忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

琵琶湖疏水を歩く(9)、宇治川派流

2012年06月08日 | 琵琶湖疏水を歩く


              琵琶湖疏水を歩く(9)
       宇治川派流

今回は宇治川派流である。

 

上左の写真は阿波橋から濠川を写した。
濠川は阿波橋の下の出会橋で流れが二つに分れる。
右に向かうのが濠川で、流れは三栖閘門へ。
左に別れるのが宇治川派流である。
上右の写真は出会橋の西詰から宇治川派流を写したもの。

  

宇治川派流は三栖閘門から宇治川を遡ること約1キロの所にある
平戸樋門で取水し、宇治川の水を伏見の城下へ取り込み、出会橋
で濠川と結ぶために造られた運河である。
もともと宇治川は京都盆地の南部にあった巨椋池へと流れ込んで
いた。巨椋池は、北に高く南に低い京都盆地の地勢が自然に造り
上げた巨大な遊水池であった(昭和の干拓により消滅)。
ところが、豊臣秀吉が伏見城を築いた際、その巨椋池の中に堤を
設け、宇治川を巨椋池から切り離すと共に、その水の一部を運河
によって伏見城下に導き、城下に舟運の便をもたらすための大規
模な土木工事を行った。
宇治川派流もこうして造られた運河の一つである。
これ以降、伏見の運河網は伏見港として活用されることになる。
江戸時代に入ってからも伏見は舟運による物資の集散地としての
役割を果した。

出会橋で濠川と別れた宇治川派流は伏見の町を東へ流れ、
やがて京橋に至る。この京橋付近は鳥羽伏見の戦いで激戦が交
わされた場所でもある。

  

京橋を過ぎた所の船溜りに三十石船の遊覧船の乗場がある。
宇治川派流と濠川を行き来する遊覧船には十石船と三十石船が
あり、写真は三十石船の乗船場である。
三十石船は春と秋の限られた期間運行され、十石船は冬期を除
いていつでも利用できる。

 

京橋の下を行く十石船。

 

ちなみに、この宇治川派流が開鑿された当時は平戸樋門から取
り込んだ宇治川の水は、平戸橋、弁天橋、蓬莱橋、京橋を経て、
濠川へと流れて込んでいたが、現在そこを流れるていのは宇治川
の水ではなく琵琶湖疏水の水であり、流れも昔とは逆になっている。

京橋を過ぎると運河はやがて蓬莱橋に差しかかる。
かつてこの南浜の辺りには、数十の船宿が軒を連ねていた。

 

寺田屋事件で知られる船宿「寺田屋」もこの近くにある。
坂本龍馬もこの寺田屋で襲われ、負傷した。
河畔には龍馬とお龍の像がある。

 

蓬莱橋を過ぎると運河は南へ大きく流れを振り、
酒蔵街にさしかかる。

 

ここからしばらくの間、運河は幾棟も続く酒蔵を左手(東)に見なが
ら南へ流れ下る。
この酒蔵が建ち並ぶあたりは大倉浜と呼ばれ、かつては舟で運ば
れる物資の集散場となっていた。

 

十石船の遊覧船が行き来する。

 

やがて運河はゆるやかに東へ流れの向きを変えていく。

 

左手に十石船の乗場が、前方には弁天橋が見えてくる。

 

弁天橋の西詰めには長建寺がある。
正しくは東光山長建寺、真言宗醍醐派のお寺で、八臂弁財天を本
尊とする珍しいお寺である。
土地の人からは島(中書島)の弁天さんとして親しまれている。

 

寺の並びの浜は弁天浜と呼ばれている。

     *  *  *

    酒造街に寄り道

弁天橋を東に渡り、酒蔵街に寄り道をする。
通りは如何にも酒造りの街らしい趣がある。
甍を連ねているのは大倉酒造(月桂冠)の酒蔵である。
その一部は「月桂冠大倉記念館」として公開されている。

 

「月桂冠大倉記念館」の中庭である。

  

この周辺には所狭しと酒蔵が軒を連ね、20を越える酒蔵や蔵元
が集っている。

 

月桂冠旧本社の建物を活用して伏見の地酒や特産品を販売する
「伏見夢百衆」そして、黄桜の「清酒工房」、一筋違いの所に
「黄桜記念館」もある。

 

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      *  *  *

弁天橋の袂は十石船の乗り場になっている。

 

係留してある十石船の脇を南へと下る。
この辺りから流れは再び東へとカーブしていく。
やがて京阪本線の橋梁にさしかかる。

  

京阪本線の橋梁の下を過ぎ、さらに南へ下る。

 

やがて近鉄京都線の橋梁にさしかかる。

 

近鉄京都線の橋梁を過ぎると平戸橋、そしてその先に、
外環状線の高架と京阪宇治線の橋梁が待ち受けている。

 

京阪宇治線の橋梁の先はもう平戸樋門、その先は宇治川である。

 

出会橋で濠川と別れ宇治川派流を流れてきた琵琶湖疏水の水は
琵琶湖から別の旅を続けてきた宇治川とここで合流する。

宇治川の流れ、左が上流で橋は観月橋、
右が下流で橋梁は近鉄京都線。

 


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