宗門第二の機関誌と云われる「恵妙」の平成28年9月16日号に、顕正会が主張する国立戒壇論を「○○の一つ覚えの『国立戒壇』」として、下記に記したような特集記事が組まれていました。今回はその記事の全文を紹介しながら、宗門が日達管長以来依然として固執している、反国立戒壇に転じた邪義を破折することにしましょう。
今回恵妙に記された邪義を破折するに当たり、読者の便を計るために破折箇所の頭に番号を付けて論を進めたいと思います。
云く「『顕正新聞』八月五日号に七月度の総幹部会での浅井の発表が記載されている。その中で浅井は、日達上人、日顕上人及び宗門僧侶方を誹謗している。それは、愛知県の男子部幹部が末寺住職との話の中で、住職が「顕正会のいう国立戒壇は謗法だ」と述べたことについて、噛みついたものである。
浅井は「この坊主、大事の御遺命が何もわかっていない。細井日達・阿部日顕の己義を聞きかじっているだけです。(末寺住職が)『立正安国論の立正の具体的な姿は誰にもわからない』と。バカを言ってはいけない。『立正』が国立戒壇建立であることは、三大秘法抄・一期弘法附嘱書に明々白々ではないか。国立戒壇を建立すれば、国が安泰になる。これが立正安国ということなのです。国立戒壇を否定したいから、『立正の具体的な姿は誰にも分らぬ』などとごまかすのです」などと、自前の謗論を吐き散らしている。
①「顕正会にとって国立戒壇論は、自らの存在意義を主張するための唯一の拠り所であるから、何があっても死守したのであろうが、これまでも様ざまな角度から、その誤りを指摘されているにもかかわらず、頑なに聞く耳を持たない。その概要を以下にまとめておく」について
①に対する破折
未だに宗門の坊主らは、顕正会の叫ぶ国立戒壇論に対して「何があっても死守したいのであろうが」などと、こうした脳天気なお門違いの言辞を弄して喜んでいるようですが、国立戒壇こそが御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願なのであります。それは立正安国論の御精神を正しく理解すれば三歳の稚児でも解ることなのでありますが、戦後、日蓮正宗最大の信徒団体に成長した創価学会は、真の日本の広宣流布を実現するとなれば、政治的にも発言力を持たなくてはならないとして、政界に打って出ることにしました。創価学会は当初「創価学会文化部」という政治結社に相当する別組織を作り、国立戒壇を実現する方法を選択したのであります。
日蓮正宗が唯一の大目的としてきた国立戒壇を実現するため、創価学会第二代会長の戸田城聖氏は、次のような所感をのべていました。云く「我らが政治に関心も持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華 昭和31年8月号)と、政界進出の理由を高らかに宣言していたのであります。
ところが世間は、創価学会が主張する国立戒壇に対する風当たりは意外に冷淡で、創価学会が国立戒壇を掲げて選挙戦を戦うとなると票が全部逃げてしまう。思った以上に票が取れないばかりか、国立戒壇を前面にだすと、選挙にまったく不利だとう事が解ってくると、学会は宗門に対して、奇想天外なとんでもない言いがかりをつけて来ました。云く「今、国立戒壇を云うと日蓮正宗は憲法違反で潰される」などと。一般世間の法律に疎い坊主たちは、こうした学会幹部の口車に乗せられて、大聖人以来七百年、唯一の大目的としてきた国立戒壇を簡単に捨ててしまったのであります。要するに、創価学会の選挙は、目的と手段が完全に入れ替わってしまったのであります。つまり選挙に勝つためには、国立戒壇は邪魔だから捨ててしまえとなったのです。
当時の坊主の多くは、国立戒壇に対する意識が希薄なあまり、国立戒壇を放棄することへの重大性が理解できなかったのか、やれ「民主主義だ」「憲法20条の信教の自由だ」「憲法違反だ」という学会流の選挙戦を中心にした論法で攻め立てられる坊主坊主らは抗弁の理由も定まらず、あっさり、国立戒壇を捨ててしまったのであります。その重大性が未だに解っていないために、顕正会の云う国立戒壇論を「○○の一つ覚えの国立戒壇論」あるいは「何があっても死守したのであろうが」などとした、能天気な邪義を垂れ流し、高笑を決め込んで喜んでいるのでありますが、この構図は、脳性小児麻痺を患いそこなった悪ガキが、取り返しのつかないような犯罪を犯して、己を産み育ててくれた父母の顔に泥を塗り、はしゃぎまわっている姿と哀れな姿なのであります。
御本仏大聖人様は立正安国論の中で、仏国の実現を図ることが、国家・国土を安泰ならしめる唯一の方法であることを懇切丁寧に御教示であります。安国論に云く「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」と御教示せられ、つづけて「日蓮は日本の人の魂なり」(種々御振舞い御書)と仰せでありますように、御本仏を魂とする国は、まさしく仏国となるのであります。それは、日本国の魂が日蓮大聖人になるという事であります。したがって御本仏日蓮大聖人を魂とする国は、御教示の如く防非止悪の戒により、凶悪犯罪は夢のごとく無くなり、飢餓もなければ、災害もない、悲惨な戦乱からも解放された、永遠不滅の国家・国土となるのであります。
その仏国を実現する秘術とは、一団体の漠然とした帰依による戒壇建立、あるいは、一宗門の私的な戒壇建立にとどまったのでは到底仏国は実現しないのであります。それは、全国家的な帰依による戒壇の建立、即ち、全国民の燃えるような帰依による国立戒壇でなければ適わないのであります。仏法のためには身命も惜しまぬ護法の大道信が国の朝野に満ちた時、国の命運を賭して戒壇の大御本尊を御守護申し上げる。そうした全国民的な規模の国立戒壇を立てることによって、はじめて仏国が実現するのであります。今の日蓮正宗の坊主らには、そうした三大秘法の妙々甚深の功徳と秘術がまったく理解できていないのであります。
②まず、浅井が国立戒壇の依拠とする大聖人の御言葉は、「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書1595頁)また、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。事の戒法と謂ふは是なり」(御書1675頁)と、「国主」「王臣一同」が正法に帰依して、戒壇建立を発願する時、最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」について
②に対しする破折
尤も此の二つの御文こそが、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇の建立を勧奨せられた大切な御文であります故に、妙信講・顕正会が国立戒壇の衣文とするのは当然であります。
広宣流布の暁の「事の戒壇」建立の地たる最勝の地とは、第二祖日興上人以来、日本国の富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原に国立戒壇を建立することが七〇連綿と連綿と伝承されてきたのであります。故に第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。仰せられているのであります。
ところで浅井会長が妙信講を名乗っていた昭和51年当時、「三大秘法抄を拝し奉る」と題して、妙信講員のために講義された「三大秘法抄」の講義録が拙者の手元にあります。今となってはこうした正しい講義禄は人目に触れることは、ほとんど無くなってしまいました。今、富士門流の中で国立戒壇に関する邪義が横行するなかでは、この講義禄は大変貴重な存在となってしまったようです。時に当たってこの機会に、浅井会長が妙信講員のために講ぜられた三大秘法抄の講義録の国立戒壇論の項目のみを抜粋して謹んで掲載させて頂くことにしました。
これこそが、大聖人様以来富士門流大石寺に存在した三大秘法抄の解説文であり、就中国立戒壇に関する正論だと確信しています。
云く「本門寺の戒壇は大聖人究極の御願業である。これは、本門の本尊の妙用により、日本国を仏国土に、ひいては一閻浮堤(全世界)の仏国土化を事相の上に顕現するものである。大聖人の御在世においては、本門の題目と本門の本尊は顕われ給うとも、この本門の戒壇の一事においては未だ時至らず、よってその実現を未来に御遺命されたのである。しかしながら、本門の戒壇に安置すべき御本尊だけは、弘安二年十月十二日、末法万年のことを慮(おもんぱか)られ堅牢なる楠木の厚き板に御自らお認(したた)め遊ばされ、未来の御用意と遊ばした。この御本尊を『本門戒壇の大御本尊』と申し上げる。これぞ三大秘法の随一、大聖人出世の御本懐、日本を始め全世界の一切衆生に授与せられた一閻浮堤総与の大御本尊である。
よって聖人御難事には『此の法門申し始めて今に二十七年弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつしろしめせり』と。まさしく弘安二年の大御本尊建立を以って出世の本懐と仰せられる。よって日寛上人は『なかんずく弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟・本懐中の本懐なり、すでにこれ三大秘法の随一なり、いわんや一閻浮堤総体の本尊なるゆえなり』と。而して大聖人はこの御本尊を弘安五年に日興上人にご付属され、本門戒壇の建立を御遺命遊ばしたのである。その御付属状(一期弘法抄)に云く『日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり』と。『日蓮一期の弘法』とは大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事、そして本門戒壇の建立については、『国主此の法を立てらるれば富士山に』と仰せられ、委細をすべて日興上人に口伝遊ばされたのである。
但し、門家には未だ本門戒壇の何たるかを知る者はいない。よって未来のため、その内容を明かし給うたのが本抄である。本抄が一期弘法抄の助証であるとの意はここにある。実に、御書四百四篇の中に、本門戒壇の意義・内容を明かされたのはこの三大秘法抄だけである。さて、本門の戒壇は、どのような時に、どのような手続きで、何処に立てられるべきか、以下本文にそれを拝する。まず時については『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』とお定めである。これは広宣流布の暁の、国家と仏法の関係状態を明かされたものである。日本国家がこのような状態になった時が戒壇建立の時と定められたのである。
