擦り寄って来る事を知るべきであります。

ここで拉致問題について一言言わせて貰うならば、何故に日本政府は、「調査・調査」と言って、念仏のような呪文を繰り返しているのでしょうか、不思議であります。日本人拉致事件そのものは、北朝鮮の個人や民間団体が密かに犯した犯行ではなく、独裁国家の首領様であった金正日の直接の命令に依る国家的許しがたい犯罪であります。であるならば、北朝鮮政府は、日本人拉致被害者全員を、くまなく百パーセント把握しているのは当然でありますから、今更、改めて調査もヘチマあったものではないのであります。

考えなくても解るとおり、日本人拉致事件は北朝鮮政府が直接手を下し、日本人拉致被害者を強引に連れ去って行って、北朝鮮の羅津(ラジン)港や清津(チョンジン)港で籠の鳥を解き放つように、拉致被害者の縄を解いて野放しにしたのではありません。すべからく、夫々目的を以って厳重な監視の下におき、一人ひとりを彼らの目的に向かって、入念な思想教育を施した上で、夫々に任務を与えて管理しているのでありますから、いまさら調査なんて可笑しな話であります。

そういう事からすると、日本政府も然ることながら、拉致家族会の面々も真剣さが足りないのであります。おそらく北朝鮮政府から見るならば、吹き出したくなるような、日本政府のとろい寝ぼけた交渉力を満面の笑みを噛み殺して、せせら笑っているのではないでしょうか!

それは兎も角、日本国が軍事力を強化するには、同時に、国連憲章で定めた「旧敵国条項」なる理不尽極まる可笑しげな規定を、何よりも先んじて解除させる努力が必要であります。そうしなければ、軍事力を持つことも絵に描いた餅に終わるのであります。

因みに国連憲章で定めた「旧敵国条項」とは、第二次世界大戦中に連合国の敵国であった、枢軸国の(日・独・伊)を対象に、安全保障面で特別の過渡的規定を織り込んだ国連憲章第53条及び第107条等であります。

第53条は、第二次世界大戦中に「連合国の敵国」だった日・独・伊等の国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可がなくとも、日・独・伊の当該国に対して、軍事的制裁を課すこと(制裁戦争)が容認され、この行為は国連も制止できないとしている「安保理で定めた例外規定」の事であります。

つまり、旧連合国が枢軸国(日・独・伊)に対して軍事行動を起こす場合、本来ならば安保理の許可が必要とされますが、旧敵国(日・独・伊)に対しては、その手続きは、一切不要とされるもので、連合国に取っては極めて強力な都合の良い一方的な規定であります。

次に第107条によれば、第二次大戦の結果として取る行動である限り、連合国は、何等拘束される事なく、旧敵国に対する軍事的行動が任意で取れることを定めています。

要するに、旧敵国の行動に対して責任を負う連合国が戦争後の過渡的期間の間に行った各措置(休戦・降伏・占領などの戦後措置)は、国連憲章によって永久に無効化されないという規定であります。

ここに沖縄の普天間・辺野古の根本的問題がひそんでいるのであります。いま、翁長知事が口角泡を飛ばして、「造らせない」等と叫んでいますが、アメリカが本気で一言、ノーと言えば、反対は掛け声だけで終わることとなり、それで難なくお終いとなるのであります。

しかも、この国連憲章で定めた旧敵国条項なるものは、旧敵国が敵国でなくなる条件については一切言及しておらず、その措置についてもなんら制限を定義していません。このため「旧敵国を永久に無法者と宣言する効果」があるとされるもので、旧敵国との紛争については、平和的に解決する義務すら負わされていない、とんでもい戦勝国側の一方的都合の良い規定なのであります。

さて話は変わり、今日の国連を運営するには分担金と称する拠出金がありますが、すなわち国連の運営維持に関する大切な資金でありますが、戦勝五大国といわれるアメリカ・イギリス・フランス・中国・ロシアの核保有国を尻目に、敗戦国の日本は、アメリカに次いで、世界で二番目に多い、分担金の拠出を負わされているのであります。そんな不条理な取り決めをそのまま黙って許すことが出来ますか! それで何か事があったら、「旧敵国条項」を盾にとんでもない理不尽な制裁を、一方的に受ける事になるのであります。

その上この五大国は夫々が常任理事国として「拒否権」なるものまで持っていて、自国に都合の悪い取り決めは、悉く、この拒否権を行使して、すべての議案を廃案に追い込むことが出来るのでありますから、常任理事国に取って、こんな美味しい話はないのであります。そこで拒否権を持たない国々が集まって「民主主義だ、多数決だ」等と騒いでも、一向に埒のあかない仕組みになっているのであります。

そのような中でも日本国は、国連憲章で定めた「旧敵国条項」の削除を実現させる事は長年の悲願であるため、事あるごとに「旧敵国条項」の削除を強く主張しつづけてきた結果、1995年の国連総会(憲章特別員会)の場で、削除の決議を勝ち取ったものの、実際にそれを実効ならしめるには、さらに、国連憲章の改正をしなければならない手続きが残されているため、未だに実現を見ていないのであります。

漸くここまでこぎ着けた段階で、仮に肝心要の国連憲章の改正に反対する国々があるとしたなら、我が国が拠出している国連分担金の支払いを、さまざまな理由を付けて延滞するとか、あるいは大幅な減額を要求する等、分担金の支払いに、非協力的な態度を表明すれば良いのであります。

それと併せて、日本国が軍事力を強化することに反対を表明する国があるならば、日本を取り巻く隣国の中国をはじめ、北朝鮮やロシアの核による脅威を訴え、二度と再び広島・長崎の核の洗礼に晒されたくない悲劇を主張し、彼らと同等の軍事力を保持する努力をすれば良いのであります。それをもう少し解り易く説明するなら、日本も核武装すれば良いのであって、そうすれば、いずれの国からも絶対に攻められる事のない、最も安全な国になると言うことであります。

今や核兵器は、相手を攻撃するための兵器ではなく、自国の安全を守る唯一の防御兵器であることを認識すべきであります。

それでもこうした簡単な論理が理解できない方々のために、北朝鮮とイラクの二つの国家の体たらくを比較して見れば、それ以上の説明は全く不要となると思われるのであります。

先ず北朝鮮でありますが、仮に、国民の全員がズボンを穿く事ができなくても、先軍政治を何よりも優先することによって、遂に核を保有することに成功しました。それ故に、さすがの世界の警察官を任じていたアメリカも、国連も国際社会も何等の手出しをする事が出来なくなってしまいました。そればかりか、世界で196ヵ国中、170ヵ国以上が北朝鮮と国交を結んで、堂々と世界にその存在を誇示しています。

もう一方のイラクですが、2003年3月、サダム・フセイン政権は、アメリカから大量破壊兵器を保有している等と因縁をつけられた揚句、国連による大量破壊兵器の査察に非協力だという理由で、国連安保理の明確な決議のないまま、アメリカはイギリスと連携して、バグダッドの空爆に踏み切りました。その後、アメリカは圧倒的な軍事力によって、イラク全土を制圧した上に、イラクの行政制度を根本から破壊した後、最終的にサダム・フセインを絞首刑に処していますが、結局イラクには大量破壊兵器(核兵器)は、何処にも存在しなかったのであります。是れ、核兵器を持たないが故の悲劇であります。

アメリカとイギリスは、イラクは大量破壊兵器など、何処にも保有していないことを、最初から百も承知していたのであります。

それでは何故に、アメリカはイラク攻撃に踏み切ったのかという疑問が残りますが、当時イラクは、サウジアラビヤに次ぐ第二の石油輸出大国といわれていました。反米主義のサダム・フセインは、長年、石油代金の決済通貨は米ドルが用いられて来た慣例を打ち破って、ユーロ立てにしようと言い出した事への報復として、イラクは米英から攻撃の対象にされたと言われていますが、すべては、有無を言わせぬ核を保有する大国の横暴であります。

その後イラクは、アメリカの圧倒的な軍事力によって、何もかも木端微塵に破壊された後、イスラム教間のスンニ派とシーア派のあいだで宗派対立が激化することとなり、収拾のつかないまま、遂に今日の過激化組織として最も恐れられている、「イスラム国」の台頭を生み出すに至ったのでありますが、これは一体誰の責任なのでしょうか!







顕正会の組織は四者体制に

2015年07月16日 13時44分01秒 | 亡国の坂道 
本ブログは、今日の宗門の教義逸脱問題と、元妙信講の生一本の大聖人様に対し奉る、広宣流布への御奉公の姿を題材にし、両者の主張の違いを明らかにしつつ、史実に基づきいずれが大聖人様の御心に適う信心なのかという、さまざまな角度から論を展開してまいりました。そうしたなかで、宗門の教義歪曲問題を厳しく追及してきた妙信講も残念ながら、いつしか新進気鋭の駿馬の色香美味は失われ、時代の経過とともに駄馬の身に生気が失われるがごとく、広宣流布に掛ける活力がいつしか緩んで来たようです。

中でも妙信講は、昭和49年8月には死罪に等しい講中解散処分という罪科を着せられながらも一歩も怯むことなく、大聖人様の御本願たる国立戒壇の御遺命守護の闘いを果敢に繰り広げてまいりました。ところが、かつての妙信講が、「日蓮正宗顕正会」と名称を変更し、あるいは今日の、「冨士大石寺顕正会」へと名前を改称した平成八年辺りから、あらゆる面で著しい変化が見られるようになりました。

今日では当時とは比べ物にならないほどの変化を遂げ、果たして顕正会の変質をこのまま放置することは近い将来に必ず、禍根を残すのではないかと危惧してるところでございます。それを憂慮する者とはいえ、己の無力と不甲斐なさを嘆くのみで、唯々無念の気持ちが先立つばかりで、残念の一言であります。この著しい変化を豹変といわずして、何と表現すればよいのでしょうか!

その一端をお示しすれば、顕正会は最も大切な教学部を廃部にして、学習会と称する催しが、ここ二十年余り一切なくなってしまいました。それに加えて構造的な組織の大改変であります。

最初に組織の改変について申し上げますと、昔の地域別の壮年部、婦人部、男子部、女子部といった四者別の理想的な組織は解体され、壮年部は廃部となり、婦人部、男子部、女子部の三者体制に編成されて壮年部は消えて無くなりました。今までの壮年部員は「男子部」という組織の中に吸収されると同時に、併せて地域に根ざした支部組織は解体多くの多くの支部長は全員首を斬られ、組織の中では元支部長の豊富な人生経験と、熟練した組織の活性化に必要な智慧は、広宣流布の闘いになんら活かされることもなく、物言わぬまま、寂しく埋没してしまったようです。

今では、どこから見ても壮年部に所属すべき、60代70代の壮年から、果ては90代のお爺さんが、男子部に所属することになってしまったのです。そればかりか、中には、年老いたお婆ちゃんや、若い女の子が男子部に所属し、あるいは、婦人部に若い男子が所属し、若い女子部の組織に60代~90代の老いぼれ爺さんが所属するという、一般世間では到底考えられない、鬱々とした一種異様な戸惑いと重苦しい空気を感ずるのでありますが、こうした空気が組織の活力を奪い、笛吹けど踊らずの無気力の温床となり、組織の養老化を招くことに直接繋がっているのであります。この流れは今後ますます加速することは明らかで、誰人も止めることのできない現実であります。

それに輪を掛けて、地域の名前を付した「東京、大阪、福岡」等の名前を冠した組織名は一切使用することなく、例えば、第2男子部13隊、足立支隊、岡本班。とか、第15男子部37隊、中山支隊、飯田班。といった具合に、すべての組織の頭に数字を冠せた、まるで北朝鮮の軍事組織を思わせるような、体制にしてしまったのであります。したがって、第2男子部13隊と聞いても、日本のどの地域の顕正会の男子部なのか、さっぱり見当もつかないありさまなのです。

こんな状態では、同志としての親しみも連帯感も生まれる筈はないし、すべてが他人事に聞こえるのであります。これは明らかに組織の構造的欠陥であります。


悪人を愛敬し善人を治罰する卑劣とは

2015年05月31日 14時31分23秒 | 亡国の坂道 
本項で本山の坊主らが指摘している問題として、大別すれば下記に記した三つの要件に絞られると思われますが、重複を避ける意味から、ここでは簡単な反論と破折に止めることにします。

①坊主云く「これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされたが、自らの浅智慧と棒暗記の教学に溺れる浅井等は、日達上人の御指南を信解できず、かえって、「日達上人が学会の圧力に屈して己義(自己流の誤った教義)を構えた」について

先ずはじめに、摧破異流義考の執筆に当たった坊主らがいう「これに関蓮する」とは、ニセ戒壇正本堂に御遷座された時の、本門戒壇の大御本尊の御座所のことを指しているのであります。

日達は、ニセ戒壇正本堂を大聖人一期の御遺命の戒壇と偽るからには、正本堂に据え奉る御本尊は、当然本門戒壇の大御本尊を御安置しなければなりません。そこで日達はあろう事か、正本堂建立の発願主となった池田大作の意向に諂って、ニセ戒壇正本堂に御出座しの御本尊の御座所も「事の戒壇」という邪義を構えたのであります。

次に坊主らの記述は「本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」などと、日達の展開する邪義を正当化せんと、涙ぐましいばかりの言い訳を羅列していますが、それは子供騙しのような屁理屈なのです。

坊主らが強調していますように、日達は「本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされた」等と、如何にも今日に至るまで七百年の間一切明かされていなかった、富士門流の甚深の法門を初めて明かされた如く、勿体ぶった言い方をしていますが、何のことはありません。それは戒壇の大御本尊の法体は、事の一念三千の御当体そのものであるから、戒壇の大御本尊の御座所は、何時でも、何処でも「事の戒壇」というとんでもでもない己義を構えたことであります。その邪義の出所は、先に行われた、日達の戒壇義を歪曲した説法に由来するのであります。

日達の云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御法蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿にあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊の在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)等とした驚くべき邪義であります。この間違った説法を根拠に「甚深の法義を体系的に明かされた」などと、箔を付けた言い方をして、日達の吹聴する怪しげな邪義をなんとか正当化しようとして、純真な罪の無い信徒の信心を根こそぎ狂わせてしまったのであります。

②坊主云く「浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」について

憚りながら当時妙信講の浅井本部長は「総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」との言い掛かりは、前半の「総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して」と、後半の「一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」は、問題の本質が異なる故に、当然分けて論ずべき問題であります。

前半のその部分はまったくのデタラメであり、実際は真逆だったのであります。後半のその部分は坊主が指摘するごとく、創価学会の池田大作の邪義に猛追する坊主らが、大聖人様の三大秘法義を曲げに曲げて邪義を構え、富士門流七百年の伝統教義を破壊したのは事実であります。

