きょうは「花の国プール」に行ったが子供さん連れの親子が多かった。
← クリックをして頂ければ幸いです。
ロビーには早くも七夕さんの竹が飾ってあり、多くの短冊がぶら下がっていた。
何気なく短冊を見ると「震災の人が早く元気に成られますように」と書いてあった。
いつもなら「ピアノが上手くなりますように・・・」とか「水泳の選手に慣れますように・・」とかが多いのだが・・・・。
珍しくデジカメを忘れていた。携帯も忘れていた。
忘れる時はみんな忘れるようだ。次回に写真を撮ってこよう・・・。
9時半にプールに入る受けつけが始まったが少し時間を置いて入る。
ロビーに人が居なくなりチケットを渡し中に入り驚いた。
靴入れが、ほぼ満タンだった。
辛うじて下の方に一箇所空いていて其処に靴を入れることが出来た。
このような事はここに来はじめて初めてのことである。
こりゃ~大変だと更衣室に入ると未だ多くの方が着替えの最中であった。
椅子に座り皆さんが着替えてプールに入られるのを待った。
暫く待ちやっと水泳パンツに着替える。
プールに入ると「歩くコース」も「泳ぐコース」もそして「子供のプール」もどこもかしこも一杯だ。
一先ずは歩くコースに入り歩き始めるが前後が度々閊(ツカ)える。
追い越し禁止ではないが歩きにくいこと甚だしい。
まァ ここは流れに任せて動く?
泳ぐコースも満タンで泳ぎの早い方がドンドンと遅い方を追い抜いて泳いで居られる。
このプールに来て、もうかれこれ20年は経っていると思うがこんなに混んでいるのを見たのは初めてである。
泳ぐコースのスタートに立ったが次々にターンされる方が多く飛び出す切掛けがない。
諦めて再び歩きだした。
10時半を過ぎた頃から少しお客さんも減り始めたので泳ぐコースに入り25m泳いだが、それでも途中で二人も抜き去った。
吾輩は未だ泳ぎが未熟で遅く泳げない。
大体 泳ぐ速度は決まっていて、それを外すと調子が狂う。
調子が狂えばどうなるか?と言えば溺れるのだ。
例え溺れても立てば芍薬ならぬ棒立ちであるが少し水を飲む程度で完全なる水没はない。
インターバルを取り25mを4~5回 泳いだかな?
11時半頃にプールを上がったが兎に角 混んでいた。
出かけに靴入れを見ると、なんと靴箱の外に沢山 靴が並んでいた。
小さな子供さんに泳ぎを教えて居られるお父さんらしき方も多かった。
でもあんなに混んでいてはな~教えるのも大変だ~。
家に帰る途中で久しぶりに「タコ焼き」と「たい焼き」を買って帰る。
多分 カミさんは具合が悪いかもしれないのだ。
買って来た「タコ焼き」を魚にして「なんとか?ビール」を飲んでお昼の食事のかわりにした。
午後はお昼寝と目が覚めてからは何時もの文庫本を読み始める。
時間が経つのは早い。
カミさんの「ご飯だよ」と言う大きな声でテーブルの上を片付ける。
一日がすぎるのはアット言う間である。
きょうも通り過ぎて行く。
////////////////////////////////////////////////
反射鏡:後藤新平の震災復興と「参院の優越」問題=論説委員長・冠木雅夫 (毎日新聞)
少し長いですが・・・・。 以下全文 ↓
http://mainichi.jp/select/opinion/hansya/news/20110626ddm004070035000c.html
今回の大震災が起きてから、関東大震災で矢継ぎ早に復興策を提起し陣頭指揮をとった後藤新平が話題になることが多かった。「復旧でなく復興」という考え方をはじめ後藤の存在は今でも大きい。だが、実際に復興の仕事をしたのは意外に短期間だった。1923年9月1日に震災が発生、その翌日に山本権兵衛内閣が発足し後藤が内相に就任。そして12月27日に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起き、責任をとって内閣が総辞職するまでの約4カ月間である。
一方、菅直人首相は震災の発生から3カ月半を迎えている。退陣時期をめぐる騒動はなお続いており、残された期間で何をするのかという疑問が示される中での続投だ。菅政権が震災後に費やした時間はまもなく後藤の活動期間に並ぶ。
それにしても菅政権の震災対応は遅れが目立つ。震災後100日を過ぎた先週になりようやく復興基本法が成立した。25日に政府の復興構想会議(五百旗頭真議長)が「復興への提言」を示したが、それを踏まえた具体的な計画はこれからである。本格的な補正予算の日程も見えてこない。
