奥崎謙三 神軍戦線異状なし

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第一六章 最期の務め

2008-02-06 15:36:44 | 奥崎謙三物語
「ゆきゆきて神軍」発表後、反戦のヒーローとして一躍時代の寵児に躍り出た奥崎ではあったが、熊本刑務所に下獄した頃には、奥崎の支援者は殆ど奥崎の元を去っていった。あまりの奇行ぶりに周囲は愛想を尽かしてしまったのだと筆者は考える。妻のシズミ死後、シズミの弟である石地文治氏にも関係を絶たれ、奥崎の身元引受人には山部嘉彦氏が就任したが、その手紙たるや常人には理解できる代物ではない。その一部を紹介しよう。

拝啓、一一月一五日に刑を執行され、独房で紙袋を作る作業をさせられております。私の満期出所日は、昭和七二年八月一九日です。私の戦意は、未決囚当時よりも強くなりました。これから私の本領を発揮します。
遠藤先生に左記のことをお伝え下さい。
人類全員を一如にするため努力する者が、神様と人類全員から、祝福・尊敬されるのであります。本当に知るとは、人類全員を一如にするため役立つ行動をすることであります。
一部分の人間のために役立つ行動をする者・私生活・日常生活にかまけている人は、本当に知らない人すなわちドクサであります。ですから今日まで生きてきたすべての人は、ドクサであります。尊敬されません。人類全員を一如にする目的の手段としてする私の民事・再審請求等に力をおかし下さい。
三二年前に受刑者になった時よりも多く恵まれております。他事ながら御放念ください。必ず元気で凱旋し、『ゆきゆきて、神軍2』を、疾走プロダクションの原一男監督・小林佐智子ご夫妻とスタッフの皆様につくっていただける、と思っております。遠藤先生も主役の一人になって下さい『ゆきゆきて、神軍2』のファースト・すでに考えております。今年は、私にとって最良の年になりました。よい新年をお迎え下さい。以上。

刑務所に行きましたら、じっくりと腰を据えて、殺人・暴行・猥褻図画頒布、殺人未遂の四事件の再審請求をいたします。四事件の原因は、人の上の人・国家・法律によって私の戦友が、三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死させられたために私の精神が、一般の日本人・国民の如く生きることに耐えがたい精神になったことであります。そして、一般の日本人・国民の精神が正常であるとすると、私の精神が異常になったことであります。ですから私は、権威がある精神医に、精神異常と認める鑑定書を作成してもらい、その精神鑑定書を、再審請求の証拠の一つとして提出したい、と思っております。しかし、私は、人の上の人・国家・法律に対して、私よりも多く従った戦友が、三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死したために私の精神が、一般の日本人・国民の精神よりも正常になったのである、と思っております。だから四つの事件をしなければ耐えられなかったのであります。
それゆえに、私が起こした四つの事件の原因と責任は、私の戦友を三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死させた、大日本帝国軍隊の大元帥・最高責任者であった、偽の天皇裕仁を頂点とする日本の人の上の人と、彼らのために捏造された日本の国家と、偽の法律である日本国の法律であります。然るに、日本の人の上の人・国家・法律は、私が起こした四つの事件の原因・責任は私にあると認め合計二四年八ヶ月の懲役を私に与えたのであります。

監獄は、私にとって、天国・極楽・聖地・浄土・彼岸・二河白道・シャングリラ・日の国・神様の世界に近い場所であります。そして、心が、最も安らかで多く満ち足りることができる安息所であります。十二月二日の夜は、受刑者になってから初めて午後九時まで、乱筆の乱文を書くことができましたので、精神が安定しました。そして嬉し涙を多くこぼしました。今日まで生きてきた者の中で、嬉し涙を最も多くこぼした者は私である、と思っております。独房は、神様にアプローチすることが最も多くできる場所であります。独房で生きると、神様の有難さがよくわかります。そして、神様と神様の法律に背く本当の罪を犯すことが少なくなります。右手の指がシビレて痛むまで乱筆の乱文を書いたことも、神様と神様の法律に背く本当の罪を犯したことになります。しかし、軽い罪であります。だから自分で治せる自信があります。長いあいだに悪くした右手の指を治すのには、長い時間がかかります。今朝も未明に起きて、左手の甲の上に右手を乗せ、その上に尾骨を乗せ、痛む箇所を体重で圧迫する体圧療法を、二時間余りしました。房内作業を休ませてもらえましたら、未決囚の時のように治療に昼間も専念することができます。しかし、元軍医の広拘の医師は、房内作業を休むことを認めてくれません。人の体の痛みは、当人にしかわからないからであります。独房で全身の痛みを体圧療法で治してきた私は、凱旋してから体圧療法を多くの人に教えてあげようと思っております。

私が起こした四つの事件の判決に心服できない私は、力づくで作業をさせられることに精神的苦痛を、一般の既決囚よりも多く感じます。力があれば人の上の人と検事・判事を獄に入れ、人類全体を一如にしたい、と思っております。勝ち目のないことをしない主義の私は、自分に理があっても力がないので、勝機が訪れるまでは面従腹背してきました。そして、勝機が訪れると俄然攻撃を開始し常に勝ってきました。現在の私は、三十一年前の十一月七日に大刑へ新入した時の私よりも肉体は弱くなっております。しかし、精神は強くなっております。
私が、すべての警察官・刑務官に対して「先生」と言ってきたことを、軽蔑する人があるであろう、と私は思っております。私を軽蔑する人は、自分から、私の如く誰よりも多く尊敬されない人であります。『ゆきゆきて、神軍』の私が演技をしているように私は、独房の中でも演技しているのであります。カメラがあろうがなかろうが私は、演技してきました。神様と自分から見られているからであります。つい今しがた私がこぼした涙も、『ゆきゆきて、神軍』で私がこぼした涙も、演技でこぼした涙であります。私は、嬉し涙をこぼす演技を最も得意とする役者であります。そして、自分より不幸な人のために涙をこぼす演技もできます。しかし、自分の不幸を悲しむ涙をこぼす演技はできません。嬉し涙を誰よりも多くこぼしてきた私は、誰よりも多く仕合わせな果報者であります。

一般人には到底理解できない内容であるので、このくらいにしておく。奥崎は収監後、「非国民奥崎謙三は訴える」「ゆきゆきて「神軍」の思想」「奥崎謙三服役囚考」しめて三冊の本を、新泉社から出版するが、全てが獄中書簡をベースとした内容で、一事が万事、このような書き殴り的な内容で、とてもまともな精神状態とは思えない。
獄中から本を出版するということは特例措置である。当時の刑務所事情として、永山則夫が「無知の涙」で文学賞を受賞したこともあり、受刑者が小説を書くと言うことを極端に警戒していた。なにぶん、受刑者とマスメディアとの接触を嫌うのだ。
刑が確定していない未決囚は人権が認められて、雑誌に投稿しようが、手記をしたためようが全く問題はないのであるが、刑が確定した囚人の仕事は懲役であり、小説を含めて文章を発表すると言うことは二重労働にあたるのだ。
奥崎は毎日平均で便箋三〇枚を書いた。本来ならば受刑者には一ヶ月便箋七枚という制限があるのだが、一ヶ月六〇枚の発信が許された。看守もほとほと扱いには困り果てていたようだ。

妻のシズミに対してもこう綴っている。
「シズミさん。私に、生命と力と霊をかして下さい。そして、一生懸命に私を叱咤激励して下さい。毎日夢に出てきて私を励まし慰めて下さい」
その呼びかけは全体にわたってシズミへの感謝・賞賛・祈祷の言葉が続いている。奥崎は獄中で頻繁に妻とセックスする夢を見るという。奥崎にとってシズミは「第二の神様・第二のお母さん・第二のお姉さん・第一の救世主・第一の奥さん・第一の戦友・第一の神軍兵站司令官・第一の神様代行夫人・第一の恩人のシズミさん」らしい。

奥崎は熊本刑務所で八回保安房に収容された。保安房とはいわゆる「反省部屋」である。保護房には、三畳ぐらいと六畳ぐらいのものの二種類があり、床はリノリウムで、ゴザも敷いていない(髪の毛やゴミが散乱している)。壁にはラバーが貼ってあり防音装置つきで、外部からの音も聞こえないし、内部からの声も届かない。
壁の一部にガラスブロックをはめ込んでいるだけで、窓はない。看守用の蓋つきのぞき窓は三ヶ所ある。天井にビデオカメラが設置されていて、二四時間監視・蛍光灯がついている。床の隅にトイレ用のコンクリートの穴があいており、水を流す際には、看守に頼まなければならない。泥だらけの座布団一枚に座らせられる。
矯正局長通達によれば、懲罰の対象となる行為をしたと思われる者に対し、懲罰に先だって独居房に一時隔離するのが保護房収容である。本来は、収容者が自殺や自傷の恐れのある場合や、暴行・施設の損壊・逃走の恐れがある場合に拘禁する特殊房である。但し、監獄法には規定がない。とのこと。奥崎の述解によれば
「戦前は鎮静房といって、いわゆる虐待房です。夏の暑い盛りに保安房にいれられてごらんなさい。それは暑いですよ。でも、私は保安房でもうれし涙を流しました。悲しく泣いたら私は自分から軽蔑されます。うれし涙を流せば自分から尊敬されます。だから私も七〇歳以上の減刑措置で仮出所を拒否して、こうして満期出所しました。私は自分を尊敬したいんですね。満期出所した私は私を尊敬します」
受刑者は誰しも早く出たい。それ故に何をされても死んだふりをして、色々耐える。刑務所の方が社会よりヒドイわけだが、何故、刑務所で我慢できて、実社会では耐えられないのか不思議である。仮釈放を申請せずに、刑期の満了まで収容されることを「満期風を吹かす」というらしいが、こういった態度は暴力団関係者に多いそうだ。しかし、ヤクザであっても人の子であるので、仮釈放に色気がないというのもウソになる。原則的に全員1日でも早く娑婆に出たいのだ。奥崎は仮釈放や恩赦を全て断っている。