坊主が指摘する前半部分の真相を説明しますと、昭和44年5月7日には、問題の「聖人展」が池袋の東武デパートで開催されました。その主たる目的は創価学会の選挙にありました。創価学会は選挙に勝利するためには、今まで頑なに主張していた国立戒壇をかなぐり捨てて、全邪宗および邪宗日蓮宗との対立を解消し、選挙の票のためには、どうしても彼らと和解をしなければならない切実な問題を抱えていたのであります。

そこで「聖人展」の開催を思い付き、全日蓮宗に呼びかけたのであります。邪宗日蓮宗は「聖人展」の開催に挙って賛成を表明しました。なかでも邪宗身延山は、自宗から出品した民部日向の書いた血脈の切れた偽本尊と大石寺から持ち出した日興上人の御影様を同座せしめて公衆の面前に晒したのであります。日興上人が二十六箇条の遺誡置文に記された「謗法と同座すべからず与同罪を恐るべき事」と誠誡された正系門家・富士門流の永遠の禁制がこの時、平然と破られたのであります。

その目を覆うばかりの惨状を目の当たりにされた浅井本部長は、総本山に飛んで行き、このような謗法行為は絶対に許されないとして、5月12日、同18日、翌6月18日と都合三回に亘って「聖人展」を即座に中止すべく宗務院に申し入れたところ、対応に出た早瀬道応(後の日慈)と阿部信夫教学部長(後の日顕)は、浅井本部長の申し入れを歯牙にもかけない大柄な態度で拒絶し、浅井本部長に粗暴な言葉を浴びせて、その都度、何が悪いといった鬼のような形相で、浅井本部長を傲然と追い帰しているのであります。

つづけて翌昭和45年3月25日には、第一回諌暁書として浅井本部長は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を創価学会幹部・宗門の管長及び役僧の12人に送付して、正本堂の誑惑を徹底的に追求し、創価学会および宗門の誤りを諫め、富士門流七百年の伝統教義に基づき、正しい三大秘法義を詳らかにし、正本堂の誑惑を六項目の観点の上から、彼らの展開する前代未聞の邪義を徹底的に粉砕されたのであります。

そしたところ、一週間後の4月3日には、早くも日達管長自らが浅井本部長・浅井甚兵衛氏を総本山に呼び寄せ、大奥で目通りすることとなり、照れ臭そうに「浅井さん、良く書けていますねぇ~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」等とお世辞ともつかない懐柔する言葉を投げかけた後、「この中の引用の先師の『御法蔵説法』は日応上人のものですね。あれには省略されている部分があるのです。これがその原本です。大事なものだから全部は見せられないが」等と勿体をつけて、毛筆の書き物を持ち出し、姑息にも、その重要な前後の御文を両手で隠しながら「『戒壇の大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御法蔵であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」などと言って、浅井本部長・甚兵衛両氏を幻惑して錯誤に陥れ、邪義で丸め込もうと謀ったのであります。

浅井本部長はこの件について次のような感想と経緯を述べられています。

「この細井管長が示された日応上人の御法蔵説法の『原本』と称する本であるが、後日不思議な経路を経て、その全文を入手することができた。それは五十六世日応上人のものではなく、六十代日開上人の御法蔵説法であった。謹んでその全文を拝見するとに、文章は炳焉であった。すなわち細井管長が引用された『此の所即ち事の戒壇』の前後を合わせ拝すれば『御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊当山に在します事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し、此の霊場に一度でも詣でん輩は-----』とある。すなわち日開上人は、広布の暁の国立戒壇を前提として、その事の戒壇に安置し奉る戒壇の大御本尊いまここにましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、参詣する者の功徳は全く事の戒壇に詣でるのと同じであることを『此の処即ち是れ本門事の戒壇』と仰せられたのである。すなわち、〝義理において事の戒壇〟の意である。これを本宗では『義理の戒壇』あるいは『義の戒壇』と申し上げてきたのである」(懺悔清算を求P.27)と。

故に日寛上人は「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理の戒壇に当たるなり。-----故に、当山は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)と。

ところが日達管長は、浅井本部長を騙すためには「毒を食らわば皿までも」ではないでしょうが「先日4月3日に御山で見せたあの本は、日寛上人よりもっと古いものです」などと言って、何処までも己義を押し通そうと、涙ぐましいばかりの嘘をつきつづけたのであります。

それから二週間後の4月16日、今度は日達管長は東京の常泉寺に下向されて、浅井本部長と甚兵衛氏の二人を招いて、開口一番「国立戒壇を叫べば宗門はつぶされるかもしれない。だから浅井さん、今後はもう国立戒壇を云わんでください。頼みますよ」などと、みっともなない姿を晒しながら、日達管長が二人に頭を下げて懇願しているのであります。

国立戒壇放棄を日達管長から懇願された浅井本部長は「どうして国立戒壇をいうと宗門がつぶされるのですか。〝信教の自由〟はいまの憲法こそ保証しているのではないでしょうか」と丁重に日達管長の真意を問いただしたところ、日達管長は「共産党の動きが怖いのです」などと怖気づいて、日本共産党が松本善太郎衆院議員名義で船田衆議院議長に提出した「国立戒壇」に関する質問主意書のコピーを持ち出して「国立戒壇だけは今後は口にしないで下さい」等と、再び拝むように懇願しているのであります。(正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う P.30)と。

参考までに申し上げますと、日本共産党の谷口善太郎氏の「国立戒壇は憲法違反ではないか」とする、質問主意書に基づく政府の答弁は、次のような明快なものでした。

「憲法を改正しなければ実現することができない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行うことが、直ちに憲法違反になるわけではない」というものでした。いわんや、国立戒壇を宗教目的とする活動が憲法違反に問われることなど、絶対にありえない事であります。それにしても、宗門の坊主らの無知、日達の無知には呆れましたね。

このように、宗門の坊主らがいう「浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続けた」などとする記述は、有りもしないデタラメということがお分かりだと思うのであります。

③坊主云く「総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして、昭和49年、日蓮正宗から破門されるに至ったのである」について

坊主らは事の真偽をおり混ぜ、亦、事の次第を前後させて、悪質にも妙信講が一方的に正宗信徒としての統制を乱し、宗制宗規を蹂躙したかのごとく誹謗中傷していますが、今となっては何んとでも言えるのであります。

昭和49年と云えば御遺命守護の闘いも佳境に入っていました。創価学会は、日本共産党が「国立戒壇」に関する質問主意書を政府に提出した回答に応えるべく、同年4月23日付で政府に対して、次のような欺瞞回答を提出したのであります。

1.本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者 の創意と供養によって建てるべきものである。

2.既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定で ある。これが本門戒壇に当たる。

3.一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1.で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業と して行うのであって、国家権力とは無関係である。

妙信講は、創価学会のこのような本門戒壇に関する欺瞞回答を粉砕すべく、明治公園に三千名が集い「立正安国野外集会」を開催しました。そして、来る8月15日までに、政府に対して行った欺瞞回答の訂正を求める書状を、学会本部に小園江理事の手で届けました。そして、その期日までに欺瞞回答の撤回をしなければ、妙信講が日蓮大聖人の弟子として、大聖人様仰せの国立戒壇の意義と目的を、正しく創価学会に変わって政府に堂々と訂正して来ると書状に記したのです。

ところが創価学会と宗門は、妙信講が要求する国立戒壇に関する欺瞞回答の訂正を要求した、8月15日を待たずに、3日前の8月12日付けで下記のごとく「宣告書」を内容証明郵便で送りつけ、妙信講を部外者の立場に追いやるため、講中解散処分という暴挙に打って出て信徒資格を剥奪し、一切関係なくしてしまったのであります。

 宣告書

一、主文 講中解散に処する。
 
右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、戒告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行った。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。従って、七月三十一日をもって弁疎の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする事由は見当たらず、いまだ情状酌量の余地も全くないものである。よって宗規第百六十四条(旧第六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。

昭和四十九年八月十二日 
                                                     日蓮正宗管長 細井 日達 印



斯くの如くに妙信講は、昭和49年8月12日を以って講中解散処分を受けるに至りました。しかしながら、それ以前には「右翼顔負けの街宣車を用いて云々」等は虚偽の羅列であり、一切行ったことはありません。また、一末寺に街宣車で押しかけて何をしたというのでしょうか。そんな必要は全くないのであります。妙信講が相手としているのは、あくまでも邪義を振りまく大本の、日蓮正宗の総本山に巣食う坊主の代表だったのであります。

そもそも妙信講をこのような理不尽な解散処分に付したのも、宗門と創価学会は一体になって、正本堂の誑惑を正当化するためには、4月23日に政府に対して国立戒壇の性質について回答した手前、妙信講の宣揚する国立戒壇の正義を宗内から完全に滅失し、排除しなければならない状況に追い込まれていたのであります。

妙信講が大聖人様以来の三大秘法義を正しく宣揚することに対して、宗門・学会は数年前から、妙信講の存在を快く思っていないばかりか、国立戒壇を主張し続ける妙信講を一刻も早く排除することだけに捉われ、日夜汲々としていたのであります。

当時の状況を山崎正友弁護士は「盗聴教団」と題する自著に次のように告白しています。

「五月には、宗議会を開いて日蓮正宗の宗規を改正し、従来はなかった講中や檀徒に対する処分条項を新たに制定した。妙信講が、もし、ことを荒立てたら、講中解散処分し、幹部は信徒除名処分にすると脅しをかけたのであった」「できるなら、多少のさわぎがあろうと、このまま妙信講を処分で押し切ったよほうがよい、というのが、北条、秋谷両副会長はじめ私たちの意見だった」(盗聴教団 P.46)等と。    

かくして妙信講は、昭和49年8月12日付を以って、大聖人様に背逆する悪僧日達の手によって、講中解散処分を受け、指導者は信徒除名処分に付されるという、理不尽極まる仕打ちを受けるに至ったのであります。

扨て、次に「総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして」について

ここで妙信講解散後の御遺命守護の戦いについて、正確を期すために浅井会長が記した、大量逮捕者を出すに至った経緯と真実を紹介したいと思います。

「解散処分と同時に、いよいよ妙信講の壊滅を期して、学会・宗門一体になっての狂気のごとき攻撃が開始された。この攻撃の直接指揮を執ったのは、池田の腹心・悪徳弁護士の山崎正友であった。彼は謀略部隊を率いてあらゆる策謀をめぐらし、また情報にうとい.細井管長・宗務役僧を煽動しては、これを思うままに操って妙信講の壊滅を計った。

先ず処分直後、細井管長の直筆の「元妙信講員の皆様へ」という手紙が、多くの講員宅に郵送されて来た。文章は山崎の手に成るものであったが、筆跡はまぎれもなく細井管長の直筆であった。しかし心の乱れをそのままに、筆は大いに乱れていた。その内容は『〝国立戒壇の名称を使用してはいけない〟との公式決定に従わぬから、今回解散処分に付した。講員は誤った指導者に付くことなく、六十日以内に指定四ヶ寺に所属替えをもうしでるように』というものである。

山崎等は、〝猊下からのお手紙〟ならば、講員は大いに動揺し、離脱する者が続出すると思ったのであろうが、この手紙を見た講員は、その破廉恥の内容にあきれ、かつ憤った。一人も申し出る者が無いのを見て、九月中旬『再び元妙信講員の皆様へ』という細井管長の手紙が送られてきた。それには『若し六十日以内に所属替えを申し出ない場合は日蓮正宗信徒ではなくなる』と威してあった。しかしこれも効果は全くなかった。

彼らはさらにこれらの手紙ならびに解散処分を宣伝する文を、宗門機関誌『大日蓮』と法華講機関誌『大白法』に掲載させ、それをまた妙信講員宅に送りつけてきた。これを見ると、表面はいかにも宗門あるいは法華講連合会が妙信講を攻撃しているように見えるが、発送等に至るまで、すべて学会がやっていた。北条副会長(当時)が法華講連合会から大量の『大白法』を買い上げていることも、連合会担当者の自供により判明した。自らは姿を隠して悪事を為す手口は、学会の常とう手段であるが、いかにも卑劣であった。

『なぜ正々堂々と出てこないのか』と、北条浩を糾弾するため、十月四日男子部幹部数十名が学会本部に赴いたところ、これを事前に察知して待機していた特殊部隊が、一斉に襲いかかってきた。その上彼等は日頃馴れ合いの四谷署に通報して、妙信講員が暴力を振るったと偽り、全員を逮捕させた。さらに宗務院はこれを理由に、妙信講の首脳幹部三十三名を除名処分にした。すべては山崎・桐ケ谷等、学会弁護士の悪辣な策謀であった」(御遺命守護の闘いP.198~199)と。

浅井本部長は、学会が下したこの度の暴力事件を極めて抑制的な記述に止めておられるように見受けられますが、実際にこの糾弾抗議に参加した当事者の話によると、学会は数百名の精鋭部隊を建物内外の物陰に潜伏させて、妙信講員が門扉を抉じ開けて敷地内へ乱入するように仕向けた上、消火器を持ち出して、敷地の中から消化液を妙信講員の頭や顔等に噴射して挑発し、中には角材や鉄パイプ等を振りまわして、妙信講員の顔や頭を殴りつけ、あるいは消化液を吹き付けられて泡だらけにされ、互いの怒号が飛び交う中に「殺すなよ、殺さない程度にやれ!」などと大声で叫ぶ学会側の指揮官がいた性か、さすがに命を奪われる者はいなかったものの、怪我を負わなかった妙信講員は、一人として居なかったと証言しています。

このように、三大秘法の正義を叫ぶ者が講中解散処分という重科を負わされ、あるいは信徒資格を剥奪されたうえに、さらに国家権力によって暴力事件をでっちあげられ、全員が逮捕されるという、未曾有の暴力事件に巻き込まれたのでありますが、どちらに非があるかは、いまさら、説明にはおよばないのであります。

坊主らは今頃になって、妙信講員が街宣車をくりだして、一方的に学会本部に乗り込んで、暴力事件を引き起こしたかの如く宣伝し、そのことが、講中解散処分を受けるに至った根本原因のように書き連ねていますが、真相はぜんぜん別な所にあったのであります。






日蓮正宗が寸での処で池田教に呑み込まれるところだったよ!

