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最終章 その後の神軍

今は亡き遠藤弁護士も、出所後の奥崎は全く変わってしまったと言っている。出所前に散々に困らせられて、尚、遠藤の目には奇怪に映ったのだろう。出所前に遠藤に宛てた手紙には
「新泉社が獄中から出版した、印税を払ってくれないので、出所したら社長を殺します。殺す現場はテレビ局に撮影して貰います」
と書いてあったらしい。遠藤は困ったなと思っていたら、一九九七年九月に奥崎がひょっこり予約無しで現れたそうだ。遠藤の妻が応対したが、何やら新興宗教の教祖として活動をはじめたとかいう話を聞いたらしい。これは「神様の愛い奴」の収録が終わったくらいの時期になる。以後、遠藤は奥崎と関わり合いになることは無かった。
しかし、本当に奥崎は変わってしまったのか?その答えは沢木耕太郎氏のルポにあった。沢木氏は不敬列伝で奥崎のゴッドワールドを「理想社会」として描写している。沢木氏は奥崎の「理想社会」をよく呑み込めないとしていた。不敬列伝に書かれてたのは、奥崎が天皇をパチンコで狙った時まで遡る。奥崎に会いに来た人々は、天皇制への怨嗟を奥崎が吐露することを聞くことが目当てであるが、奥崎は「理想社会」の話を取り憑かれたかのように延々と続けるので、呆れて帰ってしまうらしいのである。奥崎も
「この間も有名らしい人が来て私にいいましたよ。元兵士としての奥崎謙三は理解することを努力するが、理想社会だの世界の真理だのという奥崎は理解できない。私は別に理解されなくても構いませんがね」
そう、奥崎は皇居パチンコ事件を起こした、数十年も前からゴッドワールド的なことを周囲に吹聴していたのだ。それを一部のメディアが歪んだ形で発するものだから、情報を受け取る側が勘違いしてしまう。天皇や戦争責任だけのアクションだけ都合の良いようにねじ曲げてパッケージ化したメディアの罪は重い。沢井氏も「ヤマザキ、天皇を撃て」を
「一人の市井人が、天皇という存在に対してどこまで透徹した認識が持てたかの稀な記録」
と持ち上げている。皇居パチンコ事件が起きたのが昭和四〇年代。この時期は反戦運動が盛んだった時期である。運動を盛り上げる材料として、奥崎は体よく作られた偶像に過ぎず、大衆は自己の都合の良いように奥崎という帰還兵を反戦のシンボルとして崇めていたに他ならない。つまり、調子よく踊らされていたのだ。

パチンコ事件時の奥崎の心中は、大勢の犠牲者を出した太平洋戦争は、天皇の詔勅によって始まったとし、ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは処刑されていたという事実に触れた。そして、天皇は責任を問われることなく、公然と今の地位に存在していると共に、それを許している大衆を軽蔑すると主張する。そして、死刑を覚悟して天皇を殺害せしめんとしても、ガードが堅すぎて、絶対遠く高い所にいて実行は不可能と言いながらも、ニューギニアの密林で飢え乾き、死んでいった戦友の無念を捨てきれないからだ。よって虚しく死んでいった名も無き兵士達に向かって
「天皇を撃て」
と慟哭し続けることを、やめることは出来ないとまとめている。しかし、この決意が段々と「理想社会」の話が見え隠れしながら、ブレが生じてくるのだ。
「宇宙人の聖書」の出版を断られたとき、理由は
「天皇をパチンコ玉で撃ったことで、戦争責任、戦争存在を教えられたと感銘うけた。奥崎さんは真実のキリストかも知れないが、私は真実のキリストを求めようとは思わない」
天皇という菊のタブーに敢えて接触した、アクションのみが一人歩きしたのだ。

原によると「ゆきゆきて神軍」の人肉食やデッチあげ処刑の真相追及する件も、最初は奥崎はあまり乗り気ではなかったらしい。兎に角、自分のことを格好良く撮ってくれと、そういう態度がアリアリと感じられたそうだ。映画を利用して何かをやりかがっていたのは確かだ。最初は処刑事件の真相を追及するために、相手宅に行っても、奥崎が逃げるような言葉を与えてしまうので原は困り果てていた。この頃奥崎は
「私は宗教は嫌いなんですが、宇宙・自然・神を敬う宗教というか奥崎教っていいますかね、作ったろうと思ってますねん」
まじまじと原に言っていた。元上官の村本宅にて、村本の妻にも
「小学校出の私をですね、警察は何故か、先生と呼ぶんです。何故かどうしてだと思われますか?」
村本の妻の口から出たセリフはまるっきり奥崎をコケにした
「よくお調べになったら如何ですか?」
奥崎は言って欲しかったセリフを自分で言った
「それはですね、私が先生と呼ばれるような生き方をした結果ですよ」
奥崎は「先生」と呼ばれることに、やたらとこだわっていたのであった。そんな恥部を見せずに、「ゆきゆきて神軍」を反戦ドキュメンタリーに仕立てた原一男の編集技術は神業と言えよう。

奥崎自身も「ゆきゆきて神軍」のことをこういっている
「自分の生き方を認められる内容の映画を希望したが、原監督は戦争被害の実情を報告するドキュメンタリー映画を作りたかったようだ。そのため、私は被写体となることを二度三度やめようとしましたが、原監督の謙虚な態度と、真摯な情熱が、「負けるが勝ち」という結果をもたらしてくれた。そして、奔馬の如き私は、老練な御者に操られるが如く、原監督の見事な手綱さばきによって、「ゆきゆきて神軍」という馬場を、思いのままに駆けめぐらせられる仕儀と、相成ったのであります」

そして、村本氏の長男をピストルで打った後は自身のことを
「本当の救世主・神様代行」
と自称しはじめた。「改正教」という自分を教祖とする宗教を立ち上げたのもこの頃からである。改正教とは、ただ奥崎が「改正教」と書かれたユニフォームを着るだけで、世界人類が平等に生きれる世界を作るというのが教義である。もう本当に何が何だか良くわからない。その後は件の血栓溶解法を神様から授けられたと言って、周囲の人間に強要させるのであった。獄中からも、支援者宛に、国連と国会宛に自分を放免して、血栓溶解法でノーベル賞を授与されることを依頼した手紙を書いている。

医療刑務所に収監される頃には、軽い痴呆症に掛かっていたのだろうか。奥崎は刑務所で看守に向かい
「神様は私の方が立派な人間であるということを認めております」
天皇に対して戦争の責任追及をしたのも、奥崎がただ自分の境遇を呪って、逆恨みしたことをマスコミが都合の良いように取り上げたに過ぎない。原も時代に合わせて奥崎を操り、根本も奥崎をネタに弄んだ。ただ、天皇をパチンコで狙う幼稚な行為が元で、ここまで一人の人生が起伏激しいものになるとは恐ろしい。
最期は
「奥崎先生を尊敬しております」
こう言われたいが為に、何でも言いなりになってしまう始末だ。生活のためなら仕方がないとしても、自分の見栄のために、戦友や天皇をダシに使うのは些か食傷気味だ。
「しあわせはその人がきめる」
というのは、会田みつをの言だが、極貧の幼少自体を経て、ニューギニアで一パーセント以下の生存率で帰国した奥崎は確かに戦争被害者であるが、死地より生還後、生き方は他人に操られながらも、自由気ままに行動していたように思える。他人から見ればあまり誉められた一生ではないが、奥崎自身としては自画自賛の人生だったのではないだろうか。
晩年は「メディア」という言葉を多用した。どうも、奥崎の言う「メディア」とは、ダシに使うとか、利用するとかいう意味のようだ。そして来る人全てに血栓溶解方を実演し、見るものを呆れさせるのであった。かつての支援者が奥崎をこう評した
「老いたる幼児」
まさにこれにつきると思うのだが、その支援者が奥崎を
「宇宙の聖者」
と評し直した。ここに奥崎と、その取り巻きとの面白みがあるのかもしれない。

奥崎は戦争被害者だ。過去の戦争のことを出されると沈黙せざるを得ない。誰も戦争に行きたくないのだ。それに奥崎自身も、生き残ったということは何かしら、他人には言えないようなことをしているという弱みも知っているのだ。
そういった経緯があるので、周囲は免罪キャラ的な奥崎が何かとてつもないことをやってのけることを待ち望んでいるのだ。先生とか言って煽てて、何かとてつもなく大きな物とケンカするようにケシかけていたという方が正解かも知れない。豊かになったと言っても、一般大衆は規則付いた単調な毎日を過ごしていることが殆どだ。
それにようやく奥崎も気がついたのだろう。本当に狂っていたのか、狂ったフリをしていたのかは奥崎本人しか知り得ないのだ。
「毎日がうれしい」
晩年そう言っていた奥崎を見て、同様に遠くから奥崎を煽っていた自分は少し救われる思いがした。

奥崎は残りの人生を色に狂った。もう自分一人では歩くこともままならないので、空の台車を歩行器代わりによく、ソープランド街である福原に通った。福原は、奥崎の自宅から歩いて十分位の所にある。柳筋と桜筋という二つのストリートからなり、それなりに人でにぎわっている。やはり、女遊びは安くはない。福原だと九〇分で大体二、三万が相場だ。しょっちゅう行くので蓄えも使い果たし、足りない分は知人から借金してまで通い続けた。

「私は出所してから七回射精しました。これを聞くと奥崎はスケベと思うかしらないけれど、私は女・酒・煙草にこれまで狂ったことはなかった。絶対女なんかにうつつを抜かしません。それで身上を潰した人もおるけれどね、それは神様がそういうキャラクターを与えてくれたから。私に今セックスさせるのは神様が埋め合わせしてくれてるから。独居房に二八年、軍隊に五年合計三三年いたから、セックスも普通の人より少ないから、神様が埋め合わせしてくださってる」

