忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

奈良の水取り

2015年03月14日 | 如是日、如是時、如是想
東大寺二月堂のお水取りが満行を迎える。



子供の頃の我が故郷では、東大寺で行われるこのお水取りの行を
  「奈良の水取り」
と呼び、誰もが、その行が終わらないと、春がやって来ないかのように考え、それを日待ちにしていたものである。
子供たちの間で、時々、こんな会話を耳にしたものだ。

「早く暖かくならへんやろか」
「まだあかん、奈良の水取りまだ終わってへんやないか…」
「それ終わるの何日や?」

その頃は大人も子供も「奈良の水取り」は季節を呼ぶ一つの儀式で、生活上なくてはならないもののように考えていたのである。




かといってその行の中味を詳しく知っていたわけではない。
その行が「修二会」と呼ばれ、二月堂のご本尊である十一面観音に供える御香水を若狭井から汲む行でそのピークを迎えること、大松明をかついただ練行衆が二月堂の舞台を駆け巡る勇壮な行をともなうものであることなど、それらを影像と共に教えられたのはすべてテレビが普及して後のことである。




でも、近頃では、お水取りに興味を持つ子供は少なくなってきたようだし、大人もそれを季節や生活と結びつけて考える者はいなくなったように思える。
やはり、時代の成り行きであろうか。


一人っ子軽鴨

2014年07月12日 | 如是日、如是時、如是想


    一人っ子軽鴨

一ヶ月ほど前のことである。
朝の散歩の途中、ふと道路脇の水路へ目がいった。
水路、といっても川幅の至って狭い農業用の溝である。
そこに居たのである。



軽鴨の親子である。
軽鴨は雌が単独で子育てをするとされているので母と子に違いない。
最近はあまり見かけなくなったが、以前は沢山の子鴨をつれて移動する軽鴨の群を水辺や田園地帯でよく見かけたものである。
だから、軽鴨は子沢山と思い込んでいた。
でも、どこを探しても子鴨は一匹だけ、つまり一人っ子なのだ。
軽鴨の世界にも少子化が進んでいるものらしい。
それにしても、そこは魚が住むような水路ではないし、水草とてほとんど茂っていないコンクリートの水路である。とても餌が豊富とは思えない。
にもかかわらず翌日も翌々日も親子はそこを離れない。

そして、今朝の散歩の時も、
やはりそこに居るではないか。
あんなに小さかった子鴨がわずか一ヶ月で母鴨にまけない程に大きくなって、
母鴨によりそうように餌を漁っている。

少し離れた所には池もあれば湖もある。
その気になればもっと豊かな日々が送れるのに、
と思うのに、二匹はそこを離れようとしない。
変わった軽鴨だ。
そう思いながら帰宅した。




しかし、、考えて見れば、餌の豊富な水辺に行けば、
そこはたちまち厳しい生存競争の場、
母子して他の水鳥と餌争いの日々である。
この水路なら、さしあたって外敵の心配はなさそうだし、
餓えて死ぬこともなさそうだ。



それに、母鴨とすれば、老後も我が子と一緒でいられる。
なるほど、そんな選択もありか、と納得した。

でも、子鴨の結婚はどうなるの?

如是日、如是時、如是想-別れの旅路

2013年12月28日 | 如是日、如是時、如是想


   人 生 は 別 れ の 旅 路
                                     
久しぶりに東京へ出ました。
仕事を終えた翌日、私はなつかしい街へ出かけました。
西武池袋線の石神井公園からさらに幾駅か先にある駅に私は降りたちました。
大学時代の最後の下宿がその街にあったのです。

    

大学を終え、私は神戸にある会社へ就職しました。
ところが、その会社が、オリンピック後の不況であえなく倒産してしまったの
です。
昭和41年のことでした。
それでも脳天気な私はあまり深刻に考えず、そのまま神戸で暮らすつもり
でいました。

「それでは駄目だ!」
母や長男から徹夜の猛説得を受けました。
司法試験をめざせ!
と言うのです。

大学院に席を置き、司法試験をめざすことになりました。
そのためにと探しあてたのがその下宿でした。
学生時代に十何回も変わった下宿の中で大学から一番遠い下宿でした。

朝、満員の通勤電車で大学の図書館へ行き、
図書館が閉館する頃、また下りの通勤電車で下宿へ戻る。
そんな毎日がその下宿で始まったのです。

    

日本の國が高度成長のど真ん中にありました。
でも、その街は、駅から少し歩くと、まだ農地が広がっていました。
もう10メートルも歩けば、そこは埼玉県という、そこは東京の田舎街だった
のです。
道の両脇は、春はタマネギ、秋は大根が植えられていました。
通勤電車に毎朝タマネギの匂いをプンプンさせながら乗り込んでくる娘さん
がいました。
きっと農家の娘さんでだったのでしょう。
その辺りはまだまだ農家もあり、田園風景もしっかりと残っていたのです。

駅前をぬけ、そんな下宿のあった一画を探しました。
びっくりしました。
歩いても歩いても家並が続き、記憶に残る下宿の一画はどこにも見あた
らないのです。
年月が街の姿をすっかり変えてしまっていたのです。
毎日、駅へと向かった道すら定かではありません。

駅にとって戻り、商店街へ行って見ました。
そこにはなじみにしていた中華屋があるはずでした。

  

歩いてみると、見覚えのあるお店は一軒もなく、中華屋さんも幻と化して
いました。
全く別の商店街を歩いている感じでした。

念のため…、
心をとりなおし、もう一度、記憶を頼りに歩き廻り、やっと、それらしい路地
を見つけました。

  

でも、路地のお家の表札を、一軒づつ確かめて歩きましたが、記憶に残る
大家さんの表札はそこにはありませんでした。

「人生は別れの旅路…」

人は、その時、その時を記憶だけにして心に残し、その現実とは刹那、刹那に
しっかりとお別れしながら命を繋いで生きているです。
その思いをしっかり胸に刻みつけて私は帰りの電車に乗りました。


