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現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化  三 権利と義務(自由の履き違え)

2012-01-27 12:24:59 | 日記・エッセイ・コラム

 三 権利と義務(自由の履き違え)
 米国によって与えられた憲法が国民の考えていた以上に民主的であったことが、長い日本の歴史の中でお上の言うことは従わなければならないという国民性によって、あっさりと受け入れられ、特に「自由」について喜んだようである。この与えられた「自由」が独断専行して今日の日本を造ってきたと言っても過言ではないだろう。仏蘭西においては革命を通じて得ることの出来た「自由」について大変な重みをもっている。「自由」とは権利の一つであり、義務を果たすこと(責任)によって裏付けされていなければならないという意識が徹底している。
自分にとつての自由(権利)が他人にとっての自由(権利)と相反するとき問題が生じてくる。日本における自由について、「国旗・国歌」の周辺を例に見ていきたい。
 一般に独立主権国家は、「国旗・国歌」を持つことは当然のことである。国旗が無いために国旗を付けず他国に侵入した場合、攻撃を受けても仕方ないことであり、オリンピックなどで国旗・国歌を間違えた場合、国際問題になりかねない。「国旗・国歌」を持たないことは、独立主権国家でないことを認めることである。昭和二十五年頃天野貞祐文相が「学校の祝日行事には、学校で国旗掲揚、君が代斉唱をすることが望ましい。」との談話を発表し、通達を出したことに対して、日教組は激しく反発し、新国歌制定運動を起こし「緑の山河」を作ったがほとんど普及することはなかった。この時、日教組が国歌代替案を考えたことは君が代を否定する権利主張のための義務を果たしていると言えよう。しかし、その後の日教組の主張は何が何でも「日の丸・君が代」反対のみであり、仮に「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」でなくなった場合のことを何も提言していない。日教組にとって日本は独立主権国家でなくてもいいのだろうかと思ってしまう。
 平成十一年に国旗国歌法が制定されてからも、上司である校長に対して職員組合が団結して自分たちに有利な条件を突き付けたり、教職員が斉唱時に起立しなかったり、妨害したりの行為は法制化以前よりかなり減ったものの未だに存在し、地方公務員法による職務命令違反や信用失墜行為禁止違反に問われる事例があった。犯人は判らないが、日の丸が焼かれる事例もでている。平成十五年には起立しての国歌斉唱率十割となっているが、その実体は、入場から斉唱終了まで全員を座らせない進行方法を採ったことと、日教組自体が自重しているためである。決して理想的な形での国歌斉唱が行われているとは考えられない。
 教育者は、学問を教えるだけではなく、生き方・考え方・人の有り様もその存在によって子どもたちに示していると思う。教育者が義務の裏付けのない権利の主張を繰り返していたらおそらく子どもたちもそれを見習うであろう。否、戦後五十数年間見習い続けた現実が今の日本社会を造り上げている。戦前は、家に鍵をかける習慣の無いことが多かったが、犯罪は少なく、地域の共同体内の結び付きは強く相互扶助を実践していた。親子が互いに養育・養護することも当たり前のことだった。しかし、現在は地域コミュニティーを造らなければならないと言っても造り運営することが難しく、親子の扶養関係も金銭で済ますケースが増えてきている。大人も子供も自分本位で我慢をすることが出来ず我が儘を通して争いになることもあり、裁判件数も増え、常識では考えられない犯罪も増加している。物質的には豊かになっており、人間の中身についても社会の流れに沿った形で変化しているのであるが、どう考えても良い方向に変化しているとは思えない。人と人とが信頼することが出来、いたわり合うことが出来、迷惑をかけないように我慢する気持ちを持つことが出来、またその気持ちを察して助けようと思う気持ちを持つことが出来る家庭・地域・社会を目差すべきだと思う。そのためには、家庭・地域・社会の現在の構成員が率先してそうした姿を実践し、次の世代の手本になっていくことが大切である。「子供は親の言うことを聞かず、する事をまねる。」である。家庭・地域・社会の建て直しを出来るだけ早く行わなければ将来に禍根を残すことになるのではないだろうか。

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