平成一〇年四月。最初の異変が起こった。支援者である中川氏が奥崎に電話を掛けても留守電で繋がらない。不審に思い自宅に行くと、奥崎はいびきをかいて、いくら揺すっても目を覚まさない。顔面は吐瀉物で汚れている。中川氏はすぐに一一九番通報し、救急車で病院に担ぎ込まれた。病状は脳梗塞と肺炎。医師は元に戻っても、普通の生活は出来ないと診断した。
翌日、支援者が見舞いに行くと奥崎は両手を股間にやり、上下に動かしている。「血栓溶解法」だ。意識不明なままでも、奥崎は「血栓溶解法」を実践しつづけていた。奥崎の世話をする看護婦は困惑気味だったそうだ。入院から五日後、奥崎は驚異的な快復力を見せて、意識が戻る。
一ヶ月後、脳梗塞の後遺症に対処するために、リハビリセンターに転院するが、
「ここの食事は少ない」
と、深夜に無断で病院を抜け出し、タクシーで自宅に帰ってしまった。

翌年の夏、中川氏が通りがかったついでに奥崎の自宅を訪ねると、風呂場で倒れて意識のない奥崎がいた。隣人によると三日前から風呂場の水か流れる音が聞こえていて、それが事実なら三日間意識不明のまま放置されていたことになる。もうそこには、マークしていた警備課の私服警官の姿も消えていた。神軍平等兵としての奥崎は居ないのだ。この時も脳梗塞で入院し、程なく退院した。
平成一六年夏、再度自宅に倒れているところを発見された。入院した奥崎が再び自宅に戻ることは無かった。首を微かに動かす程度で、もう血栓溶解法もすることができなかった。見舞いに訪れた中川氏には
「みんな、ようしてくれます」
と嬉しそうに言っていた。
しかし、死亡時の毎日新聞の記事によると、看護婦や主治医にしょっちゅう「バカヤロー」と怒鳴りつけていたらしい。

そして、平成一七年六月、奥崎は蝉時雨を聞くことなく息を引き取った。主を失った奥崎の自宅もほどなく取り壊され、現在は更地となっている。筆者が訪れたときは、敷地には誰にも入れないように金網が張り巡らされていて、地面には無機質に砂利が敷き詰められていた。次の主が来るのを待っているが、おいそれとは決まらないだろう。ある夏の暑い日、私は奥崎の家を訪ねた。既に家は取り壊されて何もないことは知っていたが、行かずにはおれなかった。奥崎の家はJR兵庫駅を降りて、長い坂を登った先にあった。私は近くで買ったビールと菊の花を跡地に供え、目を閉じ手を合わせた。奥崎謙三、私はあなたを忘れはしない。あなたは天に還らず、地上の人々の心の中を彷徨い続けるだろう。そして安らかに眠れ。
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第一九章 神軍それから

奥崎の奇行は止まるところを知らなかった。自宅の看板に派手に書かれていたスローガンが、より派手に作り直したのであった。自分が付け狙っていた田中角栄や昭和天皇は既にこの世にはなく、奥崎は途方に暮れていたのだろう。目標を失った老人が一気に老け込むことは決して珍しいことではない。書き直された看板の内容はこうだ

神様と、人間は、万歳であり、国民は、万歳でない。 神様の代書記 奇しくも、此の看板は神様の思し召しによりまして、妻シズミ先生の命日に当たる、六月一八日に、完成いたしました。

神様とは、万人の、認識・判断・行為・生き方・思想・言葉・文章の是非・善悪を、神様がつくられた、ミクロ・マクロを含む、自然を用いて、発生させられる事実・結果と、神様に選ばれた、然るべき者の、口と手足を用いて、言われ・書かれ・行われた、事実・結果によって、万人に、示し申される、口と手足がない、不可視・不思議な存在であり、永久的・全体的・客観的・絶対的に、生命・価値・権威・正当性がある、全宇宙で唯一の、君主・支配者・立法者・司法者・行政者である。
そして、万人の、生殺与奪の権を、掌握されている。

人間とは、全宇宙で唯一の、真実の法である、神様の法律を、人生の諸事・万事を、認識・判断・行為するための規範として生き、神様の法律に背いて、万様に生きる罪人であり、無知蒙昧な野蛮人である、国民の万人が捏造した、悪・虚構である、偽者の神・主君と、国家・国法・宗教・党派・会社・組合・家庭・貨幣等が、全く存在しない、万人が、一様に生きられ、万人が、一生のあいだ、万人から、四聖・先哲・万国の元首・すべての有名人よりも、多く尊敬・信頼・尊重・支持・支援される、一つの水田の如き構造の、ゴットワールドにおいて、万人の、精神・肉体が、一つの水田の米粒の如く、粒揃いに優秀となり、万人が一生のあいだ、全く不幸・不和・不自由・不安にならず、一二〇年以上も、血栓がない健康な体で生きられ、万人が、血栓がない体で死ぬ、本当の、自然死・人間死・無罪死・天賞死を、神様から与えられる、永遠の存在であり、コスモポリタン・非国民・非動物である。

国民とは、一時的・部分的・主観的・相対的にしか、生命・価値・権威・正当性がない、国法・宗教・私法・因習・伝統を、人生の諸事・万事を、認識・判断・行為をするための規範として、密林の如き構造の、サタンワールドにおいて、万様に生きる万人であり、万人の、精神・肉体が、密林の樹木の如く、不揃いで劣悪となり、万人が一生のあいだに、必ず、不幸・不和・不自由・不安になり、万人が一二〇年以上も生きられない、血栓がある不健康な体で生き、万人が、血栓がある体で死ぬ不自然死・天罰死・罪人死・亜動物死を、神様から与えられる、一時の存在・過渡期の存在であり、万人が、国民から人間に、成長・転生する過程の、動物よりも、神様の法律に背く罪を、多く犯す、動物以下の、亜動物・非人間・罪人である。

四聖・先哲・万国の元首・すべての有名人とは、神様・人間・善悪・人生について、本当に、知っておらない、国民の範疇に入る、無知蒙昧な野蛮人であるゆえに、彼等は、万人から、永遠に尊敬・信頼されない。彼等を、尊敬・信頼する者は、彼等よりも更に、愚劣な、国民である。

現在の世界に発生する、すべての悪い事実・結果は、神様が、現在のサタンワールドを、ゴットワールドに、つくり変えよと、無言で万人に、不断に、命令されていることになる。

神様の愛い奴である、奥崎謙三は、神様の法律にしたがうためと、ゴットワールドをつくるための、メディアとして、敢えて、国家の法律に背き、刑罰を四度受け、独房生活を二八年送る生き方を、選択した功により、神様から、最高の天賞である、血栓溶解法を、熊本刑務所の独房で、妻シズミ先生の命日である、一九九一年一〇月一八日に授かり、九年七月一八日のあいだに、約四万時間実行した御陰で、意識不明に三度なっても、奇跡的に生き返ることができ、神様と、シズミ先生・加藤真理子先生と、イカリヤの中川卯平先生・ロフトシネマの平野悠先生・松原清先生・川勝洋介先生・天生由記子先生と、神陵文庫社長の曽根成治先生・藤井良樹先生と、恩人・犠牲者の皆様から、絶大なるサポートを賜り、此の看板を、奇跡的に、作成することができました。
 二〇〇一年六月四日記 前科四犯を誇る、亜人間の、生活保護を受けている、八一歳四月の、 神軍平等兵 奥崎謙三 拝跪・合掌
シャッター部

神様は、万人の、永遠の主君であり、万人は、神様の、永遠の従臣である。


G・W・C・A
万人を一様に生かす
ゴッドワールドをつくる会

神様の従臣である万人は主君になってはならない。
天皇大統領は神様に背く罪人ゆえに亡びる。
神様に従うものは永遠に在り万人に必要である。
一様に生きる万人功人であり非動物人間である。
万様に生きる万人罪人であり亜動物国民である。
神様と神軍に負け万国は亡びゴットワールドができる。
神様がつくられた海山川は永遠に在り国は亡びる。
国民が捏造した万国は国民と共に必ず亡ぶ。

ここまで行くと既に誰にも奥崎は止められない。ゴッドワールドというのは、奥崎が作ろうとしている理想郷のようだ。ゴッドワールドの住民はゴット人となり、ゴット人になった人類全員は、鉄格子と錠が無い独房に似たシングルルームで眠り、職場は独房と直結しているそうだ。服は室内服・作業服・旅行服だけでデザインは全員同じ。パスポートや金も持たずに、運転免許証のようなIDカードだけ所持して、海外旅行に行く。
ゴッドワールドは休日が無く、毎日同じような仕事と食事が続く。同じリズムを続ける生活によって、ストレス無く体調もベストコンディション。何というか、共産主義の集団農場的な物を想定しているのであろうか、世界の全人類を刑務所に入れてしまおうとしているのか、良くわからない。奥崎は自分を神からの使者を自認するようになり、より孤独な老人としての最期を迎える他なくなった。
「神様の愛い奴」の特典映像で、ロフトプラスワンの平野氏が奥崎にインタビューする模様が収録されている。奥崎の自宅を探すところから始まり一行が、近隣に奥崎の自宅の位置を聞くが、誰も顔を曇らせてまともに口を開こうとしない。警官ですら眉をひそめるのだ。触らぬ神に祟り無しなのだろう。色々迷いながらもようやく奥崎宅にたどりついた。奥崎の自宅は間口が狭く、木造二階建てである。平野氏は奥崎に疑問をぶつけてみた。が、
「今から血栓溶解法するからカメラで撮ってください」
出所から更に弱々しくなった姿の奥崎は、いきなり血栓溶解法の実演から始める。会話が既に成り立たない。平野氏は根気強くインタビューする。
「奥崎さんは日本のトップクラスの人間に抵抗していったわけですよね」
奥崎はそういうことよりも血栓溶解法の方が最高のメディアになると答えた。天皇や田中角栄の話題が出ると、話を逸らすし、わざと耳が遠くて聞こえないフリをするのだ。負けじと平野氏は身振り手振りを交えて、
「僕らが何故奥崎謙三を支持したかと言いますと、戦争責任を追及したことにあります。僕らはそれで、奥崎謙三は凄い奴であるということを感じました。でも、そこでゴッドワールドや血栓溶解法みたいなものをいきなり出されても理解できない」
大衆が奥崎を見放した理由はまさにここだ。戦争という悲劇を二度と繰り返してはいけない。戦争というものはこんなに悲惨なのだ。真に戦争のはらわたを大衆に見せつけ、戦時のドサクサで逃げ得で、のうのうと暮らしている悪者を暴き出すしていた奥崎を大衆は見たいのだ。奥崎は辿々しく答えるが、どうも要領を得ない内容の話が続く。
「ノーベル賞の全受賞者の功績をトータルしたとしても、私一人の功績の方がずっと大きい。私は確信してます。私の周りの人は頼みもしないのに、ノーベル賞委員会に英文に翻訳して三二枚送ってるわけです。でも、簡単にはオーケーでないですね」
平野氏は呆れかえってしまいインタビューを切り上げ、そそくさと帰ってしまったところで、ムービーは終わる。奥崎の牙はすっかり抜け落ち、ただの死の迎えを待つだけの老人に成り下がってしまった。あるとすれば僅かながらの生の執着のみと言えよう。
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第一八章 墜ちた偶像