2015年04月30日 11時22分41秒 | 亡国の坂道 
日蓮正宗でいうところの「訓諭」とは、貫首上人の発する最高の指南書とされています。それは世間でいう、天皇陛下の詔勅に匹敵するものと謂われ、最大限大切にされなければならない重要なものだそうです。

そこで、あの有名な訓諭を思い出します。かつて第六十六代の管長職を継いだ日達は、昭和38年7月15日に発した訓諭に云く「仮初めに、冗談にもせよ、創価学会を批判する者は、宗の内外を問わず須らく地獄に堕ちるぞ」という馬鹿げた、おぞましいばかりの訓諭を発して、宗内の僧俗信徒と、未だ信心もしていない外部の日本全国民に向かって、恥知らずな創価学会擁護の訓諭を垂れて、世間の冷ややかな嘲笑と顰蹙を買ったのは記憶に新しいところであります。

云く「倩々惟みるに下種本仏の利生漸く閻浮を光被せん機運の洋塧する方今を迎へ得しは、是れ後五百歳中広宣流布の金言を体し、地湧の眷属たる自覚のもと打って一丸、克く折伏逆化に邁進する創価学会の出現に依るところと謂うべきなり。夫れ創価学会会員捨身弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全くその類を絶せる熾烈さにして、・・・・その行業は正しく大聖人の御嘉納遊ばされるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからずところなり。若し些か也とも、此の清浄無比にして護借建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂うべし」等という、おどろおどろしい馬鹿げた訓諭を発表して、あの池田大作を大いに喜ばせていたのであります。

このように順風漫歩できた来た日蓮正宗と創価学会は、昭和48年頃になると間もなくして、創価学会は宗門に対して「国際センターをつくる」から入れ、それが嫌なら「会計を調べさせろ」等という前代未聞の無理難題を吹っかけて、副会長の北条浩は「若し会計を調べさせなければ学会は宗門とはおさらばだ」等と言って、日達を脅しつけていたのであります。

そもそも創価学会が新たに設立する「日蓮正宗国際センター」なるものは、如何なる目的を持った法人組織なのか、少々説明を要しますが簡単に説明するなら、元々包括宗教法人の資格を持つ日蓮正宗を、新たに設立する「日蓮正宗国際センター」の傘下に置き、創価学会の外郭団体の一つとして、学会員の冠婚葬祭に纏わる墓苑管理等の一切の事業を請け負わせようというものです。つまり、創価学会には外郭団体として、民音をはじめ、創価大学、公明党、東洋学術研究所、アジア文化研究所等々と同じように、日蓮正宗を創価学会の儀典部として取り込もうとする壮大な計画だったのであります。その「日蓮正宗国際センター」の名誉顧問という閑職に、日達管長を当てようとしていたといわれています。

さすがの日達も、これでは軒を貸して母屋を乗っ取られるのではないか、といった恐怖感を覚え、宗門と創価学会との間には抜きがたい、不信感と修復困難な亀裂が生まれたのであります。考えて見れば、久遠元初以来の壮挙などと自画自賛して立てた、ニセ戒壇正本堂の完成からわずか一年にして、このありさまだったのであります。

当時日達管長が述べた、宗門幹部を集めた指導会での発言記録の一部を紹介することにします。

於総本山大講堂大会議室 宗門の現況と指導会    昭和四十九年七月二十七日

「去年、一昨年の秋くらいから去年を通じ今年の春にかけて、この何といいますかね。学会が宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また、教義的においても我々から見て逸脱している事が多々ある様に思われます。

それは世間の友好の為、広宣流布の為という目標によってそうしておると聞きますけれども、そのままにしておいたんではそれは大問題になりはしないか、ついに、取り返しのつかない事になりはしないか、という憂慮の為に、先月の中頃でしたか、私は北条副会長並びに山崎弁護士が来られまして、時に私は申しあげました。

その時「国際センターをつくる」と、日蓮正宗国際センターをつくるにあたって、創価学会と日蓮正宗との真中に、もう一つ上に、日蓮正宗国際センターというものをつくると言う趣旨で来られました。

私は、はっきり断りました。日蓮正宗は、日蓮正宗としての一つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない只一つの宗旨である。

それをその上に、一つまた国際センターという、日蓮正宗国際センターというものが出来るとなれば、正宗としてはその上に一つまた被宗教法人が出来る。

我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。

日蓮正宗としての意味が、また、御戒壇の大御本尊をお守りしてるというのも、今度は出来なくなってしまう。

その上の宗教法人において、どうとかこうとか、云われたらば、こっちもその下につくんだから、何ともする事が出来なくなる。

その意味から、はっきり断りました。

私は、どこまでも日蓮正宗は大聖人の教義を守って、たとえ小さくても、宜しいから行きます。また今、皆様方のおかげで大きく成っているけれども、もっともっと小さくなっても、どなたか、また大きく手伝いしてくれる人があるかもしれない。

だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守ると言って、はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと言うものを、私は否定といいますか、お断りしたわけでございます。

それから端を発して、色々のその後の、最近の一年か二年かにわたる所の、学会の教義の違い、謗法の有り方と言う事を私は申し上げました。で、ついに、その為に二人は帰って行きました。

また会計を、大石寺の会計も調べる。その会計を調べると言う。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告して通っておる。

それにもかかわらず、また第三者が来て会計報告まで調べると言うのはどうも私は意味がとれない。

その時に北条さんが言うには、「若し調べさせなければ手を分かつ、おさらばする」とはっきり云ったのです。

私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。「会計を見せなければ、自分から正宗から手を切る」と云うのである。

だけれども、その時はその時で落ち着いたけれども、で、一応見せてあげましょう。と見せまして、会計をこの三月から一月か二月かかって向こうの会計主任と言いますか、何か偉い人が学会の会計主任の方が来て、三・四人、家来を連れて来て調べました。

だけど、結局調べたけれども金があるわけじゃない。正宗に隠した金があるわけじゃない。同じ事なんです。税務署へちゃんと出すだけの事であって、結局それで済んじゃって、二ヶ月か三ヶ月か調べたけれども、そのまま消えちゃった。もう来なくなっちゃった」等と。

日達という坊主は実に好い加減な、どっちつかずのだらしのない坊主だから、学会に好いように付け入れられ、隙を突かれて乗じられたのであります。尤も、御本仏大聖人様の御本願たる国立戒壇を金で売り渡すような坊主には、大聖人様の末流としての、威厳も権威も決して備わらないことを証明した、哀れな姿を見るようであります。

日達はニセ戒壇正本堂が出来るまでは、邪義の限りをつくした揚句、池田大作におべんちゃらを使い「此の正本堂が完成した時には、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)等といった、とんでもない邪義を振りまいてた者が、宗門が信徒団体によって呑みこまれそうな危険を感ずるようになると、今度は、手のひらを返したように、はじめて正宗の坊主らしいことを云っているのであります。

云く「どこまでも日蓮正宗は大聖人の教義を守って、たとえ小さくても、宜しいから行きます。また今、皆様方のおかげで大きく成っているけれども、もっともっと小さくなっても、どなたか、また大きく手伝いしてくれる人があるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守ると言って、はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと言うものを、私は否定といいますか、お断りしたわけでございます」とは、苦渋の決断だったのでしょうか。それにしてもこの機に及んで、「私はどこまでも大聖人の仏法を守る」とは笑わせますね。まさしく日達の率いる宗門は、累卵の危うきにも似た、後の無い状況にまで追い込まれていたのであります。

この時の日達の発言記録が雄弁に物語っていますように、創価学会と日蓮正宗の間には既にこの時期、金銭に纏わる内ゲバにも似た、醜い修羅と悪竜の合戦が始まっていたのでありますが、あの訓諭を発した悪僧日達は、自らが創価学会批判の矢面に立ったことが災いしたのか、間もなくして仏罰をこうむり、昭和54年7月22日には臨終思うようにならず、生きながら苦悶の末に地獄に堕したようです。かつて、日達が学会擁護のために述べていた、あの時の馬鹿げた訓諭を思い出すのであります。

云く「若し些か也とも、此の清浄無比にして護借建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂うべし」等と僧俗信徒と世間の人々に引導を渡していましたが、それが、己の身に降りかかってきたようです。これが因果応報とでもいうのでしょうか? 

その後この両者は、食うか食われるかの死闘を演じた揚句、昭和49年に北条副会長が口にした別れ話が現実のものとなり、平成3年11月になって、創価学会は宗門から解散勧告を受けるに至り、夫々が別々の道を歩む事になったのであります。

ただ共通していえるところは、たがいに国立戒壇を目の敵にし、それに目を吊り上げて反対しています。それで両者は口裏を合わせたように、夫々が邪教化の道を驀進している事だけは一致しているようです。

それを象徴するかのように創価学会会長、原田 稔は、平成26年11月になって、創価学会会員規約改正の中で「弘安二年の本尊は受持の対象にしない」などという事を言い出したのであります。創価学会は遂に、本門戒壇の大御本尊を信仰の対象から除外すると言い出したのでありますが、それ以後は、一体何を本尊として、信仰の対象にしようとしているのでしょうか! 先が思いやられます。

それでいうことが振るっています「受持しないとういうことは、弘安二年の本尊を受持しないだけだ」等と訳のわからないことを言っていますが、彼らは「受持」の本当の意味が理解できていないようです。

彼の日寛上人は「受持」について「受持とは正しく信心口唱に当たるなり」と定義されているのであります。したがって、信心口唱とは、戒壇の御本尊を信じて、お題目を唱えることが「信心口唱」ということになるのであります。それを否定してしまったら、信心は一切なりたたないのであります。

富士門流の中興の祖として仰がれた第二十六世日寛上人は、本門戒壇の御本尊に対して「なかんずく弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。すでに三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心の本尊抄文段)と仰せられているのであります。

つづけて云く「我等唱える所の本門の題目、其の体何物ぞや。謂く、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊、其の体何物ぞや。謂く、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝に云く『中央の首題、左右の十界、皆悉く日蓮なり。故に日蓮判と主付玉えり』(当流行事抄)と御教示であります。

創価学会は「弘安二年の本尊は受持の対象にしない」などと、とんでもない極限の大謗法を犯してしまいましたが、弘安二年の大御本尊様こそ、即日蓮大聖人様なのであります。すなわち、人法体一という深旨が未だ理解できていないのであります。

これはもう大変な事であります。いずれに致しましても、創価学会も愈々おかしくなってまいりました。創価学会が政治選挙の為に国立戒壇を放棄したのは解るような気もしますが、ここに来て本門戒壇の大御本尊を信仰の対象から除外するとは、いったい何が目的なのでしょうか、大謗法もこれに過ぎたる極限の罪過はないのであります。

また唯一の正系門家たる日蓮正宗の坊主らが、国立戒壇を永久放棄したという所行は、御本仏大聖人様の究竟の御本願をかなぐり捨てて、池田大作の教えが唯一正しい教えとばかり本気になって、国立戒壇を未だに排斥している事実は池田教そのものであります。戦後の左翼思想にかぶれた職業坊主らには、国立戒壇という概念は、とても理解がおよばないのかも知れません。

とにもかくにも、本門戒壇の大御本尊を贋作呼ばわりする者は、六七代を継いだと称する悪僧日顕一人だけに止めて、宗門の坊主らが創価学会と同じように、本門戒壇の大御本尊まで否定することの無いように祈るばかりであります。


国立戒壇は身延からという無知

2015年04月22日 11時07分07秒 | 亡国の坂道 
国立戒壇説は、身延から始まったとする富士川一郎さんのこじ付け話には、またかという思いとともに、反吐の出るほどうんざりしています。

云く「古代の富士門では三位日順師は大本門寺主義でしたが、国立戒壇という語句を使用し始めたのは身延山の綱要導師の『祖書綱要』が初出だそうです。この綱要導師は江戸時代の人です。田中智学の遥か前の人です。その時点で既に国立戒壇が書かれておるのです。通常、国立戒壇は横浜問答の結果、大石寺から盗用したように申しますが、田中が所化修行をしていた身延には江戸時代に国立戒壇の用語があったことになります。つまり国立戒壇という用語は身延なのです」などと。

富士川さんが一言書けば、その一言が災いとなり、天下に恥を晒すことになる事を教えておきたいと思います。

良くもまあ富士川一郎さんは、次から次へと出鱈目なネタが尽きませんね。貴方は果たして正宗信徒なのかと、その素性を疑いたくなります。ところで貴方は、日蓮正宗が正系門家と謂われる所以を御存じですか? そのお答えを貴方に求めるのは、些か酷な話かも知れませんが、正直に申しまして、こんなお話は金輪際止めようと思っている次第です。しかしこれも、行き掛り上腐れ縁と思いまして止むを得ずお相手をする事にしました。

そもそも日蓮正宗が正系門家と謂われる所以は、次の三つの最大事の化法によって、日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が存するのであります。

それは次の三つによるのであります。①本門戒壇の大御本尊がまします故に。②唯授一人の血脈相承がまします故に。③国立戒壇の御遺命を堅持する故に。以上の三つの大事が厳然と存在し、大聖人様以来七百年間、一つとして欠けた事のない歴史的事実の上から、日蓮正宗が正系門家と謂われてきた所以が此処にあるのであります。

上記の三つの大事の存在を証明するために、初めに御本仏大聖人から第二祖日興上人へ賜った一期弘法付嘱書をお示しします。

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。 
                                       
初めに「日蓮一期の弘法」とは、御本仏大聖人様一代三十年の御化導の究竟の所詮を示す意でありますから「本門戒壇の大御本尊」の御事を指すのであります。

次の「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」とは「唯授一人の血脈相承」であります。大聖人様以後、日興上人を総大将として三大秘法を日本国に弘通すべしと御下命なされています。

次に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文は、広宣流布の暁に日本国の本有の国主たる天皇陛下の詔勅を奉戴して、富士山麓の天生原に「国立戒壇を建立せよ」との御命令であります。

此の短い御文の中に、①「本門戒壇の御本尊」と、②「唯授一人の血脈相承」と、③「国立戒壇」の三つが整然と示されている故に、日蓮正宗が正系門家と呼ばれる所以がお解り頂けるものと思います。

次に、二祖日興上人から第三祖日目上人への御付嘱状たる、日興跡条々の事を拝見することにします。

1.「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」とお示しのとおり、この短い一行の御文の中に、①本門戒壇の大御本尊、②唯授一人の血脈相承、③国立戒壇、の三つが厳然と示されているのであります。本門寺に懸け奉る=国立戒壇ということであります。

この、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人の血脈相承と、国立戒壇の三つが、宗門七百年の間、連綿と次第相続されて来たが故に、日蓮正宗が正系門家と謂われて来た所以があり、その命ともいうべきこれ等の三つこそ、宗門がいささかも忽せにできない最大事の化法なのであります。

それ故に第六十四世日昇上人は「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)と仰せられているのであります。

つづいて第六十五世日淳上人は「この元朝勤行とても(略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられています。

此処で見逃してはならない事は「この元朝勤行とても(略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて」とあるとおり、国立戒壇は、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願である故に「宗祖大聖人の御遺命」と仰せなのであります。したがいまして、立正安国論で説かれている破邪・立正・安国の御精神を拝する時、国立戒壇は、御本仏大聖人様の究竟の御本願であることは、疑う余地の無い正義であることが理解できるでしょう。

