goo blog サービス終了のお知らせ 

近江湖西会家族会へようこそ!

精神障がい者の家族と支援者の集まりです。

この頃うれしいこと

2018-04-12 09:26:40 | いろんな想い

うれしいことが二つ三つありました。


永く家におられた息子さんが障がい者枠で仕事に就かれ

もう数か月、辞めずに続けておられること。

8時間労働なのでみんなが無理だろうと言ってたそうですが

いま続けて通っておられます。

「風邪もひかずに?」と聞いたら

「うん、大丈夫」とお母さんが輝く笑顔で言われました。


それとやはり息子さんがもう長くお薬も飲まず病院にもいかず

家におられたのですが、先日自分で納得して入院されました。

今までの10年か20年の長い間のお母さんと息子さんの

大変さがどんなものだったか想像を絶するものがあります。

ですから今度やっと入院されたことは大安心だったろうと思います。

退院されてから行かれる施設も決まったとか。

年老いていく親にとってはこれほど嬉しいことはないようです。

このお母さんはこれではもうどうにもならないと、

自分であちこちの病院やら行政を訪ねて解決に向けて努力されました。

お母さんはみなさんがよくしてくださったと言っておられます。


もう一つ、これは解決はしていないかもしれませんが、

訪問看護のことで、来てくれる人を変えてほしいけれども

気兼ねがあってそのことを言い出せない、と悩んでいる当事者のことです。

先日の福祉課長との話し合いの際に

そんな気兼ねは何にもいらない、とはっきり言ってくださったおかげで

当事者も変更をお願いする勇気が出たようでした。



もう一つは家族会の運営について

相談できる方があるんだ、という喜びです。

今までは資格も立派にお持ちで、長くやってこられた専門家が

家族会を指導してくれていましたが、その方が他府県に移転されることになって

この家族会はちょっと置き去りにされた感がありました。

しかしあちこちの行政やら専門機関にご相談すると

皆さんが丁寧に応対してくださりとても心強いことでした。



春とともにうれしいことがたくさんあって

これから先もみんなと何とかやっていける家族会でありたいものです。







「世の中の皆さんへ…」

2018-03-20 10:38:42 | いろんな想い

「世の中の皆さんへ…私達のリカバリィを捧げたいです」

こういう題名で「希望の集い4月の案内」をいただきました。

原稿用紙2枚余りと長いものです。

やはり詩のようで、うねりのある、思いが次々にわき出てきているような

そういう作品です。(個人の感想です、ってテレビのコマーシャルみたいですが)


「リカバリィ」はここでは「回復」という意味でよいのでしょうか。

私たちのリカバリィを世の中の皆さんに捧げたい、

というのはなんというおおらかな表現でしょう。

けれどもこの題名の下にはカッコ付きで次のような言葉が。

(精神疾患者達のガッカリした憤り…~分類視されてしまう私たち…~)

