亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

訓諭なんて気楽なもんでやんす

2017年12月15日 03時52分16秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.40~42)に「天母山戒壇説とその起こり」と題し坊主らは次の如く記しています。

さて、以上のごとき重大意義を有する大石寺をさして、浅井昭衛は、広宣流布の時を待つまでの仮の寺くらいに軽賤し、天母山戒壇説をもって宗開両祖以来の正義であると主張するのである。だが、すでに述べてきたことからも明らかなごとく、宗開両祖等、上古の時代の富士の教義においては、富士山に本門寺戒壇を建立すべきことが示されていても、天母山に戒壇を建立するなどという説は片鱗もみられない。しかるに、それが何時の頃から、誰によって唱えられ始めたのか。

まず、大聖人滅後二百年頃、京都要法寺僧であった左京日教が、大石寺・重須方面へ来て本宗に帰依し、その後の1488年に著わした『類聚翰集私』に、「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(富要集二巻323㌻)と、天母山ではないが、初めて「天母原」云々と述べている。

しかるに、昔も今も、富士山下に「天母原」という地名はなく、これが具体的にどこを指すのか不明であるのみならず、現実問題として、六万の坊舎を建立できるほどの場所は何処にも見出せない。それ故、五十九世日亨上人は、これを、日教師が心の中の観念・空想を述べた文であるとして、「まじめな後人を誤らすこと大なり」(富士日興上人詳伝268㌻)と指摘されているのである。

次に、「天母山」ということが初めて出てくるのは、日教師の説より八十年後の1567年、同じく京都要法寺の日辰が著述した御書抄(報恩抄下)においてである。それは、「富士山の西南に当りて山あり、名をば天母山と号す、この上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において二王門を建立し、六万坊を建立したもうべき時、彼の山のいて戒壇院を建立」云々という文であり、ここで初めて「天生山(天母山)」の名が出てくるのであるが、それ以前においては、天母山という固有名称そのものがあったか、どうかすら、定かでない。

いずれにせよ、この日辰の記述が、同じ要法寺から出た左京日教師の謬説に基づいて展開されたものであることは確実で、これより以後、天母山戒壇説が世に出ることとなったのである。しかして、この日辰の時代以降、本宗では、十五世日昌上人より二十三世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代が続き、この時期、日辰の御書抄はじめ要法寺の文献書籍の大半が大石寺に移された。

こうした経緯のよって、次第に要法寺日辰の天母山戒壇説が本宗に入ってきたのであり、そのことについては、二十九世日東上人が、「順縁公布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も辰抄の如きなり」と、天母山戒壇説は日辰の言葉によるものである、と明らかに仰せである。

また、御先師日達上人も、これについて、「この辺(要法寺の書籍が大石寺に移された頃)から要法寺系統の法門が入ってきてしまい、六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。(中略)だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちそのままとっていいというじゃない。やはり、日興上人、日布上人・・・・日有上人までは立派な本宗の御法門である。それをとって、よくかみ分けて進んでいかなければならない」と教示くださっているのである。

あの諂いの塊りのような日達管長の「訓諭」なるものは、行き当たりバッタリの出鱈目で、兎角後になって批判の対象にされるものが多いのは、つとに有名であります。こんな体たらくで貫首職が務まるなんて、坊主業とはまことに気楽な家業なんですね。

云く「さきに法華講総口頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起こせる正本堂は此処に五年を経て、その壮大な勇姿を顕し、本年十月落成慶讃の大法要を迎えるに至る。日達、この時に当たって正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時に於ける事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥檀は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」(昭和47年4月28日の訓諭)等と。

この訓諭も大聖人様の御遺命に違背した矛盾だらけの気違い染みたものだったのです。日達のいう「正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」とは、一言で云うなら、正本堂の意義について宗内はもとより、全世界に向かって明らかにし、後世の為に、まことの証明となるという意味でありますが、ニセ戒壇正本堂は、建築からわずか26年にして崩壊し、今では影も形も無くなってしまいました。依って、その正しさを証明するもしないも、現物がなくなったのですから、ニセ戒壇の証明以外にはないのであります。そもそも大聖人様が、このような御自身の遺言に違背するニセ戒壇の存在を、絶対にお許しにならないのであります。

此処で日達みずからがニセ戒壇であることを証明していますように「但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥檀は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」などと公言しています。正本堂はこのように、日達本人がニセ戒壇であることを証明して余りある建物だったのです。仮に正本堂が広宣流布が達成された後の本門戒壇であるならば、①「未だ謗法の徒多きが故に」なんて話が出てくる筈もないし、②「安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開せず」とか、③「須弥壇は蔵の形式を持って荘厳」等と云う馬鹿げた話は矛盾の最たるものであります。

広宣流布の暁に建立される本門戒壇を日達流に説明するなら、①「謗法の徒は皆無となるが故に」となり、②「安置の本門戒壇の御本尊はこれを公開す」となって、③「須弥壇は開かれた形式を持って荘厳」となるのであります。したがって、日達の仏法違背は誰の目にも明らかなとおり、大聖人様の御心に叛く恥知らずな訓諭だったのであります。

そこで一期弘法付嘱書と三大秘法抄を改めて拝見し、日達が強調していますように、正本堂がはたして両抄の意義を含む戒壇であったかどうかを検証することにします。

先ず始めに一期弘法付嘱書の御文を拝する事にします。

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」(弘安五年九月 日)と。

此の御文を通釈すれば次の如くであります。

先ずはじめに「日蓮一期の弘法」とは、大聖人様御一代三十年の御化導の所詮は、本門戒壇の大御本尊を顕わされたことであります。依って、大聖人様三十年の忍難慈勝の御化導を一つに括って「日蓮一期の弘法」と仰せられるのであります。

づづけて「此の本門戒壇の御本尊を白蓮阿闍梨日興上人に付嘱する。本門弘通の大導師(総大将)となって、この三大秘法を広宣流布すべきである。日本の国主たる時の天皇陛下が、この三大秘法を護持する時が来たらならば、富士山に本門戒壇を建立しなさい。あくまでもその時の到来を待つべきである。この戒壇を事の戒法というのである。就中我が門弟等は此の付嘱状に、決して違背してはならない」と。

次に三大秘法抄を拝する事にします。

「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」(弘安五年卯月八日)と。

この三大秘法抄は、先の「一期弘法付嘱書」と一対を為すもので、一期弘法付嘱書の助証として千葉県に住む門下の重鎮、太田金吾殿に、滅後の保存の意をこめて賜わった極めて重要な御書なのであります。この三大秘法抄には、本門戒壇建立の「」と、戒壇建立の「手続き」と、戒壇建立の「場所」を明確に御教示くだされた、本門寺の戒壇に関する最重要書と謂われるものです。

依って参考までに申し上げますと、御開山日興上人に賜わった「一期弘法付嘱書」だけで「三大秘法抄」が、仮に存在しなかったとなりますと、誰人が「一期弘法付嘱書」の存在を、あるいはまた、本門戒壇を信ずることが出来るでしょうか。後世の他門の難癖は謂うにおよばず、同門の日蓮門下の者からも、一期弘法付嘱書は偽書ではないか、との疑いを持つ者が現われて来て、将来無用の混乱が生ずる事を避ける意味から、この三大秘法抄を、強信の太田金吾殿に滅後の保存を託されたのであります。

その御事を大聖人様御自ら三大秘法抄に「予、年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留めおかずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶まじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺して候。一見の後は秘して他見有るべからず、口外も詮なし」と仰せられています。

上の御文を要約しますと、本門寺の戒壇=国立戒壇について、建立の「時」と「手続き」と建立の「場所」を具体的に書き遺して置かなかったなら、門家の遺弟たちが、日興上人に賜わった「一期弘法付嘱書なんて信じられない」あるいは「大聖人はどうして本門寺の戒壇について、我々が解るような御文をお残しにならなかったのだろうか」等々の無慈悲の讒言を加える者が出てくることになる。そうなってからでは何と悔いても始まらないので、太田金吾殿に遺言として本書を書き遺して置く。依って、三大秘法抄は一見した後は、堅く秘して他人に見せたり口外もしてはならない。と仰せられ、もっぱら今日のような、本門寺の戒壇=国立戒壇に関して疑義が生じ、世間が喧しくなった時に、三大秘法抄の存在を、始めて明らかにしなさいと厳命されているのであります。

それでは一節づつ通釈して見たいと思います。

はじめに、ここで仰せの「戒壇とは」広宣流布の暁の富士山天生原に建立される、本門寺の戒壇=国立の戒壇の御事であります。

次に「王法」とは、一口にいって国家の統治主権のことでありますから、民主政体の今日、この御文を端的に要約しますと、一国の政治を王法と謂うのであります。その王法が仏法の理念を取り入れ、仏法の教えが政治に反映された政治体制を、王仏冥合の政治と謂うのであります。

次に「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」と仰せでありますとおり、ここでは王臣一同と表現された御文の中に「万民」が抜け落ちているように思われますが、此の御文の中に万民が含まれているのは当然であります。王臣のみの国家は世界中の何処にも存在しないからであります。国家とは、必ず、王・臣・万民の三要素(条件)で構成されているのであります。しかし此処では、日本国の広宣流布は「万民」を含んだ実相の上からの表現であります故に、万民という文言は、敢えて省略されているのであります。

次に「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とは、かつて歓喜増益如来の末法に、正法まさに尽きんとする時、一人の正僧がいました。その正僧を覚徳比丘といいます。その時多くの無道心の悪僧たちがいて、覚徳比丘に悪心を懐き、杖や刀で迫害を加えて覚徳比丘の命を奪わんとしていました。その時の王の名を有徳王といいます。有徳王は覚徳比丘の命が奪われんとするを見て、無道心の悪僧たちと戦って、覚徳比丘の命を救うことが出来ましたが、有徳王はそのときの戦闘で全身に傷をこうむり、余命いくばくもなきところ、覚徳比丘は有徳王の護法心を讃嘆して「善きかな善きかな、王今まさに正法を護る者なり、当来の世に此の身正に無量の法器と為るべし」と有徳王の護法心を褒め称えました。有徳王は此の言葉を聞き、心は大いに歓喜して命終した後、阿閦仏の国に生まれて、仏の第一の弟子になりました。覚徳比丘もその後命終し、阿閦仏の国に生まれ仏の第二の弟子になりました。仏法を護るには斯くのごとき護法心が求められるのであります。

大聖人様は立正安国論に「若し正法尽きんと欲する事あらん時、当に是くの如く受持し擁護すべし」と御教示であります。亦安国論に云く「戦闘ありし者・歓喜ありし者・一切菩提の心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず」と仰せであります。こうした正法護持の戦が巻き起こる時、誰人がこの戦闘に加わり、誰人が歓喜し、誰人が菩提心を起して、阿閦仏の国に生ずる事ができるのでしょうか。

まさしく末法濁悪の未来日本国に、大聖人様の三大秘法が今に滅せんとする時、三大秘法義を正しく宣揚する覚徳比丘のような一人の正僧が出現する。それに対して、多くの邪義にまみれた今日の坊主らが正僧の命を奪わんとするを見て、有徳王の如き大旦那が顕れ正僧を助けようと熾烈な争いが起こる時と仰せであります。

まさに今日の宗門の姿を見るに、大聖人様の唯一の御本願であられる本門寺の戒壇=国立戒壇は完全に絶えて消滅したごとくになって参りました。この時、必ず、正系門家に一人の正僧が御出現せられ、正しく三大秘法義を宣揚し、国立戒壇を高らかと掲げる正僧がお出ましになられ、腐りきった今日の宗門の坊主らとの間に熾烈な法義論争が巻き起こり、やがて正僧の命が奪われんとする時、かつての有徳王のような護法心に燃える大旦那が現われて、かつての有徳王と覚徳比丘の古事を現代に移すような、事象が訪れると仰せであります。

次に「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続きの事であります。

この三大秘法の弘通が進み、上は天皇陛下から臣を含む広く万民に至るまで、本門戒壇の御本尊を守護するに於いては、国の命運を賭しても身命を惜しまぬ護法心と、国立戒壇建立の機運が日本の朝野に満ち溢れる。そのような時に至った時節に「勅宣並びに御教書を申し下して」と仰せの、二つの手続きを経て、本門寺の戒壇を建立せと仰せられています。

即ち、一には、時の天皇陛下から勅宣を奉戴し、二には、御教書たる国家意思の公式表明を以って、国家的に「本門寺の戒壇=国立戒壇」を富士山天母原(天生ヶ原)に建てなさい。と仰せられているのであります。大聖人様は本門寺の戒壇について、このような二つの手続きを経て立てなさいと仰せでありますが、この二つの厳重な手続きを経ない戒壇では、国家・国土の成仏はありえないのであります。

果たして正本堂は、そのような具体的な姿が顕現した時に建てられた戒壇だったのでしょうか? 何一つとしてこれ等の条件が満たされてはいなかったのであります。これを称して正本堂はニセ戒壇と呼ぶのであります。正本堂の何処に、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含んでいる実体が存在したのでしょうか? ここに日達の垂れ流す一流の嘘と欺瞞と邪義に満ちたインチキ性が顕れているのであります。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられています。

大聖人様から日興上人へ賜わった「一期弘法付嘱書」には「富士山に」と明確に御示しであります。日本第一の名山、富士山の中では南麓の景勝地、すなわち「天生ヶ原」に建てられる戒壇であります。

次に「時を待つべきのみ」とは、勘誡であります。

広宣流布の時も来ないのに、本門戒壇と称してニセ戒壇正本堂を建てることは、御遺命に違背している事は明らかであります。

繰り返すようですが、大聖人から第二祖日興上人へ付嘱された「一期弘法付嘱書」には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との御教示は、時の天皇陛下から勅宣を奉戴することであります。

日本の本有の国主であられる天皇陛下は、未だ入信すらされておられない。故に、紫宸殿の御本尊も護持しておられないのであります。たかが400万足らずの学会員と、わずかな法華講員(旧信徒)のみで立てた正本堂が、どうして広宣流布の暁の「本門寺の戒壇」と言えるのでしょうか? 

学会が正本堂の建設資金を集めた昭和40年当時、学会員は約400万人といわれていましたが、実際に正本堂の御供養に参加した人員は、100万人を割っていたかも知れないのであります。当時の日本の人口は、約一億三千万人だったのです。それを100万人足らずの御供養で、広宣流布達成などと坊主らは、連日連夜酒宴を張って、騒ぎ立てていたのであります。これはかつての舎衛の三億にも満たなかった少人数なのであります。

そこで宗門から発刊された「摧破異流義考」(P.49)によりますと、当時の日達管長の訓諭を解説して次のように説明しています。

云く「大石寺の正本堂には戒壇の大御本尊が御安置されており、大御本尊まします所は何時如何なる場所であっても『事の戒壇』」である等と、国立戒壇を否定するための己義を構え、更には「正本堂は、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた大殿堂」等と真顔で大宣伝していたのであります。また、百六箇抄の「三箇の秘法建立の地は富士山本門寺本堂なり」の御文を挙げて「正本堂は広宣流布すれば自動的に『富士山本門寺本堂』になる」という邪義を垂れ流し、ニセ戒壇正本堂の誑惑を正当化しようと企んでいたのでありますが、何とも救い難い無道心の坊主どもであります。

本門戒壇堂(ニセ戒壇)なる建物だけを先に建てておきなさい。等という御金言が何処に存在するというのでしょうか?

日寛上人は、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御座所は「義の戒壇」と定義されているのであります。また、広宣流布以前に、前以って戒壇を建てることの不可なる事を、御本仏大聖人様は、一期弘法付嘱書と三大秘法抄に「時を待つべきのみ」と重ねて御誠誡為されているのであります。要するに正本堂は明らかな御遺命違背のニセ戒壇だったのであります。

日達管長の後を継いだと称する悪僧日顕は、池田大作と本門寺の件で喧嘩の後、腹いせにニセ戒壇たる正本堂を早々と解体して白を切り、その跡地に奉安堂なる堂宇を信徒の浄財をかき集めて建てて、御開扉料稼ぎに狂奔しているのであります。

坊主らは、あくまでも御遺命違背を認めたくないため、次のように宣伝しています。

云く「日達上人が『正本堂は現時に於ける事の戒壇とされたのであるが、平成三年に大謗法化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に、本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた』」などと。正本堂は大聖人様の御心に適う正しい建物だったが、学会が謗法団体になったので「事の戒壇」の意義は失われた。として、一方的に学会の過ちばかりをあげつらって、自らは、まるで被害者の顔をして卑劣な言辞を弄しているのであります。

現今の宗門の坊主らは、完全に御遺命に違背しておきながら、ニセ戒壇正本堂の誤りを認めようとはぜず、創価学会と醜い喧嘩の挙句に、ニセ戒壇正本堂を解体し、後は野となれ山となれ式に、口を拭って平然としています。それでいて、未だに何等の検証も反省もなく、常に僧侶の無謬性を袈裟の権威で信徒をはぐらかし、決してその責任を取ろうとはしないのであります。あくまでも坊主らはその場を繕って正信の僧侶を演じているのであります。いま、宗門は大聖人様の御目を恐ろしとも思わぬ、出家とは名ばかりの禿人ばかりの巣窟となってしまいました。経に云く「常に此の言を唱えん、我れ羅漢を得たり」と。

羅漢とは、悟りを得た僧侶のことをいうのでありますが、今日の正系門家の大石寺には大欲不知足の坊主ばかりで、羅漢と呼ばれるような御僧侶は、一人として何処にも見当たらないのであります。

亦云く「経の意に背く間悪道免れがたし」と。こんな体たらくでは、坊主も信徒も堕獄は決して免れ得ないのであります。何故ならば「師は針の如く、弟子は糸の如し」とあるとおりであります。

一刻も早く上代の富士の源流に立ち返り、大聖人様の御本願たる国立戒壇を宣揚する宗門に立ち帰らなければ、宗門も国家も今に取り返しのつかないことになります。



宗門の国立戒壇復帰への闘いは遅くなるほど難しくなる

2017年11月10日 10時42分18秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.38~40)に「大石寺は将来の大本門寺」と題して、坊主らは次の如く記しています。

坊主云く「寺号は、地名をもって『大石の寺』と称されたが、日目上人への譲り状たる『日興跡条々の事』には、この大石寺について『大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり』(御書1883㌻)大石寺を整備拡充しつつ広宣流布に備えよ、と仰せられている。

それは、後に三十一世日因上人が、『広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし』(研究教学書十六巻71㌻)と仰せられ、また、四十四世日宣上人の御説法に、『今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す(世界の日蓮)』と仰せられいることからも、すでに四神相応の勝地を選ばれ、しかも、そこに建立した大石寺を整備拡充して広布の時を待て、と遺命された日興上人の御胸中には、この大石寺こそ広布の暁に大本門寺へと発展すべき根本道場である、との御構想があったものと拝せられるのである。

しかしながら、おそらくは日蓮大聖人が『後難を招く』ことを御配慮あそばされて『兼日の治定』を避けられていることからであろう。日興上人も、いまだ『大石寺が即本門寺となる』と断ずる表現は公に用いられず、前の『跡条々事』の御文のごとく、すべてを後継の三阻日目上人へと託されたのである。そして、七百星霜を経た今日に到るまで、日興上人の選ばれた大石ヶ原の勝地に、寺域を整備しつつ、大石寺は戒壇の大御本尊と歴代上人のまします聖域として存続してきた。

今日、大石寺の三門には、〝日蓮正宗総本山〟と記した大看板が掛けられているが、山号・寺号は何処にも掛けられていない。それは、富士大石寺の名称が地名をとって仮に用いられたものであり、やがて広布の時至れば、〝富士山本門寺〟を公称するが故である、と伺っているが、日因上人、日宣上人等御歴代の御指南のごとく、この大石寺が広布の暁に大本門寺戒壇となるべきことは、今日の状況からみて、もはや確実といえよう。また、それをめざして、さらに弘教に励み大石寺を外護していくことが、日興上人以来、御歴代の御意志に応え奉る道に他ならぬのである。

なお、浅井昭衛は、前掲の日因上人・日宣上人の御指南について、『これは、身延等の不相伝家諸山に対し、大石寺には戒壇の大御本尊ましますが故の御指南であり、大石寺が広布の暁を待って大本門寺となるという文意ではない』というような支離滅裂・意味不明の怪釈を加えているが、このような天をさして地というごとき珍無類の説は、口頭で一方的にまくしたてている中では取り繕えても、後になって物笑いの種になるだけである。

念のため申し添えておけば、日因上人は『富士記』中、身延や北山に対して大石寺を『当山』と仰せられ、広宣流布の時至れば、その『当山』をもって『多宝富士大日蓮華山本門寺』と号せよ、と仰せられたのであり、また日宣上人の『世界の日蓮』中の御教示は、三歳の赤子でもわかるように、今は『多宝富士大日蓮華山大石寺』であるが、広宣流布の時至れば、『本門寺』と号するのである、と明確に仰せられているのである。

これが全く逆の意味に読めるとすれば、すでに浅井昭衛は、永年にわたる宗門誹謗の失によって頭破七分しているのではないか。浅井の側近幹部は、一日も早く、強引にでも、浅井に精神鑑定を受けさせた方がよい。衷心より忠告申し上げておく」等と。

坊主らの悪言によると浅井昭衛氏は、自らが思いつくままの独断で、日因上人・日宣上人の御指南を頭から否定した如く書き連ねていますが、仮に浅井氏の発言にそうした事実があるとすれば、何時いかなる場所での発言か、その発言の論拠を明らかにすべきであります。それを明らかにできない非難や攻撃は坊主らの作り話としか言いようがないのであります、仮に、そうした発言があったにせよ、浅井氏の発言は、意味不明な話でもなければ、支離滅裂な話でもありません。また逆の意味に読んだ訳でもありません。

ただ浅井氏は、日寛上人が報恩抄文段の中で「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と御教示せられた御文を根拠とし、また四十八世の日量上人が「本門寺に掛け奉るべしとは、事の公布の時、天母原に掛け奉るべし」と仰せられている御文を衣文として、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇建立の場所について言及したものであります。それをいきなり「浅井の側近幹部は、一日も早く、強引にでも、浅井に精神鑑定を受けさせた方がよい。衷心より忠告申し上げておく」とは余りにも短絡的で、品格が重んじら坊主らの言葉としては、少々言葉か過ぎるのではないかと思います。

坊主が引用した日因上人が記された『富士記』の中の御文、あるいは日宣上人の『世界の日蓮』に記されたいずれの御文も、天母ヶ原戒壇説を否定された文証にはなってはいません。ただ現在の大石寺が、広宣流布の暁には、本門寺と号すると仰せにならているだけであります。坊主の言うことに従うなら坊主にも精神鑑定を受けさせなければならなくなりますが、そう言う坊主の頭は大丈夫なのでしょうか!

また日宣上人の『世界の日蓮』には、次のような御文があります。「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇堂を建立ある」と仰せられている御文さえ存在するのであります。

今更坊主らの事なかれ主義をあげつらうつもりは毛頭ありませんが、かつての坊主らは、池田大作の鼻息をうかがい阿諛追従して、邪義を欲しいままに垂れ流し、正系門家の信心を根底から破壊して今日の体たらくをもたらしているのでありますが、その坊主らが今頃になって、口先では驚くべき変貌の姿を見せているのであります。これが政治のような形而下の問題ならば、日常的に権謀術数の渦巻く世界のことだからそれも致し方ない問題かも知れませんが、事が宗教となれば、これは形而上の問題であります。いやしくも、彼等が御本仏日蓮大聖人様の嫡流を誇る、富士門流日蓮正宗の僧侶を自認するだけの真っ正直な信心の欠片さえあるならば、常に絶対的な正義が要求されるのは、今更指摘するまでもない話であります。

然るところ日達管長・池田大作に諂った坊主らの行状に思いをいたせば、本門寺の戒壇=国立戒壇に関する池田大作の教義歪曲を指摘する僧侶は、約一千人を超す日蓮正宗の僧侶の中に残念ながら一人もいなかったという事実であります。それを掣肘するどころか、阿諛迎合して教義違背に積極的に加担して悪知識を刷り込み、純真な信徒の信心を誤らせて堕獄の道へ導いた罪は、日達管長と池田大作の犯した罪に決して劣るものではなかったのであります。その罪を懺悔せずして、何が「浅井の側近幹部は、一日も早く、強引にでも、浅井に精神鑑定を受けさせた方がよい」とは、いったい何事ですか! 一寸先の見えない凡夫の目はごまかせても、三世了達の大聖人様の御目を誤魔化すことは絶対にできないことを知るべきであります。

池田大作と日達管長の国立戒壇に係わる教義違背を制止すべ立場に有る者たちが拱手傍観どころか、池田と日達管長がまき散らす邪義に肩入れしたとあっては、後になって誰人を咎めたところで、何の権威が付くものではないことを承知すべきであります。

あの当坊主らの大半は、一ニを除いて全部の坊主らが、経済的に豊かで不安のない生活が保障される限り、池田と創価学会の教義歪曲には目をつむってきたばかりか、諂いに諂いを重ねて、池田の教義違背や発言にオーソリティ(権威)を与えたりして、箔付けさえしてきたのであります。

ところが最近の坊主らは、創価学会との長年の銭ゲバ問題が一段落して、妙信講につづいて、創価学会も信徒団体としての資格を剥奪して袂を分ちた後は、諂う者も居なくなり、何とか目先が見えて来るようになったと思ったら、今度は袈裟の権威を笠に着て信徒を睥睨し、肩で風切るような傲慢な態度で横着に構える姿は、ヤクザのそれを連想するのであります。相手の姿が見えなくなり、あるいは相手がチョットでも弱身を見せたり、自分たちの方が有利と見るや、トコトン相手を追求してやり込める姿は、ヤクザとどれほどの違いがあるというのでしょうか、是れを称して畜生と呼ぶのであります。

いま宗門は、国立戒壇を永久放棄する元凶となったニセ戒壇正本堂は取り壊わして影も形も無くなりました。しかしながら教義歪曲は依然として当時のまま、寸分の違いも無く継承され、全ての坊主らは何食わぬ顔して何事もなかったかの如く、過去の事には完全にほおかむりを決め込んで平静を装っておりますが、いやしくも僧侶の世界でそんな卑怯なことが許されますか! 仏法とは科学そのものであって、過去・現在・未来の三世にわたる因果の法則性を説いた哲理は、誰人も否定でき得るものではではなく、因果応報の報いは、時が経てば己が犯した罪が消えて無くなるというものではありません。蒔いた種は必ず、自らが刈り取らなければならない輪廻流転の連鎖からは逃れる術はないのであります。

大聖人様は、開目抄に謗法の罪科について「生死を離るる時には、必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり。これ等の重罪は深重なり」と。つづけて「無道心の者生死をはなるる事はなきなり」と仰せであります。それを思うならば、馬鳴のごとく、世親のごとく、我が身が滅却すほどの心労を尽くして、懺悔滅罪を願わずには居られない筈であります。

そうした中で我が身の犯した仏法違背の罪の深さに日夜苛まれた末に、いたたまれなくなった一人の坊さんが、大聖人様の御本願はどこまでも国立戒壇にある事に気づいて正信に覚醒し、それが二人、三人、百人へと広がって、やがて御開山日興上人・日目上人当時の富士の清流を取り戻し、宗門が再び国立戒壇を叫ぶ時がおとずれるのではないかなどと、淡い期待を懐いている坊さん達も存在するものと思われます。特に、顕正会から宗門へ鞍替えした法華講員の中には、大聖人様の御遺命は、唯一国立戒壇である事を骨身に染みるほど打ち込まれてきただけに、近い将来宗門が、国立戒壇に復帰する日も近いのではないかと、大いなる期待を寄せて、坊さんの下(もと)で信心に励んでいる方々も多くいらっしゃるものと思われますが、残念ながらその期待は完全な的外れで、間違った認識だと指摘しておきます。

日蓮正宗が上代の御開山日興上人、日目上人等の御在世当時の清らかな信心を本気で取り戻さんとする時には、先ずはじめに主務官庁に対して改めて、正々堂々と国立戒壇復帰への届け出を済ませて闘いに臨むべきであります。その次に、今日の濁りをもたらした六十六世の日達管長と、六十七世を継いだ日顕管長の垂れ流しつづけて来た邪義の数々は、微塵も残すことなく、全て一掃されなければならなりません。またその邪義を先導した者、あるいは邪義に追従して、純真な信徒の信心を狂わ坊主らの責任を追求するのは当然のこととして、徹底して教義歪曲の動機と経緯を検証しなければならないのであります。

ある日、気がついたらいつの間にか、宗門全体が富士の清流を取り戻し、国立戒壇を叫んでいたなんて、そんな虫のいい話は許されないし、絶対に有り得ないのであります。それは他ならぬ日蓮正宗は、御本仏大聖人・御開山日興上人直系の流れを汲む宗門ゆえの正系門家の責任として、どんな恥を忍んででも、時の管長猊下が信徒団体の及ぼす圧力に屈して、教義歪曲に進んで加担してきた歴史的事実を明らかにし、後々のために宗門の歴史として包み隠さず書き記して後生に残しておくという、難しい作業が残されていることは云うまでもありません。

それは兎も角として、当時の宗門を振り返れば、池田大作が描く鎧の下に隠された権力欲には、全く気付かなかったのか、あるいは気が付かないふりをしていたのかは神のみぞ知るで、猊下は直後には大聖人様の御本願であるところの国立戒壇を高らかに叫んでいました。

日達猊下云く「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられん事を願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

亦云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

また池田大作の云く「宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ。歴史は、専制、独裁政治より、主権在民の政治に移り、最高の世論が、議会に反映されてゆく方式が、始めて正しい仏法を守り、流布してゆくことになるのである。それには、同志を沢山議会に送らなければならない」(大白蓮華 昭和34年1月号)と。

つづけて「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのであります」(大白蓮華 昭和34年6月号)と。

亦云く「所詮、王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は、日蓮大聖人の至上命令である。だれが、なんと批判しようが、末法の救世主日蓮大聖人の大精神おば、われわれ地湧の菩薩は、断固選挙を通して貫き通そうではないか。しこうして、われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒をすすめるものであはない。参議院並びに、地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである」(大白蓮華 昭和36年6月号)と。

創価学会の選挙は「日蓮大聖人の至上命令」と教えられた学会員は燃えに燃え、家事や仕事を放り出して選挙戦になだれ込んで行ったのであります。学会の選挙は広宣流布のため、国立戒壇建立のため、選挙戦を闘うことは折伏の功徳と全く同じ、一票を獲得することは日蓮大聖人の御意に叶うと信じたのです。それに気をよくした池田と創価学会文化局政治部は、36年11月11日、公明政治連盟を結成した後、わずか三年足らずで前言を翻し、池田大作は次のような講演をしています。

云く「公明政治連盟を一歩前進させたい。公明政治連盟おば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合の達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて.、政党にするもよし、衆議院に出るもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。・・・・恩師戸田先生も時がきたならば衆議院にも出よとのご遺勲があったのであります」(聖教新聞 昭和39年5月4日号)と。

そうして昭和39年11月17日、学会員が待ち望んでいた公明党の結成に至るのであります。

ところがこの頃になると、ようやく世間が騒がしくなり、創価学会の選挙に対する非難、あるいは国立戒壇に対する非難が日毎にやかましくなり、評論家の村上重良氏をはじめとする笠原一男氏らが、創価学会が主張する、国立戒壇は政教分離を定めた憲法違反に当るのではないか、との問題が提起され、世間は騒然となってまいりました。

また、昭和45年になると、日本共産党の谷口善太郎氏からは、衆議院議長宛てに、創価学会の選挙、あるいは公明党の国立戒壇の主張に対して「質問主意書」が発せられ、民社党の塚本三郎委員長を中心としたグループが、池田会長を国会に喚問して、国立戒壇の真義ついて、直接問い糾そうとの動きも出て参りました。

そうした世間や国会の動きが思わぬ展開になってくると、日頃から慢心の頂点にあった池田大作が、眼を泳がせ、顔色を失うほど狼狽して臆病風に吹かれて逃げ隠れする姿は、滑稽をとおりこして面白いほど哀れな姿だったのです。彼は常々側近幹部を前にして、こんな言葉を口にしていたのであります。

云く「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」高瀬広居(人間革命を目指す池田大作その思想と生き方)と。

そんなある時、御書の中のこんな一節を思い出しました。

「強敵に値ておそるる心出来するなり。例せば、修羅のおごり帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、云々」(富木殿御返事)と。亦、寛尊は三重秘伝抄に「修羅は 身長み のたけ 八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず」とお示しでありますが、その修羅が、帝釈に攻められると小身となって、蓮の穴の中に逃げ隠れたのだそうです。

昭和45年4月14日、池田大作は、急遽、総本山から早瀬総監と阿部教学部長を学会本部に呼びつけて、宗門から国立戒壇を永久的に放棄させるべく、慌てて次のような緊急の申し入れをしています。

池田「国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人にも現猊下にも国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠の蒐集)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方がよいと思うがどうか。もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になってしまう」

早瀬「非常に重大である。充分猊下にお伝えし、申し上げる。その上でご返事をする」

池田「非常に急ぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」等として、国立戒壇の永久放棄を迫っているのであります。

こうして当時の宗門は、創価学会の池田大作が要求するままに、昭和45年4月23日、国立戒壇を永久的に放棄する旨の回答書を学会と共同で作成し、次のような邪義を書き連ねて国家を欺いたのであります。

1、「本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

2、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和四十七年十月十二日に完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

3、一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。」等と。

そもそも、日蓮正宗が教義歪曲を始める発端となった根本原因は、創価学会の政治・選挙にあったのでありますが、宗門は学会の理不尽な要求に二つ返事で応じ、大聖人様の戒めに背反して仏法違背を重ねてきたのであります。しかしながら、富士門流の日蓮正宗が、いつまでも濁ったままの存在は、大聖人様が決してお許しにならないのであります。

今日の謗法にまみれた宗門が正信に覚醒する日は何年先の事になるか分かりませんが、本気で宗門が国立戒壇復帰へ向けて教義論争を始める時には、国立戒壇を主張するブループと、国立戒壇に反対するグループとの間で、一山を挙げて、正邪を決する熾烈な教義論争が展開されなければならないという事であります。そうした双方の教義論争は、全国民注視の中で行われるべきで問題であって、必ず、公開すべきものであります。それほど正系門家日蓮正宗の教義歪曲は、国家の存亡に係わるほどの深刻且つ重大な問題をはらんでいるのであります。そうした中で、国立戒壇にどこまでも反対する坊主らは、一人残らず僧籍を剥奪して宗門から永久追放しなければならないのであります。

まさしく国立戒壇復帰への教義論争は、口で言うほど容易い闘いではありません。国内は勿論、海外信徒の動揺と反対運動は想像を超えた騒動になる事は間違いないでしょう。特に、反日・侮日の韓国朝鮮人の正宗信徒の間では、大きな反対運動が展開されることは容易に想像できます。かつて国立戒壇を放棄する時の理由のなかに、韓国朝鮮人の正宗信徒への配慮があったともいわれています。

その一つが、正宗信徒が行う初座(東天に向かって行う)の勤行の観念文のなかに、次のように記された御文がありました。

「生身妙覚自行の御利益、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩等・総じて法華守護の諸天善神、諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に」とありました。

ところが宗門は、彼らの意向を忖度して「天照大神・正八幡大菩薩」の十文字を削除してしまったのです。初座の観念文の改竄は、国立戒壇永久放棄と併せて宗門が自発的に行ってしまったのです。

そこで大切な十文字を削除した理由を浅井昭衛氏から問い糺された宗務院の高僧達は「これは韓国向けの経本だ」等と理屈にもならない遁辞を構えて逃げてしまったそうですが、その教本が現在、全国的にそのまま使用されているのであります。おかしいですね。誰からの咎めも指摘もないうちから、宗門は韓国朝鮮人の存在を口実にして、世間に対するお得意の諂いが始まっていたのであります。

そもそも天照大神は、日本国の皇室の先祖と謂われている日本国古来の守護神と称されています。また八幡大菩薩は、第十六代応天皇の事で、百代の王(皇室)を守護する為に、釈尊と固い約束を交わした守護神と謂われ、法華経本門に来て、諸天善神の中枢格に位置する大切な神々となっているのであります。

これらの諸天善神は、三大秘法の題目を食して働きを増すと言われています。したがって、我々が唱える朝夕の題目を食して「諸天昼夜常為法故而衛護之」つまり「諸天は昼夜にわたって常に法の為の故に、而も之を衛護す」と誓っているのであります。そんな大切な神々を観念文から削り取ってしまったのでは、とんでもない事となり、私どもが頼りとする天照大神・正八幡大菩薩の衛護の利益は受けられなくなってしまいます。

それに韓国朝鮮の人々が国立戒壇復帰に反対するもう一つの理由として、日本国の天皇陛下の尊号にあるとも云われています。

元々朝鮮という国号は、明の皇帝、朱元璋から下賜されたものと云われています。明の冊封下にあった朝鮮王朝の太宗も、明の朱元璋皇帝の尊号にならって、朝鮮の「皇帝」と呼ばれていました。中華思想の事大主義に染まった韓国朝鮮の人々は、小中華主義を標榜する民族として、勝手に自分たちは日本人の兄貴分だと決めつけています。したがって日本人は韓国朝鮮人の弟分に当る分際でありながら、何故に、日本の国主の尊号を皇帝の皇の上に「天」を付けて天皇と呼ぶのかなどと、因縁をつけて日本の天皇を侮蔑しています。

それらの理屈にもならない屁理屈をつけて、韓国朝鮮人は日本人より一段高いところにある優れた民族として位置づけていますので、反日・侮日の韓国朝鮮人の正宗信徒たちは、天照大神や八幡大菩薩を崇めることは生理的に許せないのかも知れません。それらが災いして、国立戒壇復帰への反対運動が至難の作業になることは容易に想像できます。彼等は、日本国の皇室の存在を快く思っていないために、日本国の天皇陛下を「日王」などと、事ある毎に蔑称しているのであります。

天照大神や八幡大菩薩等の諸天善神の本地を尋ねれば、日眼女釈迦仏供養事には「天照太神八幡大菩薩も 其の本地は教主釈尊なり」とありますように、韓国朝鮮の人々には、天照大神・八幡大菩薩は、教主釈尊の垂迹示現した姿であることから教え直さなければなりません。それだけに、国立戒壇復帰への道のりは遠いのであります。

それはそれとして、この機会に一言申し上げれば、観心本尊抄には次のような御文があります。「今本時の娑婆世界は三災を離れ、四効を出でたる常住の浄土なり」とあります。この御文の意味するところは、大宇宙も地球も懸遠・永劫の時間をかけて、成・住・壊・空の四効を繰り返しているということであります。したがって、壊効の時がくれば地球も日本の国土も共に壊われ、やがて空効の時を経て無相の状態となります。しかし成効の時が至れば、再び地球と共に現在の国土も涌出して、本の姿を現ずるというのであります。その時、日本の国土は再び「日本」と名付けられる。これを仏法では「自然感通」と云います。

天台大師はこの流転の実相を法華文句を釈して「問う、効火洞然として天地廓清す、いかんぞ前仏・後仏此の山に同居し給うや。答う、後の効立に、本の相還って現ず、神通を得たる人・昔の名を知って、以て今に名付けたるのみ」と釈しています。

世界の名山たる富士山は、群名をとって富士山と呼称されていると云われていますが、本来、富士山の正式名称は、多宝富士大日蓮華山と謂われるものです。その多宝富士大日蓮華山は日本国土の涌出と合わせて涌出し、三大秘法が広宣流布する時を事前に八葉の蓮華の姿を現じて「事の戒壇」たる国立戒壇の建立を待ち受けているのであります。またアマテラス・オオミカミ(天照大神)の降臨は、印度応誕の五百塵点本果の釈尊が、日本国の皇室の先祖として垂迹示現して本有の国主となられ、三大秘法が日本国の国教として用いられ全国民から尊崇され、多宝富士大日蓮華山の麓に広がる広漠たる天母ヶ原に国立戒壇が建立される時に、前以て勅宣を発せられることを使命とせられて、日本国の永遠の安泰を願われていることを本願とせられている事を知らなければならないのであります。

大聖人様の仰せに云く「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と。亦云く「戒壇とは、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。御開山上人云く「本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし」と。

その時の国主は、無辺行菩薩の垂迹日興上人・日興上人の後身本化聖天子。御座主は、浄行菩薩の垂迹日目上人の再誕と謂われています。同上人の申状に云く「日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」と。

したがって三大秘法の広宣流布の暁に建立される富士山天母ヶ原の国立戒壇は、いかなる権力も、いかなる民族も、誰人も抗しきれない必然であり、人智の及ばない御本仏大聖人様の御所作であれば、客観情勢をつくられ、必ず実現する事になっているのであります。

その事を「ただおかせ給へ、梵天・帝釈等の御計らいとして日本国一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」(上野殿御返事)と仰せ遊ばすのであります。

それと併せてもっとも大切な事は、大聖人様が種種種御振舞御書で「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず 、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり」と仰せられる御金言の真の意味が、国立戒壇に反対している今の坊主らには、残念ながらまったく理解できていないのであります。

この短い御文の中に「日蓮は日本の人の魂なり」とあるごとく、時の天皇陛下の勅宣と御教書たる国家意思の表明を闡明にして、富士山天母ヶ原に国立戒壇を建立し、戒壇の大御本尊様を国家的に尊崇申し上げることに依って、日本国の魂は戒壇の御本尊となって、仏国が実現するということであります。仏国となった日本国は毎年のように繰り返される自然災害はもとより、政治は慈悲を根底にした国民のための善政が施され、戦争・飢餓・疫病、凶悪犯罪等々の災禍の数々は、三大秘法の防非止悪の秘術により夢のように跡形もなく無くなり、来る年も来る年も五穀は豊穣に実り、五風・十雨といわれるような、五日に一度そよ風が吹き、十日に一度しとしとと雨が降るといった、人類史上未だ誰人も経験した事のない繁栄のつづく、未曾有の長閑な平和国家が現出する事となるのであります。

それはまさしく如説修行抄で仰せられる「吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかざず、代はぎのうの世となりて、今生には不詳の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」の御教示が事相となるのであります。

その事を安国論には「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊なくんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」と。

亦云く「早く一闡堤の施を止め、永く衆僧尼の供を致し、仏海の白浪を収め、法山の緑林を截らば、世は義農の世と成り、国は唐虞の国と為らん」と旅客の言葉を以って仰せられるのであります。

こんな素晴らしい日本という国家に、生々世々再び人間として生を受けたいと思うのは、世界の人々の偽らざる願望だと思います。







坊主が展開する正論も本気度が試される(其のニ)

2017年10月18日 03時51分45秒 | 亡国の坂道 
坊主らは「摧破異流義考」(P.36~37)に「兼日の治定は後難を招く」と題して今回もまた、三大秘法抄と一期弘法抄、百六箇抄等の御文並びに三位日順師の「心底抄」を引用して、本門寺の戒壇=本門事の戒壇建立の場所・時・手続・規模・建築様式・形状・並びに手順等について、万人が然るべきなりと納得し、感歎せしむる正論を披瀝していますが、有り難いことですね。富士門流日蓮正の坊主もまんざら捨てたものではありません。

云く「さて、『三大秘法抄』『一期弘法抄』また『百六箇抄』等を拝するかぎり、大聖人は、戒壇建立の勝地は富士山下である。とだけお示しあそばされて、それ以上、具体的に、どこそこに、どういう方向で、どのような形をもって建立せよ、とまでは述べられていない。

その理由については、日興上人の御弟子で、『五人所破抄』の著者として有名な三位日順師が、『本門心底抄』に『戒壇の方面は地形に随うべし、国主信伏造立の時に至らば智臣大徳宜しく群義を成すべし、兼日の治定は後難を招くに在り、寸尺高下注記すること能わず』と述べているごとく、戒壇の建立は将来に属することである故、あらかじめ詳細を限定することを避けられたものと拝せられる。

さらに、これにつき五十九世堀日亨上人の『富士日興上人詳伝』には、大聖人は、本門戒壇のあるべき所を『富士山』と定めて日興上人に内示せられたけれども、将来のことであるから、『三大秘法抄』にも『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を』等と下総の太田殿にしめされたと。すなわち、本門寺戒壇の御遺命は将来に属する事柄である故に、『富士山』という御構想を、御相承書たる『一期弘法抄』及び『三大秘法抄』をもって日興上人のみに内示せられ、太田殿に与えられた『三大秘法抄』においては、あくまでも慎重を期されて『富士山に』という広い地名すら伏せられているのである。

いわんや、戒壇建立のさらに具体的な場所(例えば何群・何村・何字というような場所の限定)、方角、建築様式等については『兼日の治定』を避けられた、と拝するのが当然といえよう。かくて大聖人は、『富士山に本門寺の戒壇を』という御内意を唯授一人の付弟日興上人に示され、その実現を後世に委ねられたのである。
」と。

今まで散々邪義を垂れ流して坊主らは今頃になって我が意を得たりとばかり、本門寺の戒壇=本門事の戒壇について、一期弘法抄や三大秘法抄を拝した上で尤もらしい正論を述べていますが、それならば何故に、ニセ戒壇正本堂を建てる前に、一期弘法抄と三大秘法抄の御教示を振り返り、三位日順師が心底抄で示された本門寺の戒壇堂の建立について記された教科書とも云うべきお手本を一顧だにする事もなく、かくも無謀な暴挙をやってのけたのでしょうか! ニセ戒壇正本堂なるものは、一期弘法抄、三大秘法抄、心底抄でお示しの御聖文を悉く破壊し、大聖人様の御本願に真っ向から背反して建てられた、化け物のような建物だったのであります。

その正本堂なる建物を本山の境内に建て、是れを寄進することを最初に申し出たのが、彼の創価学会の池田大作だったのであります。

昭和三十九年五月三日、創価学会の本部総会において池田大作は、今度総本山に正本堂を寄進したいと思うとして「総本山日達猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・ 正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇の建立を待つばかりになります」(本部総会 昭和39年5月3日)と。

日達猊下はその話を受けて、翌年の二月十六日「この度、池田会長の意思により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います。・・・ さて、正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置もうしあげるかということでございます。過日来、いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせてがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えをもうしあげておきたいのであります。」(昭和40年2月16日 正本堂第一回建設委員会)と。

日達猊下のこうした勿体ぶった発言に奇異な感じを深くしたのは拙者ばかりか、おそらく一度でも総本山に参詣して本門戒壇の大御本尊の御開扉を受けた者、あるいはまじめな信徒の大半は、猊下の仰せられるお話に大いなるいぶかしさを覚え、疑問と違和感を強く感じたのではないでしょうか。

池田大作は「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇の建立を待つばかりになります。」等とした発言からすれば、この先、広宣流布が達成されるまでの間、我々信徒が宗門の伽藍建立に対して、御供養に参加できる建物としては「正本堂」が最後の建物と発言しているのであります。

仮に、そうだとするならば、これまで御開扉の時に使用されていた奉安殿は学会員の爆発的な増加によって狭くなり、毎回行われる御開扉の時などは、御開扉が始まる前に整理班の者から「もう少し詰めてください」との掛け声が何度も繰り返され、いい加減スシめ状態になった中で整理班の者から再び声が掛かります。こんどは「全員一度起立してください」との声が掛かり全員が起立させられます。そして「まだ座ってはだめです。もう少し詰めてください」が繰り返され、もうこれ以上詰めることができない立錐の余地のなくなった次の瞬間、「前の方から順にお座りください」と声が発せられると全員でドドドット座るのです。そうした次の瞬間、前の列に並んだ人が下手をすると後ろの人の膝に座ってそのまま動けなくなり、「イテテテッ・ごめんなさい」などと、あちらこちらで謝ったり、怒鳴り声をあげて騒いでいるうちに御開扉が始まるという、それこそ、毎回窒息するほどのすしずめ状態のギスギスした中で行われていた当時の御開扉の情景を思い出すのでありますが、修羅界から始まった御開扉が御本尊と境智冥合するどころか、修羅界のままで終わるという、そうした状況を改善するには新しくできる正本堂は充分な広さを確保した建物にして、全員がゆとりを以って御開扉が受けられるよう、絶対に本門戒壇の大御本尊を御安置する以外には、方法はなかったのであります。

それを勿体をつけて「どの御本尊を安置もうしあげるかということでございます。過日来、いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせてきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えをもうしあげておきたいのであります」とは、余りにもばかげた話だったのでありますが、日達管長のこうした発言の裏には、驚くべき陰謀がかくされていたのであります。

それを裏付けるように、昭和40年2月16日に開かれた第一回建設委員会に於ける池田大作の発言は「正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」などと驚くべき発言をしていますが、当初の話では、新しく寄進する建物は、今迄の奉安殿の延長線上の建物だった筈が、突如として変更され「正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」と言い切っていますが、当初の話と比べたら天地の開きがあるほどの変化が見てとれます。

それを受けて日達管長の同年の5月3に日に開催された創価学会の本部総会での発言では「戒壇の大御本尊を安置し奉るところの正本堂」等と述べ、さらに法華講の集会に於ける発言に至っては「大客殿の奥深く戒壇の大御本尊を安置し奉ることは、本宗の相伝であります」(昭和40年8月)などと、相伝という話まで持ち出してきて、今まで「勿体をつけてどの御本尊を安置もうしあげるか」などといっていた話とは打って変わって、新しくできる正本堂には、絶対に本門戒壇の大御本尊を御安置する以外にはないという話にすり替わっているのであります。池田大作の正本堂寄進の申し出から数ヶ月を経た段階で、すでに正本堂は実質上広宣流布の「事の戒壇」へとすり替えられていたのであります。

その上池田大作が宣言した発誓願文には、正本堂を自賛して云く「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」等と。こうした大それた池田大作の発言を承けて、学会の主要書籍には、誑惑の文面で埋め尽くされるようになったのであります。

云く「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」(仏教哲学大辞典)と。

亦云く「正本堂の建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり世界にいまだ曽てない大殿堂である」(同前)と。

日達管長も負けじとばかり「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号)と。

驚きましたね。事の戒壇とは、まさしく広宣流布達成の暁に富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である筈なのに、日達管長は大石寺の境内の外れにあった信徒の墓地を掘り起こして建てられる正本堂を指して「正本堂が完成した時は広宣流布だ」と明言しています。この発言は、矛盾の最たるものでありますが、こうした文面は、正本堂の完成時に「王仏冥合・広宣流布は達成したと」宣言する為の伏線だったのであります。もちろん、言うところの王仏冥合も広宣流布もこじつけであれば、すべて、でたらめであることはいうまでもありません。

そうした二人のミスリードがつづく中で、昭和40年9月に発布された正本堂の供養勧募に係わる訓諭では「日達、此の正本堂に本門戒壇の大御本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大偉業に随喜して自らの資力の限りを尽くして供養し奉り、信心の一端を抽(ぬき)んでられんことを望む」等とした訓諭が発布されたものだから僧俗信徒は今生人界の一大事ととらえ、ある者は結婚式の費用を御供養にまわし、ある者は食費を切りつめ、またある者は質屋に行列をつくり、それこそ私力を尽くして正本堂の建設資金の拠出に応じたのであります。当時としては万人の想像をはるかに超えた、三百五十億円もの大金を10月9日~12日のわずか四日間で集めて、大銀行と世間を、あっと驚かせているのでありますが、これらの大金は目録の授受だけで、一銭なりとも本山には渡ってはいなかったのであります。

そうした中で行われた正本堂発願式に於いて、宗門を代表して坊主が発した祝詞を紹介することにします。いわゆるニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」とする誑惑に、当時の高僧といわれていた坊主らが有無を云わさず、如何に与同していたかを知る貴重な資料として記しておきます。

早瀬道応「前代未聞、後代にもなき、正本堂建設発願式に会い遇うことを得て、我等は誠に地湧の眷属たりと、感激に堪えない。・・・ 我等僧俗は未曽有の此の盛儀を契機として、更に心を新たにし、猊下と先生の姿を鏡として、倍々よき弟子とよき門下との僧俗一致をなして仏道に精進せんことを茲に重ねて誓いあうものである」

阿部信雄「宗祖大聖人の御遺命である正法公布事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領総講頭池田先生のお示しになったそれは、正に日本乃至世界公布の為の顕現であり、仏法史上否世界の歴史の上に絶大な意義を持つものと拝察する。惟えば歴代の御先師と幾多の先徳が夢寐にも忘れず、生命かけて守護され、念願して来られた正法公布の時が、そして無比の大仏法によって全世界の民衆が真実の平和と安穏を得る時が、方に来たのである。吾々僧侶として此の大偉業の驥尾に付し、参加しうる時代に生まれ合わせた事を心より感激するものである」

藤本栄道「私共は、子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如く考えて負ったものでありますが、それが私共の時代に、先ずもって『戒壇建立』の実現を見ることが出来るということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」と。

ここでいう藤本栄道師の祝辞の中に「私共は、子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如く考えて負ったものでありますが、云々」とありますが、この行(くだり)の指摘こそ最も印象に残る大切な文言なのであります。今日の宗門の現状を振り返って見る時、坊さんの誰一人が、信徒の誰一人が、広宣流布を叫び、戒壇建立を叫ぶ者が存在するでしょうか、誰人もこれらの言葉を口にし、あるいは耳にする機会もなくなり、何処を探してもいなくなって参りましたが、こうした堕落した姿こそ、宗門が国立戒壇を永久放棄した大失態よって、広宣流布への情熱と、戒壇建立への目標を失った異常な状態に置かれている何よりの証拠なのであります。

今、宗門は平成三十三年、すなわち「御本仏大聖人様御生誕八百遠忌を目指して法華行員八十万人体勢の構築」という御命題の達成を目指して、折伏・育成を叫び、日如管長をはじめ、全国末寺の坊主たちは声を枯らして法華講員にハッパを掛けるなど、必死の様子が「大白法」等で伝えられていますが、果たしてその目標を達成することができるか否か、その成果が危ぶまれるところでありますが、こうした姑息な目標は、完全に間違っていると指摘しておきます。何故に、正々堂々と大聖人様の御本願たる国立戒壇を叫んで、来たるべき八百遠忌の慶事に備えないのか、余りにも姑息、余りにもバカげた姿であります。

平成22年1月10日、法華講員50%増を御開山日興上人御生誕770年遠忌の平成27年までに、法華講員80万人体勢の構築を大聖人様御生誕800遠忌の平成33年までに達成、という御命題を発した坊主は、国立戒壇を目の敵にして反対した、彼の有名な、六十七世を継いだ日顕という悪坊主だったので在りますが、是れを称して、仏作って魂入れずと申し上げたいのであります。

また「国立戒壇は布教の妨げになるから捨てる」等と云って世間に諂い、永久放棄を宣言したのは日達管長だったのですが、終戦直後の昭和21年7月、戸田城聖氏が創価教育学会を再建して国立戒壇の旗を高々と掲げて折伏戦を展開して以来、その後を継いだ池田大作が昭和45年5月までの四半世紀足らずの僅かな間に、前人未踏の八百万世帯という未曾有の折伏を成し遂げた最大の原動力は、国立戒壇にあったのでありますが、それを放棄した途端、創価学会は広宣流布に対する大目的と、折伏に対する大情熱は完全に雲散霧消してしまいました。

いま、何をさておいても、一刻を争って、大聖人様の御本願たる国立戒壇を取り戻さなけらばならない時に、それを放棄した折伏・育成を掲げた活動の中では、宗門に法華講員八十万人体勢の構築は可能か、あるいは不可能かはと兎も角として、国立戒壇建立への目的を失った烏合の衆たちの確信のない無目的の弱々しい活動では、広宣流布は永遠の夢物語となって、宗門が再び輝きを取り戻すことは絶対に有り得ないのであります。立正安国論で仰せの如く、大聖人様の本願たる国立戒壇を速やかに取り戻し、それを宗門の公論として力強い折伏戦を展開しないかぎり、国も個人も今に取り返しのつかない大変な事になります。

種々御振舞御書に云く「かかる日蓮を用いひぬるともあしくうやまはば、国亡ぶべし」云々と。

亦云く「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)と。

つづけて佐藤慈英「この儀式は七百年来の大聖人の御遺命を成就する正本堂の建立を大願主池田先生が発願する厳粛な儀式であり、仏法史にもその例を見ない画期的な盛儀でございます。而してこの正本堂建立は、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼陀羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と、御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」

宮沢慈悳「多宝富士大日蓮華山上行院大石の寺が一天公布実現の時本門寺の公爾され其の額が三門に掲る時、本門寺戒壇となるべき正本堂を建設せんとの大発願が、大聖人御命名の法華講衆の大先達池田大作先生により宣言せられしより・・・ 唯受一人の御歴代上人が全世界人類の為、七百年来事の広宣流布大願成就御祈念の冥力が時に感応して、今日の大いなる盛事となって眼前に展開するさまを拝し奉ることの出来る、我等の果報に想い到るとき・・・正本堂、正本堂、何たる厳にして簡明な名であろう。この名を得るものは独り日蓮正宗大石寺の本堂なるが故であり、自然忽ちにして生まれし尊名であろう」

椎名法英「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時をまつべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木にも超えたる最大歓喜である。・・・ 特に『これが私の今世の最高の使命』とまで叫ばれた池田会長の死身弘法のお心には、ただ頭をたれるのみである」

高野永済「続いて総口頭池田会長先生の発誓願文が奉読せられる。確信の二字に色どられた大歓喜の楽府、崇高な迄の決意の誓願に、此の様な大檀那を持った宗門の幸せと、安泰を心から誇りとするものである。『唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の平和と繁栄とを祈念すべき根本道場なり』と、宗門の歴史の一頁にしるされた、最初の『鎮護国家』の文である。七百年来かたくなに禁句となって居た、此の鎮護国家は今玆に堂々と日の光をあび、しかも全世界のそれとして朗々と宣言せられたのである」

久保川法章「私は幼少の頃より日夜広宣流布の語を聞き、其の実現を信じつつも其の時期に於いては、只漠然と遠い夢の如く思い続けて参りました。然るに近年創価学会の出現するや、瞬時にして、舎衛の三億の折伏を成就して、愈々正本堂の建立発誓願文式を迎える迄に到った事は、正に六万恒河沙の湧現であり『梵天帝釈の御計いとして日本国一時に信ずる事有るべし』の仏勅を実証したものと敬服の外ありません」

大村寿顕「その御遺命通りに、末法の今、本門寺の戒壇たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭池田大作先生の世界平和実現への一念が、がっちり組み合わさって、ここに新時代への力強い楔が打ち込まれたのであります。この正本堂こそは、三大秘法抄に『三国並びに一閻浮堤の人の懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり』云々、と仰せの如く、単に日本民衆の鎮護国家の道場であるばかりでなく、世界人類の永遠の平和と繁栄を祈願する道場であります」

豊田広栄「建立発誓願主池田会長の発誓願文の奉読、出席者全員の胸をうち感激に噎んだのである。・・・ 事実上の広宣流布、そして本門戒壇の建立発願と言う大偉業は、日達上人の御慈悲と会長先生の御高徳と共に、末法万年尽未来際までも永遠に語りつがれ、民衆の仰ぐところとなるであろう」

菅野慈雲「正本堂建立は、即ち、事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門史上以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります。御法主上人の願文と、発願主池田先生の発誓願文の御文を深く身に体して・・・・」

千種法輝「日達上人の願文と池田会長の発誓願文は文辞荘重、義理深遠、永く歴史の上い残り人類を照らす大光明である。私は後日活字に発表された時味読致したいと思っている。・・・ その中で公明党がはっきりと『目的のために手段を』択ばぬ暴力行為は許せない」と言い切っていることは、誠に私の心から信頼感を覚えた。暴力革命に対する防波堤は学会以外には無い。私は此の度の発願式を人類の歴史の一劃期であると信ずる」

坂口義馨「此の功徳、福運を一生成仏の本となして仏祖三宝は勿論願主総講頭の筆舌に尽くし表せぬご恩を肝に銘じ、御報恩謝徳の為に精進致したいと決意を新たにした者である」

山本量道「宗祖大聖人の御遺命の最大の眼目宗門の大目標である、事実上の本門の戒壇正本堂建立発願式を迎え此に過ぐる喜びはないと存じます」

賀法重「・・・ついで池田総講頭の気迫に満ちた発誓願文『栓ずる所、正本堂の完成を以て、三大秘法はここに成就し立正の二字、すでに顕現せんとす』と、言尽くせぬ感動、書き尽くせぬ感激が全身を包む。過去に於いて、これ程までの感動を味わったことがあったであろうか」

大石菊寿「目出度しとは、古来『目師出て度す。云々』と小僧の頃より先師より指南せられしところでありました。が、これが現実となった喜びを感ぜずにいられないのであります。御法主日達上人猊下の御威徳閻浮に満ち満ちて、本門戒壇大御本尊の一天公布の様相は日目上人様の御爾来確信するものであります。この秋大檀那法華講の総講頭創価学会会長池田作先生は死身弘法の外護の赤誠を尽くされてあますところなく、ここに、日達上人猊下を中心に池田会長先生の篤志に依り、大聖人様仏法究竟の目的たる正本堂即ち実質的な、本門の戒壇堂が建立せられる事となりその起工発願式の日を迎えたのであります」

梶原慈雲「一点の曇りもなく晴れ渡った秋空のもと、朗々たる御法主上人の願文は末法濁悪の世を利益せんとする大法の尊厳と威容を一閻浮堤の隅々にまで響き渡らせる感あり、池田会長先生の力強い発誓願文を拝聴しては三大秘法の事の戒壇ここに成り、梵天帝釈も来下して蹋み給うべき戒壇にありと覚悟し・・・」等と。

これらの一々については論評は避けるとも、恐るべきは、宗門を代表する全ての高僧たちが一結して、日達管長・似非信徒の池田大作の曲会に与同し、阿諛迎合して御本仏大聖人様が仰せられた一期弘法抄・三大秘法抄の御聖文を根底から悉く破壊した歴史的事実は、正系門家富士門流七百年の歴史の中では未だ誰人も見た事も聞いたことも無い大事件だったのであります。それも此処に掲載した曲文は大日蓮誌に掲載されたごく一部の高僧たちの記録に過ぎないものでありますが、これ以外の約一千名を超す平僧から所化小僧に到るまで、全ての僧侶が池田と日達管長の歪曲に加担するという、恐るべき異様な空気が宗門全体を包み込んでいたのであります。

こうした恐るべき異常な事態に異を唱え、宗門の誤りを諫止せんと身を捨てて立ち上がった講中は、弱小の妙信講ただ一人だったのであります。それを陰ながら応援し、妙信講の主張に賛同の意を示していた妙縁寺の松本日仁尊能師と、静岡要行寺の八木直道住職の二人を除いて、全ての僧侶が舞い上り、池田と日達管長が嘯く邪義を先を争って宣揚していたのでありますが、日達管長はあろう事か、正本堂の誑惑に異をはさむ妙信講を講中解散処分に付し、それに加担した二人の御僧侶の僧籍を剥奪した上、擯斥処分という罪科着せて宗門から永久追放するという暴戻なる処分を断行した揚げ句、二人の老僧の生存の道と衣食住までを奪い去ってしまったのであります。

まさしくニセ戒壇正本堂の建立は全ての坊主を巻き込んで、八百万の僧俗信徒の浄財を費やして国会と世間を欺き、今日のていたらくをもたらした元凶は、創価学会三代会長の池田大作と六十六世を継いだ日達管長その人だったのでありますが、日達管長は、与えられた訓諭の発布という特権を用いて宗内の統制を計ると同時に、僧籍剥奪という「宗政・宗規」を以って宗内の反対意見を押さえ、外にあっては、池田大作の発言に権威を与え、一切世間の創価学会に対する反対意見を封じたのであります。

云く「倩々惟みるに下種本仏の利生漸く閻浮を光被せん機運の洋溢する方今を迎え得しは、是れ後五百歳中広宣流布の金言を体し、地湧の眷属たる自覚のもと打って一丸、克く折伏逆化に邁進する創価学会の出現に依るところと謂うべきなり。夫れ創価学会会員捨身の弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全くその類ひを絶せる熾烈にして・・・その行業は正しく大聖人の御加納遊ばさるるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからずところなり。若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き誹言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ公布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無限に開く者と謂ふべし」(宗の内外の者に対する訓諭 昭和38年7月15日)等と。

誠に恐ろしい訓諭を発布したものです。創価学会を誹謗する者は、宗の内外を問わず、たとえ噂であったにしても無限地獄に堕ちるとは驚きましたね。後に、日達管長は創価学会と修羅と悪竜の合戦を思わせるような大喧嘩を繰り広げ、学会の悪口を散々言いふらした日達管長はどうなるのでしょうか! 訓諭とは、新しい訓諭を以って内容を訂正しない限り、永久に残るものであって、時間の経過とともに効力が消滅するような、そんな軽々しいものではない筈です。

それにしても、日達管長という悪坊主はずいぶん罪づくりな人であります。一信徒が時の管長猊下からこれほどの褒め言葉を以って持ち上げられた池田大作が天井知らずの大慢心をおこし、阿修羅王の如くのぼせ上がったのも無理はありません。

日達管長の云く「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大勝として広宣流布に進軍しておられます」(大白蓮華 昭和39年1月号)と。

亦云く「池田先生は死身弘法の寸暇を、さらに死暇断眠して、この大講義をなせるは、実に在世の維摩居士の、今に出現せるかの感を深くしたのである」(昭和40年3月13日 御義口伝上講義禄発刊の序)と。

それに乗じた池田大作の云く「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(高瀬広居・人間革命をめざす池田大作その思想と生き方)等と。

そうしたところ昭和四十年代になると創価学会は言論出版妨害事件を引き起こし、藤原弘達氏の書いた「創価学会を斬る」に対する出版妨害事件を起こし、時の総理大臣、田中角栄まで動員して本書の出版を思い止まらせようと、さまざまな圧力を掛けて言論を封殺した事件はあまりにも有名であります。

さらに、ニセ戒壇正本堂建設の翌年の昭和四十八年十月十四日には、池田大作は、正本堂で御開扉を終えて出てくる日達猊下を外で待ち伏せして大勢の学会員の面前で猊下を怒鳴りつけて学会は僧侶から十億円もの大金をむしり取るという、前代未聞の暴挙をやってのけ、池田は猊下を凌ぐ存在である事を学会員の見守る前で己を誇示し、本山の経済力を減殺させているのであります。

この事は、昭和四十八年十月十七日付けで創価学会副会長の北条 浩氏と日蓮正宗総監早瀬日慈氏との間で取り交わされた「覚書」が証明しています。

下剋上という言葉は聞いたことがありますが、日蓮正宗の一信徒が逆に宗門に圧力を掛けて、僧侶から大金をむしり取る話なんて、末法濁悪の時代の到来とは言え、凡人らは考えも及ばない、想像を超えた空恐ろしい事件が起きたのであります。







坊主が展開する正論も本気度が試される(其の一)

2017年09月11日 13時08分41秒 | 亡国の坂道 
坊主らは「摧破異流義考」(P.34~36)に「二、戒壇建立の勝地について」と題して、三大秘法抄と一期弘法抄の御文を引いて珍しく正論を披瀝していますが、驚いた事に、彼等はいったい何時から心を入れ替えて正信に覚醒されたのでしょうか、にわか仕立ての装いに、メッキが剥がれて醜態をさらす事のないよう、祈るばかりであります。

大石寺の第六十六世の管長職を継いだ日達管長は、先師日淳上人より、昭和三十四年十一月十六日、唯授一人の血脈相承を受けられて、第六十六世の法塔を継がれ、しばらくは脱線することもなく、富士門流の清流そのままに国立戒壇を懸命に宣揚せられておられましたが、ある時を境にして豹変し、かつて聞いたこともない三大秘法の戒壇義を新規に編みだして広宣流布をいつわり、邪義を垂れ流すことに専念し、宗門を未曾有の混乱に陥れた末に、入院中に突然、死に神にとりつかれて逃れる術もなく、かけがえのない一生を終えられたのであります。

その後、第六十七代目の管長職を継いだと称して、勝手に猊座に登った日顕管長は、日達管長の邪義だけを受け継ぎ、それに磨きをかけて、富士門流七百年の伝統教義を欲しいがままに歪曲して国立戒壇に異を唱え、大聖人様以来の化法・化儀を取り返しのつかないほど滅茶苦茶に破壊したのであります。それ等が本で今日の体たらくをもたらしているのでありますが、幸い日達管長はあの世の人となっているため、これ以上深刻な心配は要しないものの、一方、瞬間湯沸かし器の異名を持つ、日顕管長は、未だ隠尊として宗内に隠然たる睨みを効かし坊主らの動静を注意深く目を光らせて空気の変化を窺っているとのことなので、下記のごとき正論が目に入ろうものなら怒り心頭に発して、頭から湯気立てて騒ぎだし、当職の日如管長に対して正論を発する坊さん達の処分を進言し、再び擯斥処分等何らかの制裁を迫って来るかも知れません。

坊さん達の云く「前にも引いたように、宗祖大聖人は、『三大秘法抄』に「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに見教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法申すは是れなり」(御書1595㌻)と。

また『一期弘法抄』に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」(御書1675㌻)と仰せられ、国主が正法に信伏した暁(広宣流布達成の時)、一閻浮堤の人の信仰の根本道場として、富士山下に大本門寺戒壇を建立せよ、と御遺命あそばされている。

ここで、大聖人が「本門寺戒壇建立」と御示しになっているのは、『百六箇抄』に「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書1699㌻)とあることからも明らかなように、富士山下に本門寺を建立し、その本堂に三大秘法総在の弘安二年の大本尊を安置せよ、との二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」(聖典586㌻)と仰せなのであり、〝広布の事相に建立される事の戒壇〟とは、まさに富士山本門寺(なかんずく本門寺本堂)のことをさすのである。

この点を見誤って、何か、〝本門寺〟と〝事の戒壇〟とを格別に考えている向きもあるようであるが、本来、広布の暁に建立する戒壇とは富士山本門寺のことであり、その大本門寺建立の御遺命を奉じ、一天四海広布をめざして折伏弘教に邁進するところが、我が日蓮正宗七百年の伝統なのである。」等と。

いま坊さん達が主張するとおり、富士門流の日蓮正宗は過去七百年の間、大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で御教示の如く、富士の清流そのままに清く正しく伝統教義の維持に努め、令法久住に心を砕いてきたゆえに、日蓮正宗は世間一般の既成宗教とは一線を画くし、その威風堂々たる風格は、無言のうちに人々をして、何とも表現し難い厳粛な気持ちを起こさせる不思議な力を漂わせていました。ところが日達管長の時代に宗旨の命とも云うべき、国立戒壇を永久放棄した咎によってその威厳と風格は失われ、第六天の魔王に付け入る隙を与えることとなり坊主の堕落が始まり、ある者は日没とともにスキンヘッドにカツラを着けて富士宮の歓楽街に入り浸り、ネオン街の虜となって、はては遊蕩にうつつをぬかす坊主まで現われる始末となり、性根を蕩かされて見るも無惨な醜態を晒す事態となってしまいました。かつては日淳上人猊下が国立戒壇を宣揚して宗門を率いていた頃までは、まだ大聖人様以来の色も香り味も変わらぬまま、威厳と風格と伝統教義を堅持した格式の高い宗門だったのであります。

そこで先ず、第六十六世日達上人の御登座の際の御言葉を振り返って見る事にします。    

「日達先ニ日淳上人ヨリ昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻みに血脈相承をウケ、十二月二日日蓮正宗管長ノ職ニツキ、総本山六十六世ノ法塔をツグ宗門ノ現状ハ詢ニ旭日昇天ノ勢ニシテ日本仏教界ヲ独走スト言ウモ過言ナラズ、然シナガラ此レニ伴ッテ、三障四魔フンゼントシテ来ルハ聖語ノムナシカラザルヲ証スルモノデアル。

宜シク宗門ノ僧俗ハ一致シテ広宣流布ノ願行に撤シテ、克ク開山上人以来ノ伝統ヲ護持セネバナラナイト信ズル、此処ニ大イニ教学ノ振興ヲ期シテ宗門ノ龍象ヲ養イ、宗風ノ刷新ト僧俗一致ノ実ヲアゲテ弘経ニ精励スル由縁ガアル。日達徳薄垢重ト雖モ忝ケナクモ富士ノ法器トナッテ茲ニ猊座ニ登ル、只今ヨリハヒタスラニ宗開両祖ノ遺訓ヲ奉ジテ身ヲ慎ミ、歴代諸師ノ遺風ヲ仰イデ実践ニ移シ、異体同心ノ緇素ニヨッテ挙宗一致、日蓮正宗ノ宗勢拡張ヲ期スルモノデアル。

冀クバ日淳上人ノ僧俗一致ノ言葉を帯シテ日達ガ赤誠ヲ諒セラレ、身口意ノ三業ヲ謹ンデ和衷協力各自ソノ分ヲ尽クシテ宗門ノ願行タル戒壇建立ニ勇猛精進セラレンコトヲ」(昭和35年1月1日訓諭)と。

つづけて「『万人一同に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、吹く風枝をならさず雨土くれをくだかあず』と大聖人は平和な仏国土建設を唱えられておりますが、広宣流布を念願とする日蓮正宗の僧俗は、共々一致協力して、真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

次に「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

亦云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の暁の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