もちろん、90年近く前と現代を単純には比較できない。当時はロシア革命(1917年)直後で世界は震撼(しんかん)し、国内も物情騒然としていた時代。明治憲法下で内閣や国会の仕組みも今とは全く違うからだ。政党に立脚していない山本内閣は議会と激しく対立したものの、妥協により結論を出すのは速かった。
少し当時を振り返ってみる。関東大震災は政治空白を直撃した。加藤友三郎首相が病死し、次の首相に指名された山本による組閣作業が続いていた時だった。大物として入閣の目玉だった後藤とはポストなど条件で折り合わず行き詰まっていた。だが、震災の惨状を目の当たりにした後藤が「事ここにいたっては、もはや総(すべ)ての行き懸かりを抛擲(ほうてき)して、入閣するほかはない」と決意したことで大筋は決し、翌2日の内閣発足に至る。
親任式のあとは大車輪で復興策を練り4日に「帝都復興の議」を作成、6日の閣議に提出する。「遷都せず」「新都市計画による新都建設」「焦土全部買い上げ」などの原則を掲げて自ら復興院の総裁に就任した。
だが、衆院で6割の議席を持つ政友会は地主勢力を背景に猛反発。予算削減や縮小・変更を余儀なくされたが当初構想のかなりの部分が実現した。総辞職で下野した後も、後進が復興事業を継続した。
永代橋や駒形橋など隅田川の多くの橋、環状1号から8号線までの道路計画、都内や横浜の都市公園など、後藤の構想の形跡は今も随所に残る。以上は鶴見祐輔著「正伝 後藤新平」、御厨貴編「後藤新平大全」(いずれも藤原書店)による。
なぜ今回の大震災で政治の対応が遅れているのか。菅首相自身の問題は大きいが、それだけではない。要因をまとめると菅首相と内閣の能力不足、国家的な危機にもかかわらず党内抗争を続ける与党、同じく対決最優先の野党、と同心円上に問題が広がる。だがそれらを貫く中心軸に、個々の政治家の資質や能力を超えた根源的な制度問題を見いだすことができる。
大震災直前、3月6日付の小欄で今の日本の政治は憲法の想定する「衆院の優越」に反した「参院の優越」の状態だと指摘した。衆院と参院の多数派が違う「ねじれ」国会の場合、参院の多数派(つまり野党)が法案の成否を握り、ひいては政権の生殺与奪の権を持つという問題である。それが政治の機能不全をもたらし日本の危機を招いている。衆院で3分の2以上あれば再可決できるがハードルが高すぎる。憲法問題も絡んで厄介だが、何とかしなければという趣旨だった。
大震災から3カ月半。眼前に現れている政治の混迷は、まさに「参院の優越」がさらに効いている状態といえる。菅首相の退陣時期をめぐる騒動も、参院で法案を通すために野党が求める条件を整えるため、つまり「参院の優越」打開のためだ。
政治は可能性の技術であり、制度のハードルであれ乗り越えなければならない。政治家は総合力を駆使して対立を調整し物事を成す責任がある。だが最近は与野党ともに政治家の交渉力が低下しているようだ。となると、交渉や妥協が不得手でも最終的には物事を決定できる仕組みを作るしかないのだろうか。後藤新平のような並々ならぬ力量を持つ異才はそう現れるものではない。そろそろ衆参両院の制度見直しを議論する時だ。
毎日新聞 2011年6月26日 東京朝刊
/////////////////////////////////////////////
27日 追記 2件 ↓
6月27日 2011.6.27 03:22 (産経抄)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110627/chn11062703510001-n1.htm
開業日控え“ドタバタ劇” 模倣車両も「完全に国産」主張 日本に逆ギレ
2011.6.26 17:38 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110626/chn11062617390005-n1.htm
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
特許を取れば逆に日本が中国から特許侵害と訴えられるかも?
それに事故が心配だよ。若しも事故が発生すれば日本の責任と言い出すのは目に見えている。
そして親中派の日本の阿保議員(河野、野中???等)が動き出す。
中国に新幹線の売り込みにはJRは反対していたが顔のでっかい扇子大臣などが何故か売り込みに協力していた。当時からこのような展開になることは予想されていたのだが?
