『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

●『社会問題の核心』の前書きから

2011年10月19日 | シュタイナー

いきなり難しい本のタイトル。
「シュタイナーは、何かの人に専門的なことを聞かれても、
専門外のことについても、真剣に答え、当てにされていた」
と言うんだから、
あれこれの社会問題、特に、経済については、
どういうことを言っているのか、前から少し気になっていた。
どう考えても、経済って暴力的だけど、
私にとって、避けては通れないものだから。

マンガを買いに入った本屋で、
目的のマンガを持って、レジに行く途中、
ふらっと別の棚の前を通ったら、
この本が目に飛び込んできた。
おお、前から気になっていたけど、
「どうせ読めないから」と買わなかった本じゃないか!

そうかそうか。そんなに私に買って欲しいか。
というわけで、清水買い(思い切って飛び込んでみた)で
お買い上げ~。あ~、高かった(T_T)。
でも、マンガ4冊と同じくらいの値段だと思えば、
値打ちはあるよな~。
それに借りて読むほどサラッと読めないし。

さてさて、『社会問題の核心』。
読めない本でも前書きくらいは力技で読める。
そして、前書きを読むのは、何について書いてあるのか
手っとり早く理解できるから、結構好き。

その3ページ目に、サラッとこんなことが書いてある。

 人類社会は物質だけに関心を向けるのをやめ、
 「精神」に、「理想主義」に向き合わなければならない、
 という決まり文句を、
 さまざまな表現で繰り返しているだけの人々も、
 本書が述べる事柄に不満を持つであろう。

ひゃぁ~、決まり文句を繰り返しているだけの人々って、
私ですか!!
私ですね!!

自分では気づかないまま、
私が能書きや決まり文句ばっかり繰り返しているとして、
そこから脱出して、自分の言葉で世界と向かい合い、
かつ橋を架けるためには、どうしたらいいのか。
その答えが、次に書いてある。
少し空けて、シュタイナーはこう続ける。

 著者は、生活内容になった精神性だけを、
 精神性として認める。
 生活内容になった精神性は、
 実際的な人生の課題に応えることで、
 みずからの証をたてる。

これ、どういうことだろう?
今、田んぼの近くの喫茶店で読んでいるんだけど、
このグループは、コンバインでビョ~ンと行ったら1時間のところを、
準備から片づけまで、それこそ100倍くらいの時間をかけて、
市民の私たちに田圃オーナー体験を提供してくださっている。

主催者の方に「なんでこんな手間のかかることを
してくださるんですか?」と訪ねたら、
「菜の花米を知ってもらうためっていうのもあるけど、
実際に、みなさんに田圃の仕事をして欲しいから」
と答えてくださった。

彼のような人には「生活内容になった精神性」を感じる。
まさに、
 生活内容になった精神性は、
 実際的な人生の課題に応えることで、
 みずからの証をたてる。

だね。

田圃を農薬まみれにしたくない。
だから菜の花米を知ってもらいたい。
その課題に向き合い、踏み出すことで、
みずからの証を立て、自らが進むことで、
周りも一緒に、一歩進めてくださる。

これって、論語の何十歳かの
「思うように行動して則を越えず」
ってヤツか?? かもね。

ついでに、その続きには、
こんなふうに書かれている。

 その精神性は魂の要求を満足させる
 世界観、人生観と同じように、
 能動的でなければならない。
 精神性とは何かについて知ること、
 もしくは知っていると信じることが大切なのではなく、
 実際生活の現実を把握することのできる
 精神性でなければならない。

現実離れしちゃったら、精神性も何も意味なくなるんだね。
山ごもりして精神生活を極めてみても、自己満足なんだね。

ここじゃないどこかに答えを求めてもいいけど、
ここで、目の前の問題に、答えを求めること。
現実を把握し、理解することのできる精神性。
そして、その精神性に基づいて能動的に動くこと。

今、私の目の前の問題に向かって、一歩進むこと!

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