以下一文づつ拝すれば『王法』とは、国家統治の最高権力・統治主権・国家権力の意である。またその活動に約して一国の政治、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等をも意味する。要するに、国家統治に関わる種々の概念を包括した言葉である。『王法仏法に冥じ仏法王法に合して』とは、国家権力が三大秘法を根本の指導原理として尊崇擁護し、また三大秘法が国家の繁栄・国民の幸福のために生かされる状態をいう。これは大聖人の仏法が単に個人の信仰の次元にとどまらず、国家次元において受持されるということを意味する。そもそも国家の盛衰は国民一人一人の幸・不幸をその中に包含している。ゆえに大聖人は『一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事』と仰せられる。よって、個人が安穏であるためには国家が安泰でなければならない。国家が安泰であるためには王法が仏法に冥ぜざるべからずというのが立正安国論の御趣旨であり、また本抄の御指南である。
さて、王仏冥合の具体的姿はいかにといえば、それを次文に明かし給い『王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』と仰せられる。『王』とは国主、『臣』とは国政にたずさわる者、『王臣』の二字の中に全国民が含まれていることはいうまでもない。すなわち、国主も、国政にたずさわる者も、全国民も、心から本門戒壇の大御本尊を信ずるのである。『有徳王・覚徳比丘』とは涅槃経に出てくる故事である。昔、歓喜増益如来の滅後・仏法まさに失せんとする時、覚徳比丘という聖僧あって身命も惜しまず正法を説いた。この時、多くの破戒の悪僧あって怨嫉しこれを殺害せんとした。その時、有徳王がかけつけ、身を以って覚徳比丘を守り、ついに命を失ったが、その功徳により阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じたという。この覚徳比丘の姿はまさしく御在世の大聖人のお姿であり、また事の広布の時の御法主上人のお姿である。
但し御在世には国家権力は大聖人を守るどころか流罪死罪にし奉ったが、事の広布の時には王臣一同に戒壇の大御本尊を守護し奉るのである。この時の王臣の三大秘法受持は、ただ護法の大導念より出る純粋なものである。覚徳比丘も法の為・国のため不借身命の説法なら、護法の有徳王も純粋捨身である。いやしくも為政者が自己の政治野心のために宗教を利用したり、また宗門が権力にへつらって栄達を計ったりするような関係は、大聖人のもっともお嫌い遊ばすところである。王仏冥合の大精神はこの『有徳王・覚徳比丘』の仰せを規範として深く拝さなくてはならない。末法濁悪の未来に、大聖人の御在世の信心に立ち還って立正安国の大精神を以って一国を諫める宗門、そしてそれに呼応して本門戒壇の大御本尊を護持せんとする不借身命の熱誠が一国上下に満ち満ちる時が必ず来る。これが大聖人の未来を鑑み給うた御予言であり、御確信であられる。その時が戒壇建立の時なのである。
次に戒壇建立の手続きについては『勅宣並びに御教書を申し下して』の一文がそれに当る。『勅宣』とは天皇陛下の詔勅、『御教書』とは当時幕府の令書、いまでいえば国会の議決がそれに当る。日本一同に信ずる事の広布の時がくれば、国会の議決も問題なくなされよう。要するに『勅宣並びに御教書』とは、国家意思の公式表明を意味するものである。〝本門戒壇の大御本尊を日本国の命運を賭しても護持し、本門戒壇を建立いたします〟という国家意思の表明である。かかる手続きを経て建立される本門戒壇なるゆえ、これを宗門では国立戒壇と称してきたのである。しかるにいま、世間にへつらって国立戒壇を否定するため、御本仏の聖意を曲げ『勅宣・御教書』を解釈して『建築許可書』などという無道心の麤語(そご)が宗門に横行しているが、これらはまさに魔説と断ずべきである。
さらに、本抄に『勅宣』と仰せられた深意を拝するに、当時皇室は幕府に実権を奪われて有名無実・衰微の極にあったのである。しかるにこの仰せあるは、未来を鑑みての深き御聖慮と拝し奉る他はない。大聖人は一往時の国家統治者を『国主』と呼ばれている。ゆえに北条時宗を指しても『国主』と仰せであるが、再往日本の真の国主は天皇であることの御意は諸御書に明らかである。末法万年に伝わる仏法を守護する王法が、一時の英雄や覇王ではふさわしくない、それらには永続がないのである。日本が三大秘法有縁の妙国ならば、永遠の仏法を守護するに本有の王法が存在しないはずはない。この使命を持っているのが日本の皇室である。この使命あればこそ、世界に類を見ぬ永続を見るのである。たとえ時により衰微があろうとも、時来たれば必ず仏法有縁の『本化国主』が皇室に出現し、以後万年にわたり三大秘法守護を以って皇室の唯一の使命とすることになるのであろう。とまれ、本門戒壇の大御本尊建立の五ヶ月のちに、事の広布の時の天子のために紫宸殿の御本尊を顕わし給うた御事跡と、本抄の『勅宣』の仰せとを思い合わせるに、ただ凡慮の及ばざる甚深の御聖慮を感ぜずにはいられない。
次に『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて』とは場所についての定めである。ここには形容詞だけで地名の特定はないが、一期弘法抄の御文よりして、日本第一の名山富士山を指し給うものであることは明らかである。さらに富士山の広博たる裾野の中には、南麓の景勝の地『天生原』がその地域と定められ、歴代法主により伝承されている。すなわち日興上人は『国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて三堂並びに六万坊を造営せらるべきものなり』(大坊棟札本尊裏書)と。また日寛上人は『事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり』(報恩抄文段)と。
次に『時を待つべきのみ』とは、門下への勧誡である。勧とは、事の広布は必ず来るによって身命を惜しまず不断に弘通せよとの御激励。未だ時の来たらざるうちに戒壇を建立することは断じて不可なりとのお誡めである。いま正本堂を見るに、まさしくこの御聖意に背くものである。もし一国の謗法と邪正を決せぬうちに戒壇を立てれば、一国において邪正肩を並べ、謗法与同の義を生ずるから不可なのである。世間にへつらい謗法呵責の道念を失えばこそ、時至らざるに濫りに立てるなどの違法がなされるのである。論より証拠。正本堂にキリスト教神父を招いた事実こそ、何より謗法与同の実態を雄弁に物語るものではないか。大聖人の御心を冒涜することこれより甚だしきはない。
次に『事の戒法と申すは是れなり』とは、迹門の戒壇に対して、如上の国立戒壇を『事の戒壇』と仰せられるのである。すなわち一国総意の国立戒壇建立により、始めて本門戒壇の大御本尊は公開され、そこにおいて戒儀が執行されるのである。それまではあくまで内拝であるから義の戒壇と申し上げる。『三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給う戒壇なり』とは、本門戒壇の利益広大を仰せ給うのである。この戒壇は日本のためだけではない、中国・印度さらに全世界の人々がここに参詣し、懺悔滅罪・即身成仏を祈る処である。いや大梵天王・帝釈等も来下参詣する戒壇である。まさにその利益の広大なること、人界ばかりでなく天界にまで及ぶことを仰せである。
いま、国立戒壇を否定する理由の一つとして、大聖人の仏法は全世界の仏法であるから国立は不可、などという者があるが、これまた全く為にする己義である。本門戒壇が日本だけのもの、日本だけに閉鎖する意ではない。実に全人類のための大仏法を日本が守護するという意味である。これは、日本が大聖人御出現の本国であり、三大秘法広宣流布根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。ゆえに本抄には、日本の広宣流布・王仏冥合を以って国立戒壇を立てよとし、それが三国並びに一閻浮堤の人々のためであると御意せられるのである。全世界に広宣流布した暁を待って立てよとは全く仰せられていない。本抄に仰せの『王法』とは、まさに日本の『王法』、『王臣一同』とは、日本のそれ、『勅宣・御教書』とは、日本の『勅宣・御教書』なのである。かくのごとき国立戒壇が全世界に開かれるのである。
考えてもみよ、全人類の即身成仏の大法を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護する日本は、全世界から感謝されて然るべきではないか。もし、かかる仏国日本を怨嫉憎悪する他の国家・国民があれば、罪はその方にある。ゆえに本尊抄には『堅王と成って愚王を誡責し』と仰せ給うのである。いずれにしても、御本仏の御遺命のまま、全世界のために国立戒壇を立てるのに、何の遠慮・気がねがいろう。実は国内の選挙のために国立戒壇を曲げたにもかかわらず、その理由を〝世界宗教のゆえ〟などというはまことに見え透いた誑言というべきである。実に国立戒壇の建立こそが、一閻浮堤に広宣流布する重大な鍵なのである」と。国立戒壇の項を締め括られています。
さて、本題に戻るとして、恵妙の記事には「最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」などと記してありますが、宗門の本心は那辺にあるのでしょうか! かつてはニセ戒壇正本堂を指して「広宣流布の事の戒壇」等と大宣伝していたのであります。また、第六十七代を継いだと称する阿部日顕管長は、次のような己義を喧伝していました。云く「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。天母原の問題がありますけれども、かえって天母原でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和48年8月号)などと。こうした恐るべき邪義を声高に叫びながら、それを他人の性にしていたのであります。これは阿部日顕隠居の本心から出た邪義の最たるものと思われたのでありますが、阿部日顕隠居は日達の邪義を忖度しながら己の本心を言い振らしているのであります。この坊主の狡さが透けて見えます。
③「浅井は、この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はなくても義がある、という。しかし、この御金言を拝すれば明らかなとおり、国主が立てるのは「此の法」であって、戒壇とは示されていない」について
