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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

自由の哲学 第3章

2013年12月08日 | 『自由の哲学』
「観察(見る)+思考(考える)=認識(知る)」 という法則が述べられています。 哲学者は哲学者なので、 「世界を全部知ることはできるのか」とか、 必要以上にややこしいことを考えます。 でも、ふつーの庶民の私だって、 「見たことに考えを重ねていくことで、世界を知っていくことはできる」、 というシンプルな法則が成り立ちます。 「え、何それ?」と思った時に、 聞いたり見たり考えたりして、ピン!と . . . 本文を読む

自由の哲学 第2章

2013年12月06日 | 『自由の哲学』
「知りたいという衝動は、二元論に由来している」 というのがおもしろい。 自然VS人間、アナタVSワタシ、仏教VSキリスト教、など、 対立概念として捕らえてしまう。 かつてこれらが 「私たち」としてすべて包括できる概念だった時代が ホントにあったんでしょか?? 今、生きている価値観からは信じがたいけど、 そんな時代があったなら、 自分だけエラくなろうとか、 少しでもソンしないようにとか、 エゴ . . . 本文を読む

自由の哲学 第1章

2013年12月04日 | 『自由の哲学』
哲学者の名前がいっぱい出て来るけれど、 すべてを理解しようとするのは早々にあきらめて、 骨子をつかむことに専念~(^^;)。 死ぬほどシンプルに言うと 「考えることは自由へのパスポート」 ということでしょうか。 ただ、シンプルに言えば言うほど 言葉がサラリと流れていくのがはがゆいです。 この言葉の受け止め方や理解の深さ、 ひいては人生の中での生かし方は、 一人ひとりに応じて違った形になる . . . 本文を読む

「自由の哲学」を感覚的に♪

2013年11月26日 | 『自由の哲学』
いつも、頭で理解しようとしてあがく私と違い、 感覚的な発言満載で、堅い本を身近にしてくれるAさん。 今回もフシギ発言の魅力炸裂でした。 1〜3章を読んで、 ここがわからない、ここは大事、ここが好きだった、 などなど、一人ずつ、本に線を引いてきて、 それについて、あーだこーだと 自分の考えや経験を話し合ってた時のこと。 「Aさんはどうですか」とうながされ、 「私、ここにハートマーク . . . 本文を読む

ややこしいのにやめられない

2013年11月24日 | 『自由の哲学』
大人の勉強会�(自由の哲学�回目)(神戸シュタイナー) 勉強会の前に、宿題である自由の哲学1〜3段落を読んで、 あれこれ思い出し、ひっかかり、 「こんなにいっぺんに進めるかな」と思いつつ、 勉強会に参加しました。 前回のおさらいで、自由の哲学が書かれた時代までの、 哲学的な流れとして 「観念論」「虚無主義」「唯物論」…と、 怒濤のように「〜 . . . 本文を読む

序章ですが、ここだけは

2013年11月12日 | 『自由の哲学』
神戸シュタイナーハウス、今月の大人の講座では、1~3章を読みました。 でも、前回の序章で書き残して「ココだけは!」ってことがあるので、 今日はそこについて書きたいと思います。 鈴木一博さん訳 およそ、知識は 人となりのあるの向きを高める向きが欠けると なまくらな好奇心を満たすまでだろう。 知識がまことの値を備えるは、 知識により人の向きが際立てばこそだ。 参加者の一人が、この箇所に対して . . . 本文を読む

自由の哲学「序」を学びました

2013年10月17日 | 『自由の哲学』
おととい書いた通り、 大人の講座で、「自由の哲学」の序を担当したのですが、 自分でまとめたり考えたりしたことの内容を、 満足に伝えることはできませんでした。 そのかわり、先生が語る、 この本が成立した時代の哲学的な背景や、 他の参加者の方の思いがけない発言など、 違う方向では、い~っぱい広げてもらえました。 一番おもしろかったのが、冒頭の部分で 「合理的なものと非合理的なものとどう折り合いを . . . 本文を読む