こうした正論を叫ばれていた日達猊下が、猊座に登られて数年を経ずして次のように豹変するのであります。

「思えば昨年春、会長池田先生との談話の時に、私が、『すでに広宣流布しておる』と語ったら、会長は、『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。この世が広宣流布になっても、舎衛の三億のごとく、また欝単越のごとく、正法見ず、聞かず、信ぜざる人々も残るのは必定である」(大白蓮華 昭和40年1月号)等と。まるで下手な漫才の掛け合いのような問題発言して、周囲を大いに驚かせているのであります。

日達管長の発言の中に「思えば昨年の春」とありますから、昭和39年の春には、すでに広宣流布は達成していたことになりますが、驚きをとおりこして、開いた口がふさがらないとはこの事であります。

次に「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。

さらに「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし、大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります」(昭和45年5月3日 創価学会第33回総会)と。

そして「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々が現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光土・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実この世に於いて我々は信心の誠を捧げて行かなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)等と。

このように、ずいぶん酷いことを口走るようになったものです。

もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる」あるいは「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、呆れましたね。これが猊座にあられた方の言葉かと思えば、悲しくなってまいります。まるで悪ガキの捨て台詞のような悪言に触れると、日達管長の大聖人様に対し奉る信心を疑いたくなるのであります。これこそ嗤うべき没論理、盲論の最たるものと指摘しておきます。

さらに日興上人の遺誡置文の中に「一、時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」と遺誡せられた有名な一節がありますが、日達管長の解説文を見ることにします。

①「後世の総本山の代表たる貫主であっても大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その節は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためにはかくの如く実に厳格であったのである」

②「これの意味は、『貫主であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない』というんです。貫主は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。しかし仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。・・・・それを、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない」

③「これは『時の貫首は何でもできるけれども、己義を構えて間違ったことをした、己義を構えるとといっても、仏法上において化法化儀にわたっての己義を構えた者という意味ですが・・・・そのような者は用いてはいけない。ときの貫首はそれをはっきりして、そういう人物を用いてはいけない』これがほんとうである」

以上の三とおりの解釈文がありますが、①と②③を解釈した人が同一人物とは到底思えない文章でありますが、すべて日達管長一人が解釈したものです。血脈相承を受けた貫首と雖もいったん魔が入ると、手が付けられなくなるほど曲がるという見本であります。

また創価学会は、昭和四十七年に建てたニセ戒壇正本堂を指して「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千年史上空前の偉業なり」として自賛していたものが、翌四十八年には、早くも学会は宗門に対して兵糧攻めよろしく、本山参詣者を激減させて経済的に締め付けを行なうなど、本山の収入を減殺して閑古鳥が鳴くような状態に追い込んで、坊さん達の焦燥感を煽り、疑心暗鬼になって狼狽する坊さん達の姿を見て、高みの見物を決め込んでいたのでありますが、そもそもの原因は、日達管長は妙信講の浅井氏にあえば「貴方の言っている事は全く正しい」として、国立戒壇を支持し、門下の僧侶に対しては「国立戒壇を否定したとしても、学会は、国立という言葉を嫌うので、それに合わせているだけだ。私の精神は変わらない」等とあいまいな表現に終始するかと思えば、池田大作に会えば「正本堂こそ御遺命の戒壇」というなど、まるで波の上に浮かぶ根無し草の風にそよぐ葦のごとくだったのであります。

さらに昭和四十九年になると双方の亀裂は深まるばかりで、日達管長も僧侶を集めて不満をあからさまに述べるようになるのであります。

学会の仕打ちに反発した日達管長は「これはもう、このままじゃ話にもならない。若し学会が来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳してもよいと云う覚悟を私は決めたわけです。」つづけて「おととしの秋ぐらいから、去年を通じて今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々と僧侶に対して批判的であり、また教義的に逸脱しているところが多々ある。また、会計を、大石寺の会計を調べるという。・・・・その時に北条さんが云うには、もししらべさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり云ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ、自分ら正宗から手を切るというのである。」(昭和49年7月27日・僧侶への講演)と。

そればかりか、学会は四十九年の初頭から「創価学会・国際センター」なる妙な独立法人の設立に向けて具体的に動き出し、日達管長を祭り上げて国際センターの名誉総裁という閑職に就かせ、伝統ある包括宗教法人日蓮正宗を全面的に支配すべく、創価学会傘下の外郭団体の一部に加えるための計画をすすめ、公明党、民音、創価大学、東洋学術研究所などのような、日蓮正宗を学会員の冠婚葬祭を行なう、単なる「儀典部」に取り込もうする壮大な計画を描いていたのでありますが、呆け老人と思っていた日達管長から予想外の猛烈な反発を喰らって同意を得ることができず、その計画はあっさり頓挫しているのであります。あの時学会の甘言に乗せられて日達管長がうっかりハンコでも着こうものなら、今頃は取り返しのつかない事になっていたのでありますが、そればかりは大聖人様が絶対にお許しにならなかったのであります。

次に当時の阿部教学部長、後に猊座に就いた日顕管長の脱線ぶりを紹介することにしましょう。

云く「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領総講頭池田大作先生により、始めてその実現の大洸明を顕さんとしている。この度の発願式に於いて法主上人と総講頭池田先生のお示しになったそれは、正に日本乃至世界広布の為の顕現であり、仏法史上世界の歴史の上に絶大な意義を持つものと拝察する。」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

また云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会本部において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその時僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。・・・・国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく、常楽をかなでる幸福な社会が顕われることを確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田先生も至極お元気で、猊下と宗門を常にお守りくださっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)等と。

この頃の阿部教学部長は、日達管長の邪義を称揚して心にもないおべっかを使う一方、似非信徒池田大作の顔色ばかりを常に窺がい周囲が憚るようなゴマすり三枚に徹し、次期管長職の席におさまる事ばかりを狙っていたとの噂が絶えなかったと云われていました。特に池田大作からは、阿部教学部長の邪智にまかせて白を黒と言いくるめる特才と、ずる賢い狡猾な歪んだ品性を見抜かれ、本山に於ける日達管長の発言と、妙信講の正論に賛同する宗内僧侶の動静を密告させるというスパイ工作を仰せつけられる一方、妙信講との教義論争を一手に担わされていました。

その上、昭和四十七年六月には「国立戒壇の誤りについて」と題する悪書①を進んで執筆して池大作を喜ばせ、さらに、昭和五十一年二月には「本門事の戒壇の本義」と題する悪書②を発刊せしめて、国立戒壇を徹底して誹謗した上、三大秘法抄の御聖文をズタズタに破壊した揚げ句、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の本門事の戒壇とする宣伝に心を砕き、池田大作の寵を得て、自らが栄達する事ばかりを願っていたのであります。

阿部教学部長の曲文の一例を挙げれば「王法」を「あらゆる社会生活の原理」と歪曲。「王臣」を「民衆」と曲解し、「有徳王」を「池田先生」と諂曲。「日達管長を」を「覚徳比丘」と謀り、「勅宣・御教書」を「建築許可証」とこじつけ、「霊山に似たらん最勝の地」を「臭骨に穢れた大石寺境内」と偽る。「時をまつべきのみ」を「今建てて何が悪い」と開き直るなど、国立戒壇を否定するためには、手段を選ばずといった狂乱ぶりを発揮して、池田大作のお眼鏡にかなう事のみを考えて邪義を展開していたのであります。

大聖人様滅後七百年にして、三大秘法抄の御聖文をここまで踏みにじり、富士門流の教義をこれほどまでに歪曲した者は宗の内外に未だ見ざるところでありますが、次期管長職を狙っていた阿部教学部長の存在は、池田大作にとってはなくてはならない人材だったようです。
  
佐渡御書に「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず破るべし、獅子身中の獅子を食む」と仰せられた御金言が思い出されますが、まことに重い御言葉であります。

昭和五十二年になると、学会は「五十二年路線」と称する会長本仏論等の教義逸脱事件を起こして『寺なんかへ行かなくていい』と言いだしたことが決定的な命取りとなり、池田大作は創価学会会長を辞任するまでに追い込まれています。その後、第四代会長として北条浩氏が登場、翌五十三年二月九日には、本山では「時事懇談会」なる大規模な僧侶の集会が開かれ、全国から約二百名を超す反創価学会活動家僧侶(後の正信会僧侶)が結集して、学会と手を切るかどうするかについて討議するという不穏な動きが出てまいりました。

その二日前の二月七日、阿部教学部長は腹心の川辺慈篤と東京帝国ホテルで密談を交し、反活動家僧侶らの動向分析と併せ、日達管長に対する日頃の鬱憤を晴すような悪口を披瀝し、川辺住職の日達管長に対する考えを探り出そうとして、問題発言をしています。

云く「G(猊下)は話にならない」「Gは学会と手を切っても又二三年経ったら元に戻る」などの話をして川辺住職の顔色を窺い、最後には、戒壇の御本尊はニセ物だという問題発言をして、川辺慈篤に腰を抜かさんばかりの衝撃を与えたのです。日頃からメモ魔の異名を持つ川辺は川辺で、阿部教学部長の発言をメモに残して、是れを後日、故意に流失させて日顕管長を窮地に追い込み、北海道の田舎寺の日正寺の住職から東京新宿の大寺院、大願寺の住職へ赴任させるという出世を果たし、栄転の栄誉を勝ち取ったのが有名な「川辺メモ」といわれるものです。まさに二人の関係は、狐と狸の化かし合いを連想させるものでした。

それから四ヶ月後の六月二十九日、総本山の大講堂で、時事懇談会と銘打った全国教師指導会が再び開催され、席上日達管長は活動家僧侶に対して、学会員を折伏して末寺の檀信徒ととして迎えるべく「檀徒運動」を公然と支持する激励を発しているのです。ところが、スパイ役を仰せつかっていた阿部教学部長は、その時の集会で日達管長の発言の一部始終を陰に隠れて池田大作に通報しているのであります。後に、これを知った日達管長は怒り心頭に発し、大勢の活動家僧侶の前で「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ。」(時事懇談会記録)と声を荒げて、阿部教学部長の卑劣な行動を非難しているのであります。

昭和五十四年になると日達管長は年来の心臓病の悪化から、本山近くのフジヤマ病院に入院して療養中、7月22日の未明になって思わぬ事態が発生、激烈な心臓発作と膓不全を併発してあっけなく黄泉の国へ旅立たれたのであります。その前日には近侍の所化小僧に命じて、明日の退院に備えて「念のため床を敷いといてくれ」と指示していたのでありますが、残念ながら生きてその床につく事はできませんでした。

間もなく日達管長の遺体は本山に引き取られて、身内の者達を中心に今後の葬儀の次第等を相談している最中に、阿部教学部長が突然その輪に割って入り込んできて、娘婿の菅野慈雲師(国立大宣寺の住職)に「その後について、何か聞いているか?」と小声で囁く、そのとき菅野慈雲師云く「後の事は総監さんの方がご存じなのでは」と。

総監になっていた阿部教学部長は、取って付けたように「うん、そう、そう」等とつぶやいてその場を後にし、しばらくすると「実は去る昭和五十三年四月十五日、自分は日達上人から血脈相承を受けていたんだ」などと言って、あれよ、あれよ、という間もなく、周囲の訝る声を振り切って、勝手に猊座に就いてしまったと云われています。

ロック・ミュージシャンの矢沢永吉という人が日産自動車の宣伝に「やっちゃえ日産」という面白い台詞を発するテレビ・コマーシャルを見ながら思い出したのですが、ひょっとしたらあの時、「やっちゃえ阿部ちゃん」などと、陰に隠れて誰かが密かにそそのかしたのかも知れないな、と想像してしまいました。

思い出して下さい。阿部教学部長が主張するように、昭和五十三年四月十五日に日達管長から唯授一人の血脈相承を受けていたものなら、わずか二ヶ月後の六月二十九日、反創価学会の僧侶が結集して行なわれた時事懇談会の席で、日達管長の発言の一部始終を、池田大作に通報してスパイ行為を働くことなんてあり得る筈がないのであります。それに日達管長が、次期御法主になられるお方を名指しして「阿部はとんでもない奴」などと多くの僧侶の前で発言し、彼の悪言を口にするなんてことは絶対に有り得ない話であります。

こうした阿部日顕の卑劣な行動に反発した反創価学会僧侶らは、日達管長から阿部日顕に対する相承の授受に対する疑問を投げかけ、壇徒会~正信会へと移行した彼等は、日顕管長の相承疑惑を問題視して騒ぎ立てました。その結果、宗門全体は未曾有の大混乱に巻き込まれ、その争いは法廷闘争にまで発展する大事件となり、反論の術を失った阿部日顕管長は、反対運動を繰り広げる僧侶を次々に擯斥処分を断行して宗門追放をしたのです。その数、実に二百余名に及びました。

宗教界広しとは云え、国内には約十八万何某かの宗教団体があるそうですが、自分達の起こしたお家騒動で、一挙に二百余名になんなんとする僧侶の首を斬って平然と構える宗教団体なんて、未だかつて聞いたこともありません。これこそ御本仏日蓮大聖人様の嫡流たる富士門流の日蓮正宗が、日本の宗教界ばかりか、全世界に赤恥を晒すことになったのであります。このような驚きを通り越した不祥事が、世間に顔向けできないほどの不名誉な顰蹙を買う事となり、大聖人様の御顔に泥を塗りつけて、富士門流の歴史に取り返しのつかない汚点を残す結果となったのでありますが、これこそ、正本堂なるニセ戒壇を建てて広宣流布を偽り、宗旨の根本たる国立戒壇を捨てたが故の仏罰であります。

擯席処分に付された反創価学会僧侶らの面々は、正信会を名乗って、全国末寺の数十ヶ寺を占拠して信徒約十万世帯を上回る人々を人質に取り、今日に至っているのでありますが占拠し所属する所属する信徒の全ては坊主が正信会であるため、寺院丸ごと否応なく正信会に所属する羽目となり、一蓮托生として、総本山とは完全に縁を切られてしまったのであります。

あの騒動から三十有余年を経過した今日、全国には未だ三十数ヶ寺と、約十万世帯の信徒が総本山から縁を切られたまま「日蓮正宗正信会」を名乗っているのでありますが、これまた功徳もなければ、一人として成仏をとげることも出来ない存在となっているのであります。

種々御振舞御書に云く「かかる日蓮を用いひぬるともあしくうやまはば、国亡ぶべし。何に況んや数百人ににくませ二度まで流しぬ。此の国の亡びん事疑ひなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にてありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。


    




またまた邪義を垂れ流している

2017年08月15日 09時49分31秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義孝誌に坊主らは(P.31~34)日寛上人御教示について、と題して次の如く記してあります。

たま、日寛上人の『文底秘沈抄』には、本門戒壇を事・義に分かたれ、本門の本尊所住のところは義理が事の戒壇にあたるが故に、一般的に「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(聖典849㌻)とせられ、さらに事の戒壇については、「正しく事の戒壇とは、一閻浮堤の人、懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して蹋みたもうべき戒壇なり」(聖典849㌻)として、根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている。」について

当たり前ではありませんか! 何度も言うように、日寛上人は戒壇の大御本尊がおわします所を「義の戒壇」とせられ、正しく「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の本門寺の戒壇を三大秘法抄の御文を引かれて「事の戒壇」と定義づけられているのであります。

亦「根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている」との指摘は、贅言の典型であります。この先、こうした余計な拙文にお付き合いしなければならないと思うと気が重くなります。

しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。「ただ、日寛上人の『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」について

坊主らの記述には贅言が過ぎます。その上矛盾撞着支離滅裂です。云く「しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。」等と記していますが、この文章はいったい何を言わんとしているのか、なんど読んでも言語明瞭意味不明にして、同じ文言を並べ立てて得意満面のご様子ですが、さすがに謗法が過ぎるとこうした頭破七分の姿を曝け出して平然と構えることが出来るのでしょうか、謗法は真に怖いですね。

坊主らが偉そうに指摘するように、「『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」等としていますが、坊主ら何を学び、六巻抄の何処に目を通せばそんな事が書けるのでしょうか! 

此処で浅井昭衛氏が六巻抄の講義禄を発刊するにあたって、巻頭に述べられた一節を引用し、日寛上人が六巻抄を著わされた時代的背景とその目的並びに教学上の位置づけを確認し、特に、文底秘沈抄の中で仰せられた「義の戒壇」並びに「事の戒壇」の違いを詳らかにされた背景を見る事にします。

云く「申すまでもなく、日寛上人は日蓮正宗総本山大石寺第二十六世の御法主、そして不世出の大学匠であられる。いま上人の御出現の意義を思うに、上人は大聖人御入滅後三百八十余年に御出現、この時代は既に不相伝家における邪義が出尽くした時であった。ここに上人は、本迹迷乱の安国日講、種脱迷乱の広蔵日辰・癡山日饒等、国中の諸学者の邪義の根を断ち切り、日興上人以来の正嫡相伝の奥義を以て、御本仏日蓮大聖人の三大秘法の正義を余すところなく顕示され、後世に誤りなからしめ給うたのである。

まさしく日寛上人こそ、未来事の広宣流布に備えて、教学上の完璧なる御用意を遊ばすために出現された超凡絶倫の聖者と拝すべきである。そもそも大聖人御弘通の三大秘法は、寿量文底の秘法、最大深秘の正法、久遠元初唯密の正法であれば、たとえ御書を拝すとも、凡夫の誰人がその甚深の聖意を窺い得よう。ここに末弟の我等は、ただ日寛上人の智目を通して、始めて三大秘法の御法門を正しく信解し得るのである。」と仰せられています。

亦、日寛上人は本門戒壇の御本尊について「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。」(観心本尊抄文段)と仰せられています。

つづけて云く「問う、文底深秘の大法その体如何。即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御事なり、乃至、此の本尊は広布の根源なり」と御教示でありますように、根源の本門戒壇の大御本尊を明確にお示しであります。したがって、広宣流布の暁には、この戒壇の大御本尊様が根源の事の戒壇堂にお出ましになられるのは、いま更云うまでもありません。

あるいは亦、義の戒壇について「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊存する上は其の所住は戒壇なり」(寿量品談義)と仰せられ、これが義の戒壇であると明確に定義なされているのであります。

それにも拘わらず、坊主らは何を以って「教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」などと偉そうに、機会があれば余計な注釈を加えたいのか、隙を窺うような記述が見られますが、どうしたらこうした思い上がった屁理屈が書けるのでのでしょうか、坊主らの謗法による頭破七分に犯された文章に触れる度に、謗法は真に空恐ろしい罪障をつくるものだと改めて身にしみる思いであります。

先ず第一に、弘安二年の大御本尊は、唯授一人において相伝せられ、大石寺の奥深く秘蔵厳護されて広布の時を待っておられたのであるが、当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ、内拝の信徒もごく少数に限られていた。こうした状況にあっては、広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである。「しかしながら、その奥に、日寛上人が弘安二年の大御本尊を拝され、大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とせられていたことは、『依義判文抄』の「本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典863㌻)との仰せ、また日相上人の御代まで伝承されてきた『大貳阿闍梨御講』中の御指南によって明らかであろう。」について

ここで坊ずらの記述を読み直しても、サッパリ判らない。坊主が言っている内容については、所々断片的には理解できるものの、全体を通して読むほどに、言語明瞭・意味不明の一語に尽きています。いったい彼等はなにが言いたいのでしょうか?。

日寛上人が未だお若い時、大貳阿闍梨号を名乗られていた頃、大勢の信徒を前にして御講を開かれた席で三大秘法に係わる開合について次のように仰せになられました。その時の御講聞書を後年、第四十三世日相上人が科段に分けて記されたお書き物の中には、三大秘法を六大秘法に開いた場合の御本尊の相貌を次の如く明確にお示しであります。即ち本門の本尊について人本尊は「日蓮大聖人」とせられ、法本尊は「事の一念三千の御本尊」と定義せられ、本門の題目については「信受智妙」と「口唱行妙」に分かたれ、戒壇については「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とせられ「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と明確に峻別されておられたのであります。

こうした時系列から拝見ますと、今日坊主が指摘するような「広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず」などとした指摘は大きな間違いである事が分かります。

序でに申し上げれば、日寛上人が「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と仰せられた富士山とは、死臭が漂う土葬の墓地を掘り起こしてニセ戒壇正本堂を建てた、現在の大石寺の穢れた場所を指しているのではありません。それは、広宣流布の暁に建立される「霊山浄土に似たらん最勝の地」と大聖人様が「富士山に」と仰せられた、富士山天母ヶ原の御事を指しているのであります。

また坊主がが物知り顔に「当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ(中略)日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである」等の記述は、余計な贅言を並べたものであることが分かります。日寛上人は大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から対他に対して、富士門流の大石寺には、弘安二年の本門戒壇大御本尊の存在を敢然と明らかにされ、「義の戒壇」及び「事の戒壇」の違いについて明確に峻別されていたのであります。

第二に、『六巻抄』の理論体系は、当時の他門流の不相伝家なる故に邪義に対し、これを破折するため、御書の文証を基準として組み立てられた。そのため、事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ、弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである。以上のような日寛上人の、当時の時代性に応じた法門の表現と、対他のために著述された『六巻抄』の性質をよく弁え、その御真意を誤りなく拝すべきであろう。」について

同じ事の繰り返しになりますが、坊主らが展開する記述はまことに解りづらい。彼等が指摘する「事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ」とは、いったい何を言っているのか見当も付きません。日寛上人は三大秘法抄のいずれの御文を以って「ただちに事の戒壇の文証とせられ」たのでょうか、坊主はその説明もないまま、いい加減な意味不明な抽象論に終始しています。

つづいて「弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである」等としていますが、当たり前ではありませんか。日寛上人は六巻抄を上梓される以前、即ち大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から、本門戒壇の大御本尊のおわします所は「義の戒壇」と定義せられ、「広宣流布の暁に事相として建てられる本門寺戒壇を事の戒壇」と仰せられていたのであって、邪義に染められた坊主が自慢げに垂れ流す言辞には呆れるばかりであります。何度も申し上げますが日寛上人は、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊の当体及び所住は、どこまでも根源の義の戒壇と定義されているのであります。

なお、また、日寛上人以降の御歴代におかれても、こうした『六巻抄』の理論体系を基として、戒壇についての御教示を展開あそばされた故に、あたかも、広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」について

正系門家富士門流の教学上の確定的な化儀は、寛尊の六巻抄の中にすべて収まりこれに尽きるのであります。ところが坊主らは「しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない」等として、あたかも日寛上人が未完の法門書を残された如く、くどくどと知ったか振りを決め込んでいますが、日寛上人は後に貫主職に就かれた二十八世日詳上人に六巻抄を託されて、云く「此の六巻の書の獅子王ある時は、国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず、尤も秘蔵すべし、秘蔵すべし」と仰せられ、つづけて「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」と訓戒を加えられ、さらに「公場に非ざるよりは、妄りに之を宣ぶること莫れ」と、重誡の御言葉さえ遺されて全てを終えられておられるのであります。

此処で寛尊が仰せられる国中の諸宗の狐兎とは、禅宗、念仏宗、真言宗等の既成仏教の邪教の面々を指し、諸門の狐兎とは、身延、池上、中山等の不相伝家の邪宗日蓮宗を含む、南無妙法蓮華経を唱える新興の邪宗日蓮宗の連中を指して狐兎と仰せられているのであります。

ただ、ここで一つ言える事は、宗門が悪僧日達管長以来、富士門流の宗旨の要ともいえる国立戒壇を放擲したが故に、諸宗・諸門の狐兎と揶揄された一連の謗法者達が総本山めがけて一党して襲来し、国立戒壇の宗旨に論難を加え攻撃される恐れは全く無くなってしまいました。日寛上人は、まさか、御自分の亡き後、わずか三百余年後に富士門流大石寺が国立戒壇を放擲するなんて努々想像だにしなかったに違いありません。是れを以って顧みるに、大聖人様の唯一の嫡流たる日蓮正宗大石寺が、創価学会の政治選挙の為に、世間に諂い国立戒壇を永久放棄したことが、如何に間違っていたかという事が良く分かります。

日寛上人が六巻抄を日詳上人へ託されるに当たって「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず」と仰せられた意味は、富士門流日蓮正宗の宗旨はどこまでも国立戒壇であるから、この旗を高々と掲げて、広宣流布を成し遂げなさいと云う意味で仰せられているのであります。ところがその肝心要となる国立戒壇を永久放棄して叫ばなくなってしまったならば、日寛上人が「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来す」と仰せられた予言は大虚妄となり、その心配は完全になくなってしまうのであります。また、国中の諸宗・諸門の狐兎の立場からしますと、国立戒壇という大目的を永久放棄した日蓮正宗の本山に襲来して、国立戒壇に轟々たる非難を浴びせて攻撃を仕掛けて来る理由も完全になくなったという事であります。

しかし大聖人様は、国立戒壇の大事を前以って富木殿御返事の中で「設い日蓮生死不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無きものか、伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられいます。ここで仰せられる「事相たる故に一重の大難之有るか」との意味は、申すまでもなく、富士門流の日蓮正宗が国立戒壇の建立を叫び、事実の相として国立戒壇を建てる為に広宣流布を闘う宗旨であるが故に「事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられているのであります。それを捨ててしまったのでは、何のかんばせがあろうか、大聖人様をはじめ代々の上人方の御苦衷を忍び参らせれば、合わせる顔がなくなるというものです。

また、大聖人様が如説修行抄で仰せられる「念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり、法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権経権門の輩を一人もなく・せめおとして法王の家人となし」云々と仰せられる熾烈にして果敢な折伏戦は、国立戒壇を捨てたが故に雲散霧消してしまいました。また折伏戦に対する熾烈な軍が巻き起こる理由も道理も完全になくなってしまいました。

それを象徴するかのように、今日の宗門の唯一の機関紙といわれる大白法の平成29年8月1日号には「異流義破折」と題した顕正会に対する破折文によれば「浅井は、正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ一筋に日蓮大聖人の出世の本懐たる『本門戒壇の大御本尊』を護持し奉り、御遺命たる『国立戒壇』を、唯一の宿願としてきたのです。(顕正新聞 平成29年4月25日)と、あたかも大聖人が「国立戒壇」の名称を示して御遺命されたかのように話を進めているが、実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。時期を鑑み本宗では一切使用しなくなった「国立戒壇」の名称に拘泥する様は、まさに大聖人の御意に背いた姿なのである」等と、驚くべき支離滅裂な邪義を展開しているのでありますが、之を逆信の邪僧と言わずしては、自らが与道罪を被るのであります。

坊主らがいう「大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」とした記述は全くそのとおりで、正しいのであります。本門寺の戒壇とは国立戒壇のことなのであります。

そうした正論と合わせて坊主らが主張する「御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない」とする邪義は、池田大作のサル真似以外に何物でもありません。

池田大作はかつて次のような邪義をのべていました。云く「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇』といってきました。しかしどこを探しても、御書には『国立戒壇』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

つづけて「国立戒壇ということばは、大聖人の御書には一つもありません。あくまでも、民衆の力によって、できあがる本門戒壇の建立が、大聖人の御遺命であります」(大白蓮華 昭和41年7月号)と。

それをどうですか、いま坊主らは国立戒壇を否定する為に「実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」などと、大聖人様が御教示下された「一期弘法付嘱書」の御文と、池田大作が作り出した「御書に国立戒壇ということばはないのです」と言い放った邪義を一括りにして、国立戒壇を否定する記事を大白法紙に載せて顕正会を誹謗していますが、是れこそが頭破七分の見本ともいうべき、良き事例であります。

いま宗門にはこうした邪義を垂れ流し、袈裟の権威を笠に着て肩で風切る坊主ばかりが幅をきかせ、のうのうとただ飯を食らって、僧道を渡世の道具にしている者で溢れかえっていますが、宗門が再び国立戒壇の正義を取り戻して、富士の清流が蘇る兆しが出てきた時には、邪義を垂れ流す坊主らは、一人残らず擯斥処分に付して宗門から彼等をいち早く追い払わなければなりません。

富士門流の日蓮正宗が国立戒壇の大目的を永久放棄した後の今日、総本山めがけて、諸宗・諸門の狐兎が、一党して宗門に襲来する事なんて、夢のような話になってしまいました。それどころか、日達管長の死後、突如として六十七代を継いだと称する悪僧阿部日顕管長に至っては、平成7年6月6日、邪宗日蓮宗身延山の次期管長職に就任する田中日淳なる邪僧一行を積極的に自ら総本山に招き入れ、自慢げに本山の公布坊、客殿、大講堂、五重塔などの主だった伽藍を案内した後、能化の高野日海師に命じて、蓮葉庵で昼間から酒宴を張って饗応ならしめ、日頃の創価学会に対する鬱憤を晴さんと、悪徳弁護士山崎正友を使って、学会攻撃を仕向けているのでありますが、信心が腐ってくるとこうした醜態をさらす事になるのであります。

それは置くとして、邪義にまみれた不勉強の坊主らは「広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」とは恐れ入りましたね。これではまるで、日寛上人は未完の法門書を六巻抄と名付けて日詳上人へ託されたこととなり、悪僧日達管長の出現によって、初めて富士門流の教学上の化儀が完璧に整ったことになってしまいます。そんなバカことがあるものか! これでは悪僧日達管長は、超凡絶倫の聖者を超えた存在となってしまいます。

憚りながら日寛上人は、学頭職を務められていた時に六巻抄の全ての草案を完成されていたものを、御遷化の前年に再治を加えられ、大聖人様の御本懐のすべてを収められているのであります。その時の仰せに云く「正徳第三癸巳(みずのと み)、予四十九歳の秋、時々御堂に於いて開目抄を講ず。而して文底秘沈の句に至る、其の義甚深にして其の意難解なり。所以に文に三段を分かち、義に十門を開く。草案已(すで)に畢(おわ)りて清書未だ成らず、虚しく笈中(きゅうちゅう)に蔵(おさ)めて之を披(ひら)く遑(いとま)あらず。而して後、享保第十乙巳、(きのと み)予六十一歳春、逅邂(たまさか)之を閲するに疎略稍(そりゃくやや)多し、故に粗添削(ほぼてんさく)を加うるのみ。敢えて未治の本を留むることなかれ。然るに此の抄の中に多く大事を示す、此れは是れ偏に法をして久住せしめんが為なり。末弟等深く吾が意を察せよ云々」と御指南であられます。

そして日寛上人は御遷化の年の二月江戸において観心本尊抄を講じ終えられた時、一座の大衆にたわむれのごとく仰せられて、次のような有名な御言葉を残されておられます。即ち自身が三大秘法の化法・化儀を解説された六巻の書に一分の間違いの無いことの証明として、羅什三蔵の故事を引かれてその裏付けとされたのであります。

云く「法華経を漢訳した羅什三蔵は、自身の訳経の誤りなき事の証明として、大衆に向かって〝我が身死して火葬に付する時、身は灰となるとも舌ばかりは焼けず〟と語っていたところ、果たせるかなその通りになった。ゆえに羅什三蔵の訳経は随一と云われ、後世に信じられたのである。いま日寛たとえ富桜那の弁を得、目連の通を現ずるとも、云うこと当たらざれば誰人が信ずることが出来ようか。自分も羅什の故事にちなみ、いま日寛も一つ言い残すことがある。すなわち日頃好むところのソバを、臨終の時に食して、唱題のうちに臨終することにした。若し日寛の言うところ当たらざれば信ずるに足らず。もし違わざる時は、日寛の所説は大聖人の御意に寸分も違わざると信ずべし」(取意)と。

臨終が近づいたその日の夕べ、日寛上人は大好きなソバそ食された後、最後臨終にのぞまれて辞世の一句を詠まれました。「本有の水風凡聖常に同じ、境智互いに薫じ朗然として終わりに臨む」と謳われ、最後に「ああ面白しきかな寂光の都は」と仰せになられて、朗らかにスキップするようなお気持ちで寂光土に旅立たれているのであります。

それに比べて悪僧日達管長は臨終思うようにならず、入院中、付き添いも誰も居ないところで、昭和54年7月22日の未明、七転八倒の苦しみの中に、黄泉の国へ旅立つ以外に方法はなかったのでありますが、これは猊座に在った者が取り返しのつかない邪義を始めた罰によって、大聖人様からまたとない命を召し取られたとしか言い様がないのでありますが、これぞ天地雲泥の差、一切は現証に如かずとはこの事であります。

先例として、本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。同様に、戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」について

ここでも坊主らはいい加減な嘘ばかりを垂れ流しています。「本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。」等としていますが、方便品・寿量品の読誦については、大聖人様の御在世当時から唱えられていたのであります。

大聖人様は斯く仰せであります。「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを」云々と仰せられ、寿量品を欠くことのできない大事に言及されておられます。

また松野殿御返事の一文の中に、松野殿が入信後間もなくして、大聖人様に凡夫の我々が唱えるお題目の功徳と、聖人が唱えるお題目の功徳の違いについて質問された時のお手紙の中に「此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり」とありますのがそれであります。松野殿は入信当初から方便品の十如是と寿量品の自我偈とお題目を唱えていたのであります。

亦曽谷入道殿御返事の中でも「方便品の長行書き進らせ候。先に進らせ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり」と御教示され、勤行の際には必ず寿量品を読誦するよう指導されています。

さらに月水御書には「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ候へ。乃至寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」と御教示のとおり、方便品は迹門の肝心であり、寿量品は本門の肝心であれば、坊主らの指摘はウソだという事が歴然とします。

また新尼抄には「今此の御本尊は・・・・宝塔品より事おこりて、寿量品に説き顕わし、神力品・属累に事極まりて候」とありますように、本門寿量品に来て初めて説き明かされた三大秘法の御本尊を拝み参らせながら、方便品だけを読誦して、肝心の寿量品を読誦しないなんて事は絶対にあり得ないのであります。

また坊主のいう事が奮っていますね。「戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」とは恐れ入りましたね。

何度も申し上げて来たとおり、日達管長は三大秘法の戒壇義については「いつでも、何処でも『事の戒壇』」という邪義を始めた張本人なのであります。それを日達管長の邪義に染められた坊主らは「甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである」等ととんでもない邪義を垂れ流しているのであります。

坊主云く「ここに至って、日寛上人が、三秘中、本尊と題目についてのみ示され、戒壇については残されてあった、「事」の二重の意義が顕然となり、また、戒壇御本尊と他の御本尊との関係による事・義の立て分けの真義が明瞭となった。浅井らは、ともかく、御歴代のどながた仰せである、ゆえに宗門古来からの定義である等と強弁するのみで、法門の道理よりも、単なる「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか。」について

坊主らは再び此処へ来て、日寛上人の文底秘沈抄の中には本尊と題目に、二重の意義があることを示されたているとする邪義と、日寛上人も説き明かされなかった戒壇にも、二重の意義がある事を日達管長が初めて説き明かされたと称する邪義を吹聴しています。

それと、先頃国立戒壇を叫ばれていた第五十九世日亨上人、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、第六十六世日達上人等の四上人を指して「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか」等と非難しているのでありますが、これこそ、立正安国論の御精神を踏みにじり、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる御本仏の金文を破壊せんとする逆賊ともいうべき恐るべき非法の衆なのであります。

坊主らが云う二重の意義とは次のようなものでした。即ち本尊については「当流の意は事を事に顕わす」というもので、題目については「事を事に行ずるが故に事と言うなり」というものでした。しかしながら、それらの御言葉の中にどうしたら、本尊と題目に夫々二重の意義を認めることができるのでしょうか。さらに、戒壇については「いつでも、何処でも事の戒壇」とするもので、広宣流布した時には改めて、事の戒壇を大石寺の境内に建てるという邪義であります。

繰り返しますが、三大秘法の本尊、題目、戒壇にそれぞれ二重の意義が生ずるのは、三大秘法を開いた場合にのみ、二重の意義が生じて、はじめて六大秘法となるのであります。それ以外では三大秘法に二重の意義が生ずることは決してあり得ないのであります。

坊主云く「そもそも、広布の暁に建立されるという戒壇の建物と、大聖人出世の本懐たる大御本尊の当体及び所住と、いずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか、寛尊の「一大秘法」「三秘総在」との御教示を拝すれば、筋道は明白である。したがって、日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」について

坊主の記述は何処まで行っても言語明瞭意味不明です。「戒壇の建物と、大御本尊の当体及び所住のいずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか」とは、如何なる意味なのか、邪義が高じて頭破七分を患った者でないと、こうした文章は読む事が出来ません。

それに「日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」とは、仰天ビックリですね。

日達管長は、戒壇に事・義を立て分けることを真っ向から否定し、御本尊のおわします所は「いつでも、何処でも事の戒壇」として、義の戒壇は絶対に存在しないと言い張っていたのであります。それを今になって、「根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである」とは、狂人の戯言としか言いようがありません。日暮れて道なお遠しの感を深くするばかりであります。