如是日、如是時、如是想-別れの旅路

2013年06月28日 | 如是日、如是時、如是想

      別 れ の 旅 路
                                     
残り少なくなった友の一人が、また旅立だっていった。
急な訃報に驚き、
新幹線にとび乗った。
シートに身をうずめ、ありし日の友を偲んだ。
怒る顔を見たことのないほどの好人物で、酒好きだった。
若い遺影の彼は、
まんまの笑顔で自らの棺をじっと見つめていた。
人の良さから人に取り入られ、
不祥事に巻き込まれて闇に沈んだ。
ほほ笑みを失った妻の暗い顔が、家族の失意の生活を語っていた。


  


すべては無常
遺影の彼が私にそう語りかけているように思えた。

出会いと別れは実は一つのもの、
六因、四縁、五果の因果の理はそう教えてくれている。
そして、人生は別れの旅路であることも…


  

  
  時まちて 花は咲けども
            沙羅双樹
               散りて流れて 往きて還へらず

   出離生死 頓生菩提
        合掌         
        


如是日、如是時、如是想-犬吠埼

2013年05月30日 | 如是日、如是時、如是想

               犬   吠   埼


人が生きる上で
「果てを知る」
ということは大事ではなかろうか。
地の果てを知らなければ自分の立位置が分からない。
苦しみのどん底を知らななければ幸せも、その有頂も知ることができ
ない。
極論とその対局とを知らなければ、自らの考えが定まらない。
果てを知る、とは、つまるところ、生きるための見当識を保つということ
に他ならない。

首都圏で地の最果てを尋ねるとなれば、さしずめ犬吠埼であろう。

   

犬吠埼灯台へ登ると360度の展望が開け、地の果てと海の始まりが
一条の線となって顕われる。

  

「埼」の地をあてる岬は犬吠埼のほか和歌山県の日ノ御埼がある。

  

海面から高さ50㍍にも達する岩層は中生代白亜紀の堆積層で、白亜
紀浅海堆積物として国の天然記念仏に指定され、日本の地質百選にも
選ばれている。

    

凪いでいても磯は波のしぶきの華が散る。
太平洋から寄せるうねりである。

  

明治の初めに様式灯台が置かれただけあって、沖行く船にとって、
ここは航海の難所の一つである。

  


          海吠えて
            潮の華ちる
                    荒き磯


如是日、如是時、如是想-今ありて今を見る

2013年05月11日 | 如是日、如是時、如是想

              今ありて 今を見る

湖北を歩いてみたい。
それは大津に住んでいた頃からの想いだ。
それからむなしく四十数年が過ぎた。
湖北の地は、自然も厳しく、過疎で、暮らしも楽ではない。
ずっとそう想い続けてきた。

  

その湖北を連休明けの3日間に歩いた。
私が懐き続けてきた湖北への暗いイメージは一変した。
都会に住み慣れた者からすれば、村々は過疎に近く、交通の不
便さもある。
しかし、その分、自然は豊かで、人々の生活はゆったりと流れ、
人情もいたって細やかで、心の豊かさを感じさせる。
通りがかる小学生、中学生、そして小さい児らまでが、
「今日は!」
と挨拶をして過ぎる。
見知らぬ旅人の私にである。
道路の渋滞など見たくても見ることなど出来ない。
豊かさとは何だろう。
人口が増え、物が溢れ、何事につけ便利でさえあれば、それが豊
かさなのか。
それは豊かさを判断するほんの一つの物差しに過ぎないのではな
いか。だとすると、本物の物差しは何だろう。
そんなことを湖北の地で考えさせられた。

  

奥琵琶湖は時に荒々しい姿を見せるが、

  

湖岸の桜は、今、深緑の葉桜に変わり、それが山の緑、湖の碧と
一つに溶け合って、奥琵琶湖の入江、入江は明るく、穏やかで、
とても静寂である。

  

物やお金では購うこのできない、この自然の豊かさ、美しさを、大
津で暮らしていたあの頃、そして妻の介護に追われていたあの頃
に見たら、どう感じ、何を思ったであろうか。
景色に見とれながら、そんなことを、ふと思った。

  

その時に見た景色、私の思いは、今の私が見、心が思っているこ
ととは、きつと違っていたはずである。
自然や景色が変化しているから、などと言いたいのではない。

  

命にかかわる病気もしたし、言葉にはならない苦しい時代もあっ
た。そうやって、今、老いの自分がある。
その時々の自分が、その時々の心で見、そして思ったであろう
ことと、今の自分が、今の心で、同じ対象を見、そして思うこととは
自ずから別のものだと言いたいのだ。


   

人は多く、同じ物、同じ景色は、いつ見ても変わらないし、誰が見
てもそれは同じに見える。
そう思いがちだ。
でも、実は、そうではない。
人が見、人が感じる対象の姿、印象は、その時の、その人が、
その心で捉えた姿であり、印象であるにすぎない。
それは見る対象が変化するからではない。
見る人の心が変わるからなのだ。
だから同じ対象を見ていても、それぞれの人が見、その心が捉え
る姿、印象は別々なのである。

  

人は同じ物、同じ景色を前にして、ある人はそれをすばらしいと思い、
ある人それをくだらないと考え、またある人は何も感じない。

事実は一つで客観は動くこはなく、それを前にして、人はそれを同
じように見、同じように捉える。そしてそうあるべきものだ。
そうした大前提に立っての議論は、必ず何処かで齟齬をきたす。
私が人生で学び得たことは、その一事である。

だからこそ、すべてに謙虚であることと、他への寛容さ、そして異な
った考え方への理解こそが、人が生る上で最も必要なことなのだと
思うのである。

   

  
     よるべなき生命
         生命のさびしさの
             満てる世界にわれも生くなり
                 
                             (若山牧水)


如是日、如是時、如是想~ふり返り見れば

2013年01月05日 | 如是日、如是時、如是想

    ふり返り見れば

日本列島を、日本海側と太平洋側の二つの低気圧が挟み撃ちし、
北陸地方は強風、大雪警報が出されていた。
そんな昨年の大晦日、私は湖北の木之本の駅に降り立った。
きっと大雪だろう。そう覚悟していた。
滋賀県は彦根あたりを境にして、南は太平洋側の気候、北は
北陸性の気候に分かれる。
かつて大津に3年間住んだ経験が私にそう教えていた。

ところが駅に降り立つと、駅前広場に雪はなく、粉雪こそ舞って
はいたが、街も思っていたより穏やかで静かであった。
来て良かった。そう思いながら北国街道を散策し、木之本地蔵に
歳納めのお詣りをして一年の無事を感謝し、
大晦日を過ごした。

