未来を拾いに

aikoのことしか頭にないひとのブログ

オバマ大統領広島訪問

2016-05-28 03:47:27 | 雑記

今日の夕方、現職の米国大統領のオバマさんが広島の平和記念公園を訪問しました。 

私はいつものように会社にいて、ネットでその模様を見ていました。これよりちょっと前から、「オバマ大統領が広島に来る」ということは決まっていたので、そのこと自体についての驚きはもうありませんでしたが、やっぱりその時間、いまこの時間に大統領があの場所にいるんだっていうのをネットのニュースで見て、献花の様子を写真でみて、そしてスピーチをみて、被爆者のひとを抱いて…という一連の報道をみて、なんだか震えてしまって、涙がでそうになりました。 

私は広島市で生まれ育ったので、物心付く前から、付いた頃から、いろんな体験をしています。それがあって、この日がどれだけ歴史的なことかをすごく実感しています。広島の多くのひとたちが待ち望んだ日でもあったとおもうし、そして、それにオバマ大統領が100点満点で応えてくれた日だったと思います。 

今の平成の世の中はどうなっているのかわかりませんが、昭和50年代当時の広島の子どもや小学生は、「平和教育」というのがあってね。原爆の悲惨な写真や映像や物語や絵をみさせられて、教えられてきました。 
これが怖くてね。つらくて。目を背けたくなるんですよ。やっぱり子どもだし。 
で、そこらへんの地面や、川の底を掘ったりしたら、遺骨とかが埋まってたりするのかなとか、思っていました。やっぱり子どもですからね。自分たちの街はそういう街で、そこに住んでいるんだって思ってた。 

小さい頃、「にんげんをかえせ」という記録映画を母に連れてってもらってみました。峠三吉っていうひとの有名な詩があるのです。Googleで検索したら出てくるので読んでくださいね。映画の中身は憶えてないけど、そのときの気持ちはよーく憶えています。目を瞑ってました。怖かった。 

毎年8月6日には8:15に平和記念式典の中継。夜はNHKスペシャルで原爆の番組がありました。必ず8/6というわけではなかったと記憶していますが、登校日がそのあたりにありました。平和記念式典では、必ず広島市内の小学生の代表、男の子と女の子が共同で、平和への宣言をしました。 

「はだしのゲン」って漫画はご存知だと思います。あれももちろん小学校の図書館にありました。同じように、原爆の恐ろしさを伝える写真集も小学校の図書館にありました。あれを見たくないのに、見せてくるやつがいてね。まぁ、私は人一倍そういう感受性が強かった子どもだったかもわかりませんが。 

うちの小学校から平和公園(広島平和記念公園)は普通に歩いていける距離なので、小学校から遠足でいきました。あの森で弁当を食べて、鐘を突いて。そして資料館にいきました。原爆資料館の入館料は当時は50円でした(今はいくらなのかな?。 

今にして思えば、ああいうものを、子どもや小学生に見せて叩き込む必要がほんとうにあったのかと思うこともあります。今と違ってまだ昭和の頃は、そういうものに対してストレートに映していた時代でした。遺体の写真とか、酷い怪我の写真とか、映像とか。 
原爆資料館の展示は、当時と今は違います。今のほうがなんというか、ソフトというか直接的ではありません。そういうのは今はなくて。 
焦げた弁当箱とか、瓦とか、作り物の人形とか、三輪車とか、衣服とか、そういうもので原爆の恐ろしさを伝えようとしています。 
それでも伝わるのかも知れませんが、やっぱり、あの頃自分が受けた衝撃とか、なんというか、「生き物としての本能のような恐怖」というのは、そういうものを伝えるには、弱くなってしまうのではないかと思ったりします。

