野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

生物多様性

2024年01月03日 | 日記

この数年でしょうか、生物多様性云々という話を目にしたり、耳にしたりします。かつて、私は非常に長い目で見ると、生物多様性は失われるに決まっていると考えていました。というのは、浅はかにもエントロピー増大の法則に従えば、すべての物はいずれ均一になると考えていたからです。たとえば、人類で言えば、もしも人類が永続できればですが、最終的には中国系の人間ばかりになるのではないかなどと思ったのです(僅かばかりの海外生活で、どこへ行っても中国系の人達がいるという経験から先入観を持ってしまいました)。或いは、マーケッティングの神様のような人が、「行き過ぎた競争の結果、商品はどれも似たような物になってしまう」と言った言葉が自然科学の世界でも通じるのではないかと思ったりしたのです。

しかし、そもそも地球上の環境は一様ではなく、自然の多様性は変わりようがなさそうに思えてきました。あらゆる生物は、様々な方法で種の繁栄を図るべく移動します。必ずしも自らの意志によるとは限りませんが。移動した先の在来種との交雑や捕食などにより、元々の在来種が排除されてしまうかも知れませんが、多様であり続けることは容易に想像できます。たとえば、気温に関しては極地と赤道周辺地域とでは同じにはなり得ません。先日、ヒューマニエンスというNHKのテレビ番組で「土」についての特集がありました。地球上には僅かしか「土」が無いのですが、いろいろな理由で土の成分、性質は場所により異なっていて、それらが均一になることも考えられません。したがって、その上(あるいは中)に住んでいる生き物も均一にはならない訳です。

一方、生物多様性の重要性を強調するあまり、外来種の駆除、在来種の保護に力を入れるのは如何なものかとは考えます。動植物は、種の繁栄を目指して、互いの力を借りて(利用して)生息域を広げようとします。この動きは止めようが無いでしょう。その結果、移動先で捕食や交雑により、在来種が絶滅することもあり得る(どちらかといえば可能性が高い)のではないでしょうか。従って、人間の力で人間の望むような多様性の維持は出来ないと考えるべきだと思いますが如何でしょうか。人の力で現在の状況を持続させようと思うならば、人や物の移動は制限する必要があります。飛行機、船舶によるグローバルな移動に伴って、小さな動植物も移動します。人間が意図的に動かす場合ばかりでなく、意図しないで運んでしまうことがあります。コンテナに付着したり、紛れ込んだり、船ならば船底にへばり付いて移動することもあるようです。このような動きまでは止めようが無いでしょう。大きな影響は無いと考える人も多いかも知れませんが、いずれにしろ、現状を意図的に維持することは出来ません。変化していくことも含めて「自然」と捉えるべきでは無いでしょうか。


寿命、その続き ー定年について

2023年12月02日 | 日記

手元に、「平静の心」(医学書院)という本があります。医学関係の方なら、ご存知のウィリアム・オスラー博士の講演集です。この中で1905年に博士がジョンズ・ホプキンズ大学を退職する時の講演があります。55歳の時のものですが、この中で持論として、六十歳以上の人間の無用論ということを言っておられます。かなり過激な話で、アメリカ医学会に大変な反響を引き起こし、後日、別の論文を書いたそうですが、少し紹介させていただきます。

講演の中で、17世紀、John Donne による自殺についての小冊子から、「ある国の法律では、60歳の人たちは橋から突き落とされ、また古代ローマでは、六十歳代の人達には選挙権が与えられず、議会へは門を通っていくことから、彼らは入門を拒否されし者と呼ばれた」ということを紹介しています。橋から突き落とすところは、日本なら、「姥捨て山」、「楢山節考」を思い起こします。さらに「定年の時期」という小説では、六十歳で退職した教授は一年の思索の後、薬で静かにこの世を去るということも紹介しています。博士によれば、まもなくその年齢に近づかんとし、さらに七十、八十の高齢者が見舞われる悲惨さを研究してきた者には、このような構想が計り知れない程の利益をもたらすことは明らかであるといいます。さらに手厳しく、七十代、八十代の人達が無意識に、かつ何の罰を受けることなく流し続ける実害の数々を考えるといっそう明らかであるとまで言います。更にさらに、世界の歴史を見ると、大部分の弊害は六十歳代の人達に着せられると言ってよいと。オスラー博士の時代、すでに「老害」の考えがあったことに驚きます。

さて、実際に六十歳代半ばに入った小生ですが、オスラー博士の「ほとんどの(中略)下手な説教や講演など、大部分はこの人達の手によるものだ。」と言い切る言葉に、思わずキーボードを叩く手を止めたくなるのですが、あえて書きます。