まさに、「唯仏与仏。乃能究尽」の文を見るごとくであり、浅井ごとき一在家がこれに異議をさしはさむなど、増上慢の極み、狂気の沙汰と断ずる以外にない。もっとも、浅井の妄説出来が戒壇に関する大事の法義開示の機縁となったのであるから、「魔及び魔民なりとも皆仏法を護る」のいみにおいて、正法興隆の役に立ったと言えなくもない。その逆即是順の功徳によって、浅井は、千劫阿鼻地獄に堕ちた後、再び日蓮大聖人の正法に値遇することであろう。」について

それにしても大仰な表現ですね。取り返しのつかない邪義を吹聴した日達管長を「唯仏与仏。乃能究尽」の体現者ごときに称揚するとは、驚きを通り越して呆れてしまいます。その意味するところ、唯仏と仏のみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり。となりますが、これは、御本仏大聖人様と、末法万年の総貫主たる二祖日興上人との間で授受される、唯受一人の血脈相承の事を指すのであります。

それに対して、日達管長は富士門流七百年の間、些かの濁りも曲がる事なく、清く正しく、清浄に伝持されて来た三大秘法義を曲げて邪義を構え、宗門に壊滅的な打撃を与え、今日の体たらくをもたらした稀代の悪僧・邪僧ともいえるその根源であります。焦眉の急は、早く上代の富士の清流を取り戻さないかぎり、取り返しのつかない国家的な災いを招来する事になります。

立正安国論に云く「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」と。

亦云く「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何んが為んや」と。

つづけて云く「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」と。

此処で仰せらる「正道の侶」の元意は、本来御本仏大聖人様を指す御言葉でありますが、その御文をお借りして一言申し上げるならば、不幸にして悪僧日達管長の出現以来、今日の富士門流日蓮正宗には、正道の侶と呼ばれるに値する御僧侶は、残念ながら何処を探しても、一人として見当たらなくなりました。

一刻を争って、富士の清流を速やかに取り戻さなければなりません。





またまた邪義を垂れ流している

2017年07月29日 14時31分37秒 | 亡国の坂道 
坊主らは、摧破異流義孝誌(P.24~28)に、〝一、本門戒壇について〟と題して次のように記しています。

日蓮大聖人の御化導中、三大秘法の名目が初めて示されたのは、佐渡流罪中の文永十一年に御認めの『法華行者値難事』においてであり、以後、重要御書をもって三秘の内容・意義を明かされている。しかし、本門戒壇については、ただ名目のみを挙げられ、その内容・意義については直接に説き明かされることはなかったのである。そして、御入滅間近の弘安五年に至って、初めて『三大秘法抄』に、

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」云々(御書1559㌻)と説かれ、さらに日興上人への御付嘱状たる『一期弘法抄』に、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」(御書1675㌻)と示したもうたのである。

以来、この本門戒壇の意義については、本宗の御歴代上人方が時に応じて分々の御指南を遊ばされてきたが、近年、浅井昭衛らのごとく、この本門戒壇の深義に異見を生ずる誹謗の輩が出来してきたために、第六十六世日達上人は、御相伝の法門によって本門戒壇の意義と内容を整理・体系化され、戒壇に関する教義の詳細を初めて明確にお示しくださったのである。今、その御指南を拝して、本門戒壇の意義を簡略に述べてみる。

戒壇に事義の立て分け

大聖人の仏法における戒法とは、爾前迹門の教法を捨てて独一本門の本尊を受持(この受持とは、むろん受持信行の意である)し、即身成仏を遂げることであり、天台の理の戒に対すれば事の戒となる。それは、天台の説く教法が迹門理の一念三千であるのに対し、大聖人は文底独一本門事の一念三千であり、しかも末法は今時においては、『上野殿御返事』に「今、末法に入りぬれば余経も法華経も栓なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219㌻)と説かれるごとく、いかに法華経に即身成仏の教はあっても、事実として即身成仏の利益を生ずるのは大聖人の南無妙法蓮華経に限られるからである。

さらに第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に「当流の意は事を事に顕わす」(聖典838㌻)とのお示しの意によれば、天台が理念的に法華経を受持するのに対し、事の一念三千の法体を事相の上に本尊として建立されていることもまた、天台仏法を理、大聖人の仏法を事とする所以といえよう(むろん事理の立て分けの正意は、教法の体そのものに理事の異なりがあることになる)。したがって、大聖人の顕わされた本門の本尊を受持し即身成仏を遂げていくことが、末法における事の戒法となるのである。

また、本門の本尊を受持ということであるが、最初に授戒を受けるのも、以後の修行も、すべて本門の本尊御安置の場所で行なわれる。その場所を戒壇といい、即身成仏の戒法を成就せんとする者は、必ず、この戒壇に詣でて信行に励むのである。

ところで、大聖人一期の御化導は、弘安二年十月十二日の大御本尊に極まる。この大御本尊こそ、末法の一切衆生即身成仏のための事の一念三千の当体にして、本門の本尊の窮極の実態にあらせられる。ゆえに、この弘安二年の大御本尊御安置のところ、すなわち本門事の戒壇であり、これに対すれば、天台宗延暦寺の戒壇は末法に無益な迹門理の戒壇となるのでる。
」と。

此処へ来て坊主らは、またまた邪義を垂れ流しています。うっかりすると何の疑問もなく読み流してしまいそうですが、坊主らは、「戒壇に事義の立て分け」と称して、わざわざ表題まで設けています。したがって此処では、本門の戒壇義を論ずる項であるにも拘わらず、俄かに、「天台の説く教法が迹門理の一念三千であるのに対し、大聖人は文底独一本門事の一念三千であり、しかも末法は今時においては、『上野殿御返事』に「今、末法に入りぬれば余経も法華経も栓なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219㌻)と説かれるごとく、」などと、上野抄の一節を持ち出し、あるいは日寛上人の文底秘沈抄の一節を釈するなどして、「天台が理念的に法華経を受持するのに対し、事の一念三千の法体を事相の上に本尊として建立されていることもまた、天台仏法を理、大聖人の仏法を事とする所以といえよう」などと、巧妙に問題をすり替えて得々としていますが、今、「の戒壇」と「の戒壇」の違いを論じている時に、何故に、次元の異なる天台の理の一念三千と大聖人様の文底下種事の一念三千の法体の違いを持ち出して、「この弘安二年の大御本尊御安置のところ、すなわち本門事の戒壇であり、これに対すれば、天台宗延暦寺の戒壇は末法に無益な迹門理の戒壇となるのでる。」となるのか、論理矛盾も甚だしいと指摘せざるを得ないのであります。

すなわち「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、時の天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書を申し下して(現代にあっては、国家意思の表明として国会の議決を経る)富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇のことを、唯一「事の戒壇」と云い、大聖人様がその御事を三大秘法抄に「事の戒壇とは」「一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。」とせられ、その戒壇を「事の戒法」と仰せ遊ばされているのであります。

日寛上人は、「事の戒壇」について、次の如く仰せであります。

云く、「夫れ本門の戒壇に事あり義あり。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処・義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に『仏其の中に住す即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり』等云々、宗祖云く『此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』云々」(南条殿御返事)と。

亦云く、「本門戒壇に事あり、理あり、理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当たるなり。経に云く『当知是処即是道場』とは是れなり。天台曰く『仏住其中即是塔義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等皆摘々書写の本尊を安置す、其の処は皆是れ義理の戒壇なり。(中略)次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して・・・・・事の戒法とは是なり』等云々。」(法華取要抄文段)と。

日寛上人の仰せられる「事の戒壇」とは、大聖人様から二祖日興上人へ賜わった、一期弘法付嘱書にお示しの「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」と御下命遊ばされた本門寺の戒壇の御事を指し給い、また、三大秘法抄の「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり」と御教示せられた広宣流布の暁の、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇のことを指しているのであります。

したがって、坊主が説明する天台の法華経文上迹門の理の一念三千と、大聖人様の説かれる法華経本門文底秘沈の事の一念三千との法体の違いを挙げて、天台の教法を「」、大聖人様の三大秘法を「」とする法体の違を持ち出すなんて可笑しな話であります。日寛上人が法華主要抄で仰せられるごとく「是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ」と注意を喚起されている意味は、あくまでも、広宣流布以前の戒壇の大御本尊のおわします御座所は、校倉にあっても、土蔵にあっても、御宝蔵にあっても、あるいは奉安堂にあっても、「義の戒壇」と定義づけられているのであります。

思い出して下さい。昭和45年4月3日、本山の対面所で日達管長と浅井昭衛氏の間で交わされた「事の戒壇」について、日達管長は浅井氏の正論にねじ伏せられ、面目丸つぶれの情景を再現して見ましょう。

日達管長、「『大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」

浅井、「本宗では従来、広布の暁に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それまでの大御本尊まします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか・・・・・」

日達管長、「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事乃本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」

浅井、「お言葉ですが、『事の一念三千』の『』とは、文上脱益の理の一念三千に対して『』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『』と『』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが・・・・・

日達管長、「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

(怒気を含む強い調子で同じ言葉を繰り返された)

浅井、「では、御遺命の事の戒壇はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

(猊下は困惑の色を示してしばしば沈黙されたが、やがて意を決したように、広宣流布の時の事の戒壇は国立ですよと明確に云われ)

日達管長、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。」

浅井、「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達管長、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます」

浅井、(「猊下は明言された。そして最後に 『妙信講の信心に、私は負けました』とまで仰せられた)とあります。

坊主云く「次に、この事の戒壇に対し、他の大聖人御認めの数多の御本尊、また日興上人以来御歴代の書写せられた御本尊の所住のところを、義の戒壇と申し上げる。それは、これらの御本尊は悉く根源の弘安二年の大御本尊の分身散体であり、根源に対する枝葉の関係にあたっているから、信行者が各寺院・家庭において御本尊に向かうところ、その意義は事の戒壇にあたり、即身成仏の戒法を成就する、すなわち義理が事の戒壇にあたるところから、あえて根源の事の戒壇と分けて説明するときには、義の戒壇と称するのである。」について

坊主らは、次に「この事の戒壇に対し」としていますが、そもそも広宣流布以前には「事の戒壇」は存在していないのであります。それにも拘らず、坊主らは事の戒壇が有ることにして義の戒壇を説明していますが、彼等が言う義の戒壇の説明についてはまんざら間違いではないものの、富士門流七百年の伝統教義の展開の上から説明するならば、正しく「義の戒壇」とは、広宣流布に至るまでの間、本門戒壇の大御本尊がおわします処を「義の戒壇」と称し、広くは、大聖人様が御認めになられた数多の御本尊並びに歴代上人書写の御本尊、あるいは各末寺の本堂に掲げてある御本尊の在所を「義の戒壇」と定義せられているのであります。依ってそれに付随する各家庭に於ける御本尊のおわします所を、富士門流では七百年の間、併せて「義の戒壇」と称して来たのであります。

それに対して、正しく「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、勅宣並びに御教書を申し下して、富士山天母ヶ原に建立される最終の戒壇、即ち国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称して来たのであります。

以上のような事の戒壇・義の戒壇の立て分けは、日寛上人の御説法を四十三世日相聖人が科段に分けてお書きになった『三大秘法・・・・大貳阿闍梨(日寛上人)御構の聞書』にも、「在々処々本尊安置の処は義(理)の戒壇なり」とされ、「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と示されているのである。」について

日寛上人の御講聞書を後年、日相上人が科段に分けてお書きになられたメモによると「在々処々本尊安置の処は義(理)の戒壇なり」とせられ「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」とお示しになられています。それによる「義の戒壇」「事の戒壇」の説明については、富士門流七百年の伝統教義を正しく継承せられたものでありますが、ここで注意を要する問題として「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられる意味は、広宣流布の暁の富士山天母ヶ原の国立戒壇の御事であって、現在の富士大石寺の奉安堂におわします戒壇の事を指しているのでは決してありません。したがって、現在奉安堂におわします戒壇は「義の戒壇」と称するのでありますが、それを坊主らは、現在奉安堂におわします本門戒壇の大御本尊を「事の戒壇」と決め付けるから邪義というのであります。

坊主云く「さて、こうした事・義の立て分けによる根源の事の戒壇は、「御義口伝」に「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非らざるなり。(中略)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり」(御書1794㌻)と仰せの意、また御相伝の『戒壇御説法』に「戒壇の御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所すなわち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」とお示しであることから拝すれば、何時、いかなる場所であろうとも、根源の大御本尊を奉安格護申し上げるころが即、事の戒壇である。」について

坊主らは、彼の日達管長が昭和45年4月3日、浅井昭衛氏との間で取り交わした事の戒壇に係わる対論の中で、卑劣にも、日達管長は、日開上人の御宝蔵説法本の一節を引用しながら、「それは日応上人のものですね。あれには省略されている部分が在る。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきものではないが、この中に、戒壇の大御本尊まします所は『事の戒壇』とあるのです」などと勿体ぶって、大切な御文の前の部分を両手で隠しながら読み上げたものが「戒壇の御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所すなわち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」と記された一節だったのでありますが、その御文の部分のみを見せて、戒壇の大御本尊おわします所は、いつでも何処でも事の戒壇という邪義を垂れ流す根拠にしていたのであります。いま、坊主らは、まさしくあの時の日達管長の二番煎じをやってのけた卑劣な行為と指摘しておきます。

忘れてはならないのは、その前の御文には「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る」「戒壇の大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々と記された、大聖人様が南条抄の中で御教示下された御文を切り文にして「事の戒壇」を説明する根拠にしていますが、卑劣な坊主らは、今度は、傍線部分の最も大切な御文を切り文にして邪義を垂れ流しているのであります。これを称して、拙者は、日達管長の二番煎じと非難しているのであります。

つづく








キリストの教神父を招いた理由は本宗の伝統精神なんだぜ!

2017年06月05日 04時15分07秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.19~21)に、「四、キリスト教神父云々について」と題して、堕落した坊主らは、またまた呆れ返るような言い訳と邪義を垂れ流しています。

坊主云く「浅井等は、『正本堂の完工式には、キリスト教の神父が邪法の法服を着て出席した。これは邪宗邪義を容認する謗法行為である。』等と大石寺を非難する。しかしながら、正本堂完工式は、大御本尊を正本堂に安置申し上げる前に、建物だけを披露する形で行われたもので、出席については、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣・駐日各国外交官等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場・資格ににおいて参加を認めたものだった。その中に、バチカン大使館からの強い希望で参加した、バチカンの駐日外交官二名がいたのである。

これを指して浅井等は、『キリスト教の神父が』云々と非難しているわけだが、こうした社会的・世間一般的な意味で本宗の境域へ参詣してくる場合には、いかに謗法者とはいえ、将来の順延に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』や五十九世日亨上人の『富要集』等にも示されている、本宗の伝統精神なのである。その旨、大石寺では再三にわたって浅井等を諭したが、何としても自らの非を認めまいとする頑迷な浅井等は、これを社会的立場の参加ではなく宗教上の立場の参加であった、と強弁して『邪法の法服を着て』等と言い出したのである。

これとて、専門家の指摘によれば、バチカン外交官が著ていたのは、単なるローマンカラーと背広であり、いわゆる法服・祭服などではないということだから、まったくお話にならない。浅井等の大石寺非難などというものは、所詮、この程度のものであるという、よい実例である。ともあれ、今日の浅井一派は、『日蓮正宗』や『富士大石寺』の名を詐称し、あたかも大石寺の認める正しい組織であるかのごとく装っているが、実態は、以上述べてきたような妄説に基づいて日蓮正宗富士大石寺を誹謗し、創価学会と同様、御法主上人猊下を口汚く罵って、僧侶不要の在家仏教路線をひた走っているのである。(むろん、個々の会員が顕正会を脱会し、正宗に帰伏することについては、別な話だが)。その現実を盲目的な会員達に知らしめ、折伏していくことが肝要であろう。」等と。

上記のように坊主らが必死になって言い訳をしています。正本堂の完工式の法要に参加したキリスト教神父は、「バチカン大使館からの強い希望で参加したのである。」等と苦しい言い訳をしていますが、真に、正本堂の完工式を開催するだけの式典ならば、坊主らがいうように、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場の者だけの参加に制限すれば良かったのであります。それに屁理屈の上塗りをして、「バチカンからの参加したキリスト教神父は、外交官として出席した」などと屁理屈に屁理屈を重ねた言い訳をし、問題を政治・外交の問題にまで広げて開き直っていますが、単なる正本堂の建設をお祝いするだけの式典ならば、たとえニセ戒壇正本堂の完工式だろうが、こけら落としの法要だろうが、事もあろうに、外道のキリスト教神父を、謗法禁断の正系門家の聖域に招き入れて、御本仏大聖人様の御顔に泥をぬりつけ、自らの謗法行為を正当化しているのでありますが、こうした思い上がった無神経な行為は極限の大謗法を犯している事となり、後々に取り返しのつかない災いを招く事になるのであります。
   
当日、ニセ戒壇正本堂完工式の式典に招かれたキリスト教神父は特別な歓待を受け、最前列の貴賓席に少なくとも五人~六人が写真に納まっているのでありますから「バチカンの駐日外交官二名がいた」とする坊主らの言い訳は嘘八百ということであります。その上、当日は別な御本尊を奉掲して未だ信心していない謗法者を対象に、御開扉を恭しく行ったと云われていますが、未だ未入信の大謗法の連中に御開扉を行なうこと事態、大きな間違いを犯している事になるのでありますが、坊主らはその間違いに気が付かないほど信心が腐っていたのであります。式典の開始と共に長い勤行がはじまった時には、工事関係者はもとよりキリスト教神父たち謗法者は、勤行が終わるまでの長い間、それこそ身の置き所がないほど、これから何が始まるのかなどと疑心感に駆られ、どぎまぎしながら身の処し方に戸惑いを感じていたのではないでしょうか。

それに今日の宗門に巣食う堕落した坊主らは、自らの腐敗と堕落を正当化するために、わざわざ日有上人の「化儀抄」や日亨上人の「富要集」をの一節を持ち出して、屁理屈を正当化しようと躍起のようですが、化儀抄の引証文の解釈そのものが間違っているのであります。

坊主らが引用した日有上人の化儀抄108条には次のようにあります。「法華宗の御堂なんどへ、他宗他門の人参詣して、散供まいらせ花を捧ぐる者あり。之を制すべからず。既に順縁なるが故なり、但し、大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養申せとあらば、一向取り次ぐべからず。謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云々」とあります。

化儀抄で仰せられる意味はこういう意味なのであります。

例えば、日蓮正宗の本山あるいは末寺に他宗他門の者が参詣して、散供米や花などを供えて手を合わすことがある場合、その行為を禁制する必要はない。それらの者は、すでに順縁の者であるから一向に構わない。但し、供養の品々を僧侶に託して、御本尊様へお供えして下さいと頼まれる事があった場合、それは謗法者からの供養であるが故に絶対に取り次いではならない。仮に僧侶がそれを取り次いで供養の品々を御本尊様へお供えした時は、僧侶は謗法を犯す事になるから与同罪を被ることになる」と仰せられているのであります。

ところがニセ戒壇正本堂の完工式に派遣されたキリスト教の神父らは、バチカン市国、あるいはアメリカ合衆国から、それぞれの国を代表して派遣されて来たキリスト教会を代表する神父達であります。いわば彼らは骨の髄までキリスト教に染まりきった選りすぐりの外道の権化であります。たとえ彼らが戒壇の大御本尊のもとに案内されたとしても、恭しく信を垂れるような心根などさらさら持ち合わせていない謗法者をとらまえて、「順縁の者」と言えるのでしょうか。坊主らの言い訳は、無知の信徒には通ずるかも知れませんが、御本仏大聖人様の御目を誤魔化すことはできないのであります。

そもそもニセ戒壇正本堂の完工式を利用して、バチカンやアメリカからキリスト教神父を招請した理由は、彼の池田大作が世間の妙利におぼれて、来るべきノーベル平和賞を獲得しようとする手の込んだ布石だったのであります。宗門の堕落した坊主らは、池田の曲がった心から発せられる卑しい根性が、諂いのあまり見抜けなかったのか、似非信徒池田の要請を唯々諾々と受け入れて、キリスト教の神父を喜んで招き入れて平然としているのであります。

またそれを、「将来の順縁に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』の御教示」などと化儀抄に記された御教示を曲げて引証するとは恐れ入りました。兎にも角にも池田に諂って、宗門の犯した大謗法を正当化して、何とか切り抜けようとする邪義坊主の卑劣な魂胆は、大聖人様が決してお許しにならないのであります。(敬称は略す)






大坊棟札は贋作と決めつけ、天母ヶ原戒壇説を否定する坊主の邪義

2017年05月30日 14時14分22秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.15~17)に記された次の邪義は、「三、天母山戒壇説について」と題して、妙観講の大草一男と坊主らは、顕正会の主張は、すべて邪義だと宣伝しています。

云く「浅井等は、広宣流布の暁に建立すべき戒壇の場所は、大石寺の東方四キロにある天母山である。それは宗開両祖以来の本宗の教義である」と主張し、『大石寺大坊棟札』の裏書きを証拠として挙げる。この大坊棟札とは、第二祖日興上人の御筆といわれるもので、その裏書の文に『天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり』とあることから、天母山戒壇説の論拠にされているわけだが、この裏書は、実は日興上人の御筆などではなく、後世の贋作である。

その証拠として、棟札というからには大石寺大坊の上棟時に入れる筈なのに、裏書きの日付は、大石寺大坊の完成より半年も後になっており、その文字の書体も、棟札の日付より七年後に生誕した尊円法親王の書風が、さらに徳川時代に至って変形した、いわゆる〝御家流〟と呼ばれる書体であり、そのうえ、日興上人御自身の御署名が、正しくは日興と書かれるべきところを日〇と間違えており、その後に必ず加えられるべき花押(御判)すらないのである。

このような贋作をもって、天母山戒壇が宗開両祖以来の本宗の教義である。とするのは、それこそ多くの人々を欺く誑惑に他ならない。では、天母山戒壇説が、いったい、どこから言い始められたものであるかというと、大聖人の滅後二百年頃、他門流の京都要法寺の僧であった左京日教が、大石寺・重須方面へ来て、本宗に帰依し、その数年後に著わした『類聚翰集私』という書に、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(富要集二巻三二三㌻)と、天母山とは述べてはいないが、『天生原』云々と述べているのが最初である。

しかしながら、この『類聚翰集私』とういう書は、日教師が大石寺で学んだ教義のみならず、日教師自身の偏った主観も加えて述べられているため、少々注意を要する書であって、なかんずく、この『天生原』云々の箇所については、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(冨士日興上人詳伝二六八㌻)と。

つまり、六万もの仏教建造物が建つほどの広大無辺な場所は何処にも存在しないとして、明確に、日教師の主観による偏った説であることを指摘されているのである。さて、この日教師の説により、さらに八十年後、京都要法寺の日辰が『御書抄・報恩抄下』を著し、その中で重須方面での伝聞に、『富士山の西南に山あり。名おば天生山と号す。此の上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本において仁王門を建て、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立』云々と、はじめて『天生山』に戒壇建立と云う説を書いた。

その源が、前述した左京日教師の謬説にあることはもちろんで、これが天母山戒壇説の発生した経緯である。したがって、天母山戒壇説は邪義であり、それが、いつしか本宗の教義のごとく伝わったものといえよう。こうした歴史的検証を無視して、日辰より後代の、天母山戒壇説を用いた文献や、すでに贋作と判明せる裏書きなどを、平気で振り廻す浅井等の感覚は、もはやまじめな求道者のそれではない。まさに、本宗法義を惑乱する、魔の所業である」等と決めつけ、浅井会長の「天母ヶ原」戒壇説を得意満面で否定しています。

それでは坊主らが展開する大坊棟札贋作説等について、拙者が反論を加える事にします。

どこまでも邪義をつらぬく坊主らの指摘によれば、顕正会の浅井氏は、「大石寺の東方四キロにある天母山である。それは宗開両祖以来の本宗の教義である」と主張しているなどと誹謗していますが、浅井氏は天母山戒壇説を一度たりとも主張した事実はありません。浅井氏の主張は最初から一貫して天生ヶ原戒壇説であります。以前にも触れたと思いますが、大石寺東方四キロの天母山は、中心に約せば山となり、麓に約せば原となると書いた筈です。

それに坊主らの主張によると、大聖人様滅後の二百年間は、富士門流の大石寺には、富士山天生ヶ原の戒壇説は存在しなかったことになっていますが、御開山日興上人の大坊棟札裏書きには、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」と記されている等といっています。是れ、第一の矛盾であります。そのうえ、「大聖人様滅後、二百年後に他門流の京都要法寺の佐京日教師が大石寺・重須方面へ来て、本宗に帰依し、『類聚翰集私』なる書のなかで、天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり。と、天母山とは述べてはいないが、『天生原』云々と述べているのが最初である。」としています。そして、広宣流布の暁に建立される、「事の戒壇」の建立地について、「天生ヶ原」と言い出したのが要山の日教師が最初で、それより八十年後におなじ要法寺の日辰が、天母ヶ原戒壇説を報恩抄下に、天生ヶ原と書いたのは、左京日教師の謬説を真似たものだとしています。そうすると富士門流には大聖人様滅後、200年+80年=280年間は、天生ヶ原戒壇説は元々なかったことになりますが、大きな矛盾が生じます。

そもそも御開山日興上人が大坊棟札に裏書きされた文言には、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」の御文が記されている事実こそ、軽々に否定できない最も大切な御文なのであります。それを一口に贋作などと誹謗して、笑い飛ばす堕落僧の幼稚な態度こそ大聖人様に対し奉る背逆行為であり、これを大謗法というのであります。こうした坊主らの道念の無い腐った信心には、憐れみさえ覚えるのであります。

ここでいう「天母ヶ原」とは、日本第一の名山たる富士山の南麓の景勝地のことであります。ゆえに大聖人様は此の地をつい指して三大秘法抄に、「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられています。この地は、雄大な富士山を背にして南面に広がる広大な広野は、駿河湾まで伸びる絶景の地と云われています。故にこの地は古来より、「天子南面に住す」と謂われ、王城の立つ所といわれている由緒ある宝土であります。

ゆえに御開山日興上人は、大聖人様の御意を帯して斯く仰せであります。「仏法と王法とは本源体一なり。居所随って相離るべからざるか。乃至、然れば駿河の国富士山は広博の地なり。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)と御教示であります。

浅井会長は上記の御文を釈して云く「明文白義天日の如し、全く王仏冥合の事相、大聖人の御本願を此処に拝し奉る。仏法・王法本源体一の金文をただ理に約した一往の通義に拝し止まってはなるまい、これぞ本国土妙・王法の淵源を明かし給う御文ではないか。されば事の広宣流布の時来たれば、天子自ら本門戒壇を丑寅の方角に望み、王城を築き一所に居し、身を賭して守護し(本門戒壇の大御本尊)給うのである。事相の王仏冥合、三大秘法抄の明文、ここに豁然として輝く思いである」と。

つづけて「しからば本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに、「無辺行・日興上人の垂迹・本化聖天子」と。そしてその時の、「御法主上人は日目上人」(正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う)と。

また、第五十六世日応上人は「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布と云う。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」(御宝蔵説法本)と仰せられているのであります。

ところが邪義に染められた坊主らは、『天生ヶ原』云々の箇所については、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(富士日興上人詳伝二六八㌻)等と日亨上人が仰せられている御筆記が有るとして、富士日興上人詳伝の一節を持ち出して、それを証拠としているようですが、仮に、日亨上人がそのような事を仰せられたとしたら、宗開両祖の御意に背反する言辞であり、それは大きな間違いであると指摘しなければならないのであります。

おおよそ、富士山麓の広大な「天生ヶ原」を寸地などと表現されたのは、富士門流七百年の歴史の中で、おそらく日亨上人だけだと思われるのでありますが、それには大きな意味があると思われるのであります。拙者の解釈を一言するならば、寸地と仰せられた意味は、六万もの坊舎を建てるには、天生ヶ原も寸地になるという意味であります。

また、大坊棟札に裏書きされた「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」の御文があるとすれば、それも強ちに否定はできませんが、一考を要する問題であります。それに、要法寺の左京日教師が、「類聚翰集私」に書いた、「六万坊を立て」の文言を沈思黙考するに、真意を計りかねているところでありますが、大坊棟札の裏書にもあるとおり、富士門流では二祖日興聖人以来、天母原戒壇説が早くから囁かれていたものと思われます。

大坊棟札の裏書きや日教師のいうとおり、仮に、六万坊の坊舎を建てるとして単純計算した場合、6万坊×1人=6万人、6万坊×10人=60万人、6万坊×100人=600万人となり、誰が考えてもバカげた話であります。如何に広宣流布したとしも、全世界から多くの信徒が幾度にも分けて御開扉を受けるにしても、それは物理的に無理な話であります。

ここで大きな疑問を感ずるのは、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(冨士日興上人詳伝二六八㌻)とされた引用箇所の中に、「天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らす事大なり」とありますが、(中略)の所の文言を見なければ、堕落した坊主らの話を一概に鵜呑みにはできないのであります。

日亨上人は、日教師の富士門流の法義に反した何らかの大きな間違いを指摘されて、「日教の意を見るべし、空談にせよ如何に重畳しても、摩天楼にしても・・・」と仰せられたのであって、今日の坊主らが解釈しているような、天生ヶ原を、「寸地」として表現されたお書き物があるからといって、「天生ヶ原」戒壇説を笑って、反対する坊主の話の方が疑わしいのであります。日亨上人が佐京日教師の書いた類聚翰集私の中にある、「六万坊」を批判される前に、それ以前に存在する大坊棟札裏書きに記された、「六万坊」の記述を批判してやり玉に挙げるべきが、当然と思われるのでありますが、大坊棟札には一切批判を加えておられません。可笑しいですね。これではまったく平仄に合わないのであります。

坊主自らが指摘していますように、「この『類聚翰集私』とういう書は、日教師が大石寺で学んだ教義のみならず、日教師自身の偏った主観も加えて述べられているため、少々注意を要する書」などと偉そうに記しながら、自らが注意を怠り、日教師の文章に溺れてデタラメな解釈をした上、大謗法を犯しているのが現在の坊主の哀れな姿なのであります。

日亨上人は逆説的に、如何に広博な天生原と雖も、「六万坊」もの坊舎を建てるとしたら「寸地」になる。と仰せられているのであります。

序でに申し上げれば、「六万坊」という表現は、「数多くの坊舎」という意味であって、何も天生ヶ原に六万坊もの坊舎を建てるという意味ではないのであります。

御本仏大聖人様が三大秘法抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、」と勧奨遊ばされた本門戒壇建立の場所とは、富士山の、「天母原」のことであります。故に、第二祖日興上人に御下命された一期弘法抄には、「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御示しなのであります。

それを坊主らは、京都要法寺の日教が、「類聚翰集私」の中で本門戒壇の場所について、「天母原」と述べたのが最初だと言っているのでありますが、ウソをつくにも大概にしなければなりません。坊主が言っていますように、左京日教なる者は、邪僧日向の流れを汲む京都要法寺の他門流の僧であります。それが、「大聖人様滅後二百年頃大石寺・重須方面に立ち寄った序に本宗に帰依した数年後に、類聚翰集私の中で述べたのが最初だと嘘をついているのでありますが、他門流の京都要法寺には、元々血脈相承は存在しない宗派であります。

左京日教師は、本宗に帰依して初めて富士門流の法義を学んだからこそ、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」との文を、「類聚翰集私」に自分なりの思いをおり混ぜて記すことが出来たのであって、第三祖日目上人の天奏に御共申し上げた日尊師が開基となった要法寺には、最初から血脈相承は存在していなかったのであり、ましてや広宣流布の暁の「天生ヶ原」戒壇説などは元々存在してはいなかったのであります。

大聖人様以来の富士門流の大石寺には、第二祖日興上人が賜った一期弘法抄を見るまでもなく、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇は、富士山麓の、「霊山浄土に似たらん最勝の地」である、「天生原」ということが決まっているということであります。今の坊主らの言っていることは、完全な間違いであります。

ここで再度申し上げるならば、「天母山」も、「天生ヶ原」も、同じ場所の事であります。すなわち中心に約せば、「山」となり、麓に約せば、「原」となるのであります。

次に、「三堂」とは、①本門事の戒壇堂 ②大聖人様の御影堂 ③垂迹堂などの建物のことであります。したがって、広宣流布の暁に建立される最も大切な本門寺の戒壇堂の建立の地は、大坊棟札にあるごとく、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」との書き置きは、「六万坊」の解釈を誤らない限り真正であり、宗開両祖の意を帯しているのであります。

ここでもっとも大切な事は、大坊棟札の日付や筆跡云々ではなく、広宣流布の暁に国家的に建立される本門寺の戒壇堂建立の、「場所」に言及しているこそが一番大切なのであって、今の堕落した坊主らは、国家的に建てられるべき国立戒壇に反対したいがために、あえて、「天母ヶ原」を否定し、大坊棟札の日付のズレ等を持ち出して贋作呼ばわりをしていますが、この卑劣な態度こそ、木を見て森を見ない典型であります。

彼の第六十五世日淳上人は、今日の坊主らが口を曲げて大坊棟札を贋作などと誹謗するバカげた態度を誡める如く、大坊棟札の存在は、富士門流に伝承された真正な御宝物(ごほうもつ)として取り扱われているのであります。

日淳上人の云く、「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります。大石寺大坊棟札に、『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられているのであります。

先ほども触れましたように、そもそも、「天生ヶ原」が存在する場所は、富士山以外には存在しないのであります。邪義の虜となった坊主らが垂れ流す、京都要法寺の佐京日教師が、「天生原」と述べたことが最初だったというのは嘘八百であることが解ります。

御本仏大聖人様以来、富士門流の歴代先師上人は異口同音に、本門戒壇の建立地は、日本の名山たる、「富士山」南麓の景勝地、天生ヶ原戒壇説の伝承を堅く御守りしてきたのであります。

一期弘法付嘱書に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状をまもるべきなり。 弘安五年九月  日 日蓮在御判   血脈の次第 日蓮 日興」と。

次に第二祖日興上人の仰せを拝します。

云く「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山にたてらるべきなり」(門徒存知事)と仰せであります。

つづけて「国主此の法を立てられる時は、当国天母原に於いて、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)と。

次に第九世日有上人の仰せに云く「もし国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置すること御遺状の面に分明なり」(御物語抄)と。御遺状とは、大聖人様より第二祖日興上人が賜わった一期弘法抄の御事であります。

次に第二十六世日寛上人の云く「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり、御相承を引いて云く、『日蓮一期の弘法、乃至、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり云々』」と仰せられるのであります。

つづけて三十七世日琫上人の云く「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り、此の時において富士山の麓に天生原に戒壇堂を造立あって、・・・・」(御宝蔵説法本)と。

さらに第五十六世日応上人の仰せには「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇建立あって、・・・・」(御宝蔵説法本)と。

それに対して、要法寺の日教師が書いた類聚翰集私を見た日亨上人は、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(富士日興上人詳伝二六八㌻)の文を挙げて、天生ヶ原戒壇説を批判されているとして、邪義に染まった坊主らは鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいますが、当の日亨上人も次のように、国立戒壇を宣揚しておられるのであります。

第五十九世日亨上人の云く「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華十一号)と。

亦云く「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

三大秘法の広宣流布の暁の大本門寺建立の場所は、富士山天母ヶ原以外には存在しないのであります。この最終の戒壇を、唯一、「事の戒壇」と称するのであります。








大草一男と堕落した坊主らの恐るべき邪義とは

2017年05月23日 11時21分55秒 | 亡国の坂道 
暁鐘編集室から発刊された「摧破異流義考」(P.13~14)に記された邪義の第二弾として「一、戒壇の法義の開き方について」と題して、妙観講の大草一男と邪義で固まったお坊主らは、次のようなとんでもない頭破七分の戒壇義を書き連ねています。そうした一連の邪義は、顕正会が宣揚する国立戒壇論を誹謗したものでありますが、彼らの展開する理解しがたい言語明瞭意味不明な邪義には、読者の便を図るため数字と太文字を用いて記すことにしました。

大草と坊主云く

①「まず、浅井等は、『三大秘法のうち本門(事)の戒壇は、広宣流布の暁に初めて建立されるものであり、それ以前に大御本尊が安置せられる処は、その意義が本門事の戒壇に通ずるというだけであって、本門事の戒壇とは称さない。したがって、“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”とする。大石寺の立場は大聖人の仏法に違背している」等と主張する。そして、大聖人の『三大秘法抄』に〝国主ほか一国の大衆が妙法に帰伏した時に本門事の戒壇を建立すべきである〟等と示される御金言や、この御金言を引いて、そのまま本門事の戒壇の説明に代えられた二十六世日寛上人の御指南、さらに日寛上人の御指南を基として示された後代の上人方の御教示を、自説の根拠として挙げるのである。仏法の道理に暗い初学の人々は、ほとんど、これに引っ掛かって迷いを起すようである。しかしながら、この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」について