③に対する破折
バカを言ってはいけません。坊主のいう「この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はない」などと、とんでもないバカげた事を言っていますが、ここでいう「二つの御言葉」とは、三大秘法抄にお示しの「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、乃至霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」の御文と、一期弘法抄の「日蓮一期の弘法白蓮日興に之を付属す、乃至国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる二つの御文を指しているのであります。これら二つの御文を素直に拝読するならば、いずれの御文の後には「時を待つべきのみ」として、時に至らぬうちに事の戒壇と称して、決してニセ戒壇を立ててはならないと誠誡を加えられているのであります。坊主にはその意味が理解できないのか「国主が立てるのは『此の法』であって、戒壇とは示されていない」とする御文の解釈こそ、屁理屈の最たるものであり、切り文の典型であります。
大聖人様が三大秘法抄で戒壇について、わざわざ「戒壇とは」と断わられて、つづけて「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」と仰せられる王仏冥合の本門戒壇とは、広宣流布の暁の王仏冥合が成った時の戒壇であります。したがって、その時立てられる本門戒壇とは国立戒壇に他ならないのであります。また、一期弘法抄の「国主此の法を立てらるば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる如く、日本国の本有の国主である時の天皇陛下が三大秘法を信受して妙々甚深の功徳を感得し、紫宸殿御本の御下付を発願された後に、勅宣を発せられて立てられる本門戒壇とは、これまた国立戒壇に他ならないのであります。今の宗門の謗法僧のバカ坊主には、此の二つの御文が全然読めないのであります。
大聖人様から二祖日興上人が賜った一期弘付嘱書には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御下命遊ばされていますように「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」で、一節の文章になっているのであります。それを『此の法』だけにとどめて「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文を切り捨てるとは恐れ入りましたね。こんな僧侶は国語能力に著しく欠けるバカ坊主と云うべきで、こういう坊主は元々仏飯を食む資格はないのであります。こんな邪義を垂れ流す坊主が、のうのうと只飯が食らえる環境が未だに存在すること事態、絶対にあってはならないのであります。
④「勅宣並びに御教書を申し下して」との国主の意思表明(戒壇建立の発願)があったとしても、国家が戒壇の建物を建立することにはならない」について
④に対する破折
この坊主には「勅宣並びに御教書」の意味が理解できていないようです。「勅宣」とは、天皇陛下が発する詔勅の事であります。「御教書」とは、鎌倉時代に於ける国主の発する令書の事でありますが、現代的に訳せば、国会の衆参両院の本会議に於ける議決となるのであります。したがって、本門寺の戒壇=国立戒壇を建立するに当たっては、こうした二重にわたる国家的手続きを経て、建立される戒壇とは、まさしく国家意思の公式表明を内外に示して建立する戒壇となるのであって、これは国立戒壇に他ならないのであります。
⑤現に、大聖人が戒壇建立の先例として挙げられる、日本天台宗・伝教大師による迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている。宗門で建てたものが国立戒壇であるはずがない」について
⑤に対する破折
伝教大師の建てた迹門の円頓の戒壇について、大聖人様は次のように仰せであります。「去ぬる延暦二十一年正月十九日天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず、最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり」(報恩抄) とあります様に南都六宗の碩徳は、伝教大師の発する鋭い舌鋒に打ち負かされて、十四人全員が桓武天皇の御前で謝状を認め叡山の天台法華宗に改宗して、伝教大師の弟子となっているのであります。
伝教大師の戒壇建立に至る戦いは、今にして思えば、専政政治の封建時代の想像を越えた困難を乗り越えて、桓武天皇の勅許を経て建立された法華経迹門の戒壇なれば、簡単に「宗門で建てたものが、国立戒壇であるはずがない」などと、まるで鬼の首を取ったかのような喜びようですが、この坊主は専政政体と民主政体の区別すら理解が及ばない、相当とろい坊主のようです。伝教大師の時代は大聖人様以前の専政政治の真っ只中であれば、桓武天皇(国主)一人の正法(法華経)受持で事は足り、国家意思の決定は成されたのであります。
ところが今日の民主政体、すなわち民主主義の時代には多数決によって物事が決せられるのであります。その大前提を度外視してこの坊主は「迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている」などと、伝教大師の立てた法華経教迹門の戒壇を貶めていますが、伝教大師一人命がけで闘って戒壇を建立した時代的背景を考えれば、法華経教迹門の戒壇といえども、国立戒壇に匹敵する大戒壇だったのであります。
ゆえに大聖人様は撰時抄の中で「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒(けんどく)尸那(しな)一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」と述べられています。
さらに四信五品抄には「夫れ人王三十代欽明天皇の御宇に始めて仏法渡りしより以来、桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず、爰に延暦年中に一人の聖人有って此の国に出現せり。所謂伝教大師是なり。此の人先より弘通する六宗を糾明し、七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。王法も二に非ず。法定まり国清(す)めり」と仰せられています。
こうした伝教大師一人の闘いに依って、日本の仏法はただ一門となったのであります。そして王法も一つとなって、桓武天皇も、より威徳が増し、国家が法華経迹門の功徳により、清らかに澄み渡ったのであります。しかしながら、いかに伝教大師の立てた法華経迹門の戒壇と雖も、像法過時の「理の戒壇」である上に、第三・第四の慈覚・智証の二人によって真言の毒が混ぜられ、土泥に終わってしまったのであります。
⑥「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない。その時、どうやって本門戒壇の大御本尊を護れるというのか。過去にも、国王が一旦は仏法に帰依しておきながら、後に変心して仏法を破滅に追いやった前例は、インド・中国・日本にも見られる。よって、大御本尊安置の堂宇が国立(国家が建てて国家が管理することになる)ことは、絶対にあってはならないのである」について
⑥について破折
坊主らは「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない」などと言って、この不安は浅井会長の発言のごとく装っていますが、それは自らが懐く不安を、あたかも浅井会長の発言の如く見せかけているのであります。「政権が変わればどのようになるかわからない」とする不安は、何処から出て来たかといえば、彼のニセ戒壇正本堂の建設から端を発しているのであります。
思い起こせば、昭和40年の春、創価学会の池田大作と第六十六世を継いだ日達管長との間で、下手な漫才の掛け合いを思わせるようなやり取りが、大白蓮華の巻頭を飾ったのです。「もはや広宣流布」と題した記事が掲載されたのですが、それによりますと、日達管長の云く「昨年の春、池田会長と談話をした時、私がすでに広宣流布している。と言ったら、池田会長は『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられました。私はその見識に深く感嘆したのであります」(大白蓮華 昭和40年1月号)という二人の驚くべきバカげた談話が紹介されていました。
つまり舎衛の三億という逸話を引き合いに出して、日本の人口の三分の一が、創価学会員となった時が広宣流布という邪義でありますが、この論法では、未だ、国民の三分の二は日蓮正宗の信徒でもなければ、創価学会員ではないことになります。そうした場合、坊主が心配するような「政権が変わればどのようになるかわからない」といった心配が消えないことになるのは当然のこととして、国が建てる国立戒壇は坊主は絶対に反対したいのであります。
大聖人様は、何も国民の三分の一が入信したら、広宣流布だとは一言も仰せになっていないばかりか、「権教・権門の輩を一人もなく攻め落とせ」(如説修行抄)と仰せられ、それまで「時を待つべきのみ」(一期弘法抄・三大秘法抄)と仰せられているのであります。大聖人様が仰せられる、権教・権門の輩を一人もなく攻め落とすほどの大折伏が敢行され、戒壇の大御本尊様を守護するに於いては、全世界の人々の為に、日本国の命運を賭しても御守護申し上げるという機運が日本の朝野に満ちてきた時には「政権が変わればどのようになるかわからない」といった不安は起こるべくもない、為にする杞憂となるのであります。
それともう一つ、宗門が絶対に譲れない問題として挙げているのが、国立戒壇を立てるとなると「国家が建てて国家が管理することになる」という問題でありますが、広宣流布の暁に国立戒壇を立てるに当たっては、国が口だけ出して国家の財政負担を一切伴わないという事は絶対にあり得ないのであります。したがって、国立戒壇は当然の事として、国と信徒の有志が浄財を拠出して建立することとなり、戒壇の大御本尊は、国家が時の天皇陛下(本化国主)と共に国の命運を賭して、全世界の人々の為に御守護申し上げる事になっているのでありあます。それが三大秘法有縁の国、日本国の仏法上の使命なのであります。
