忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

東京青梅-草思堂(吉川英治記念館)

2016年05月30日 | 旅ぶらり
吉川英治が東京赤坂からこの西多摩郡吉野村(現在の青梅市柚木町)の古い民家を買い取って移住したのは昭和19年3月のことである。





そして、ここで翌20年8月に終戦を迎えた。
日本の敗戦に強い衝撃を受け、その日から吉川は筆を断った。
これまでの自らの執筆への姿勢や人間とはどう生きるべきなのかといった問題について突き詰めて考え直す必要を感じていた。





吉川は父の事業の失敗によって若くして苦難の人生を余儀なくされ、職業を転々としたが、大正3年に講談倶楽部のに応募した懸賞小説「江の島物語」が一等当選を果たして文壇にデビューし、「親鸞記」「剣魔侠菩薩」「鳴門秘帖」「江戸三国志」など次々と作品を発表し、昭和10年には朝日新聞に「宮本武蔵」を連載して文壇に揺るぎのない地位を築いていた。





この吉野村で晴耕雨読の生活を送るとともに地元住民との交流に勤め、俳句の指導や公民館建設への尽力など通じての地元へも多くの貢献をした。

庭に生える椎の大木は樹齢500年とも600年ともいわれ、吉川は樹下に毛氈を敷き、夫人の点てるお茶を飲んだといわれる。





その吉川が週刊朝日に「新・平家物語」の連載を始めたのは昭和25年4月のことである。以来、物語の完結に至るまで足かけ7年にわたって連載を続けた。





その連載小説の中で吉川は平安末期の摂関政治の廃頽によって新しく台頭してきた武家の平氏と源氏の権力を巡る修羅の争いの歴史の中に、本来なら決して登場する筈のない庶民の阿倍麻鳥なる貧しい薬師夫婦を隠れた主人公として登場させ、人間が追い求めるの真の幸せは摂関家が同族相争う堂上における位階や栄爵や、武家が権力を巡って争う修羅の営みによっては決して得ることが出来ず、かえって権力者のこうした営みによっていつも苦しめられ、虐げられている貧しい庶民のささやかな日々の営みの中にこそしっかりと花開くものであることを語ってみせた。
こうした物語の展開は、宮本武蔵などの戦前の作品にはなかったもので、断筆後初めての大作である新・平家物語で吉川は新たな境地を開いたと言える。




単行本にして全16巻というこの長編の歴史小説は約半世紀を経た現在も世代を問わず広く読まれている。
吉川の小説が国民文学と呼ばれる所以である。





その後も吉川は毎日新聞に「私本太平記」を、さらに日本に「新・水滸伝」の連載を始めたが、病を得てその完結を待たずに永眠した。
享年70歳であった。

「我以外 皆 我師」は、吉川が好んで書いた座右の銘である。

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