松下啓一 自治・政策・まちづくり

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◇村雨橋事件

2020-12-05 | 5.同行二人
 神奈川新聞に村雨橋事件のことが出ていた。1972年の事件である。

 ベトナム戦争の末期、相模原にある相模総合補給廠は、戦争で破損した戦車を修理する場所だった。横浜ノースドックは、この修理された戦車をベトナムに送り出す埠頭だった(現在でも、両方とも米軍は占有している)。この戦車を運ぶトレーラーを神奈川区の村雨橋で止めたのが、村雨橋事件である。

 当時の横浜市長の飛鳥田さんははじめ、多くの人が村雨橋に集まった。

 実力による抗議活動であったが、興味深かったのは、車両制限令という道路法で定めた政令の適用により阻止した運動であった点である。橋については、一定重量・幅以上の車両の通行を禁じる車両制限令があったが、戦車が、その重量を超えるとして、通行を阻止したものである。

 今日の自治体法務、政策法務のはしりであるが、地方自治体が、法令を使って、運動を補完した点は、とても印象に残った。横浜市は、それ以前に、条例を使い、公害立法を作ってきたという蓄積が、こうしたアイディアを思いついたのだろう。私が、政策法務を研究、実践の対象とする原点と言えるのかもしれない。

 国は、その後、戦車は例外という車両制限令の改正を行うが、今ならば、さらに精緻な別の理論を提起できるのかもしれない。

 村雨橋には、もう一つ、思い出がある。

 その後、連れ合いと結婚することになり、就職することにした。当時は、会社は新卒しか採用しなかった。既卒でも門戸を開いているのは、自治体だった。地元ということで横浜市を受けることにした。当時の横浜市の試験は、法律学や経済学が中心で、これならば受かると思ったということもある。

 一次試験が受かり、面接試験になった。生まれたときから、横浜市に住んでいるので、横浜のことは多少知っていると思って、大した準備もせずに、面接を受けた。そこで、なぜ横浜市を受けるのかと聞かれた。

 私は、「福祉が優れているから」と私が抱いているイメージで答えた。すると面接官が、どこが優れているのかと突っ込んできた。全く準備もしていなかったので、私は、答えに窮した。そこで思わず、「飛鳥田さんが中心となって、村雨橋で戦車を止めたから」と答えてしまった。本音だった。

 焦ったのは、面接官であった。私も、何度も面接官をやったが、聞いてはいけないことのひとつが、思想信条や宗教である。これは、事前に厳しくクギを刺される。思想信条で落としたのだと言われては、市役所は負けである。慌てて話題を変えた面接官は、私に、なぜ横浜市を受けたのか、再び聞くことはなかった。

 時代が、大雑把だったのだと思うが、このとき、横浜市をしくじったら、その後、どんな人生だったのだろうか。就職試験に落ちるなどとは考えなかったので、連れ合いを裏切ることになったということだろう。横浜市に勤めたから、その後、大学に移る事になったが、人生が大きく違ったのだろう。

 村雨橋から、そんな昔を思い出した。
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