異境で、行く年を送り、新しい年を迎える。
そんな年末、年始の過ごし方を思い立ったのは、妻が逝った、
その年からである。
これといって仔細な理由があるわけではない。
一人きりになって、その年を振り返り、そして新たな気持で新年を
迎えたい。
そんな思いからである。

                                                               
そうやって湖北の地で迎えた今年の元旦、
私は好きな余呉湖を歩いた。

   

年末に降り、積もった雪が根雪とならず、溶けて消え、
湖畔に雪なく、湖面には無数の水鳥が羽を休めていた。
まるで貸し切りのように人影がなく、静かな湖畔を、時間をかけて、
ゆっくり、ゆっくりと巡り、ほぼその日の旅を終えた時、もう黄昏が
迫っていた。

   

賤ヶ岳を湖面の彼方に望みながら、私は河上肇の詠んだこんな
和歌を思い出していた。

  たどりつき
      ふり返りみれば山川を
           越えては越えて
               来つるものかな

人道主義的な立場から貧者のための経済を説き、やがてマルクス
主義経済学へと進み、治安維持法で罪に問われ、特高警察から
寛刑を餌に転向を求められたが、操を屈することなく5年の刑期を
終えて出所した、筋金入りの人生を歩んだ社会主義経済学者が
自らの信念の人生をふり返って詠んだ和歌である。

そんな偉大な先達に、自らを重ねるのは烏滸がましい限りだが、
経てきた自らの人生をふり返っての私の今の思いは、
この和歌の心をおいて外にない。

人が振る旗の下で生きるのが嫌いな私は、常に自分で自分が歩く
道を決め、人が歩かない道を常に選んだ。
それだけに、しなくてもすむ辛さや苦さを自分で求めて背負い込み
ながら歩んできた。
世間が「アホな生き方」と言う、そんな生き方を好んで選んできた
のが、この私というアホ人間なのだ。

でも、だからこそ、
今日、この日の、この時の、このささやかな安らぎの一時を過ごし
ていることができるのだ。
つくづくとそう思う。
 
楽をして得を取る。要領よく運を掴む。狡っ辛く世間を泳ぎまわる。
そうした生き方が私は大嫌いだし、そんな欲がらみの生き方で人
生を棒に振った例も、嫌というほど見てきている。
なんの自慢も出来ない変哲人生だったけど、顧みて悔いはない。


迎えた2日の朝、
長浜は晴れて穏やであった。

   

船で竹生島へ渡り、

   

宝厳寺へお詣りをし、今年1年の平穏を祈った。
40年ぶりの竹生島である。

   

雲がやや広がり、風も少しあったが、その日も、
穏やかな日暮れであった。

   

長浜の豊公園の浜辺に座り、沈み行く夕日を見ながら、
私も死ぬときは、この夕日のように静かにしずみたい。
そう思いながら、ささやかな一献を傾けた。


翌日の朝、敦賀行の電車の窓から見た余呉湖は
雪の中に消えていた。

     

わずか2日違いで…
私は北陸の冬の厳しさを改めて教えられた。

降りたった近江塩津の街は雪の中であった。

   
   
    岩もあり木の根もあれど
         さらさらと
                      たださらさらと水の流るる

                                 (甲斐和里子)

残された、あとわずかな人生は、この歌の心で生きていきたい。
そう思いなから、私はその雪を踏みしめた。


無 常 迅 速

2012年11月08日 | 如是日、如是時、如是想

長かった夏がようやく去り、せっかちに冷え込みがやって来た
秋の一日、妻の三回忌を営んだ。
心の病との辛い闘いに明け暮れた妻が、病院のベッドで朽ち
るように果てていったあの日の事が、まだ昨日の事のように
思えてならない。

無常迅速…
蓮如の「白骨のお文」を読むまでもなく、使い古され、聞きあき
たこんな言葉しか、今の私の思いを、
うまく言い当てる言葉を知らない。

ふり返えってみれば、
妻が重い心の病をかかえている。それをはっきりと知ったのは、
私が胃と脾臓を全摘して3年程が過ぎた頃の事である。
五臓六腑の二つを失った不便さは、健康な人にはとうてい想像
もつかないだろうし、言葉でそれを説明したところで、経験のない
人に理解をして貰うのは不可能である。
次から次へと襲ってくる医書にはない様々な後遺症状。
それに耐えることすら難儀な身体で、仕事もそれなりにこなして
いかなければならない。

弁護士の仕事は人が羨むほど、うまい仕事でもなければ、
これを誠実にこなしていく限り、傍が思うほどには実入りもよく
ない。
大企業の法務ばかりを受任する一部のブル弁はいざ知らず、
街の一弁護士として働く限り、関わり合う紛争は、人の争い事
の中でも、とりわけ利害や理非、そして感情までが複雑、多様
に絡み合い、解きほぐし困難なほど人間関係の縺れた事件が
ほとんどで、その裏には人間のどす黒い利欲や愛憎が消しが
たい炎となって燻っている。
貪・瞋・痴の三毒が生み出す人間業が描きなす闇曼荼羅のよ
うな争い事は、正義の、人権の、弱者保護の、等といった通り
一遍の綺麗事で片が着くのはほんの一握りで、そのほとんど
が正義も道理も解決に向けてほとんど無力なことが多い。
そんな事件に手間暇をかけないで、鬼平もどきの勘働きで
「落とし所」なるものを見つけだし、大鉈を振るい、力業で当事
者を抑え込み、手練手管を使って早々と事件を決着に持ち込み、
しこたま報酬を搾り取る。
その後はパンパンと汚れた手を払って知らぬ顔で紳士面を極め
こむ。そんな厚顔でも持ちあわせていない限り、家も建たなけれ
ば高級車を乗り回すことなんてとても出来ない。
そんな手荒なやり口が性に合わず、手間と時間をかけて誠実に
こつこつ仕事をこなすとなると、神経もすり減り、身体が幾つ
あっても足りない。
それが弁護士の仕事の現実なのだ。