ところが今日の宗門の坊主らは、国立戒壇という名称は「明治以前には存在しなかった」などという馬鹿げたウソと邪義を吹聴しているのでありますが、この恥知らずな邪義の出所は、彼の日達だったのであります。

途中で百八十度も豹変したあの第六十六世を継いだ日達上人も、猊座に登った直後には、唯授一人の血脈相承を受けた貫首上人として、まことに立派な教導を垂れていたのであります。

云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところがこの坊主は、創価学会・池田大作の施す身に余る奢侈と金銭欲に目がくらむや「日本の国教でもない宗教に国立戒壇などということは有りえないし、そういう名称も不適当であった。今日では、国立戒壇という名称は世間の誤解を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことに致します。国立戒壇という名称は明治以前には無かったのであります」(昭和45年5月3日 創価学会第33回総会)と豹変したのでありますが、この時の日達の大聖人様に対し奉る背逆した講演が後に、国立戒壇永久放棄の公式宣言といわれるものであります。

考えなくとも分かるとおり、身延山と言えば彼の五老僧の一人、不相伝の民部日向の流れを汲む邪儀・邪説の根源であります。こんな処に「国立戒壇」なる大聖人様の究竟の御本願たる根本教義が存在する筈もありません。大体、民部日向という邪僧は身延の地頭の破木井実長を焚き付けて身延を謗法の山と化し、日興上人の身延離山の元凶ともなった謗法僧であります。こんな邪僧の住んでいた身延に、大聖人様の御本願たる国立戒壇の正義が存在する道理があるなんて、考えるのは狂気の沙汰であることがお解りでしょう。

そもそも日向なる邪僧は、大聖人の御存生の頃から幕府からの法難が恐ろしく、自らの立場を詐称して「天台沙門」等と名乗り、他の念仏、禅、真言等の邪僧と肩を並べて天地・長久の祈りを請け負っていたのであります。こんな邪僧日向のところに、国立戒壇の大聖人様の究竟の御遺命が存在したなんて、絶対に有り得ないことを知るべきであります。

その上、日向は大聖人様を末法下種の人本尊と仰ぐことが出来ず、釈迦や稲荷を本尊としていたのであります。それに本迹一致を主張し、法華経一部を読誦していたのであります。そのような中で、様々な謗法行為を繰り返し、日興上人がこれ等の謗法を看過できず身延を離山の元凶となった邪僧であります。このような身延山には戒壇の大御本尊もなく、唯授一人の血脈相承も存在しない謗法の山に「国立戒壇」の御遺命だけが存在していたなんて、馬鹿げた戯言をいうのも大概にしなければなりません。

振り返れば、宗門七百年の様々な紆余曲折の歴史の中で、御本仏大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇をニセ戒壇正本堂の為に永久に放棄し、窮竟の御本願を破壊した悪僧こそ、あの稀代の悪僧といわれる日達だったのであります。

ついでに言えば、その後を継いだ第六十七世の阿部日顕は、①②③の全てを破壊してしまったのであり、今や日蓮正宗は、正系門家としての命と仰ぐべき重要教義(化法)は、無慙にも彼の二人の悪僧によって、すべて葬り去られてしまったのであります。

先ず、悪僧阿部日顕管長が①②③の全てを破壊して、今日の大石寺を謗法の山と化した歴史的事実を挙げて証明することにします。

①の否定、悪僧日顕は昭和53年2月7日、東京の帝国ホテルの一室で腹心の川辺慈篤房と密談を交わしていた時、日頃から先代の日達に疎んじられていたことの腹癒せに、本門戒壇の大御本尊に八つ当たりをした揚句、有ろう事か「戒壇の大御本尊はニセ物と断定」「筆跡鑑定の結果解った」「日禅授与の本尊と模写の形跡が酷似」等と発言し、川辺慈篤房をして、腰を抜かさんばかりに衝撃を与えたて平然としていたのであります。(模写とは、本物に似せて作成した贋作と決め付けたうことであります。)その後「G(猊下)は信用にならない」などと、日達猊下の悪口を散々言いふらしながら、川辺房と酒を酌み交わし、日頃の憂さ晴らしをしていたのであります。川辺房は衝撃の余り日顕の発言の要旨をメモに残しました。これが後の、あの有名な「川辺メモ」といわれるものです。

②の否定、先代の日達管長は昭和54年7月22日の未明、入院中のフジヤマ病院で激烈な心臓発作と腸不全に襲われ、七転八倒の苦悶の末に臨終思うようにならず、無念の内に呆気なく黄泉の国へ旅立ちました。

ところが悪僧日顕は、先代の日達が急逝するや「野衲は去る昭和54年4月15日の丑寅の時刻に唯授一人の血脈相承を受けていた」などと発言し、周囲のいぶかる空気をよそに、あれよ、あれよという間もなく次期管長職に勝手に治まったのであります。

勿論、日顕は日達との間で唯授一人の血脈相承の授受は行われておりません。以前から日達の悪口を吹聴していた者が、日達から相承の授受が有ったとする方が無理というものです。日顕はこの機に乗じて、第六十七代を自己申告の形で猊座を簒奪したと謂われているのであります。

それが引き金となり、猊座に在職中は一山の大半の僧侶から相承の授受を疑われ、懊悩の二十七年を過ごす事になるのであります。これが本で日顕は、相承の授受を疑う二百余名の僧侶の頸を手当たり次第斬って捨てるという荒療治をやってのけたのでありますが、こんな破廉恥な醜態は日本の仏教界にも未だ見られなかった狂気の沙汰であります。是れこそ正系門家の最大の恥辱であり、御遺命違背の現罰であります。

③の否定、悪僧日顕は創価学会の池田大作の要請に基づき、昭和47年6月に「国立戒壇の誤りについて」と、昭和51年2月に「本門事の戒壇の本義」なる二冊の悪書を執筆し、三大秘法抄の文々句々を恣に捩じ曲げ、民主主義の今日では「国主」は民衆一人ひとりが国主であると言い出したのです。その上「勅宣並びに御教書」を建築許可証とたばかり、ニセ戒壇正本堂を大聖人様の御遺命の戒壇と偽ったのであります。

更には、悪僧日顕は、国立戒壇は元身延僧をやっていた田中智学の創唱等という邪儀・邪説を垂れ流して、国立戒壇を徹底的に否定したのであります。その邪義が今では宗門の定説となっています。故に日顕をして、是れ亦、稀代の悪僧と呼ぶのであります。

御抄に云く「かかる日蓮を用いぬるとも悪しく敬まはば国亡ぶべし」とありますように、国立戒壇を永久放棄して以来、日蓮正宗は、僧俗共に、坊主も法華講員も誰一人として、功徳を頂戴できる者はなく、また成仏を適えて戴ける者とて、皆無となっているのであります。

大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇に背いたまま、如何に御本尊を拝み参らすといえども、仏罰は被っても功徳は鼻糞ほども戴けないのであります。今こそ、法華講員の皆さんは大聖人様の御心に重大な違背を犯していることに早く気付かれ、身をもって謗法の恐ろしさを知るべきであります。今日のような宗門の曲がった心信では功徳を頂戴し成仏が叶うどころか、我が身が持たなくなるばかりか「悪しく敬まはば国亡ぶべし」の御本仏の金文が現実となりつつあることに思いを致すべきであります。

今ようやく、日本固有の領土である島根県の竹島や、沖縄県所属の尖閣諸島の領土問題が表面化してきて、国中が何だか騒がしくなってきました。是れ「国亡ぶべし」の前兆であります。

安国論に云く「徴先に顕われ災い後に至る」亦云く「その時如何がせんや」と。









富士川一郎さんの邪義は、宗門の邪義そのものだ

2015年04月08日 11時18分10秒 | 亡国の坂道 
富士川一郎さんが、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇について、またまた、とんでもない邪義を挟んでまいりました。

云く「貴殿は、日寛上人が示された『事の戒壇』『義の戒壇』の定義こそが正しい解釈だとしています。結論として日寛上人御教示の本門戒壇に関する法門の捌きは『事中の事・理』の法門に尽きる」としていますが、これは解釈の差ではなく、なぜにこの様な開合があるかといえば、所対によるわけです、所対とはその文書の相手の事です。貴殿が引かれた寛尊の文底秘沈抄は主に“本門と迹門との戒壇の差異”をお示しですから、事と義(理)に分別してあるだけです。その開合をその時代時代の貫首が示すことで、化儀の混乱を避けることになるのです」等と。

大変失礼ながら貴方のおっしゃっている説は、幾ら読んでもぜんぜん理解できないのですが、日寛上人の文低秘沈抄には、貴方が仰るように「本門と迹門の法門の差異は論じてはあるものの、戒壇の差異については、印度・中国・日本三国ともに、王城の鬼門に当たる丑寅(東北に位置する最勝の場所)を選んで戒壇が建立された、仏法上の歴史的事実をお示しになられ、迹門と本門の戒壇の差異などは、一切論じてはいないのであります。

その証拠をお示しします。云く「日本国亦倭国と名づく、都城の東北千里に山有り、富士山と名づく」云々、東北は即ち是れ丑寅なり、丑寅を鬼門と名づくるなり」乃至「天竺の霊山は王舎城の丑寅なり、震旦の天台山は漢陽宮の丑寅なり、日本の比叡山は平安城の丑寅なり、共に鎮護国家の道場なり、仏法の住処鬼門の方に三国倶建つなり」云々と。

さらに文底秘沈抄は、三大秘法の「本門の本尊」と「本門の戒壇」と「本門の題目」について懇切丁寧に御教示くだされた門外不出の理論的指南書といわれています。その中でも特に「本門の戒壇」については、後世の末弟の誤りをなからしめんと、本門戒壇建立の地は「富士山に於いて本門の戒壇之を建立すべきなり」と場所を限定せられ、それ以外の場所に本門戒壇と称して、戒壇堂の建立は堅く禁じられているのであります。その義を道理・文証・遮難の三門に約して御教示下されています。これは他宗・他門の本門戒壇に対するさまざまな妨害や論難を、道理・文証・現証の上から敢然と封じられた、富士門流の最重要書と位置付けられています。

次いで参考までに日寛上人が文底秘沈抄に御示しの本門戒壇についての御教示を謹んで拝したいと思います。

云く「夫れ本門の戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本尊所住の処、義戒壇に当る故なり。例せば、文句の第十に「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは、一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く「王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり」等云々。宗祖云く「此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ち消滅して、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ」云々と。

ここで日寛上人の仰せを簡単に解説するならば、次のごとくであります。「本門戒壇には『事の戒壇』と『義の戒壇』がある。いわゆる『義の戒壇』とは、広宣流布するまでの間、戒壇の御本尊様の所住の所を義の戒壇と言うのである。天台の文句第十には『仏様は其の中にお住まいなのである。即ち、是れを塔の義と』いうのである」と。

次に「正しく事の戒壇とは『一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり』とありますように、広宣流布が達成された暁に、始めて全世界の人々のために公開され、等しく懺悔滅罪の根本道場として、梵天・帝釈・四天等の諸天善神がこぞって参詣する大戒壇となります故に、三大秘法抄の御文を引かれて、事の戒壇の説明に代えておられるのであります。

ここで重要な問題は、まさしく塔の義とは、広宣流布するまでの間は、塔の中に秘仏としてお住まいであるから、決して公開してはならないと仰せなのであります。ところが今日の宗門では、坊主の金儲けの手段として、戒壇の大御本尊様を営利の具として、御内拝と称して怨嗟の声が巻き起こるような軽々しい御開扉を重ねているのでありますが、こうした間違った行為が、戒壇の大御本尊様を悪しく敬う結果を生むこととなり、軽賤謗法に当たることを深く思うべきであります。然るところ広宣流布するまでの間、戒壇の御本尊様は、御宝蔵の奥深くに秘蔵厳護しつつ妄りに御開扉することなく、遠くから遥拝する姿が正しい護持の在り方なのであります。

第五十九世日亨上人は今日の御開扉について斯く仰せであります。「いずれの時代からか、遠き広布を待ちかねて、特縁により、強信により、内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事である。(乃至)開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも『日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし』」(日興上人詳伝)として、御開山日興上人から第三祖日目上人へ法体相承された後と雖も、富士門流の上代には「御内拝」と称して、強信の僧俗信徒に対しても、今日のような軽々しい御開扉を繰り返すような慣習は、一切存在しなかったのであります。

さらに日寛上人は、法華取要抄文段に広宣流布の暁の本門戒壇について、次の如く御教示であります。

法華取要抄文段に云く「本門の戒壇に事あり、理あり、理は謂く、義理なり、これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と御教示であります。ここで日寛上人は「事中の理」すなわち、広宣流布以前の戒壇の大御本尊の在所を「事中の理」即ち「義の戒壇」と定義せられ、広宣流布の暁の本門戒壇を「事中の事」即ち「事の戒壇」と御教示であります。

したがって、あの悪坊主日達がいうように、信徒団体の池田大作に諂って「事の戒壇」に二重の義があるなどとは片鱗も仰せられてはいないばかりか「故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と念記せられ、広宣流布以前には「事の戒壇」は絶対に存在しないと仰せになられ、これ以外の解釈や表現を禁じておられるのであります。

要するに「『事中の理』とは、法華経本門寿量品の文低に秘沈された事の一念三千の御当体であるといえども、広宣流布するまでの間、戒壇の大御本尊様の所住の所を『事中の理』と定義せられています。また『事中の事』とは、広宣流布の暁に天皇陛下の詔勅を賜り、国家意思の表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇の御事なのであります。

その大事を端的に仰せられた第六十四世の日昇上人の御教示を拝することにします。

云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮提の座主日目上人に付嘱して依り、血脈の法主歴世に奉戴し、或時は校倉を、或時は土蔵を宝蔵として奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。-----血脈付法の法主を継げる日昇-----『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』の金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖尊の法魂安穏に常住し給わんことを」(奉安殿落成の慶讃文)と。

日昇上人の心魂から叫ばれる大聖人様に対し奉る迸るような御心を拝する時、粛然と襟を正さざるを得ないのであります。この日昇上人の仰せられる御教示こそ、広宣流布に至るまでの戒壇の大御本尊の御座所、すなわち「事中の理」の正しい説明なのであります。

かつて先代の第六十五世日淳上人より唯授一人の血脈相承を受けた直後の日達上人は、正師として、真に立派な訓戒を垂れていたのであります。

云く「日達先に日淳上人より昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻みに血脈相承を受け、十二月二日日蓮正宗管長職に就き、総本山六十六世の法燈を継ぐ(乃至)日達徳薄垢重と雖も忝くも富士の法器となって茲に猊座に登る。只今よりはひたすら宗開両祖の遺訓を奉じて身を慎み歴代諸師の遺風を仰いで実践に移し、異体同心の緇素によって挙宗一致、日蓮正宗の宗勢拡張を期するものである。冀くば日淳上人の僧俗一致の言葉を帯して日達が赤誠を諒せられ身口意の三業を謹んで和衷協力各自その分を尽くして宗門の願業たる戒壇建立に勇猛精進せられんことを」(昭和35年1月1日)等と。