当時はソ連とアメリカが冷戦でね。ある日ソ連の核ミサイルが飛んできて、あの日みたいになったらどうしようって、広島の空を見上げて思うことがよくありました。 

原爆ドームという建物があそこにいる意味、あれは広島にしかない建物なんだということ、なぜあの建物が壊さずにあそこにあるのかがわかったのは、小学校に入ってから。 

街のところどころにある茶色い銅版の碑。駅や平和公園や本通とかにあるやつ。そこに書かれている出来事は、ほんの35年くらい前(当時)にここであった出来事です。 

キョウチクトウが広島市の花なのはなんでなのか。あれ、毒があるんですってね。母に、「蜜をなめたらダメ!」ってよくいわれていたなぁ。 


そういういろんなことが、大人になってからも深く心と身体に刻まれているから、核兵器というのは絶対悪で、それは絶対に繰り返されてはいけないことだというのが、本能的なものとしてあるんです。 

なので、ネットとかで核兵器の問題とか、原爆の問題とかを議論する場の意見を見てると、いつもがっかりします。 
「意見が違う」というよりも、「感覚が違う」感じなんですよね。感覚が違えばどうしようもない、とあきらめに近い感情をおぼえながら眺めることが多いです。 

だから、広島の願いが世界共通の願いになるには、まだまだ道のりが遠いんだろうなと思います。なせなら、この「感覚」をまだまだ共有できていないと思うからです。 

オバマ大統領には、この「感覚」を少しでも共有してもらえたのかな? 


遠い記憶があります。1981年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が広島を訪れました。そのとき私は7歳ですね。小学校の低学年くらいか。そのひとがどういうひとで、どういう意味で広島に来たのかは当時はわかりませんでした。 
が、ヨハネ・パウロ2世が、当時の広島空港(観音の南のほうにあった)から、飛行機で広島を後にするところを、母に連れられて見に行った記憶です。飛行場は群集でね。子どもの私は背が小さいから、見えるようにしてもらって。 

遠くの飛行機に、タラップの上から、手を振る、白い服の外国人のお爺さんが小さく見えました。なんでだろうか、今でもその光景を鮮明に思い出すことができます。 

今日、たまたま母から「今日aikoがバズリズムに出るらしいよー」って親切にも教えてくれるメールがきていたので(当然もう知ってるのですが)、返事にこのことを書いたら、「きっと記憶に残るとの思いが結実した。今日のことも、おおきな一歩だと、とても感動してるよ!」と返信がきました。7歳の息子だけど、きっと大人になったらわかると思って連れてってくれたんでしょうね。感謝だよ憶えてるよー 


そういえば、あのとき、ヨハネ・パウロ2世はどういう言葉を残していったんだろう、とふと思ってネットで検索しました。 

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/etc/hiroshima.htm 


改めて読んで、ほんとうに心をうつものがありました。そうなんですよ。そういうことなんだとおもうのですよ。

そして、オバマ大統領のスピーチも、同じように心をうつものがあったと思いますよ。 

よく、「怒りの広島、祈りの長崎」っていいます。 
そうなのかな。昭和の時代はそうだったのかも知れませんが、今はどうなのでしょう。 

今回、日本政府も広島市長も「謝罪は求めない」っていってました。私は被爆者ではありませんし、身内に被爆者はいませんから、その感覚はすんなりはいります。 

まぁ、「すんなりはいる」のは、終戦直後や戦後の歴史の中で、米国が日本に果たしてくれた役割をみたら、というのも勿論おおきいとは思います。今の日本の平和があるのは米国のおかげだなぁというのがあるんですよね。自由、人権、平和憲法というのを、敗戦なくして日本が手に入れることができたかというと、きっとそんなことはありません。 

現実にはいろいろあるのかも知れません。 
が、さきほど書いたそういう「感覚」を世界中の人々が共有できれば、紛争はあっても、広島、長崎は二度と繰り返されないと思いたいです。 

現に、長崎を最後に核兵器が戦争で使われたことはありませんね。それはやっぱり、広島と長崎があって、そのときキノコ雲の下でどんなことがあったのか、そのことが世界中の人に「恐怖」として共有されたから、その怖さを、それは繰り返されてはならないんだということを、一生懸命広島と長崎が発信し続けたから、だと思います。

これが風化したり忘れられたりするときが怖いんです。 

だから、そのバトンを受け継ぐ自分たちが、原爆は絶対悪なんだというのを発信し続けないとダメなんだと思っています。 

私はあんまりやってないんですけどね。いろんな意見のひとがいるから。けど、それではいけないよなぁ。 



そんなことを今日おもいました。 

あんまりきれいにまとまってないけど、いいたいことは書けたと思います! 

では、また。 






------ オバマ大統領の広島スピーチ全文 ------- 
71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と火の玉がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。 

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか? 

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。 

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、10人ほどのアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。 

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、本質を見るように求めています。 

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たちの同類に対して使ったのです。 

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。 

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。 

第二次世界大戦は、広島と長崎で、とても残虐な終わりを迎えました。これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出してきました。そして偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生み出してきました。しかし、同じところから戦争も出てきました。征服をしたいという思いも出てきました。古いパターンが、新しい能力によってさらに増幅されました。そこには制約が働きませんでした。 

ほんの数年の間に6000万もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供達。私たちと全く変わらない人たちです。撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせられ、拘束され、またはガス室に送られて亡くなりました。 

世界中には、この戦争の歴史を刻む場所が沢山あります。慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、色々なことを示しています。空っぽな収容所などが、そういうことを物語っています。 

しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。私たちの考え、想像、言語、道具の製作、私たちが自然とは違うということを示す能力、そういったものが大きな破壊の力を生み出しました。 

いかにして物質的な進歩が、こういったことから目をくらませるのでしょうか。どれだけ容易く私たちの暴力を、より高邁な理由のために正当化してきたでしょうか。 

私たちの偉大な宗教は、愛や慈しみを説いています。しかし、それが決して人を殺す理由になってはいけません。国が台頭し、色々な犠牲が生まれます。様々な偉業が行われましたが、そういったことが人類を抑圧する理由に使われてきました。 

科学によって私たちはいろいろなコミュニケーションをとります。空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しようとします。そのような科学が、効率的な殺人の道具となってしまうこともあります。 

現代の社会は、私たちに真理を教えています。広島は私たちにこの真理を伝えています。技術の進歩が、人類の制度と一緒に発展しなければならないということを。科学的な革命によって色々な文明が生まれ、そして消えてゆきました。だからこそいま、私たちはここに立っているのです。 

私たちは今、この広島の真ん中に立ち、原爆が落とされた時に思いを馳せています。子供たちの苦しみを思い起こします。子供たちが目にしたこと、そして声なき叫び声に耳を傾けます。私たちは罪のない人々が、むごい戦争によって殺されたことを記憶します。これまでの戦争、そしてこれからの戦争の犠牲者に思いを馳せます。 

言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものではありません。しかし私たちには共有の責任があります。私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。そして、尋ねるのです。我々は、一体これから何を変えなければならないのか。そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたらいいのかを自問しなくてはなりません。 

いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでしょう。しかし「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決して消えるものではありません。その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなりません。私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでしょう。そして、私たちに変化を促すものとなります。 

あの運命の日以来、私たちは希望を与える選択をしてきました。 

アメリカ合衆国そして日本は、同盟を作っただけではなく友情も育んできました。欧州では連合(EU)ができました。国々は、商業や民主主義で結ばれています。 

国、または国民が解放を求めています。そして戦争を避けるための様々な制度や条約もできました。 

制約をかけ、交代させ、ひいては核兵器を廃絶へと導くためのものであります。それにもかかわらず、世界中で目にする国家間の攻撃的な行動、テロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、「私たちのやることに終わりはないのだ」ということを示しています。 

私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶することはできないかもしれません。私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければならないからです。しかし我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の論理」から逃れる勇気を持つべきです。 

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。 

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。 

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。 

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。 

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています 

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。 

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。 

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。 

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。 

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。 

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。 
---------------