『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

微妙な違和感をたどってみる

2022年05月08日 | 考える日々
湾岸戦争の時、夜空にミサイルが
花火みたいに飛んでいく図にも驚いた。
あれはマスコミが
リアルタイムに戦争を放映した図。

今は、さらに進んで、
地上の電波をブロックしても発信できる衛星通信時代。
戦に巻き込まれた人の映像や声を、
個人レベルでも発信している。

家を壊された人、車を壊された人、
家族を失った人、国外に逃げて来た人、
おびえて眠れない子ども、
の、顔が見えて、声が聞けて…。

私は自宅で、その方たちの理不尽な運命に
同情や怒りを感じる。感じつつ、
何か、微妙に違和感を持っている。
何だろ、コレ。

家族を失った、家を壊された。
そんな悲劇的な話を聞けば、
「なんて酷い事を!」と、
それをした側を責めずにはおれない。

だけど、だけどさ、
個人の悲劇は小さい事だって言ってるんじゃないよ、
だけど、そもそも戦争って、そういうことじゃないの?
だって、両方でミサイル撃ち合ってるんでしょ?
その先には、
相手軍もいるけど、普通の人も住んでるんでしょ?

「テロとの戦い」をしている正義の国の人が、
テロリストのアジトを空爆する。
その周りにも、普通の家族が住んでいて、
空爆の都度、家が壊され、皆殺しにされた家族がいるはず。

その家族だって、その直前まで、
お父さんの給料が上がって
「家のローンが予定より早く返せる」、
なんて喜んでたかもしれないし、お母さんが、
おいしい料理を味見して満足してたかもしれない。

生き残った、器量自慢の少女は、
顔にやけどを負ったかもしれない。
野球選手になりたかった少年が足を失ったかもしれない。
小さな子どもは一生、爆音におびえ続けるかもしれない。

正義のために戦ってる側の人だって、
そういう事をしているのよ。してしまうのよ。
何なら、広島とか長崎に、
何万人もの普通の人が住んでることだって、
当然、知ってたはずだし。
ベトナムでは、普通の人が標的だったし。

誰がいいとか悪いとか、
それぞれのケースについて、
何かを言いたいんじゃない。

普通の少女の、自慢のおにいちゃんや、
愛情たっぷりにかけて育てた自慢の息子が、
自国の正義を守るために人を殺すのが戦争。
私だって、命じられたら拒否できないはず。

罪なき普通の人が巻き添えになるのも、
そこでは当然のように許されている。
っていうか、攻撃する側もされる側も、
自分の国を守るために戦っている兵士に、
どんな罪を問えるのだろう。

「自分は100%善人で、相手が100%悪い」
「自分たちは防衛のために仕方なく攻撃してる」
っていう文脈で、人類は何万年も前から
永遠に戦いを繰り返してる。

のに、
何万年も前から進歩のない、戦う側の文脈と、
その文脈に沿った、何万年も前から進歩のない報道に、
気持ちを左右されている自分にウンザリなんだ。
これからも、その文脈での戦いを永遠に繰り返しそうで。

っていうのが、私の違和感の正体でした。



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