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落語『今戸焼』の可楽

2006-08-06 11:47:49 | 落語・その他芸能一般

 

落語『今戸焼』の可楽  
写真㊤:八代目・三笑亭 可楽 『睨み返し』  

 久し振りで、八代目・三笑亭 可楽の『今戸焼』(ビデオ・テープ モノクロ)を観る機会があった。 (落語『今戸焼き』については、文末の【参考】1 、八代目 可楽については【参考】2をご参照ください。保田武宏氏の解説を載せた。)

 観れば観るほど、可楽の“省略の見事さ”に驚かざるを得ない。息が洩れるような喋り方は、噺家としては致命的な欠陥であるはずだ。それを感じさせないのは、やはり可楽の力量だろう。

  『今戸焼』は、可楽の得意芸というよりも、普段、寄席で演る‘いつもの’芸に過ぎない。高座に上がるとき、「今日の客は、『今戸焼』の客だ」ナンテ腹の中で思っていたのかも知れない。
 それだけに演り慣れており、‘こなれて’いる。

 本稿を、可楽の『今戸焼』としないで、『今戸焼』の可楽とした所以である

 女房が帰ってきたときの亭主の目つき…ここは可楽も絶対に手を抜かない。見せ場だ。噺自体が、喋りも振りも徹底的に無駄が削ぎ落とされている。だから逆にこの亭主の目つきが、俄然、引き立って来る。おもしれえ~!

 このときに森繁の「社長物映画」も観た。三木のり平の宴会芸が絶品だった。実に馬鹿馬鹿しい。あんなことの出来る芸人は、もういないだろう。

       

  後列左端が三木のり平  可楽とのり平、二人に共通点はない。だが、馬鹿馬鹿しさと、どことなくオドオドしながら哀しそうに演る姿が、重なってきてしょうがない。も~、たまらねえ~!

                                     

06.08.06

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【参考】1
落語『今戸焼』 《いまどやき》…
 往時の今戸附近   現在の今戸附近地図   

◆あらすじ↓  
 仕事から帰ってきた職人の亭主は、女房が芝居見物に行って未だ帰宅していないので、不機嫌。一人で七輪を使って火をおこし始める。
 近頃、芝居見物にうつつを抜かす女房のグチを、ブツブツ言い続ける。
  そこへ帰ってきた女房は、亭主の不機嫌にもかかわらず、役者の男前を褒めあげ、さらに近所の男の誰それは役者の誰それに似ているなどといい気なもの。

  やっと、不機嫌な亭主に気づいた女房は「イヤダヨ~この人は。お前さんも福助に似ているよ」喜んだ亭主が「役者の福助かい?」と聞くと、女房「なあに、今戸焼きの…」。  これが「下げ(オチ)」。                                 

 

 ◆解説:保田武宏↓

 落語の中には、たわいのない噺でも特定の演者に限って面白く聴けるものがある。この「今戸焼」もその一つで、筋はつまらないのだが、可楽がやると実に面白かった。可楽のぶつぶつつぶやくような口調が、亭主のぐちにぴったりで、女房の声も長屋の雰囲気をよく出しているからである。

  それに女房が帰って来た時の、亭主の不機嫌な表情が実によかった。その表情が録音では見られないのは残念だ。

  可楽以後、この噺を高座にかける者がいなくなった。かけてもきっと受けないだろう。それは前記のような理由のほか、今戸焼や福助が分かりにくくなったからでもある。

 ◆語句豆辞典  

・今戸焼:浅草の今戸で作られた焼き物。火鉢、人形などがあった。      

                     前列右端が「福助人形」 ↓
 
                  

・七輪:煮炊きに使うコンロ。炭を使う。

・福助:役者の福助は、歌舞伎の中村福助。明治時代の福助は、大変な人気で、後に五代目中村右太衛門になった。今戸焼の福助は人形で、足袋屋の看板にも使われた。

【参考】2 八代目 三笑亭可楽のプロフィールと芸
                             
解説:保田武宏
 
 独特の渋い語り口で、通人のファンを掴んでいた可楽は、本名麹地元吉、明治三十一年一月三日、東京で生まれた。

 天狗連と呼ばれるセミ・プロの生活を送った後、大正四年に初代三遊亭圓右の門に入り右喜松と名乗る。

 七年三橘と改名、まもなく七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下に移ってさん生から翁家馬之助で真打ちになった。さらに六代目春風亭柳枝門下となってさん枝、十三年に春風亭柳楽と改名した。

 柳枝の死後五代目柳亭左楽門下に転じ昭和十五年六代目春風亭小柳枝、二十一年八代目三笑亭可楽を襲名して、ようやく落ち着いた。
 志ん生同様不遇時代が長く、名前と師匠を度々変えている。渋い芸風で、パッと派手なところがなかったからであろう。しかし可楽を襲名してからは、落語通の中にファンが多くなり、特にジャズメンの間では高く評価されていた。昭和三十九年八月に二十三日、六十六歳で亡くなった。

 昭和三十年代になって、ラジオの落語ブームがやってくると、可楽も数多くラジオに出演した。そのため持ちネタを増やさなくてはならなくなり、廓噺なども手掛けるようになった。
  どの噺も、ぼそぼそとつぶやくように無表情で語るのだが、それに何ともいえない良さがあるというファンが多い。亡くなってからも、レコードやテープが愛好されている。
   


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