亦云く「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

つづけて「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

ところが日昇上人が仰せられた「後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖尊の法魂安穏に常住し給わんことを」と心魂より迸る祈りにも似た叫びも、後々の法主の座を継いだ六十六世の日達により、富士門流の七百年来の唯一の宿願は、弊履の如く投げ捨てられてしまったのであります。

云く「国教でもない宗教に国立戒壇なんて有り得ない。したがって、国立戒壇は本宗の教義ではない」(昭和45年5月3日 創価学会33回総会)と。

何とも痛ましい現実であります。日達のこの時の大聖人様の御心に真っ向から背逆する方針転換によって、悲しいかな正系門家の血脈はここに完全に断絶したのであります。今日の宗門が一切の功徳を喪失た根本原因は、まさしく此処に存するのであります。

さらに一言申し上げるならば、血脈の断絶した管長猊下(日達・日顕・日如)の書写した本尊に限らず、邪義に染まったまま如何に額に汗して御本尊を拝み参らせたとしても、残念ながら一切功徳は生じないのであります。あるいは亦、大聖人様の御本願たる国立戒壇に背反する僧俗信徒が、血脈付法の正しい貫首上人御書写の御本尊、あるいは本門戒壇の大御本尊を如何に心労を尽くして拝み参らせたとしても、当然の帰結として、何等の功徳は生じない事を知るべきであります。こうした正系門家の仏法違背は、単なる功徳が喪失するだけに止まるものではなく、間違いなく謗法の日本国は自界叛逆・他国侵逼の二難を招き寄せることとなり、今に取り返しのつかない未曾有の国難を味わうことになるのであります。

さらに富士川一郎さんの云く「貴殿は、日寛上人が『事中の事』の説明に、三大秘法抄を引かれて『戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、云々』と仰せられた御文をもちだして、広宣流布の暁に事相に建てられる戒壇を『事の戒壇』の説明に代えた解釈だとしていますが、これが可笑しいのではないかと」等と。

富士川一郎さんは小生の示した上記の書き込みは間違いだとして譲らず、自らの邪義を開陳しておられますが、このような間違った解釈が、今日の宗門僧俗信徒が一切の功徳を失った根本原因が此処に存する事を知るべきであります。まさしく三大秘法の甚深無量の功徳を消滅させた、今日の宗門の体たらくこそ強く責められるべきであります。

富士川さん云く「本門と迹門との戒壇の差異”をお示しですから、事と義(理)に分別してあるだけです。その開合をその時代時代の貫首が示すことで化儀の混乱を避けることになるのです」などと、一見すると高邁な論理らしきものを開陳されているようですが、このような間違った論理に惑わされるのは、概して教学力の乏しい盲信徒が引っかかるのであります。

世間には「冗談も休み休み言わなければならない」というような台詞があるようですが、こんな珍論は、未だかつて耳にしたことのない間違ったこじ付けだと思います。小生がこの機会に貴方のトンチンカンな口から出任せの間違った珍論の根を切断して、文底秘沈抄に説かれた肝要を示せば次の如くであります。

日寛上人の顕わされた文底秘沈抄には、大聖人様の説き顕わされた三大秘法が法華経本門寿量品の何処に説かれているのかということを、開目抄の御文を挙げて懇切丁寧に説明を為されているのであります。

日寛上人云く「一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘して沈めたまえり、龍樹天親知って而も未だ弘めたまわず、但我が天台智者のみ此れを懐けり」の御文の低に、事の一念三千の法体たる南無妙法蓮華経の本門の本尊と、本門の戒壇と、本門の題目が、明白に説き顕わされていることを、お示しになられたのが文底秘沈抄なのであります。

故に「何も以って識ることを得んや、一大事の文是れなり」として、次のごとく御教示であります。

は謂く、本門の本尊なり。是れ則ち一閻浮堤第一の故なり。又閻浮提の中に二無く亦三無し。是の故に一と云うなり。は謂く、本門の戒壇なり。旧より勝るるなりと訓ず、権迹の諸戒に勝るるが故なり。又最勝の地を尋ねて建立するが故なり。は謂く、本門の題目なり。理に非ざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり。又事を事に行ずるが故に事と言うなり」と仰せられ、大聖人のお説きになられる三大秘法を、相待妙と絶待妙に簡別されて御教示遊ばされているのであります。

ここでいう「一大事」の文を相待妙と、絶待妙に簡別するなら次の如くであります。

は「是れ則ち一閻浮堤第一の故なり」の文が、相待妙。「又閻浮堤の中に二無く亦三無し、是の故に一と云うなり」の文が、絶待妙。

は「旧より勝るるなりと訓ず」の文が、相待妙。「権迹の諸戒に勝るるが故なり」の文が、絶待妙。

は「理に非ざるを事と曰う」の文が、相待妙。「又事を事に行ずるが故に事と言うなり」の文が、絶待妙。

ここで相待妙と絶待妙の待絶二妙の違いを一言で説明するなら、相待妙とは、二つの内、どちらが勝れているかという比較の問題であり、絶待妙とは、正しいものは一つしか無く、二もなく、三もないという確定のことであります。

そして第一に本尊編として「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざれば則智行も亦随って正しからず。妙楽大師謂える有り「仮使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄無きも亦種と成らず」等云々。故に須らく本尊を簡んで以て信行を励むべし」と仰せられ、法の本尊と、人の本尊、最後に人法体一の深旨を示めされ、正しい本尊を簡ぶ事の重要性を御教示なのであります。

此処で最も大切なことは、縁あって如何に正しい本尊を簡んだとしても、私達の信心に(国立戒壇に反対する)偽妄があるならば、亦成仏の種とはならないと断られている事に最も心を砕くべきであります。すなわち、成仏は絶対に得られないと仰せであります。それは「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄)と仰せにも有るとおりであります。

次に戒壇編として「夫れ本門戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべ戒壇なり」として、三大秘法抄の文を引いて説明に代えておられるのであります。

最後に題目編として、「本門の題目には必ず信行を具す」と仰せられ、「所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり」と御教示なるも、「信有って行無きは即ち信堅からず、行を去るの信は縁に遇って便ち退す」 また「仮令修行有りと雖も若し信心無くんば未だ不可なり」として、職業坊主の懈怠を厳しく戒められているのであります。

ここで改めて富士川一郎さんの「文底秘沈抄の主な意が本門と迹門との戒壇の差異”をお示しですから、事と義(理)に分別してあるだけです。その開合をその時代時代の貫首が示すことで化儀の混乱を避けることになるのです。」などと、主張している論理は根本的に破綻し、的外れということが理解できるでしょう。

富士川一郎さんは、戒壇の「義(理)」の解釈を誤っているようですが、日寛上人は上記の取要抄の文段では「本門の戒壇に事あり、理あり、理は謂く、義理なり、これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と仰せられる如く『「義理」とは、事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず』と念記されていますように、これは迹門の理戒のことではないですよ。「事中の理」ということで、これは広宣流布が達成するまでの間の戒壇の大御本尊の御座所を「義の戒壇」と呼ぶのですよ。と定義付けられた事を弁えなければならないのであります。

日寛上人の展開される「義(理)の戒壇」の意味は『道理(理屈)として、事の戒壇の「義」が存在する』ということを仰せなのであります。故に「これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と重説せらているのであります。

先ほども触れましたが、文底秘沈抄には迹門と本門の戒壇の差異などには一切触れられていません。それに義の戒壇・事の戒壇の相違は、何度も繰り返しになりますが、広宣流布までの間戒壇の御本尊様の在所を「義の戒壇」とされ、広宣流布の暁に大衆の前にお出ましになられる戒壇の御本尊の在所を「事の戒壇」と定義されているのであります。

また、ここで不可解なのは戒壇を「事と義(理)に分別して、その開合をその時代時代の貫首が示すことで化儀の混乱を避けることになる」などという論理展開は、いったい何が仰りたいのか、小生には理解できないのであります。

仮に、貴方のおっしゃるような「その開合を時代時代の貫首が示すことで化儀の混乱を避けることになる」という邪義を活釈するならば、信徒団体の池田大作に諂って、未だ広宣流布もしていないにも拘らず、ニセ戒壇正本堂を建てて是れが「事の戒壇」などと純真な僧俗信徒を騙して莫大な浄財を集めて大騒ぎをした揚句、さらには三大秘法義をねじ曲げて信徒を地獄の底に道連れにするような誑惑も、時代時代の貫首の化儀となってしまい、悪僧日達の犯した大謗法も、化儀の混乱を避ける方便だったことになってしまうのであります。



富士川一郎さんのナンセンス

2015年03月14日 09時41分43秒 | 亡国の坂道 
富士川一郎さんは、次に下記のようなナンセンスな疑問を投げかけてきました。

云く「貴殿は、国立戒壇とこの文証で随分と頑張っておられますが、この戒壇って日本国だけのお話でいいのでしょうかね。貴殿の文書に梵天・帝釈とありますが、梵天・帝釈は日本の神ではありません。梵天はヒンズー教三大神ですし、帝釈天は同じくヒンズー教忉利天の天主。どちらもインドの神ですね、そう言う神が来下とありますから、インドの人々も来るわけですね。こうなると日本国の建立だとかの小さいお話ではないですかね」などとナンセンスな疑問を投げかけて来ました。

富士川一郎さんの最初の疑問として「この戒壇って日本国だけのお話でいいのでしょうかね」とありますが、この方は大聖人様が御教示下された、三大秘法抄そのものを否定なさるのでしょうか!

大聖人様の仰せには、日本国の広宣流布が成った暁に、国家意思の表明を以って、富士山天生原に本門戒壇を国家的に建立すれば、その戒壇には「三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と仰せでありますが、その事は取りも直さず、この三大秘法の広大無辺の大功徳は、日本、中国、インド三国の民衆を救済するだけに止まるものではなく、全世界の人々を救済する懺悔滅罪の戒法の中心道場となるのは勿論、その功徳は、宇宙法界にまでおよぶと仰せなのであります。

その功徳を具体的に申し上げれば、毎年繰り返されされる台風・洪水・崖崩れ・雪害等の自然災害で多くの死者を出している三災七難等の悲惨な災害から解放され、如説修行抄で御示しの「吹く風枝を鳴らさず雨つちくれを砕かず、代は義農の世となりて、今生には不詳の災難を払いて」と仰せの、五風十雨という来る年も来る年も豊作にめぐまれ穏やかな、災害の無い平和な国家が現出するという事をお示しなのであります。本門戒壇の妙用は、永遠に崩れない幸福に満たされた国家社会が実現するということであります。

広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇の秘術によって、その時日本国の魂は、戒壇の大御本尊となるのであります。戒壇の大御本尊を魂とする日本国は、まさしく仏国であります。その事を「日蓮は日本の人の魂なり」(御本仏成道御書)と仰せられているのであります。

戒壇の御本尊を魂とする国は、永遠に他国から攻撃されたり、領土を犯される心配は無用となるのであります。立正安国論にはその事について「仏国其れ衰えんや、十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや、国に衰微なく土に破壊なくんば身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の言葉この事信ずべく崇がむべし」と仰せられていますように、これが国立戒壇の大功徳なのであります。

そもそも日本国の国号の由来は、第一に、地球上の東端に位置する「」(ひ)出(いずる)日(ひ)の「」(もと)の国に由来するのであります。それゆえに「日本」と呼ぶのであります。第二に、末法下種の唯一人の御本仏「」蓮大聖人様御誕生の根「」の妙国であります故に「日本」と名付けるのであります。依って「名の目出度きは日本第一なり」と仰せられるのであります。

依って、三大秘法は全世界に先駆けて、最初に日本国に広宣流布するのであります。また日本国は、世界に先駆けて三大秘法を広宣流布しなければならない義務と責任を負っているのであります。まさしく三大秘法によって、地球上に住む人類が背負ってきた無始以来の様々な苦悩が解決するならば、日本国は国際社会から驚嘆と尊敬と羨望の眼で迎えられ、世界の中心国になるのは必然であります。

その先序として不思議にも、日本国には世界の文化、思想、原語等を含め、あらゆる宗教が集まって来ています。謂わば日本国は、世界の縮図といっても過言ではありません。そういう観点からいっても、日本国はすでに世界の中心国としての要素を備えているともいえ、来るべき二十一世紀には、愈々三大秘法が全世界へ流布されるべく、強固な下地を形成しているともいえるのであります。

また大聖人様は仏法の上から、釈迦の熟脱の仏法と、これから全世界に広宣流布して行く日蓮大聖人様の下種仏法を対比せられて、下種仏法の広大無辺の甚深無量の功徳力と永遠性を、次の御書に明らかに為されているのであります。

諫暁八幡抄に云く「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すはあに聖人出で給わざらむ。月は西より東へ向へり月氏の仏法の東へ流べき相なり。日は東より出づ日本の仏法の月氏へ帰るべき瑞相なり。月は光あきらかならず在世は但八年なり。日は光明月に勝れり五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」と。

また云く「秀句十勝抄に云く「日蓮云く、迹門を月に譬え、本門を日に譬ふるか、云々」と。

扨て、世界に先駆けて日本国が広宣流布すると、どのような国家像が現出するかという、解り易い事例を挙げて簡単にお示しする事にしましょう。

先ず日本国が世界に先駆けて広宣流布すると通信網の発達した今日では、この波動は瞬時に全世界に伝播されることは容易に想像できるでしょう。その時の様相を具体的に申し上げますと、①日本国民は何故に世界の模範となるような人たちで構成されているのだろう。②日本国は何故に、あのように経済が発展し国民生活が豊かなのだろう。③最近の日本国は何故に、自然災害が全く起こらなくなったのだろう。④日本国は何故に毎年のように豊作が続くのだろう。⑤日本国は国際社会から愛され、何故に、あのような尊敬の眼差しで見つめられるのだろう。⑥日本国は何故にあのように化学技術が発展するのだろう。⑦日本国の文化・芸術は何故に広く奥が深いのだろう。⑦日本国は何故に、犯罪が皆無といっていいほど無くなってきたのだろう等々、数え上げれば数限りなく挙げられるのでありますが、これこそが三大秘法の妙々甚深の功徳であります。本門寺の戒壇の妙用に依って顕現される功徳は永遠なのであります。