社会に対して憤りを持つのは必要で大事なことでしょう。

分類視という言葉は差別と考えてもいいのだと思います。


こうして本文が始まります。

始めの2行に書いてあるのは今日の社会に対する警告です。

「社会の心外で心得違いな善意」が精神疾患者達の憤りを生む、

「分類視につながる言動をなくす声掛け」が社会に必要になっている。

善意ではあってもそれがずれていて心得違いになっていること、

気づかずに差別の気持ちを言動に表してしまうこと、

これはむしろ、善意もなく差別意識があると自覚している人

そういう人の方がましなのかもしれません。

善意で近づき、だけど自分の差別発言に気が付かない人が

どれほど精神疾患者をがっかりさせているのか

これは大きな反省すべき点であり、気付かせてもらわねばなりません。


次に 当事者というものにはいろんな人がいる と書かれています。

ここに挙げられている二つの種類の当事者については 

とても注意深く表現してあるので、ひょっとしてあまりに俗っぽい「改ざん」に

なってしまうことを危ぶみつつ 単純に書いてみます。

つまり一方では、生きやすいようにしてもらうことを待っている人、

もう一方は、普通の人のように装うことで評価されることを望む人。

そして、この両方共が「ぞんざいなものではなくて大切な道理」であると書いてあります。


次の段落では憤りが大きくなっていて、

「支援者側も、ゆとりがなく、か細すぎて、未熟すぎて」と書かれていますが

これは本当にそうだな、と思う人が多いでしょう。

続いて「当たり前でなければいけないはずの、市の環境配慮が留守になっている」

という表現がありますが、厳しいけれどもこれもその通りでしょう。

このことは社会全体の問題ですから、と書かれ、

「当事者と社会とで謗り合いから始めてもいいかもしれません」と書いています。


ですがまだあと二つの段落が書かれます。

発病によって一般論が通じなくなってしまった当事者は

そのために当事者だけが咎められ、それがそもそも間違いだ、とあります。

そうなのです、当事者だけではなくその親たちや家族も社会から咎められています。

そんなことが起きている世の中って本当におかしいです。


でもこの著者は「ガッカリした憤りが積み重なって」と書きながらも

当事者が「奉仕の心で手を抜かず、只働きでも、世の為、人の為、誰かの為に、

もっと本気になれば、もっと素敵な景色が見えてくるはずだと信じて、

逆に当事者が裏方に回り、社会を持ち上げてサポートしていける日が訪れることを信じて、

世の中の皆さんに心から私たちのリカバリィを捧げていきたいと思っています」

と結んでいます。


少し引用が長くなりましたが、

この部分にはどんな人も胸を打たれるのではないでしょうか。

つまり、当事者は社会から何かをしてもらうことを待つのではなく

当事者自身が社会のために何かをすることで、それが回復につながる、

そういうことなのでしょう。


今までにも多くの当事者が素晴らしい仕事を成し遂げ

そのおかげで一般社会全体が多くを学び癒されてきました。

文学者、音楽家、画家、多くの精神障がいと言われた人々が

社会全体を癒すことのできるものを作りました。

ですがそのような世界史に残る人たちのようでなくてもいいのです。

小さなサークルで、街で、市で、県で、周りの身近な人々が

ほーっと心を慰められる、勇気づけられる、そんなことでいいのです。


実際、これを書いている一個人は、この「4月の案内」の文章で

心が温かくなり、今、なんだか荒れ果てたように感じる政治の世界を通り越して

人間の本来持っているはずの気持ちの清らかさを感じ、

幸せな気持ちにさせられました。

「素敵な景色」が見えてきたのです。


「病の吾子に寄り添いて」-8

2018-02-23 20:46:49 | いろんな想い

「病の吾子に寄り添いて」の歌集の作者から

今日、新しい歌14首をいただきました。

この前から、「吾子」である作者の息子さんがお仕事に就かれたと聞いており、

お仕事は無事に続けておられる様子だったので

そのことを詠んだ歌をぜひ聞かせてもらいたいと願っていました。

ですから今日いただいた14首はとてもうれしい贈り物でした。



前に頂いた歌集にもまだまだここに書きとめたいものがありますが

お仕事を頑張っておられる様子を詠った今日のものを

さきに紹介したい気持ちが止められません。


この14首には吾子が勤めに出る喜びがあふれていて

読む者の気持ちを思わず幸せなものにします。

 
  ああ長き 籠れる日々に 分かれ告げ 働きたしと吾子が 呟く


呟いたその言葉が現実になり、しばらくの実習期間を経て

本採用になった時のご両親の喜びがほとばしる歌になっています。


  本採用 決まりて吾子が 吐露をせり 「父さんのように勤め上げたい」


  ひねもすを 他者と語らう 吾子がいた 今日はわれとの 語らいがあり


  出勤す 吾子を送りし 妻の顔 不安は溶けて 明るさはじける


  初めての 子が稼ぎたる 給料で ご馳走されし 寿司のうまかり


明るさはじけるご両親の気持ちが手に取るように感じられます。

そしてこう願っておられます。


  雪道を 踏みしめ吾子は 出勤す この日常の 続けと願う


本当にこの日常が1年2年と、そしてもっと長く「父さんのように」続くなら

どれほどうれしいことでしょうか。



精神障害のある者が、社会生活で一番難しいのは

一般の人間からの差別が原因だと言われています。

多くの当事者はこの差別の為に、せっかく得た勤めをあきらめてしまいます。

障害を乗り越えて、こうして真摯に働き始めた若者が

そんなことが理由で挫折しないように、

この社会を変えていかねばなりません。

どうかこの若者が、再び閉じこもることの無いよう

心から祈ってやみません。





ある精神疾患者の詩

2018-02-04 20:22:24 | いろんな想い
     
     精神疾患者たちの「世の中との相性」


   時代さ迷う私達は
   常に身の回りの
   全てを汲み取ってくれる
   理解者や仲間が周囲にいないと
   自制心も安心も生まれず
   自分自身の精神疾患のことで
   上の空になることは抑制できず
   そんな理解者に頼りすぎるあまり
   エスカレートして中毒化して
   タフな体験や経験も
   人間関係のストレスまで
   すべて取り持って
   取り払ってもらわなければいられなくなり
   その理解者なしでは
   一人では立って歩けなくなる
   リスクもありつつ
   私達にとっては
   生き甲斐が見つかりにくく
   苦手意識が見つかりやすいご時世です。