それではこれから拙者が、大草一男と偉い坊主らが垂れ流す邪義を破折する事にします。

①に対する破折

大草一男や堕落した坊主らは、顕正会が、御本仏大聖人様から御開山日興上人へ賜った「一期弘法付嘱書」や富士門流が御相伝書として七百年のあいだ最も大切にしてきた「三大秘法抄」あるいは、日寛上人の御指南、歴代正師の御筆記を自説の根拠にしていることが間違いだと言っています。 彼らは恐ろしいことに、大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せの本門事の戒壇を真っ向から否定して、宗門七百年来の伝統教義を歪曲しておきながら、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇としたことが正しかったと言っているのであります。ニセ戒壇正本堂こそ邪義の根源なのであります。それほど正しい正本堂ならば建設からわずかわずか26年にして解体撤去しなければならなかったのでしょうか! 宗門は、後年創価学会と修羅と悪竜の合戦を繰り広げ週刊誌の餌にされた後、袂を分かち、あの建物は似非信徒池田大作の怨念がこもっているという理由で、ニセ戒壇正本堂は解体撤去しましたが、正本堂以来の邪義は依然として、現在もそのまま生き続けて、さまざまな弊害をまき散らしているのであります。

それに「仏法の道理に暗い初学の人々は、ほとんど、これに引っ掛かって迷いを起すようである。しかしながら、この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」などと誹謗していますが、国立戒壇のどこが誤りで、「仏法の道理に暗い初学人々」とは、いったい誰人のことを指して誹謗しているのでしょうか! そもそも出家僧侶たる者、すべての世俗の執着を捨てて、迷える一切衆生を救わんと護法の為には身命をなげうって殉教の精神に立ち、世のため人のため僧道をまっとうしなければならない立場の者が、欲望肥大と不勉強と堕落の故に、あろうことか、大聖人様の究竟の御本頑たる国立戒壇に異を唱え、富士門流の七百年来の根本教義を歪曲した揚げ句、宗門を未曾有の混乱に陥れた末に、未だに取り返しのつかない大きな誤りを犯しながら、太平楽を決め込んでいるのであります。 

つづけて云く「この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」などと大上段から振りかぶって、たいそう御慢心のご様子ですが、彼らは、大聖人様が相伝書としてお顕わしになられた一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄、日寛上人の御指南、あるいは歴代先師の御筆記等が間違いだと言っているのであります。もはやこうなったら気違いに刃物で手が付けられません。御開山日興上人は今日のような富士門流の法門に乱れが生ずることを慮られて「富士の流義些かも先師の御弘通に異せざる事」と、二十六ヶ条の遺戒置文の冒頭に厳戒せられているのであります。

そもそも富士門流の本門事の戒壇に関する邪義の発端は、六十六代を継いだ細井日達管長がエセ信徒の創価学会の池田大作に阿諛迎合した姑息な解釈から始まったのであります。すなわち“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”であるとしました。こんなバカなはなしがありますか! 邪義はここから始まったのでありますが、御本尊はそれはどこまでも「事の御本尊」であっても、たとえ本門戒壇の大御本尊様がおわします所と雖も、決して「事の戒壇」とは言わないのであります。大聖人様・日興上人の御在世には、本門の本尊と本門の題目は確立したと雖も、時至らず、本門事の戒壇だけは、広宣流布の暁を待って、後世の末弟に託されているのであります。そのことを一期弘法付嘱書に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇建立すべきなり。時を待つべきなり。」と仰せられているのであります。

また「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に時の天皇陛下の勅宣を奉戴し、国家意思の公式表明によって建立される最終の国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称するのであります。そのことを三大秘法抄に「勅宣並びに御教書を申し下して」と御教示なのであります。すなわち「事の戒壇」とは、こうした「勅宣並びに見教書」という二つの国家的手続きを経て、事相に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇のみを「事の戒壇」と称するのであります。

したがって堕落したお坊主らが宣伝する、本門戒壇の御本尊の在所は、「いつ何時なりとも本門事の戒壇」とする解釈や説明は、完全な間違いであり、とんでもない邪義なのであります。そもそも、このような邪義を構えるに至った発端は、創価学会の政治進出を助けるた為の、戒壇義の歪曲に端を発しているのであります。その元凶が池田大作であり、池田に諂って創価学会の振りまく邪義に追従した六十六代を継いだ悪僧日達管長であり、ニセ戒壇正本堂だったのであります。

日達管長以来堕落した坊主らが展開する上記の邪義を破折するために、日寛上人が法華取要抄文段で仰せられた、本門の戒壇義についての御教示は次の如くであります。

云く「当に知るべし、本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、義理なり。是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。経に云わく「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」とは是れなり。天台の云わく「仏其の中に住す、是れ塔の義」等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処皆是れ義理の戒壇なり」と。御教示であります。

「次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云わく、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり等云々」と。御教示であらせられます。

要するに、日寛上人は広宣流布以前の事の御本尊の御座所は「事中の理」と定義せられ、道理としての義理の戒壇、即ち「義の戒壇」とせられ、広宣流布の暁に日本国の名山、富士山の最勝の地たる天生ヶ原に、事相に建てられる本門寺の戒壇=国立戒壇を「事中の事」即ち「事の戒壇」と御教示なのであります。

序に申し上げますが宗門は現在、あのニセ戒壇正本堂以来、依然として堂々と邪義を垂れ流しています。平成29年5月16日付の大白法によれば、教学欄の「基礎講座29」には(宗旨の三箇)三大秘法の本門の戒壇義が取り上げられていますが、その解説はニセ戒壇正本堂以来の邪義が述べられています。云く「戒壇の大御本尊の住処は、現時における事の戒壇に当たります。現在の奉安堂は、戒壇の大御本尊が安置されている故に、現時における事の戒壇」等と決めつけていますが、これが正本堂以来日達管長が吹聴した邪義の根源なのであります。

もう少し解り易く説明するなら、日寛上人は義理の戒壇を説明するに当たり、天台の法華文句十の文を引かれ「仏其の中に住す、是れ塔の義」と釈されていますように、広宣流布以前の本門戒壇の御本尊の御座所は、塔の中にお住まいであるから、あくまでも秘仏なのであって、たとえ正宗信徒と雖も見世物のように、軽々に御開扉してはならないとの御意であります。

然ればどのように拝するかと申しますと、戒壇の大御本尊は広宣流布するまでの間は、御宝蔵の奥深くに秘蔵厳護申し上げ、遠くから閉扉のまま、遥拝申し上げる姿が正しいのであります。

その理由を申し上げますと、私達が毎日朝夕の勤行の際に寿量品を読んでいますが、その中に、「若見如来。常在不滅。便起憍恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之心。」と説かれています。この文を要約しますと次のごとくであります。

「若し如来、常に在って滅せずと見ば、便(すなわ)ち憍恣を起こして、而も厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず」とありますように、毎月毎月当たり前のような顔をして御開扉を受けているうちに、戒壇の御本尊様に対する恋慕渇仰の想いがうすくなり、慣れを生じて怠惰な心を起こさしめ、厳粛な御開扉に於いても緊張感のない、欠伸の出るような崩れた勤行になってしまうということであります。

今日の大欲不知足の堕落したお坊主らは、未だ、秘仏であるところの本門戒壇の大御本尊を営利の具として利用し奉り御開扉料稼ぎに狂奔し、内拝と称して怨嗟の起こるような御開扉を繰り返して不敬を重ねているのでありますが、そのような不敬冒涜を重ねて平然と構えるなら、信徒は信徒で即物的な功徳をおねだりする信心に堕し、疑問を持つ者は一人としてい居ない。このような崩れた信心は根本的に間違いであり、何等の功徳は生じなのであります。

それに対して広宣流布の暁に本門寺の戒壇堂に御出ましの御本尊は「三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり。」と仰せられていますように、日本、印度、中国の三国ならびに全世界の人々のために、広く開かれた本門事の戒壇となるのであります。まさしく本門事の戒壇とは、日本だけのもの、また日本国を閉鎖してしまう意味ではなく、しかも人界ばかりでなく、天界まで利益する未曾有の戒壇となるのであります。日本国は大聖人様の御出現の根本の妙国なるゆえに、全世界を代表して戒壇の大御本尊様を御守護申し上げる使命と責務が存するのであります。  

②「すなわち浅井等は、本門(事)の戒壇を論ずるにあたって、まず、未来広宣流布の暁に建立される建造物を根本として、そこから、広宣流布の以前は、いまだその戒壇が存在していなけれども、大御本尊安置の処が戒壇の意義に通ずるのである、という論の開き方をしているわけである。が、もとより本門の戒壇は、本門の題目と共に、三秘総在の大御本尊の一事に具わり収まっているのであり、これこそが日蓮正宗の宗旨の根本なのである。つまり、大御本尊のまします処、そこが本門(事)の戒壇であり、これを根本として、さらに将来、広宣流布が達成した時には、世の中の信仰の中心・根本を象徴する戒壇の建造物を建てる(これを大聖人はあらかじめ「本門寺の戒壇」と名付けられている)、と開くのが、法門の正しい筋道であり、大聖人の御誠意であるとも申せよう。」について

②に対する破折

堕落した坊主らが上記のようなくだらない邪義を展開する理由は、戒壇の大御本尊様は、事の一念三千の御当体そのものでありますから事の本尊となる。その大御本尊のお在す所は、即「事の戒壇」となるという短絡的な発想に依るものです。不勉強の大草と堕落した坊主らには日寛上人の御教示に理解が及ばないのか、広宣流布以前の「大御本尊のまします処、いつ如何なる所と雖も本門(事)の戒壇である。」などとした前代未聞の邪義を真顔で振りまいてるのであります。そして「将来、広宣流布が達成した時には、世の中の信仰の中心・根本を象徴する戒壇の建造物を建てる(これを大聖人はあらかじめ「本門寺の戒壇」と名付けられている)」そですが、二度目に建てる事の戒壇とは、本山の何処に建てるのでしょうか? 「これこそが日蓮正宗の宗旨の根本」であるとしていますが、 今の堕落した坊主らは、日達管長以来富士山天生ヶ原の戒壇は絶対反対なのであります。

それを代弁して阿部日顕教学部長云く「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます。」(大日蓮 昭和49年8月号)等と。最近世間を騒がしている日達管長の教義逸脱を助け、正当化したような邪義が述べられています。

それにしても、現在の大石寺境内に合計二度も本門事の戒壇を建てなければならないのですから、騙されている信徒はまだしも、いい加減辟易しますよね。大聖人様は一期弘法付嘱書にも三大秘法抄のいずれにも、二度にわたって本門事の戒壇を建てなさいとは仰せ遊ばされてはいないのであります。

大聖人様から御開山日興上人が賜った一期弘法付嘱書には「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。」と御下命遊ばされ、三大秘法抄には「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、」の御文こそ、広宣流布の暁に日本の名山たる富士山の天生ヶ原に本門寺の戒壇建立の勧奨であり、本門戒壇の大御本尊様が永遠にお住まいになられる戒壇堂、すなわち〝建造物〟を建立せよという御命令であります。その戒壇と雖も、あくまでも広宣流布の暁に建立される国家的戒壇である故に「時を待つべきのみ」と厳誡せられ、その戒壇を「事の戒法・事の戒壇」と仰せられるのであります。それ以前の戒壇は、どこまでも「義の戒壇」とする立て分けが、七百年来の富士門流の正しい戒壇義なのであります。

堕落の極みにある坊主らは、大聖人様以来の富士門流の教義を正しく展開する浅井昭衛氏にとんでもない誹謗を加えていますが、一期弘通付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる広宣流布の暁に国家的に建立される「本門寺の戒壇」とは、戒壇の大御本尊様が末法万年尽未来歳まで、お住まいになられる富士山天生ヶ原に建立される御座所のことでありますから〝建造物〟のことであります。

そもそも三大秘法抄は、一期弘法付嘱書の助証と謂われているほどの御相伝書であります。大聖人様から二祖日興上人が唯授一人の血脈相承として賜った御相伝書が、一期弘法付嘱書のみで終わっていたものなら、末代の多くの弟子たちは「本門寺の戒壇」について迷いや争いを生じ、大聖人様に対して、「どうして大聖人は『本門寺の戒壇』とは如何なるものなのか、はっきりと書き遺して置いて下さらなかったのだろうか、一期弘法付嘱書なんて偽書ではないか」などと邪智を逞しゅうして、さまざまな誹謗する者が出てくることを慮られ、その時の備えとして、三大秘法抄を在家代表として下総在住の太田金吾殿を選ばれ、本門寺の戒壇=本門「事の戒壇」について将来過ちを起こさぬよう、戒めを籠めて賜った重書なのであります。よってこの三大秘法抄が、一期弘法付嘱書の助証と謂われる所以がそこにあるのであります。

その御文を本抄の末文に次のように記されています。

「予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺し候。一件の後は秘して他見ある可からず。口外も栓無し」と。

「此の法門」と仰せられる御文こそ、本門寺の戒壇=国立戒壇のことであります。その国立戒壇について異議を生じ、宗門がただならぬ状況に置かれている今日、我ら末弟に書き遺し置かれたものとして拝すべきでありますが、堕落した今日の坊主らには、その御文が理解できていないのであります。

ここで改めて一期弘法付嘱書と三大秘法抄でお示しの「本門寺の戒壇」についての御教示を拝見したいと思います。

はじめに一期弘法付嘱書、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

第五十六世日応上人は御付嘱状について斯く仰せであります。「日蓮一期の弘法」とは、この戒壇の大御本尊は宗祖日蓮大聖人様出世の御本懐なるがゆえに『日蓮一期の弘法』と云うなり。これを白蓮阿闍梨日興に付嘱し、事の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立すべし、なかんずく我が門弟たる者、この状を守り、少しも違背すべからず、と制誡し給うなり」(御宝蔵説法本)と御指南されています。 

次に三大秘法抄、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪に未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

大聖人様は一期弘法付嘱書には「事の戒壇」について、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり。」と御教示せられ、また三大秘法抄には「事の戒壇」について、「勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。」と仰せ遊ばすのであります。

依って富士門流の歴代血脈付法の御正師方は、広宣流布の暁の本門「事の戒壇」=「国立戒壇」について夫々次のように仰せであります。

第二十六世日寛上人

「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法乃至国主此の法を立らるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』云々」(報恩抄文段)と。

第五十六世日応上人

「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって-----」(御宝蔵説法本)と。

第五十九世日亨上人

「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天公布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華 11号)と。

「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の1ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

「宗祖所弘の三大秘法は難信難解なり。(中略)何に況んや、天下一同他事を捨てて、専ら此の本尊に向かって此の題目を唱うべき本門戒壇国立は、至難中の至難に属するものをや」(富士大石寺案内)と。

第六十四世日昇上人

「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)と。

第六十五世日淳上人

「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布の祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。

つづけて「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(日淳上人全集)と。

第六十六世日達上人

「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行にに徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

つづけて「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

さらに「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが、このお方は信徒団体の金力と奢侈に溺れ、後に次のように豹変するのであります。

云く「日本の国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない。」(昭和45年5月3日学会総会)と。

つづけて「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」(大白蓮華 201号)等と、ニセ戒壇正本堂が建設されれば、教化の儀式も定まり、王仏冥合も成って、広宣流布も達成するんだそうです。

ここで言う「教化の儀式が定まる」とは、ニセ戒壇正本堂の邪義が定着するという事であります。呆れましたね。これだけは日達管長の予言が見事に的中しました。

かつての創価学会も日蓮正宗の信徒団体でしたから、当然の如く国立戒壇を高々と宣揚して折伏戦を展開していました。

第二代会長戸田城聖氏

「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(大白蓮華 昭和31年3月号)と。

「我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華 昭和31年8月号)と。

第三代会長池田大作氏

「『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是れなり』の御予言こそ遺された唯一の大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華 昭和31年1月号)と。

「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華 昭和31年4月号)と。

こうして創価学会が御本仏大聖人様の究竟の御本願であるところの国立戒壇を前面に掲げ、老いも若きも国立戒壇建立に向けて、燃えに燃え全学会員が火の玉となって国立戒壇建立に寝食をなげうって闘ったからこそ、全員が身に余る功徳を頂戴し、昭和20年7月、戸田城聖氏の学会再建から池田大作氏が国立戒壇から決別する昭和45年5月までの僅か25年足らずの間に、じつに八百万世帯という前人未踏の驚異的な折伏を達成しているのであります。

ところが、この頃から創価学会の政治進出が本格化するに連れて、宗教団体が政治に関与する事に批判が強まり、藤原弘達氏の著書「創価学会を斬る」に対する言論出版妨害事件が勃発、併せて、日本共産党の谷口善太郎氏からの創価学会の政治進出に対して、憲法違反ではないか等の質問主意書が国会に提出されるなど、世間はようやくさわがしくなり、池田会長を国会に呼んで、国立戒壇の意義について問い質そうという動きになってまいりました。

それに驚いた池田大作は、4月23日国会に対して次のような回答を寄せて、世間を欺き難局を乗り切るのであります。

1. 本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

2. 既に現在、信徒八百万人の参加によって、冨士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和47年10月12日は完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

3. 一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。

等という邪義を以って、国会を欺いたのであります。

そうして昭和45年5月3日、創価学会は日大講堂で第33回本部総会を開催し、国立戒壇を全面否定するに至るのであります。来賓として出席した第六十六世日達管長は、学会の池田会長に諂って、次のような歴史的な発言をするのであります。

云く「日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』なんてあり得ないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では『国立戒壇』という名称は世間の誤解を招くし、かえって布教の邪魔になるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」等と世間に約束してしまったのでありますが、この時の日達管長の公式宣言を分岐点として、富士門流、すなわち日蓮正宗の信心が根本から狂いはじめるのであります。

大聖人様は立正安国論の中で、仏法と国家の関係、すなわち邪法乱国・正法治国の根本原因を金光明教、大集経、仁王経、薬師教等の四経の経文を引かれて、災難興起の原理を説き明かされています。また立正安国論の題号が示すとおり、唯一の正法たる三大秘法を国家的に立てて、国家安泰の原理をお示しでありますように、大聖人様は国を安んずることを究極の御本願と為されているのであります。したがって、日達管長が吹聴するような「明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります」などという話は世間を欺くための詭弁であって、無知な信徒と国民をを騙すための邪義だったのであります。賢明な信徒は、決してこうした悪質な諛言に騙されてはならないのであります。

立正安国論には国家安泰の原理を「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下太平ならん」とお示しになられ、個人に対しては「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の言、信ずべく崇むべし」と仰せられるのであります。個人が身の安全を約束されて幸福を享受できる最大の条件は、国家が平和である事が絶対の条件とされていますように、個人の幸福はその中に包含されるからであります。

よって立正安国論で仰せられる眼目は、念仏・真言・禅・律等の熟脱の仏法、あるいは間違った思想を撲滅して、唯一の正法たる三大秘法を国家的に信奉して、国家・国土を永遠に安穏ならしめることを勘奨為されています。仏家の通軌から立正安国論の文意を衣文判義して名称を付するなれば、国を安ずることを目的とした立正安国論の趣旨は、国立戒壇ということに集約されるのであります。したがって日達管長が取って付けたように垂れ流す「明治より前には、そういう名称はなかったのであります」という話は、宗教に無知な大衆と信徒を騙すための完全なまやかしであることが解ります。

また大聖人様は別な角度から、常忍抄には次のように仰せであります。「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず、所詮末法の今に譲り与えしなり」と。

ここで仰せの第三の法門に対する第一とは、第一の権実相対の法門のことであります。次の第二の法門とは、本迹相対の法門のことであります。次の第三の法門とは、種脱相対の法門を指しています。この種脱相対の法門こそ第三の法門なのであります。よって、この三大秘法を「日蓮が法門」と仰せなのであります。

また、四十九院申状には「第三の秘法今に残る所なり。是れ偏に末法闘諍の始め、他国来難の刻、一閻浮提の中の大合戦起こらんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」と仰せられ、同じく申状に「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と御教示であります。

日本国の国教とすべき、末法万年の尽未来歳までの国家と人々を救いきっていく、法華経本門寿量品の文底に秘沈された事の一念三千の御本尊であれば、広宣流布の暁の戒壇は、本門寺の戒壇=国立戒壇でなければならないのであります。

③「浅井等の主張は、この辺の筋道を理解できずに、逆転した法門の開き方に固執し、かえって大聖人の御誠意を誹謗するのである。これでは、大御本尊の当体に三秘が闕減なく収まるという、三秘総在の法義に乱れを生じ、どこまでも大御本尊を根本として一切の法義を開いていく、本宗の教義と信仰を狂わせることとなってしまうのである。なお、付言しておくならば、本宗上古の時代においては、謗法者からの法難も多かったため、大御本尊はあくまでも秘蔵の扱いで厳護されてきた。それ故、『三大秘法抄』にせよ、日寛上人の御指南にせよ、文の面に、大御本尊安置の処が本門事の戒壇、というような直接的表現を用いられることはなかったものと拝せられる。が、一方、内々の御弟子に対する口述の中では、こうした配慮は当然のことながら無用であった筈で、事実、日寛上人の講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと「戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられているのである」について

③に対する破折

まさしく邪義の塊のような坊主が振りまく邪義を代弁した大草一男の言辞は、言語明瞭意味不明ですね。「この辺の筋道を理解できずに、逆転した法門の開き方に固執し、かえって大聖人の御誠意を誹謗するのである」とは、いったい何を言わんとしているのか理解に苦しむのであります。大草一男が強調している「大御本尊の当体に三秘が闕減なく収まるという、三秘総在の法義に乱れを生じ、どこまでも大御本尊を根本として一切の法義を開いていく、本宗の教義と信仰を狂わせることとなってしまうのである」とは、まるで逆さまの論理ではありませんか! 戒壇の大御本尊様には当然の事として三秘が闕減なく揃っているからこそ、富士の流義そのままに法義を展開すれば、けっして法義に乱れは生じないのであります。それを、大草一男と堕落した坊主らは、三秘を六秘に開いたら(義)と(事)ではなく、(事)と(事)になるという邪義を振りまくから法義が乱れてしまったのであります。

大草と大石寺の坊主らが「大本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇である」とする邪義を破折するのに、難しい論理は、まったく必要ないのであります。それは本門戒壇の大御本尊様を、三秘・六秘と開いていった場合、三秘総在の本門の本尊は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法となります。それを更に開いた場合、本門の本尊は「人」の本尊と「法」の本尊になり、本門の題目は「信」の題目と「行」の題目になり、本門の戒壇は「義」の戒壇と「事」の戒壇となって、六大秘法となるのであります。これが正しい三大秘法開合の相であります。

ところが大草と坊主らは、本門の戒壇は「の戒壇」と「の戒壇」だけだといって「義の戒壇」は存在しないと言って、胸を張って、邪義を垂れ流しているのでありますが、ちゃんちゃら可笑しいではありませんか! 謗法充満の広宣流布もしないうちから、本門事の戒壇が存在するのだそうです。笑ってやってください。

坊主らがいう「『“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”とする大石寺の指南は真正』」とする解釈は完全な間違いであります。これを「大聖人の仏法に違背している」と指摘した、顕正会浅井昭衛氏の批判は全く正しいのであります。

そこで「義の戒壇」は如何にと問い質せば、歴代書写の御本尊を他所から持ち出して来て、その御本尊のお在す所が「義の戒壇」だと言うのでありますが、それはまんざら間違いではないものの、三秘・六秘の開合の相を論ずる時には、本門戒壇の大御本尊様のみに限定して論ずる法門なのであって、他所から別の御本尊を持ち出して来て、是れを「義の戒壇」だとするのは大きな誤りなのであります。

こんな莫迦な坊主らが袈裟の権威を笠に着て、邪義をどんどん垂れ流しているのであります。したがって、これらの坊主が展開する三大秘法開合の相は、五大秘法か、あるいは下手をすると七大秘法となってしまうのであります。

繰り返しますが、本門「事の戒壇」とは、日本国の広宣流布の暁に全世界の人々の為に、日本国が、国家の威信と経済と信徒の浄財を以って、戒壇の大御本尊様が永久にお住まいに為られる祭壇、すなわち戒壇堂を建立することであります。それを曲げて堕落した坊主らは、広宣流布の達成に関係なく「事の戒壇」は、元々三秘総在の御本尊の中に存在するといった邪義を展開していますが、広宣流布も達成していない段階で、本門「事の戒壇」が、御本尊の中に備わっているという、邪義を吹聴しているのであります。

それに大草と頭破七分の坊主らは空恐ろしいことに「日寛上人の講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられているのである」などと、とんでもない邪義を書き連ねていますが、これを称して罰当たりの典型を呼ぶのであります。

大草と堕落した坊主らは「日寛上人が講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと『戒壇の御本尊在所は事の戒なり』と仰せられているのである」などと御文を改竄した切り文を記載して得意満面の様子ですが、是れを称して純真な信徒を騙すのもいい加減にせよ! と云いたいのであります。

日寛上人が講ぜられた「三大秘法の事」を聴講した当時の某門弟が書き遺した聞書きを、後年、日相上人が筆記されたとする本門戒壇に関する戒壇義は、次のように記されています。

本門戒壇についての原文は「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」とあります。

つまり「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とは、広宣流布するまでの長い間、本門戒壇の大御本尊は、ある時は土蔵に、ある時は校倉に、亦ある時は御宝蔵に、奉安殿にと、時代の要請に応じて、お住まいが変わっていらっしゃることを仰せなのであります。すなわち「義理の戒壇」の説明であります。

次に「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」の御文ですが、邪智に長けた坊主らは日寛上人が「『戒壇の御本尊在所は事の戒なり』と仰せられているのである」などと、卑劣にも「富士山」の三文字を切り捨てて御文を改竄し、呆れ返るよな切り文を施した邪義を列記しているのでありますが、こうした姑息な邪義を絶対に許してはならないのであります。

日寛上人こそ、御自身が講ぜられた「三大秘法の事」の御文が、後世の堕落した坊主から改竄せられて、こんな形で悪用されるとは夢にも思わなかったに違いありません。今日の邪智に長けた坊主らが悪意を以って垂れ流す卑劣な邪義には、腰を抜かさんばかりに驚かれているのではないでしょうか!

今日の堕落した卑劣な坊主らが書き連ねた「戒壇の御本尊在所は事の戒なり」の日寛上人の御文の頭には、元々「富士山」の三文字が冠せられているのであります。

すなわち原文は「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」となっているのであります。ここで言う「富士山戒旦」とは現在の大石寺の境内を指しているのではありません。大聖人様が三大秘法抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられた、富士山麓の景勝地たる天生ヶ原に広宣流布の暁に建立される本門寺戒壇=国立戒壇の御事であって、決して、広宣流布以前の戒壇の御本尊の御座所のことを言っているのではありません。

第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは、富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(法恩抄文段)と仰せであります。

卑劣にして救い難い今日の間違った堕落した坊主らに決して騙されてはならないのであります。

④「以上のことから、大本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇でありそれが、さらに広布の時を持って「本門寺の戒壇」と顕れる、という大石寺の指南は真正であり、これを「大聖人の仏法に違背している」などと誹謗する浅井は、まさに、〝未だ得ざるを是れ得たりと謂う〟増上慢であることが明白である」について

④に対する破折

頑迷な坊主らは何度言っても富士門流の正義が理解できないようです。「大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇でありそれが、さらに公布の時を持って「本門事の戒壇」と顕われる」のだそうです。ちゃんちゃら可笑しいですね。

「本門事の戒壇」は、二度に亘って建立しなければならないとは呆れましたね。そんな事は、絶対にあり得ないのであります。ニセ戒壇正本堂以後、こうした今まで聞いたこともない邪義を垂れ流すから、今日折伏は全く進まなくなっているのであります。

大草一男や坊主に言わせると、現在建っている奉安堂は「現時における『事の戒壇』」なのだそうです。前出の大白法にも同じ趣旨の邪義が延々と述べられていますが、日暮れて道尚遠しの感を深くしております。それでいて、本門義の戒壇を論ずるに当たっては、他所から担ぎ出してきた歴代嫡々書写の御本尊の在所を義の戒壇だと言ってみたり、下記に示した日寛上人の文底秘沈抄と依義判文抄を引いて、義の戒壇の説明に代えていますが、堕落した坊主らにはその矛盾にまったく気がついていないのです。

始めに文底秘沈抄に云く「所謂戒壇とは、即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(六巻抄 P.61)と。

上の御文を解説するまでもありませんが、日寛上人ははっきりと「本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」と仰せられています。その本門の御本尊様は、現在奉安堂に御安置せられてありますが、その本門の本尊の所住の処が、何故に、突如として「事の戒壇」になるのでしょうか、此れを矛盾同着の邪義というのであります。

次に依義判文抄に云く「本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」(同 P.104)と。

此処で日寛上人は「本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」と御教示せられ、本門戒壇の御本尊様のお在します処は、「義として、本門事の戒壇」と仰せられているのであって、戒壇の大御本尊様の所住の処を直ちに「事の戒壇」とすることを、ずばりと否定されているのであります。

今日の邪義に染まった坊主に言わせると、現在の奉安堂は「事の戒壇」であるから、広宣流布した時には、もう一度頑張って「事の戒壇」を建てるのだそうです。こんな間尺に合わない事など叫んでみたところで、富士門流古来の正しい戒壇義を信受している者は、誰が本気で取り組みますか!

こんなアホな事ばかりを垂れ流しているから折伏は進まないし、誰も燃える者がいないのであります。

こうして正宗信徒は一番大切な根本教義たる三大秘法の戒壇義に背反しているが故に、一切の功徳を喪失し、成仏を遂げることが一人として叶わなくなっているのであります。

大聖人様は種種御振舞御書に「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁をなして、国をたすけ給えと日蓮 がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。づづけて、「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」と御教示であります。今こそこれらの御文を、今一度深く味わうべきであります。






今後、国立戒壇は言いません。捨ててしまいました。

2017年05月01日 08時49分07秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.15~17)には、「二、国立戒壇の語の要否について」と題して、妙観講の大草一男は、宗門の坊主らと一緒になって次のような邪義を記していす。

これらの邪義を破折するに当たっては、読者の便を図るため、大草一男が受け売りして記した邪義と破折箇所に、数字と太文字を使用しました。

①「浅井等は、『広宣流布の暁の戒壇は、日本国家が建立する国立戒壇である。近代の御先師上人方も、皆、国立戒壇と云ってきたのに、大石寺ではこれを捨ててしまった。これは仏法を曲げる行為である』等と主張し、近代の上人方の御指南を証拠として引用する。これまた、初学の人々が騙されやすい、言葉に捉われた論議といえよう」について

①に対する破折

御本仏大聖人様は三大秘法が日本国に広宣流布し、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様を日本国の国主たる天皇陛下が此の三大秘法を御用いの時は「事の戒壇」として、日本国の名山たる富士山に国家的に建立する本門寺の戒壇、即ち国立戒壇を建立することを「一期弘法付嘱書」をもって、二祖日興上人へ御下命為され、更に「三大秘法抄」には、太田金吾殿を在家の代表として、広宣流布の進展と共に王仏冥合が成った暁に、国家的に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立することを勧奨遊ばされているのであります。その事は「立正安国論」で、国家と宗教の関係、即ち邪法乱国・正法治国について詳しく御教示くだされ「一期弘法付嘱書」と「三大秘法抄」の両抄で具体的実践をうながし給い、国立戒壇建立を大聖人様の終窮究竟の御本願と為されているのであります。

ところが第六十六世を継いだ細井日達を名乗る管長は「日本の国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(創価学会第33回総会)として、日蓮正宗の最大の信徒団体の長(おさ)の立場にあった創価学会・池田大作の施す金力に心をとろかされて、日本国の国父を気取る池田の慢心を助け、政治権力を手中にしようとする彼の政治的野心に手を貸し、あろうことか、御本仏日蓮大聖人様の御心に背反して御遺命を売り渡して諂いを重ね、三大秘法の戒壇義を曲げた揚げ句、世間におもねた日達管長一流の諛言を垂れ流して、これこそが唯一正しい大聖人様の御法門だと称して、上記のような驚くべき邪義・邪説を展開するようになったのであります。こうした取り返しのつかない妄言に依って、下種仏法の三大秘法義が、間違った時の貫首一人の邪義によって蹂躙された結果、回復困難な状態にまで破壊されてしまったのであります。

大聖人様の究竟の御本願は、富士門流に七百年の間、色も香りも味も失わないまま堅持されてきた国立戒壇義が、六十六世を継いだ日達管長の手に依って無惨に破壊された理由は、日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会の政治選挙にあったのであります。そうした日達管長も、先代の第六十五世の日淳上人から唯受一人の血脈相承を受けられた直後には、富士の清流そのままに国立戒壇を高々と宣揚されていたのであります。

云く「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

また云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)等と。

ところが大草一男は国立戒壇について次のような屁理屈を述べています。云く「近代の上人方の御指南を証拠として引用する。これまた、初学の人々が騙されやすい、言葉に捉われた論議といえよう」などと。

莫迦を言ってはいけません。大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇は、初学も、後学もないのであります。仮に、大聖人様の終窮究竟の御本願たる国立戒壇が間違いであるならば、それでは大聖人様の御本願はいったい何か、ということを具体的に示さなければならないのであります。大草一男は、近代の上人方の御指南はすべて間違いだとでも言いたいのでしょうか! かつての創価学会ですら、近代上人方の御指南を正しく信受して、次のような正論を展開していたのであります。

池田の云く「国立戒壇こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華 昭和31年4月号)と。

富士門流の嫡流すなわち日蓮正宗から国立戒壇を捨て去ったならば、何も残らないばかりか、大聖人様の忍難慈勝の御振る舞い、あの身の凍るような極寒の佐渡の御流罪も、絶体絶命の竜の口の頸の座の巨難も水泡に帰してしまいます。いま、大草一男と理境坊の小川穴道を取り巻く坊主らは、宗門を代表して、こうした邪義を「摧破異流義考」なる冊子の中で垂れ流していますが、如何に宗門が大聖人様の御心に背逆しているか、背筋が凍る思いであります。

②「我が日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、国立戒壇という名称を使っていた。しかし、大聖人は、世界の人々を救済するために、〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟と仰せられている。このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった。明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので、本宗でも使用したが、もとより、明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は、国立戒壇という名称は使用しないようにする」(要旨・昭和四十五年五月三日、日大講堂における創価学会第33回本部総会・日達管長の講演)について

②に対する破折

大草一男は日達管長が垂れ流した邪義を受け売りしながら得意満面の様子です。云く、「〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟と仰せられている。このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった」等とした日達管長が言い放った邪義を引用しながら、元々国立戒壇は本宗の教義ではなかったことにするための裏付けにしたいようですが、そもそも日達管長の観心本尊抄の解釈そのものが間違っているのであります。

大聖人様は観心本尊抄の中で「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文の前文で、本門戒壇の大御本尊の御事を次のように説かれておられます。

「是くの如き本尊は在世五十年に之無し、八年の間にも但だ八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す、此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」とお説きになられた後に「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と宣言遊ばされた御文に注目すべきであります。

すなわち「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文を以って、愈々本門寺の戒壇=国立戒壇に住される大御本尊をお顕し遊ばされるのであります。したがって「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文を以って、広宣流布の暁に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立し、国家的に戒壇の大御本尊様を秘蔵厳護すべきことを一期弘法付嘱書を以って、二祖日興上人に御下命遊ばされているのであります。

日達管長が引用した〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟の御文を以って、「このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった」などとする解釈はまさしく間違った論理の展開であります。〝一閻浮提第一の本尊〟が日本国に立つからこそ、三大秘法は、日本国の国教とすべき宗教なのであって、広宣流布の暁の大御本尊様が住まいになられる御座所は、絶対に国立戒壇でなければならないのであります。日達管長の御文の解釈は逆さまの論理の展開であり、大間違いの最たるものと指摘せざるを得ないのであります。国立戒壇を捨て去ったことが、逆に「布教の妨げ」になっている事実を知るべきであります。

③「日本国体が叫ばれていた明治時代において、本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた他門流の田中智学が、はじめて〝国立戒壇〟なる語を使いはじめ、これが世情に合致して広く用いられるようになったため、本宗でもこの語を自然に使用するようになったのであって、これは、まさに大聖人が、『予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか』(御書 1222)と仰せられる、弘教のためのに用いた〝世間普通の義〟であったのである」について

③に対する破折

明治という時代の風潮に乗って国立戒壇なる語を使用したに過ぎないとは恐れ入りました。これも大聖人様の御教示を日達管長一流の詭弁で貶めた邪義の典型であります。そんな言い訳は子供だましの戯れ言であります。一期弘法抄・三大秘法抄で仰せられる広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、日本国の本有の国主たる天皇陛下が三大秘法を受持する事が条件となっています。そのことから富士門流では王仏冥合が成った時に建立される本門寺の戒壇を端的に国立戒壇と呼称してきたのであります。それを明治という時代的風潮に乗って国立戒壇と呼んだにすぎないとは、詭弁以外何ものでもありません。広宣流布の闘いは、大聖人様の御本頑たる広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇を高々と掲げて折伏戦を繰り広げることが立正安国論の御趣旨であって、単なる〝世間普通の義〟である理由(わけ)がないのであります。