事件が裁判沙汰にでもなれば、真実究明や理非、道理にかなう
裁判など絵空事で、総局の訴訟促進の意向や書面審理をやたら
と強要し、上層の顔色ばかりに神経を尖らせる裁判官がほとんど
の今の裁判所の現実では、諸人が得心する審理や判決など、
百の中、はたして幾つあるであろうか。
裁判官が、そのノルマを上げるためにした端折り審理の手荒な
判決で事件の決着を付けさせられ、後に残る当事者の不満の
尻ぬぐいは、すべて代理人の弁護士がさせられるのである。

妻が病の床に伏せるようになってから、それまで妻に任せきりに
していた子供の世話、家事、隣組との付き合いなど、すべて私の
肩にのしかかってきた。

妻の病気の性質や症状については、このブログにかつて書いた。
周期性の病気で、急性期がおとずれると、妻はほとんど眠らず、
動き回り、尿も便も垂れ流しの状態になる。
病院が入院を受け容れてくれるまでの幾晩か、私もゆっく床につく
ことなど不可能である。
眠らなくても明日の仕事の予定は待ってはくれない。
もう自分の健康のことなどかまっている
余地などなくなる。朝になれば、子供の弁当も作らなければならない。
買い物、夕食の準備、食事の世話、後始末。家事も子育ても、
やり始めると際限が無いのである。
二つの臓器がない私のポンコツの身体は、
いつも限界ギリギリの状態で命をかろうじて繋ぎ止める。
そんな日々が続くのである。

妻の入院が許されると、介護の辛さからは解かれるが、疲労と不安
で昂った神経は、中々鎮まってはくれず、疲れた筈の身体も睡眠を
受け付けようとはしない。
その神経を宥め、眠りを迎えるには酒に頼るしかない。
胃のない身体に酒を流し込むと、酔いが瞬時に回り始める。
かくて、妻が入院した後のしばらくは酒の助けを借りて眠りにつく日が続く。

人はなぜ苦しみに耐えて生きなければならないのか?。
幸せって何だろう?。
そんな事を私が真剣に考えるようになったのはその頃からである。

それを救ってくれたのが仏教と、休日の古都歩きだった。
漢和辞典と解説書を片手に世親の阿毘達磨倶舎論を一字、
一句と読み進み、唯識哲学の本を漁り、禅書を持ち歩き、座禅
が朝の日課になった。
そうやって、幾ら本を読み、頭で仏教の教えや哲学を学んでみて
も、そこに悟りも、幸せもあるはずなどないし、素人座禅に出離も
投機も無縁である。
そこで見いだすのは、人の操る言葉の危うさと、先哲の大脳が
捻り出した難解な論理や哲学のみである。
言葉や論理を追いかけ回している限り、そこに救いも悟りもある
はずがない。
書を読み尽くした頃に、救いといい、悟りといい、幸せといい、
それらはすべて言葉や人の計らいをを超えた世界にしかないこと
を初めて知るのである。

リックを背負い地図と磁石を頼りに飛鳥、奈良、京都と手当たり
次第にを歩き回った。
無心で歩いている間は、日常の煩わしさから逃れ得ても、
幸せなど何処にも転がってはいないし、私の、
「なぜ…?」
への答えも返ってはこない。
帰宅すれば、子供が腹を空かせて待っている。
妻が退院してくれば、そこから再び介護の日々が始まる。

入退院を繰り返す毎に、妻の回復期が短かくなり、急性期が長
びくようになった。
それに比例して遅発性ヂスキネジア、パーキンソン症候群等の
抗精神病薬の副作用が深刻化していった。
人格レベルの低下も確実に進んでいく。
人間が少しずつ毀れていくのである。

高校、大学への子供の進学や就職の問題も深刻だった。
病に苦しむ母と、仕事に追われる父の家庭に生まれ育つ子供こそ
不幸である。
長男は閉じ籠もりがちになり、次男は家を嫌って飛び出して行った。

妻が病んで十数年が過ぎたとき、私の身体も心もボロボロになっ
ていた。
それまで若さと精神力でもちこたえていた二臟を欠いた私の
ポンコツの身体は、老化による衰えが急速に襲ってきた。
介護を取るか、仕事を取るかの二者択一に選択の余地などある
はずがない。
平成18年春、事務所を閉め、翌19年の春、弁護士を廃業した。

その翌年の6月、長男が自分の人生に早々と見切りをつけ、
自らその命を断った。
冷たくなった長男の身体の前の机には、先立つ不孝を詫びる
わずか数行の遺書、そして、パソコンの中に、

「積極的自死とも言える考えの下、自ら命を絶った人の遺稿です。
気が向いたら一度読んでみて…
お父さんには、受け入れかねる考え方かもしれないけど、
こういう価値観が存在するということを知るだけでも、
頭の肥やしにはなると思うから…」

と記されたメモ書きと、そのパソコンの傍らに、
須原一秀著、双葉社刊の「自死という生き方」
という一冊の本が置かれてあった。
大学を出てから仕事を幾つか変え、最後は情報処理の幾つかの
資格を取り、それで生計を立てたいと、自宅でパソコンに向い
詰めの生活だった。
しかし、文化系の長男には越えがたい壁があったようだ。
何度も将来について相談しようと話しかけたが、長男は無口な
私に増して無口で、何を語りかけても「心配いらへん」の一言が
返ってくるばかりだった。
友達とは飲む酒も、私と向かい合うと、口にしようともしなかった。
何一つ語らずの長男の心の奥は、仕事を辞めて老いが目立つ
父親と、病に伏せる母親が、長男であるだけに、重過ぎる負担と
映じていたのに違いない。

長男を失ってから、妻の病状は急激に悪化していった。
その年の12月初旬、退院を許された妻が、自宅で過ごせたのは
わずか1ヶ月ほどで、初春気分もまだ抜けないその翌年、つまり
一昨年の1月の半ば、悲しそうに、また病院へと戻っていった。
その年の桜の頃、妻の少し調子が少し良くなり、しきりに退院を
希望したが、自立支援施設への入所を進める病院の意向を汲ん
で、その方向で調整を進めていた。
その矢先、妻に麻痺性イレウスの症状が出て、大阪市内の病院
へ緊急転院した。
「家に帰りたい」
面会に行くと、そればかり言い続けていた妻は、一度もその希望
がかなえられないまま、その年の11月、病院のベッドから永久に
帰らずの旅へと発っていった。