またその事を「富士一跡門徒存知事」には「右、王城においては、殊に勝地を選ぶべきなり。就中、仏法と王法とは本源体一なり。居処随って相い離るべからざるか、仍って南都の七大寺、北京の比叡山、先蹤これ同じ、後代改まらず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城を一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。
本門戒壇の大御本尊様は、決して、宗門の坊主の所有物にとどまるものではなく、国家的な監理と帰依を基本としているのであります。その趣を「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)との仰せを拝せば明らかなのであります。
⑦そもそも、浅井は宗門僧侶を種々誹謗するが、現に七百数十年の間、様々な歴史的危機を乗り越えて、戒壇の大御本尊を直接的に守護してきたのは、宗門であり、それを支えてきたのが在家信徒の外護の赤誠である。かくのごとく、仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない。この一点でも、顕正会が異流義の異教徒と化していることがわかろう、というものだ」について
⑦についての感想
ここに記載されている過去の歴史的事実については、何も否定するものではありません。また「仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない」との指摘については、まったくお話の通りであります。今日の顕正会は、彼の英邁な第六十五世を務められた日淳上人から認証状戴いた当時の、熱原の法華講の命を継ぐ正直にして信心一筋の集団と云われた内の妙信講が、名誉と誇りをかなぐり捨てて、外の顕正会へと名前を変えて飛び出して行ってしまいました。今や、僧侶の一人も居ない在家教団となってしまったことについては誠に残念の一語に尽きるのであります。
最後に法華経本門戒壇が、何故に国立戒壇でなければならないかについて、簡単に説明しておきます。
第一に、伝教大師が建立した法華経迹門理の一念三千の戒壇と、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の戒壇とは、法体が違うということを第一に挙げなくてはなりません。第二には、衆生の機根の違いを挙げなければならないのであります。
はじめに法体の違いを説明するならば、法華経迹門理の一念三千は、生命の本質、即ち、生命の極理を未だ解き明かしていません。それに対して、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千は、二乗作仏、あるいは、女人成仏を説き明かし、我らが一念に、三千種の世間が具わる実相を説き明かしています。そのことを開目抄には「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果を説き顕わす、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」とあるのがそれであります。
此処で仰せられる「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」の御文の意を一言で説明するならば、法華経本門寿量品に来て始めて生命の永遠、即ち、生命の本有常住が説き明かされたという事であります。
第二に機根の違いを挙げるなら、大聖人様は病と薬の関係を衆生と経の関係に置き換えて説明されています。すなわち病の軽い者には少薬を飲ませ、病の重い者には高貴薬を施すのです。釈尊滅後、一千年を正法年間としています。次の一千年を像法年間としています。合わせてこの二千年間の間に生まれてくる衆生のことを「本已有善」の衆生といっています。これらの衆生は過去世において、心田に仏になる種を下種されている衆生とされています。正法一千年の衆生には、小乗経、権大乗経が最も適している。後の像法一千年の間に生まれてくる衆生も「本已有善」の衆生といって、過去世に聞法下種を受けていますが、病が少々重い衆生なので、法華経の迹門が最も適した衆生とされています。
亦、それ以後の、釈尊滅後正像二千年以後の末法に生まれてくる衆生は、最も病の重い「本未有善」の衆生といって、未だに一度たりとも、心田に下種を受けた事のない、荒凡夫ばかりが生まれてくる時代となるのであります。そのため末法に生まれてくる衆生には、最も効き目の強い三大秘法でなければならないのであります。
その事を三大秘法抄に次のように説かれています。「問う、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し、機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給うべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給うは教主釈尊の慈悲に於いて偏頗あるに似たり如何。答う、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照らすと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず、正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗叶えり、像法一千年には法華経の迹門機感相応せり、末法に入って始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり、機法相応せり。今此の本門寿量品の一品は像法の後の五百歳機尚耐えず、況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや、末法に入っては爾前迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量品の一品に限りて出離生死の要法なり、是れを以て思うに、諸仏の化導に於いて全く偏頗無し等云々」と。
要約しますと「問う、諸仏の施す慈悲は皆平等である筈である。仏の慈悲は何時の時代にあっても平等であるべきなのに、それほど優れた三大秘法を、正像二千年の衆生には与えず、末法に限るのは、仏の慈悲に偏頗、えこひいきがあるように思うがどうか。答う、〝仏の施す慈悲と利益には基本的に偏頗は無いのであるが、濁水に月影が宿らないように、謗法一闡提の者には慈悲と利益を施そうとしても謗法者が受付ないのである〟として、正法一千年の衆生には、小乗・権大乗が相応し、像法一千年の衆生には、法華経の迹門の教えが衆生の機根に合っている。末法入ると本門の寿量品の一品のみを弘通すべき時である。今此の寿量品の一品は像法の後の五百年の衆生の機根には尚耐えられない。況んや始めの五百年の衆生には耐えられない。如何に況んや正法の機においては迹門すら尚日浅し、増して本門をや。末法に入ってくると爾前迹門は全く、出離生死の法(成仏の法)にはならない。衆生の病と薬が合わなくなってしまったのである。是れを以て思えば諸仏の化導に於いて全く偏頗はないのである」と説かれています。
正像末の三時における仏様の慈悲には偏頗なしということは良く理解できたはずです。しかしながら、正法千年、像法千年を過ぎれば、時は五五百歳の末法万年の時代に移行するのであります。正像ニ千年の衆生と末法の衆生の機根の違いを知るならば、末法は時間的には尽未来歳まで続くとされていますので、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の三大秘法の広宣流布の暁に建立される戒壇は、道理として国立戒壇でなければならないのであります。そのことを次文に斯く仰せであります。
云く「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」と。
此処では御本尊の体相の違いを示されています。すなわち「五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊」とは、諸経に秘して未だ説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊、末法御出現の日蓮大聖人様の御事であります。その日蓮大聖人様こそ、久遠元初以来日本国に最も縁の深い、人法一箇の御本仏であらせられます。日本国は末法唯一人の御本仏出現の根本の妙国であるが故に、この御本仏様を国を挙げて尊崇申し上げなければなりません。もったいなくも、全世界の人々の懺悔滅罪と即身成仏を叶えて戴ける尊貴な御本仏様の御座所としては、当然の事として、日本国の威信を掛けて建立する、国立戒壇でなければならないのであります。
今、唯一の正系門家と謂われ、大聖人様の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心がこれほどまでに堕落し、大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇に目を剥いて反対し、異議を唱えています。それでいながら始末が悪いのは、自らの間違いを他人になすりつけて未だに反省するこを知らない。日蓮正宗の信心に一切の功徳を喪失した根本原因が、まさしくここに存するのであります。
この事は、まだほんのわずかな小事であります。今、ここで日蓮正宗の僧俗信徒は改めて自らの信心を振り返り、己の傲慢と浅識と不信を潔く捨てて歪曲を正し、急いで、御本仏大聖人様の顕わされた立正安国論で仰せられる四経の金文を改めて拝し直して、速やかに正信立ち還るべきであります。さもなければ、悔いを千歳に残すことになります。
安国論に云く「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り聖人所を辞して還らず、是れを以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起る、言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」と。
金光明経に云く「其の国土に於いて、此の経有りと雖も未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し賛嘆せず」と。
大集経に云く「仏法実に隱没せば、髭髪爪皆長く、諸法も亦茫失せん」と。
仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来たりて国を劫かし、百姓妄喪し、臣・君・大志・王子・百官共に是非を生ぜん」と。