出所後の奥崎は前述の通りに「色ボケ」してしまった。「ゆきゆきて神軍」にみられたような過去の戦争犯罪の追求に力を燃やしたその姿はどこにも見えない。それは自身の二本目の映画「神様の愛い奴」で確信される。劇場で一般公開されることはなく、主にDVDで販売されている。内容は最悪であるが、奥崎の死を見届ける意味でも一見するべきである。

監督は藤原章氏だが、制作の中心は漫画家の根本敬氏による所が多いだろう。根本氏は奥崎の支援者でもある。重松氏から奥崎のミニコミ誌を貰ったのが、きっかけである。根本氏は、一九八一年九月号の「月刊漫画ガロ」に『青春むせび泣き』が掲載され漫画家デビュー。当時のヘタウマブームに乗り、八〇年代での活動の場はエロ雑誌からメジャー誌までと非常に幅広かった。根本の作風は「便所の落書きが増殖したような漫画」と揶揄され、見た目の異様さで嫌悪感を覚えるものが多い。それが故にファン層は非常に限られているが、その強烈な個性を露出した表現は他の追随を決して許さないものである。
始まりは、前述のロフトの公演後、奥崎の体調が悪化し、事務所のトイレで籠城を続けてなかなか出てこない。(こうなると子供がダダをこねているようにしか見えないのだが)その時、誰かが半ば冗談で
「AVでも借りてくれば、天の岩戸のように出てくるかも」
ということになり、AVを再生していると本当に奥崎がトイレから出てきた。奥崎はAVを見ながら、
「いやあ、いいですね、若い女性の裸はいいですね。本当に一度で良いからこんな若い女性の肌に触れてみたいですね。こんな老いぼれのじいさんでは無理ですけど」
根本はファッションヘルスにお連れしますと、奥崎を誘ったが、
「そんなところに行ったら皆さんから軽蔑されます」
根本は奥崎の辞意が本心ではないと見極めて更に
「もし堂々とヘルスへ行かれたら、益々先生を尊敬します」
無理矢理ファッションヘルスに連れて行くと、奥崎は一度で気に入ってしまい、以降ファッションヘルスに入り浸りとなってしまうのであった。そんなことが続いて、ある日、根本氏は自分が撮影した映画「さむくないかい」を奥崎に見せると
「根本先生は漫画を書くことだけじゃなくて、こういうことをなさっていたんですね。今度は私主演で、ビデオを撮ってこういうことをさせてください」
「こういうこと」というのは性行シーンのことである。「神様の愛い奴」にはセックス描写があるが、これは奥崎が希望したものなのであった。そういったやりとりのなか、「神様の愛い奴」は、なし崩し的にスタートされた。

映画は奥崎が刑務所から出所するところから始まる。それからホテルの部屋で奥崎の独演会が始まるのであった。奥崎は嬉々として他愛もない話を取り留めなく続ける。既に深夜となり、スタッフは朝の5時からスタンバっているので少しずつ抜けていく。
そして、重松氏が抜ける時に奥崎はいきなりキレだすのであった。奥崎は交通費を出すので帰るなと引き留めるのだが、重松氏も頑として聞かない。次の日に仕事があり生活があるのだ。無職同然の奥崎とは立場が違う。
「帰れ、帰れ」
奥崎は老いてしまい、孤独に耐えられなくなってしまったのだ。こういう「帰る」「帰らない」シーンが何度も繰り返される。奥崎は人の居なくなる寂しさに耐えられない程の苦しみを感じる。それ程に弱くなってしまったのだ。次に神戸に帰るための新幹線に乗るシーンが出るのだが、JRの対応の悪さに、奥崎の手を引いている強面の男が職員を恫喝する。既に階段は昇ることはおろか、普通に歩いたりすることもままならなくなっていたのだ。加齢とはいえ、医療刑務所の劣悪な環境で四肢は萎えていた。
「オイっ貴様、ここのプロだろう。何年務めてるんだバカヤロー。誰が貴様の給料を払っていると思ってるんだ」
筆者が悪趣味と思うのは、恫喝されて顔面蒼白となっている職員の表情を中心に描写しているところである。奥崎も尻馬に乗って暴言を吐いているし、遂にダダをこね出してか、ホームに仰向けになっている始末だ。
「こっち見ろと言ってるんだろう、様子見ないで先歩くなっていってんだろ」
職員は完全に萎縮してしまい、まともに大宮氏の顔は見れない状態だ。無理もない。ようやく列車が到着し、新幹線の個室を宛がわれた奥崎を乗せ、自宅のある神戸に向かった。奥崎はゴネ得で、新幹線の個室を普通料金で利用したことになった。
自宅に到着した奥崎は隣の質屋に帰宅の挨拶をした。老夫婦、娘二人で細々と営業しているようだ。質屋の一家三人が応対したが、奥崎の帰宅に一家全員困惑の表情を隠せない。
「失礼ですけど、血栓溶解法で、私はご主人さんより長生きしますよ」
例の軍服をまとっての奥崎のトークに質屋の主人は終始目が虚ろとなっていた。奥崎が帰宅後真っ先にした作業は生活保護の申請である。国家を否定しても、国家に頼るという矛盾が見え隠れするが、奥崎も一人で生きていかなければならないのだ。奥崎の申請はすんなり通ったようだ。
奥崎は撮影スタッフの為にささやかながら、スキヤキを振る舞うことにした。その場には「ゆきゆきて神軍」の時に仲人をした太田垣氏もやってきた。奥崎は開口一番
「太田垣さん、もの凄くおじいさんになられましたね。太田垣さんは今の奥さんに不満があるんですか?」
奥崎は手を上下に振るわせながら太田垣氏に問う。
「不満はないです」
奥崎は一気にまくし立てる
「あなたが、結婚できたのは私の存在があったからだ。ここに妻を求むと書きましてね、今は書いてますけど、女房居ないからと」
どうも、遠回しにであるが、太田垣氏に再婚相手の世話を依頼しているのだ。太田垣氏は意を決したかのように言った
「奥崎さんには失望し、信用できなくなった。尊敬できない。獄中で変わられました」
収監中に奥崎が太田垣氏に送った手紙の内容に問題があるらしい。また、奥崎から一人去っていったが、奥崎はしつこく太田垣氏に絡む
「納得いくまで、返しません。不法拘禁というならば警察呼んでください。あなたのそういう目差し、私の目を見る目差し、その目差しがダメだというんだキサマッ。そういう目で何故見るんだ。はっきりしろキサマ。あなたは中途半端な人間だ」
訥々と太田垣氏が反論する
「中途半端で結構です」
奥崎はキレた
「俺に勝てると思ってるのかキサマ」
奥崎は太田垣氏に殴りかかるが、反対に返り討ちに遭ってしまい、こてんぱんにのされてしまう。いくら気が強いと言っても、八〇歳間近の老人なのであるから痛々しい。
「カメラはなせ、俺は病人だぞ」
「ゆきゆきて神軍」のリフレインかと思えるシーンが繰り広げられた。この作品はオマージュなのかギミックであるのか、根本氏の魂胆が把握できない。冷静な太田垣氏も怒りが収まらない。
「都合の良いときだけ、病気とか言って、なんだ」
立場が逆転してしまったようだ。太田垣氏の問いに奥崎は弱々しく答える。既に太田垣氏は怒りから嘲笑の目差しに変わっていた。
「太田垣さん、あなたには体力では勝てません、刑務所から出てきた思えばみんなから冷たくされてね、おかしいなと」
奥崎はいつしか哀れみを乞う老人に成り下がっていた。太田垣氏は終始、蔑みの視線を絶やさないまま、奥崎の自宅を後にした。太田垣氏がこの場所を訪れるのは最期だろう。
太田垣氏をなんとか取りなしてスキヤキを再開させるのだが、既にその時には奥崎は落ち込みから回復していた。スタッフに向かって、「ゆきゆきて神軍」の制作のために、妻のシズミが原の妻である小林に四〇〇万渡していて、自分は一切それを聞かされていないらしい。故に原を殴りつける。これは神が決めたことだと周囲に話している。

「ワケのワカラン奴はもう殴ったらいいんですよ。殴られたら何故自分が殴られたかわかるわけですよ」
つい、さっき起こった出来事を忘れてしまっている。奥崎節が吠える中、予定されていたテレビのドキュメンタリー番組の取りやめを告げる電話があった。もう誰も奥崎を見捨ててしまった。そんなことを暗に告げるような内容であった。受話器を握った奥崎の目は寂しさに溢れていた。

それからの奥崎はオモチャにされているように映る。奥崎と共演するのは全て、中年のAV女優なのだが、七〇歳を過ぎている奥崎にしてみれば十分若いのだろう。共演者の中には自分の娘の全裸ビデオを販売目的で撮影して、逮捕された母親も混ざっていた。最初は普通に性行するシーンから始まるのだが、徐々に女装させられたり、糞尿まみれにされたり、マンションに置き去りにされたりする。
「予定があります」
「家が遠いから帰ります」
どうでも良い言い訳で次々にスタッフは「帰宅」宣言。奥崎はマンションに独りぼっちに、そもそも帰りたければ帰れと言い出したのは奥崎なのだ。
「帰るのはお二人だけじゃないんですか、最初と言ってることが違うじゃないですか」
奥崎は泣きそうな顔でスタッフ達を引き留めるが、全員帰った。恐らく数日中引き回されて疲労困憊となったことは容易に伺える。根本氏も最初は真面目な気持ちで映画を制作する気であったと思われるが、幾度となく突きつけられる無理難題や、ワガママなど付き合い切れないので、いっそのこと自分のやりたいように、煽てながら奥崎を思い通りにしてしまうという結果になったのだろう。
翌日、スタッフがマンションに行くと、奥崎は置き手紙を残して、部屋の中は空っぽになっていた。
「神戸に帰るが、ホテルに会いに来い」