← クリックをして頂ければ幸いです。
ロビーには早くも七夕さんの竹が飾ってあり、多くの短冊がぶら下がっていた。
何気なく短冊を見ると「震災の人が早く元気に成られますように」と書いてあった。
いつもなら「ピアノが上手くなりますように・・・」とか「水泳の選手に慣れますように・・」とかが多いのだが・・・・。
珍しくデジカメを忘れていた。携帯も忘れていた。
忘れる時はみんな忘れるようだ。次回に写真を撮ってこよう・・・。
9時半にプールに入る受けつけが始まったが少し時間を置いて入る。
ロビーに人が居なくなりチケットを渡し中に入り驚いた。
靴入れが、ほぼ満タンだった。
辛うじて下の方に一箇所空いていて其処に靴を入れることが出来た。
このような事はここに来はじめて初めてのことである。
こりゃ~大変だと更衣室に入ると未だ多くの方が着替えの最中であった。
椅子に座り皆さんが着替えてプールに入られるのを待った。
暫く待ちやっと水泳パンツに着替える。
プールに入ると「歩くコース」も「泳ぐコース」もそして「子供のプール」もどこもかしこも一杯だ。
一先ずは歩くコースに入り歩き始めるが前後が度々閊(ツカ)える。
追い越し禁止ではないが歩きにくいこと甚だしい。
まァ ここは流れに任せて動く?
泳ぐコースも満タンで泳ぎの早い方がドンドンと遅い方を追い抜いて泳いで居られる。
このプールに来て、もうかれこれ20年は経っていると思うがこんなに混んでいるのを見たのは初めてである。
泳ぐコースのスタートに立ったが次々にターンされる方が多く飛び出す切掛けがない。
諦めて再び歩きだした。
10時半を過ぎた頃から少しお客さんも減り始めたので泳ぐコースに入り25m泳いだが、それでも途中で二人も抜き去った。
吾輩は未だ泳ぎが未熟で遅く泳げない。
大体 泳ぐ速度は決まっていて、それを外すと調子が狂う。
調子が狂えばどうなるか?と言えば溺れるのだ。
例え溺れても立てば芍薬ならぬ棒立ちであるが少し水を飲む程度で完全なる水没はない。
インターバルを取り25mを4~5回 泳いだかな?
11時半頃にプールを上がったが兎に角 混んでいた。
出かけに靴入れを見ると、なんと靴箱の外に沢山 靴が並んでいた。
小さな子供さんに泳ぎを教えて居られるお父さんらしき方も多かった。
でもあんなに混んでいてはな~教えるのも大変だ~。
家に帰る途中で久しぶりに「タコ焼き」と「たい焼き」を買って帰る。
多分 カミさんは具合が悪いかもしれないのだ。
買って来た「タコ焼き」を魚にして「なんとか?ビール」を飲んでお昼の食事のかわりにした。
午後はお昼寝と目が覚めてからは何時もの文庫本を読み始める。
時間が経つのは早い。
カミさんの「ご飯だよ」と言う大きな声でテーブルの上を片付ける。
一日がすぎるのはアット言う間である。
きょうも通り過ぎて行く。
////////////////////////////////////////////////
反射鏡:後藤新平の震災復興と「参院の優越」問題=論説委員長・冠木雅夫 (毎日新聞)
少し長いですが・・・・。 以下全文 ↓
http://mainichi.jp/select/opinion/hansya/news/20110626ddm004070035000c.html
今回の大震災が起きてから、関東大震災で矢継ぎ早に復興策を提起し陣頭指揮をとった後藤新平が話題になることが多かった。「復旧でなく復興」という考え方をはじめ後藤の存在は今でも大きい。だが、実際に復興の仕事をしたのは意外に短期間だった。1923年9月1日に震災が発生、その翌日に山本権兵衛内閣が発足し後藤が内相に就任。そして12月27日に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起き、責任をとって内閣が総辞職するまでの約4カ月間である。
一方、菅直人首相は震災の発生から3カ月半を迎えている。退陣時期をめぐる騒動はなお続いており、残された期間で何をするのかという疑問が示される中での続投だ。菅政権が震災後に費やした時間はまもなく後藤の活動期間に並ぶ。
それにしても菅政権の震災対応は遅れが目立つ。震災後100日を過ぎた先週になりようやく復興基本法が成立した。25日に政府の復興構想会議(五百旗頭真議長)が「復興への提言」を示したが、それを踏まえた具体的な計画はこれからである。本格的な補正予算の日程も見えてこない。
もちろん、90年近く前と現代を単純には比較できない。当時はロシア革命(1917年)直後で世界は震撼(しんかん)し、国内も物情騒然としていた時代。明治憲法下で内閣や国会の仕組みも今とは全く違うからだ。政党に立脚していない山本内閣は議会と激しく対立したものの、妥協により結論を出すのは速かった。
