「忍山 諦の」フォトチャンネル一覧
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ch 406473 | ||
白鳳文化のふる里-藤原宮蹟の今 | ||
藤原京は唐の都にならって造られた日本で初めて本格的な都で、持統天皇が694年に飛鳥浄御原 からこの地に都を遷してから文武、元正と三代16年間にわたって日本の都がここに置かた地である。 後に白鳳時代とよばれる白鳳文化はこの藤原京の地を中心として花ひらいたのである。 周囲を大和三山にかこまれたこの都はその広さ(10里)(5.3キロょ四方ともいわれ、後の平城京や平安京をしのぐ古代最大の都であったといわれている。 内裏をはじめ大極殿、清涼殿、朝堂院など、中心的官衙はこの藤原京の中心部の約1キロ四方の地に置かれ、後に藤原宮と呼ばれるようになった。 この藤原宮跡は現在も調査が続けられると共に、その跡地は四季の花が植えられ、この古い都を訪れる人々に憩いを提供している。 かつての宮域は春の菜の花を始めとし、ツツジ、アジサイ、睡蓮、蓮、菊、コスモス、雪柳など季節季節の花々が花開き、季節の彩りと楽しみを教えてくれる。 | ||
更新日時 | 2018-01-11 18:18:02 | |
登録枚数 | 40 枚 | |
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ch 358950 | ||
湖畔の風景-瀬田川 | ||
田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川である。 河川法上は淀川水系の淀川で、滋賀県下では田川、奈良県に入ると宇治川、京都府大山崎町で桂川などと合流し、本来の淀川呼称で呼ばれる。 | ||
更新日時 | 2016-01-25 10:52:59 | |
登録枚数 | 25 枚 | |
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ch 356830 | ||
湖畔の風景-浜大津 | ||
浜大津は琵琶湖南湖の港で、鉄道輸送が始まるまで、ここから北湖の港へと丸子船が行き来し、近畿と北陸との物資輸送の中心的役割を果たしていた。鉄道輸送が始まってからは次第に物資輸送の役割は失っていき、現在では主として観光船やヨット、クルーザーなどの発着港として使われている。 ここには浜大津港を中心とし、その周辺の浜辺の写真を集めてみた。 | ||
更新日時 | 2016-01-01 11:19:03 | |
登録枚数 | 73 枚 | |
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ch 331737 | ||
大原点描-草生の里・寂光院 | ||
翠黛山の山裾に焼杉山の険麓が迫る山かいの草生の里にその庵はある。 聖徳太子が父の用明天皇を弔うため建てたと伝えられる尼寺、寂光院である。 壇ノ浦の戦に敗れて滅び去った一門の奨士と、我が子安徳天皇の菩提を弔うため、髪を下ろした建礼門院徳子が身を寄せ、その生涯を終えた寺として知られている。 徳子は庵の傍らに小さな方丈の草庵を結び、そこで平家一門の菩提を弔いながら長時不断の念仏で日を送り、その短い生涯を終えた伝えられる。 境内の裏手に徳子がむすんだ庵の跡が今も遺る。 徳子の遺骨は寂光院の境内を真下に見下ろす建礼門院徳子大原西稜に眠る。 そして徳子とその生涯を共にした阿波内侍、大納言佐局ら5名の侍女の五輪塔は、渓一つ隔てた翠黛山の山懐に、まるで徳子稜を見守るかのように並んで立っている。 | ||
更新日時 | 2015-03-25 12:25:48 | |
登録枚数 | 30 枚 | |
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ch 331502 | ||
大原点描-古知谷・阿弥陀寺 | ||
和田橋を渡り旧若狭街道を北へ、鯖街道とも途中越とも呼ばれるその道は、高野川にそって右へ左へと曲がりくねりながら続いている。 いくつかの集落を過ぎたあたり、左手に宋朝風の白漆喰造りの山門が現れる。 古知谷の阿弥陀寺である。 木食上人弾誓が鎌倉期に開いた如法念仏の道場である。 山門をぬけると渓流沿いに参道が上へ、上へと続いている。 その参道を登っていくと、やがて苔むした石積みの上に建つ幾つかの伽藍が見えてくる。 聞こえるのは渓流の音のみ。 まことに静寂、閑雅、かつ幽邃な念仏修行の道場である。 大原の中心部は四季を通じて観光客や車が溢れ、かつての鄙びの里のイメージは失われているが、この古知谷だけは大原の良さがしっかりと残っている。 ことに冬期は路線バスもなく観光客ほとんどいない。 古知谷までの道は車に頼らないで歩くのがよい。 | ||