場所は高級ホテルだ。昨日の置き去り事件が相当堪えたのか、表情はいつになく憔悴しきっている。一同は血栓溶解法を強制されて、奥崎は例の軍服姿。傍目から見て異様である。奥崎は開口一番
「オレより立派な者はおりませんよ」
「私はもてて、もてて、もてて、もてて、もてて、しようがない生き方をしてきたと」
「抑え、抑え、抑え、してきたから、バッと出れるワケですわ」

もっとチヤホヤしてくれと言っているのだろうか。奥崎の機嫌が直り撮影は再開された。古アパートの一室での絡みのシーンを撮る最中、奥崎のそれ自身が不能になった。いくらやってみても立たないので、苛立つ奥崎は辺り構わず八つ当たりしだした。

「これで、どうですか、文句ありますか野郎共。こういうことはどういう意味があるんだ、貴様ら。オレが怒るの文句あるか?人を殺して申し訳ないなんて済むか?ヤメロ、撮るな。オレは奥崎謙三だ。文句あるか貴様ら」
根本氏は事態収拾のために声を張り上げ土下座した。根本氏によれば、この時のスタッフの武器は土下座と「尊敬しております」というセリフの二つだけだったという。
「奥崎先生のことを益々尊敬いたします。尊敬いたします」
奥崎も釣られて、土下座して一同拍手。ここまで来るとマンガだ。奥崎は根本氏を始めとしてスタッフを先生と呼んでいる。これは自分も先生と呼ばれたいが故の所作であろう。その後、奥崎が出演女優にカネを渡すシーンがある。
「これは自分の奥さんが、私のために残してくれたお金です」
といって、それなりに大金を惜しげもなく渡すのだ。ちょっとこれには心が悲しくなった。

スタッフが出演女優に交渉の電話を入れるシーンも気になる。
「凄い心待ちにしているみたいなんですよ。で、添い寝をしたいという風に、てゆうかね、普通の人じゃ無いんですよ」
確かに普通の人ではないが、この頃になるとスタッフの顔に疲労の色が隠せない。その後、風呂場で共演女優から顔に放尿されて、嬉しそうな奥崎がおぞましく映し出されていた。ここまで来ると不快感もたけなわだが、根本氏の演出というよりかは、奥崎自身の意思でやらせたような雰囲気が色濃い。奥崎は嬉々としてスタッフににおねだりした。
「オシッコをね、アーンと体験させて貰えませんか?」


極めつけは女王様と奴隷という設定のシーンで、兎に角奥崎が足蹴にされたり、命令されたりする場面がある。台本通りなのか、助けないと後で奥崎がダダをこねるのを知ってか、根本氏が止めに入る。
「先生は我々が本当に尊敬する方なんです」
女王役は足で奥崎を嬲りながら
「これが、偉いの?アタシは何なの?」
根本は口を押さえながら、絞り出すような声で懇願する。
「女王様です。でも、この方はもっと偉い方なんです。本当は」
いつもの如く奥崎がキレた。全裸でコッペパンを頬張る奥崎をスタッフは、どう声を掛ければよいのか嫌な空気が撮影場所を覆う。
「俺はおっかない女の人には射精できないんだ。何が女王だ、俺は絶対テメーの事は女王とは思わない。世界中の金くれるといったってコイツとしない」
それを聞いた女王役の女優が奥崎を口汚く罵り、奥崎はその剣幕に対して、反対にオロオロする。恐らく、ギミックだと思われるが、現場はそれなりに緊迫した雰囲気でイレギュラーな状態が発生したのかとも思わせる絶妙な演出だ。
「オレは病気なんだ」
弱々しく反抗する奥崎。最期は女王役のAV女優に押し倒されて、スタッフが奥崎が殴られるのを静止する様子がスローモーションで流れて、この映画は終わりを告げる。筆者としては、とても後味の悪い感想しか感じられない。
「皆さんが戦争犯罪責任追及人としてリスペクトしている奥崎謙三の本性は色ボケした老人です。」
率直な感想として、そうとしか取れない映画だった。女王役に嬲られる前に奥崎のセリフが吠える。
「奥崎謙三が立派かどうかはこのビデオテープが証明します」
根本氏は恐らく「神様の愛い奴」の公開にはギリギリ最期まで悩んだ先の結果であったと考えられる。綺麗なまま中途半端に奥崎のキャラクターを存続させるよりは、いっそのこと落とすだけ落として、汚れるままに汚して、全てを葬り去ってしまおう。そんな心境だったに違いない。
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第一七章 神軍凱旋

 一九九七年八月二〇日、午前五時。府中刑務所の前には報道陣がチャーターしたタクシーが数台停車している。釈放の瞬間を目撃しようとした一般人も数名おり、今かと待ちかまえている状態だった。三〇分後に通用門が開き、ヨロヨロと出てきた老人。それが奥崎だった。腰は「くの字」に曲がり、やや痛々しい。歯も抜け落ちて総入歯だ。軍服調にあしらった看護服を身にまとっている。胸には「GWCA万人が一様に生きるゴッドワールドを作る会 神軍平等兵」と書かれている。もうそこには以前の勇姿はなかった。
テレビカメラに向かって奥崎はまくし立てた。
「ありがとうございます。朝早くからご苦労様です。神軍平等兵、奥崎謙三、ただ今凱旋いたしました。」
「私のようなマズいツラを撮っていただいて感謝いたします。光栄です皆様、お礼を申し上げます皆様、皆様は罪人なんですね、神様の法律では。私は国家の法律では罪人ですけど、神様の法律では公人なんです、私は」
「私がこういう一般の犯罪者であれば皆様にお迎え頂けません。一般の国民であればこういうお迎えもいただけません。私は特殊犯罪者、特殊国民なんですね。つまりね、国家・法律に最も従わず、古今東西でね、最も神様に従ってきたんです。医学・法律・政治・国家これは全てインチキです。皆さんはまた非人間なんですね。だから皆さんは人からも尊敬されません。だから皆さんはもっと本当のことを知ってください。」
「私は一二歳の頃から住み込み店員で二〇軒も三〇軒も住み込み店員になりました。兵隊に行くときも誰にも挨拶せずに一人で行きました。この世界では一様には生きられないです。ゴッドタウンというのは、モデルは刑務所なんですね、ところが刑務所じゃないわけですね、塀もなければ鍵もなく、衣食住一体です。通勤・通学・一切無いです。ラッシュアワーも何にもないわけです。」
次第に取材陣が色を失っていく。その空気を奥崎は感じるや
「みなさま、私の言うことは全部受け止めずに、どうか取捨選択して書いてくださいね」
フォローを入れていた。奥崎の放免祝いの場はファミレスに移された。奥崎は取材陣に気を遣い、
「何か召し上がってください。もっとお金があれば、良い物を御馳走できるんですが、独居房で四年間働いて六万円貰ったので、一人千円位のモノしか御馳走できませんがね」
刑務所で作業すると、作業賞与金というなにがしかの金が貰える。受刑者はこれを元手に社会復帰を目指すが、いかんせん少なすぎる。受刑者からピンハネした賃金は全て国庫に納入されるシステムだ。奥崎の会話は止まらない。隣で一緒に食事していた見沢知廉氏にも
「あなたは文学賞を取ったからといってね、何も偉くないんです。しかし、きれいな顔をされてますね、こういう美男子とはあまり、お目に掛かったことは無いんです。ホモホモされているんじゃ?」
見沢氏はたじたじとなる。見沢氏は高校の時から新左翼組織に加入し活動していたのだが、三島由紀夫の自決を機に右翼に転向。新右翼組織、一水会で活動中、殺人事件を起こた。逮捕され、 懲役一二年の判決を受け、川越少年刑務所と千葉刑務所と八王子医療刑務所で一九九四年一二月まで服役。八王子医療刑務所の懲罰房で三千日(八年近く)のあいだ服役していた。暗号を使って外部にいる母親と連絡を取り合い、少しずつ原稿を母親に渡し、爪の先に火をともすような努力をしながら、小説を発表し文学賞を受賞した経緯がある。見沢は奥崎に大変興味を示していたのだ。
食事を終えた奥崎は府中刑務所に舞い戻り、骨壺から妻のシズミの骨を取り出して、かじり始めた。守衛は敷地から出て行くように促すが、奥崎は
「逮捕するならしてみろ」
と、意に介さない。これは奥崎なりの刑務所との決別の儀式であったのだろう。翌日、奥崎は「ゆきゆきて神軍」の上映館であったユーロスペースを訪れた。社長は驚きの様子だったが、奥崎節が吠える。
「私はスーパースターになりたいんです。なれると思うんです。だからね、まずはこんな奇抜な格好をして人目を引く。そして、「ゆきゆきて神軍」のフィルムを持って全国を公演するんです。「ゆきゆきて神軍」は動員一〇万人、「全身小説家」は動員三万人だったと、プロデューサーの小林さんから聞いてます。嘘つきミッちゃんより、正直者ケンちゃんですよね」
「全身小説家」とは原一男監督が、平成四年五月にガンで亡くなった小説家・井上光晴の晩年の五年間を追ったドキュメンタリー。映画は、彼が文学活動の実践の中心に据えた伝習所に集まった生徒たちの語るエピソードや、文壇で数少ない交友を持った埴谷雄高、瀬戸内寂聴らの証言を通して、井上光晴の文学活動を捉えるとともに、撮影開始直後に発覚したガンと闘う姿を生々しく撮り続ける「ゆきゆきて神軍」とは、また違った切り口のドキュメンタリーフィルムである。九四年度キネマ旬報日本映画ベストテン第一位に選ばれた。奥崎は更に飛ばし続ける
「私はコレ(小指を立てる)を見つけたい。恋愛に年の差はないんです。こんなこと思っているから妻が夢に出てこなくなったんですよ」