   私達はそんな道理に反した
   支援だけを求めていると
   思われて当然ですが
   対等に真面目に先頭を切って
   わたしたちの身の回りの環境作りを
   熱心にサポートして引っ張って
   いってくださる方たちを
   心から求め必要としています。

   そんな熱い支援が当たり前のように
   XX市に存在して
   ごく自然に分別された社会を目指すために
   全ての皆さんに
   私たちのXX市の課題の
   精神疾患者たちの「世の中との相性」の
   改善の大本となることから
   勉強理解して
   マスターしていただきたいと
   願って望んで活動しています。



これを書いた方は感性がするどく自分の理論を持っておられます。

叙述文として書かれたのですが

こうして詩の形式に行を変えると見事な叙述詩になります。

市の固有名だけをXXに変えましたが、あとは一言一句同じです。



この詩人は音楽家でもあります。

この方の詩や音楽がもっと世の中に広く知ららればどんなにいいでしょう。

でもきっとそんなことはこの人は望んでいらっしゃらないでしょう。

こうしてこの小さなブログに勝手に載せたのも無断です。

もしこれがバレて叱られてしまったらすぐに削除します。



でもたいていの人はこれを読んで共感を覚えるのではないでしょうか。

そして気持ちが熱くなるのではありませんか。

   「生き甲斐が見つかりにくく

   苦手意識が見つかりやすいご時世」

というのは今 すべての人にとってもそうだと思います。

この世の中が、XX市の人たちが、精神疾患の人だけでなく

みんなが少しでも生きやすいようになることを

願わずにはいられません。



この詩を書いた方の活動しているグループだけではなく

そのほかの人たちも皆で一緒に少しずつ少しずつ

蟻の歩みのように目立たなくても

亀の歩くようにのっそりとでも

一歩一歩進めていきたいと思っています。











「病の吾子に寄り添いて」-7

2018-01-30 13:31:32 | いろんな想い

今年も雪が降りました。

今日のように昼間も暗く、しんしんと降っている日は気持ちも沈みます。

知人が詠まれた和歌集も、つい目が行くのはつらい気持ちをうたったものばかり。


自室にこもる吾子をせつない思いで詠ったものが3首あります。


  変化する 萌しは無きかと ドア越しに われは窺う 部屋籠る子を


  頑なに 部屋にこもりし 吾子ならん もがき苦しみ 取り戻せ自我


  かたくなに 殻にこもって もがく吾子 なすすべもなく 窺いしわれ


この歌は多分1,2年前のものではないでしょうか。

今「吾子」は、仕事に就きたい気持ちになり、研修にも出かけていられる様子です。

仕事に就いたからと言って、これですべて解決したということにはならないでしょう。

症状はまたぶり返すかもしれません。

ですがこの歌を詠まれたころのようななすすべもない不安な気持ちは

今はもう持ってはいられないのではないかと

そうであってほしいと願っています。


この歌を詠まれた方は自制心や反省の気持ちを強く持っておられる方です。

この方の配偶者、「吾子」の母親である人も冷静で的確な判断力のある人です。

なぜこのお二人の息子さんが統合失調症になられたのでしょうか。

それはもう「定め」「運命」としか言いようがありません。

知性の強い人ほどなる確率が多いとすれば、それもあるでしょう。



非難や愚痴などは一切なく、ひたすら自分を責めていられる姿は

高潔と言えるもので、いつの日かよい方向に向いて行かれることを切望します。



  今日こそは 会話を果たすと 構えしも 思いを見透かし 吾子は自室へ

  「おはよう」と 流れで会話 なぜできぬ 歯痒き我を 今日も責めいる









会員の連れ合いの訃報

2018-01-08 11:10:15 | いろんな想い

会員のご主人が亡くなったというお知らせがありました。

家族葬なのでという喪主である会員さんのお言葉でしたけれども、

亡くなったご主人はお体を壊される以前は近江湖西会を立ち上げた方でもあり

会員のほとんどがよく知っている方なので

やはりお別れに行きたいねという話がみんなから出ました。

葬儀はおうちではなく会館でされるとのことです。



皆で話し合った結果、その会館に行かせてもらうことになりました。

理事長からも連絡があり、そのようにするのがいいのではと了解を得ました。

いつもは本職が忙しく、家族会にはたまにしか顔を出してもらえない理事長ですが