薬師経に云く「若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月博蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」云々と。
今回恵妙に記された邪義を破折するに当たり、読者の便を計るために破折箇所の頭に番号を付けて論を進めたいと思います。
云く「『顕正新聞』八月五日号に七月度の総幹部会での浅井の発表が記載されている。その中で浅井は、日達上人、日顕上人及び宗門僧侶方を誹謗している。それは、愛知県の男子部幹部が末寺住職との話の中で、住職が「顕正会のいう国立戒壇は謗法だ」と述べたことについて、噛みついたものである。
浅井は「この坊主、大事の御遺命が何もわかっていない。細井日達・阿部日顕の己義を聞きかじっているだけです。(末寺住職が)『立正安国論の立正の具体的な姿は誰にもわからない』と。バカを言ってはいけない。『立正』が国立戒壇建立であることは、三大秘法抄・一期弘法附嘱書に明々白々ではないか。国立戒壇を建立すれば、国が安泰になる。これが立正安国ということなのです。国立戒壇を否定したいから、『立正の具体的な姿は誰にも分らぬ』などとごまかすのです」などと、自前の謗論を吐き散らしている。
①「顕正会にとって国立戒壇論は、自らの存在意義を主張するための唯一の拠り所であるから、何があっても死守したのであろうが、これまでも様ざまな角度から、その誤りを指摘されているにもかかわらず、頑なに聞く耳を持たない。その概要を以下にまとめておく」について
①に対する破折
未だに宗門の坊主らは、顕正会の叫ぶ国立戒壇論に対して「何があっても死守したいのであろうが」などと、こうした脳天気なお門違いの言辞を弄して喜んでいるようですが、国立戒壇こそが御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願なのであります。それは立正安国論の御精神を正しく理解すれば三歳の稚児でも解ることなのでありますが、戦後、日蓮正宗最大の信徒団体に成長した創価学会は、真の日本の広宣流布を実現するとなれば、政治的にも発言力を持たなくてはならないとして、政界に打って出ることにしました。創価学会は当初「創価学会文化部」という政治結社に相当する別組織を作り、国立戒壇を実現する方法を選択したのであります。
日蓮正宗が唯一の大目的としてきた国立戒壇を実現するため、創価学会第二代会長の戸田城聖氏は、次のような所感をのべていました。云く「我らが政治に関心も持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華 昭和31年8月号)と、政界進出の理由を高らかに宣言していたのであります。
ところが世間は、創価学会が主張する国立戒壇に対する風当たりは意外に冷淡で、創価学会が国立戒壇を掲げて選挙戦を戦うとなると票が全部逃げてしまう。思った以上に票が取れないばかりか、国立戒壇を前面にだすと、選挙にまったく不利だとう事が解ってくると、学会は宗門に対して、奇想天外なとんでもない言いがかりをつけて来ました。云く「今、国立戒壇を云うと日蓮正宗は憲法違反で潰される」などと。一般世間の法律に疎い坊主たちは、こうした学会幹部の口車に乗せられて、大聖人以来七百年、唯一の大目的としてきた国立戒壇を簡単に捨ててしまったのであります。要するに、創価学会の選挙は、目的と手段が完全に入れ替わってしまったのであります。つまり選挙に勝つためには、国立戒壇は邪魔だから捨ててしまえとなったのです。
当時の坊主の多くは、国立戒壇に対する意識が希薄なあまり、国立戒壇を放棄することへの重大性が理解できなかったのか、やれ「民主主義だ」「憲法20条の信教の自由だ」「憲法違反だ」という学会流の選挙戦を中心にした論法で攻め立てられる坊主坊主らは抗弁の理由も定まらず、あっさり、国立戒壇を捨ててしまったのであります。その重大性が未だに解っていないために、顕正会の云う国立戒壇論を「○○の一つ覚えの国立戒壇論」あるいは「何があっても死守したのであろうが」などとした、能天気な邪義を垂れ流し、高笑を決め込んで喜んでいるのでありますが、この構図は、脳性小児麻痺を患いそこなった悪ガキが、取り返しのつかないような犯罪を犯して、己を産み育ててくれた父母の顔に泥を塗り、はしゃぎまわっている姿と哀れな姿なのであります。
御本仏大聖人様は立正安国論の中で、仏国の実現を図ることが、国家・国土を安泰ならしめる唯一の方法であることを懇切丁寧に御教示であります。安国論に云く「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」と御教示せられ、つづけて「日蓮は日本の人の魂なり」(種々御振舞い御書)と仰せでありますように、御本仏を魂とする国は、まさしく仏国となるのであります。それは、日本国の魂が日蓮大聖人になるという事であります。したがって御本仏日蓮大聖人を魂とする国は、御教示の如く防非止悪の戒により、凶悪犯罪は夢のごとく無くなり、飢餓もなければ、災害もない、悲惨な戦乱からも解放された、永遠不滅の国家・国土となるのであります。
その仏国を実現する秘術とは、一団体の漠然とした帰依による戒壇建立、あるいは、一宗門の私的な戒壇建立にとどまったのでは到底仏国は実現しないのであります。それは、全国家的な帰依による戒壇の建立、即ち、全国民の燃えるような帰依による国立戒壇でなければ適わないのであります。仏法のためには身命も惜しまぬ護法の大道信が国の朝野に満ちた時、国の命運を賭して戒壇の大御本尊を御守護申し上げる。そうした全国民的な規模の国立戒壇を立てることによって、はじめて仏国が実現するのであります。今の日蓮正宗の坊主らには、そうした三大秘法の妙々甚深の功徳と秘術がまったく理解できていないのであります。
②まず、浅井が国立戒壇の依拠とする大聖人の御言葉は、「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書1595頁)また、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。事の戒法と謂ふは是なり」(御書1675頁)と、「国主」「王臣一同」が正法に帰依して、戒壇建立を発願する時、最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」について
②に対しする破折
尤も此の二つの御文こそが、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇の建立を勧奨せられた大切な御文であります故に、妙信講・顕正会が国立戒壇の衣文とするのは当然であります。
広宣流布の暁の「事の戒壇」建立の地たる最勝の地とは、第二祖日興上人以来、日本国の富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原に国立戒壇を建立することが七〇連綿と連綿と伝承されてきたのであります。故に第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。仰せられているのであります。
ところで浅井会長が妙信講を名乗っていた昭和51年当時、「三大秘法抄を拝し奉る」と題して、妙信講員のために講義された「三大秘法抄」の講義録が拙者の手元にあります。今となってはこうした正しい講義禄は人目に触れることは、ほとんど無くなってしまいました。今、富士門流の中で国立戒壇に関する邪義が横行するなかでは、この講義禄は大変貴重な存在となってしまったようです。時に当たってこの機会に、浅井会長が妙信講員のために講ぜられた三大秘法抄の講義録の国立戒壇論の項目のみを抜粋して謹んで掲載させて頂くことにしました。
これこそが、大聖人様以来富士門流大石寺に存在した三大秘法抄の解説文であり、就中国立戒壇に関する正論だと確信しています。
云く「本門寺の戒壇は大聖人究極の御願業である。これは、本門の本尊の妙用により、日本国を仏国土に、ひいては一閻浮堤(全世界)の仏国土化を事相の上に顕現するものである。大聖人の御在世においては、本門の題目と本門の本尊は顕われ給うとも、この本門の戒壇の一事においては未だ時至らず、よってその実現を未来に御遺命されたのである。しかしながら、本門の戒壇に安置すべき御本尊だけは、弘安二年十月十二日、末法万年のことを慮(おもんぱか)られ堅牢なる楠木の厚き板に御自らお認(したた)め遊ばされ、未来の御用意と遊ばした。この御本尊を『本門戒壇の大御本尊』と申し上げる。これぞ三大秘法の随一、大聖人出世の御本懐、日本を始め全世界の一切衆生に授与せられた一閻浮堤総与の大御本尊である。
よって聖人御難事には『此の法門申し始めて今に二十七年弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつしろしめせり』と。まさしく弘安二年の大御本尊建立を以って出世の本懐と仰せられる。よって日寛上人は『なかんずく弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟・本懐中の本懐なり、すでにこれ三大秘法の随一なり、いわんや一閻浮堤総体の本尊なるゆえなり』と。而して大聖人はこの御本尊を弘安五年に日興上人にご付属され、本門戒壇の建立を御遺命遊ばしたのである。その御付属状(一期弘法抄)に云く『日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり』と。『日蓮一期の弘法』とは大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事、そして本門戒壇の建立については、『国主此の法を立てらるれば富士山に』と仰せられ、委細をすべて日興上人に口伝遊ばされたのである。
但し、門家には未だ本門戒壇の何たるかを知る者はいない。よって未来のため、その内容を明かし給うたのが本抄である。本抄が一期弘法抄の助証であるとの意はここにある。実に、御書四百四篇の中に、本門戒壇の意義・内容を明かされたのはこの三大秘法抄だけである。さて、本門の戒壇は、どのような時に、どのような手続きで、何処に立てられるべきか、以下本文にそれを拝する。まず時については『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』とお定めである。これは広宣流布の暁の、国家と仏法の関係状態を明かされたものである。日本国家がこのような状態になった時が戒壇建立の時と定められたのである。