悪性症候群、麻痺性イレウスと、抗精神病薬の不適切な投与が
招く、その種の重篤な副作用を、幾度となく経験してきた妻の身体
は、ありとあらゆる抗生剤の使用の経歴が、それへの耐性をしっ
かりと根付がせていて、長期入院による体力、免疫力が極度に
低下した妻への、軽い肺炎菌の感染すら、担当の医師としては、
施すべき術を見いだせなかったのである。

死に至るまで食事も取れず、寝返りすら自らの力では出来ない
状態での点滴づくめの6ヶ月である。
意識はしっかりとしていただけに、辛くないはずがない、
痛くない訳がない。
なのに、それを問えば、
「痛くない、辛くない」
と答えるばかり。
そんな妻の姿が、ただただ心に痛かった。
命のギリギリまで衰えた妻の左半身には、経験したことのない
帯状ヘルペスが発症し、左半身は点々と帯状に黒ずみ、
潰瘍化してきていた。
足の関節は曲がったまま固まり始めていた。
鼻からも、口腔からも出血し、尿に血が混じり始めた。
肺炎菌に犯されて全身が炎症を発していた。
重篤な敗血症で回復の見込みはない、と医師はから覚悟を求め
られた。その3日後、妻は朽ちるように息を引き取った。

電車の窓から妻が世話になった病院の明かりを目にすると、
今もその頃の妻の苦しむ姿が思い出されて、心が痛む。

病苦と闘い続けた妻が、穏やかな死顔で旅立っていってくれたこと
が、私にとって唯一の救いだった。
医書によると、臨終の間際、人の脳内にはエンドルフィンとかいう
神経ホルモンが分泌され、苦痛が寛和されて人は穏やかな死に
導かれる、と書かれている。
死んだことのない私には、それが事実かどうかは知らない。でも、
私にとって、その真否など問題ではない。
私にとってほんとうに大事な事はもっと外にある。

生きる日々の煩いに心を病み、20年余も苦しみぬいたあげく、
腐ちる如くに果てていく妻が、その死の床で最後に見せた穏やか
な死顔こそ、自らの魂が心、口、意の我の世界を離れ、
今旅立とうとしている遠い紫雲たなびく世界こそ、人の煩いや
迷いの営みが何一つなく、真の安らぎのある至楽の世界である
真実を、その枕辺で覗き見た、安堵の笑みであったに違いないと
思うからである。
病んで鑞面化し、表情を失っていた妻の死顔に、やわらかい
笑みを見てとった時、私はそう確信したのである。
それを知ったとき、それと同時に、それまで私が追い求めていた
「なぜ…?」
の疑問への答えも、しっかりとそこに与えられていたのである。

言葉という、人のあみ出した意思疎通の道具は、
実に難儀な代物である。
人の心やその思いが、すべて以心伝心で伝わるなら、人の世の
いざこざや争い事は、その多くがなくなるであろう。悟りを得た
聖人であれば、神通力を得て相手のすべてが為心伝心で、
そこに何の咎も過ちも生ずることはないであろうけれど、
悲しいかな凡人は、言葉なくして何も伝えることができない。
ところが、残念なことに、言葉という道具は真実を伝えられない
ばかりか、真実に触れることも、迫ることも出来ないのである。

普段、人はその事をあまり意識しないが、実は、人がその五感の
直感でかすかに捉えた対象の真実の姿は、そこに意識が働き、
それが言葉に置き換えられるとき、もう真実は失われ、
そこに残るのは、置きかえられた言葉そのものがイメージする
五感の知った真実の虚像にすぎない。
人が赤く輝くバラを見て、赤い、輝く、バラの花などと、それを言葉
に置き換えたとき、相手に伝わるのは「赤い」「輝く」「バラの花」と
いった言葉という道具が象徴する言葉のイメージであって、
伝える人の五感が捉えた対象の姿、形そのものではない。
イメージ化した情報は伝達者が捉えた真実とは似て非なる人の
意識の働きが創り出す妄像なのである。
一事が万事で、伝え手が言葉で伝えようとする人の赤裸の心も、
それが言葉に置き換えられ、聞き手に伝わるとき、それは置き
換えられた言葉のイメージに、さらに聞き手の意識が加工を施し
歪曲された伝え手の心の状態に過ぎず、それは相手の赤裸な
心とは似て非なる聞き手の妄像の世界でしかない。
そこには齟齬と誤解が必然的に入り込むし、そこに聞き手の感情
が持ち込まれると、憎しみも恨みも湧いてくる。
もともと、言葉は、それ自体が多様な意味を含むのが通常で、
伝える側が使った言葉を、受け取り側がどのような意味に理解
するかについて、何の担保もないのである。
こうしたことは、伝送ゲームのもたらす結果を思い起こせば、説明
を加えるまでもなく明らかである。
耳で伝える言葉ばかりか、外界にある万物は人の五感がこれを表象し、
それを言葉に置き換えるとき、既にそこに人の意識の働きで加工され、
歪められ、言葉になったとき、それはすでに真実から遠く離れてし
まっているのである。
「分別」と呼ばれ、人の良識と世間が誤解している、意識の働きは、
常にこうした齟齬や誤解の上にたって、貪、瞋、痴の合切袋である
人の意識の中で行われるのである。
だから、人の分別こそ、その偽らざる実像は、それを巡らせれば
巡らす程、真実を遠く離れ、愛や憎しみ、怒りや恨みといつた人
の煩悩を限りなく再生する迷いの源泉なのである。
だからこそ釈迦は「我を去り無為に至れ」と説き、
孔子は「巧言令色、鮮矣仁」と戒めたのである。

言霊信仰といって、言葉には魂が宿ると説かれ、神道、
とりわけ復古神道はその言霊への信仰が
その教えの柱となっている。
他国でも言葉に対する信仰は色々な形で存在する。
人と神との対話が、言葉を仲立ちしてなされるのである限り、
その言葉に魂が宿らなければ、
神という存在そのものが危うくなってしまう。
万葉にも、「磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の
幸うくにぞ…」と詠まれ、万葉、古今以降の和歌の道は言葉の
花が咲き乱れる芸術の世界である。