こういう時に助言してもらえるのでとても心強く、うれしいことです。



行きたいけれどもどうしてもいけないという人を除き

いつも家族会で一緒に会っている11人のうち8人がお葬式に行かせてもらいました。

喪主の方以外は子どもさんお二方とその連れ合いでしたから

まるで、違う形の家族会の集会のように親しい気持ちになりました。

ご出棺の時に会員の中の男性二人がお手伝いもできました。

亡くなった方もきっと安心してくださったでしょう。



こういう時に、家族葬だからと言っても我々は家族のようなものだから

ぜひ出席させてもらいたいと皆がいい、

いろいろな段取りをしていくことが出来たのは

日ごろから心を通わせて話をし、一緒にやってきたおかげかもしれません。

中にはお葬式という儀式に対しては疑問を持っている者もいるかもしれません。

それでも会員の一人が喪主の立場に立たれたとき

会員の皆が駆け付けたい気持ちになるのは

仲間としてじっとしておれないからでしょう。



こういうふうにして家族会の会員が結びつき、親しみあい、

助け合っていけるのだとすれば

4,5年もの長い闘病の後亡くなった方の魂も

よかったと思ってくださることでしょう。

ご冥福をお祈りします。

















湖西会の運営

2017-12-12 14:46:28 | いろんな想い

先週の家族会定例会に引き続き今日は事務的な用事をするために集まりました。

この家族会は常連のメンバーとして登録している人は15名です。

その中ではたまにしか出席できない人もいますから

たいていの場合出てこれるのは10名ほどです。

ただ集まっておしゃべりなどするだけなら場所さえあれば簡単なことです。

この湖西会としては、以前作業所の事業所として使っていたところを

今は家族会の集会所にしてもらっているので

それはとてもありがたいことなのです。



ですが家族会というものはただ家族が集まって慰め合うものだけでいいのでしょうか。

そうではないと思います。

この地方の街では障がい者の事だけでもなかなか援助が出来ていない状態です。

ましてや精神障がい者の家族というものにまでは

行政側にも一般市民にも想いを届けてもらうのは難しいのです。

ですから家族会はできる限り皆様にその必要性を知って頂こうと

さまざまな研修会や講演会などをしようと計画をしています。


来年2月には県立総合センターの医師をお招きして

精神障がい者の家族のことをお話していただくことになりました。

家族というものの立場、心得、家族会の必要性

また担当医師と家族との関係などについてお聞きするつもりです。

そのためにしなければならないことはたくさんあります。

医師への要請や会場の確保はもちろんですが

出来るだけいろんな方々にも聞いていただきたいので

ご案内のチラシも作らねばなりません。それを配りに行くことも必要です。

当日のプログラムの作成や講演者へのお礼のことも考えねばなりません。


そういうことを誰がするのでしょうか。

この家族会は家族だけの集まりで事務局があるわけではありません。

二人ほどはそういう事務仕事ができますが

たいていは普通のお母さんお父さんなどの家族で

しかも長年障害の子供に苦労を重ねて来ています。

やっと気持ちが晴れる場所ができたとホッとして集まってきています。

そして誰もがそういうことを何とか手伝いたいとも思っています。

ですが月2回くらいの集会でやろうとするのは大変です。


お金のことも問題になります。

一つのグループを作り何かの事業をしようとするとお金も必要になります。

市や社協の助成金をもらうためには書類を書いて提出せねばなりません。

誰か書ける人が書いて出すとしてももらったお金の会計を管理して

その精算書を提出する義務があります。


このような事務仕事は障がい者を抱えている親や兄弟姉妹たちにとっては

大きな負担が生じてしまいます。

それでも何とかして家族のつながりを持ち

精神障がい者の家族会というものの必要性を皆さんに知って頂きたいのです。

障がい者当人を支援するのと同じくらい大事なことだと言えるのではないでしょうか。


家族だけが集まっている家族会の運営というのは本当に難しいものです。

それでも一つの事業が成功し、よかったね、と顔を見合わせてにこにこできる

その瞬間は何物にも代えがたい喜びがあります。

家族が集まって何かを成し遂げる

それは直接には自分たち家族や障がい者本人の為にならないかもしれません。

