奥崎謙三 神軍戦線異状なし

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最終章 その後の神軍

2008-02-06 15:40:40 | 奥崎謙三物語
今は亡き遠藤弁護士も、出所後の奥崎は全く変わってしまったと言っている。出所前に散々に困らせられて、尚、遠藤の目には奇怪に映ったのだろう。出所前に遠藤に宛てた手紙には
「新泉社が獄中から出版した、印税を払ってくれないので、出所したら社長を殺します。殺す現場はテレビ局に撮影して貰います」
と書いてあったらしい。遠藤は困ったなと思っていたら、一九九七年九月に奥崎がひょっこり予約無しで現れたそうだ。遠藤の妻が応対したが、何やら新興宗教の教祖として活動をはじめたとかいう話を聞いたらしい。これは「神様の愛い奴」の収録が終わったくらいの時期になる。以後、遠藤は奥崎と関わり合いになることは無かった。
しかし、本当に奥崎は変わってしまったのか?その答えは沢木耕太郎氏のルポにあった。沢木氏は不敬列伝で奥崎のゴッドワールドを「理想社会」として描写している。沢木氏は奥崎の「理想社会」をよく呑み込めないとしていた。不敬列伝に書かれてたのは、奥崎が天皇をパチンコで狙った時まで遡る。奥崎に会いに来た人々は、天皇制への怨嗟を奥崎が吐露することを聞くことが目当てであるが、奥崎は「理想社会」の話を取り憑かれたかのように延々と続けるので、呆れて帰ってしまうらしいのである。奥崎も
「この間も有名らしい人が来て私にいいましたよ。元兵士としての奥崎謙三は理解することを努力するが、理想社会だの世界の真理だのという奥崎は理解できない。私は別に理解されなくても構いませんがね」
そう、奥崎は皇居パチンコ事件を起こした、数十年も前からゴッドワールド的なことを周囲に吹聴していたのだ。それを一部のメディアが歪んだ形で発するものだから、情報を受け取る側が勘違いしてしまう。天皇や戦争責任だけのアクションだけ都合の良いようにねじ曲げてパッケージ化したメディアの罪は重い。沢井氏も「ヤマザキ、天皇を撃て」を
「一人の市井人が、天皇という存在に対してどこまで透徹した認識が持てたかの稀な記録」
と持ち上げている。皇居パチンコ事件が起きたのが昭和四〇年代。この時期は反戦運動が盛んだった時期である。運動を盛り上げる材料として、奥崎は体よく作られた偶像に過ぎず、大衆は自己の都合の良いように奥崎という帰還兵を反戦のシンボルとして崇めていたに他ならない。つまり、調子よく踊らされていたのだ。

パチンコ事件時の奥崎の心中は、大勢の犠牲者を出した太平洋戦争は、天皇の詔勅によって始まったとし、ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは処刑されていたという事実に触れた。そして、天皇は責任を問われることなく、公然と今の地位に存在していると共に、それを許している大衆を軽蔑すると主張する。そして、死刑を覚悟して天皇を殺害せしめんとしても、ガードが堅すぎて、絶対遠く高い所にいて実行は不可能と言いながらも、ニューギニアの密林で飢え乾き、死んでいった戦友の無念を捨てきれないからだ。よって虚しく死んでいった名も無き兵士達に向かって
「天皇を撃て」
と慟哭し続けることを、やめることは出来ないとまとめている。しかし、この決意が段々と「理想社会」の話が見え隠れしながら、ブレが生じてくるのだ。
「宇宙人の聖書」の出版を断られたとき、理由は
「天皇をパチンコ玉で撃ったことで、戦争責任、戦争存在を教えられたと感銘うけた。奥崎さんは真実のキリストかも知れないが、私は真実のキリストを求めようとは思わない」
天皇という菊のタブーに敢えて接触した、アクションのみが一人歩きしたのだ。

原によると「ゆきゆきて神軍」の人肉食やデッチあげ処刑の真相追及する件も、最初は奥崎はあまり乗り気ではなかったらしい。兎に角、自分のことを格好良く撮ってくれと、そういう態度がアリアリと感じられたそうだ。映画を利用して何かをやりかがっていたのは確かだ。最初は処刑事件の真相を追及するために、相手宅に行っても、奥崎が逃げるような言葉を与えてしまうので原は困り果てていた。この頃奥崎は
「私は宗教は嫌いなんですが、宇宙・自然・神を敬う宗教というか奥崎教っていいますかね、作ったろうと思ってますねん」
まじまじと原に言っていた。元上官の村本宅にて、村本の妻にも
「小学校出の私をですね、警察は何故か、先生と呼ぶんです。何故かどうしてだと思われますか?」
村本の妻の口から出たセリフはまるっきり奥崎をコケにした
「よくお調べになったら如何ですか?」
奥崎は言って欲しかったセリフを自分で言った
「それはですね、私が先生と呼ばれるような生き方をした結果ですよ」
奥崎は「先生」と呼ばれることに、やたらとこだわっていたのであった。そんな恥部を見せずに、「ゆきゆきて神軍」を反戦ドキュメンタリーに仕立てた原一男の編集技術は神業と言えよう。