出所から三日後の八月二三日(土)、新宿ロフトプラスワンで奥崎の凱旋会見がとりおこなわれた。実は杉並公会堂で開催予定であったのだが、出所日の前日であると言うことで、主役の奥崎が不在であることが明らかになり中止となった。にも関わらず、三〇〇人もの奥崎ファンが駆けつけたのであった。支援者が奥崎に入れ歯の補強剤を渡すと、


「こういうものは舞台に上がる前にキチンとしとかなぁ。ここで恥はかきたくなかったです。」
ロフトプラスワンでの奥崎は明らかに不機嫌であった。何故なら自分の凱旋講演は一千人規模のホールを希望していたのに、ロフトプラスワンのキャパは一五〇人。期待を裏切られた気持ちになったのだろう。奥崎は会場で重松氏をなじる。当時キャパ四〇〇人の杉並公会堂でも気に入らないのだ。一千人規模のところになると会場費も相当なものになる。奥崎の収入はゼロであるのに、なかなか支援者の手弁当で会場を抑えるのは難しい。無理難題である。といっても既に新宿文化センターの大ホールを断られているので、どうしようもない。
「誰があんな小さいところ借りろと言ったの。入る入らないの問題じゃないんだ」
更に奥崎を不機嫌にさせる出来事が起こる。見沢氏とその母親が会場から姿を消したのだ。実は奥崎は見沢氏の母親に好意を寄せていた。見沢知廉の「獄の息子は発狂寸前」を奥崎は獄中で読んで感激。獄の息子を叱り、励まし、五〇〇通もの手紙を書き続けた見沢の母。こんな素晴らしい女性はいない。日本女性の鑑だ。と涙を流して読んだという。
 更には、「この女性と結婚しろと」と神の啓示もあったと周囲に漏らす。奥崎は七七歳、見沢氏の母は六五歳。同じ申年だし、年回りもいい。刑務所を出たらすぐに結婚したい。そう思い詰めていたという。
「あの方は帰られましたか、私の憧れの女性は」
支援者が、急用があったので帰ったと答えると激変した様子で
「こんなチャンスは二度と無いんだ。だからこいつのように、顔のエエ奴はダメなんだ。俺の欲しいのは精神的美人なんだ。美人というのは女だけではない。男だって人と書くんだからね。そりゃ精神美人であると同時に肉体美人の方が結構なんですけど。」
「私お金あったら、皆さんに幾らかでも差し上げたい。だから聞きたくない方はお帰り下さい。かえりたけりゃ皆帰れ。帰れ言うんで。帰れ帰れ帰れ。気にいらん奴は」
おそらく振られてしまったことで、恥ずかしいところをこれ以上見られたく無かったのだろう。奥崎節は続く。
「もう随分ムリしてるんです。私は、これもね、娑婆に出る前に、一番最初に皆さんに、こんな少ない人じゃなくて、千名の皆さんに、いの一番に、お会いしようというのがこれなんですね。私、この方(重松)にお願いしてね、私が娑婆に出た際に、最も最初に千名以上お願いしたことは、高いところから失礼ですけど、遅くなって失礼なんですけどね、ちょっと辛いんですけどね、このまま座って申し上げますけどね」
「あの野郎、失礼だと思う方は帰ってください。人待たせて、飯喰らいやがってね、帰りたいようなら帰ってください。一番最初に出所してしたかったことは、立てませんので失礼しますが、(血栓溶解法をやりだす)」
「親指挟みましてね、敷き布団の上とか畳の上でこうするんですよ。皆さんに出来れば世界中の方に、アタマを更に敷き布団の外、畳の上に一段低くして頂くんです。私はそれを過去に二万五千時間ほどやってきたんです。独居房でやってるやつは一人もおらんです。毎日一五時間ほど、去年の三月から、娑婆に出るのが近いからね。運動にも出ず、去年の大晦日から回覧の朝日新聞も読まず、トイレとご飯食べてる時と、歯を磨く時と、それ以外の時間はずっとやってます。今年になって(血栓溶解法)徹夜は一〇回ぐらいしてます。まあ、時間に縛られて、皆さんには聞いては頂きたいしね。こんな事しとったら、皆さんお金使われて、この馬鹿話聞いて店の営業妨害にならんかと。」
その後は奥崎自身が血栓溶解法を実演して相当後味の悪い結果で講演の幕が下りた。それからは本当に体調が悪くなって、
「ここは刑務所より暑い」
悪態をつきながら五階にある事務所に担ぎ込まれ、支援者達は次の日の朝まで奥崎の独演会に付き合わされるのであった。

ところで見沢氏の母親については勝手な奥崎の思いこみのように思われるが、実は奥崎と見沢氏の母親を引き合わせることを企んだのは民族派右翼一水会の鈴木邦夫氏によるものであった。鈴木氏は代表を退き、河合塾で講師をしている。身元引受人である重松氏に今の結婚相手を紹介したのは鈴木氏である。
「鈴木さんのお陰で結婚できました」
鈴木氏によると、ただ奥崎の世話をしたいという女性を重松氏に紹介したに過ぎないらしい。その重松氏から
「奥崎さんが見沢さんのお母さんと結婚したいと言ってるんです」
と聞いた鈴木氏は、
「殺人犯の父親なんてイヤですよ」
嫌がる見沢氏にともかく二三日、ロフトプラスワンにお母さんを騙して連れてこいと言った。そして当日、
「この人が憧れの女性ですよ」
見沢の母親を紹介した。奥崎は感極まり
「本当はこんな所で喋りたくない、早くホテルに帰って一緒に寝たい」
とおかしな事を言い出した。周囲は
「おめでとう」
拍手喝采。計られたと気づいた見沢氏の母親は
「バカ息子一人でも大変なのに、こんな凄い夫が出来たらとてもとても」
顔面蒼白。鈴木氏は却って円満な家庭が出来ると説得したが、親子共々逃げ帰った。このことが元で鈴木氏と見沢氏との関係は険悪なものになったということは言うまでもない。このイタズラは流石に度が過ぎていた。
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第一六章 最期の務め

「ゆきゆきて神軍」発表後、反戦のヒーローとして一躍時代の寵児に躍り出た奥崎ではあったが、熊本刑務所に下獄した頃には、奥崎の支援者は殆ど奥崎の元を去っていった。あまりの奇行ぶりに周囲は愛想を尽かしてしまったのだと筆者は考える。妻のシズミ死後、シズミの弟である石地文治氏にも関係を絶たれ、奥崎の身元引受人には山部嘉彦氏が就任したが、その手紙たるや常人には理解できる代物ではない。その一部を紹介しよう。

拝啓、一一月一五日に刑を執行され、独房で紙袋を作る作業をさせられております。私の満期出所日は、昭和七二年八月一九日です。私の戦意は、未決囚当時よりも強くなりました。これから私の本領を発揮します。
遠藤先生に左記のことをお伝え下さい。
人類全員を一如にするため努力する者が、神様と人類全員から、祝福・尊敬されるのであります。本当に知るとは、人類全員を一如にするため役立つ行動をすることであります。
一部分の人間のために役立つ行動をする者・私生活・日常生活にかまけている人は、本当に知らない人すなわちドクサであります。ですから今日まで生きてきたすべての人は、ドクサであります。尊敬されません。人類全員を一如にする目的の手段としてする私の民事・再審請求等に力をおかし下さい。
三二年前に受刑者になった時よりも多く恵まれております。他事ながら御放念ください。必ず元気で凱旋し、『ゆきゆきて、神軍2』を、疾走プロダクションの原一男監督・小林佐智子ご夫妻とスタッフの皆様につくっていただける、と思っております。遠藤先生も主役の一人になって下さい『ゆきゆきて、神軍2』のファースト・すでに考えております。今年は、私にとって最良の年になりました。よい新年をお迎え下さい。以上。

刑務所に行きましたら、じっくりと腰を据えて、殺人・暴行・猥褻図画頒布、殺人未遂の四事件の再審請求をいたします。四事件の原因は、人の上の人・国家・法律によって私の戦友が、三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死させられたために私の精神が、一般の日本人・国民の如く生きることに耐えがたい精神になったことであります。そして、一般の日本人・国民の精神が正常であるとすると、私の精神が異常になったことであります。ですから私は、権威がある精神医に、精神異常と認める鑑定書を作成してもらい、その精神鑑定書を、再審請求の証拠の一つとして提出したい、と思っております。しかし、私は、人の上の人・国家・法律に対して、私よりも多く従った戦友が、三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死したために私の精神が、一般の日本人・国民の精神よりも正常になったのである、と思っております。だから四つの事件をしなければ耐えられなかったのであります。
それゆえに、私が起こした四つの事件の原因と責任は、私の戦友を三百五十人に三百四十八人の割合いで餓死させた、大日本帝国軍隊の大元帥・最高責任者であった、偽の天皇裕仁を頂点とする日本の人の上の人と、彼らのために捏造された日本の国家と、偽の法律である日本国の法律であります。然るに、日本の人の上の人・国家・法律は、私が起こした四つの事件の原因・責任は私にあると認め合計二四年八ヶ月の懲役を私に与えたのであります。