こうした日本国の姿を目の当たりにした世界の国々は、日本国をお手本にして三大秘法を取り入れ、信受するようになるのでありますが、その中心は何処まで行っても、日本の国立戒壇なのであります。よって日本国は世界の人々に対して国を挙げて、本門戒壇の大御本尊を守護し奉る義務と責任を負っているのであります。このような崇高な国家目的を有し、本門戒壇の大御本尊を国運を賭して御守護申し上げる故に、三大秘法は愈々威を増し、国は益々発展するのであります。

その事を「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)と仰せられるのであります。是れ、まさしく仏界の国であります。御本仏日蓮大聖人様ご誕生の国に生を受けた日本国民は、自らの仏法有縁の縁を自覚し、速やかに、日本国のおかれた本有の国家目的に早く目覚めるべきであります。

人にも十界がありますように、国にも同じく十界が存するのであります。例えば、強大な武力で周辺国を脅し、核使用や、ミサイル攻撃をちらつかせて他国を侵略するような国は、是れ修羅界の国であります。また、エチオピアやスーダンあるいはシリア・イラクのように戦火によって平和を奪われ、住む家を追われるよな国家は地獄界の国であります。また事ある毎に歴史認識を持ち出して常に謝罪を要求し、強制連行なんて有りもしない慰安婦問題をでっち上げ、いつまでも謝罪を強要し続けて、高額な金銭をむしり取ろうとする国は、まさしく餓鬼界・修羅界の国であります。
 
次に貴方は「梵天・帝釈は日本の神ではありません。梵天はヒンズー教三大神ですし、帝釈天 は同じくヒンズー教忉利天の天主。どちらもインドの神ですね、そう言う神が来下とありますから、インドの人々も来るわけですね。こうなると日本国の建立だとかの小さいお話ではないですね。」などと幼児の寝言のような、三流学者の話を丸写ししたような作り話も可笑しいですね。

そもそも「梵天・帝釈・日・月」は、梵天・帝釈・日・月・四天と申しまして、諸天善神の代表として御書のあらゆるところに出てきます。大聖人様は「梵天はヒンズー教三大神」だとか「帝釈天は同じくヒンズー教利天の天主。どちらもヒンズー教の神」などとは一言も申されておりません。これは明らかな嘘です。果たして梵天・帝釈が、インドのヒンズー教の神々ならば、正宗信徒は、朝の初座の勤行の折に、他の諸天善神を尻目に、ヒンズー教の神々を優先して、南無妙法蓮華経の法味を捧げていることになりますが、そんな馬鹿な話がありますか!

法華経の会座に連なった、梵天・帝釈・日月の四天等の諸天善神は、三大秘法の法味を食して威光勢力を増し、法華経の行者を守護する事を誓っているのであります。したがって、これ等の諸天善神は、釈尊が法華経寿量品の甚深の説法をした時に、文底に秘沈されているところの、南無妙法蓮華経を覚知して、久遠名字の妙覚の位に立つ事ができました。その位のまま、法華経の行者を守護することを誓っているのであります。

それであるにも拘らず、梵天・帝釈等の諸天善神は、何時、法華経守護の誓いを捨てて、外道たるヒンズー教の神々に転身したというのでしょうか? その経緯と文証を求めるものです。いずれにしても、貴方のいう出鱈目な話は、文証の欠片も提示出来ない盲説に他なりません。

梵天・帝釈等の諸天善神たちは、インドの釈尊が法華経寿量品の甚深の説法をした時に、その文の底に秘沈してあるところの、南無妙法蓮華経を覚知して、久遠名字の妙覚の位に立つ事ができた。その位のまま、法華経の行者を守護する事を誓ったというその文証を挙げてご覧に入れる事にしましょう。

法華取要抄に云く「今法華経に来至して実法を授与し、法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向かって之を見れば、生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」との御文がこれであります。

この意をもっと具体的に申し上げるならば「諸天昼夜常為法故而衛護之」の法とは、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を守護することを誓った御文であります。すなわち、この御文は、諸天善神の請願なのであります。その諸天善神の代表を、梵天・帝釈・日・月、四天とお呼びするのであります。

故に御義口伝には「末法に於いて法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し、常為法故而衛護之の法とは南無妙法蓮華経是なり」とあるとおりであります。梵天・帝釈が、インドのヒンズー教の神々である道理はないのであります。

序でにこの機会に宗門の間違いを指摘することにします。宗門は大聖人様の一期の御遺命を破壊する為に、正本堂なるニセ戒壇を建てましたが、その期に乗じて、勤行経典の初座の観念文の中から「天照大神・正八幡大菩薩」の神々を完全に削除してしまったのでありますが、天照大神の本地は、インド応誕の教主釈尊の垂迹した姿であり、正八幡大菩薩は、我が国第十六代応神天皇の御事なのであります。

それは兎も角、それ以前の勤行経典には「生身妙覚自行の御利益、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩等総じて、法華守護の諸天善神、諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に」と、初座の勤行の時に観念していたのでありますが、宗門の坊主等はこの時、日本国という国名を想起させたくないと言う諂いの心から「天照大神・正八幡大菩薩」という日本国の守護神たる二尊の神々を捨て去り、観念文から削り取ってしまったのであります。

当時妙信講の浅井昭衛氏は、宗門が初座の御観念文を改竄したことに対して、何故に、日本国の国神たる天照大神と正八幡大菩薩の大切な御文を削除したのかと詰めたところ、その時の宗務院の言いぐさは「この教本は韓国・中国向けに作成したもの」だという、屁理屈にも為らない下らない説明をしてその場を逃れ、中国や韓国につまらない気兼ねまでして、韓国・中国にまったく抵抗の無い、観念文に改竄してしまったのであります。

無慚とは是れであります。この坊主の諂いの根性が、反って、反日・侮日に火をつけ、日本国を貶める口実を与えて、彼らの大盤振る舞いを助長しているのであります。このように仏法を傷つけ、国を売るような骨の無い坊主らは、即刻宗門から追放しなければならないのであります。





富士川一郎さんの横車

2015年03月01日 09時37分25秒 | 亡国の坂道 
こんどは、富士川一郎さんという方がで出来ました。

云く「北面の武士さんは、旧檀家の習性として日寛上人を全く評価していないので、日寛上人の文書には一切触れたくないので、あのような文書となったと推察します。貴殿のような創価学会から顕正会と言う新参信徒の道を歩んだ方には信じられないでしょうが、戦前まで日寛上人のことを旧檀家からは「末期を誤まられた御法主」と呼ばれていたそうで、戦前の在家信徒の大立者の荒木清勇氏などもこのような御見識だたようです。 ですから、貴殿とは根本的に論争にならないでしょうから、貴方は日寛上人の文書を不使用で論争なさるか、若しくは小生が書きましたように、前提として『日寛上人の文書が絶対である』根拠を最初にお示しになられることを御要望申し上げます」等と。

何とも身勝手な言い分ですね。云く「貴方は日寛上人の文書を不使用で論争なさるか、若しくは小生が書きましたように、前提として『日寛上人の文書が絶対である』根拠を最初にお示しになられることを御要望申し上げます」とは呆れましたね。

ところで旧信徒といわれる日蓮正宗の檀家の間では、彼の英邁な本宗中興の祖として重んじられている日寛上人を悪し様に罵り「末期を誤まられた御法主」としての評価が定説になっているかのごとき誹謗を加えるとは、まことに恐れ入りましたね。これこそ罰当たりな所行ではありませんか、このように不世出の日寛上人を頭から誹謗することは、宗開両祖を悪し様に誹謗することに通ずる、取り返しのつかない大謗法に当たることを先ず最初に指摘しておきます。

扨て、ここで「日寛上人の文書が絶対である」ことを証明するに当たり、当上人の御事績の一端を挙げてご説明する事にしましょう。

彼の日寛上人が本宗中興の祖と謂われる所以は、大聖人様滅後、下種仏法の根源たる三大秘法に対して、日蓮宗を名乗る不相伝家の間に著しい邪義が蔓延し、大聖人様の三大秘法義はいずれが正義で、何れが邪義か、議論百出の迷いの中でさまざまな邪義が出尽くした時に、それらの邪義を徹底して粉砕すべく、正系門家に出現された不世出の聖者ともいうべき上人であられます。

その一端を示せば大聖人滅後、三百八十余年頃に日興上人の嫡流の富士門流に御出現になられ、同上人の畢生の大著と謂われる六巻抄と各種文段等を顕わされ、その中でこれまで出尽くした邪義を悉く粉砕され、大聖人様の三大秘法義を正しく解説されて、日興上人以来の富士門流の正義を高らかと宣揚され、来たるべき事の広宣流布に備えて、日本国中に蔓延する邪義の根を悉く切断されて富士門流の正しさを立証された、まさしく中興の祖とも云うべき稀有の上人であられます。

日寛上人は六巻抄の著述のなかで、特に本迹迷乱の安国日講、種脱迷乱の広蔵日辰等が振りまく邪義の根を断ち、三大秘法の正義を余すところなく顕示され、後世の末弟に誤りなきを期されているのであります。その功績を顕正会の浅井会長の御言葉をお借りして申し上げれば「彼の日寛上人こそ、未来事の広宣流布に備えて、教学上の完璧なる指南書を御用意を遊ばされた超凡絶倫の聖者と拝すべき御方であります」との御言葉を、そのまま引用して讃嘆申し上げても、言い尽くせない不世出の上人であられるのであります。

故に日寛上人は、次期貫首上人の日詳上人に六巻抄を託されて云く「此の六巻の書の師子王ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず、尤も秘蔵すべし、秘蔵すべし」と仰せられ「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」と誠誡せられて、六巻抄は富士門流の秘奥の重書であることを御示しなのであります。

さらに当上人の逸話を申し上げれば、日寛上人は御臨終の証拠を以って、御自身の言説が仏意に叶っていることを証明するために、御遷化される年の享保十年の二月、江戸の常在寺に於いて一座の大衆に観心本尊抄を講じられた終講のおりに、大衆に向かって次の如く羅什三蔵の古事を引用して仰せられるには、法華経を漢訳した彼の羅什三蔵は、自身の訳教の誤りのなきことの証拠として、生前大衆に向かって「我が身死して火葬に付する時、身は灰になるとも舌ばかりは焼けず」と。果たせるかなその通りになったのであります。ゆえに羅什三蔵の訳教は固く信じられ、後世に広く用いらているのであります。

日寛上人もその古事に倣って、たわむれのように仰せられていたそうです。云く「日寛たとえ富楼那の弁を得、目連の通を現ずるとも、云うところの説、当たらざれば誰人が信じよう。ゆえに羅什の古事にちなみ、いま日寛も一つ言い残すことあり。日頃好むところのソバを臨終の時に食し、唱題のうちに臨終すべし。この云うところ当たらざれば信ずるに足らず。もし違わざる時は、我が所説は大聖人の御意に寸分も異ならず信ずべし」と。

まさしく日寛上人の御臨終は、日頃の仰せのとおり、臨終近くになって傍に侍る小僧にソバを打たせて三箸ばかり食した後、口をすすいで夕べの勤行を終え、安詳として口唇誦するがごとく御遷化されたのでした。誰人がこのような臨終を行い得ることができるでしょうか! 故に日寛上人の言説は絶対なりと拝察申し上げるものであります。

ところが貴方方は、その不世出の英邁な貫首上人を指して『戦前まで日寛上人のことを旧檀家からは「末期を誤まられた御法主」と呼ばれていた」などと嘯き「戦前の在家信徒の大立者の荒木清勇氏などもこのような御見識だたようです」』等と、日寛上人の人格まで全面否定するような讒謗を加えるとは、驚きをとおり越して開いた口が塞がりません。

貴方方が日寛上人を悪し様にする「末期を誤まられた御法主」などと決めつけるには、先ず、その明確な根拠を示すべきであります。

このような悪言は、邪宗日蓮宗諸派の怨嫉者の戯言ならいざ知らず、富士門流の大石寺門下の者が、誹謗中傷を加えて悪態をつくとは、とても看過できる話ではありません。ただ不勉強も甚だしいと断ぜざるを得ないのであります。まさしく同上人に対して、このような暴言を浴びせることは、毛を吹いて傷を求めるようなものです。大聖人様の御金言に「来世は那落に堕在せんこと必定せり」との誡めの御文がありますが、心してこの御金言を拝し、口を慎むべきであります。

序でに申し上げれば、今日宗門では毎年八月二〇日を期して「寛師会」が催され、塔の原グラウンドで盛大な花火大会と相撲大会が開催されています。これは宗門挙げて日寛上人の御功績を称える欠かせない行事となっています。そこには、昼夜をあげて富士宮市民も大勢お祝いに駆けつけている事からも、日寛上人の偉大さを推し量ることができるのであります。

いま伏して思う事は、御本仏大聖人様の御遺命を奉じ、日蓮正宗の僧俗信徒が一結して国立戒壇を目指して広宣流布の闘いを進める時、諸宗の弧兎、即ち念仏、真言、禅等の邪宗連合の狐や兎が本山に押し寄せて来て、国立戒壇に反対する。更には、諸門の弧兎、即ち邪宗日蓮宗の身延、中山、池上等の悪僧達が、一党して当山に襲来して国立戒壇に大反対をするといえども、日寛上人は「敢えて驚怖するに足らず」と仰せになられていますが、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇を正本堂というニセ戒壇のために、永久放棄した現今の無気力な宗門には「国中の諸宗・諸門の弧兎、一党して当山に襲来」するなどということは、まさに単なる観念論となり、はかない夢物語となってしまったのであります。

ニセ戒壇正本堂以来腐敗堕落を深めて混迷する宗門は、平成六十一年十一月になって、かつて学会の顧問弁護士を務めていた山崎正友の仲介により、身延山久遠寺の志摩坊住職をはじめとする山梨県布教会長佐藤順映以下八人を数回にわたって本山に招き入れ、理境坊の小川穴道住職に本山の総門・広布坊・山門・大客殿・御影堂等の伽藍を一通り案内させた後、蓮葉庵で昼間から酒宴を張って手厚いおもてなしをした後に、阿部日顕管長は学会憎しの余り、彼らに学会批判まで懇請しているのであります。

「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」と遺誡された御開山日興上人や、六巻抄を顕わされた日寛上人は「此の六巻の書の師子王ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず」と御訓戒為されているのであります。両上人の御心情に思いを馳せる時、いかばかり御悲しみでありましょうか!