奥崎自身も「ゆきゆきて神軍」のことをこういっている
「自分の生き方を認められる内容の映画を希望したが、原監督は戦争被害の実情を報告するドキュメンタリー映画を作りたかったようだ。そのため、私は被写体となることを二度三度やめようとしましたが、原監督の謙虚な態度と、真摯な情熱が、「負けるが勝ち」という結果をもたらしてくれた。そして、奔馬の如き私は、老練な御者に操られるが如く、原監督の見事な手綱さばきによって、「ゆきゆきて神軍」という馬場を、思いのままに駆けめぐらせられる仕儀と、相成ったのであります」

そして、村本氏の長男をピストルで打った後は自身のことを
「本当の救世主・神様代行」
と自称しはじめた。「改正教」という自分を教祖とする宗教を立ち上げたのもこの頃からである。改正教とは、ただ奥崎が「改正教」と書かれたユニフォームを着るだけで、世界人類が平等に生きれる世界を作るというのが教義である。もう本当に何が何だか良くわからない。その後は件の血栓溶解法を神様から授けられたと言って、周囲の人間に強要させるのであった。獄中からも、支援者宛に、国連と国会宛に自分を放免して、血栓溶解法でノーベル賞を授与されることを依頼した手紙を書いている。

医療刑務所に収監される頃には、軽い痴呆症に掛かっていたのだろうか。奥崎は刑務所で看守に向かい
「神様は私の方が立派な人間であるということを認めております」
天皇に対して戦争の責任追及をしたのも、奥崎がただ自分の境遇を呪って、逆恨みしたことをマスコミが都合の良いように取り上げたに過ぎない。原も時代に合わせて奥崎を操り、根本も奥崎をネタに弄んだ。ただ、天皇をパチンコで狙う幼稚な行為が元で、ここまで一人の人生が起伏激しいものになるとは恐ろしい。
最期は
「奥崎先生を尊敬しております」
こう言われたいが為に、何でも言いなりになってしまう始末だ。生活のためなら仕方がないとしても、自分の見栄のために、戦友や天皇をダシに使うのは些か食傷気味だ。
「しあわせはその人がきめる」
というのは、会田みつをの言だが、極貧の幼少自体を経て、ニューギニアで一パーセント以下の生存率で帰国した奥崎は確かに戦争被害者であるが、死地より生還後、生き方は他人に操られながらも、自由気ままに行動していたように思える。他人から見ればあまり誉められた一生ではないが、奥崎自身としては自画自賛の人生だったのではないだろうか。
晩年は「メディア」という言葉を多用した。どうも、奥崎の言う「メディア」とは、ダシに使うとか、利用するとかいう意味のようだ。そして来る人全てに血栓溶解方を実演し、見るものを呆れさせるのであった。かつての支援者が奥崎をこう評した
「老いたる幼児」
まさにこれにつきると思うのだが、その支援者が奥崎を
「宇宙の聖者」
と評し直した。ここに奥崎と、その取り巻きとの面白みがあるのかもしれない。

奥崎は戦争被害者だ。過去の戦争のことを出されると沈黙せざるを得ない。誰も戦争に行きたくないのだ。それに奥崎自身も、生き残ったということは何かしら、他人には言えないようなことをしているという弱みも知っているのだ。
そういった経緯があるので、周囲は免罪キャラ的な奥崎が何かとてつもないことをやってのけることを待ち望んでいるのだ。先生とか言って煽てて、何かとてつもなく大きな物とケンカするようにケシかけていたという方が正解かも知れない。豊かになったと言っても、一般大衆は規則付いた単調な毎日を過ごしていることが殆どだ。
それにようやく奥崎も気がついたのだろう。本当に狂っていたのか、狂ったフリをしていたのかは奥崎本人しか知り得ないのだ。
「毎日がうれしい」
晩年そう言っていた奥崎を見て、同様に遠くから奥崎を煽っていた自分は少し救われる思いがした。

