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出雲国神社めぐり

島根県東部の神社探訪記!
犬もあるけば、神社にあたる!!

朝酌上神社

2012年06月16日 | 松江市(旧市域)

風土記:朝酌上社
延喜式:―
雲陽誌:大森明神(宇津名姫命)
様  式:切妻小祠
御祭神:宇津名姫命

   

大橋川は宍道湖より東進し朝酌・剣先の両川を集めてと中海へと向かい、その北岸は朝酌地区と呼ばれている。朝酌小学校の真東、車道脇に苔むした狛犬一対と石灯一基が見え、草生す参道を奥へ進むと、歳徳神の堂、さらにその奥に大きな礎石上にのった小さな祠がある。楕円状の成地が二段に別かれてあり、下の壇北側には横穴古墳の開口していた。

出雲風土記嶋根郡には朝酌上の社、同じ下の社と記載されているが、初めは下の社のみが記されていたという。他の社がそれぞれ対記載されていることに倣い、朝酌上社が追補されたむきがあります。即ち、河畔の多賀神社を朝酌下の社、明治四十一年に多賀神社に合祀されるまでこの地にあった社を上の社とする見方が定着している。

『雲陽誌』朝酌頁にはまず多賀明神が真っ先に揚げられ、朝酌と名づけられる故事を踏まえて詳しく記されている。上下の別は詳しく記されておらず、ただ多賀神社と同じく一間四方の社を持つものとして大森明神の名が見え、祭神は宇津名姫命と記されている。

〈所在地〉
島根県 松江市 朝酌町

参拝日:平成24年 4月28日

天神神社

2012年06月13日 | 松江市(旧市域)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:天神
様  式:流造変態
御祭神:少毘古那神・大鷦鷯命(仁徳天皇)

  

松江だんだん道路橋北側のアプローチがある西尾町西谷地区に鎮座している。境内正面は道幅が狭く、直接車を乗り入れることができません。境内の後方を大型農道が通じており、これから参拝するのが容易。境内の西側裏山を新道が突き抜け、新たな景色が生まれた。

境内は南東西谷の集落を向き、鳥居奥には拝殿とこじんまりとした流造の本殿が建っていた。本殿の西側奥に古めかしい石祠が一宇、東側には大磐が露出。当社の創建由緒は詳らかではないが、御祭神は父神の手よりする抜けて下り参られた少毘古那神であり、周囲の地質と異なる大磐の存在などが天下られた神の象徴となって祀られたものではなかろうか。当社南東の大橋川の中にも小島があって島ごと天神神社と祀られている。

〈境内社〉

本殿西側奥に石祠一宇。社名、祭神は詳らかにあらず。

〈所在地〉
島根県 松江市 西尾町 西谷

参拝日:平成24年 4月28日

紐解神社

2012年06月10日 | 松江市(旧市域)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:三社明神(鵜葺草葺不合尊・玉依姫・豊玉姫)
様  式:大社造変態
御祭神:鵜葺草葺不合尊・豊玉姫命・玉依姫
合祀神:誉田別命・武内宿禰命(八幡神社)・市杵嶋姫命・多紀理姫命(高原神社)

   

松江市街大橋川の北岸を東に進んだ、市立女子高校の西向の丘のうちに鎮座している。松江だんだん道路の開通によって街路の変更されたが、境内周辺は古くからの家々が軒を並べていた。境内は凡そ東向、石鳥居を潜り参道を進むと、石段沿いに三対の狛犬、隋神門の奥に拝殿、さらには桧皮葺大社造の見事な本殿が建っております。現在の葺屋根は昭和四十四年の上葺で、ところどころ傷みが見えるも、その趣は銅葺屋根などとは比べることはできない。

  

当社の由緒は不詳も、社伝には御祭神がこの地に廻り来りて御留まり、朱雀帝の御世に社殿が建立され三柱が祀られたとしるす。『雲陽誌』には祭神に因んで三社明神と記され、以来東西の川津村、西尾村の氏子によって広く祀られてきた。『旧村誌』によれば明治期の再編で現在の西尾地区のみに氏神となり、明治四十一年には村内客戸の八幡神社、高原神社を合祀するにいたった。

〈境内社〉

本殿北側に木造の小祠あり。清神社に素戔嗚尊を祀る。

〈所在地〉
島根県 松江市 西尾町 郷戸

参拝日:平成24年 4月28日

須衞都久神社

2012年05月13日 | 松江市(旧市域)

風土記:須衞都久社
延喜式:―
雲陽誌:熊野権現(正殿:伊弉冊尊・速玉男命・事解男命・菊理媛命)
           (北殿:素戔嗚尊・大己貴命)
           (南殿:経津主命・武甕槌命)
様  式:大社造変態
御祭神:伊弉冊尊・素戔嗚尊
配祀神:速玉男命・事解男命・菊理媛命