監獄は、私にとって、天国・極楽・聖地・浄土・彼岸・二河白道・シャングリラ・日の国・神様の世界に近い場所であります。そして、心が、最も安らかで多く満ち足りることができる安息所であります。十二月二日の夜は、受刑者になってから初めて午後九時まで、乱筆の乱文を書くことができましたので、精神が安定しました。そして嬉し涙を多くこぼしました。今日まで生きてきた者の中で、嬉し涙を最も多くこぼした者は私である、と思っております。独房は、神様にアプローチすることが最も多くできる場所であります。独房で生きると、神様の有難さがよくわかります。そして、神様と神様の法律に背く本当の罪を犯すことが少なくなります。右手の指がシビレて痛むまで乱筆の乱文を書いたことも、神様と神様の法律に背く本当の罪を犯したことになります。しかし、軽い罪であります。だから自分で治せる自信があります。長いあいだに悪くした右手の指を治すのには、長い時間がかかります。今朝も未明に起きて、左手の甲の上に右手を乗せ、その上に尾骨を乗せ、痛む箇所を体重で圧迫する体圧療法を、二時間余りしました。房内作業を休ませてもらえましたら、未決囚の時のように治療に昼間も専念することができます。しかし、元軍医の広拘の医師は、房内作業を休むことを認めてくれません。人の体の痛みは、当人にしかわからないからであります。独房で全身の痛みを体圧療法で治してきた私は、凱旋してから体圧療法を多くの人に教えてあげようと思っております。

私が起こした四つの事件の判決に心服できない私は、力づくで作業をさせられることに精神的苦痛を、一般の既決囚よりも多く感じます。力があれば人の上の人と検事・判事を獄に入れ、人類全体を一如にしたい、と思っております。勝ち目のないことをしない主義の私は、自分に理があっても力がないので、勝機が訪れるまでは面従腹背してきました。そして、勝機が訪れると俄然攻撃を開始し常に勝ってきました。現在の私は、三十一年前の十一月七日に大刑へ新入した時の私よりも肉体は弱くなっております。しかし、精神は強くなっております。
私が、すべての警察官・刑務官に対して「先生」と言ってきたことを、軽蔑する人があるであろう、と私は思っております。私を軽蔑する人は、自分から、私の如く誰よりも多く尊敬されない人であります。『ゆきゆきて、神軍』の私が演技をしているように私は、独房の中でも演技しているのであります。カメラがあろうがなかろうが私は、演技してきました。神様と自分から見られているからであります。つい今しがた私がこぼした涙も、『ゆきゆきて、神軍』で私がこぼした涙も、演技でこぼした涙であります。私は、嬉し涙をこぼす演技を最も得意とする役者であります。そして、自分より不幸な人のために涙をこぼす演技もできます。しかし、自分の不幸を悲しむ涙をこぼす演技はできません。嬉し涙を誰よりも多くこぼしてきた私は、誰よりも多く仕合わせな果報者であります。

一般人には到底理解できない内容であるので、このくらいにしておく。奥崎は収監後、「非国民奥崎謙三は訴える」「ゆきゆきて「神軍」の思想」「奥崎謙三服役囚考」しめて三冊の本を、新泉社から出版するが、全てが獄中書簡をベースとした内容で、一事が万事、このような書き殴り的な内容で、とてもまともな精神状態とは思えない。
獄中から本を出版するということは特例措置である。当時の刑務所事情として、永山則夫が「無知の涙」で文学賞を受賞したこともあり、受刑者が小説を書くと言うことを極端に警戒していた。なにぶん、受刑者とマスメディアとの接触を嫌うのだ。
刑が確定していない未決囚は人権が認められて、雑誌に投稿しようが、手記をしたためようが全く問題はないのであるが、刑が確定した囚人の仕事は懲役であり、小説を含めて文章を発表すると言うことは二重労働にあたるのだ。
奥崎は毎日平均で便箋三〇枚を書いた。本来ならば受刑者には一ヶ月便箋七枚という制限があるのだが、一ヶ月六〇枚の発信が許された。看守もほとほと扱いには困り果てていたようだ。

妻のシズミに対してもこう綴っている。
「シズミさん。私に、生命と力と霊をかして下さい。そして、一生懸命に私を叱咤激励して下さい。毎日夢に出てきて私を励まし慰めて下さい」
その呼びかけは全体にわたってシズミへの感謝・賞賛・祈祷の言葉が続いている。奥崎は獄中で頻繁に妻とセックスする夢を見るという。奥崎にとってシズミは「第二の神様・第二のお母さん・第二のお姉さん・第一の救世主・第一の奥さん・第一の戦友・第一の神軍兵站司令官・第一の神様代行夫人・第一の恩人のシズミさん」らしい。

奥崎は熊本刑務所で八回保安房に収容された。保安房とはいわゆる「反省部屋」である。保護房には、三畳ぐらいと六畳ぐらいのものの二種類があり、床はリノリウムで、ゴザも敷いていない(髪の毛やゴミが散乱している)。壁にはラバーが貼ってあり防音装置つきで、外部からの音も聞こえないし、内部からの声も届かない。
壁の一部にガラスブロックをはめ込んでいるだけで、窓はない。看守用の蓋つきのぞき窓は三ヶ所ある。天井にビデオカメラが設置されていて、二四時間監視・蛍光灯がついている。床の隅にトイレ用のコンクリートの穴があいており、水を流す際には、看守に頼まなければならない。泥だらけの座布団一枚に座らせられる。
矯正局長通達によれば、懲罰の対象となる行為をしたと思われる者に対し、懲罰に先だって独居房に一時隔離するのが保護房収容である。本来は、収容者が自殺や自傷の恐れのある場合や、暴行・施設の損壊・逃走の恐れがある場合に拘禁する特殊房である。但し、監獄法には規定がない。とのこと。奥崎の述解によれば
「戦前は鎮静房といって、いわゆる虐待房です。夏の暑い盛りに保安房にいれられてごらんなさい。それは暑いですよ。でも、私は保安房でもうれし涙を流しました。悲しく泣いたら私は自分から軽蔑されます。うれし涙を流せば自分から尊敬されます。だから私も七〇歳以上の減刑措置で仮出所を拒否して、こうして満期出所しました。私は自分を尊敬したいんですね。満期出所した私は私を尊敬します」
受刑者は誰しも早く出たい。それ故に何をされても死んだふりをして、色々耐える。刑務所の方が社会よりヒドイわけだが、何故、刑務所で我慢できて、実社会では耐えられないのか不思議である。仮釈放を申請せずに、刑期の満了まで収容されることを「満期風を吹かす」というらしいが、こういった態度は暴力団関係者に多いそうだ。しかし、ヤクザであっても人の子であるので、仮釈放に色気がないというのもウソになる。原則的に全員1日でも早く娑婆に出たいのだ。奥崎は仮釈放や恩赦を全て断っている。

血栓溶解法という健康法も獄中で考え出した。全身を小刻みに振るわせることによって、血管にある血栓が溶けてなくなるというものである。これは奥崎が死ぬまで続ける健康法なのだが、実演している様を見ると、何やら自慰をしているようなポーズに見えて凄く滑稽に映るのだが、奥崎は至って真面目である。実際の所、医療刑務所に移送されたのは血栓溶解法のポーズが限りなく異様に映ったのが原因だと言われている。あまり特別扱いが過ぎるので、法務省からクレームも入ったのでは無いだろうか。奥崎はこの血栓溶解法を独房の中、毎日一五時間、欠かすことなくやっていた。
特に医療刑務所は最悪な環境だった。「医療」とは名ばかりで、精神障害と認定された受刑者が服役している。少しでも看守に口答えをしようとすれば、強制的に抗精神薬を服用させられるのだ。既に解体されて北九州医療刑務所となっているが、当時の城野は旧陸軍の木造獄舎をそのまま使用していて、トイレも汲み取り式の最悪な環境だった。奥崎が収監される前は、虐待事件で死亡者が発生した。
この様な状態であるので、身元引受人も付き合いきれなくなったのだろう。山部氏の次は新泉社の小汀社長が身元引受人となり、そして去っていった。去っていったというよりかは、奥崎が被害妄想から一方的に交信を断絶したというほうが正しいのかも知れない。三人目で最期の身元引受人は重松修氏が受け持つことになった。

重松氏は身元引受人になる前に何度も熊本刑務所に三度面会に行くのだが、奥崎との面会は許可されなかった。重松氏の心中を察すると、身元引受人となる前に奥崎の人となりを見定めたかったのだろう。ごく当然の考えだと言える。しかしながら、親族以外の面会は原則として許可されない。何度か通いながら、刑務所長の「特例」の許可が下りるのを待つしかないのである。最近になって受刑者処遇法が改正され、そういった縛りはなくなったようである。
重松氏が奥崎との面会を許可されたのが、奥崎が城野医療刑務所に移管されてから3度目の訪問の時であった。たまたま重松氏の記事が朝日新聞に掲載されたというのも要因の一つだったのだろう。奥崎は当時三四歳だった重松氏に養子になることを言うが、重松氏は断った。その時の心中を次のように語っていた。
「それも、その時は考えたんですけど、今回もそうだけど、逃げちゃうんですよね。神軍とかにはなれないという。やれるかもしれないとは思ってました。本物の神軍ではなくコピーでもいいかなと、かなり考えたんですけど、踏み込めないっていう理由で断って、奥崎さんに根性無しと言われました」
刑期の満了が近づき、奥崎が身元引受人である重松氏の最寄りの管轄である府中刑務所に移送されるのは、釈放の二週間前であった。

奥崎は何故、満期出所で仮釈放は下りないのだろうか?
刑法第二八条には、
懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。
と定められているが、実際に仮釈放が許される時期についてほとんどのケースが、有期刑は執行刑期の三分の二以上、無期刑は刑確定後二〇年以上が経過してからである。
 ということであれば、原則三分の二の刑期をつとめあげれば、仮釈放で出所できるのかというと、答えはノーだ。仮釈放は条件付きなのだ。暴力団関係者に限っては所属している組に脱退届を提出し、官にはカタギになる旨の誓約書を提出しなければならない。
一般人ではどうか?地方更生保護委員会の面接を三回受けなければならない。それに家族が保護引受しなければいけないという条件付きだ。聞かれる内容は、