それほどすばらしいはずの言葉が、反面、どれだけ人を傷つけ、
社会に禍をもたらすかは、仏教の戒律の多くが言葉とそれに伴う
人の行いに向けられていることからも明らかである。
具足戒といい、梵網戒といい、大乗の五戒、十戒も、人の言葉に
対する戒律が必ずそこに含まれているのである。

人の心の病は、その多くが社会という人の集まりの中での、
人と人との言葉を介する意思疎通の行き違いや、言葉の暴力が
その引き金になるのである。
言葉とそれが引き起こす人の心、意、識の迷いの働きが、
どれだけ社会を乱し、紛争を誘い、人を傷つけ、人と人とが殺し
合う歴史の過ちを繰りかえしてきたことか。

悲しいかな社会の営みは、言葉を抜きにはなり立たない。
私が生業としてきた法曹の世界も、その外ではなく、人の操る
言葉と、六法という人の「分別」の集大成の規矩の中で、
人の争い事の始末つける職人の集団なのである。
もともと人が人を裁くことなど本来は不可能なのだし、
神ならぬ只の人が真実を見つけ出すこともとうてい出来ない
相談なのである。
だから、神、仏の次元から見れば、人が行う裁判など、
痴迷いの茶番にしか映らないに違いない。
しかし、人しか人を裁けない現実が、約束事として裁判という
仕組みや、法という、それが従うべき規矩を創り出したのである。
だからこそ、それに携わる人間は、謙虚な上に謙虚であれ、
と求められているのである。
真実を知ることの出来ない人が、人を裁く危うさから、少しでも
その過ちを減らそうとする人の叡智が考え出した法以前の裁判の鉄則、
「疑わしきは罰せず」にせよ、「適正手続」にせよ、その不滅のはず
の鉄則を、一番先に忘れ去り、訴訟の迅速を急くあまり、手続の
簡略化、過度の書面審理化による粗略な裁判が今の法廷で
大手を振ってまかり通ってはいないだろうか。

四諦八正道を解いた釈迦の悟りの知慧も、とどのつまり、
涅槃妙心、実相無相、微妙の法門の奥義ばかりは、
言葉を超えた「拈華微笑(ねんげみしょう)」でしか伝えられ
なかったではないか。
達磨は「若識心寂滅、無一道念処、是名正覚」と
説かなかったか。
慧能の説いた頓悟の曹渓禅も、「教外別伝、不立文字、
直指人心、見性成仏」ではなかったか。
道元は「心意識の運転をやめ、念想感の測量(じきりょう)を
止めよ」と説かなかったか。
金剛般若経の説く「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうご
しん)」も、明恵の説く「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」も、
鈴木大拙が説く「超我の我」も、
その言わんとするところは一つである。
念仏往生を説いた法然も、欠伸(あくび)混じりに南無阿弥陀仏さえ
称えれば極楽往生が叶うなどと何処にも説いてはいない。
「ただ一向に」念仏を申せば救われる、つまり、
「すべてをなげうって弥陀の本願にすがれ」、
そうすれば人は救われると説いているのである。
どの経典も、どの先哲も、我を棄て去り、人の言葉や計らいを超えた、
その先にこそ、真の安らぎも、究極の救いも、用意されているのだと説く
ことに違いはないのである。

なのに、巷ではもとより、政治の場でも、マスコミ報道の中でさえ、
言葉の奥の真実を求めようとせず、いたずらに人の言葉の片言隻句を
取って廻っての有害無益な議論に花を咲かせていないだろうか。

人の成長は自我の確立の課程である。自我の確立は、
人が生きる上で必要不可欠な人の生の営みでもある。
しかし、人は己の中で自我が確立すると、その心はさらなる自我の
高みへの成長を止め、貪、瞋、痴の迷いの知恵ばかり求めて頭を
肥え太らせ、超我の高みを知ろうとしない。

妻が庭に植えたツワブキは、
今年も黄色い花をつけ、

     

妻が最も愛したムラサキシキブも、
実の紫を日ごとに濃く染めてきている。

      

主を失つても、花々は、
季節のおとないとともに、おのずと開花し実を結ぶ。
花の生命は自然の中にしっかりと溶けこみ、その恵みを花や実と
なって結び、季節を過ぎれば、花は散り実は落ちて、受けた恵みを
自然に戻し、次の季節まで眠りに就く。
そこは人の言葉や計らいを超えた自然の悠久で豊かな営みの
世界である。

人は人の死によって無常を悟り、その迅速さを悲しむ。
しかし、死が無常だと感ずるのも、それをはかないと感じるのも、
自然の悠久さ、その豊かさを知るからである。
なのに、貪、瞋、痴の迷いの知恵に肥え太った人の自我は、
その自然まで我がものであるかの如く思いなし、それに魔の手を加え
ようとしていないだろうか。