けれどもこれから先障がい者が生きていくために

少しでも助けになる世の中がくるのではないかという希望が持てます。

ちょっとくらいしんどくても大変でも

やっぱりみんなでやっていこうとこの家族会のものは思っています。


















「みんなねっと」12月号 つづき

2017-12-01 12:50:39 | いろんな想い

山本昌知氏の講演が「みんなねっと」12月号に載っています。

その前半は先日書きましたので今日は後半を紹介させていただきます。


4.真実を認める

ここで山本氏は「事実」と「真実」が大事であることについて書いておられます。

「真実」とは「事実」が自分の体の中を通してできたものだと言っています。

「事実」が各人の体の中を通ると、それぞれの人で違った「真実」になります。

それを認める必要がある、と言っています。

障がい者が「毒が入っている」と言ったとします。周囲の人(医者や家族や支援者)は

すぐに妄想と決めて否定します。その人にとって「真実」であることをすぐに否定するのは

人権を守っているとは言えないのではないでしょうか。


5.当事者の求める精神医療

この項目で大切なことが5つあると山本氏は言っています。

①あるがままの「私」を理解しようとしてくれていること

②病気を診るだけでなく、一人の人間として私の人生を見守ろうとしてくれていること

③上から目線でなく、対等に話し合ってくれて、「共に生きている」との実感が持てること

④安心して対話ができ、「私たち」感覚で共同作業を大切にすること

⑤随時、必要な時に頼れること

この5項目です。


これらは「当事者が精神医療に対して求めること」となっていますが

考えてみれば、どんな人でもみんながそれを願っているのではないでしょうか。

友達同士としても、親子としても、教師と生徒としても、人間同士として

どんな間柄でもこの5項目が必要なことだと思います。

すべてをいつも実行するのは難しいことかもしれません。

けれどもいつもこのことを心に期して人と付き合うべきでしょう。

ましてや精神障がいの当事者はこの①から⑤の項目にとても敏感だったから

病気を背負ってしまった人が多いのです。

①~⑤の項目は医療関係者に対して患者が求めているものですが

世の中のすべての人が、家族はもちろん、近所の人たち、施設の人たち

みんながそうなればどんなにか住みよい社会ができるでしょう。


6.我がことと考えれば成長する

医者だけでなく社会の普通一般の人も全部が「精神障がい」を他人事と思わずに

「自分にも起き得ること」と考えれば今の精神保健の状況はなくなります。

とこの項で山本氏は言っています。

現在社会の精神保健がいかに良くない状況であるかをおっしゃりたいようです。

ご自身が精神科の医者として55年もやってこられてのお考えです。

精神医療を充実させるためには施設も必要ですし、年金問題もあります。

そのためにはお金もたくさんいります。

ですがまず第一に大事なのは人の心ではないでしょうか。

山本氏は最後にこう言っておられます。

「患者さんは、悩みや問題をどんどん社会に伝えるようにしましょう。」















「みんなねっと」12月号

2017-11-30 09:35:33 | いろんな想い

この月刊誌はごく薄くて小さいものですがいつもよいことが書いてあるので

ここで紹介させてもらいます。

12月号の特集には「当事者中心の地域支援再考」というテーマで「みんなねっと岡山大会」で

山本昌知氏が基調講演された時のものが載っているのですが

山本氏は1936年生まれ、今年は81歳にもなっておられます。

岡山大学医学部を出て精神医学教室入局、1969年には尾道市青山病院に勤務されました。

退職後は「障がい者」の声に「健常者」が合わせる合唱の場作りを目指して

「こらーる岡山診療所」を開設され、現在はACT大和診療所に所属されているとのことです。



この講演では「私たちが考え直さなければならないと思われる一番大切なこと」

として六つにわけてお話しされています。


1.進行する社会の分断と孤立

15歳から35歳までの日本の若者の意識を調査したある記録によると

「生きていて、将来に良いことがある」と思える人の割合は

2008年には62%でしたが、

2016年には37%に減っているそうです。

自殺の割合も日本ではアメリカ・カナダ・ヨーロッパに比べて多いそうです。

日本では目に見えることには対策をしますが

精神疾患のように目に見えないものには熱心ではないということです。