以下一文づつ拝すれば『王法』とは、国家統治の最高権力・統治主権・国家権力の意である。またその活動に約して一国の政治、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等をも意味する。要するに、国家統治に関わる種々の概念を包括した言葉である。『王法仏法に冥じ仏法王法に合して』とは、国家権力が三大秘法を根本の指導原理として尊崇擁護し、また三大秘法が国家の繁栄・国民の幸福のために生かされる状態をいう。これは大聖人の仏法が単に個人の信仰の次元にとどまらず、国家次元において受持されるということを意味する。そもそも国家の盛衰は国民一人一人の幸・不幸をその中に包含している。ゆえに大聖人は『一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事』と仰せられる。よって、個人が安穏であるためには国家が安泰でなければならない。国家が安泰であるためには王法が仏法に冥ぜざるべからずというのが立正安国論の御趣旨であり、また本抄の御指南である。
さて、王仏冥合の具体的姿はいかにといえば、それを次文に明かし給い『王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』と仰せられる。『王』とは国主、『臣』とは国政にたずさわる者、『王臣』の二字の中に全国民が含まれていることはいうまでもない。すなわち、国主も、国政にたずさわる者も、全国民も、心から本門戒壇の大御本尊を信ずるのである。『有徳王・覚徳比丘』とは涅槃経に出てくる故事である。昔、歓喜増益如来の滅後・仏法まさに失せんとする時、覚徳比丘という聖僧あって身命も惜しまず正法を説いた。この時、多くの破戒の悪僧あって怨嫉しこれを殺害せんとした。その時、有徳王がかけつけ、身を以って覚徳比丘を守り、ついに命を失ったが、その功徳により阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じたという。この覚徳比丘の姿はまさしく御在世の大聖人のお姿であり、また事の広布の時の御法主上人のお姿である。
但し御在世には国家権力は大聖人を守るどころか流罪死罪にし奉ったが、事の広布の時には王臣一同に戒壇の大御本尊を守護し奉るのである。この時の王臣の三大秘法受持は、ただ護法の大導念より出る純粋なものである。覚徳比丘も法の為・国のため不借身命の説法なら、護法の有徳王も純粋捨身である。いやしくも為政者が自己の政治野心のために宗教を利用したり、また宗門が権力にへつらって栄達を計ったりするような関係は、大聖人のもっともお嫌い遊ばすところである。王仏冥合の大精神はこの『有徳王・覚徳比丘』の仰せを規範として深く拝さなくてはならない。末法濁悪の未来に、大聖人の御在世の信心に立ち還って立正安国の大精神を以って一国を諫める宗門、そしてそれに呼応して本門戒壇の大御本尊を護持せんとする不借身命の熱誠が一国上下に満ち満ちる時が必ず来る。これが大聖人の未来を鑑み給うた御予言であり、御確信であられる。その時が戒壇建立の時なのである。
次に戒壇建立の手続きについては『勅宣並びに御教書を申し下して』の一文がそれに当る。『勅宣』とは天皇陛下の詔勅、『御教書』とは当時幕府の令書、いまでいえば国会の議決がそれに当る。日本一同に信ずる事の広布の時がくれば、国会の議決も問題なくなされよう。要するに『勅宣並びに御教書』とは、国家意思の公式表明を意味するものである。〝本門戒壇の大御本尊を日本国の命運を賭しても護持し、本門戒壇を建立いたします〟という国家意思の表明である。かかる手続きを経て建立される本門戒壇なるゆえ、これを宗門では国立戒壇と称してきたのである。しかるにいま、世間にへつらって国立戒壇を否定するため、御本仏の聖意を曲げ『勅宣・御教書』を解釈して『建築許可書』などという無道心の麤語(そご)が宗門に横行しているが、これらはまさに魔説と断ずべきである。
さらに、本抄に『勅宣』と仰せられた深意を拝するに、当時皇室は幕府に実権を奪われて有名無実・衰微の極にあったのである。しかるにこの仰せあるは、未来を鑑みての深き御聖慮と拝し奉る他はない。大聖人は一往時の国家統治者を『国主』と呼ばれている。ゆえに北条時宗を指しても『国主』と仰せであるが、再往日本の真の国主は天皇であることの御意は諸御書に明らかである。末法万年に伝わる仏法を守護する王法が、一時の英雄や覇王ではふさわしくない、それらには永続がないのである。日本が三大秘法有縁の妙国ならば、永遠の仏法を守護するに本有の王法が存在しないはずはない。この使命を持っているのが日本の皇室である。この使命あればこそ、世界に類を見ぬ永続を見るのである。たとえ時により衰微があろうとも、時来たれば必ず仏法有縁の『本化国主』が皇室に出現し、以後万年にわたり三大秘法守護を以って皇室の唯一の使命とすることになるのであろう。とまれ、本門戒壇の大御本尊建立の五ヶ月のちに、事の広布の時の天子のために紫宸殿の御本尊を顕わし給うた御事跡と、本抄の『勅宣』の仰せとを思い合わせるに、ただ凡慮の及ばざる甚深の御聖慮を感ぜずにはいられない。
次に『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて』とは場所についての定めである。ここには形容詞だけで地名の特定はないが、一期弘法抄の御文よりして、日本第一の名山富士山を指し給うものであることは明らかである。さらに富士山の広博たる裾野の中には、南麓の景勝の地『天生原』がその地域と定められ、歴代法主により伝承されている。すなわち日興上人は『国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて三堂並びに六万坊を造営せらるべきものなり』(大坊棟札本尊裏書)と。また日寛上人は『事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり』(報恩抄文段)と。
次に『時を待つべきのみ』とは、門下への勧誡である。勧とは、事の広布は必ず来るによって身命を惜しまず不断に弘通せよとの御激励。未だ時の来たらざるうちに戒壇を建立することは断じて不可なりとのお誡めである。いま正本堂を見るに、まさしくこの御聖意に背くものである。もし一国の謗法と邪正を決せぬうちに戒壇を立てれば、一国において邪正肩を並べ、謗法与同の義を生ずるから不可なのである。世間にへつらい謗法呵責の道念を失えばこそ、時至らざるに濫りに立てるなどの違法がなされるのである。論より証拠。正本堂にキリスト教神父を招いた事実こそ、何より謗法与同の実態を雄弁に物語るものではないか。大聖人の御心を冒涜することこれより甚だしきはない。
次に『事の戒法と申すは是れなり』とは、迹門の戒壇に対して、如上の国立戒壇を『事の戒壇』と仰せられるのである。すなわち一国総意の国立戒壇建立により、始めて本門戒壇の大御本尊は公開され、そこにおいて戒儀が執行されるのである。それまではあくまで内拝であるから義の戒壇と申し上げる。『三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給う戒壇なり』とは、本門戒壇の利益広大を仰せ給うのである。この戒壇は日本のためだけではない、中国・印度さらに全世界の人々がここに参詣し、懺悔滅罪・即身成仏を祈る処である。いや大梵天王・帝釈等も来下参詣する戒壇である。まさにその利益の広大なること、人界ばかりでなく天界にまで及ぶことを仰せである。
いま、国立戒壇を否定する理由の一つとして、大聖人の仏法は全世界の仏法であるから国立は不可、などという者があるが、これまた全く為にする己義である。本門戒壇が日本だけのもの、日本だけに閉鎖する意ではない。実に全人類のための大仏法を日本が守護するという意味である。これは、日本が大聖人御出現の本国であり、三大秘法広宣流布根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。ゆえに本抄には、日本の広宣流布・王仏冥合を以って国立戒壇を立てよとし、それが三国並びに一閻浮堤の人々のためであると御意せられるのである。全世界に広宣流布した暁を待って立てよとは全く仰せられていない。本抄に仰せの『王法』とは、まさに日本の『王法』、『王臣一同』とは、日本のそれ、『勅宣・御教書』とは、日本の『勅宣・御教書』なのである。かくのごとき国立戒壇が全世界に開かれるのである。
考えてもみよ、全人類の即身成仏の大法を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護する日本は、全世界から感謝されて然るべきではないか。もし、かかる仏国日本を怨嫉憎悪する他の国家・国民があれば、罪はその方にある。ゆえに本尊抄には『堅王と成って愚王を誡責し』と仰せ給うのである。いずれにしても、御本仏の御遺命のまま、全世界のために国立戒壇を立てるのに、何の遠慮・気がねがいろう。実は国内の選挙のために国立戒壇を曲げたにもかかわらず、その理由を〝世界宗教のゆえ〟などというはまことに見え透いた誑言というべきである。実に国立戒壇の建立こそが、一閻浮堤に広宣流布する重大な鍵なのである」と。国立戒壇の項を締め括られています。
さて、本題に戻るとして、恵妙の記事には「最勝の場所たる富士山に事の戒壇を建立せよ、と仰せられたものである」などと記してありますが、宗門の本心は那辺にあるのでしょうか! かつてはニセ戒壇正本堂を指して「広宣流布の事の戒壇」等と大宣伝していたのであります。また、第六十七代を継いだと称する阿部日顕管長は、次のような己義を喧伝していました。云く「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。天母原の問題がありますけれども、かえって天母原でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和48年8月号)などと。こうした恐るべき邪義を声高に叫びながら、それを他人の性にしていたのであります。これは阿部日顕隠居の本心から出た邪義の最たるものと思われたのでありますが、阿部日顕隠居は日達の邪義を忖度しながら己の本心を言い振らしているのであります。この坊主の狡さが透けて見えます。
③「浅井は、この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はなくても義がある、という。しかし、この御金言を拝すれば明らかなとおり、国主が立てるのは「此の法」であって、戒壇とは示されていない」について