更新日時 | 2015-03-25 08:18:34 | |
登録枚数 | 44 枚 | |
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ch 331395 | ||
大原点描-声明の里・三千院 | ||
呂川と律川に挟まれた天台声明の里、魚山とも呼ばれる法の里である。 平安の昔、比叡山で天台声明を学ぶ僧侶が山を下ってこの地に住み、声明の声と律呂とを磨いた。 後に梶井門跡三千院がこの地に移り、声明の道場として天台声明を伝える天台寺院の束ねとなった。 洛中から遠く離れた山間の地にある大原はいわば都人の隠れ里ともいうべき鄙びた趣があったが、昭和41年に永六輔作詞、いずみたく作曲で、デューク・エイセスが歌う「女ひとり」 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女が一人 結城に塩瀬の 素描の帯が 池の水面に 揺れていた 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女が一人 のこの歌がヒットすると、三千院は一躍若者たちに知られるところとなり、三千院は観光スポットの一つとなった。 とりわけ、三千院の中の往生極楽院は、老若の姿が年中絶えるときがない。 | ||
更新日時 | 2015-03-23 06:38:34 | |
登録枚数 | 61 枚 | |
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ch 331360 | ||
大原点描-雪の大原 | ||
大原は雪の季節が一番である。 春や秋の観光シーズンはどこもかしこも人、人、人で溢れ、まるで町の雑踏を歩くようである。 大原の良さも風情も押しよせる人の大波に飲まれてしまう。 冬の季節、それも雪の降るときはさすがに人も少なく、ゆっくりと見て廻ることができる。 雪の大原があってはじめて四季の大原が甦るように思う。 | ||
更新日時 | 2015-03-22 16:08:11 | |
登録枚数 | 39 枚 | |
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ch 330399 | ||
琵琶湖疏水(宇治川派流) | ||
宇治川派流も豊臣秀吉が造った伏見運河の一つであり、伏見の中心街を流れる。かつてこの運河の両岸は船宿が建ち並んでいたといわれ、坂本龍馬がよく使ったとされる寺田屋もこの運河ぞいにあった。 この運河は宇治川から取水し、それを濠川に注いでいたが、宇治川の水位低下に伴い、現在ここを流れているのは琵琶湖疏水の水である。 今は運河ぞいに伏見の酒蔵が建ち並んでいる。 | ||
更新日時 | 2015-03-13 13:17:00 | |
登録枚数 | 41 枚 | |
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ch 330397 | ||
琵琶湖疏水(濠川運河) | ||
濠川運河は豊臣秀吉が伏見城建築にあたって整備した運河の一つである。 琵琶湖疏水の建設当時はその水を伏見城残濠へ注いで終わっていた。しかし、その後の宇治川の水位低下により、宇治川の水は濠川へは流れ込まなくなり、今は疏水の水が流れる運河となっている。 三栖閘門周辺は「伏見みなと広場」として整備されている。 | ||
更新日時 | 2015-03-13 11:56:35 | |
登録枚数 | 24 枚 | |
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ch 330395 | ||
琵琶湖疏水(疏水分線) | ||
疎水分線はもともと松ヶ崎浄水場に疏水の水を運ぶために作られたが、今在では水路の水は南禅寺水路閣、永観堂裏手をへて若王子取水池へと運ばれ、そこから地下挿管により松ヶ崎浄水場へと送られる。 従って、若王子取水地から先の疎水路は実質的にはその役割を終えている。しかし、哲学の道沿いに北上し、北白川、一乗寺をへて下鴨へ、下鴨からさらに「紫明せせらぎ公園」、堀川せせらぎ公園」と流れる疏水の流れは地域の自然に溶けこみ、市民の憩いの場ともなっている。 なお、疎水分線はその途中、高野川、鴨川の二つの大きな河川と交差するが、いずれもサイホンの原理でその河床の底をぬけて対岸へと水が運ばれている。 | ||
更新日時 | 2015-03-17 12:39:29 | |
登録枚数 | 86 枚 | |
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