   

松江宍道湖大橋北詰に鎮座する古社。大橋を北に向けて渡ると、真正面に青銅板葺の社殿を見つけることができる。近年境内正面の車道が拡張され、合わせて参道が北向きに折れる形になった。矩形の境内は、隋神門を潜って正面に唐破風向拝付の見事な拝殿、その奥に大社造の本殿が構える。南側の社務所と拝殿は回廊にてつながっており、全般に見事な造りとなっていた。

現在は、同社の南に末次公園、市役所などが建っているが、古くは宍道湖北岸に接し、北側の鳥居からは湖面にいたることが出来た。大正年間に埋め立て工事が施工され、公園の区画は人工島となっていた。昭和前期には一時期競輪場が設置され、乃木の競馬場とともに松江の娯楽をなしたと伝わる。公園と神社、ホテル前の小道は当時の通称権現川で、西の延長には湖岸の名残である「土手」地区に繋がっている。

  

同社の由緒について『神国島根』によれば、風土記記載の須衞都久社に比定、古くは城山亀田山鎮座していた。堀尾氏の松江開府で亀田山が築城の候補となると、末次茶町元権現町に遷座。たびたびの水害によって社殿破却を経験しつつ、遂に現在の社地に建立されるに至った。近隣の産土神として崇敬をあつめたものの氏子は暫時各町の他社に移り、むしろ同社は堀尾・松平各国主に篤く敬われ、造営修繕も旧藩奉行するところであった。政治と信仰との分離にいたり、市中の諸社が幾分廃れる観があるのが残念。

〈境内社〉
  
本殿の右正面に恵比須番匠租神社(大己貴命・素戔嗚命・事代主命・手置帆負命・彦狭知命)、本殿南側後背に住吉神社(底筒男命・中筒男命・上筒男命・神功皇后)、本殿北側後背に紺姫神社(木花咲耶姫命・紺屋姫命)。この内、紺姫神社は先の雪害にて破却の状態にある。

 
拝殿北側社務所棟続きに末次氏荒神社(建速須佐之男命)、本殿正面鳥居南に榎荒神社(速素戔嗚命)あり。この他、神国島根に依れば、鹿島香取神社(武甕槌命・経津主命)を境内社とする。

〈所在地〉
島根県 松江市 西茶町

参拝日:平成24年 3月31日

推恵神社

2012年05月12日 | 松江市(旧市域)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:―
様  式:春日造変態
御祭神:小野尊俊霊
合祀神:倉稲魂命(稲荷神社)・菅原道真(天満宮)・市杵島姫命(厳島神社)・建御名方命(諏訪神社)

   

西川津町楽山公園東の杜の中に鎮座しております。第二中学側(北)より山越えして路地に入ると、東方正面に市成の熊野神社、北側が推恵神社の境内になります。正面鳥居を潜って入った境内は、矩形の極めて整然としたつくりで、三対の狛犬・狐が参拝者を向え入れます。

  

正面拝殿の軒下に、推恵神社の他に、天満宮、稲荷大明神の扁額が掲げられておりました。もともと藩主の山荘があった楽山に中にあった両社を、後に立てられた推恵社に合祀した流れでしょう。本殿は屋根の反りも美しい春日造で、後背には細かな龍の意匠が施されております。この他にも社務所など幾つかの建物がありました。

  

本社は享保十八年、藩主松平宗衍公の勧請にて建立。御祭神は藩命にて隠岐に流され、海士にて没した日御碕神社検校小野尊俊の霊となります。検校配流について旧松江市誌は、宝暦年間江戸藩邸内で誕生した女児が時の藩主松平綱隆の「養女」として尊俊のもとに嫁いだが、尊俊は藩主の娘婿の地位を恃んだ驕慢な振る舞いをなしたことにより隠岐に流され、妻も離縁させた後家老神谷氏に再婚させたとしております。

一方『雲陽秘事記』は、そもそも神谷氏の娘が検校の妻であったが、これが絶世の美女で、藩主綱隆はこれを手に入れんとして検校を隠岐に流したのだとしております。川津郷土誌は両説を比較し後者は俗説であろうとしておりますが、江戸生まれ女児が仮に養女としても国元へ下ることが適ったか否か、秘事記の説が実情に近いのかもしれません。当国においては、意東(旧東出雲町)の美人塚、塩谷判官の妻への高師直の恋慕など類似の話も多くあります。いずれにせよ、検校の死後間もなく藩主綱隆が頓死するなど、巷にも検校の祟りなどとする向きがあったようで、これを鎮めんとて同社は建立され検校の霊を祀ることとなったとのことです。

〈境内社〉

本殿右(北)後背に御前神社あり。検校の妻の霊を祀る。

〈所在地〉
島根県 松江市 西川津町 字楽山

参拝日:平成24年 3月31日