③に対する破折
バカを言ってはいけません。坊主のいう「この二つの御言葉の中に、国立戒壇の語はない」などと、とんでもないバカげた事を言っていますが、ここでいう「二つの御言葉」とは、三大秘法抄にお示しの「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、乃至霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」の御文と、一期弘法抄の「日蓮一期の弘法白蓮日興に之を付属す、乃至国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる二つの御文を指しているのであります。これら二つの御文を素直に拝読するならば、いずれの御文の後には「時を待つべきのみ」として、時に至らぬうちに事の戒壇と称して、決してニセ戒壇を立ててはならないと誠誡を加えられているのであります。坊主にはその意味が理解できないのか「国主が立てるのは『此の法』であって、戒壇とは示されていない」とする御文の解釈こそ、屁理屈の最たるものであり、切り文の典型であります。
大聖人様が三大秘法抄で戒壇について、わざわざ「戒壇とは」と断わられて、つづけて「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」と仰せられる王仏冥合の本門戒壇とは、広宣流布の暁の王仏冥合が成った時の戒壇であります。したがって、その時立てられる本門戒壇とは国立戒壇に他ならないのであります。また、一期弘法抄の「国主此の法を立てらるば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せられる如く、日本国の本有の国主である時の天皇陛下が三大秘法を信受して妙々甚深の功徳を感得し、紫宸殿御本の御下付を発願された後に、勅宣を発せられて立てられる本門戒壇とは、これまた国立戒壇に他ならないのであります。今の宗門の謗法僧のバカ坊主には、此の二つの御文が全然読めないのであります。
大聖人様から二祖日興上人が賜った一期弘付嘱書には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御下命遊ばされていますように「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」で、一節の文章になっているのであります。それを『此の法』だけにとどめて「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文を切り捨てるとは恐れ入りましたね。こんな僧侶は国語能力に著しく欠けるバカ坊主と云うべきで、こういう坊主は元々仏飯を食む資格はないのであります。こんな邪義を垂れ流す坊主が、のうのうと只飯が食らえる環境が未だに存在すること事態、絶対にあってはならないのであります。
④「勅宣並びに御教書を申し下して」との国主の意思表明(戒壇建立の発願)があったとしても、国家が戒壇の建物を建立することにはならない」について
④に対する破折
この坊主には「勅宣並びに御教書」の意味が理解できていないようです。「勅宣」とは、天皇陛下が発する詔勅の事であります。「御教書」とは、鎌倉時代に於ける国主の発する令書の事でありますが、現代的に訳せば、国会の衆参両院の本会議に於ける議決となるのであります。したがって、本門寺の戒壇=国立戒壇を建立するに当たっては、こうした二重にわたる国家的手続きを経て、建立される戒壇とは、まさしく国家意思の公式表明を内外に示して建立する戒壇となるのであって、これは国立戒壇に他ならないのであります。
⑤現に、大聖人が戒壇建立の先例として挙げられる、日本天台宗・伝教大師による迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている。宗門で建てたものが国立戒壇であるはずがない」について
⑤に対する破折
伝教大師の建てた迹門の円頓の戒壇について、大聖人様は次のように仰せであります。「去ぬる延暦二十一年正月十九日天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず、最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり」(報恩抄) とあります様に南都六宗の碩徳は、伝教大師の発する鋭い舌鋒に打ち負かされて、十四人全員が桓武天皇の御前で謝状を認め叡山の天台法華宗に改宗して、伝教大師の弟子となっているのであります。
伝教大師の戒壇建立に至る戦いは、今にして思えば、専政政治の封建時代の想像を越えた困難を乗り越えて、桓武天皇の勅許を経て建立された法華経迹門の戒壇なれば、簡単に「宗門で建てたものが、国立戒壇であるはずがない」などと、まるで鬼の首を取ったかのような喜びようですが、この坊主は専政政体と民主政体の区別すら理解が及ばない、相当とろい坊主のようです。伝教大師の時代は大聖人様以前の専政政治の真っ只中であれば、桓武天皇(国主)一人の正法(法華経)受持で事は足り、国家意思の決定は成されたのであります。
ところが今日の民主政体、すなわち民主主義の時代には多数決によって物事が決せられるのであります。その大前提を度外視してこの坊主は「迹門の戒壇も、勅宣を得て建立されたが、国家ではなく、天台宗の宗門が建てている」などと、伝教大師の立てた法華経教迹門の戒壇を貶めていますが、伝教大師一人命がけで闘って戒壇を建立した時代的背景を考えれば、法華経教迹門の戒壇といえども、国立戒壇に匹敵する大戒壇だったのであります。
ゆえに大聖人様は撰時抄の中で「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒(けんどく)尸那(しな)一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」と述べられています。
さらに四信五品抄には「夫れ人王三十代欽明天皇の御宇に始めて仏法渡りしより以来、桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず、爰に延暦年中に一人の聖人有って此の国に出現せり。所謂伝教大師是なり。此の人先より弘通する六宗を糾明し、七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。王法も二に非ず。法定まり国清(す)めり」と仰せられています。
こうした伝教大師一人の闘いに依って、日本の仏法はただ一門となったのであります。そして王法も一つとなって、桓武天皇も、より威徳が増し、国家が法華経迹門の功徳により、清らかに澄み渡ったのであります。しかしながら、いかに伝教大師の立てた法華経迹門の戒壇と雖も、像法過時の「理の戒壇」である上に、第三・第四の慈覚・智証の二人によって真言の毒が混ぜられ、土泥に終わってしまったのであります。
⑥「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない。その時、どうやって本門戒壇の大御本尊を護れるというのか。過去にも、国王が一旦は仏法に帰依しておきながら、後に変心して仏法を破滅に追いやった前例は、インド・中国・日本にも見られる。よって、大御本尊安置の堂宇が国立(国家が建てて国家が管理することになる)ことは、絶対にあってはならないのである」について
⑥について破折
坊主らは「政治というものは浅井も指摘するように、政権が変わればどのようになるかわからない」などと言って、この不安は浅井会長の発言のごとく装っていますが、それは自らが懐く不安を、あたかも浅井会長の発言の如く見せかけているのであります。「政権が変わればどのようになるかわからない」とする不安は、何処から出て来たかといえば、彼のニセ戒壇正本堂の建設から端を発しているのであります。
思い起こせば、昭和40年の春、創価学会の池田大作と第六十六世を継いだ日達管長との間で、下手な漫才の掛け合いを思わせるようなやり取りが、大白蓮華の巻頭を飾ったのです。「もはや広宣流布」と題した記事が掲載されたのですが、それによりますと、日達管長の云く「昨年の春、池田会長と談話をした時、私がすでに広宣流布している。と言ったら、池田会長は『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられました。私はその見識に深く感嘆したのであります」(大白蓮華 昭和40年1月号)という二人の驚くべきバカげた談話が紹介されていました。
つまり舎衛の三億という逸話を引き合いに出して、日本の人口の三分の一が、創価学会員となった時が広宣流布という邪義でありますが、この論法では、未だ、国民の三分の二は日蓮正宗の信徒でもなければ、創価学会員ではないことになります。そうした場合、坊主が心配するような「政権が変わればどのようになるかわからない」といった心配が消えないことになるのは当然のこととして、国が建てる国立戒壇は坊主は絶対に反対したいのであります。
大聖人様は、何も国民の三分の一が入信したら、広宣流布だとは一言も仰せになっていないばかりか、「権教・権門の輩を一人もなく攻め落とせ」(如説修行抄)と仰せられ、それまで「時を待つべきのみ」(一期弘法抄・三大秘法抄)と仰せられているのであります。大聖人様が仰せられる、権教・権門の輩を一人もなく攻め落とすほどの大折伏が敢行され、戒壇の大御本尊様を守護するに於いては、全世界の人々の為に、日本国の命運を賭しても御守護申し上げるという機運が日本の朝野に満ちてきた時には「政権が変わればどのようになるかわからない」といった不安は起こるべくもない、為にする杞憂となるのであります。
それともう一つ、宗門が絶対に譲れない問題として挙げているのが、国立戒壇を立てるとなると「国家が建てて国家が管理することになる」という問題でありますが、広宣流布の暁に国立戒壇を立てるに当たっては、国が口だけ出して国家の財政負担を一切伴わないという事は絶対にあり得ないのであります。したがって、国立戒壇は当然の事として、国と信徒の有志が浄財を拠出して建立することとなり、戒壇の大御本尊は、国家が時の天皇陛下(本化国主)と共に国の命運を賭して、全世界の人々の為に御守護申し上げる事になっているのでありあます。それが三大秘法有縁の国、日本国の仏法上の使命なのであります。
