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出雲国神社めぐり

島根県東部の神社探訪記!
犬もあるけば、神社にあたる!!

久多美神社

2012年08月26日 | 松江市(旧市域)

風土記:久多美社
延喜式:久多美神社
雲陽誌:久多美大明神(大己貴尊)
様  式:春日造変態
御祭神:大己貴尊・事代主神・味耜高彦根神・天御梶姫神

   

県道24号線を大東方面へ向い、千本貯水池の南端からおよそ500mほどで東側の山手へ。やがて鳥居をめじるしに境内を見つけることが出来る。昔とさほど変わらず稜線にしたがって棚田が続く地域で、家々の数はさほどに多くはなかった。田畑の間の小道を歩き鳥居を潜ると、静かな境内に巨木を背にして拝殿と本殿が建っていた。

 

同社の由緒について『旧忌部村誌』によると、出雲風土記意宇郡の久多美社であり、延喜式に記載の由緒正しき社であったと記されている。久多美山は主祭神大己貴命の出雲国経営の一拠点となった場所と考えられており、当初は山頂に社が築かれ祀られていたものの、中世築城のおりに麓へ下ろされたもよう。史上有意な社であったものの徐々に社勢が衰微し、明治四十五年五月に政治的影響もあって大宮神社(忌部神社)に他の諸社とともに合祀されてしまう。しかし由緒ある久多美社の消滅に氏子各氏の落胆が大。社殿再奉の動きが早くから起こり、大正十二年遂に現社地に社殿を造営し奉遷、復興に至った。現在の本殿後方の削平地中央には、合祀以前のものと思われる礎石が露出しており、合祀と再建という同社の複雑な歴史を感じ取ることが出来る。

〈所在地〉
島根県 松江市 東忌部町

参拝日:平成24年 5月 5日

松江水道水神社

2012年08月25日 | 松江市(旧市域)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:―
様  式:神明造
御祭神:水神

  

松江市乃木より忌部川を登るとすぐに両脇の山が迫り、県道の西側には粗石コンクリートで出来た古いダムを見つけることが出来る。堰堤からは奥におよそ1kmのダム湖が広がり、松江市民の水がめと成っている。堰堤の西側、木々の木漏れ日の下に神明造の小祠が湖を見つめて建っていた。創建、祭神などは詳らかではないが、おそらくは治水・上水の滞り無きを願って建てられたもので、水の神が祀られているものと思われる。

千本ダムと貯水池は大正四年に着工、大正七年に竣工。これにより旧市内一部に上水道の給水が開始され、翌年には旧市内のほぼ全域に給水される。二つの湖に囲まれた水郷松江市も、湖水は汽水ゆえに飲用に適さず、明治期まで市民は京橋川など堀川の水を生活用水に使っており、伝染病に苦しみ続けていた。市勢の拡大に従い上水の整備が急務となり、忌部川水系の谷間に堤防を築く大工事に着手。途中、第一次世界大戦を経て大正八年に上水道の完成をみることとなった。大正期の建造物は今日でも水を湛え、美しい風景を見せている。同ダムは2003年に日本土木学会選奨土木遺産に指定され、2008年には登録有形文化財となった。

〈所在地〉
島根県 松江市 西忌部町

参拝日:平成24年 5月 5日

日野目天神社

2012年08月24日 | 松江市(旧市域)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:日野目天神
様  式:流造変態
御祭神:少名比古那神

  

松江市より大東へ抜ける県道23号線を忌部川に沿って登る。千本ダム西岸、貯水池を見下ろす高台に清田に囲まれて鎮座。木々が茂る森の内に、小さいながら見事な意匠を施された本殿がある。下の壇には拝殿が、本殿の南側に木造社が一宇あった。

 

同社の由緒は詳らかでないが、『雲陽誌』忌部の頁にその名を見ることができまる。また他の天神社と同じく、天よりこの地に下られた小名比古那神が祀られている。神との所縁は定かではないが、松江市の水の要である貯水池が今日も無事にあり続けられるのは、開拓の神のお力とも感じられる。

〈境内社〉
 
『神国島根』によれば、比婆山神社に伊弉冊尊を祀る。忌部村誌によれば、比婆山神社は宮内地区の和田氏宅東に接すとも記され、此れが移されたものか。また社地東に荒神の杜の茂るを見る。

