私たちは、心で感じたことは
「気のせいだ」とか言って、なかなか信じないけど、
実際にこの目で見たものは信じられる、
…と、無条件に「信じてる」。
見たものを「信じてる」とジャッジしてるのは、
私たちが「信じられない」と思ってる、
このあいまいな心なんだけどね。
どうなの、この構造的な矛盾(^_^)。
ふと思ったの。
「自分で見聞きしたものは信じられる」って言うなら
ものを見る「確かな目」を持ってる?
そんなの持ってない!
ずっとサングラスをかけてたら、
空の色も街の色も違って見える。
見え方は、思い込みや気分次第でどんどん変わる。
だからこそ、確かさが欲しくて
「誰にでもわかるデータや証拠、根拠を示せ」と、
ナゾの書類仕事がいっぱい増えるんだろうけどさー。
データで示せることは、物質に現れることだけだから、
ホントウのことの一側面でしかない。
小学生が初めて作ったカレーと、
大人がちゃちゃっと作ったカレーは、
同じ分量で、同じルーで、同じ味に仕上がったとしても、
食べる時の喜びの違いも、ありがた味や達成感も、
心の付加価値分が、何ひとつデータには表れない。
だけど、それもコミで「そのカレーの値打ち」でしょ?
データを詳細に調べてもホントウの半分しかわからないなら、
ホントウのことが確かに見えるようになりたければ、
何をしたらいいんだろう?
陶芸家が、土のクセや性質を見極められるように、
音楽家が微妙な音色を作り分けられるように、
母親が子どもの泣き声を聞き分けられるように、
奥さんの「え?」の言い方で、ダンナさんが次の言葉を瞬時にチェンジできるように、
先生の「オマエらな~」の言い方で、生徒が身を守るための次の行動がわかるように、
…って、もういい(^^)?
まぁ、実感としては、
真剣に、意識的に対象に関われば関わるほど、
対象を、繊細なことまで捉えられるようになっていくんだろうな。
ピアノの練習でも、
弾き始めは、音を間違えずに弾けるかどうかだけで、
そのうち、強弱や速さなどに意識が向き、
そのうち、どんな音色でどう弾きたいか、に意識が及ぶようになる。
散歩してても、「何かの花」から、
花びらの数や形から、科や目がわかったり、
「さくら」じゃなくて「大島桜」「染井吉野」って名前がわかったり。
見える、見えない、分かる、分からない、じゃなくて、
「こちらから意識を向ければ、見る目が育つ」
ってことかー。そっかー。
そう考えたら、
「意識を向ける」ことは、データには現れないけど、
明らかに、人間にすーっごい大きな影響を及ぼしている。
データに現れるものだけを信奉するのって、
こんなにも頼りないことだったんだね。
意識を向ける値打ちのあるものに、意識を向けろ!
余談:
無駄なくレタス食べ尽くす週間4日目。
本日ついに、レタスしゃぶしゃぶで、
「気のせいだ」とか言って、なかなか信じないけど、
実際にこの目で見たものは信じられる、
…と、無条件に「信じてる」。
見たものを「信じてる」とジャッジしてるのは、
私たちが「信じられない」と思ってる、
このあいまいな心なんだけどね。
どうなの、この構造的な矛盾(^_^)。
ふと思ったの。
「自分で見聞きしたものは信じられる」って言うなら
ものを見る「確かな目」を持ってる?
そんなの持ってない!
ずっとサングラスをかけてたら、
空の色も街の色も違って見える。
見え方は、思い込みや気分次第でどんどん変わる。
だからこそ、確かさが欲しくて
「誰にでもわかるデータや証拠、根拠を示せ」と、
ナゾの書類仕事がいっぱい増えるんだろうけどさー。
データで示せることは、物質に現れることだけだから、
ホントウのことの一側面でしかない。
小学生が初めて作ったカレーと、
大人がちゃちゃっと作ったカレーは、
同じ分量で、同じルーで、同じ味に仕上がったとしても、
食べる時の喜びの違いも、ありがた味や達成感も、
心の付加価値分が、何ひとつデータには表れない。
だけど、それもコミで「そのカレーの値打ち」でしょ?
データを詳細に調べてもホントウの半分しかわからないなら、
ホントウのことが確かに見えるようになりたければ、
何をしたらいいんだろう?
陶芸家が、土のクセや性質を見極められるように、
音楽家が微妙な音色を作り分けられるように、
母親が子どもの泣き声を聞き分けられるように、
奥さんの「え?」の言い方で、ダンナさんが次の言葉を瞬時にチェンジできるように、
先生の「オマエらな~」の言い方で、生徒が身を守るための次の行動がわかるように、
…って、もういい(^^)?
まぁ、実感としては、
真剣に、意識的に対象に関われば関わるほど、
対象を、繊細なことまで捉えられるようになっていくんだろうな。
ピアノの練習でも、
弾き始めは、音を間違えずに弾けるかどうかだけで、
そのうち、強弱や速さなどに意識が向き、
そのうち、どんな音色でどう弾きたいか、に意識が及ぶようになる。
散歩してても、「何かの花」から、
花びらの数や形から、科や目がわかったり、
「さくら」じゃなくて「大島桜」「染井吉野」って名前がわかったり。
見える、見えない、分かる、分からない、じゃなくて、
「こちらから意識を向ければ、見る目が育つ」
ってことかー。そっかー。
そう考えたら、
「意識を向ける」ことは、データには現れないけど、
明らかに、人間にすーっごい大きな影響を及ぼしている。
データに現れるものだけを信奉するのって、
こんなにも頼りないことだったんだね。
意識を向ける値打ちのあるものに、意識を向けろ!
余談:
無駄なくレタス食べ尽くす週間4日目。
本日ついに、レタスしゃぶしゃぶで、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます