奥崎謙三 神軍戦線異状なし

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第一四章 裁判

2008-02-06 15:35:13 | 奥崎謙三物語
時間の針を少しだけ戻すことをお許し願いたい。兵庫署にて自首して三日後に奥崎は広島の大竹署に移送された。到着したとき、野次馬が罵倒したが、奥崎はひるまず
「馬鹿たれ、お前でも良かったんやぞ」
鋭く睨み付けると、野次馬は奥崎の勢いに呑まれた。大竹署の署長から奥崎に餅が差し入れられた。村本氏長男の殺害未遂による第一回公判は昭和五九年二月二九日に行われた。弁護人は国内を代表する弁護士の一人、遠藤誠である。戦時中は戦死した父の敵討ちをしようと、陸軍幼年学校へ入学するが、戦後になって父親の形見の従軍手帳を読み、中国大陸での日本軍の行為を知ってから以後は昭和天皇の戦争責任を追及し、一貫して反国家権力の立場で活動した。帝銀事件弁護団長や、反戦自衛官訴訟弁護団長を歴任。永山則夫の弁護人を務めた。遠藤と奥崎との出会いは、遠藤が奥崎の「宇宙人の聖書」を読み、手紙とカンパを送ったことに端を発する。その後、奥崎は車持込で遠藤の運転手を務めていた。夜は遠藤が家の中で寝ろと言っているのに、奥崎は何故か遠慮して車の中で寝ていた。遠藤は開口一番吠えた。

「法神仏は、支配する者と支配される者との階級をお認めにならない。したがって諸悪の根源は国家権力であり、かつてその頂点に立つのは天皇裕仁である。よって法神仏すなわち神の命令によって彼は天皇を殺そうとした。しかし、ガードが堅くて殺せない。そこで彼は終戦後、人肉問題で自分の立場を守るために無実の罪の兵隊二人を銃殺したミニ天皇、村本政雄を天皇の代わりに殺そうとした。彼の行動は正義に基づく。よって無罪である。」

何やら、無茶な答弁であるが、一応、第一級の弁護士の発言である。遠藤は旅費や日当のみで奥崎の弁護人となった。裁判の流れは、田中角栄等の証人喚問を請求するところはやり過ぎだとしても、村本氏と元部下達から、自分たちがイギリス軍の人肉を食べて生き延びたことから、戦犯としての責任を逃れるために、無実の兵士を処刑したという決定的な証言を得た。この件がバレていたらおそらく、村本・その部下達は問答無用で銃殺刑であることは間違いない。終戦後の軍事裁判は戦勝国のやりたい放題で、大勢が無実の罪で処刑されていた。法廷戦術は戦争犯罪を追求することを大義名分に掲げ、裁判は奥崎に有利に運ばれるように見えた。
しかし、遠藤が言うには、奥崎は「俺が主役」のような振る舞いが目立ったらしい。流石に遠藤は奥崎に忠告した。

「自分に不利になるような発言は止めた方が良いですよ」
二週間後、遠藤は奥崎に解任された。既に奥崎は有頂天になっていたと思われる。原が甘やかしすぎたこともあるのだろう。察するに、裁判官や検察官、はたまた村本を始めとする処刑に加わった証人一同が、奥崎よりも遠藤弁護士を下にも置かない態度で接するので、奥崎は大いに妬いたのだろう。所詮、奥崎と遠藤では格が違いすぎるのである。東大法学部出身で元裁判官の遠藤に対して失礼な態度を取る方がムリがあるのだ。
遠藤の弁護を望んでも袖にされる依頼人の方が多い。しかも、奥崎はタダで(実費のみ)で弁護して頂いているのだ。遠藤弁護士の解任に一番驚いたのは妻のシズミだった。
「遠藤先生以外に、誰があなたの弁護ができますか。私が最も信頼する遠藤先生を解任するのであれば、私は面会も差し入れもしません」
これには、奥崎も今回はシズミの言いなりにならざるを得ない。奥崎はシズミに殆ど毎日、電報を打ち、手紙は全て速達郵便で出していた。それ程に心の支えであったのだ。拘置所の中に居る奥崎はシズミの手助けがないと何も出来ない。すぐさま再選任を申し立てたが、遠藤は
「人形の首では無いので、一遍切られた首は繋がりません」
拒否した。すぐに裁判長本人から
「遠藤先生の気持ちはわかりますが、この事件は遠藤先生でないと務まりません」
再度、選任を要請されるが
「気持ちはありがたく頂戴します。一旦解任されたら天地崩れても二度と受けないのが遠藤誠のやり方。あとは広島弁護士会の先生を国選に」
と、完全に奥崎の弁護から手を引くことになった。遠藤もプライドがあるのだ。恐らく、法廷での事前打ち合わせでも相当揉めていて、遠藤をイライラさせていたのだろう。奥崎の弁護人は国選の弁護士が就任した。



明けて昭和五九年審判が下った。荒木恒平裁判長は、
「社会構造を否定する独自の主義・主張に基づいて、周到に用意した上での犯行で、直接関係のない人間を撃っており悪質。自分の思想をひろめるため世間の注目を集めようとした計画的犯行である。悲惨な戦争体験が被告にこのような犯罪を起こさせたと思われるが、それでも、許しがたい。本人は今後、暴力を使わずに思想の普及を図るとしているが、再犯のおそれもある」
検察側の殺人未遂、銃刀法違反罪懲役一五年の求刑に対して、懲役一二年の判決を下した。これに対し奥崎は即刻控訴した。
昭和六一年、妻のシズミが死亡した。肝臓が悪かったのだが、奥崎には内緒にしていたのだ。シズミの死後、拘留中の奥崎の元に、結構まとまった金額で、得意先からの売掛金や香典が送金された。シズミは奥崎が収監中も懸命にバッテリー業を続けて、最期まで奥崎を支援したのだ。