次に「他門流の田中智学が、はじめて〝国立戒壇〟なる語を使いはじめ、これが世情に合致して広く用いられるようになったため、本宗でもこの語を自然に使用するようになった」とは呆れましたね。ここで注意しなければならない事は、この御文の冒頭に「本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた」と有りますように、田中智学は本宗の本門戒壇論、即ち、国立戒壇論に大いなる影響を受けて、国立戒壇論を真似したのであって、最初に国柱会の田中智学が国立戒壇論を創唱したのではありません。むかし子供のカルタ遊びに「頭隠して尻隠さず」というのが有りましたが、日達管長はもう少し上手なウソで僧俗信徒を騙せば良かったのですが、田中智学が「本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた」では、頭も尻も丸出しの言い訳であります。本門寺の戒壇=国立戒壇思想は、元々本宗独特の法門であることを証明したことになってしまいました。

田中智学は以前、日蓮宗身延派の僧侶だったのでありますが、五老僧の一人といわれた民部日向を開基とする身延山には最初から国立戒壇論は存在していないのであります。僧道を途中で投げ出して還俗した田中智学は明治十三年に「蓮華会」を作り、二年後の明治十五年八月に本宗の末寺、横浜の南区にある久遠寺の本門講の信徒と教義論争をすることになったのが始まりであります。これがいわゆる〝横浜問答〟といわれるものです。この頃の彼は、田中巴之助を名乗っていました。宗派の勝劣を決する教義論争となると一信徒では荷が重すぎることから、本宗から第五十二世を継がれた日霑上人が筆戦で応ずることになったのでありますが、田中巴之助は本門戒壇論になって、日霑上人から初めて国立戒壇論を耳にするのであります。法論に行き詰まった彼は住居を引き払って行方をくらました後、明治三十五年に「本化妙宗式目」並びに、明治四十三年に「日蓮聖人の教義」なる本を著し、この頃から田中智学を名乗り、彼は著書の中で盛んに国立戒壇論を叫ぶようになったのであります。

その後、大正十三年に「日本国柱会」を立ち上げ、戦前には八紘一宇を創唱し、日蓮主義を掲げて国立戒壇論を盛んに叫び、日本軍の将校や士官の中にも、田中智学の日蓮主義に心酔する者も数多くいたのであります。しかしながら、国立戒壇を掲げるには日本国の中心となる御本尊が必要になってまいります。田中智学は、本門戒壇の御本尊にはとても手が届かない。そこで本門戒壇の本尊に代わる本尊として、佐渡始顕の本尊を編み出すのであります。

この事について本宗第六十五世の日淳上人は、このように仰せられています。「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である。ただ本尊段において佐渡始顕の本尊を立てるのは、日蓮正宗に何とか対抗せんとの窮余の考えからである」(「興尊雪寃禄」の妄説を破す)と。

また、かつて創価学会もこのように叫んでいました。「じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そして、その場所も、富士山と明白に御指示になっている。また、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命を受けて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは田中智学門流でさえも(国立戒壇)囀っているではないか」等と。

ところがあろうことか、創価学会の政治進出が本格化するにつれて国立戒壇が選挙に不利だとなると、創価学会は宗門にさまざまな圧力をかけて、国立戒壇を捨てさせてしまったのであります。創価学会の身に余る手厚い奢侈に溺れた六十六世の日達管長と六十七世の日顕管長の二人の悪僧は、学会の圧力に屈して御本仏大聖人様の御心に背逆し、富士門流が七百年来最重要の根本教義としてきた広宣流布の暁の本門寺の戒壇義を歪曲した揚げ句、国立戒壇を弊履のごとく捨ててしまいました。国立戒壇を捨てた日達管長は「毒を食らわば皿までも」の比喩を地で行くように、進んで創価学会の意を汲んで、次のような邪義を宣伝するするようになったのであります。

云く「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」「明治以前には国立戒壇という言葉は無かった。国立戒壇はかえって布教の邪魔になるから今後は国立戒壇は言わない」(創価学会33回総会)等といった邪義を不動のものとして定着させてしまったのです。それにつづく日顕管長も「浅井一派の国立戒壇論は、田中智学の思想の模倣であって、その酷似するところは驚くほかはない」(国立戒壇の誤りについて)等と驚くべき邪義をまき散らしたまま現在に至り、未だに正宗信徒を騙しつづけているのであります。

大聖人様は観心本尊抄に次のように仰せであります。「墓ないかな天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて、還って彼等が門下と成りぬ」と。

一念三千という法門は天台大師が創唱した独見の法門なのであります。それを華厳宗の澄観と真言の善無畏三蔵に盗み取られて、それぞれの自宗の骨目としたのであります。後に、天台宗の末学は、一念三千の法門は華厳宗と真言宗が本家だと思い込んでしまったのであります。それを彷彿とさせる事件が、今日の日蓮正宗の僧俗信徒の全てが、「国立戒壇は本宗の教義ではなく、国柱会の田中智学が創唱した国立戒壇を、顕正会の浅井氏が田中智学のモノマネをして、日蓮正宗を攻撃している」等と、本気で思い込んでいるのでありますが、この論理は、天台の一念三千を華厳宗や真言宗に盗まれて、一念三千は華厳宗や真言宗が本家本元だ、といって天台の末学が思い込んでいる姿と変わらないものとなってしまいました。こうした真逆の思い込みは決して笑い事では済まされない、まことに空恐ろしい取り返しの付かない由々しき問題となっているのであります。

四悉檀とは、遍く衆生に功徳を施すことで、布教の方法を次の四つに分けた弘教法のことであります。世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀の四つ弘教方を簡単に説明しておきます。

世界悉檀とは、衆生の求めに応じて法を説くことです。為人悉檀とは、相手の機根に応じて法を説くことであります。この世界・為人の両悉檀は摂受門となるのであります。次の対治悉檀とは、相手の貪・瞋・愚の三毒を退治すること。すなわち、貪欲の者には身の不浄を説き、瞋恚の者には慈悲心を起こさしめ、愚痴の者には因果応報の起因を教える等のことであります。第一義悉檀とは、相手の誤りを直ちに指摘して強折する弘教方であります。よって、対治・第一義の両悉檀は折伏門となるのでありますが、四悉檀を用いて国立戒壇を否定する道具に持ち出すとは呆れましたね。

また大聖人様の御本願たる国立戒壇を放棄した邪義が、「強ちに成仏の理に違わない」とは恐れ入りました。国立戒壇は大聖人様の究竟の御本願であり、宗門七百年来の根本教義であります。御本仏大聖人様の肝心要の化儀(教義)を歪曲するならば、一切の功徳を喪失する事となり、成仏など絶対にあり得ない、当然の帰結として成仏の理に違うことになるのであります。

立正安国論のお言葉の中に「辛きを蓼葉に習い臭きを溷厠に忘る」とありますが、蓼(たで)の葉を食べて生きる昆虫は、蓼の葉の辛いことが分からなくなっている。また臭い溷厠(便所)に長くすわっていると鼻がバカになって便所の臭ささを感じなくなる。という事であります。それは取りも直さず、大聖人様の御本願たる本門の戒壇義を歪曲して、一切の功徳を失った宗門の信心に慣れてしますと、日蓮正宗の信心とは、こんなものだと思い込んで、何ら不思議も不平も感じなくなるという事であります。

大聖人様の三大秘法の信心を決してなめて掛かってはなりません。大聖人様の御本願成就をお手伝いする真っ正直な信心には、それこそ凡智では計り知れない甚大な大功徳と、押さえがたい大歓喜が生ずるのであります。

かつて創価学会の戸田城聖氏が昭和33年3月、総本山に寄進した大講堂が落成した直後、こけら落としに約二千名の学会員で大講堂を埋め尽くした集会の席で、他の幹部の話を鷹揚に構えて聞き流していた戸田会長は、最後に演壇に立って並み居る参加者の顔をゆっくり見わたすや、「どうですか、皆さんのなかにまだ御本尊様から功徳を戴いていない方はいますか? 功徳を戴いていない方は手を上げてください。遠慮は要らないから正直に手を上げなさい。だれもいないか。凄いでしょう! 御本尊様の功徳は」と問いかけたところ、聴衆はいったい何を言い出すかと思って静まりかえっていた。そのとき、会場のどこからか、さざ波のような拍手がはじまり、やがて拍手は会場を揺るがすような大拍手となった。戸田会長は満足げに拍手を制止しながら、「皆さん方が戴いた功徳は、わしが頂戴した功徳から見れば、ほんの鼻くそのようなものだ。わしが戴いた功徳はこの大講堂くらいの大きなものだ。なんと有り難いことか、この御本尊様は」と言って、分厚いレンズの眼鏡を外して、涙でぬれた頬をハンカチで拭きながら、日ごろ豪放磊落な戸田会長が、辺りを憚ることなく大粒の涙を流しながら肩をふるわせて泣いていた。その光景を目の当たりにした会場は一瞬にして感激のるつぼと化し、並み居る学会員は理屈ぬきで全員が泣いた。そんな話が戸田会長が亡き後も長く語り継がれていたことを思い出します。

おそらくその時の戸田城聖氏は自らの人生を振り返り、御本尊様の大功徳で苦難と挫折を乗り越え、創価教育学会から創価学会へと名前を変えて再出発した学会の再建も軌道にのり、組織も盤石に発展してきたことに思いを巡らして、御本尊様への感謝の気持ちをからだ全身で味わっていたのかもしれません。

とにかくこの頃の学会の地区別に行われる座談会は、活気に満ちた功徳の体験で満ちあふれていたのであります。それを証明するかのように、戸田城聖氏が昭和21年7月、中野(豊玉)刑務所から出獄して、間もなく創価学会の再建に取りかかった、昭和33年4月2日に逝去するまでのわずか12年足らずの間に、ほとんど何もないところから、実に、75万世帯という大折伏を敢行しているのであります。そうした戸田城聖氏の創価学会再建への闘いは、国立戒壇を前面に掲げての折伏戦だったのであります。

④「しかして、時代が遷り変り、民主主義の定着した今日においては、かえって国立戒壇の名称がそぐわなくなったため、大石寺では、本来の意味合いにおいて、この際、国立戒壇という名称を使用しないことに決定されたのである。こうした背景を弁えず、近代の上人方の仰せの中に〝国立戒壇〟の語があるからといって、「現在の大石寺は国立戒壇を捨てて仏法を曲げた」などという戯言に騙され、乗せられてはいけない」について

④に対する破折

民主主義の名を借りて国立戒壇を捨てるとは呆れましたね。云く「民主主義の定着した今日においては、かえって国立戒壇の名称がそぐわなくなったため、大石寺では、本来の意味合いにおいて、この際、国立戒壇という名称を使用しないことに決定されたのである」こんな屁理屈は理由になりません。国立戒壇はたとえ、専制政治であろうが、民主政治であろうが、その名称がそぐわなくなる事なんてあり得ないのであります。

去る昭和45年4月、日本共産党の谷口善太郎氏から、創価学会の政治進出は憲法違反ではないか、あるいは、国立戒壇は憲法違反に当たるのではないか。との質問主意書が国会に提出されたのであります。

その時、政府答弁として、次のような答弁が為されています。

「現行憲法の下においては、国が国立の宗教的施設を建設することが許されないのであるから、そのような違憲の事項を実現することを目的とする政治活動を行うこともまた憲法上許されないのではないかという点にある思われるが、事理としては憲法を改正しなければ実現することができない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行うことが直ちに憲法違反になるわけではない。このことは、現に、政治活動として憲法改正の主張をすることが赦されていることからみても明らかであろう」等と。まことに理路整然とした政府答弁でありました。

これは公明党が政治活動として国立戒壇の実現を目指して活動をすることは、一向に憲法違反には当たらないという政府見解であります。ましてや、日蓮正宗が宗教目的として国立戒壇を叫ぶのに、何ら憲法違反の問題は生じないということであります。

ところが創価学会は、日蓮正宗に国立戒壇を捨てさせるために「若し、国立戒壇を言い続けるならば宗門は憲法違反で解散させられる。たとえ公明党がつぶされようと、学会が解散させられようと、日蓮正宗さえ安泰ならばよい。それが学会精神である。お山を守るためには、今後は国立戒壇を絶対言わぬように」と。世間の法律に疎い坊主らは、こうした学会の詐術に一人残らずはめられてしまったのであります。

そもそも国立戒壇は御本仏大聖人様の究竟の御本願であって、富士門流日蓮正宗の最大・最終目的すなわち、広宣流布の暁に国立戒壇を建立する事が宗門の究極の目的だったのであります。彼の創価学会が戸田城聖氏の手によって再建された後、それを引き継いだ池田大作が昭和45年5月まで、通算して四半世紀足らずのわずかな期間に「国立戒壇」を前面に掲げて、実に八百万世帯という前人未踏の大折伏を成し遂げているのであります。ところが創価学会が政治選挙のために国立戒壇建立という唯一の大目的を捨てた途端に、折伏に対する意欲は、燃えさかる大火が忽ち消え去るかのように、一切の功徳を失ってしまった、厳しい現実を見るべきであります。

世間には「画竜点睛を欠く」あるいは「仏造って魂入れず」という諺がありますが、日蓮正宗から「国立戒壇」を捨て去った姿は、まさしく「画竜点睛を欠く・仏造って魂入れず」の諺どおり、いかに折伏の大事をさけぼうとも何処か締まらない何かが抜け落ちたような空疎な感を深くしておりますが、大聖人様の御本願をないがしろに掛け声ばかりで掛け声ばかりで、当然のこととして歓喜も功徳も生じないのであります。

いま宗門は来る平成33年を期して、宗祖日蓮大聖人御生誕八百年を慶祝し、全国の法華講員は、彼の悪僧日顕御院尊猊下が下した法華講員八十万人体勢の御命題を達成などと称して、全国の法華講支部が夫々目標を掲げて折伏推進を訴えていますが、果たしてその目標を達成することができるか否か、そもそも日顕を名乗る坊主は、御本仏大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇を真っ向から否定し、御本仏大聖人様の御心に敵対して、今日の功徳のない無気力な宗門にならしめた張本人でります。そんな悪僧が、法華講員八十万体勢の御命題を下すなんて、心ある人は笑っています。国立戒壇を放擲した今日、講員は笛吹けど踊らず、掛け声ばかりが虚しく聞こえる今日この頃であります。御本仏大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇に背反して最終目的を喪失した折伏活動は、単なる勢力拡大を計るための信心活動となってしまい、邪義坊主の生活の安泰に寄与するだけで、法華講員の燃え上がるような大歓喜と躍動感は、何処を探してもなくなっている事を知るべきであります。

⑤「〝国立〟といえば、むろん、国家予算の中から国費ももって立てることを意味するが、大聖人が良く過去の例証として挙げられる、伝教大師(日本天台宗の祖)が日本に法華経を流布し勅許を得て建立した迹門戒壇は、国費をもって立てたものではなく、当時の日本天台宗の宗門で立てたものである。宗門で立てた以上、これが国立戒壇ではないのは当然で、日本天台宗でも国立などと称していない。これを指摘したところ、浅井等は「自分達が、いつ、国費で戒壇を建立せよなどと云ったか。国立といっても、国費で立てるわけではない」と苦しい言い逃れを始めた」について

⑤に対する破折

ここで大草一男は法華経迹門の叡山の戒壇を事例として引き合いに出し、叡山の戒壇は宗門立戒壇だったとしていますが、この戒壇はあくまでも、インド応誕の釈尊の熟脱仏法の戒壇であります故に、国立戒壇ではなく宗立戒壇で終わっているのであります。

そもそも大草一男は、熟脱仏法と下種仏法の違いすら理解が及ばないようです。熟脱仏法はインドの迹仏の説いた法華経であって、伝教大師が建てた法華経迹門理の一念三千の戒壇は、熟脱の法華経の戒壇であるため、白法隱没・天台過時の仏法なる故に釈尊滅後二千年で仏力・法力が消滅し、消え行くことになっているのであります。故に、伝教大師の立てた法華経迹門円頓の戒壇と雖も国立戒壇ではなく、宗立の戒壇となっているのであります。

それに比して大聖人様の下種仏法は、末法万年尽未来歳までの衆生を救いきって行く法華経本門寿量品の文底に秘沈された事の一念三千の三大秘法であります。故に広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、必ず、国立戒壇でなければならないのであります。まさしく広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇は、国民大多数の浄財による燃えるような道念から迸る御供養と国家の財政を合わせた、まさに挙国一致の世紀の戒壇建立となるのであります。

したがって広宣流布の暁に富士山天生ヶ原に建立される国立戒壇は、日本国が国の威信をかけて積極的に関与する本門寺の戒壇=国立戒壇である故に、天台大師や妙楽大師は、末法に未だかつてない未曾有の三大秘法が広宣流布する。自分たちはそのような大功徳のある大法に巡り会うことができないことを悔やみ、三大秘法に巡り会うことを恋い願って、法華経第七薬王品には次のように云っているのであります。

云く「後の五百歳の中に、閻浮提に於いて広宣流布して断絶せしむることなけん等云々」天台大師此の経文を受けて曰く「後の五百歳、遠く妙道に霑わん云々」妙楽云く「末法の初め妙利無きにあらず、且く大教の流行す可き時に依る故に五百と云う等云々」と。

宗門で立てた以上、これが国立戒壇ではないのは当然で、日本天台宗でも国立などと称していない。これを指摘したところ、浅井等は「自分達が、いつ、国費で戒壇を建立せよなどと云ったか。国立といっても、国費で立てるわけではない」と苦しい言い逃れを始めた」との事でありますが、その真偽については拙者の知る処ではありません。しかしながら大草一男が指摘するようなことが実際に有ったのなら、いつ、何処で、いかなる論争の時に発言したのか、具体的に明らかにしなければ成りません。仮に、浅井会長がそうした発言をしたとすれば、失礼ながら浅井会長は、未だ国立戒壇の意味が真に理解できていないのであります。

壮大な国立戒壇という性質を考えれば、単に国家が口だけ出して、国家の財政の伴わない国立戒壇は、道理としては有り得ないのであります。また、国家が単なる口先だけで、国家財政の伴わない戒壇は、当然の事として国立戒壇とは云わないのであります。仮初めにも、国があれこれ口を出すだけの戒壇ならば、一宗派に対する限度を超えた単なる干渉で終わってしまうのであります。

国家が国立戒壇に深く関わり、世界の人々の為に国家の威信を掛けて三大秘法護持を日本国の使命とするゆえに「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)と仰せられるのであります。





摧破異流義考と題する悪書発刊について

2017年04月12日 11時13分31秒 | 亡国の坂道 
近年顕正会の独走的な折伏による会員数の爆発的な増加に驚き、危機感を持った日蓮正宗の坊主らが結集して邪義の上塗りをしています。

その筆頭ともいうべき理境坊所属の妙観講の大草一男と小川只道を名乗る住職を中心に、若手の坊主らが焼きもちを焼いて「摧破異流義考」と題する邪義で塗りつぶされた間違いだらけの冊子を発刊し、顕正会の悪口を並べ立てていますが、恐れ多くもこれらの邪義の出所は、実は信徒の尊敬を一身に集め、信徒を正しく教導して功徳を得さしめ、信徒の一人一人を即身成仏の境涯に導かなければならない重い立場にある坊主が邪義をまき散らしているのであります。それを大草一男がそのまま代弁しているのでありますが、この機会に彼の坊主らが垂れ流す邪義を徹底して粉砕し、御本仏大聖人様の三大秘法の正義を簡潔に示すと共に、宗開両祖以来の富士門流の正しい教義の一端を明らかにしていきたいと思っています。

先ず「発刊に当たって」と題して、次のような過去の事例を挙げて、顕正会をやり玉に挙げています。

大草一男云く「日蓮正宗が今日まで七百星霜を経てくる中で、信仰の根本・主体を、あるいは見失い、あるいは異解する者達が、時として現れた。

そうした者たちの中には、大石寺からの再三にわたる注意・教導にも拘わらず、あくまでも自己の主張を譲らず、ついに破門されて本宗から分裂していった者もある。例えば、江戸時代における、三鳥日秀の率いる三鳥派や、賢樹日好・後藤増十郎等の流義による完器講などがそれで、彼らは、三秘のうちの本門題目の修業を、勝手に「妙法」二字の数編口唱に変更したり、我が身を三宝のうちの仏宝、もしくは僧宝であると僭称したり、ついには、正しき大御本尊まします大石寺を「謗法の地であるから参詣してはならぬ」等と宣伝し、自ら大聖人の正系門流を名乗って、本尊をも恣(ほしいまま)にしたのである。

これら、日蓮正宗から分裂し、まったく異なる流義と成り果てた輩を、一般に〝異流義〟(富要集九巻214ページ参照)と呼ぶ。彼らは、大聖人が「かかる日蓮を用ひるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし(御書1066ページ)と仰せのように、自分では日蓮大聖人の仏法を正しく信仰しているつもりであっても、その実、大聖人を悪しく敬う------すなわち、大聖人の根本・主体に背く大重罪を犯しているのである。

さて、近年、日蓮正宗内から発生した新たな異流義として、顕正会がある。事の起こりは、昭和45年頃、本宗信徒であった印刷屋の浅井昭衛率いる一派(当時・妙信講)が、正本堂建立に絡んで、本門戒壇に関する六十六世日達上人の御指南に異義を挟んだことから始まった。浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続け、さらには総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして、昭和49年、日蓮正宗から破門されるに至ったのである。

破門後の浅井等は、昭和五十七年以降、勝手に「日蓮正宗顕正会」などと名乗り、平成八年からは「冨士大石寺顕正会」などと改称したが、もちろん、これは日蓮正宗とも富士大石寺とも一切無関係な詐称である。

また浅井等は、三鳥派や完器講を真似たわけではないだろうが、勝手に毎日の勤行を略式に変更し、観念文を改変したり、僧侶不要論を立てたりと、例に漏れず異流義の様相を深めつつある。もし、これをこのまま放置しておけば、浅井一派(顕正会)が本宗の正式な信徒団体であるかのごとく錯誤し、たぼらかされる人々が、増え続けるであろう。そのような事態となったら、見ながら放置するの失、我々も許されざる謗法与同となる。そこで、過去に弊社より発行した顕正会破折の論文数編に、多少の加筆訂正を加え、顕正会を折伏する書として一冊にまとめ、発刊することにした。本書が広く活用されれば望外の喜びである。  平成十年十一月二十日  暁鐘編集室」等と。

ところが、本書は平成十年十一月に発刊されたとは言え、不可解なことに、発刊からわずか三年も経たない内に廃刊に追い込まれているのであります。そのため、本山の売店に廃刊の理由を問い質して見ても、ただ、「急に入荷しなくなった」の一点張りで、それ以上の事は解らないとのことであります。その後、暁鐘編集室に廃刊の理由を問い合わせたところ、逆に質問者の、氏名、所属寺院等を執拗に問い質される始末で、まるで埒があきません。兎に角、逃げの一手に終始しているありさまなのです。摧破異流義考誌の編集にたずさわっていた坊主らが胸を張って云う「本書が広く活用されれば望外の喜びである」と宣した発刊の辞は、一体どうなってしまったのでしょうか!

それは兎も角、始めに「顕正会の盲説破す」と題して次のような、真偽を織り交ぜたくだらない記事を書き連ねています。

云く「そもそも、浅井昭衛一派(元妙信講=現在は自称・顕正会)問題の発端は、創価学会三代会長・池田大作が昭和四十七年の正本堂建立をもって、強引に広宣流布達成を宣言し、自ら広宣流布の大功労者になろうとしたことにあった。

此の池田大作創価学会の動きに対し「いまだ広宣流布の達成とは考えられない」とする浅井一派が噛みつき、対立が生じたのである。

当時の御法主・六十六世日達上人は「国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することである」と裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた。

が、自らの浅智慧と棒暗記の教学に溺れる浅井等は、日達上人の御指南を信解できず、かえって、「日達上人が学会の圧力に屈して己義(自己流の誤った教義)を構えた」などと、とんでもない言い掛かりをつけて反抗し、結果的に、大聖人の本来の法義に背反することとなり、昭和四十九年に本宗より破門されてしまったのである。

以下、浅井等が主張する異義について、その概略を述べ、破折を加えることにする」等と、空威張りの宣伝を繰り返しています。

此処で坊主らが日達管長が垂れ流した邪義・邪説を覆い隠し、血眼になって擁護しておりますが、すべてが虚偽なのであります。

云く「当時の御法主・六十六世日達上人は『国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することである』と裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」などとあります。

しかしながら、良くもまあ、今頃になってぬけぬけと、こんな嘘八百を垂れ流す事ができるものと感心しています。坊主らのつくられた無謬性を証明するには、余りあるものがあります。

日達管長の云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)などとした邪義を垂れ為していたのであります。良くもこんな邪義を垂れ流す事ができますね。ニセ戒壇正本堂という建物が建築された段階で、広宣流布は達成とは恐れ入りました。こうしたとんでもない邪説を吹聴していたのであります。

それが時が経った今になったら「国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することであると裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」とは恐れ入りましたね。

このような邪義を垂れ流す管長職の日達が日達なら、それに連なる一山の坊主らも右へ習えで、先を争ってニセ戒壇正本堂を指して広宣流布の「事の戒壇」と称して、歯の浮くような諛言を垂れ流していたのであります。

下記に挙げた坊主らの諛言はほんの一部に過ぎませんが、当時の宗門は大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「事の戒壇」に関する戒壇義を、上は日達管長から下は所化小僧に至るまで、一千人を超す坊主の全員が、下記のごとき邪義を並べ立てて純真の信徒を欺き、大聖人様に対する背反が一山を埋め尽くしていたのであります。役職は当時を表しています。

始めに早瀬日慈総監の諛言「前代未聞、後代にもなき、正本堂建立発願式に会い遇うことを得て、我等は誠に地湧の眷属たりと、感激に堪えない。---我等僧俗は未曾有の此の盛儀を契機として、更に心を新たにし、猊下と池田先生の姿を鏡として、倍々よき弟子とよき門下との僧俗一致をなして仏道に精進せんことを茲に重ねて誓うものであります」(大白蓮 昭和42年11月号)と。

次に管長職を簒奪したと言われているた阿部教学部長の諛言「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・池田大作先生により、始めてその実現の大光明を顕さんとしている」(同前)と。

次に佐藤慈英宗会議長「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒壇』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅を以って本堂の正本尊つなすべきなり』との御遺命遊ばされた大本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」(同前)と。

次に菅野慈雲宗会議員「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。

次に椎名法英「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂建立発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木にも超えたる最大歓喜である。-----特に『これが私の今世の最高の使命』とまで叫ばれた池田会長先生の死身弘法のお心には、ただ頭をたれるのみである」(同前)と。

これらの諛言を目の当たりにすれば、当時の宗門の坊主らが如何に曲がり、如何に腐敗堕落していたか、こうした教義歪曲と腐敗堕落は一山を覆い尽くしていたのであります。当時を振り返れば想像を絶するものがあります。而して唯一の正系門家の教義歪曲と腐敗堕落は、恐れ多くも今日に持ち越されたまま常態化されているのでありますが、こうした宗門の誤りと教義歪曲は一刻も早く取り除き、御本仏大聖人様に五体投地の思いで深謝し、本来の富士門流の正義、すなわち御本仏大聖人様の御本頑たる国立戒壇の正義を取り戻さななければ、日本国は取り返しの付かない事になります。

種々御振舞い御書に云く「法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況んや数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり。云々」と。

いま時に当り、正系門家の犯した教義歪曲を後世の歴史家の記憶に長く留め、改めて当時を振り返り、今後の戒めとしたいものでありますが、戒めの前には先ず、今日の宗門の教義歪曲を糺さなければなりません。大聖人様はすでに御存生の時に斯く仰せられているのであります。「はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。いま、宗門は平成33年、御本仏大聖人様御生誕八百年の慶事を迎えんとしているのであります。それまでにはせめてもの「国立戒壇」の正義を取り戻さない限り、取り返しの付かないような国家的体験を味わう事になるものと思われます。

云く「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。

宗門の限度を超えた仏法違背には罰が当たるのでありますから、ニセ戒壇正本堂は取り壊し、跡形もなく撤去したと雖も、国立戒壇という大聖人様の御本願に背反した大謗法の信心には、功徳を生ずる道理は完全に無くなっている事を知るべきであります。









浅井会長による「三大秘法抄」の講義禄其の三

2017年02月23日 09時39分22秒 | 亡国の坂道 
本門の本尊を明かす

本文

『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作の三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云々。疏の九に云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密となす、又昔より説かざるを名づけけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す、仏三世に於いて等しく三身あり、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」等云々。』

まず本尊の体相を明かし給う。ここに「教主釈尊」とあるから、これは印度出現の法華本門の教主釈尊であるととれば、大謗法となる。文上本門の釈尊なら、すでに上の文に度々あらわれている。それを明かすのに「汝が志無二なれば」等の重誡は不要といわねばならない。

まさに、かかる重誡のうえに明かし給う本尊こそ諸教に秘して説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人の御事なのである。ゆえに日寛上人は「寿量品に建立乃至教主釈尊是れなり」の文意を端的に「我が内証の寿量品に建立する所の本尊はすなわちこれ久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊これなり」と御指南された。「本因妙の教主釈尊」とは大聖人の御事であることは、血脈抄の「我が内証の寿量品とは脱益寿量文底本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」の金文に明らかである。

次に、本文を具に拝する。まず「五百塵点の当初」とは久遠元初のことである。すなわち五百塵点のゆえに久遠、当初のゆえに元初である。「此土」とは、総じていえば他土対してこの娑婆世界をいうが、別していえば印度に対してこの日本をいう。まさしくここには、三大秘法有縁の妙国・大日本を指して「此土」と仰せられるのである。この御聖意は日向記に明らかである。すなわち「本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり」と。

さらに観心本尊抄には「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月氏・震旦に未だ此の本尊有さず」と、「此の国」とは日本国である。

かくいえば疑問がおきよう。日本が久遠元初以来三大秘法有縁の本国土ならば、成住壊空の四劫はいったいどうなるのか、五百塵点の当初とは地球の成立すをさかのぼること久々遠々の昔のはずである、その頃より日本があるわけがないではないかと。答えるに、たしかに大宇宙は成住壊劫の四劫によって消滅をくりかえしている。ゆえに壊劫の時至れば地球も日本も滅失して無相となる。だがまた成劫の時至れば此の娑婆世界は生じ、日本国は涌出して本の相を現ずるのである。この趣を天台は文句に「問う、劫火洞然として天地郭清す、いかんぞ前仏・後仏此の山に同居し給うや。答う、後の劫立本の相還って現ず、神通を得たる人昔の名を知って以って今に名づけるのみ」と表現している。

この意を以って論ずれば、まさしく日本は久遠元初以来、三大秘法有縁の本有の国土であり、そのゆえに常に日本と名づけられる。これを自然感通という。ここにおいて、日向記の「霊山とは日本国なり」の御意が胸に収まろう。「此土」とはまさにこの本有の妙国日本を指し給うこと明らかである。「有縁深厚」とは、主・師・親の三徳の縁が深く厚い、ということ。三徳有縁は本尊として尊敬すべきである。

「本有無作三身」とは、印度出現の釈尊のごとく三十二相を以って身をかざらず、〝本のままの凡夫のお姿の仏様〟ということである。ゆえに御義口伝に「久遠の事」を釈して「此の品の所詮は久遠実成なり、久遠とははたらかず、つくろわず、もとの儘(まま)と云うなり、無作の三身なれば初めて成せず、是れ働かざるなり、三十二相八十種好を具足せざれば是繕(つくろ)わざるなり、是れを久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり。」と遊ばす。この御指南によって明らかなように「本有無作三身」とはまさに〝凡夫のお姿の御本仏〟ということである。

さて、「久遠元初以来、日本国に三徳の縁深き、凡夫のお姿の御本仏」とは誰人にてましますか。日蓮大聖人を措(お)き奉って、他にあるべきはずもない。まさしくこの御文は、久遠元初の自受用身の再誕日蓮大聖人を以って末法の本尊とすべしという御意に他ならぬ。念のために、無作三身の教主釈尊とは三十二相の釈迦仏にあらずして、凡夫位の御本仏日蓮大聖人なることの文証を二・三挙げれば、諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏なり」と。

「凡夫は体の三身」の「凡夫」とは別して日蓮大聖人の御事であり、「仏は用の三身」の「仏」とは本果の釈尊のことである。大聖人こそ体の三身・本仏であり、この本仏を妙法蓮華経と呼ぶこと文に在って文明である。船守抄に云く「過去久遠五百塵点のそのかみ、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」「我等衆生」とは総じての仰せであり、別していえば大聖人御一人であられる。すなわち五百塵点のそのかみの教主釈尊とは日蓮大聖人なりと、まことに明々白々である。

また御義口伝に云く「如来とは釈尊、.総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無の三身なり、今日蓮等の類いの意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」と。

末法の法華経の行者とは日蓮大聖人の御事たるこというまでもない、なれば、日蓮大聖人こそ無作三身であり、そのお名前を南無妙法蓮華経と称し奉るのである。以上列挙の御文を拝すれば、無作三身とは日連大聖人なることは明らかである。されば日蓮大聖人の御当体こそ本門の本尊にてましますのである。ゆえに謹んで御本尊のお姿を拝すれば、中央に「南無妙法蓮華経日蓮在御判」と大書し給うのである。

次に「如来秘密神通之力」の結文と、天台文句の「一身即三身云々」が引かれているが、所印の所以は無作三身の衣文なるがゆえである。先に挙げた諸法実相抄の文と、御義口伝の次の御指南を拝すれば所印の御意を拝することができよう。「建立の御本尊の事、御義口伝に云く、此の本尊の衣文とは、如来秘密神通の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥(たしか)に霊山に於いて面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と。

本門の題目を明かす

本文

『題目とは二の意あり、所詮正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさてやみぬ。正像には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず、是れ理行の題目なり。末法にい入って今日蓮が唱える所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり、名体宗用教の五重玄の五字なり。』

本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える修行をいうが、ここは正像ニ千年に天親・竜樹・南岳・天台等が唱えた題目と対比して、大聖人の唱えた給う本門の題目を明かし給うている。正像二千年にも、天親・竜樹・南学・天台等は南無妙法蓮華経と唱えていたが、これらの題目と、末法に日蓮大聖人が唱え出された本門の題目とは全く異なったものである。異なる点は二つある。御文にあって明らかなように、一には、正像の題目は自行ばかりであり、末法の題目は自行化他にわたる。二には、正像の題目は理行であり、末法の題目は事行である。

一について説明すれば、竜樹・天台等は自分だけは南無妙法蓮華経と唱えていたが、人に向かって時機相応の別な法を勧めていた。よって「自行ばかりにしてさて止みぬ」と仰せられるのである。しかし大聖人は、御自身も南無妙法蓮華経と唱え人にこれを唱えんことを勧め給うた。自行も南無妙法蓮華経であられた。よって「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せ遊ばすのである。二について論ずれば、これは唱える題目の法体そのものが異なることを表す。天台等の唱えた題目の法体は、文上脱益の法華経迹本二門の妙法である。ゆえに「理行の題目」と云い、大聖人の唱え給う題目は、その法体寿量文底下種の妙法である。ゆえに事行の題目というのである。これを本文には理行の題目に対して「名体宗用教の五重玄の五字なり」と仰せられるのである。すなわち久遠元初の本因妙下種の題目である。

本門戒壇を明かす

本文

『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり、三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹹み給うべき戒壇なり。』

本門戒壇は大聖人究極の御願業である。これは、本門戒壇の妙用により、日本国を仏国土に、ひいては一閻浮堤(全世界)の仏国土化を事相の上に顕現するものである。大聖人の御在世においては、本門の題目と本門の本尊は顕われ給うとも、この本門の戒壇の一事においては未だ時至らず、よってその実現を未来に御遺命せられたのである。しかしながら、本門の戒壇に安置すべき御本尊だけは、弘安二年十月十二日、末法万年のことを慮(おもんぱか)られ堅牢なる楠木の厚き板に御自らお認(したた)め遊ばされ、未来の御用意と遊ばした。

この御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げる。これぞ三大秘法の随一、大聖人出世の御本懐、日本を始め全世界の一切衆生に授与せられた一閻浮堤総与の大御本尊である。よって聖人御難事には「此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難は申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつしろしめせり」と。まさしく弘安二年の大御本尊建立を以って出世の本懐と仰せられる。よって日寛上人は「なかんずく弘安二年の本門戒壇御本尊は究竟中の究竟・本懐中の本懐なり、すでにこれ三大秘法随一なり、いわんや一閻浮堤総体の本尊なるゆえなり」と。