現代でも定年の年齢を過ぎた自分は、日々、「確かに、定年退職には意味がある」と、しみじみ感じさせられています。何かというと、体力の衰え、体のアチコチに現れる病の兆候、仕事こなす能力の低下等々、実感しているからです。60歳を過ぎたら、もう仕事はしなくてもよい筈なのです。ただ、困るのは、多くの男性は、仕事を離れた途端に、やることが無くなり、粗大ゴミのようになってしまうことが多いことです。このようなことを言うと男女差別云々と批判されますが、実状を述べるだけで、何かを主張する者ではないことを言い訳しておきます。一方、女性は高齢になっても家庭内でいろいろな役割が果たせており、オスラー博士も女性は例外として「別の提案」をしたいと述べています。60歳を超えた女性の同性に及ぼす影響はきわめて大きいと言います。それでも、患者さん達の声を聞いていると、高齢の女性達も家庭内でいろいろな仕事を行うことが難しくなり、日々、悩みを抱えて生活していることが分かります。そんな人達には「昔のように出来なくなってもいいのです。本来、貴方は、そういう仕事から解放されるべき年齢なのだから」と言います。

長生きを熱望する人達は、長生きするとは、衰えながら生きることであることを理解していない、「死なない人間」を知る前のガリバーでしょう。そうは言っても、死にたくはないのですが、やはり誰でも死ななければいけないのだと思います。

最後に、誰の言葉か知りませんが   「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」


寿命

2023年10月31日 | 日記

古来、人類は不老不死に憧れてきました。真剣に研究している人も、昔から大勢居たと思います。この頃は「人生百年時代」などといい、もしかして、人が死なない時代が来るのではないかと期待している人もいるかもしれません。果たして、そんな時代が来るのでしょうか?

まず、「人生百年時代」ですが、老化について研究している偉い人の話では、人間は長生きできても、せいぜい百年が限度だそうです。記録がしっかりしている人について調べたところ、多少の長短はあっても大体百歳が限度だといいます。そして、此処から大事なのですが、いわゆる健康寿命は百年よりはずっと短いのです。つまり、百年生きたとしても、最後の十数年は寝たきりだったり、認知症になっていたりということです。ですから、私は「人生百年時代」ということばに踊らされるなと人に言ってます。要するに、長生きすればいいというものではないということです。誰でも、今の自分のままで長生きできるように錯覚しています。長生きすれば、その分衰えた姿になっていくということを忘れがちです。

皆さんにお勧めしている物語があります。「ガリバー旅行記」です。子供のころ読んだ話は、小人の国へ行く話がほとんどだと思います。私もそれしか知りませんでしたが、スィフトの書いた「ガリバー旅行記」はそれだけではありません。いろいろな国を訪れた話から成り立っていますが、中に「人の死なない国」の話が出て来ます。その国ではごく稀に(正確な数字を覚えていません)、決して死なない人間が生まれるのです。ガリバーはその話を聞いて「素晴らしい。もし私が死なない人間になったら、自分の知識や経験を若い人たちに伝えることで大いに役に立てるだろう。」といいます。しかし、その国の人たちは「とんでもない」」といい、「死なない人間」をひどく」軽蔑しているのです。なぜかというと「あいつらは、何があっても死なないんだ。病気になって、耄碌して、ボロ布のようになっても死なないんだ」として。ガリバーは長生きの希望を失ってしまうのです。18世紀に造られた物語ですが、時代を超えて通じるものがあると思いませんか。

少し前に、「人の死なない世界」というSF小説を読んだことがあります。冷凍技術が発達して、希望するときに体を冷凍保存して、希望するときに解凍するということを繰り返すというのです。すると、自分の息子や娘よりも若々しい姿で解凍された親や祖父母などが混在している世界の話です。これでほぼほぼ死なない世界が実現するというのですがどう思いますか?冷凍すると病気も進行せず、新しい治療法が開発されたときに解凍してもらえば、どんな病気も生命に対する脅威とはならないというのです。こんな人生は幸せなのでしょうか?こんなことが可能になったとして、それを賄うエネルギーは膨大なものになりそうに思われます。また、冷凍保存される人間が増えれば必要なエネルギーも増え続けることになるでしょう。現実的ではないからSF小説なのかもしれませんが、読者に間違った期待を抱かせるのではないかと危惧します。。

ちなみに、手元にある老化についての本によると、いろいろなメカニズムが老化に働いているが、大きなものとして放射線や宇宙線の影響があるといいます。これらによりDNAが傷つき、様々な不具合のもとになるというのです。宇宙線によっては、ほとんど遮ることができないものがあり、結局、どんなに体を大事にしても、いずれ老化(劣化)は逃れられないといいます。考えてみれば、なんでも大切に引き出しの奥に仕舞っていたとしても、長い保存期間の後に取り出してみるとボロボロになっているものです。

ここでお経を一つ紹介します。地蔵菩薩本願経の一節です。

佛日、「受身無間者永遠不死、寿長乃無間地獄中之大劫」(仏陀曰く、無間地獄に死はない。長寿は無間地獄最大の苦しみなり)

無間地獄とは、六層ある地獄の中でもっとも深いところにある地獄だそうです。

私は、人は死ななければならないと考えています。

 


悩みも驚きも尽きることがない

2023年09月03日 | 日記

そろそろ、このブログを初めて1年になります。腰椎すべり症、腰椎椎間板ヘルニアのさまざまな症状を中心に書いてきましたが、ここらで一区切り付けようと思います。結局、加齢に伴い症状は変わり続けており、際限がないということ、それをすべて書き出しても読む人の役に立つ話ばかりではないということから、今回を、神経症状を紹介する最後にしようと思います。