2.コミュニケーションの大切さ

山本氏は、他人との良い出会いの有無が心の病の予後を決める、と考えています。

コミュニケーションというのは雑談とも言えます。

人はお互いに雑談してお互いの親しさを増していきます。

そして山本氏はこうも言ってられます。

「タテの関係ではなく、ヨコの関係でお互いが理解できると安心の量が増えます」

この言葉はとても大事です。

いろいろな支援制度ができてルールにのっとった訪問支援をするだけでは

本当の支援にはなりません。

雑談をして気持ちを交流させることが何よりの支援になるのです。

もちろん上から目線の会話はダメです。

お互い同じ線上にいて対等な会話をしなければなりません。


3.違いを認める

この項で山本氏は言っています。「普通」ってなんでしょう、と。

現在の社会ではみんなが世間の「普通」にあわさねばならないように思っています。

しかし、一人一人が持っている「本人の普通」の方を大切にすべきです。

周囲の人が「本人の普通」を認めて守って伸ばしていくことがが大切です。



ここまでまだ半分しか書けませんが

山本氏の講演は続きます。


♪「普通」とは何事なるぞと問いかけし吾子の病と向き合いて今♪


という短歌につて10月17日に書いたことがあります。

山本氏の講演はまさにこのことを言っているのでしょう。



「世間の普通」に合わせるのではなく「本人の普通」を認めることが

大事なのだと思います。

「みんなねっと」12月号のことはまだまだ書きます。






家族会の集会場

2017-10-18 20:36:52 | いろんな想い

近江湖西会というのはずいぶん以前に創立したそうです。

最初は精神障がい者の家族会ということで始まりました。

いまでも県の家族会の一覧表に家族会として掲載されています。

代表者は当時の創立者の名前が今でも載っています。

10年ほど前に近江湖西会をNPO法人にして

B型就労施設を作りました。

こちらにどんどん力を入れて発展させ

家族会はいつの間にかしぼんでしまいました。

2年ほど前に家族が集う場がやはり必要だということで

今の家族会が再出発したのです。

この市に一つしかないこの家族会ですから

来たい人は誰が来てもいいということで

家族のみならず当事者や支援者もグループに入っています。




近江湖西会にB型の作業所と家族会があるのなら

家族会はこの作業所で働いている人の家族で構成されるべきだ

という人もいます。

この市の中に一つしかない家族会だから

会員を選ばないのならば名前を変えて

市の中の家族会として活動すべきだという人もいます。

確かにそれも一理あります。

しかし数十年も前から存在している近江湖西会家族会という

名前を大事にしたいという人もいます。

それぞれが自分の経験や考えに基づいて意見を言います。

それはとても大事なことなのです。

けれどももっと大事なことは家族の中に精神障がい者を抱えて

毎日必死に生きている親兄弟の人たちがいて

その人たちが少しでも安心できるよりどころとなる

場所を作ることです。



今度いろいろな事情から

いま集会所として使っているところを別の場所に変えるかもしれません。

もちろんときどきはコミュニティセンターも使います。

ですが自分たちの持ち寄った本や手作りをした小物、

その材料、書類の数々、そういうものを置いておく決まった場所が

どうしても必要です。

いま集会所にしているところは車で40分の人もいれば

自転車で5,6分という人もいます。

もし場所が変わったらどうする? とみんなと相談すると

どこにでも行くよ、みんなが一緒に集まって話せるところがあるのなら

何とかして出かけていく。

いま常時集まっている14人がそういいます。

車のある人は今までは歩くか自転車だったけど

これからは車を出して3人ほどを乗せてそこまで行く

と言っています。



皆で話し合って分かったことは

みんなで集まって話がしたい

みんなで一緒に見学や学習をしたい

みんなでいろいろな人たちの話を聞いてこれからのことを

考えたい。

そうみんなが思っていることです。

新しくグループに入ってきた人ともすぐに打ち解けて

お互いに情報を伝え合い教え合う雰囲気があります。

家族会というのはいいものだなぁと思います。



この市の中から、いいえこの市だけでなくてもお隣の市からでもいいのです

大勢の家族や応援する人たちが寄り合って

少しでもよりよく生きられるよすがになればと願っています。