〈所在地〉
島根県 松江市 西忌部町

参拝日:平成24年 5月 5日

大井神社(朝酌)

2012年07月15日 | 松江市(旧市域)

風土記:大井社
延喜式:大井神社
雲陽誌:七社明神(大國主命)
様  式:大社造変態
御祭神:大国主命・大日霊尊・本田別尊・天児屋根尊・中筒男尊・武甕槌尊・日本武尊

  

中海と宍道湖を結ぶ大橋側の東端、現在中海大橋が架かる瀬戸より北側に大井集落がある。近年整備された湖畔の新道より西側を見ると、山裾に鳥居を見つけることが出来た。社頭から参道の脇には多くの神木が育ち、厳かな雰囲気を醸し出しす。狛犬一対に迎えられ、一段上に上がれば、妻入りの拝殿奥に大社造の立派な本殿を見ることができる。

  

当社の由緒を郷土誌などに辿ると、風土記嶋根郡の大井社、延喜式の大井神社に比定される。東西両湖の瀬戸に近く、古くより要地であった。御祭神はもともと大國主命であったが、江戸期にはすでに他の六柱がともに祀られ、『雲陽誌』には七社大明神と記されている。明治期に再び大井神社と改称し、今日も大井地区の氏神として崇められている。

〈境内社〉
 
本殿西側に木造小祠あり。若宮神社に国挟槌尊・稲倉魂命を祭る。稲荷神社の崇敬を集めて朱の鳥居、狛狐の坐像を奉ぜらる。また本殿北側に石碑一台、大井龍宮社と刻まれる。

〈大井の池〉
 
当社頭西側に、清水の湧き出でる池があって大井の池と呼ばれている。素戔嗚尊が掘り当てて、朝の炊事に用い、社号の大井もこの泉に由来する。

〈所在地〉
島根県 松江市 大井町

参拝日:平成24年 4月28日

多賀神社(朝酌下神社)

2012年07月14日 | 松江市(旧市域)

風土記:朝酌下社
延喜式:―
雲陽誌:多賀明神(伊弉諾尊・神直日神・大直日神)
様  式:大社造変態
御祭神:須佐之男命
配祀神:伊弉諾命・伊弉冊命
合祀神:宇津名媛命(朝酌上神社)・大己貴命・事代主命(福富神社)

   

大橋川の北岸を朝酌中地区より川沿いに南下すると正面に木々に囲まれた一角が見える。川辺に鳥居、山手に石段を見つけることが出来、石段を登ると正面に拝殿、その奥に本殿が鎮座。本殿の軒先には人面の面隠しがああり、独特の雰囲気を醸し出している。また川面を振り返ると、水中に数本の竹が立てられていた。

  

当社の由緒を郷土誌等にあたると、そもそも藩期には多賀神社とよばれ、維新を経て朝酌下神社と改称。昭和三十一年に再び多賀神社と改称し今日に至る。風土記にいう朝酌上下社の別については諸説があるが、凡そ当社を下社に比定する。明治四十年には東の福富神社、北の朝酌上神社を合祀し、朝酌一帯の総社として確たる位置づけになった。

神話に依れば、須佐之男命が新羅国より土船に乗って青木を積んで渡り来た際、鎮守の森の多賀明神が「此の神崎を青木積みて通る日本は我国なり。この岸に船を留めて、汝は岸に上がるべし。我は此れにあり。」と言われると、俄かに波荒れて乗り来られた船はしずみ、つんでいた青木は根付いて小山を形成、そこに明神が宮造りなされたと伝わる。

また陸に上がって鳥上山に向われた須佐之男命も朝酌の瀬戸の豊かなるを見て、御魚をしばしば取りに来たよし。また神有月には命は猿田彦命と恵比須大神に川で魚を取るようにも命じ、八百万の神もこの様を見て楽しんだという。いま神前の川に竹を数本指されるのは、魚をとるこの故事由縁する。

〈境内社〉
  
『雲陽誌』の頃より境内に社三社あり。即ち、山王社に大物主命、船玉社に猿田彦命、恵美酒社に蛭児神を祀る。今本殿の左右に流造の少祠あり。また本殿より右前方に切妻妻入りの小祠がある。

〈所在地〉
島根県 松江市 朝酌町

参拝日:平成24年 4月28日