今や、正系門家の嫡流を誇っていた日蓮正宗からは、威厳も誇りも完全に消え失せて地に落ち、清らかな富士の清流は取り返しのつかないほど、濁れる濁流に汚染されつづけているのであります。

大聖人様の仰せに云く「今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ」と。

「法華経をかたきとする」とは、大聖人様の御本願たる国立戒壇に反対することであります。今こそ、一刻を争そって速やかに富士の清流(国立戒壇)を取り戻さない限り、災いを万里のはてより招き寄せることになるのであります。



 

北面の武士さんの質問に対して

2015年02月21日 13時39分48秒 | 亡国の坂道 
北面の武士さんから四番目に提起された言い分は下記のような内容でした。

云く「附(つけたり)としてロム者様の事も申しておきます。ロム者様は日布上人様が「未入信者」への御開扉を行った事実を開示されました。この方は恐らく、大石寺への疑義がある立場の方のように感じましたが、事実は事実ですので、これについて詳細を述べておきます。明治期に国柱会と言う組織がありました。これらは国立戒壇の用語の根拠団体としても有名ですが、当然大石寺の信徒団体ではありません。第55世日布上人が、その国柱会の現役幹部山川智応に御開扉を受けさせているのです」と。

以下転載

「ある時姉崎博士それから国柱会の山川、長瀧等の諸先生が登山されたことがあった。上人の御導師で戒壇の御本尊の御開扉、終わりて徐に参詣者に向直られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、仏祖三宝も御満悦のことと存ずる。――各々が無始以来の罪障消滅現当二世の所願満足と厚く御祈念申し上げました。南無妙法蓮華経――』と一拶された」「大日蓮・日布上人を忍んで」(昭和十年三月号)

つづけて云く「上記事実からも明かなとおり、当家では元来、未入信者に御戒壇様を拝させる事を禁じた根拠は無い。むしろ今の方が厳格になってしまっています。上古の日興上人は身延の本堂に御戒壇様を安置し、誰にでも拝させていたそうです。それに比べたら正本堂の単なる落慶式に、基督教神父を招いても、何ら問題を感じません。彼等には御内拝は許可されておりません。とりあえずは、これについて、貴殿の見解をお聞き申し上げます」と。

北面の武士さんに対する回答

第五十五世の日布上人が、他門の国柱会の山川智応に御開扉を受けさせた事実については、一切存じませんが、仮に、貴方の指摘なさっていることが事実ならば、これは明らかに間違った行為であり、大聖人の御心に背反する大謗法であります。

御開山日興上人の二十六箇条の遺誡置文には「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」との誡文に明らかなように、御開山日興上人は謗法行為に対しては、他の五老僧の誰よりも厳格に対処して来ました。地頭の破木井日円の謗法に対しても、黙って黙認するわけにはいかず、地頭の破木井日円の謗法が原因で、大聖人様が九ヶ年間お住まいになられた身延離山を決行されているのであります。

一切の謗法を嫌って身延を捨て、富士の上野殿の請いに応じられたことを考えれば、貴方の云う「上古の日興上人は身延の本堂に御戒壇様を安置し、誰にでも拝させていたそうです」というような作り話は、為にする話しとしか思えません。こんな信憑性のない話を吹聴することは、御開山日興上人が命を懸けて、三大秘法の令法久住に御心を砕いてきた御誠心に泥を塗る行為に等しく、大聖人様以来連綿と厳護されてきた、富士門流の清流に毒を入れるようなものです。

更に貴方は「正本堂の単なる落慶式に、基督教神父を招いても、何ら問題を感じません」などと仰る神経には、改めて驚くこともありません。それも、むべなるかなと思うのであります。

今日の宗門の体たらくといえば、あのニセ戒壇正本堂以来、殉教の志に燃える僧侶は一人として存在しなくなりました。まさに僧侶の世界では、僧道を一つの職業と考える者ばかりの集団と成り果てています。このように坊主が坊主なら、信徒も信徒であります。この様を「師は針の如く弟子は糸の如し」を仰せられるのであります。

また大聖人様は立正安国論の中で「辛きを蓼葉に習い臭きを溷厠に忘る」と御教示でありますが、宗門全体が大謗法を犯している中に、首までどっぷりと浸かっているうちに、何が正で、何が邪なのか、その判別がつかなくなっているのであります。

上記の安国論の御文を要約すれば、「蓼の葉に寄生する虫は、蓼の葉が辛いことが分からない。また溷厠とは、便所のことです。便所に長く座っていると、便所の臭さを忘れて感じなくなるように、謗法を犯しつづけていると、謗法が当たり前のようになるという事です。

彼の池田大作がキリスト教神父を招請した理由は、ニセ戒壇正本堂の完工式にキリスト教の神父をローマ法王庁とアメリカから数名を招請し、己が平和主義者であることをアピールしました。しかしながら池田の真の狙いは、将来、ノーベル平和賞の獲得に狙いを付けての、巧妙な布石で有ったことを忘れてはならないのであります。

それを知ってか知らずか、貴方は「正本堂の落慶式に、基督教神父を招いても、何等問題を感じません」とは、よほど、オメデタイ方だなぁと感心するばかりであります。

最後に貴方は国柱会が「国立戒壇の用語の根拠団体としても有名です」等と仰っておられますが、それも大きな間違いであります。「国立戒壇」こそは、一人日蓮正宗の己証であり、富士門流独見の法門なのであります。それは立正安国論で仰せられる「破邪・立正・安国」の御精神が理解できるなら、大聖人様の究竟の御本願は、広宣流布の暁に国立戒壇を立て、仏国実現にあることは容易に理解できる筈であります。

故に、本宗第六十五世を継がれた日淳上人は「国柱会の田中智学が日蓮正宗の教義を盗んで国立戒壇を囀っている。(主意)」(日淳上人全集)と仰せられているのであります。

序でに申し上げれば「国立戒壇は国柱会の田中智学の創唱であり、妙信講は国柱会の猿マネをしている」などと、とんでもない難癖をつけて、日蓮正宗から国立戒壇を捨てさせ、恰も国立戒壇は日蓮正宗の教義ではない如く思い込ませたのは、彼の悪僧日顕が、創価学会の教義歪曲に同調し、池田大作に諂う為めにこじつけた屁理屈なのであります。

貴方の質問に対する回答は以上でおわります。 


                     

これでも解らんか、其の三

2015年02月18日 10時08分13秒 | 亡国の坂道 
北面の武士さんからの三番目の質問は、次のような内容でした。

『貴殿は、御戒壇様所住の処は、広宣流布の暁までは「義の戒壇」、広宣流布すると「事の戒壇」と変更されるのが、正しいと申されておりますが、それでは嫡々代々の御本尊様所住の処(これも義の戒壇と申します)と根本である御戒壇様所住の処(これも貴殿の論では義の戒壇)の違いが明確ではなくなり、御戒壇様への尊崇の念が薄くなると思われますが、これは貴殿はどのように捌かれますか?我々は、我が家の御本尊様所住の処が「義の戒壇」に過ぎず、御山の御戒壇様所住の処こそ「事の戒壇」であると言う意識が強いからこそ、ますます御戒壇様への尊崇の念(これを仮に別格意識)が増すのであり、貴殿の論では、御戒壇様に詣でずとも我が家に御本尊様があれば良いと言う創価学会丸出しの理論に聞こえるのですが?』というご質問でした。

上記の質問に対する回答

北面の武士さん、貴方は「義の戒壇」に関して、本門戒壇の御本尊に対する「義の戒壇」と、歴代書写の御本尊に関する「義の戒壇」の峻別が、未だに理解できていないようですね。

本宗の中興の祖たる日寛上人が仰せられる、御本尊に関する御教示には次のようにあります。云く「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐の中の本尊なり、既に是れ三大秘法随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊文段)と御指南であります。

扨て、貴方の今回のご質問の回答は最初に述べたとおりでありますが、日寛上人が御教示くださった戒壇の「事中の事・理」について改めてお示ししながら「義の戒壇」と「事の戒壇」の違いを勉強したいと思います。

法華取要抄文段には次のように御教示です。云く「本門の戒壇に事あり、理あり、理は謂く、義理なり、これ即ち事中の事・理にして迹門の理戒に同じからず、その名に迷うこと勿れ、故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と仰せられ注意を喚起されているのであります。ここで日寛上人は「事中の事・理」すなわち、広宣流布の暁に富士山天生原の本門戒壇堂にお出ましの御本尊様の御座所を「事の戒壇」とせられ、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御座所を「義の戒壇」と定義せられ、明確に戒壇の「事・義」を峻別せられているのであります。

さらに日寛上人は、文低秘沈抄に「夫れ本門戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは、即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは、一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべ戒壇なり」として、三大秘法抄の御文を引かれて、説明に代えておられることを深く味わうべきであります。

ここでいう戒壇の「事・義」について論ずる場合は、本門戒壇の大御本尊のみに限って「事・義」を論じているのであって、歴代書写の御本尊は範疇に入れてはならないのであります。何故ならば、歴代書写の御本尊は、一機一縁の本尊と申しまして、あくまでも授与された本人に限定してお下げ渡しされた御本尊であります。それに対して本門戒壇の御本尊は、一閻浮提(全世界)の人々に等しく授与された御本尊であります。その事に理解がおよぶならば貴方の云う、戒壇の御本尊への「尊崇の念が薄くなると思われます」などという遁辞は間違っても出てこない話であります。

ところが今日の宗門では、御内拝とか御開扉の為の御登山などと称して、坊主の生活の為に、本門戒壇の大御本尊様を営利の具として利用し奉り、怨嗟の起こるような軽佻浮薄な参詣を繰り返し強行していますが、このような間違った参詣こそ、軽賎謗法に当たる行為といわなければなりません。その事を法華経寿量品には、次のように説かれているのであります。「若見如来・常在不滅・便起憍恣・而懐厭怠・難遭之想・恭敬之心」とありますように、何時でも戒壇の御本尊様にお目通りが叶うという、馴れ馴れしい気持ちで参詣を繰り返しているうちに、戒壇の大御本尊様に対し奉り、欠伸の出るような怠惰な気持ちを引き起こし、それが高じて、厭怠な心と憍恣の心を懐くようになり、尊崇の念が涌いてこなくなる。と仰せであります。

日寛上人は更に依義判文抄の御文を引かれて「経巻所住の処」すなわち本門戒壇所住の所を「義の戒壇」とされ、「皆応に塔を起つべし」の御文を「事の戒壇」の勧奨の文とされて、三大秘法抄・一期弘法抄の御文を引かれて「事の戒壇」を説明しておられるのであります。

戒壇の御本尊様は広宣流布以前であれ、以後であれ、事の一念三千の御当体そのものでありますから、戒壇の大御本尊は「事の本尊」であることは誰人も異存のないところであります。依って日寛上人は、事の本尊がお休みになられている所を「事中の義」と定義せられ、広宣流布の暁に、時の天皇陛下の勅宣と国家意思の表明を以って、事相の上に本門戒壇を国家的に建立する。その本門戒壇堂にお出ましの御戒壇様のお姿を「事中の事」と定義されているのであります。

本門戒壇の大御本尊様を三大秘法開合の相から申し上げれば、そもそも三大秘法とは「本門の本尊」と「本門の題目」と「本門の戒壇」のことであります。さらに是れを開けば、本門の本尊は「人の本尊」と「法の本尊」に分かれ、本門の題目は「信の題目」と「行の題目」に分かれ、本門の戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」に分かれて、六大秘法となるのであります。

したがって、広宣流布の暁に建立される本門戒壇すなわち「事の戒壇」とは、時の天皇陛下の勅宣と、国家意思の表明を以て建立される戒壇であります故に「事の戒壇」と申し上げ、広宣流布するまでの間、戒壇の大御本尊様が御安置される御座所は、秘仏としての戒壇でありますから「義の戒壇」とお呼びしてきたのであります。これが正しい三大秘法の開合の相の開き方であります。

あくまでも「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に日本の名山たる富士山南麓の景勝の地たる天生が原に建立される本門戒壇のことであって、日本国民に始めて公開される最終の戒壇であります故に、今までの「義の戒壇」が「事の戒壇」へと呼称が変更されるのは当然のことであります。

ところが日達という悪坊主は創価学会の政治的圧力に屈し、昭和47年10月に建てたニセ戒壇正本堂を指して「事の戒壇だ」「やれ広宣流布だ」と大騒ぎをした揚句「事の戒壇」には二重の義があるなどと突然変なことを言い出したのであります。それに対し妙信講の浅井昭衛氏は、正本堂は「事壇」に非ずとして、時の日達管長の誤りを諌めたのであります。日達管長は、その正論に抗し切れず「邪魔者は消えてもらう以外にない」として、七百年来の正しい教義を主張する妙信講を、死罪に等しい講中解散処分に付したうえ、浅井甚兵衛講頭と浅井昭衛父子を信徒除名処分にするという、暴挙をやってのけたのであります。

日達という悪坊主は、御本仏大聖人様の唯一つの御遺命を破壊し、国立戒壇を否定するために「事の戒壇」として建てたニセ戒壇正本堂は、御本仏大聖人様から裁断がくだされ、建設から僅か26年にして取り壊され、地上には跡形もなくなりましたが、宗門は依然として、当時の邪義を引きずったまま「国立戒壇は、日蓮正宗の教義ではない」として、頑強に是れを否定し続けているのであります。

つづけて北面の武士さん云く「貴殿の論では、御戒壇様に詣でずとも我が家に御本尊様があれば良いと言う創価学会丸出しの理論に聞こえるのですが?」などとお門違いのイチャモンを付けておられますが、それは大いに違うと思うのであります。

妙信講は、日達管長の国立戒壇永久放棄の公式宣言以来、まるで異教徒のごとき扱いを受け、長年にわたり妙信講の御登山は、池田大作と日達管長の意を受けた法華講連合会会長の平沢増吉に妨害され続けてきた結果、一切御登山が叶わなくなったのであります。このような理不尽な妨害工作は、日増しにエスカレートし、妙信講員には御本尊の下付も拒絶される状態がつづき、遂に、昭和49年8月12日には、講中解散処分を受けるに至りました。その理由は、昭和45年5月3日、日達管長が学会の総会で述べた「国立戒壇永久放棄の公式宣言に従わず、依然として国立戒壇を主張している」というものでしたが、すべては池田大作が、日達管長に圧力をかけ、妙信講を解散処分に為さしめた、陰惨な仕打ちだったのでありますが、このような卑劣な行為は還著於本人の報いを受け、後に自らが悲哀を味わう事となるのであります。

妙信講を解散処分に追い込んだ池田大作は、宗門と一体となって、大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇を否定し、日達管長と池田大作の関係は順風万般と思われていたものが、間もなくして、二人の間に疑心暗鬼を生じ大喧嘩が始まるのでありますが、日達管長は現罰を被り、昭和54年7月22日の未明に、入院中のフジヤマ病院で心臓病の悪化と腸不全を起こして、七転八倒の苦しみの中で悶絶死を余儀なくされるのであります。

その跡を継いだ日顕管長は、日達管長以上の胡麻すり三昧で池田大作の一番のお気に入りだったものが、平成2年には現在の大石寺を富士山本門寺へと寺号を改変して「富士山本門寺」と寺号の改変を正式発表する式典の席で、池田は日顕から見事に裏切られて梯子を外されました。それが原因で両者の関係は、修羅と悪龍の合戦を思わせるような、食うか食われるかの死闘が始まるのであります。宗門七百年の歴史を振り返る時、未だかつて経験した事のない、未曾有の凄絶な両者の大喧嘩は、平成3年になって創価学会は、宗門から信徒資格をはく奪されて解散勧告を受けるに至るのでありますが、その災いの根本原因は、ニセ戒壇正本堂に起因する事を知るべきであります。

今日の処はここまで



これでも解らんか、其の二

2015年02月09日 11時33分07秒 | 亡国の坂道 
北面の武士さんからの二番目の質問は、下記のようなお尋ねでした。

「次に貴殿は日寛上人〈寛文5年8月7日(1665年9月15日)-享保11年8月19日(1726年9月14日)、1718年登座)〉の時に合わせた御指南を、平成の御代にも当てはめますが、これは化法と化義の混乱では無いでしょうか? 仏法の基本は「経・論・釈」であり、当家で言うならば、経は「釈尊の経典と大聖人の御妙判」であります。これこそが、化法の根拠たりえる部分であり、ここに「戒壇の事・義」の立て分けが無い以上、どのような御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません。化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えますが、貴殿の見解を求めます。」というもの

質問に対する回答

貴方は「化法と化義の混乱では無いでしょうか?」などと、解ったような言い方をされておいでですが、そこで「化法」と「化儀」の定義をはっきりさせておく必要があります。何故ならば、貴方は未だ「化法」と「化儀」の立て分けが、十分理解出来ていないように思われます。

折角ですから拙者がここで化法と化儀について簡単に説明する事に致しましょう。そもそも「化法」とは、仏様の説かれる教法の内容や、教理のことをいうのであります。これに対して「化儀」とは、仏様が衆生を化導する時の方法や修行の在り方、儀式の形式と振舞い等をいうのであります。したがって「化法」と「化義」の理解が出来ていないのは、貴方の方にあるのではないでしょうか?

