落語「恋の山手線」
冒頭の写真は・・四代目・柳亭痴楽(りゅうていちらく)
先代の柳亭痴楽師の「恋の山手線」について述べてみたい。
往時を知る人にとっては非常に懐かしいだろう。記憶を辿って書き始めたが、落語の舞台を歩く という非常にまとまった資料があるので、これにしたがった。
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四代目柳亭痴楽の噺、「恋の山手線(こい の やまのてせん)」によると。痴楽師の落語スタイルは、三遊亭歌笑(かしょう)に酷似している。それもそのはずだ。歌笑の穴を埋める形で、あのスタイルが出来上がったという研究家もいるくらいだ。
われ垂乳根(たらちね)の胎内(たいない)を出でし頃は、眉目秀麗な男の子なりしかど……三代目 三遊亭歌笑
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四代目・先代柳亭痴楽(りゅうていちらく)
痴楽は1921年、現在の富山市の呉羽で生まれ、幼少時に上京。義太夫から落語に転身し、45年、第2次大戦後で第1号の真打ちになった。落語のまくらに使った「つづり方」では、「柳亭痴楽はいい男 鶴田浩二や錦之助 あれよりグーンといい男」「上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近ごろ外回り」といった節回しが受け、「爆笑王」と呼ばれた。後に人間国宝となった柳家小さんらと、若手の花形とされた。
72年に落語芸術協会の初代理事長になったが、73年、大阪・角座で出演中に脳卒中で倒れ、闘病生活に。93年、東京・新宿で一時高座に復帰したが、当時の勢いは無かった。同年12月、72歳で亡くなった。
人気絶頂期に倒れ、約20年間、闘病を続けたため、痴楽は、忘れられた存在となり、活動を伝える高座の映像や音声、資料もごく限られているという。
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江東区の特別養護老人ホーム(?)で最後を送られたと仄聞(そくぶん)するが、詳しくは知らない。
(補足) 落語「恋の山手線」 四代目・柳亭痴楽
上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、
彼女は奇麗なうぐいす芸者(鶯谷)、にっぽり(日暮里)笑ったあのえくぼ、
田畑(田端)を売っても命懸け、思うはあの娘(コ)の事ばかり。
我が胸の内、こまごめ(駒込)と、愛のすがも(巣鴨)へ伝えたい。
おおつか(大塚)なビックリ、度胸を定め、彼女に会いに行けぶくろ(池袋)、
行けば男がめじろ(目白)押し。
そんな女は駄目だよと、たかたの婆(高田馬場)や新大久保のおじさん達の意見でも、
しんじゅく(新宿)聞いてはいられません。
夜よぎ(代々木)なったら家を出て、腹じゅく(原宿)減ったと、渋や(渋谷)顔。
彼女に会えればエビス(恵比寿)顔。
親父が生きてて目黒い内(目黒)は私もいくらか豪胆だ(五反田)、
おお先(大崎)真っ暗恋の鳥。
彼女に贈るプレゼント、どんなしながわ(品川)良いのやら、
魂ちぃも(田町)宙に踊るよな、色よい返事をはま待つちょう(浜松町)、
そんな事ばかりが心ばし(新橋)で、誰に悩みを言うらくちょう(有楽町)、
思った私が素っ頓狂(東京)。
何だかんだ(神田)の行き違い、彼女はとうに飽きはばら(秋葉原)、
ホントにおかち(御徒町)な事ばかり。
やまて(山手線)は消えゆく恋でした。
柳亭痴楽「痴楽綴方狂室」 より山手線に西日暮里が開業すると、これも加えていた。「にっぽり(日暮里)笑ったあのえくぼ」の後に「西日暮里と濡れてみたいが人の常」と入れていた。ただ、これを入れてから2年経たずに倒れたので聞いている人は少ないと思います。私も聞いた事がありません。