而して大聖人はこの御本尊を弘安五年に日興上人にご付属され、本門戒壇の建立を御遺命遊ばしたのである。その御付属状(一期弘法抄)に云く「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せら留べきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。「日蓮一期の弘法」とは大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事、そして本門の戒壇の建立については「国主此の法を立てらるれば富士山」と仰せられ、委細をすべて日興上人に口伝遊ばされたのである。但し、門家には未だ本門戒壇の何たるかを知る者はいない。よって未来のため、その内容を明かし給うたのが本抄である。本抄が一期弘法抄の助証であるとの意はここにある。実に、御書四百余篇の中に、本門戒壇の異議・内容を明かされたのはこの三大秘法抄だけである。

さて、本門戒壇は、どのような時に、どのような手続きで、どこに立てられるべきか、以下本文にそれを拝する。

まず時については「王法仏法に冥事仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とお定めである。これは広宣流布の暁の、国家と仏法の関係状態を明かされたものである。日本国家がこのような状態になった時が戒壇建立の時と定められたものである。以下一文づつ拝せば「王法」とは、国家統治の最高権力・統治主権・国家権力等の意である。またその活動に約して一国の政治、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等をも意味する。要するに、国家統治に関わる種々の概念を包括した言葉である。

「王法仏法に冥事仏法王法に合して」とは、国家権力が三大秘法を根本の指導原理として尊崇擁護し、また三大秘法が国家の繁栄・国民の幸福のために生かされる状態をいう。これは大聖人の仏法が単に個人の信仰の次元に止まらず、国家次元において受持されるということを意味する。そもそも国家の繁栄は国民一人一人の幸・不幸をその中に包含している。ゆえに大聖人は「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事」と仰せられる。よって、個人が安穏であるためには国家が安泰でなければならない、国家が安泰であるためには王法が仏法に冥ぜざるべからずというのが立正安国論の御趣旨であり、また本抄の御指南である。

さて、王仏冥合の具体的姿はいかにといえば、それを次文に明かし給い、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と仰せられる。「王」とは国主、「臣」とは国政にたずさわる者、「王臣」の二字の中に全国民が含まれていることは言うまでもない。すなわち、国主も、国政にたずさわる者も、全国民も、心から本門戒壇の大御本尊を信ずるのである。「有徳王・覚徳比丘」とは涅槃経に出てくる故事である。昔、歓喜増益如来の滅後・仏法まさに失せんとする時、覚徳比丘という聖僧あって身命も惜しまず正法を説いた。この時、多くの破戒の悪僧あって怨嫉しこれを殺害せんとした。その時、有徳王がかけつけ、身を以って覚徳比丘を守り、ついに命を失ったが、その功徳により阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じたという。

この覚徳比丘の姿はまさしく御在世の大聖人のお姿であり、また事の広布の時の御法主上人のお姿である。但し、御在世には国家権力大聖人を守るどころか流罪死罪にし奉ったが、事の広布の時にには王臣一同に戒壇の大補本尊を守護し奉るのである。この時の王臣の三大秘法受持は、ただ護法の大道念より出る純粋なものである。覚徳比丘も法の為・国のため不惜身命の説法なら、護法の有徳王も純粋捨身である。いやしくも為政者が自己の政治野心のために宗教を利用したり、また宗門が権力にへつらって栄達を計ったりするような関係は、大聖人のもっともお嫌い遊ばすところである。王仏冥合の大精神はこの「有徳王・覚徳比丘」の仰せを規範として深く拝さなくてはならない。

末法濁悪の未来に、大聖人の御在世の信心に立ち還って立正安国論の大精神を以って一国を諫める宗門、そしてそれに呼応して本門戒壇の大御本尊を護持せんとする不惜身命の熱誠が一国上下に満ち満ちる時が必ず来る。これが大聖人の未来を鑑み給う御予言であり、御確信であられる。その時が戒壇建立の時なのである。

次に戒壇建立の手続きについては「勅宣並びに御教書を申し下して」の一文がそれに当る。「勅宣」とは天皇陛下の詔勅、「御教書」とは当時幕府の令書、いまでいえば国会の議決がそれに当る。日本一同に信ずる事の広布の時がくれば、国会の議決も問題なくなされよう。要するに、「勅宣並びに御教書」とは、国家意思の公式表明を意味するものである。〝本門戒壇の大御本尊を日本国の命運を賭しても護持し、本門戒壇を建立したします〟という国家意思の表明である。かかる手続きを経て建立される本門戒壇なるゆえ、これを宗門では国立戒壇と称してきたのである。

しかるにいま、世間にへつらって国立戒壇を否定するため、御本仏の聖意を曲げ「勅宣・御教書」を解釈して「建築許可書」などという無道心の麤語(そご)が宗門に横行しているが、これらはまさに魔説と断ずべきである。さらに、本抄に「勅宣」と仰せられた深意を拝するに、当時皇室は幕府に実権を奪われて有名無実・衰微の極にあったのである。しかるにこの仰せあるは、未来を鑑みての深き御聖慮と拝し奉るの他はない。大聖人は一往時の国家統治者を「国主」と呼ばれている。ゆえに北条時宗を指しても「国主」と仰せであるが、再往日本の真の国主は天皇であることの御意は諸御書に明らかである。末法万年に伝わる仏法を守護する王法が、一時の英雄や覇王ではふさわしくない、それらには永続がないのである。日本が三大秘法有縁の妙国ならば、永遠の仏法を守護するに本有の王法が存在しないはずはない。この使命を持っているのが日本の皇室である。この使命あればこそ、世界に類を見ぬ永続をみるのである。

たとえ時により衰微があとうとも、時来たれば必ず仏法有縁の「本化国主」が皇室に出現し、以後万年にわたり、三大秘法守護を以って皇室の唯一の使命とすることになるのであろう。とまれ、本門戒壇の大御本尊御建立の五ヶ月のちに、紫宸殿の御本尊を顕わし給うた御事績と、本抄の「勅宣」の仰せとを思い合わせるに、ただ凡慮の及ばざる甚深の御聖慮を感ぜずにはいられない。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて」とは場所についての定めである。ここには形容詞だけで地名の特定はないが、一期弘法抄の御文よりして、日本第一の名山富士山を指し給うものであることは明らかである。さらに富士山の広博たる裾野の中には、南麓の最勝の地「天生原」がその地域と定められ、歴代御法主により伝承されている。すなわち日興上人は「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて三堂並びに六万坊を造営せらるべきものなり」(大坊棟札本尊裏書)と。また日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

次に「時を待つ可きのみ」とは、門下への勧誡である。勘とは、事の広布は必ず来るによって身命を惜しまず不断に弘通せよとの御激励。誡とは、未だ時の至らざるうちに戒壇を建立することは断じて不可なりとのお誡めである。いま正本堂を見るに、まさしくこの御聖意に背くものである。もし一国の謗法と邪正を決断せぬうちに戒壇を立てれば、一国において邪正肩を並べ、謗法与同の義を生ずるから不可なのである。世間にへつらい謗法呵責の道念を失えばこそ、時至らざるに濫りに立てるなどの違法がなされるのである。論より証拠。正本堂にキリスト教神父を招いた事実こそ、何より謗法与同の実態を雄弁に物語っているではないか。大聖人の御心を冒涜することこれより甚だしきはない。

次に「事の戒法と申すは是なり」とは、迹門の理戒に対して、如上の国立戒壇を「事の戒法」と仰せられるのである。すなわち一国総意の国立戒壇建立により、始めて本門戒壇の大御本尊は公開され、そこにおいて戒義が執行されるゆえである。それまではあくまで内拝であるから義の戒法と申し上げる。「三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給う戒壇なり」とは、本門戒壇の利益広大を仰せ給うのである。この戒壇は日本のためだけではない、中国・印度さらに全世界の人々がここに参詣し、懺悔滅罪・即身成仏を祈る処である。いや大梵天王・帝釈等も来下参詣する戒壇である。まさにその利益の広大なること、人界ばかりでなく天界まで及ぶことを仰せである。

いま、国立戒壇を否定する理由の一つとして、大聖人の仏法は全世界の仏法であるから国立戒壇は不可、などという者があるが、これまた全く為にする己義である。本門の戒壇が日本の国立であるという意は、大聖人の御法を日本だけのもの、日本だけに閉鎖する意味ではない。実に全人類のための大仏法を日本が守護するという意味である。これは、日本が大聖人御出現の本国であり、三大秘法広宣流布の根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。

ゆえに本抄には、日本の広宣流布・王仏冥合を以って国立戒壇を立よとし、それが三国並びに一閻浮提の人々のためであると御意せられるのである。全世界に広宣流布した暁を待って立てよとは全く仰せられていない。本抄に仰せの「王法」とはまさに日本の「王法」、「王臣一同」とは日本のそれ、「勅宣・御教書」とは日本の「勅宣・御教書」なのである。かくのごとき国立戒壇が全世界に開かれるのでる。考えてもみよ。全人類の即身成仏の大法を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護する日本は、全世界から感謝されて然るべきではないか。

もし、かかる仏国日本を怨嫉憎悪する他の国家・国民があれば、罪はその方にある。ゆえに本尊抄には「賢王と成って愚王を誡責し」と仰せ給うのである。いずれにしても、御本仏の御遺命のまま、全世界のために国立戒壇を立てるのに、何の遠慮・気がねがいろう。実は国内の選挙のために国立戒壇を曲げたにもかかわらず、その理由を〝世界宗教のゆえ〟などというはまことに見えすいた誑言というべきである。実に国立戒壇こそが、一閻浮提に広宣流布する重大な鍵なのである。

つづく






浅井会長による「三大秘法抄」の講義録其の二

2017年02月17日 04時05分01秒 | 亡国の坂道 
本化・迹化・他方の菩薩について

ここで三種の菩薩の名のいわれについて説明する。これには二つの義があり、一には菩薩の所住の処に約す。すなわち、本化の菩薩は下方空中に住する。ゆえに下方という。他方の菩薩はこの娑婆世界の外の国土に住する。ゆえに他方という。迹化の菩薩を旧住の菩薩と名づける。

二には仏の本迹の教化に約す。すなわち、下方の菩薩は仏本地教化の菩薩である。ゆえに本化となづける。文殊等の菩薩は仏迹中教化の菩薩である。ゆえに迹化という。他方の菩薩は本地の教化ではなく、迹中の教化でもなく、ただ他方の仏の弟子である。ゆえに他方という。

以上この立名のいわれを知れば、三種の菩薩の親疎を知り、本文の「況や其の以下をや」の御意をほぼしることが出来よう。さらに日寛上人は、迹化・他方を制止してただ本化に付属せられた理由について、十二の釈を挙げ説明しておられる。

まず他方を制止した理由に三つ、本化に付属した理由を三つ、これを他方・本化の前三後三という。

1.他方は釈尊の直弟にあらざるゆえに。義疏第十に云く「他方は釈迦の所化にあらず」等云々。

2.他方は各々任国あるゆえに。天台云く「他方各々自ら任国あり」等云々。

3.他方は結縁の事浅き故に。天台云く「他方は此土に結縁の事浅し」等云々。

1.本化は釈尊の直弟のゆえに。天台云く「これ我が弟子応に我が法を弘むべし」等云々。

2.本化は常に此土に住するゆえに。太田抄に云く「地涌千界は娑婆世界に住すること多塵劫なり」云々。

3.本化は結縁の事深きゆえに。天台云く「縁深厚を以ってよく遍く此土を益す」等云々。

次に迹化本化の前三後三。

1.迹化は釈尊名字即の弟子にあらざるゆえに。本尊抄に云く「迹化の大衆は釈尊初発心の弟子に非ず」云々。「初発心」とは名字即なり。

2.迹化は本法所持の人にあらざるゆえに。本尊抄に云く「文殊観音等は又爾前迹門の菩薩なり、本法所持の人に非ず」等云々。

3.迹化は功を積むこと浅きゆえに。新家抄に云く「観音薬王等は智慧美しく覚えある人々といえども法華経を学す日浅く末代の大難忍び難かるべし」等云々。

1.本化は釈尊名字即の弟子なるがゆえに。本尊抄に云く「我が弟子之を惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等云々。

2.本化は本法所持の人のゆえに。輔記に云く「法これ久成の法なるゆえに久成の人に付す」云々。御義口伝に云く「此の四菩薩は本法所持の人なり、本法とは南無妙法蓮華経なり」云々。

3.本化は功を積むこと深きゆえに。下山抄に云く「五百塵点劫已来一向に本門寿量の肝心を修行し習い給う上行菩薩」等云々。

以上を以って「普賢文殊等にも譲り給わず、況や其の以下おや」の御意はあきらかである。

ここで附言せねばならぬことは、「本化は釈尊名字即の弟子」等のことである。上行菩薩は釈尊の弟子であるのに、その再誕たる大聖人が何ゆえに本仏かという疑問が当然おきよう。上行菩薩が釈尊の弟子の立場を取るのはこれ教相の所談である。釈尊一仏を中心とした熟脱の化導の中において、二仏が並出すればその化を破る、よって上行は一往弟子の立場を取り釈尊の久成を明かしてその化を助け、また末法のためには、「子父の法を弘む、世界の益あり」の世界悉檀の上から父子・師弟の姿をとるのである。

もし文底の意を以ってこれを見るならば、上行菩薩の本地は久遠元初の自受用身である。よって、上行の他に名字即本因妙の釈尊はなく、名字本因の釈尊の他に上行はない。実に本課妙の釈尊に対して、本因名字の釈尊を本化上行の名を以って呼ぶのである。すなわち、久遠元初の自受用身、末法に出現して三大秘法を一切衆生に授与せられんに、その手継証明のため、垂迹の身を上行として仮に付属を受けられるのである。されば久遠元初の自受用身は本地、上行菩薩はその垂迹、再誕は日蓮大聖人であらせられる。ゆえに血脈抄には「本地自受用身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」と仰せられる。まさしく、大聖人は外用教相に準ずれば自受用身の垂迹上行の再誕である。よって大聖人を即久遠元初の自受用身、末法下種の御本仏と仰ぎまいらせるのである。

「されば此の秘宝を説かせ給いし儀式は・・・・・」以下は、釈尊が内証の寿量品において本門の本尊を説き、その付属の儀式を明かすところである。この儀式は爾前経や法華経を説いた時とは全く異なる。すなわち、説法の場所は寂光本有の国土であり、そこにいらっしゃる教主は本有無作の三身であり、所化もまた同じであると。

「能居の教主は本有無作の三身なり」

この「本有無作の三身」とは、内証の寿量品の意を以って、その教主を論じ給うゆえにかく仰せられたものと拝する。このことは日寛上人の次の御指南に明らかである。すなわち法華取要抄文段に云く「もし文上の寿量品の意に拠(よ)れば、能化の教主已(すで)に四十二品の無明を断じて妙覚究竟の位に入る、能化既に爾り、所化亦爾り。もし本化付属の内証の寿量品の意に拠れば、能化の教主五百塵点の当初凡夫の御時、本地難思の妙法を即座に開悟し、名字妙覚の成道を唱うるなり、これを本地自行の成道と名くるなり、能化すでに爾り、所化亦然り」と。

寿量品に説き顕された御本尊について

御本尊が寿量品に説き顕されたということについて少しく説明すれば、正しく御本尊は寿量品の儀式によって顕われるのである。すなわち、宝搭品の時に釈迦・多宝の二仏座を並べ、分身来集し、涌出品の時本化涌出し、寿量品に至って十界久遠の上に国土世間すでに顕われ、一念三千の本尊の儀式すでにここに顕われている。しからば、御本尊は在世今日の寿量品の儀式を移したものと云えば大間違いの謗法となる。今日寿量品の儀式は在世脱益文上寿量品の本尊であり、これ舎利弗・目連等のためである。ここに内証の寿量品に説き顕わす御本尊という意味を深く拝さねばならぬ。実に内証の寿量品に説き顕わす御本尊は、今日寿量品の儀式を以って久遠元初の自受用身一身の相貌を顕わすもので、これ正しく末法下種の御本尊である。

「問う、此の御本尊の為体(ていたらく)は今日寿量品の儀式を移すとせんや、久遠元初の本仏の相貌(そうみょう)を顕わすとせんや。もし今日寿量品の儀式といわば、すなわちこれ在世脱益の本尊にして末法下種の本尊に非ず。もし久遠元初の本仏の相貌といわば、二仏並座・本化迹化・身子目連等あに今日寿量品の儀式にあらずや。答う、此の御本尊は正にこれ文底下種の本仏・本地難思境智冥合・久遠元初の自受用身の一身の相貌なり」と。

さらに云く「問う、正しく本尊の為体二仏並座・本化迹化・身子目連等あに今日寿量品の儀式にあらずや。答う、今日寿量品の儀式は文上脱益・迹門理の一念三千教相の本尊なり。もし遺付の本尊は文底下種の本門・事の一念三千の観心の本尊なり、然るに本事已往のもし迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん、ゆえに今日寿量品の儀式を以て久遠元初の自受用身の相貌を顕わすなり、妙楽のいわゆる『雖脱現在具騰本種』之を思い合わすべし」と。以上の御指南を以って、内証の寿量品に説き顕わす御本尊の深意を心解すべきである。此の文底下種の御本尊を神力品において本化上行菩薩に付属せられたのである。また「上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出し」の「寂光」とは仏の住所である。その寂光より出現した上行は、菩薩とは名乗るも実に御本仏たるの意、この辺にも顕われている。

三大秘法の弘通の時を明す

本文

『問う、其の所属の法門仏の滅後に於いては何れの時に弘通し給う可きか。答う、教の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云々、謹んで経文を拝見し奉るに、仏の滅後正像二千年過ぎて第五の五百歳・闘諍賢固白法隠没の時云々』 

この御文は、三大秘法弘通の時を明かす段である。神力品で付属された三大秘法は釈尊の滅後には、いかなる時に弘通されるのか、との問いを挙げ給い、法華経の薬王品の「後五百歳中広宣流布」の経証を以って、正像二千年を過ぎて、末法の始めの五百年であると断定遊ばしている。

広宣流布の二義について

末法始めの五百年を三大秘法広宣流布の時と仰せられるのは、法体の公布、すなわち日蓮大聖人が御出現せられ、三大秘法を初めて建立遊ばすことを仰せられる。これ流行の始まりである。また逆縁に約すれば広宣流布である。広宣流布には二義がある。一には順縁広布、化儀の広布ともいう。日本国一同に日蓮大聖人を信じ南無妙法蓮華経と唱える時をいう。諸法実相抄の「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との仰せがこれである。二には逆縁広布、また化儀の広布に対して法体の公布ともいう。これ日蓮大聖人の御化導に対し一国瞋恚(しんに)をおこし怨嫉誹謗の逆縁で満ちることを指す。

顕仏未来記に云く「諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん、此の人は守護の力を得て、本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩・我深敬等の二十四文字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し」と。この順・逆二縁の広宣流布の意を以って「後五百歳中広宣流布」を日寛上人判じて云く「もし逆縁に約すれば広宣流布なり。もし順縁に約すれば未だ広布せずといえども、後五百歳の中より漸々流布疑いなきものなり。もし此の一事虚しくなるならば、世尊は大妄語、法華経も虚説となるべし、いかでか其の義これあるべき、その義なくば日本国一同に流布すべきなり」と。

本文

『問う、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し、機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給うべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給うは教主釈尊の慈悲に於いて偏頗あるに似たり如何。答う、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照らすと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず、正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶えり、像法一千年には法華経の迹門機感相応せり、末法に入って始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり、機法相応せり。今此の本門寿量品の一品は像法の後の五百歳機尚耐えず、況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや、末法に入ては爾前迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量品の一品に限りて出離生死の要法なり、是れを以て思うに、諸仏の化導に於いて全く偏頗無し等云々。』

前段を受け、疑難を遮して正像未弘・末法流布の意を重ねてお説き遊ばす段である。仏の慈悲というものは平等であるべきに、それほど勝れた三大秘法を、正像二千年の衆生には与えず、末法の衆生にだけと限るのは、偏頗(へんぱ)えこひいきがあるようではないかと。この疑難に対し、「機法相応」を以って〝仏の慈悲に偏頗なし〟とご会通遊ばすのである。すなわち正法千年の衆生の機根に対しては、小乗・権大乗が相応し、像法千年には法華経迹門の教えが衆生の機根と合っている。そして末法に入って始めの五百年-末法万年の弘通であるがその始めに約して五百年というーは法華経本門の前後十三品措(お)いて、ただ寿量品の一品、これ内証の寿量品即三大秘法、を弘通すべきである。末法の衆生の機根とこの法が相応してうのである。

いま、この三大秘法は像法の後の五百年の衆生ですら耐えられない。機根と法がなじまない、病は軽く薬が強いのである。いわんやその前の五百年、いかにいわんや正法千年の衆生は法華経迹門ですら習熟の日が浅い、まして本門はなおさらである。だが、末法に入れば本未有善の荒凡夫にとって塾脱の爾前迹門は全く力がない。ただ下種の三大秘法だけが生死を出離することができる大法であると仰せられるのである。およそ仏の化導は病と薬とのごとくである。病浅ければ薬も小薬、重病には高貴薬があたえられるのである。軽病に強い薬は益がないばかりか、時として害がある。正像二千年の衆生はすでに過去に下種を受けている。よってこの下種を小乗・権大乗あるいは法華経迹門を縁として覚知し、成仏を遂げる機であるから、下種の三大秘法はは最高の大法たりといえども不要なのである。かえって誹謗でもすれば過去の下種善根を破ることになる。ゆえに本尊抄には「謗多くて塾益を破るべき故に之を説かず」と遊ばされている。しかし末法は過去の下種なき荒凡夫、久遠元初と全く同じ機である。よって久遠元初の本法たる三大秘法を以って仏は衆生をお救いになるのである。このように、機法相応を考えれば、仏の慈悲はいつの時代に対しても平等であり一分の偏頗もないのである。

本文

『問う、仏の滅後正像末の三時に於て、本化・迹化の各各の付属分明なり、但寿量品の一品に限って末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず、慥に経の現文を聞かんと欲す如何。答う、汝強ちに之を問う、聞て後に堅く信を取る可きなり。所謂寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く、汝取て服す可し、差じと憂うること勿れ」等云々。』

釈尊滅後、正法・像法・末法の三時に、本化・迹化がそれぞれ付属を受けて弘通することはよくわかった。すなわち本化が神力品の別付属を受けて末法に、また迹化は属累品の総付属を受け、観音・薬王等の菩薩が南岳・天台等と出現したこともよくわかった。但し、本化上行菩薩への別付属の法体が寿量品の一品(内証の寿量品)であり、この内証の寿量品に限って末法の衆生の為であるということは未だはっきりしていない。よって経文の証拠を聞きたい。これ「寿量品一品に限る」という以上、寿量品にその確かな証拠があるはずであるということからの問いである。ここは、いよいよ次文において、内証の寿量品に説かれた三大秘法の体を明かす御用意の段であるから、強き決定信を促され「聞て後に堅く信を取る可きなり」と誡め給い「是好良薬云々」の経文をここにお示し遊ばされるのである。

是好良薬について

この「是好良薬」について、天台・妙楽の解釈では、釈尊一代の経教を指したり、あるいは法華経を指したりしているが、これは像法時代の付属に約しているゆえである。今末法本化付属の立場より「是好良薬」を判ずれば、まさしくこれ本門の本尊となる。ゆえに大聖人は観心本尊抄に「是好量薬とは、寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是れなり。此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず、何に況や他方をや。」と御断定遊ばすのである。これぞ神力付属の正体である。寛尊はこの文意を訳して「今の是好良薬は脱益の寿量品の文底、名体宗用教の南無妙法蓮華経これなり」と。さらに是好良薬を以って「名体宗用」等と判じ給うにについては是好良薬とは色香美味皆悉具足であるとして、色は般若即妙宗、香は解脱即妙用、味は法身即妙体、秘密蔵は妙名、依教修行は妙教のゆえに是好良薬は即五重玄であると訳しておられる。

そして寛尊はさらに、この五重玄の深意について「秘事なり」と断られた上で「これすなわち寿量の肝要文底の三身なり、ゆえに知りぬ、久遠元初の受用身・報中論三の無作三身なり、この無作三身の宝号を南無妙法蓮華経とうなり、乃至この無作三身はすなわちこれ末法の法華経の行者なり、もし爾ならば是好良薬の文あに人法体一の本尊にあらずや」と。まさしく名・体・宗・用・教の深意、人法体一の深旨、炳呼として明らかである。ここに至って上文の神力品「如来の一切の所有の法」等の文と、次下の「寿量品に建立する所の本尊は乃至無作三身の教主釈尊」との脈絡、まさに掌中の菓のごとく了了分明である。さて、「是好良薬」が本門の本尊と決定されれば、「今留在此」は御本尊所住の処であるから本門の戒壇、「汝可取服」は取は信心・服は唱題であるから本門の題目であること自ずと明らかである。

三大秘法の正体を明かす

本文

『問う、寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加う可からず、然りと雖も三大秘法の正体如何。答う、予が己心の大事之に如かず、汝が志無二なれば少しく之を云わん。』

寿量品ーいうまでもなく内証の寿量品のことである。この寿量品が末法濁悪のためであるとの経文がいまはっきりと示された以上、自分勝手な批判は一切慎むべきである。しかしながら、その三大秘法の正体とは、いったいどのようなものか。いよいよ三大秘法の具体的な相(すがた)を明かし給う段である。この三大秘法は大聖人の出世の御本懐、心中深秘の大法なるゆえ、これを明かし給うに当り、「予が己心の大事之に如かず、汝が志無二なれば少しく之を云わん」と重誡遊ばすのである。

本門の本尊を明かす

本文

『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作の三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云々。疏の九に云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密となす、又昔より説かざるを名づけけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す、仏三世に於いて等しく三身あり、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」等云々。』

まず本尊の体相を明かし給う。ここに「教主釈尊」とあるから、これは印度出現の法華本門の教主釈尊であるととれば、大謗法となる。文上本門の釈尊なら、すでに上の文に度々あらわれている。それを明かすのに「汝が志無二なれば」等の重誡は不要といわねばならない。

まさに、かかる重誡のうえに明かし給う本尊こそ諸教に秘して説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人の御事なのである。ゆえに日寛上人は「寿量品に建立乃至教主釈尊是れなり」の文意を端的に「我が内証の寿量品に建立する所の本尊はすなわちこれ久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊これなり」と御指南された。「本因妙の教主釈尊」とは大聖人の御事であることは、血脈抄の「我が内証の寿量品とは脱益寿量文底本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」の金文に明らかである。

次に、本文を具に拝する。まず「五百塵点の当初」とは久遠元初のことである。すなわち五百塵点のゆえに久遠、当初のゆえに元初である。「此土」とは、総じていえば他土対してこの娑婆世界をいうが、別していえば印度に対してこの日本をいう。まさしくここには、三大秘法有縁の妙国・大日本を指して「此土」と仰せられるのである。この御聖意は日向記に明らかである。すなわち「本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり」と。

さらに観心本尊抄には「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月氏・震旦に未だ此の本尊有さず」と、「此の国」とは日本国である。

かくいえば疑問がおきよう。日本が久遠元初以来三大秘法有縁の本国土ならば、成住壊空の四劫はいったいどうなるのか、五百塵点の当初とは地球の成立すをさかのぼること久々遠々の昔のはずである、その頃より日本があるわけがないではないかと。答えるに、たしかに大宇宙は成住壊劫の四劫によって消滅をくりかえしている。ゆえに壊劫の時至れば地球も日本も滅失して無相となる。だがまた成劫の時至れば此の娑婆世界は生じ、日本国は涌出して本の相を現ずるのである。この趣を天台は文句に「問う、劫火洞然として天地郭清す、いかんぞ前仏・後仏此の山に同居し給うや。答う、後の劫立本の相還って現ず、神通を得たる人昔の名を知って以って今に名づけるのみ」と表現している。

この意を以って論ずれば、まさしく日本は久遠元初以来、三大秘法有縁の本有の国土であり、そのゆえに常に日本と名づけられる。これを自然感通という。ここにおいて、日向記の「霊山とは日本国なり」の御意が胸に収まろう。「此土」とはまさにこの本有の妙国日本を指し給うこと明らかである。「有縁深厚」とは、主・師・親の三徳の縁が深く厚い、ということ。三徳有縁は本尊として尊敬すべきである。

「本有無作三身」とは、印度出現の釈尊のごとく三十二相を以って身をかざらず、〝本のままの凡夫のお姿の仏様〟ということである。ゆえに御義口伝に「久遠の事」を釈して「此の品の所詮は久遠実成なり、久遠とははたらかず、つくろわず、もとの儘(まま)と云うなり、無作の三身なれば初めて成せず、是れ働かざるなり、三十二相八十種好を具足せざれば是繕(つくろ)わざるなり、是れを久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり。」と遊ばす。この御指南によって明らかなように「本有無作三身」とはまさに〝凡夫のお姿の御本仏〟ということである。

さて、「久遠元初以来、日本国に三徳の縁深き、凡夫のお姿の御本仏」とは誰人にてましますか。日蓮大聖人を措(お)き奉って、他にあるべきはずもない。まさしくこの御文は、久遠元初の自受用身の再誕日蓮大聖人を以って末法の本尊とすべしという御意に他ならぬ。念のために、無作三身の教主釈尊とは三十二相の釈迦仏にあらずして、凡夫位の御本仏日蓮大聖人なることの文証を二・三挙げれば、諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏なり」と。

「凡夫は体の三身」の「凡夫」とは別して日蓮大聖人の御事であり、「仏は用の三身」の「仏」とは本果の釈尊のことである。大聖人こそ体の三身・本仏であり、この本仏を妙法蓮華経と呼ぶこと文に在って文明である。船守抄に云く「過去久遠五百塵点のそのかみ、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」「我等衆生」とは総じての仰せであり、別していえば大聖人御一人であられる。すなわち五百塵点のそのかみの教主釈尊とは日蓮大聖人なりと、まことに明々白々である。

また御義口伝に云く「如来とは釈尊、.総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無の三身なり、今日蓮等の類いの意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」と。

末法の法華経の行者とは日蓮大聖人の御事たるこというまでもない、なれば、日蓮大聖人こそ無作三身であり、そのお名前を南無妙法蓮華経と称し奉るのである。以上列挙の御文を拝すれば、無作三身とは日連大聖人なることは明らかである。されば日蓮大聖人の御当体こそ本門の本尊にてましますのである。ゆえに謹んで御本尊のお姿を拝すれば、中央に「南無妙法蓮華経日蓮在御判」と大書し給うのである。

次に「如来秘密神通之力」の結文と、天台文句の「一身即三身云々」が引かれているが、所印の所以は無作三身の衣文なるがゆえである。先に挙げた諸法実相抄の文と、御義口伝の次の御指南を拝すれば所印の御意を拝することができよう。「建立の御本尊の事、御義口伝に云く、此の本尊の衣文とは、如来秘密神通の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥(たしか)に霊山に於いて面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と。

つづく


 




浅井会長による「三大秘法抄」の講義録其の一

2017年02月14日 09時45分31秒 | 亡国の坂道 
浅井会長が妙信講を名乗っていた昭和51年12月、「三大秘法抄を拝し奉る」と題して御遺命守護完結に向けて闘う中に、妙信講員のために寸暇を惜しんで一年間掛けて講義下された「三大秘法抄」の講義録が拙者の手元にあります。今となってはこうした正しい講義禄は人目に触れることは、ほとんど無くなってしまいました。今、富士門流の中で国立戒壇に関する邪義が横行するなかでは、こうした正しい優れた講義禄は大変貴重な存在となってしまいました。時に当たってこの機会に、浅井会長が妙信講員のために心血注いで講ぜられた、三大秘法抄の講義録の全文を謹んで掲載させて頂くことにしました。

これこそが大聖人様以来七百年、富士門流大石寺に正しく伝承されてきた、三大秘法の秘奥をきわめ尽くした解説文であり、御本仏日蓮大聖人様の終窮究竟の御本願たる、国立戒壇論に関する正論だと確信しています。


三 大 秘 法 抄 を 拝 し 奉 る

                  浅 井 昭 衛

本抄の重要性

 三大秘法抄は御一代を通じ、最も重要なる御書である。そのわけは、大聖人御弘通の所詮たる三大秘法を整足して、その姿を余すところなく明かし給う御書なるがゆえである。大聖人の四百余篇の御書は、その元意ことごとく三大秘法を明かすにあるが、諸抄は御化導の展開の過程上から、また対告衆の機根の上から、あるいは本門の題目の一分を明かし、あるいは本門の本尊のみを明かし、あるいは三大秘法の名目だけを明かし給い、未だ本抄のごとく三秘整足してその実体を明確に明かされた御書は他に類を見ないのである。

まさに本抄は、御入滅の弘安五年に至り、御自ら一代御化導を総括遊ばされ、己心中の大事たる三大秘法が後世に正しく理解されるようにとの御聖慮から、未来のために書き遺し給う重書と拝すべきである。いまその大意を拝するに、釈尊の神力品結要付属の文に約し、末法に三大秘法が出現する縁由と三秘の体を説き給うている。そしてこの三大秘法は、三世諸仏の能生の根源であり、釈尊久遠名字即の御時修行の秘法、久遠元初の自受用身・五百塵点の当初以来この秘法を心中に秘め、いま大悲願力を以って末法に出現し、この秘法を一切衆生に授与し給うのである。

よって本抄にこの大事を明かすに当っては「聞いて後に堅く信を取る可きなり」また「予が己心の大事之に如かず、汝が志無二なれば少しく之を云わん」と重誡をされ、さらに説きおわって後には「一見の後は秘して他見有る可からず、口外も栓なし」とまで厳重の誡めを加え給うておられる。これらの仰せは、本尊抄の「設い他見に及ぶとも三人四人座を並べて之を読むな勿れ」とのお誡めと比べても、なお格段の厳しさである。以って本抄が、いかに大聖人の己心中の大事を明かし給う重書なるかが窺がわれよう。

ことに本門の戒壇については、その意義内容全く他抄にあかされていない。ただ日興上人への御付属状に、それが重大なる御遺命たることを窺がうのみである。ここに大聖人究極の大理想たる本門戒壇は、御付属状の助証たる本抄によってのみ、その全貌を余すところなく拝し得るのである。そして始めて本抄に本門戒壇の相貌を明かし給う御聖意のほどは、本文の「予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆるとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き遺し候」の仰せに明らかである。将来、本門戒壇に異議を生じた時のために、子を思う大悲やみ給わず、ここに正義を留め置かれたのである。この意味で本抄はまさに御本仏の御遺誡である。

しかるにいま悲しいかな、正系門家の中において本門戒壇について異議を生じ、その正義はまさに失せんとしている。しかれば大聖人の御聖慮は、まさに今日のためにあられたと拝すべきである。されば一万七千の全妙信講員は、いまこそ本抄を心肝に染め、身を挺して御遺命を守護し、以って御本仏大聖人に応え奉らなければならない。而して、本抄の甚意は、凡智のとうてい窺うべきところではない。よってただ日寛上人の諸抄における御指南に基づき、御聖意の万一をも拝し奉らんとするのみである。

本抄の大段

本抄を標・釈・結に分ければ、冒頭の神力品結要付属の文は標であり、「間う、所説の要言」以下は釈であり、「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給えばなり、秘すべし秘すべし」は結である。

神力結要付属の文を以って標す

本文

『夫れ法華経の第七神力品に云く『要を以って之を云わば、如来の一切の所有の法・如来に一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す』等云々。』

この神力結要付属の文は、釈尊が上行菩薩に、三大秘法の随一たる本門の本尊を付属せられた重大な経文である。日寛上人はこの経文の意を釈して次のごとく御指南である。『如来の一切の名用体宗を、皆この本門の本尊妙法蓮華経の五字において宣示顕説するとなり。今此の本尊を地涌の菩薩に付属するゆえに結要付属というなり』(観心本尊抄文段)と。

まさしく、釈尊の脱益の法華経を四句の要法に結んで付属したのではなく、釈尊が五百塵点の当初(そのかみ)修行したところの久遠元初の本法・三大秘法の本門の本尊を上行菩薩に付属せられたのである。よってこの文を『本尊付属』というのである。

さて、「如来の一切の名・用・体・宗」とは、この場合印度出現の釈尊を指すのであはない。「如来とは上の寿量品の如来」(御義口伝)である。しからば、「寿量品の如来」とは「如来とは釈尊・総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作三身の宝号を南無妙法蓮華経というなり」(御義口伝)と。