すべり症、および椎間板ヘルニアにより、馬尾神経障害と神経根障害を併せ持っている状態ですが、相変わらず、フォローアップの画像検査(MRI)では目立った変化は指摘できないにも関わらず、症状には変化が続いています。つい先日、気づいたのは神経根症状のある左下腿ですが、触覚は手術後半年の頃にはL5領域でほぼ無くなっていたのですが、徐々に回復していました。少なくとも自覚的にそう感じていました。ところがつい数日前、入浴した際に左膝から下にお湯の熱さを感じないことに気づきました。普段から、シャワーばかりで、湯船に浸かることがほとんどないため、最近まで気づかなかったのだと思います。それから、入浴する際に、一々、どこに熱さを感じるかなど意識することがありませんので分からなかったのだと思います。此度は、冷房のせいで下腿がひどく冷えた感じがしたため、湯船に足湯のように膝から下を浸けて見ました。するとどうでしょう。お湯の温かさが分からないのです。腰まで入ると大腿から上には熱さが感じられましたが、膝下は分からないのです。しばらくお湯に浸けていましたが、感覚に変化はありませんでした。触覚は問題ないことを確認しました。驚きました。組織学的に考察すると理解できるかもしれませんが、ここでは行いません。

いずれにしろ、症状は日々変化していて、後日、同様に足湯の真似をしてみると、そのときには温感がありました。様々な要素が影響しているものと考えます。

画像検査について書いたときに述べたように、脊椎はダイナミックに動くところですから、画像所見と神経症状が一致しないことも珍しくありませんし、症状も変動することが多いと考えます。

脊椎疾患の診断、治療に際しては、この「ダイナミックに動く」ということをいつも心に留めておきたいと考えます。

次回以降、少し自分の体を離れた記事を書こうと思います。まさしく老医師の独り言、繰り言になりますが、ご容赦ください。。


脊椎病変と自律神経症状

2023年07月17日 | 日記

さて、脊柱管狭窄症の症状というと間欠性跛行が有名ですが、他にも様々な症状があることはご存知でしょう。

しかし、自律神経症状に言及したものはほとんど見たことがありません。単に私が不勉強なだけかも知れませんが。

自らが経験した症状を紹介します。

<起立性低血圧> 所謂、立ち眩みです。リハビリの一環として、ぶら下がり健康法ではありませんが、手術後1年くらいしてから、自宅でも牽引療法に変わるものとして、ぶら下がり運動を始めました。そんなことをしてもすべり症が戻るとは考えていませんでしたが、やってみるととても気持ちがいいことに気づき、自宅車庫の梁に介護用の小型の手すりを取り付け、寝る前などに僅かな時間ぶら下がるようにしました。すると、何の関係か分かりませんが、ぶら下がると立ち眩みが出現し、意識を失いそうになることがありました。中学生の頃、立ち眩みから気を失ったことが2度ほどあり、自分でその直前の感じを覚えていますので、今では意識を失う前に危険な姿勢を直すことが出来ます。このぶら下がりの時も、目の前が暗くなる感じが出てきたところで、手すりから降りて、事なきを得ましたが、少し休んで再び試すと立ち眩みがまたやってくるのです。3回くらいは再現できました。このようなことが、おそらくその日の体調との関係でしょうが、時々現れます。脊椎に伸展刺激が加わると、迷走神経の異常な反射が誘発されるのではないかと想像しています。個人的な経験ですが、環椎軸椎亜脱臼の患者さんで何人かで起立性低血圧によると思われる、失神を見たことがあります。脊椎病変で、そういうことが起きうると思っています。

<体温調節障害>此は、今にして思うと、かなり早い段階で出ていた症状だと考えています。30代の頃、間欠性跛行の症状が出始めていた頃、下肢の症状として、寒暖の感覚障害とそれに伴う体温調節障害があります。

どういうことかと言いますと、足は冷えているように感じるのに手で触れてみると逆に暖かく、寧ろ火照り気味だったり、逆に熱く感じているのに触れると冷たかったりということがあります。特に日中、長時間歩行した夜、寝床でそういう感覚のためになかなか寝付けないことがよくありました。最近では、お年寄りの「足が冷えて寝付けない」という訴えに、「触った時には冷たくないでしょう?」と確認すると、「そうなんです」という答えが返ってきます。こういう人たちには、脊柱管狭窄症が隠れていないか、確認の検査をおすすめします。大抵は軽症ですので、リマプロストなどがよく効きます。

自覚的に熱い、冷たいと感じているだけではなく、その状態に対して体温調節が働くと、足が冷えていると感じる時には、全身は体温を上昇させる方向に働き、足は冷たく感じているのに嫌な汗をかくように体が火照って来ます。逆に足が火照っていると感じるときには、体が冷えていくということになりがちです。どちらも深いな症状です。若いお医者さん達にはわかりにくいと思いますが、年寄りや若くても狭窄症がある人には、このような症状もあることを知っていると、対処の仕方が変わるでしょう。