自由の哲学「序」を担当しました

2013年10月15日 | 『自由の哲学』
「自由の哲学をやろう」と言い出して、 「じゃあ、アナタが第1回目のチューター役ね」と言われ、 必要に迫られて、何度も何度も「序」を読んでみた。 段落ごとに、要点をまとめ、 ここは私の暮らしの中ではこれのことだな、 と、ひとつずつ理解しながら読んでいった。 そのノートは、序章だけで16ページ分にもなった。 けどね。けどね。 私、人前でしゃべると、舞い上がって、 自分でも何を言ってるかわからなく . . . 本文を読む

自由について(大人の講座)

2013年10月13日 | 『自由の哲学』
自由の哲学の序を読みながら 「自由って何?」 みたいな抽象的なことを考えていた。 選択肢が広がることでもないし、 人に迷惑かけなきゃいいってもんでもないし、 ましてや、好き放題するってことでもないし、 悶々モンモン悶々モンモン…。 寝て起きたら 「自分で考えていいと思った通りに動けること」 って、スッキリわかった。 カミサマ、ありがとう~!! 誰か、何かに強制されることではなく、 考えない . . . 本文を読む

■自由の哲学5章31

2013年05月11日 | 『自由の哲学』
さて、次は「想い」という考えをきちんと規定していこう。 想いについて、これまで述べたのは、 「想いという考え」ではなく、 「想いを覚える」までの道筋だ。 「想いという考え」を明らかにしてみたら、 想いと対象との関わりについても明らかにできるだろう。 さらに、人の主としての自分と、外側の世界との関わりは、 ただ、考えとして知るだけではなくて、 実際に、暮らしのいちいちの中で「どう生きるか」、 とい . . . 本文を読む

■自由の哲学5章30

2013年05月10日 | 『自由の哲学』
客としてやってくる「覚え」とは何か。 これを漠然と問うと何もわからない。 覚えは、いつも限定された具体的なものとして現れる。 その内容は、実際に迎えられて、そこまでで区切りがついている。 実際に、具体的に迎えられる所について問うとしたら、 それは「覚えの他=考えにとって、覚えとは何なのか」だ。 覚えが何なのか、というのは、それに応じて考えて 「コレだ!」と悟った時にわかる。 この観点からする . . . 本文を読む

■自由の哲学5章29

2013年05月09日 | 『自由の哲学』
たとえば、梅干が意識に上るとして。 その梅干をよ~く見ると、ほかの手触りや温もりとつながる。 そのつながりを、「感覚の世の対象」と言おう。 その場に、何が見いだされるか。 そう問うてみて、実験室で見えるものを見ると、 そこでは自分の感覚とかけ離れた実験結果の数値が 現れてくることだろう(赤いとか酸っぱい、じゃない形で)。 またさらに、それを脳波やら電気信号やらで その結果を科学的に裏打ちされる . . . 本文を読む

■自由の哲学5章28

2013年05月08日 | 『自由の哲学』
「考える」と「覚える」を無くしてしまったら、 私たちは、世の何事も、直に迎えられるものがなくなってしまう。 では、直に迎えるのが「考える」と「覚える」だけだとして、 「考える」は「覚える」についてどんな影響を及ぼすだろう? 「覚えは主(私)による」=「世は想いである」という 批判想念論が成り立たないことを、わたしたちは知った。 だが、批判想念論が成り立たないことイコール 「覚えは主(私)による . . . 本文を読む

■自由の哲学5章26~27

2013年02月28日 | 『自由の哲学』
何かの物事を解き明かすには、何かの物事を理解するには、 その物事を互いの関係の中で見ることが必要だ。 その物事を周囲の関係から引き離して、単独で見ていたのは、 先述した通り、わたしたちのなりたちのせいだ。 (なりたち→5_15 外を覚える+内を考える=わかる) どんなことも、世の全体から切り離されて存在しない。 切り離して見えるのは、 私が私として、外の世界とは別の存在だと思っているからだ。 . . . 本文を読む

■自由の哲学5章25

2013年02月26日 | 『自由の哲学』
まさに、その内容(具体的な考えの内容= なんでライオンはカタツムリより身のなりたちが高いのか、とか) を、人は、考えることによって 見えない世界(考えの世=精神の世界)から 覚え(見たり聞いたりさわったり)にもたらす。 覚えの内容は外(感官でとらえられる領域)から来る。 考えの内容は内(感官でとらえられない領域)にきざす。 そのきざす矢先の形を「悟り」と言おう。 「考える」と「悟る」の関係は、 . . . 本文を読む