昨日、
何かを考えたり学んだりしたい時には、
信頼し、尊敬できる人から学ぶのがいい。
というようなことを考えていました。
身構えなくていいから。
身構えて鎧を着たままの対話は、がちゃがちゃぶつかり合うし、
外から新鮮な風が入る余地がない。
勝敗がメインテーマになっちゃって、
中にいる人の事も知らないまま終わる。
どこを目指しているのかわからない。
勝敗と言えば、ディベートのおもしろさは、
自分とは違う意見にも沿ってみるところ。
でもアレはあんまり好きじゃない。
普通の対話で、相手の意見に沿ってみたら、
勝敗じゃなくて、「ホントウ」に迫れるはずなのに。
鎧を脱いで、
まぁ下着程度はマナーだから身に付けて(^^;)、
生身の人間同士が触れ合えば、
腕力だけじゃわからない事がいっぱいわかる。
自分の中を注意深く見ながら、
「私にはこう見えてるんだけど、そっちからどう見える?」
「じゃあ、これはどう考えたらいいかな?」ってのを、
一段ずつ、自分と相手両方から誠実に積み重ねる。
決して急がない。
誰かの答えは、誰かのものであって、
自分の力になるのは、
自分で出した答えだけだと知っているから。
だから、互いに相手に心を開きつつ、自分の中を点検する。
他人の考えに沿いながら、自分の考えを鍛えるのは、
鍛冶屋が熱い鉄を叩くのと少し似ている。
あんなに熱くやわらかそうな鉄を、
あんなに硬く冷たい鎚で叩いても、
鉄はちぎれるどころか、どんどん強くシャープになる。
いろんな考えで叩けば叩くほど、鉄は鍛えられる。
どんなに他の考えに触れたって、鉄が壊れるわけじゃない。
熱く叩かれるほど、切れ味鋭く鍛えてもらえる。
だけど、洗脳されたり傷ついたりする可能性もあるから、
自分を叩く時のかな床は、
やわらかい言葉や、都合のいい言葉じゃなくて、
厳しくとも芯の真っすぐなものを。
そういう意味でも、古典は安心。
どの時代でも、どの国でも
通用することが書いてあるから。
生きている間は、
周りの人やいろんな出来事が、
私という鉄をゆっくり鍛えてくれるんだろうな。
人から強く叩かれたら自信なくすから、
先にちょこちょこ自分で叩いちゃうか??
それなら耐えられる程度の強さに調整できるし、
鍛えてるっていう手ごたえも感じられるし。
勇気要るけど、思い切りなんだろうな。
ものの見方を深めていくことによって、少しずつホントウに迫っていきたいと思います。