この御指南に明らかなごとく「如来」とは本地無作の三身・久遠元初の自受用身を指し給う、すなわち末法出現の日蓮大聖人の御事である。次に「名・用・体・宗」とは、「如来の一切の所有の法」が名玄義、「如来の一切の自在に神力」が用玄義、「如来の一切の秘要の蔵」が体玄義、「如来の一切の甚深の事」が宗玄義を表す。ゆえに四句の要法は名・用・体・宗にあたり、またこの四重玄義を判ずるのが教玄義であるから、四重玄は即五重玄である。いま当体義抄の御指南により拝し奉れば、「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付る時、因果俱時不思議の一法之有り、之を名けて妙法蓮華と為す、此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し、之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果俱時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」と。

久遠元初の自受用身、我が生命を深く観ぜられるに、我が一念の心法は因果俱時不思議の一法である。而して因果俱時のゆえにこれを蓮華と名づけ、不思議の一法なるゆえに妙法と名づく、すなわち、我が一念の心法をその理に基づき「妙法蓮華」と名づけられ給うたのである。これすなわち名玄義である。この妙法蓮華一念の心法に、十界三千の諸法を具足して少しも欠けるところがない、これ一念三千である。よってこれを体玄義とする。

「之を修行する者は仏因仏果同時に之を得る」とは、仏自行の因果であり、これ宗玄義である。「聖人此の法を師と為し」以下は俱時感得を以て妙用を顕すゆえに用玄義である。この当体義抄の御趣意により、久遠元初自受用身の名・用・体・宗はことごとく本門の本尊・妙法蓮華教の五字に宣示顕説され、いま釈尊より上行菩薩に付属されたのである。而して、上行菩薩は末法に出現して日蓮大聖人とお名乗りになり、釈尊の付属にまかせ、久遠元初自受用身の御身の御内証を「本門戒壇の大御本尊」と顕われ給い、末代幼稚に授与せられ給うのである。末法の一切衆生はこの大御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱うれば、必ず即身成仏し、当体蓮華を顕すこと断じて疑いかきことを、釈迦・多宝・十方の諸仏並座して証明した文がこの神力品の経文である。

釈尊の本意は末法の三大秘法広宣流布の証明にあること

釈尊は熟脱の教主として、印度に出現し、舎利弗・目連等を脱せしむるてめに法華経を説くとおもえども、在世の衆生を脱せしむるのは一往の傍意であり、再往その意を尋ぬれば、実に末法の一切衆生が下種の本仏日蓮大聖人の三大秘法を信受することをひたすら願われたのである。この趣旨を日寛上人は「問う、釈尊出世の本懐はただ法華経を説いて在世の衆生を脱せしめんためなり。答う、一往然りといえども、実に本意を尋ぬれば、ただこれ末法今時我等衆生に本門の本尊を受持せしめんがためなり、ゆえに経に云く『是好良薬今留在此』又云く『悪世末法時』『後五百歳中広宣流布』等云々、宗祖これらの経意に准じ判じて云く『法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給えばなり』等云々」この意味から神力品付属は、正しく末法に日蓮大聖人が三大秘法を広宣流布し、一切衆生をお救いなることを釈尊が証明した、手継ぎの証文なのである。ゆえに釈尊は神力品の時、十神力を以って出広長舌相、毛孔放光、地六種動等の大瑞をまず以って示したものである。

ゆえに下山抄には「釈迦・多宝・十方の諸仏は寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」とは、寿量品文底秘沈の三大秘法の随一たる本門の本尊の御事である。かかる三仏(釈迦・多宝・十方分身の諸仏)の証明に応じ、久遠元初の自受用身末法に出現して三大秘法を弘める時、また在世にも過ぎたる大瑞相があらわれぬはずはない。されば呵責謗法滅罪抄に「去る正嘉元年八月二十三日戌亥(いぬい)の刻の大地震と、文永元年七月四日の大彗星、此等は仏滅後二千二百余年の間未だ出現せざる大瑞なり、此の大菩薩の此の大法を持ちて出現し給うべき先瑞なるか、尺の池には丈の浪たたず、驢吟ずるに風鳴らず、日本国の政事乱れ万民嘆くに依っては此の大瑞現じがたし、誰か知らん、法華経の滅不滅の大瑞なり」と。

神力品の先瑞と、大聖人出現の時の大瑞とを思い合わせるに、神力品の付属の意義が躍如として胸にせまるではないか。

本文

『釈に云く「経中の要説・要は四事に在り等云々」』

天台の法華文句の一節をお引きになっておられる。この天台の釈は神力品の四句の要法を細釈したものである。すなわち神力品結要付属の後文に「経巻所住の処皆応に塔を起つべし」の文があり、その塔を起てるべき所以(ゆえん)を「是の処は即ち是道場なり、諸仏此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於いて法輪を転じ、諸仏此於いて般涅槃したもう」としている。この経文について天台が「要は四事にあり」と釈したのである。

「四事」とは経にいう「道場・得菩提・転法輪・入涅槃」を指す。この四事は四句の要法に対応するもので、「道場」は上の「甚深の事」を「得菩提」は「所有の法」を「入涅槃」は「自在の神力」を、それぞれ釈したものであり、これは即、名・体・宗・用の四これ一切の肝要であることを重ねて説かれたものである。而して、この四は本門の本尊に宣示顕説され、上行菩薩に付属された以上、末法においては、本門の本尊の御当体にておわす日蓮大聖人の御一身に四事は具わるのである。ゆえに南条抄に云く「教主釈尊の一大事の秘法霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙はるが故に人尊し、人尊きが故に所尊しと申すは是なり」と。「教主釈尊の一大事の秘法」とは本門の本尊のことである。以って、「要は四事にあり」の御引証の聖意を拝すべきである。

所属の法体を釈す

本文

『問う、所説の要言の法とは何物ぞや。答う、夫れ釈尊初道場の初めより四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし、実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。』

この文は神力品で付属された法体とは何かを釈す段である。「要言の法」とは、神力品の「要を以て之を云わば」とあるを指す。すなわち四句に結ばれて神力品で付属された法体とは何かとの問いを挙げ、答えて云く、それは、釈尊が三十で成道して以来、四味三教すなわち爾前経には説かず、法華経においても迹門には説かず、本門に至っても略開近顕遠を説いた湧出品まで秘し隠していた大法であり、この大法こそ釈尊が久遠五百塵点の当初(そのかみ)自ら修行し給うたところの、内証の寿量品に始めて解き明かされた本尊と戒壇と題目の五字であると。

「略開近顕遠を説かせ給いし涌出品」

この略開近顕遠とは文上の寿量品を指す。文上の寿量品は釈尊の五百塵点の成道を示すものであるが、いま久遠元初の遠本を解き明かす広開近顕遠の寿量品、すなわち内証の寿量品に対望するゆえに、文上の寿量品をなお涌出品の略開近顕遠に属せしめ、内証の寿量品を以って本抄にはただ「寿量品」と仰せられるのである。ゆえに次下の「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」の「寿量品」とは、内証の寿量品たることはいうまでもない。この筋目こそ本抄拝読の鍵である。

さて、文上の寿量品を内証寿量品に望んで涌出品の略開近顕遠に退属せしむる大聖人独顕の法相は、法華取要抄・本尊抄等に分明である。ここには取要抄を拝する。

「本門に於いて二の心有り、一には涌出品の略開近顕遠は前四味並びに迹門の諸衆を脱せしめんが為なり。二には湧出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く、一向に滅後の為なり」と。

この文章を日寛上人は「まさに知るべし、寿量品において義・両辺あり。いわゆる一には文上の寿量品、これすなわち本果久成の遠本を説き顕す、この顕本の説を聞いて在世一段の衆生皆真実の断惑を究(きわ)むるなり、これを天台広開近顕遠断惑生信と名くるなり。二には内正の寿量品、これすなわち久遠元初の名字の遠本を説き顕す、蓮祖はこれを広開近顕遠と名くるなり、これはこれ天台未弘の法門なり、このゆえに今文の意・文上の寿量品天台の広開近顕遠断惑生信を以て、通じて断惑生信となす、ゆえに『涌出品の略開近顕遠は前四味並びに迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり』という。次に内証の寿量品を以て広開近顕遠と名く、此を以て正しく『一行滅後の為』とするなり」と。されば三大秘法は文上の寿量品にも説かれず、ただ内証の寿量品をにおいて始めて解き明かされたのである。

「実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」

実相証得の当初(そのかみ)とは諸抄の五百塵点の当初と同じである。すなわち久遠元初の本因妙を指す。この時の釈尊とは、色相荘厳の本果妙の釈尊ではなく、名字凡身の本因妙の釈尊である。

この本因妙の釈尊とは末法出現の日蓮大聖人の御事である。久遠元初は即末法の始め「久末一同」の釈をよくよく思い合わすべきである。

本因妙の釈尊は久遠元初において三大秘法を修行せられ、日蓮大聖人は末法に三大秘法を修行し給うのである。時は変われども、その御修行と位は全同である。このことを本因妙抄に云く「釈尊久遠名字の位の御身の修行を末法今時日蓮が名字即の身に移せり」と。また百六ヶ抄に云く「今日蓮が修行は久遠名字の振舞い芥爾(けに)計りも違わざるなり」と。この行位全同を以って、日蓮大聖人を本因妙の教主釈尊と呼び奉り、久遠元初の自受用身と称し奉るのである。

さて、釈尊五百塵点の当初、修行の相を、さらに具に日寛上人の当体義抄文段より拝すれば「問う、釈尊五百塵点の当初、いかなる法を修行して妙法蓮華を証得し給うや。答う、これ種が家の本因妙の修行による。前文に云く『聖人此の法を師と為し修行覚道し給へば妙因妙果俱時に感得し給う』等云々、聖人とはすなわちこれ名字即の釈尊なり、ゆえに位妙に当るなり、後を以て之を呼ぶゆえに聖人というなり、この名字凡夫の釈尊一念三千の妙法蓮華を以て本尊となす、ゆえに此の法を師と為すという、すなわちこれ境妙なり、修行等とは修行に始終あり、始めはこれ信心、終はこれ唱題、信心はこれ智妙、唱題はこれ行妙、ゆえに修行の両字は智行の二妙に当るなり、この境智行位を合して本因妙となす、この本因妙の修行に依り即座に本果に至る、ゆえに妙因妙果俱時感得というなり、すなわち今文(当体義抄)に『証得妙法当体蓮華』というはこれなり、今、本因本果とはすなわちこれ種が家の本因本果なるのみ。釈尊すでに爾り」と。

以って釈尊実相証得の当初の三大秘法の修行を排推すべきである。末法日蓮大聖人の御修行また然り。義浄房御書に云く「寿量品の自我偈に云く『一心欲見仏不自釈身命』云々、日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕すなり、其の故は寿量品の事の一念三千三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘す可し秘す可し。乃至一心に仏を見る・心を一にして仏を見る・一心を見れば仏なり、無作三身の仏果を成就せん事は恐らくは天台・伝教にも越え竜樹・迦葉にも勝れたり」と。

立宗以来、南無妙法蓮華経と我と唱え人にも勧め給い、不惜身命の御修行により、ついに龍の口御頸の座にのぞみ、父母所生の肉身即久遠元初の自受用身と成道を遂げられ、末法下種の本尊と顕われ給うたのである。「寿量品の事の一念三千の仏果」等の御金言をよくよく拝すべきである。われら末法の衆生は、大聖人の顕わし給うた此の本尊を堅く信じまいらせ、信心怠りなく南無妙法蓮華経と唱えれば、御本尊の仏力法力により、必ずまた無作三身の仏果を得るのである。

所属の人を明かす

本文

『教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給わず、況や其の以下をや、されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居の土は寂光本有の国土なり、能居の教主は本有無作の三身なり、所化以て同体なり。かかる砌なれば、久遠称揚の本眷属上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う、道暹律師云く「法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云々。』

この段は三大秘法が誰人に付属されたかを明かすところである。釈尊はこの久遠元初の大法を、普賢・文殊にも譲らなかった。普賢・文殊は迹化の菩薩である。いわんやそれ以下の迹化・他方の菩薩方に譲られるわけががない。ただ本化の上行菩薩に付属等を涌出品に召し出し付属されたのである。この趣をさらに観心本尊抄の御指南を拝すれば「所詮、迹化・他方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」と。

本化上行菩薩に付属せられた法体は「我が内証の寿量品」「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」であることをよくよく心腑に染めて拝すべきである。これ久遠元初の大法たる三大秘法のことたるこというまでもない。

つづく









田母神氏とトランプ氏と安倍氏とプーチン氏の奇々怪々

2016年12月20日 10時33分54秒 | 亡国の坂道 
元航空自衛隊の幕僚長を勤めていた田母神俊雄氏は、平成16年3月、アパ・ホテル主催の「真の近現代史観」と題した懸賞論文に応募したところ、彼の応募作品が最優秀作品として取り上げられ『鵬友』3月号に紹介されました。それによると「日本は規律正しい良い国で、先の戦争を仕掛けて来たのはアメリカだ」と書いたことが問題視され、自衛隊を首になりました。その後、田母神氏は、精力的に執筆活動を進め、数多くの本を出版し、こうした立派な考え方を持った人が日本の自衛隊に在籍していたのか、自衛隊もまんざら捨てたものではないとして、多くの国民が自衛隊を改めて見直すきっかけを与えてくれたのは事実で有り、これが自衛隊を見直す大きな成果につながったものと思います。また執筆活動の中では、政治的にも保守主義の論客としてスポットライトを一身に受け、本物の新星の誕生かと世間の脚光を浴びていました。

そうした中で彼は、平成26年2月に行われた東京都知事選に出馬し、約61万票もの票を集めたものの残念ながら目標には遥かおよびませんでた。その後、不幸な事に当時の田母神氏の選挙会計責任者を務めた男が、約5,000万円の使途不明金を出し、田母神氏がその責任を問われ、公職選挙法違反の罪に問われ、突然降って涌いてきたような事件に巻き込まれたことが世間の知るところとなり、思わぬ苦境に立たされていることが新聞・テレビで報じられています。この会計責任者は自らが会計責任者を買って出て、当初は田母神氏の出馬に積極的な姿勢を見せて協力していたものの、選挙が終わった途端に田母神氏は、この男の犯した不始末で、予測もしないとんでもない罪に問われることになってしまったのであります。

拙者は、これが世間でいうところの男の焼きもちであり、日頃のやっかみからくる八つ当たり的な犯行かなと思っています。田母神氏は自衛隊を退官後、保守の論客として華々しい脚光を浴びるなかで、次期衆議院選挙には、仮称「日本真正保守党」なる政党を結成して、本格的に政界に打って出るための準備として、田母神氏が目指す日本国の将来像を一冊の本にまとめ様々な政策を発表していましたが、この度の事件はそうした中で起こされた田母神氏に対するこの男の焼き餅から、元会計責任者が巧妙に仕掛けた罠に、田母神氏が嵌められた事件ではないかとさえ思っています。

元々この男を連れてきた人物は自衛隊時代の田母神氏の上官に当る人物だったそうで、想像するに自衛官時代に身に染みついた上官に対する絶対服従の精神が災いしたか、元上官に対する遠慮の気持ちが先立って、選挙資金の出入りのすべてはこの会計責任者に任せていた事が、そもそもの間違いの始まりだったようですが、併せて田母神氏の脇の甘さも指摘されるところであります。

ところで、田母神氏が計画していた日本真正保守党の目指す基本的な政策としての大まかなところを挙げると、①総理大臣が靖国神社に普通に参拝できる国にする。②日本は戦争ができる国にする。③日本国は経済力に応じた軍事力を保持する国にする。④日本国民が自信と誇りを取り戻す教育を施す。⑤日本派の議員で固めた野党を作る。⑥自民党の右側に軸足をおいた政治をめざす。国際的に日本の発言力を強めるため自民党より右側に軸足をおいて、安倍政権の言いたいことを野党の日本真正保守党が代弁する等々であります。

田母神氏が挙げた上記の基本政策について簡単な説明をしていますが、ご本人の主張の趣旨を曲げない程度に私見をはさんで解説することにします。それによりますと、①「総理大臣が靖国神社に普通に参拝できない国家では、日本人が日本人としての誇りを取り戻すことはできない。中国や韓国は、日本の総理大臣に靖国神社に参拝させないということが、今の世界秩序を維持することになるとして、日本を極悪国家に仕立て上げ、侵略国家、慰安婦を強制連行して若い女性を性奴隷にしたというレッテルをはり、中国や韓国にいつまでも貢がされる体制を維持しているが、こういう状態をいつまでも許してはならない。それを打破するには、先ず始めに、総理大臣が靖国に堂々と参拝できる国家にしなければなならない」としています。

②昨今、中国海警局所属の船が尖閣諸島の周辺に出没し、度々領海侵犯を平然と繰り返しているが、それに対し、海上保安庁は拡声器を使って「ここは日本の領海です。速やかに出て行ってください」などとお願いしてる弱々しい状態は改めないといけないとして「中国船が今後領海侵犯を繰り返すなら〝穏やかな銃撃を加えて〟沈めてしまえばよい」としています。それは国際法で認められた権利の行使に当たるものであり、中国政府は何も言えないのであります。また、田母神氏の持論によりますと「『戦争ができる国』になることは良いことなのである。軍事力を持って戦争ができる国にすれば、戦争に巻き込まれる可能性は低くなる。『戦争ができない国』は反って、戦争に巻き込まれる可能性が高くなる」としていますが、その通りだと思われます。

③現在の沖縄は、辺野古の米軍の基地問題で、国と沖縄県との間で新しい滑走路を「造る、造らせない」で、最高裁まで巻き込んで反対運動が熾烈さをましていますが、田母神氏は「憲法を改正して国防軍を持って『自分の国は自分で守る』という方向に向かっていけば、こうした問題は起こらない」としています。次期アメリカ大統領に当選したドナルド・トランプ氏も言っていますように、今後『アメリカ軍の駐留経費を日本国が全額負担しない限り、アメリカ軍は日本を助けない』と言っています。そこで田母神氏は『アメリカさん、経済的につらいだろうからこれから日本から逐次撤退してもいいですよ、その後釜は自衛隊を強化して補いますから』と言って『自衛隊を増強しながらアメリカ軍には徐々に撤退してもらえば、日本国に張り巡らされた米軍基地は自動的に変換されることになる』そうした場合『沖縄島民とのみっともない軋轢は円満に解消される』」としています。

④田母神氏は「『日本国民がこの日本という国に対して自信と誇りを持てる状態にすることに貢献したい』と言っています。『日本は悪いことをした。ろくな国家じゃない』『国の形が時代遅れだから、このままでは発展しない』『移民で労働力を受け入れないと日本は持たない』・・・・『そんな話ばかりである。これほど自信と誇りを失った状態は本当に異常であると言わざるを得ない。そもそも、日本というのは本当に素晴らしい国である。天皇陛下が125代も続いて、皇紀二六七四年もの歴史を誇っている。このような国は世界中探しても他にはない。

日本人が自信と誇りを取り戻すためには、やはりきちんとした歴史教育が必要となる。国民一人ひとりが、『日本という国は素晴らしい国だ。この国の素晴らしさを、世代を超えて受け継いでいかなければならない』と思えるようにしなければいけない。そういった意味では、教育を正常化することが重要となる。現在、教育は日教組に乗っ取られている状態であるが、安倍総理が教育委員会の制度などを見直しているのも、教育正常化に向けた強い意志表示の一つだろう。

これまでの教育委員会は集団責任だった。何か問題が起こっても誰の責任かもわからないようになっていた。例えば、各市町村の教育委員会の中に『教育長』と『教育委員長』がいて、どちらに権限があるのか、これまでよくわからなかった。安倍政権はそこにメスを入れ、教育長に権限を一本化し、教育の責任を各市町村の各首長に与えるようにした。この点では少し進歩が認めらる。政治が民主党政権になって『おかしい』と国民が実感できたのと同じように、教育に関しても、責任者が明確になるのが望ましい。国家としてまずは、現在の教育制度の見直しに着手して、自信と誇りを持った国民を教育しなくてはならない」としています。

⑤日本派の議員で固めた野党を作る。の項では「自由民主党というのは、実は『アメリカ派』の政党であって、そこに一部『中国派』の政治家が混じっている。また、民主党というのは『中国派』の政党であって、そこに一部『アメリカ派』の政治家が混じっている。残念ながら、日本には『日本派』の政治家が集まった政党がない。日本派とは、日本の国益を最優先に考える政治家のことである。本来、日本国の政治家になるのであれば、日本派にならなければおかしな話である。それなのに、『そんなことを言ったらアメリカから文句を言われる』『そんなことを言ったら中国との関係が悪くなる』など、アメリカや中国から文句を言われないようにすることを、最優先で考える者がどれほど多くいることか」と嘆いています。

⑥自民党の右側に軸足をおいた政治について、田母神氏は次のような見解を記しています。「2013年安倍首相が靖国神社に参拝したが、それに対してアメリカ国務省のハーフ報道官が『失望している』と記者会見で発言した。これに対して、二月に衛藤晟一内閣総理大臣補佐官が『我々のほうが失望した』とユーチューブに動画を投稿して発言したということがあった。その後、菅義偉官房長官がこの発言の取り消しを求め、結局、衛藤議員は発言を取り消すとともに動画を削除したのだが、私はこの対応は非常にまずかったとおもう。

発言の取り消しなど求めずに、『日本は民主主義国家だから、そういった事は当然あります。そう思っている日本人は多いですよ』ぐらいに言っておけば、何の問題にもならなかったに違いない。ところが、発言の取り消しを求めるとなると、言わなかったよりもまずい状況になってしまう。菅長官は、国のことよりも内閣を維持することを優先し、目先のことだけを考えて発言したとしか思えない。もし私が東京都知事だったら、記者会見で、『官房長官のあの言い方はまずいし、まったく国のためになっていない。彼らは自分たちの内閣のことだけしか考えていないようだ。日本の国民、国家のことを考えていたら、あんな発言は出でこない』これが都知事の発言とあれば当然報道もされるだろう。そういった意味で、都知事は国政に影響を与える事ができると思うのである。そのようにして、安倍政権が妥協したり、日和見したりして〝左寄り〟に傾くことがないよう、厳しく監視するとともに、日本の国益になる政策実現に向けて安倍政権を後押ししていく、それが、自民党の右側に軸足をおくということである」と、日本真正保守党の存在意義を述べていました。

こうした田母神氏が提示した政策は、まことに立派な政策であると共に、日本国家としても喫緊を要する課題であり、真剣に考えなければならない問題提起であると思っていました。ところが、つい先日テレビが報ずるところによれば、田母神氏は「今後一切政治には関わりたくない。二度と政治には首を突っ込むことはしない」等といった言葉が本人の口から語られていましたが、それを聞いてビックリ仰天、ホンマかいな、がっかりするやら、残念に思うやらで、大げさな表現かも知れませんが、拙者はあれ以来、夜もあまり眠れず困りはてているところです。

彼が今まで華々しく語っていた「日本真正保守党の結成」の話はいったい何だったのか! といった一種の腹立たしさと、田母神俊雄という男は意外に意気地なしだったのだなとの思いが駆け巡るとともに、こんな弱虫が、あの勇ましい自衛隊の最高指揮官だったのかと思うと、怒りをとおりこして情けなくなってしまいました。

如何なる法律においても法律違反は許せない問題ではありますが、たかが、政治資金規正法違反で裁判所に呼び出されて、厳しい尋問が続けられているとは言え、今回の事件は、田母神氏の関知しないところで、会計責任者の悪だくみに巻き込まれただけで、白黒は近々はっきりする問題であります。それを判決が出る前に、尻尾を巻いて逃げ出すとは、呆れてものも言えず、二の句も出ないありさまですが、願うところは初志を貫徹して、日本の政治を一刻も早く刷新してもらいたく願っていますが、この問題はひとまず置くとして次の問題に移りたいと思います。

アメリカの大統領選は大方の予想をくつがえし、次期大統領には、民主党のヒラリークリントン氏を破って、共和党のドナルド・トランプ氏が選ばれました。彼は型破りの商売人と言われ、トランプ氏は選挙期間中から①「日本に於ける米軍の駐留経費の全額負担」問題と、②「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)脱退」と、③「日本の核兵器保有を歓迎する」といった重要政策を選挙公約として発表しました。世界の人々の耳目は彼一人に向けられ、今後世界の平和と経済はどういうことになっていくのだろうと、新聞・テレビの報道は、それ一色に染められたと言っても過言ではありませんでした。

ドナルド・トランプ氏の次期大統領当選のわずか8日後に、安倍総理は早々と渡米してトランプ氏と会談を持つことに成功しました。安倍総理は会談後の成果として「トランプ氏は、信用のおける指導者だと確信した」などと手放しで楽観的な感想を述べていましたが、トランプ氏は逆に、安倍総理と会談した直後の翌日には「大統領就任式が終わった席でアメリカはTPPから脱退する」と発言しているのであります。安倍総理は、彼のどこを、どのように信用したのでしょうか。考えなくてもわかるとおり、人間は一時間や二時間の会談くらいで、簡単に相手を信用するほうが間違いなのであります。

安倍総理がトランプ氏の大統領戦の勝利から8日目に渡米して、トランプ氏が選挙中に公約した、①「米軍駐留経費の全額負担」②「TPPからの脱退」③「日本の核兵器保有を歓迎」するとした発言を確認のために行って、トランプ氏の前向きの確約を取り付けてきたものならば、安倍総理は世紀の歴史的大宰相と呼ばれる事になったと思われるのでありますが、しかしながら、事実は大部違っていたようです。

まず始めの①「米軍の駐留経費全額負担」の問題でありますが、アメリカと同盟関係にある日本、韓国、ドイツ、ミクロネシア、カタール、クェート、サウジアラビア、バーレーン、アフガニスタンなどと比べて見ても、日本の米軍に対する駐留経費は群を抜いて、毎年、7,600億円を超すという膨大な国費を拠出しているのであります。それを更に上回る駐留経費をトランプ氏が要求すとならば、まさしく、アメリカ軍は日本の傭兵となってしまいます。仮にそうした事にるならば、ドイツと同じように核シェアリングを要求し、駐留アメリカ軍に対する指揮権も日本の自衛隊に委ねるべく、毅然とした態度を以って交渉すべきであります。それに対してトランプ氏が首を横に振るようならば、田母神氏が提言していますように「アメリカさん、経済的につらいだろうからこれから日本から逐次撤退してもいいですよ、その後釜は自衛隊を強化して補いますから」等と言ってやればいいのであります。

②のTPPの問題でありますが、アメリカがTPPから脱退するならば「どうぞ、ご髄に」と言ってやるくらいの襟度を以って突き放してやればいいのであります。今回のTPP協定には明らかにされていない、きわめて恐ろしい問題が隠されているのであります。それはマスコミが、政府に気兼ねして意図的に報道を控えている側面があるとも言えるのでありますが、その一つがラチェット条項といわれるものであります。

ラチェット条項とは、一度TPPで約束した輸入品について、問題が生じても絶対に元に戻せないという、厳しい取り決めであります。仮に、アメリカで狂牛病が発生したとします。危険な牛肉だから狂牛病が収まるまで輸入をストップしてしまおう。あるいは今後アメリカからの牛肉の輸入は止めてしまおうとしても、それが一切できない取り決めでありますが、アメリカだけは自由に元に戻れるという、きわめて不公平な取り決めであります。要するにラチェット条項とは、一方だけに働くという不合理な取り決めのことであります。

それともう一つがISD条項といわれるものです。例えば、アメリカと日本との間で、アメリカが「不当に差別されて不利益を被った」という場合、アメリカは日本政府を相手取って、訴訟を起こして莫大な損害金をふんだくられる取り決めであります。

こうした裁判は世界銀行の下部組織にあたる裁判所で行われるのでありますが、世界銀行の総裁にはアメリカ人以外の総裁の就任を許していないため、裁判になったら、必ず日本が負ける仕組みになっているのであります。したがって、今度のTPPでは、仮に、日本がアメリカから輸入した品目にダメージを受けた問題が生じたとします。そこで日本政府はISD条項に基づいてアメリカ政府を訴えても、決して裁判に勝つことはないのであります。

それともう一つ、懸念される問題としてTPP協定には、日本がどうしても譲れない品目として、農産物五品目といわれる、米、麦、牛肉、豚肉、乳製品、等があります。これらの品目については、日本は一定の歯止めを掛けて、輸入総量を押さえることにしています。ところが、アメリカは日本の輸入制限を取り払おうと、さまざまな理由をつけて圧力を掛けてきていました。アメリカの本当の狙いは、米、麦、トウモロコシ等の穀物の種を将来的に独占して、日本が主食としている、米、麦等の食料をコントロールすることを狙った計画が隠されているのです。

思いだしてください。かつてベトナム戦争で「枯葉作戦」というものがありました。この薬品をつくっていたのが、サンモント社という有名な化学薬品会社です。この会社の商品に「ラウンドアップ」という除草剤がありますが、この除草剤を使うと、本命の農作物が全部死滅してしまうほどの代物です。したがって、雑草は一本も生えてきません。しかし、遺伝子組み換えの種子だけは残るのです。また、サンモント社が開発した遺伝子組み換えの種子は、一世代限りで翌年には種が取れないような仕掛けがしてあるのです。そのため毎年、毎年、継続してこの会社の遺伝子組み換えの種子を買わないわけにはいかなくなるのであります。恐ろしいことに、一度ラウンドアップを使用すると、土壌がやられて、元々有る種子では穀物ばかりか、あらゆる農作物が実らないと言われているのであります。

インドでは綿花が国の特産物になっていますが、こうした理由で多くの農家が破産して自殺者が急増しているそうです。メキシコもトウモロコシでこの会社にやられて、インドと同じような状況になりつつあると報じられています。要するにTPPは、日本から豊かな富を奪い取り、将来的に食料をコントロールするという、アメリカの空恐ろしい狙いが隠されている、危険な不平等協定であることを知っておく必要があります。

次の③「日本が核兵器を持つ事を奨励する」といったトランプ氏の選挙公約でありますが、それは願ってもない吉報であります。日本の置かれた現今の国際状況は、隣国の中国や北朝鮮、ロシアが核兵器を保有して、日本の安全を脅かしています。そうした危険から脱するには、日本が核兵器を保有して、彼らと同等の立場に立たなければ、中国との歴史問題、あるいは、ロシアとの領土問題や韓国との竹島・慰安婦問題等は決して解決しないのであります。日本が平和国家として他国から侵略されない国家として生きていくためには、トランプ氏の発言はまたとない絶好のチャンスと捉えるべきであります。

安倍総理はトランプ氏の大統領選勝利から8日目に早々と渡米して、何を約束し、何を確認して来たかは、未だ不明でありますが、上記に記した①②③について、日本の進むべき道を堂々と主張して、トランプ氏の意思を確認して来るべきだったのであります。

次にロシアとの領土問題でありますが、日本国民としての願いは、北方領土の歯舞、色丹、国後、択捉の四島を即刻返還して貰いたいところでありますが、この度の日ロ会談は、一方的にプーチン大統領に食い逃げされるだけで終わるものと思われます。

元々日本とソ連との間には「日ソ不可侵条約」(日ソ中立条約)が結ばれていました。この条約は5カ年間の約束で結んだ国際条約です。期間は、昭和16年4月26日~昭和21年4月25日まで効力のある条約でした。ところが、ソ連は昭和20年の4月5日になって、日ソ不可侵条約の延長を一方的に拒否してきました。その後、昭和20年8月6日には、第一発目の原子爆弾が広島に投下され、日本の国力は疲弊し精魂尽き果てたところに、二発目の原爆が長崎に投下される前日の、昭和20年8月8日の未明、突如として日本に宣戦布告し、北方四島めがけて大量の重火器と戦車を投入して攻め込んできたのであります。手あたり次第婦女子を凌辱し、男は銃で撃ち殺し、四島を強奪したまま今に至っているのであります。

大東亜戦争に負けた日本は、昭和20年8月14日にはポツダム宣言を受諾して、無条件降伏を余儀なくされて武装解除に応じているのでありますが、ソ連はその後も攻撃の手を緩めることなく、一方的に攻め込んで来て、8月28日には択捉島を占領し、9月1日には国後、色丹島を占領、9月3日には歯舞諸島を占領されました。

それでいて、この度のプーチン大統領の訪日するにあたっては「領土問題は存在しない」などと嘯いていますが、爪の垢ほどでも愛国心のある日本人ならば、こうした許しがたい暴言を、平然と聞き流すことができるのでしょうか! 仮に、この度の日ロ交渉が日本の一方的な経済支援だけで終わるなら、日本政府も学校教育を根本から見直して、北方四島が、昭和20年2月11日、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相がヤルタに於ける三人の密約で、ソ連の参戦が決まった事実、結果的に、ソ連の参戦のご褒美の引き出物として、鉱物・海洋資源の豊富な北方四島が、ソ連の武力によって強奪されたまま、今日に至っている歴史的事実を学校教育の中で教えるべきであります。

此処でヤルタ会談の歴史的事実について、平成28年12月5日発行の産経新聞の記事にそって、一言説明をしておきたいと思いますが、ソ連の後継国家である現在のロシア政府は「第二次世界大戦の結果、北方四島は合法的にロシア領になった」等と公言していますが、実際は、クリミヤ半島のヤルタで行われた三人の密約の席で、ソ連のスターリンが主導的に立ち回り、強引に北方四島をソ連領にしてしまう密約書を作ったのであります。それを快く思わなかったイギリス政府は、昭和21年の2月の時点で、ルーズベルト大統領が権限を越えて密約文書に署名したことに対して懸念を表明し、ルーズベルトの行為は、米議会の上院で批准されていないことを根拠に、ヤルタの密約は無効であるとの立場を鮮明にしてるのであります。

その後、イギリス政府は54箇所のすべての在外公館に極秘公電を打って、ヤルタ密約が無効であるのとのイギリスの立場を鮮明にした、国家としての意見統一を図っているのであります。

また、1953に就任したアメリカのアイゼンハワー大統領は、3年後の56年になって、「ヤルタ協定は、ルーズベルトの個人的な文書であり、アメリカ政府の公式文書ではないから無効である」との国務省声明を発表し、ソ連の北方四島に対する占有には、法的根拠がないことを国際社会に向かって明らかにしているのであります。

それにしても、今回の日ロ首脳会談は予想をはるかに裏切る結果に終わってしまいました。日本がロシアに対して、8項目、3,000億円にも亘る一方的経済支援構想を提示しました。それに対して驚く事なかれ、ロシアからはそれを遥かに上回る、82項目にも亘る経済支援を要求する目録を世耕経済相に手渡して当たり前のような顔をしているのであります。世の中には「盗っ人猛々しい」という言葉がありますが、これでは驚きをとおりこして、もはや貢いで、貢いで、貢ぎ尽くす経済協力を中心とした合意内容になってしまったようです。

安倍総理とプーチン氏の本日の経済協力を中心にした共同発表によりますと、大要「ロシアに対する日本の経済協力が実を結び、ロシア国民が日本を信頼できる国だと認識できた段階で、平和条約の交渉に入れる」などとした、当初期待した予想を根こそぎ裏切る結果に終わってしまいました。バカを言ってはいけません。日ソ不可侵条約(中立条約)を一方的に破って、日本固有の領土を強奪した歴史的事実には目を瞑り、領土を強奪したソ連が、領土を強奪された日本を信頼できるまでとは、あまりにもバカげた話です。ロシアが強奪した領土を速やかに日本に返還してこそ、はじめて相互の信頼醸成が成り立つのであります。

それでも安倍総理は平和条約交渉について「今までの停滞を打破する突破口を開く手応えを得ることができた」などと自賛していましたが、中身をよくよく見ると、ロシアに一方的に食い逃げされるような取り決めになってしまったようです。また安倍総理は「日露関係は新たな次元に入ったようだ」などと指摘し「ロシア側の対応次第では、今後本格交渉が始まる可能性もある」などと、まるで他力本願にかけた気楽な他人事のように、国民に一縷の期待を持たせるような話で記者会見を締めくくっていましたが、率直な感想としてこの度の日ロ首脳会談は、ため息の出るような苦々しい敗北感を味わっています。ずいぶん舐められたものです。こんなぶざまな体たらくだから、田母神氏が発表していた「日本国民が自信と誇りを取り戻す教育を施す」とした提言が思い出されるのでありますが、これはそれ以前の問題であります。こんな事では日本国民は卑屈になるばかりで、自信も誇りも持てる筈はないのであります。

気が付いたときには、プーチンから尻の毛まで毟り取られて、日本国が、国際社会の笑い者に晒される事のないように祈るばかりであります。それでもプーチン云く「途中で日本が領土問題を持ち出すなら、その時点で、このプロジェクトは全て終わりだ」とは呆れましたね。このざまでは、トランプ氏からも米軍駐留経費の全額負担を求められても、日本は「ヘイ、ヘイ了解でーす」などと二つ返事で、その要求に進んで応ずることになるでしょう。今日の日本は、どこの国の代弁者かと見紛うばかりの政治屋しかいませんから、ちょっとごねれば簡単に言う事を聞いてくれます。その代償(対価)は、あなたが負担することになるのです。