奥崎は残りの人生を色に狂った。もう自分一人では歩くこともままならないので、空の台車を歩行器代わりによく、ソープランド街である福原に通った。福原は、奥崎の自宅から歩いて十分位の所にある。柳筋と桜筋という二つのストリートからなり、それなりに人でにぎわっている。やはり、女遊びは安くはない。福原だと九〇分で大体二、三万が相場だ。しょっちゅう行くので蓄えも使い果たし、足りない分は知人から借金してまで通い続けた。

「私は出所してから七回射精しました。これを聞くと奥崎はスケベと思うかしらないけれど、私は女・酒・煙草にこれまで狂ったことはなかった。絶対女なんかにうつつを抜かしません。それで身上を潰した人もおるけれどね、それは神様がそういうキャラクターを与えてくれたから。私に今セックスさせるのは神様が埋め合わせしてくれてるから。独居房に二八年、軍隊に五年合計三三年いたから、セックスも普通の人より少ないから、神様が埋め合わせしてくださってる」

平成一〇年四月。最初の異変が起こった。支援者である中川氏が奥崎に電話を掛けても留守電で繋がらない。不審に思い自宅に行くと、奥崎はいびきをかいて、いくら揺すっても目を覚まさない。顔面は吐瀉物で汚れている。中川氏はすぐに一一九番通報し、救急車で病院に担ぎ込まれた。病状は脳梗塞と肺炎。医師は元に戻っても、普通の生活は出来ないと診断した。
翌日、支援者が見舞いに行くと奥崎は両手を股間にやり、上下に動かしている。「血栓溶解法」だ。意識不明なままでも、奥崎は「血栓溶解法」を実践しつづけていた。奥崎の世話をする看護婦は困惑気味だったそうだ。入院から五日後、奥崎は驚異的な快復力を見せて、意識が戻る。
一ヶ月後、脳梗塞の後遺症に対処するために、リハビリセンターに転院するが、
「ここの食事は少ない」
と、深夜に無断で病院を抜け出し、タクシーで自宅に帰ってしまった。

翌年の夏、中川氏が通りがかったついでに奥崎の自宅を訪ねると、風呂場で倒れて意識のない奥崎がいた。隣人によると三日前から風呂場の水か流れる音が聞こえていて、それが事実なら三日間意識不明のまま放置されていたことになる。もうそこには、マークしていた警備課の私服警官の姿も消えていた。神軍平等兵としての奥崎は居ないのだ。この時も脳梗塞で入院し、程なく退院した。
平成一六年夏、再度自宅に倒れているところを発見された。入院した奥崎が再び自宅に戻ることは無かった。首を微かに動かす程度で、もう血栓溶解法もすることができなかった。見舞いに訪れた中川氏には
「みんな、ようしてくれます」
と嬉しそうに言っていた。
しかし、死亡時の毎日新聞の記事によると、看護婦や主治医にしょっちゅう「バカヤロー」と怒鳴りつけていたらしい。

そして、平成一七年六月、奥崎は蝉時雨を聞くことなく息を引き取った。主を失った奥崎の自宅もほどなく取り壊され、現在は更地となっている。筆者が訪れたときは、敷地には誰にも入れないように金網が張り巡らされていて、地面には無機質に砂利が敷き詰められていた。次の主が来るのを待っているが、おいそれとは決まらないだろう。ある夏の暑い日、私は奥崎の家を訪ねた。既に家は取り壊されて何もないことは知っていたが、行かずにはおれなかった。奥崎の家はJR兵庫駅を降りて、長い坂を登った先にあった。私は近くで買ったビールと菊の花を跡地に供え、目を閉じ手を合わせた。奥崎謙三、私はあなたを忘れはしない。あなたは天に還らず、地上の人々の心の中を彷徨い続けるだろう。そして安らかに眠れ。


3 コメント

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地道が一番! (無名朝鮮人)
2009-01-03 00:15:02
無名朝鮮人です。
また書き込みました。
人は地道に一生懸命頑張って、生きていく事に価値があって、神軍奥崎の様な生き方はまっぴらゴメン被ります…
おわり
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奥崎先生の思想 (反転日の丸)
2009-07-11 15:47:15
重症の気違いであります人類を象徴している、
原一男と根本敬を殺したい!と思いましたが・・・

たとえ殺したって奥崎先生はお喜びにならないでしょう。心の中であの忌々しい2人を殺すことにとどめます。
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見てはいけない物 (ブルーボッサ)
2015-02-17 03:29:31
今ごろになって、ゆきゆきて、、を見ました、共産主義(左翼)なのだろうが、その辺りの場面はなかった(冒頭の結婚式の場面が少しある)事が、非常に面白く右、左の立場の意見が聞きたい
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