またその事を「富士一跡門徒存知事」には「右、王城においては、殊に勝地を選ぶべきなり。就中、仏法と王法とは本源体一なり。居処随って相い離るべからざるか、仍って南都の七大寺、北京の比叡山、先蹤これ同じ、後代改まらず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城を一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。
本門戒壇の大御本尊様は、決して、宗門の坊主の所有物にとどまるものではなく、国家的な監理と帰依を基本としているのであります。その趣を「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)との仰せを拝せば明らかなのであります。
⑦そもそも、浅井は宗門僧侶を種々誹謗するが、現に七百数十年の間、様々な歴史的危機を乗り越えて、戒壇の大御本尊を直接的に守護してきたのは、宗門であり、それを支えてきたのが在家信徒の外護の赤誠である。かくのごとく、仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない。この一点でも、顕正会が異流義の異教徒と化していることがわかろう、というものだ」について
⑦についての感想
ここに記載されている過去の歴史的事実については、何も否定するものではありません。また「仏法はあくまでも僧俗和合であることが大聖人以来の宗是である。在家団体のみでの広宣流布など、日蓮正宗の信心ではない」との指摘については、まったくお話の通りであります。今日の顕正会は、彼の英邁な第六十五世を務められた日淳上人から認証状戴いた当時の、熱原の法華講の命を継ぐ正直にして信心一筋の集団と云われた内の妙信講が、名誉と誇りをかなぐり捨てて、外の顕正会へと名前を変えて飛び出して行ってしまいました。今や、僧侶の一人も居ない在家教団となってしまったことについては誠に残念の一語に尽きるのであります。
最後に法華経本門戒壇が、何故に国立戒壇でなければならないかについて、簡単に説明しておきます。
第一に、伝教大師が建立した法華経迹門理の一念三千の戒壇と、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の戒壇とは、法体が違うということを第一に挙げなくてはなりません。第二には、衆生の機根の違いを挙げなければならないのであります。
はじめに法体の違いを説明するならば、法華経迹門理の一念三千は、生命の本質、即ち、生命の極理を未だ解き明かしていません。それに対して、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千は、二乗作仏、あるいは、女人成仏を説き明かし、我らが一念に、三千種の世間が具わる実相を説き明かしています。そのことを開目抄には「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果を説き顕わす、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」とあるのがそれであります。
此処で仰せられる「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」の御文の意を一言で説明するならば、法華経本門寿量品に来て始めて生命の永遠、即ち、生命の本有常住が説き明かされたという事であります。
第二に機根の違いを挙げるなら、大聖人様は病と薬の関係を衆生と経の関係に置き換えて説明されています。すなわち病の軽い者には少薬を飲ませ、病の重い者には高貴薬を施すのです。釈尊滅後、一千年を正法年間としています。次の一千年を像法年間としています。合わせてこの二千年間の間に生まれてくる衆生のことを「本已有善」の衆生といっています。これらの衆生は過去世において、心田に仏になる種を下種されている衆生とされています。正法一千年の衆生には、小乗経、権大乗経が最も適している。後の像法一千年の間に生まれてくる衆生も「本已有善」の衆生といって、過去世に聞法下種を受けていますが、病が少々重い衆生なので、法華経の迹門が最も適した衆生とされています。
亦、それ以後の、釈尊滅後正像二千年以後の末法に生まれてくる衆生は、最も病の重い「本未有善」の衆生といって、未だに一度たりとも、心田に下種を受けた事のない、荒凡夫ばかりが生まれてくる時代となるのであります。そのため末法に生まれてくる衆生には、最も効き目の強い三大秘法でなければならないのであります。
その事を三大秘法抄に次のように説かれています。「問う、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し、機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給うべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給うは教主釈尊の慈悲に於いて偏頗あるに似たり如何。答う、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照らすと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず、正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗叶えり、像法一千年には法華経の迹門機感相応せり、末法に入って始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり、機法相応せり。今此の本門寿量品の一品は像法の後の五百歳機尚耐えず、況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや、末法に入っては爾前迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量品の一品に限りて出離生死の要法なり、是れを以て思うに、諸仏の化導に於いて全く偏頗無し等云々」と。
要約しますと「問う、諸仏の施す慈悲は皆平等である筈である。仏の慈悲は何時の時代にあっても平等であるべきなのに、それほど優れた三大秘法を、正像二千年の衆生には与えず、末法に限るのは、仏の慈悲に偏頗、えこひいきがあるように思うがどうか。答う、〝仏の施す慈悲と利益には基本的に偏頗は無いのであるが、濁水に月影が宿らないように、謗法一闡提の者には慈悲と利益を施そうとしても謗法者が受付ないのである〟として、正法一千年の衆生には、小乗・権大乗が相応し、像法一千年の衆生には、法華経の迹門の教えが衆生の機根に合っている。末法入ると本門の寿量品の一品のみを弘通すべき時である。今此の寿量品の一品は像法の後の五百年の衆生の機根には尚耐えられない。況んや始めの五百年の衆生には耐えられない。如何に況んや正法の機においては迹門すら尚日浅し、増して本門をや。末法に入ってくると爾前迹門は全く、出離生死の法(成仏の法)にはならない。衆生の病と薬が合わなくなってしまったのである。是れを以て思えば諸仏の化導に於いて全く偏頗はないのである」と説かれています。
正像末の三時における仏様の慈悲には偏頗なしということは良く理解できたはずです。しかしながら、正法千年、像法千年を過ぎれば、時は五五百歳の末法万年の時代に移行するのであります。正像ニ千年の衆生と末法の衆生の機根の違いを知るならば、末法は時間的には尽未来歳まで続くとされていますので、法華経本門寿量品文底秘沈の事の一念三千の三大秘法の広宣流布の暁に建立される戒壇は、道理として国立戒壇でなければならないのであります。そのことを次文に斯く仰せであります。
云く「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」と。
此処では御本尊の体相の違いを示されています。すなわち「五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊」とは、諸経に秘して未だ説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊、末法御出現の日蓮大聖人様の御事であります。その日蓮大聖人様こそ、久遠元初以来日本国に最も縁の深い、人法一箇の御本仏であらせられます。日本国は末法唯一人の御本仏出現の根本の妙国であるが故に、この御本仏様を国を挙げて尊崇申し上げなければなりません。もったいなくも、全世界の人々の懺悔滅罪と即身成仏を叶えて戴ける尊貴な御本仏様の御座所としては、当然の事として、日本国の威信を掛けて建立する、国立戒壇でなければならないのであります。
今、唯一の正系門家と謂われ、大聖人様の嫡流を誇っていた日蓮正宗の信心がこれほどまでに堕落し、大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇に目を剥いて反対し、異議を唱えています。それでいながら始末が悪いのは、自らの間違いを他人になすりつけて未だに反省するこを知らない。日蓮正宗の信心に一切の功徳を喪失した根本原因が、まさしくここに存するのであります。
この事は、まだほんのわずかな小事であります。今、ここで日蓮正宗の僧俗信徒は改めて自らの信心を振り返り、己の傲慢と浅識と不信を潔く捨てて歪曲を正し、急いで、御本仏大聖人様の顕わされた立正安国論で仰せられる四経の金文を改めて拝し直して、速やかに正信立ち還るべきであります。さもなければ、悔いを千歳に残すことになります。
安国論に云く「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り聖人所を辞して還らず、是れを以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起る、言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」と。
金光明経に云く「其の国土に於いて、此の経有りと雖も未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し賛嘆せず」と。
大集経に云く「仏法実に隱没せば、髭髪爪皆長く、諸法も亦茫失せん」と。
仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来たりて国を劫かし、百姓妄喪し、臣・君・大志・王子・百官共に是非を生ぜん」と。
薬師経に云く「若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月博蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」云々と。