血栓溶解法という健康法も獄中で考え出した。全身を小刻みに振るわせることによって、血管にある血栓が溶けてなくなるというものである。これは奥崎が死ぬまで続ける健康法なのだが、実演している様を見ると、何やら自慰をしているようなポーズに見えて凄く滑稽に映るのだが、奥崎は至って真面目である。実際の所、医療刑務所に移送されたのは血栓溶解法のポーズが限りなく異様に映ったのが原因だと言われている。あまり特別扱いが過ぎるので、法務省からクレームも入ったのでは無いだろうか。奥崎はこの血栓溶解法を独房の中、毎日一五時間、欠かすことなくやっていた。
特に医療刑務所は最悪な環境だった。「医療」とは名ばかりで、精神障害と認定された受刑者が服役している。少しでも看守に口答えをしようとすれば、強制的に抗精神薬を服用させられるのだ。既に解体されて北九州医療刑務所となっているが、当時の城野は旧陸軍の木造獄舎をそのまま使用していて、トイレも汲み取り式の最悪な環境だった。奥崎が収監される前は、虐待事件で死亡者が発生した。
この様な状態であるので、身元引受人も付き合いきれなくなったのだろう。山部氏の次は新泉社の小汀社長が身元引受人となり、そして去っていった。去っていったというよりかは、奥崎が被害妄想から一方的に交信を断絶したというほうが正しいのかも知れない。三人目で最期の身元引受人は重松修氏が受け持つことになった。

重松氏は身元引受人になる前に何度も熊本刑務所に三度面会に行くのだが、奥崎との面会は許可されなかった。重松氏の心中を察すると、身元引受人となる前に奥崎の人となりを見定めたかったのだろう。ごく当然の考えだと言える。しかしながら、親族以外の面会は原則として許可されない。何度か通いながら、刑務所長の「特例」の許可が下りるのを待つしかないのである。最近になって受刑者処遇法が改正され、そういった縛りはなくなったようである。
重松氏が奥崎との面会を許可されたのが、奥崎が城野医療刑務所に移管されてから3度目の訪問の時であった。たまたま重松氏の記事が朝日新聞に掲載されたというのも要因の一つだったのだろう。奥崎は当時三四歳だった重松氏に養子になることを言うが、重松氏は断った。その時の心中を次のように語っていた。
「それも、その時は考えたんですけど、今回もそうだけど、逃げちゃうんですよね。神軍とかにはなれないという。やれるかもしれないとは思ってました。本物の神軍ではなくコピーでもいいかなと、かなり考えたんですけど、踏み込めないっていう理由で断って、奥崎さんに根性無しと言われました」
刑期の満了が近づき、奥崎が身元引受人である重松氏の最寄りの管轄である府中刑務所に移送されるのは、釈放の二週間前であった。

奥崎は何故、満期出所で仮釈放は下りないのだろうか?
刑法第二八条には、
懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。
と定められているが、実際に仮釈放が許される時期についてほとんどのケースが、有期刑は執行刑期の三分の二以上、無期刑は刑確定後二〇年以上が経過してからである。
 ということであれば、原則三分の二の刑期をつとめあげれば、仮釈放で出所できるのかというと、答えはノーだ。仮釈放は条件付きなのだ。暴力団関係者に限っては所属している組に脱退届を提出し、官にはカタギになる旨の誓約書を提出しなければならない。
一般人ではどうか?地方更生保護委員会の面接を三回受けなければならない。それに家族が保護引受しなければいけないという条件付きだ。聞かれる内容は、

「過去の生活」
「被害者に対してどう思うか」
「出所すればどうするか、また、どうしたいか」
等、過去の贖罪や、将来設計に関するものだ。そして、絶対的な条件として被害者に「香花料」を払うように打診がある。更生保護委員会は、「香花料」を払うことは仮釈放の条件とはしないと言いながらも、これを払う意思の無いものの仮釈放は絶対に許可しないしくみになっている。
もう、おわかりだろう。裁判で改悛の念無しと審理されて、獄中でも全ての犯罪は正しいと外部に手紙を垂れ流している奥崎にとって、仮釈放など下りるわけはないのだ。たとえ恩赦があろうとも審査無しで放免ということは無いだろう。実際、恩赦を出願しても一〇〇パーセント減刑されたり、釈放されるわけではない。恩赦出願中に処刑される死刑囚も存在するのだ。恩赦や仮釈放を出願して、それで却下されたら格好悪い(奥崎の場合は却下される可能性の方が濃厚)ので、わざと満期出所で自分の株を上げようと目論んでいたのであった。
因みに昭和天皇崩御時には既決囚の恩赦は無かった。