三回忌を迎えた今、妻は、先に旅だった長男と共に、その自然の
豊かさの中へ帰って、そこで安らかな眠りについているのである。


2012年、新年雑感

2012年01月02日 | 如是日、如是時、如是想


70回目の正月を迎えた。
真珠湾攻撃の年に生まれ、はいはいの時期から食い盛りまでを飢えの中で過ごした私らの世代は、朝鮮戦争を境に、走れ走れの高度成長の流れの中で人生の大半を生きてきた。
バブルの崩壊とその後の「失われた10年」と呼ばれた時代を過ぎる頃、我々はもう社会の一線から引退する時期を迎えていた。
それからさらに10年が過ぎた今、日本という國は約1000兆円という気の遠くなる債務をかかえて出口の見えない長いトンネルの下り坂にある。
日本は敗戦に伴う荒廃のどん底から立ち直り、復興へと歩むその道筋を、その出発点で誤ってしまった、という趣旨のことを、私は「泥洹の炎」という作品の中で、主人公の矢吹幸典の口を借りて語った(忍山諦ホームページhttp://www9.plala.or.jp/ka1610zu/参照)。その思いをいま益々深くしている。
昨年の3月、日本は東日本大震災という未曾有の天災に見舞われ、多くの人命が犠牲になり、土地を、仕事を失って故郷を追われた人は数も知れない。未だに行方の知れない命が万を超える。唯でさえ悲惨な自然災禍に追い打ちをかけるようにして起きた原発事故。世界で原爆の被害の洗礼を受けた唯一の國である日本が、原子力という魔物の鵺を、いとも簡単に手玉に取れるかのように過信して思い上がり、それを顧みようとしない深慮の足りなさ、それは戦後の日本が精神文明を知らず物質文明に偏りすぎるアメリカという國に盲目的に追随することで早急な復興を果たそうとして、本来なら百年先を見越しての独自の歩みを辿るべきであった再建の道筋を決定的に誤った方向へと導いた戦後の指導者や文化人と称される多くの人達の叡智の乏しさとぴったりと重なっている。
戦後の日本が手本と仰いだそのアメリカは、今、デリバティブなどと称される金融派生取引、為替投機、その他諸々の「金融賭博」に酔い痴れ、それを金融工学とか金融テクノロジー等と自賛し、世界をその狂った金儲けの賭博に巻き込み、もろともに國を滅ぼそうとしている。
日本は今も尚その競争原理一辺倒の愚かな國の背中を見つめてこれからもその後ろを追って走ろうとしている。未曾有の天災も、原発事故という完全な人災も、しばし立ち止まって、自らの辿ってきた誤った歩みを考え直すべき天与の機会であるのに、日本の指導者達には本当にその覚悟があるのかどうか、はなはだ心許ない限りである。
そんな事を考えながら大晦日の夜、今年の初詣は京都にしよう。
新しい年の夜明けを糺の森で迎えたい。その思いを抱き温かい年越蕎麦が呉れた元気をリュックに詰め京都行きの電車に乗った。
昨年の大晦日は寒冷前線の通過に伴う大荒れの天候の中を奈良の街を歩きながら除夜の鐘を聞きいて年明けを迎えたが、今年はうって変わっての好天で、糾の森の神域は穏やさに包まれ安らかな眠りの中にあった。その眠りをかき乱すように、まだ年明けまで20分もあるというのに下鴨神社の参道は開門を待つ初詣客の長い人列が出来ていた。人の列の中で並ぶことの嫌いな私も仕方なくその中の一人となって時を待った。
すぐ前は一組の若いカップル。聞きたくなくてもその会話が耳に入る。
 「えろかかるなぁ、はよ開かんかなぁ、寒いわ…」
 「かまへんや、俺並ぶの大好きやでぇ…」
 「なんでやぁ…」
  「そやかて、並んでる時は何にもせんとええやろ…、じっと並んどったらそれでええやん…」
  「それ言えてるなぁ…」
そんな会話が延々と続く。
それを耳にしながら、我々の生きた時代はもうはるか遠くになってしまった…。そんな思いを強くした。
四六時中、常に何かに追われ追われ、「時は金なり」の哲学で生かされてきた世代、それが我々なのだ。
目の前で語らう二人に「金をもたらす時」などきっと無いのに違いない。
何一つとして明日の保障のない不安定な時代を、やっと見つけた職場で、モルモットのようにこき使われ、用済みになればさっさと使い捨てられる。
我々の世代は並ばされると決まってイライラする。こんな事をしておれない。時間の無駄だ、そう思ってしまう。
若い二人にとってその無駄な時間こそが確実な実りを約束してくれる安らぎの時間なのだ…。
人列に並らぶこと、それはイライラの場ではなく、並んで待ってさえいればいつかは確実にゴールに達することが出来るのだ…。

 午前0時きっかりに楼門が開かれ列は進み始めた。拝殿がすぐ目の前に迫ったその時、
 「あっ忘れてたっ!」
 若い男が慌ててポケットをまさぐる。
  「なんやねん?」
 と、のぞき込む女。
 「金払わんとあかんゃ…」
と男。
 「手に握っとかんかいな、長いこと並んでて…」
と女。

金を払う。言うまでもなくそれは賽銭のことである。
私はその言葉にあらためて思い知らされた。
今は賽銭を「払う」時代なのだ!。
「払う」という行為はいうまでもなく双務契約上の債務を履行する行為である。受け取る神はその対価となるべき反対給付を履行するべき責務を負う。
今の若者はそんなギリギリの時代を生きているのだ。
我々の世代にとって賽銭は無償の浄財、出捐そのものが心の安らぎだった…、
今の若者にそんな心のゆとりなどあろうはずもない。
そんなことを考えながら糾の森を歩きながら、ふと思う。
しかし、そんな若い二人が何故この寒空の中をわざわざ初詣?。
やはり若い彼らも、我々も、生きる思いそのものにはあまり変りがないのも…、
そうこう考えながら参道を戻りかけた。
その時、糺の森の上空にかすかなエンジン音が響き、何やら物の気配を感じた。
見上げると、どでかいライスボールのような形の蛍光灯のように明るい巨大な物体がスーッと流れていく。
傍を歩いていた女の子がそれを見上げ、
 「あっ、スヌーピー」
と叫んだ。
それがそのライスボールの化け物の名前なのか、それとも女の子の直感が言わせた言葉なのは知らない。
よく見ると巨大なライスボールの横腹にデカデカと企業名が記されている。
空からの広告のため企業が飛ばす飛行船なのである。
やはり時代はすっかり変わった…、そう実感しながら鴨川べりを歩いた。
いつもは人で賑わう鴨川べりに人気が全くない。
真夏なら、こんな時刻でもそこは無数のアベックが所狭しと等間隔に場所を取り、足を投げだして憩っているはずのアベック天国なのである。
それを見て、私は何故かストンと胸に落ちるものがあった。
どれだけ時代が変わろうと、
「恋の語らいはやはり真冬の川べりではしないものなのだ…」
そんな妙なことに得心しながら私は帰途に就いた。
それが2012年元旦の初思いである。