少し当時を振り返ってみる。関東大震災は政治空白を直撃した。加藤友三郎首相が病死し、次の首相に指名された山本による組閣作業が続いていた時だった。大物として入閣の目玉だった後藤とはポストなど条件で折り合わず行き詰まっていた。だが、震災の惨状を目の当たりにした後藤が「事ここにいたっては、もはや総(すべ)ての行き懸かりを抛擲(ほうてき)して、入閣するほかはない」と決意したことで大筋は決し、翌2日の内閣発足に至る。
親任式のあとは大車輪で復興策を練り4日に「帝都復興の議」を作成、6日の閣議に提出する。「遷都せず」「新都市計画による新都建設」「焦土全部買い上げ」などの原則を掲げて自ら復興院の総裁に就任した。
だが、衆院で6割の議席を持つ政友会は地主勢力を背景に猛反発。予算削減や縮小・変更を余儀なくされたが当初構想のかなりの部分が実現した。総辞職で下野した後も、後進が復興事業を継続した。
永代橋や駒形橋など隅田川の多くの橋、環状1号から8号線までの道路計画、都内や横浜の都市公園など、後藤の構想の形跡は今も随所に残る。以上は鶴見祐輔著「正伝 後藤新平」、御厨貴編「後藤新平大全」(いずれも藤原書店)による。
なぜ今回の大震災で政治の対応が遅れているのか。菅首相自身の問題は大きいが、それだけではない。要因をまとめると菅首相と内閣の能力不足、国家的な危機にもかかわらず党内抗争を続ける与党、同じく対決最優先の野党、と同心円上に問題が広がる。だがそれらを貫く中心軸に、個々の政治家の資質や能力を超えた根源的な制度問題を見いだすことができる。
大震災直前、3月6日付の小欄で今の日本の政治は憲法の想定する「衆院の優越」に反した「参院の優越」の状態だと指摘した。衆院と参院の多数派が違う「ねじれ」国会の場合、参院の多数派(つまり野党)が法案の成否を握り、ひいては政権の生殺与奪の権を持つという問題である。それが政治の機能不全をもたらし日本の危機を招いている。衆院で3分の2以上あれば再可決できるがハードルが高すぎる。憲法問題も絡んで厄介だが、何とかしなければという趣旨だった。
大震災から3カ月半。眼前に現れている政治の混迷は、まさに「参院の優越」がさらに効いている状態といえる。菅首相の退陣時期をめぐる騒動も、参院で法案を通すために野党が求める条件を整えるため、つまり「参院の優越」打開のためだ。
政治は可能性の技術であり、制度のハードルであれ乗り越えなければならない。政治家は総合力を駆使して対立を調整し物事を成す責任がある。だが最近は与野党ともに政治家の交渉力が低下しているようだ。となると、交渉や妥協が不得手でも最終的には物事を決定できる仕組みを作るしかないのだろうか。後藤新平のような並々ならぬ力量を持つ異才はそう現れるものではない。そろそろ衆参両院の制度見直しを議論する時だ。
毎日新聞 2011年6月26日 東京朝刊
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27日 追記 2件 ↓
6月27日 2011.6.27 03:22 (産経抄)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110627/chn11062703510001-n1.htm
開業日控え“ドタバタ劇” 模倣車両も「完全に国産」主張 日本に逆ギレ
2011.6.26 17:38 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110626/chn11062617390005-n1.htm
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特許を取れば逆に日本が中国から特許侵害と訴えられるかも?
それに事故が心配だよ。若しも事故が発生すれば日本の責任と言い出すのは目に見えている。
そして親中派の日本の阿保議員(河野、野中???等)が動き出す。
中国に新幹線の売り込みにはJRは反対していたが顔のでっかい扇子大臣などが何故か売り込みに協力していた。当時からこのような展開になることは予想されていたのだが?
日本の滝巡り中四国編にお越し頂き有り難うございました。
今年は福島原発事故のせいか海での海水浴客が少ないそうですね。
そこでこの様にプールが混むのでしょうね。
今年の夏はプールが芋の子を洗うように混むことでしょ~!
:熱中症には気をつけましょ~!
!(^^)!今朝の日本の滝巡りは近畿地方の滝をアップしましたので涼みにお越し下さいね!
*それではまた水曜日に!・・・来訪コメントを、お待ちしていま~す! バイ・バ~ィ!!
ここは放射能には余り関係はないようです。何時も応援&コメント有難うございます。