「過去の生活」
「被害者に対してどう思うか」
「出所すればどうするか、また、どうしたいか」
等、過去の贖罪や、将来設計に関するものだ。そして、絶対的な条件として被害者に「香花料」を払うように打診がある。更生保護委員会は、「香花料」を払うことは仮釈放の条件とはしないと言いながらも、これを払う意思の無いものの仮釈放は絶対に許可しないしくみになっている。
もう、おわかりだろう。裁判で改悛の念無しと審理されて、獄中でも全ての犯罪は正しいと外部に手紙を垂れ流している奥崎にとって、仮釈放など下りるわけはないのだ。たとえ恩赦があろうとも審査無しで放免ということは無いだろう。実際、恩赦を出願しても一〇〇パーセント減刑されたり、釈放されるわけではない。恩赦出願中に処刑される死刑囚も存在するのだ。恩赦や仮釈放を出願して、それで却下されたら格好悪い(奥崎の場合は却下される可能性の方が濃厚)ので、わざと満期出所で自分の株を上げようと目論んでいたのであった。
因みに昭和天皇崩御時には既決囚の恩赦は無かった。
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第一五章 類い希なる鑑賞会

控訴された広島高裁にて「ゆきゆきて神軍」の上映が許可された。当の主人公である奥崎は、未だに映画の完成を見ないままであったのだ。上映には記者席をも含めると傍聴人も三十人は優に収用できる一番大きな法廷が用意された。本来は地裁が使っているのに本日のビデオ上映のために特に高裁が転用したというだけあってかなり広い。型通りだが正面に高く三人の裁判官席、対面が被告席、その右側の弁護人席に馬渕弁護士と同じ事務所の若い弁護士および司法修習生の三人が坐り、左側の検事席には検察官が一人、そして肝心のビデオ受像機は三十三インチといかにも巨大に、裁判官席の向かって左側の通常なら証人席があるところに堂々とと据えられていた。
腰縄を打たれ手錠を架けられた奥崎謙三被告が六、七人の看守に囲まれながら左側の扉から入廷してきた。二時をやや回って村上保之助裁判長ら三人の裁判官が入廷すると、一連の「起立、着席」があって直ちに開廷すると思いきや、馬渕弁護士からの要請で奥崎謙三の開廷に先立つ発言がます許可された。

そしてここで、弁護団を通して原監督らから差し入れられた『ゆきゆきて、神軍』のポスターを上映に先立って披露したいという趣旨で、
「ポスターを傍聴席にも掲示したい」
と奥崎は要求したが
「当法廷は映画館ではない」
村上裁判長はにべもなく拒絶した。ここでまたまた奥崎謙三が起立して発言を求めるのである。上映に先立って出演者でもある被告としてぜひ一言したいので、十分間の時間をくれとの要求が押し問答の揚句に五分間に値切られて奥崎が言うには、『ゆきゆきて、神軍』は内外を問わず非常に好評で多くの意見が出されているが、そのことごとくは「ただ映画を撮りたいがために撮った」原監督ら製作者側と同様に、根本的に間違っている。たとえば「映画旬報」(「キネマ旬報」)を読むと、自分(奥崎謙三)の行動を天皇の戦争責任の追及だとか戦後史の暗部の発掘だとかに結びつけて理解しようとしているようだが、決してそうではない。自分はあくまでも「神の法」に基づいて行動しているのであって、それ以外の何ものでもないと、奥崎謙三は文字通り口角泡を飛ばしながら長広舌を振るうのだ。

この「神の法」という奥崎謙三の思想のキーワードは『ゆきゆきて、神軍』でも頻出するので、『田中角栄を殺すために記す』から引用すると、楠正成の「非理法権天」を誤りとして斥ける奥崎はアナグラム風に「非法権理天」の旗印を掲げて、すなわち「非は法に勝てず、法は権に勝てず、棒は理すなわち「神の法」と、天すなわち神に勝てず」となるが故に、「今後は、『権』と、『権』が捏造した『法』よりも、『理』なる「神の法」と、『天』なる神に対して、忠実に生きる」と昂然と述べている。
これを要するに奥崎謙三は自ら「神の法」の代理人として行動しているのであり、映画製作もあくまでもその一環なのだから小賢しい批評的言辞などクソ食らえということになる。五分の制限時間をオーバーしたあたりで村上裁判長が制止した。奥崎の裁判は毎回このような形で心証を害したものになる。

「私はビデオというものを見るのは今日が初めてだ」
奥崎は感慨深げに言った
「だから特別大きなテレビにした」
裁判所にしては、なかなか粋な計らいだ。普通ではこうはいかない。こうして二時間に及ぶ上映会の幕が開けたのであった。
開廷前も開廷後も一貫して法廷をリードしてきた奥崎謙三は、一言でいえばビデオ上映中は終始冷静でありただ一度の発言を除けば感情の起伏を見せなかった。
しかし、異変が起こった。三十分ほど経過して奥崎謙三が江田島へ島本イセコを訪ねて行くシーンであり息子の島本政行一等兵を自ら埋葬したことをひとり残された老婆に霊前で報告した奥崎が、墓前で「岸壁の母」を歌った老婆もろとも肩を寄せ合って、「合羽からげて三度笠……と歌い出した瞬間であった。思わず起立した奥崎は、正面の裁判官席に向かって短く鋭く言った。
「よーく見ておけよ。このおかあさんを!」
そうだ。島本氏の母親は既にこの世にはいないのだ。奥崎は島本氏の母親を無理矢理誘拐してまでもニューギニアに連れて行こうとした経緯がある。村上裁判長は冷ややかに、
「許可なく発言すると退廷させるぞ。映画が見られなくなってもいいのか」
奥崎謙三は崩れ落ちるように着席し、力なく
「気を付けるので最後まで見させて下さい」
二時間は一気に過ぎ去った。村上裁判長が証拠調べの終了を宣し、次回の被告人尋間の期日を十月二十九日午後と提示して馬渕弁護士が了解した時も、奥崎謙三は一個の観客として維持していた姿勢のまま一言も発しなかった。裁判官たちが正面扉から退廷し、傍聴席もまたガヤガヤしはじめてからも、奥崎謙三は被告席の机上に自ら飾ってまさしく同行二人で『ゆきゆきて、神軍』を見つづけたシズミ夫人の写真を物静かに仕舞い、再び看守たちに手伝わせて裁判資料の山を片付けている間の最中、なぜか終始無言であった。
原が人混みを分けて被告席との境の欄にまで進み出ても、手錠を架けられ腰縄を打たれた奥崎謙三は入廷時と同様にほとんど無表情で原監督らにコクリと頭を下げ、それは扉を出る時と廊下を通る時のガラス窓越しと都合三回にわたって繰り返されたにもかかわらず、自ら出演した映画をまさにいま見終わったばかりの第一声を、当の製作者たちを前にしてさえ発しなかった。
「ゆきゆきて神軍」は奥崎にとっては妻のシズミの墓標であったのだ。映画上映から三ヶ月後、広島高裁からの棄却判決が下った。判決要旨はこうだ。


昭和六二年(う)第六五号
判決
本籍 兵庫県 三木市 口吉川町 槇 五一一番地
住居 神戸市兵庫区荒田町二丁目二番一六号
バッテリー販売業 奥崎謙三
大正九年二月一日生
右の者に対する殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締違反、火薬類取締法違反被告事件について、昭和六二年一月二八日広島地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から適法な申し立てがあったので、当裁判所は検察官加藤圭一出席の上審理をして、次の通り判決をする。

主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決拘留日数二八〇日を原判決の本刑に算入する。
当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人馬渕顕及び同前川秀夫連名の控訴趣意書二通記載の通りであるから、ここにこれらを引用する。
これに対する当裁判所の判断は次の通りである。

一 控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は、原判決は、原判示第一の犯行(以下「本件犯行」という)の動機について、現在の社会構造は自然の法に背理するものであるとの独自の世界観を有していた被告人が、これを改革するためには自己の思想を社会全体に知らしめる必要があると、常々考えていたところ、その実現のために世間の注目を集める行動を起こし、その結果、自己の著書を読んで貰うなどしてその普及の一助にしようと考え、太平洋戦争中自己が所属していた中隊の中隊長村本政雄が、終戦直後の昭和二〇年九月上旬頃、敵前逃亡の名目で部下の兵二名を適正な手続を履践することなく銃殺した行為に責任者として関与していたとして、同人を殺害することによって右目的を達成しようと企て、右村本政雄方に赴いたが、応対に出た同人の長男村本和憲(当時三六歳)から父親は不在である旨告げられたため、いっそのこと政雄の身代わりとして、右和憲を殺そうと決意した旨認定したが、本件犯行の動機には右のような村本政雄の問題や天皇の責任問題等について多くの人の注目と認識を呼び起こしたいとの思いが含まれていたから、原判決は事実を誤認したものであるというのである。
そこで検討するに、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、被告人が原判決の動機に基づき本件の犯行に及んだことを優に肯認することができ、当審における事実取調の結果も右認定を左右するに足りない。被告人は、捜査段階、原審公判及び当審公判において、所論と異なり、原判示の動機に基づいて本件犯行に及んだ旨、繰り返し、且つ、一貫して供述しているところ、被告人の右供述は、被告人が村本政雄の不在を告げられるや、ためらうことなく直ちに初対面の村本和憲に銃弾を浴びせていること(本件犯行の動機に所論の動機が含まれていたとすれば、村本政雄の所在を尋ねたり、探したりするのが自然であると考えられる)や、本件犯行の日として、世間の注目を集めるため、当時兵庫一区から立候補していた衆議院議員選挙の選挙運動期間中の日として選んでいること、或いは、本件犯行日、本件犯行日に引き続き神戸で、当時、自己同様兵庫一区から右選挙に立候補していた石井一らを殺害したり、神戸新聞社長宅に放火する計画を立てており、その準備もある程度していたことなどの事実を無理なく説明できる上、原審及び当審に証拠として提出された被告人の世界観に関する膨大な量の書面等に照らしても、十分信用できるというべきである。もっとも、本件犯行により、或いは本件犯行に至る経緯について、映画が制作されたことなどにより、多くの人に村本政雄の問題等、所論指摘の問題について考える機会を与えたことは否定しないが、それはあくまで結果であって、これをもって被告人の動機と言うことは出来ない。論旨には理由がない。