その上貴方は「経・論・釈」の浅深が理解できていないようですね。貴方は「 仏法の基本は『経・論・釈』である」等と仰せですが、それは順序が間違っているのではないでしょうか? そもそも仏法は「経・釈・論」こそが仏法の基本なのです。貴方が仰せの「経」は兎も角として「経」の次に重いものは天台・伝教の「釈」なのであります。したがって、菩薩の説く「論」は「釈」よりは浅いもので、「釈」の次に「論」が来るのであって、菩薩の説く説を「論」と呼ぶのであります。

此処で釈迦仏法の「教・釈・論」について申し上げますと、「教」とは、釈尊の説いた蔵教・通教・別教・円教(法華経)等の経典がそれに当たります。次に「釈」とは、羅什三蔵や、天台・妙楽等が釈尊の経典を注釈した教本をいうのであります。法華経を通釈した多くの約者の中には間違ったものが多く、羅什三蔵の通釈は一字一句誤りがなく正確をきわめ、彼の右へ出る者は一人としていなかったと伝えられていますように、大聖人様も羅什三蔵の通釈を用いられたといわれています。

天台は、法華玄義、法華文句、魔訶止観を顕わし、魔訶止観には、外界の縁によって刹那に変転する生命の極理を「一念三千」という語句でいい顕わしました。その弟子である妙楽大師は、一念三千を敷衍して法華玄義釈籖、法華文句記、魔訶止観輔行伝弘決等を顕わしています。次に論」とは、釈尊の十大弟子たる舎利弗、目連、迦葉、阿南、馬鳴、竜樹、天親等、あるいは、付法蔵の二十四人の菩薩が顕わした論文を指しているのであります。中でも、竜樹菩薩の大智度論、十二文論、十住毘婆沙論、中観論等は有名ですね。

そこで貴方は「仏法の基本は『経・論・釈』であり、当家で言うならば、経は『釈尊の経典と大聖人の御妙判』であります。これこそが、化法の根拠たりえる部分であり、ここに『戒壇の事・義』の立て分けが無い以上、どのような御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません。化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えますが、貴殿の見解を求めます」等と仰っておられますが、このような認識こそが大きな間違いであり、仏法を破壊する根拠になる邪義なのであります。

そこで貴方の間違いを指摘する前に、大聖人様の顕わされた三大秘法の「経・釈・論」を峻別することにします。はじめに「経」とは、大聖人様の教えそのものでありますから御書に説かれた一切教が「経」に当たります。次に「釈」とは、御開山日興上人が顕わされた二十六ヶ条の遺誡置文や五人所破抄等の御教示が挙げられます。さらには、日有上人の化儀抄や日寛上人の各種文段並びに六巻抄等が当たるのであります。次に「論」とは代表的には、第五十二世の日霑上人、第五十六世日応上人、第六十五世日淳上人等の血脈付法の正師が顕わされた、御宝蔵説法集等の各論文を挙げることができます。

大聖人様の仏法の「経・釈・論」を正しく理解するために、次の御文を挙げて説明に代えることにします。

顕仏未来記に云く「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す、三に一を加えて三国四師と号(なず)く」とあります。三師とは、印度の釈尊・中国の天台大師・日本の伝教大師のことであります。残る処の一とは、末法下種の唯一人の本因妙の教主、御本仏日蓮大聖人を指すのであります。依って、三国四師とは、印度の釈迦、中国の天台大師、日本に御出現の伝教大師に大聖人様を加えて、四人の仏様を四師と仰せなのであります。この中に迹化の菩薩たちは、一人として含まれてはいないのであります。

次に、法華初信成仏抄に次のように御教示であります。云く「天台所釈の法華の宗は、釈迦世尊所立の宗と云へり。法華より外の経には、全く已今当の文なきなり。已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云う。今説とは無量義経を云う。当説とは涅槃経を云う。此の三説の外に、法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり。余宗は仏涅槃し給いて後、或は菩薩或は人師達の建立する宗なり。仏の御定を背きて、菩薩・人師の立てたる宗を用ゆべきか。菩薩人師の語を背きて、仏の立て給へる宗を用ゆべきか。又何れをも、思い思いに我が心に任せて、志あらん経法を持つべきかと思う。仏是を兼て知し召して、末法濁悪の世に、真実の道心あらん人人の持つべき経を定め給へり。経に云く「法に依つて人に依らざれ。義に依つて語に依らざれ。知に依つて識に依らざれ。了義経に依つて不了義経に依らざれ」文。此の文の心は、菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・般若経等の真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ」と御教示であります。

さらに選時抄に云く「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法経文の面に現前なり、此の深法今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべし」とありますように、大聖人様は、五五百歳の末法の始めに全世界に三大秘法を弘通する者は、天台や伝教らの迹化の仏ではなく、久遠元初の自受用身・本因妙の教主たる日蓮大聖人だと仰せられています。三大深秘という大白法の弘通は、迹化の仏様と云われる天台や伝教すら末法の大難に耐えられないばないばかりか、ましてやそれ以下の、迹化の菩薩の弥勒をはじめとする、舎利弗、目連、迦葉、阿南等の菩薩らは、流罪・死罪の大難には到底耐えられないので、釈尊は、法華経方便品の説法の時に「止みね善男子」と制止して、彼らに三大秘法の付嘱と弘通を忌避しておられることからも、お解りだと思うのであります。

次に貴方は「『戒壇の事・義』の立て分けが無い以上、どのような御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません。化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えますが、貴殿の見解を求めます」とありますが、貴方の仰せは、言語明朗・意味不明という以外に有りません。「御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません」とは、一体どういうことですか? 大聖人様は一期弘法付嘱書と三大秘法抄に「戒壇の事・義」について明確に御示しであります。

それにも拘わらず貴方は「当家には『戒壇の事・義』の立て分けが無い」等と、とんでもない誤りを犯していますが、貴方の目は何処に付いているのですか? このような迷妄を覚ますために、一期弘法付嘱書の御文と三大秘法抄の御文を改めて拝見することにします。

はじめに、一期弘法付嘱書の御文を拝見します。

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に是を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきなり。事の戒法と謂うは是なり。就中門弟等此の状を守るべきなり」と。まさしくこの御教示こそ「事の戒壇」の勧奨であります。

本宗第五十六世を継がれた日応上人は、一期弘法付嘱書の御文について次のように御指南であります。「『日蓮一期の弘法』とは、此の戒壇の大御本尊は宗祖大聖人出世の本懐なるがゆえに『日蓮一期の弘法』と云うなり。これを白蓮阿闍梨に付嘱し、事の戒壇の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立すべし、なかんずく我が門弟たる者、この状を守り、少しも違背すべからず、と制誡し給うなり」(御法蔵説法本)と。まさしくこの御文の正しい実践が「化儀」に当たるのであります。

つづけて日応上人の云く「上一人より下萬民に至るまで、この三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布と云う。その時には天皇陛下より勅命を賜り、富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇建立あって・・・・・」(御宝蔵説法本)と御指南であります。是れ、まさしく広宣流布の暁の「事の戒壇」であります。

次に三大秘法抄の御文を拝見します。

「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

ここで「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」の御文を端的に申し上げれば、「王法」とは「国家」ということであります。国家が日蓮大聖人様の三大秘法を国家安泰の唯一の正法と定めて、国家的に尊崇守護することをいうのであります。故に四十九院申状には「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と御指南であります。是れすなわち、広宣流布の時の「事の戒壇」が建立された暁の、王仏冥合の現実の姿を仰せになられた御文であります。

これほど明確に本門戒壇の「事・義」が示されているにも拘らず「当家には『戒壇の事・義』の立て分けが無い」とは、どういう事ですか! 広宣流布の暁の「事の戒壇」が明確に示された御文を拝見すれば、広宣流布する間での戒壇の御本尊様の御座所は「義の戒壇」と申し上げる以外にはないのであります。

それを六十六代の日達管長は、創価学会の池田大作に諂って、何時、如何なる時でも戒壇の大本尊の御座所は「事の戒壇」などといって、創価学会の選挙を勝たせる為と、国立戒壇を否定する為に、ニセ戒壇正本堂の誑惑をやってのけたのであります。

つづけて貴方は「どのような御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません。化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えますが、貴殿の見解を求めます」などと仰せでありますが、先程から申し上げていますように、一期弘法付嘱と三大秘法抄は本宗最大事の「化法」であります。依って、此の御文の正しい実践こそが正しい「化儀」となるのであります。

大聖人様の御教示に背反して、自分勝手な己義を構える貫首は、喩え貫首の言説と雖も、化儀とは謂わないのであります。それを邪義と呼ぶのであります。仏様の説かれた教を正しく実践することが、化儀であります。

貴方の仰せられるように、歴代の貫首が大聖人様の教えを実践する段階で、これは化儀だからという理由で、勝手気ままに己の胸先三寸で教義の改変や変更を加えるならば、仏法はいささかも伝持されることなく悉く死滅してしまいます。釈迦仏法の最高峰たる法華経も、釈尊の十大弟子や付法蔵の二十四人と謂われる多くの弟子たちが、法華経の極理を結集し、後に、羅什三蔵の法華経の通訳が中国にもたらされ、やがて日本へ伝播し、伝教大師によって、比叡山に円頓の戒壇を建立せしめ、仏法の統一を図ることが出来たのであります。

しかしながら印度に発生した釈迦仏法は、正像二千年の印度、中国の天台、日本の伝教の三人によって本已有善の衆生を利益し、比叡山延暦寺を根本道場として法華経迹門の広宣流布を達成し、一往の役目を終えることになっている処に、第三代の慈覚、第四代の智証に依って、真言の邪義が混入されて邪教化を早め、釈迦仏法は此処に終に滅尽したのであります。

この歴史的事実こそ、貴方が振りまく「御歴代の文証(論)と雖も、これは化義に過ぎません。化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えます」という邪義が貫主の胸先三寸で正当化され、大切な教義が歪曲されて取り返しのつかない結果を招いたのであります。

その事を大聖人様は、三大秘法抄に次のように仰せであります。「此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まって第三・第四の慈覚・智証、存の外に本師伝教・義真に背きて、理同事勝の狂言を本として我山の戒法をあなづり戯論と謗ぜし故に、思いの外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事云うても余りあり、歎きても何かはせん。彼の摩黎山の瓦礫となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」と嘆かれておられます。

いま静かに我が宗門を振り返って見るに、唯一の正系門家と謳われた日蓮正宗富士大石寺は、大聖人様の三大秘法を日本国に広宣流布して、その暁に国立戒壇を建立し、仏国の実現を図ることにありました。爾来宗門は七百年の間、戒壇の大御本尊様を専心に守護し、三大秘法の色香美味を些かも失うことなく、清らかに護持されてきたのであります。誰人も犯してはならないその戒壇義が、彼の六十六代を継いだ日達管長によって、無慚にも木端微塵に破壊されたのであります。まさしくその僻事は、彼の叡山の清浄無染の大白法が慈覚・智証の邪義に依って汚濁された先例とは、比肩すべくもない大悪事であります。

かつて日達管長は、先代の日淳上人より唯授一人の血脈相承を受けた直後には、大聖人様以来の富士の清流を汲んで、次のような正論を述べていました。

云く「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も折伏行に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

つづけて「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

亦云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところがこの悪僧は、信徒団体の池田大作の施す身に余る奢侈におぼれ、金欲に身を蕩かされて言葉巧みに籠絡された揚句、百八十度も豹変した後は「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(創価学会第33回総会 昭和45年5月3日)等と空恐ろしいことを言い出したのであります。

つづけて云く「日蓮正宗は明治の一時期国立戒壇という語句を使用して来た。それは世間一般の慣習にならって使用してきたが、民主政体の今日国立戒壇という表現は、あらぬ誤解を招くことになる。依って、今後は日蓮正宗は国立戒壇という語句は永久に使用しない(主意)」として、遂に国立戒壇を永久に放棄してしまったのであります。日達管長のこの時の公式宣言の瞬間に、宗門七百年の間、連綿と護持されてきた大聖人様以来の血脈は完全に断絶したのであります。

こうした教義改変は、六十七代の日顕管長、六十八代の日如管長にも引き継がれ、大聖人様の三大秘法義は、今や完全に破壊されてしまいました。このような大それた教義歪曲が一切の功徳を喪失し、一人の成仏も叶わない宗門に成り果てたのが、今日の日蓮正宗の哀れな姿なのであります。

貴方が仰せの「化義である以上、化義の権能が有る方の胸先三寸で変更するのは当然と考えます」という間違った考えを実行に移した結果、見るも無慚であります。創価学会の池田大作に諂って、六十六代を継いだ日達管長の胸先三寸で重大教義を変更(国立戒壇を永久放棄)した成れの果てが、このような結果を招いているのであります。

今日の処はこれまで