妻よ安らかに眠れ

2010年11月21日 | 如是日、如是時、如是想

 今年の5月に抗精神病薬の副作用で発症した麻痺性イレウスの治療のため、それまで入院していた貝塚市内の病院から大阪市内の病院の内科へと転院し、入院治療を続けていた妻は、8月に入ってから、ようやく流動食が許さるまでになり、このまま快方へと向かうかと思われた。
 私もほっとし、妻もとても喜んでいた。少しずつではあるが妻は元気を取り戻し、私の顔を見ると「今日は何と何を食べさせてもらった」などと嬉しそうに語っていた。
 ところが、その喜びも束の間で、前回の投稿でも書いたように、8月末に又も嘔吐して40度の高熱を発し、再び絶食治療へと戻ってしまった。
 それからの妻は、坂道を転げ落ちるようにして悪化への道をたどっていった。点滴によってかろうじて生命を保ちながら、抗生剤による高熱との闘いの中で、日に日に体力を失っていった。
 入院の初期に起こした肺炎が完全に治り切らないまま、肺炎桿菌が血液に混じって全身に巡り、全身が肺炎菌に冒される全身性炎症反応症候群、つまり敗血症に陥ってしまったのである。
 気管支から吸引される痰には血液が混じり、11月を迎えた頃には尿にも血液が混じってきたのか、それまで薄い黄色を呈していた尿が目だって赤茶色く濁ってきた。鼻腔や口の粘膜からも出血が始まった。長期の絶食による体力の消耗と、白血球の減少による免疫力の低下が症状の悪化へ拍車をかけた。
 何度か輸血が試みられたが、効果はなかった。
 10月頃までは意識もしっかりしていて、話しかけには確かな声で応答もし、私が帰る際には「気をつけて」と私への気遣も示してくれていた。
 ところが、その後は日を追って弱っていき、話しかけても頷いたり、かすれた小声で短い応答をするだけで、すぐに目を閉じて眠りに吸い込まれてしまうようになり、遂にはほとんど話しかけにも応答できない状態に陥ってしまった。
 医師から、気の毒だが患者はいつ息を引き取ってもおかしくない状態まで悪化してきているので、家族としても心の準備だけはしておいて欲しいと告げられ、私も覚悟を決めざるをえなかった。
 そうした中で妻は、16日の午前10時20分、朽ちるようにして息を引き取っていった。直接の死因は敗血症と、それに伴う吐血である。

 今の病院に転院して約6ヶ月間というもの、抗精神病薬の投与は完全に中止されていた。それなのに、精神病院で多量の抗精神病薬の投与を受けていた時よりも精神状態はかえって安定していたのは、私にとっては何とも皮肉に思えてならない。
 この20年この方、妻は薬との闘いの日々であった。
 もっと端的に言えば、病院で投与される抗精神病薬との過酷なまでの闘いの日々とあった。
 妻の病気については以前の投稿で触れたことがあるが、重複を厭わず簡単に述べれば、何らか心的、外因的な要因で、急激に不眠、抑鬱状態へ陥り、妄想などが生じてきて精神症状が一挙に悪化し自宅治療が不可能となる。しかし、そうした急性期症状が一定期間続くと、ある時期から症状が急激に回復へと向かい、急性期に示していた諸症状が痕跡を残さずに消失して、すっかりと元に戻るという、症例として比較的に少ない特殊な周期性の精神病である。
  ところが、ここ数年間の妻は回復期が段々と短くなる一方で、なし崩し的に悪い状態が続き、短い回復期にも以前のようにすっきりとした状態が失われてきていた。それに伴い病院で投与される薬の量も徐々に増えていった。
 ところが薬が増えるにつれて急性期の症状が、かえって長引き、ようやくにして退院を許されても、その短い退院期間中も薬の副作用(パーキンソン症候群や遅発性のジスキネジアなどの錐体外路症状など)に苦しみつづけるといった悪循環に陥っていた。
 患者である妻の薬との過酷なまでの闘いは、精神科の臨床治療の現状が、精神病薬に安易に依存し、患者が示す症状を早期に抑え込むことに急なあまり、ともすれば過剰投与、或いは危険を顧みない多剤併用投与に傾きがちな現在の治療のあり方に原因しており、その根底には、未解明なところの多い精神病の根本的な原因の究明や、根本治療に向けての臨床現場からの地道な努力を放棄し、次々と開発される新薬に頼っての対症療法に終始する治療現場の体質にかかわる根深い問題が絡んでいるように思われてならない。
 これは妻だけで終わる問題ではない。妻と同じように現在の精神医療の現実の中で苦しむ患者がいまも数知れずいるのである。
 ドーパーミン仮説に基づいて昭和30年代から次々と開発されてきた抗精神病薬の、薬効をはるかに上回る数々の重篤な副作用の問題や、悪性症候群や麻痺性イレウスといった精神薬がもたらす重篤な副作用が生ずれば、自らその治療に努力せず、これを安易に他の内科病院へ丸投げしてしまう現在の精神病院のあり方にも大いに問題があると思われる。自らが投与した薬がもたらした副作用であるなら、その治療は、投与した精神薬に最も詳しい筈のその医師自らがこれにあたる。それが世間の常識というものではないか。

 過剰なまでに情報化した社会の中で、心を病む患者の数は日を追って増えつつあり、その実数は統計に表れる数を遙かに上回る筈である。しかも、これらの患者が示す病相は、従来の精神科の教科書に説かれている典型的症例とは異なるものが少なくなく、典型的症例へ向けての治療方法に頼っていては、中々その成果が得られなくなりつつある。
 妻が精神科の治療を受けてきたこの約20年の間に、幾つかの病院で何名かの医師にお世話になってきた。しかし、そのどの病院にも、上記のとおりの精神薬に対す安易な依存や多剤投与の問題の他にも、現在の精神科の臨床現場がかかえる幾つかの憂うべき問題が共通してあったように思える。
 そうした問題が、結局は、妻の病態をより複雑化させ、本来周期性で自然の寛解による回復期が必ず訪れるはずの病気を、なし崩し的に悪い状態に慢性化させ、悪性症候群や麻痺性イレウスなどの薬による重篤な副作用を必要以上に誘発し、これが結果的には患者としての妻の死期を早めたと思われる節がある、と私には思われてならないのである。
 患者の家族としてこうした問題をずっと見守ってきた者として、一度じっくりとそれを論じてみたいと考えている。
  だが、今はその機会ではない。
 両親とも長寿の家系であるにもかかわらず、満62歳を一期として旅立っていった妻の死が私には哀れに思えてならない。しかし、どう嘆いてみても旅立っていった妻が戻ってくることはない。
 約半年の間、妻の病気に真摯に取り組み、心を砕いて治療に当たって下さった内科医師には心から感謝を申し上げたい。
 今はただ亡き妻の冥福を祈るのみである。
 考え方によっては、病魔に苦しむ患者にとって、死はその苦しみから解き放たれる時でもある。
 妻よ、これからはどうか安らかに眠って欲しい。

 倶会一処、合掌。