奥崎謙三 神軍戦線異状なし

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第2章 入営

2008-02-06 15:13:38 | 奥崎謙三物語
 水夫の仕事を二年続け、神戸に帰ってくる頃には、日本は西欧列強に対して、大立ち回りを繰り広げていた。奥崎は、どうせ兵隊に取られるのであれば、早く二年の兵役義務を果たして、それから人生を出発し直そうと思い、海軍を志願した。しかし、結果は第一乙種合格。検査官は
「海軍なら志願できないが、陸軍なら可能だ」
そう言われた奥崎は陸軍しか志願できないのなら来年にすると断った。これには裏があり、昭和一四年当時、帝国陸軍の主戦場は中国大陸であり、海軍は無傷であった。満蒙国境のノモンハンで、大型機械化部隊のソ連軍に大打撃を受けて間もなく、独ソ不可侵条約が結ばれた。ヒトラーとスターリンのかけ引きに戸惑った平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」と声明を出して内閣総辞職した。中国大陸の戦況は泥沼であったのである。こうした理由から奥崎は海軍を志願となるのであるが、昭和一六年十二月に真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発。戦局は拡大され、海軍に志願すれば生きて還れるという淡い望みは絵空事となる。もし海軍入りしていたら奥崎の人生はどのようになっていたのであろうか。
明けて昭和一五年、二十歳になった奥崎は、改めて正規の徴兵検査を受けて、甲種合格となる。一年間の戦局の変化は前年の乙一種合格を甲種合格に引き上げるほど、兵員の消耗が激しかったといえる。

日本の徴兵制は一八七二(明治五)年の「全国徴兵に関する詔」および一八七三(明治六)の「徴兵令」の布告による国民皆兵制がとられたことに始まる。
 一九二七(昭和二)年に徴兵令は廃止、兵役法が公布され、日本の男子は満二〇才になると徴兵検査を受ける義務が課せられた。
徴兵検査は、フンドシ1枚になって,身長・体重・測定視力検査の後、軍医の前で、痔や梅毒を検査する方法に加えて、身上についても行われた。終わると順番に徴兵官の前に呼ばれて判定を受けるのである。検査の結果は「甲種」から順に「第一乙種」「第二乙種」「丙種」分けられ、身体や精神の状態が兵役に適さない者は「丁種」とされた。
「丁種」以外は兵役原簿に記入された。この原簿は各都道府県にある連隊区司令部に保管。この原簿から在郷軍籍人名簿が新たに作られる。これに本籍地・現住所・氏名・生年月日・学歴・これまでの職業・徴兵年次・役種・兵種(歩・騎・砲・工・輜重・衛生)の体格・特技・軍務に関する一切が記載された。
この原簿から誰を招集するかの権限は連隊区司令部に属したが、日中戦争が激化して抽選制度が廃止される一九三九(昭和一四)年迄は、甲種・乙種合格者のうちから必要な人数が抽選で招集。大学や高等師範学校などの在学者は最高二七歳まで徴集が延期された。この制度は一九四三(昭和一八)年一〇月に廃止。理工系や医科系の学生だけは、そのまま猶予された。師範学校卒業者は兵役につく期間が短くて済んだ。つまり,徴兵検査で兵役に適すると判定されたものの一部が現役兵として招集されたが、その他の大多数は補充兵として、既に現役を終えた人々とともに在郷軍人「待機集団」に組織され、兵力が不足すると、これらの「待機集団」が召集令状により軍隊にかり出されたのである。
連隊区司令部では,金品と引換えに、原簿の破棄や病歴等の改竄が行われた。招集を逃れた者の職業をみると、富裕層が圧倒的に多い。まさに「命を金で買う」とはこのことである。
 しかし、戦争の激化に伴い、現役兵だけでまかなえない兵員需要を補うために、赤紙が乱発されたことはいうまでもない。更に、徴兵年令は戦局の悪化とともに引き下げられていった。一九四三(昭和一八)年では徴兵適齢が一才引き下げられ,満一九才となり,翌一九四四(昭和一九)年には、満一七才未満の志願も可とした。いわゆる根こそぎ動員である。

奥崎は誰一人として見送られること無く、一人で入営先に出発すると心に決めていた。出征兵士を見送る姿が茶番に見えてしかたなかったからだ。父は
「餞別が貰えるから」
と、地元から出征するように勧めた。しかしながら、奥崎は頑と聞かず単身故郷を後にした。別れを惜しむ父母は入営先である岡山まで最期まで付き添った。奥崎は父母に腹立ち紛れ
「死んでやる」
と言うが、父は人目を気にしながら
「弾が飛んできたら、エエカッコせんと、一番後に下がって生きて帰るようにしろ」
やはり、父親は父親なのであった。
昭和一六年に岡山工兵隊にて小銃を受取、宇品から中国大陸に向けて出航。中支九江工兵隊に入隊し、三ヶ月間の初年兵教育を受けた後、昭和一八年に奥崎の今後の運命を翻弄する独立工兵三六連隊の要員として転属を命じられ、上海に向かう輸送船に乗船する。
 輸送船の中で奥崎二度目の傷害事件を起こす。船内にて上官が奥崎自身の頭部をなんども跨いで通ることに腹を立てての所業だった。その後、ニューギニアのハンサにて上官が奥崎に非礼を詫び、奥崎もまた上官に詫び和解したが、後々奥崎が多用する「神の法」を根拠付ける要因となったことは否めない。