二 控訴趣意中、量刑不当の主張について

論旨は、要するに、原判決の量刑不当を主張する者である。
そこで検討するに、本件は、被告人が、(一)原判示第一の通り、前記の動機に基づき、回転弾倉式改造拳銃一丁を携帯して、前記村本政雄宅に赴いたところ、応対に出た同人の長男村本和憲から父親は不在である旨告げられたため、政雄の身代わりとして右和憲を殺そうと決意し(所論は殺意の存在に疑念を差し挟むけれど、本件犯行に使用された回転弾倉式改造拳銃及び実包は、それぞれの機能を有し、人畜を殺傷する威力を有するものであること、後記の本件犯行の態様、被害者の傷害の部位・程度及び、被害者が死亡するに至らなかった原因に照らせば、被告人に殺意があったことを認めるに十分である)、所携の右改造拳銃を発射して、弾丸一発を同人の左前胸部に命中させたが、収容された病院で緊急手術が行われたため、同人に対し加療約3ヶ月間を要する左前胸壁貫通創、心室貫通創、左上下葉貫通創の傷害を負わせた程度に止まり殺害の目的を遂げず、(二)原判示第二のとおり、その際右改造拳銃一丁及び火薬類である実包四発を所持したという事案である。本件は、前記目的のため村本政雄をその標的と定めた被告人が、数ヶ月も前から何回も同人方を訪問してその様子を探り、凶器として改造拳銃を入手し、或いは犯行前日にマスコミ関係の二〇人近い人に、速達郵便で犯行に臭わせるなどの周到な準備をした上なされたもので、計画的且つ大胆不敵な犯行であり、その犯行態様も前記改造拳銃で三〇センチメートル余りの至近距離から被害者の心臓を狙って撃ち、そのため弾丸は、被害者の心臓及び肺臓を貫いており、幸い一命を取り留めたのは、救急車により収容された病院で、たまたま開始されようとした他の患者の開胸手術に代えて直ちに手術が行われたためであって、危険極まりない悪質な犯行と言うべきである。のみならず、被告人は自己の前記目的のための標的として村本政雄を選び、しかも同人に出会わなかったことから、たまたま応対に出た被害者を殺害しようとしたのであって、目的のためには手段を選ばない、すこぶる自己中心的な犯行であるばかりではなく、何ら落ち度のない被害者にとっては、行きずりの殺人に等しい犯行と言うべきで、犯情甚だ悪質というほかない。加えて、前記のような本件犯行の動機や、被告人には相当以前ではあるが、殺人罪により懲役一〇年に処せられた前科がある上、その後も本件と同様の目的による暴行罪や、猥褻図画頒布罪の前科が二回あることなどに徴すると、被告人には再犯のおそれもあるというべきである。以上の点に未だ被害者に慰藉の方途が全くなされていないことや、被告人に反省の態度がみられないことなどを併せて考えると、被告人の刑責は極めて重いと言うべきであり、本件犯行は幸いにも未遂に終わったこと、被告人が本件犯行に至ったのは悲惨な戦争体験によるところが大きく、その意味で被告人も戦争被害者の一人であると考えられること、被告人の年齢等、所論指摘の事情を十分考慮しても、被告人を懲役一二年(求刑懲役一五年)に処した原判決の量刑はやむを得ないところで、重きに失して不当であるとは認められない。論旨には理由がない



よって、刑事訴訟法三九六条に則り本件控訴を棄却し、刑法二一条を適用して当審における未決勾留日数中二八〇日を原判決の本刑に算入し、当審における訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文により、その全部を被告人に負担させることとして主文の通り判決する。

昭和六二年一二月一七日
広島高等裁判所第一部
裁判長裁判官 村上保之助
裁判官 谷岡武教
裁判官 平弘行

奥崎は最高裁に上告するも棄却される。遂に刑が確定し、昭和六二年一二月熊本刑務所に下獄した。昭和天皇が崩御したのはその一ヶ月後のことであった。
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第一四章 裁判

時間の針を少しだけ戻すことをお許し願いたい。兵庫署にて自首して三日後に奥崎は広島の大竹署に移送された。到着したとき、野次馬が罵倒したが、奥崎はひるまず
「馬鹿たれ、お前でも良かったんやぞ」
鋭く睨み付けると、野次馬は奥崎の勢いに呑まれた。大竹署の署長から奥崎に餅が差し入れられた。村本氏長男の殺害未遂による第一回公判は昭和五九年二月二九日に行われた。弁護人は国内を代表する弁護士の一人、遠藤誠である。戦時中は戦死した父の敵討ちをしようと、陸軍幼年学校へ入学するが、戦後になって父親の形見の従軍手帳を読み、中国大陸での日本軍の行為を知ってから以後は昭和天皇の戦争責任を追及し、一貫して反国家権力の立場で活動した。帝銀事件弁護団長や、反戦自衛官訴訟弁護団長を歴任。永山則夫の弁護人を務めた。遠藤と奥崎との出会いは、遠藤が奥崎の「宇宙人の聖書」を読み、手紙とカンパを送ったことに端を発する。その後、奥崎は車持込で遠藤の運転手を務めていた。夜は遠藤が家の中で寝ろと言っているのに、奥崎は何故か遠慮して車の中で寝ていた。遠藤は開口一番吠えた。

「法神仏は、支配する者と支配される者との階級をお認めにならない。したがって諸悪の根源は国家権力であり、かつてその頂点に立つのは天皇裕仁である。よって法神仏すなわち神の命令によって彼は天皇を殺そうとした。しかし、ガードが堅くて殺せない。そこで彼は終戦後、人肉問題で自分の立場を守るために無実の罪の兵隊二人を銃殺したミニ天皇、村本政雄を天皇の代わりに殺そうとした。彼の行動は正義に基づく。よって無罪である。」

何やら、無茶な答弁であるが、一応、第一級の弁護士の発言である。遠藤は旅費や日当のみで奥崎の弁護人となった。裁判の流れは、田中角栄等の証人喚問を請求するところはやり過ぎだとしても、村本氏と元部下達から、自分たちがイギリス軍の人肉を食べて生き延びたことから、戦犯としての責任を逃れるために、無実の兵士を処刑したという決定的な証言を得た。この件がバレていたらおそらく、村本・その部下達は問答無用で銃殺刑であることは間違いない。終戦後の軍事裁判は戦勝国のやりたい放題で、大勢が無実の罪で処刑されていた。法廷戦術は戦争犯罪を追求することを大義名分に掲げ、裁判は奥崎に有利に運ばれるように見えた。
しかし、遠藤が言うには、奥崎は「俺が主役」のような振る舞いが目立ったらしい。流石に遠藤は奥崎に忠告した。

「自分に不利になるような発言は止めた方が良いですよ」
二週間後、遠藤は奥崎に解任された。既に奥崎は有頂天になっていたと思われる。原が甘やかしすぎたこともあるのだろう。察するに、裁判官や検察官、はたまた村本を始めとする処刑に加わった証人一同が、奥崎よりも遠藤弁護士を下にも置かない態度で接するので、奥崎は大いに妬いたのだろう。所詮、奥崎と遠藤では格が違いすぎるのである。東大法学部出身で元裁判官の遠藤に対して失礼な態度を取る方がムリがあるのだ。
遠藤の弁護を望んでも袖にされる依頼人の方が多い。しかも、奥崎はタダで(実費のみ)で弁護して頂いているのだ。遠藤弁護士の解任に一番驚いたのは妻のシズミだった。
「遠藤先生以外に、誰があなたの弁護ができますか。私が最も信頼する遠藤先生を解任するのであれば、私は面会も差し入れもしません」
これには、奥崎も今回はシズミの言いなりにならざるを得ない。奥崎はシズミに殆ど毎日、電報を打ち、手紙は全て速達郵便で出していた。それ程に心の支えであったのだ。拘置所の中に居る奥崎はシズミの手助けがないと何も出来ない。すぐさま再選任を申し立てたが、遠藤は
「人形の首では無いので、一遍切られた首は繋がりません」
拒否した。すぐに裁判長本人から
「遠藤先生の気持ちはわかりますが、この事件は遠藤先生でないと務まりません」
再度、選任を要請されるが
「気持ちはありがたく頂戴します。一旦解任されたら天地崩れても二度と受けないのが遠藤誠のやり方。あとは広島弁護士会の先生を国選に」
と、完全に奥崎の弁護から手を引くことになった。遠藤もプライドがあるのだ。恐らく、法廷での事前打ち合わせでも相当揉めていて、遠藤をイライラさせていたのだろう。奥崎の弁護人は国選の弁護士が就任した。



明けて昭和五九年審判が下った。荒木恒平裁判長は、
「社会構造を否定する独自の主義・主張に基づいて、周到に用意した上での犯行で、直接関係のない人間を撃っており悪質。自分の思想をひろめるため世間の注目を集めようとした計画的犯行である。悲惨な戦争体験が被告にこのような犯罪を起こさせたと思われるが、それでも、許しがたい。本人は今後、暴力を使わずに思想の普及を図るとしているが、再犯のおそれもある」
検察側の殺人未遂、銃刀法違反罪懲役一五年の求刑に対して、懲役一二年の判決を下した。これに対し奥崎は即刻控訴した。
昭和六一年、妻のシズミが死亡した。肝臓が悪かったのだが、奥崎には内緒にしていたのだ。シズミの死後、拘留中の奥崎の元に、結構まとまった金額で、得意先からの売掛金や香典が送金された。シズミは奥崎が収監中も懸命にバッテリー業を続けて、最期まで奥崎を支援したのだ。
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第一三章 ゆきゆきて神軍 後編

話を元に戻そう。山田氏の勇気ある告白によって「ゆきゆきて神軍」の日本での撮影は迷走しながら一段落付いた。次はニューギニアでの撮影となった。原は低予算のため、ニューギニア政府にカメラを持ち込むことを申告しなかった。つまり無許可撮影だ。これが後に致命傷となる。撮影隊一行は昭和五八年三月、成田からジャカルタ経由でジャンプラヤに飛んだ。
コーディネーターである現地人のイスカンダルは実に一行によく尽くした。
当時、インドネシアは民族解放ゲリラと闘っている最中で、目的地は危険地帯に指定されていて許可が下りなかった。しかも、許可は警察と軍事警察と管轄が別れていることもあり、手続は煩雑だ。そこで、現地で奥崎が強引な交渉をした。アルソーで死んだ戦友の母親が、ニューギニア行の直前に亡くなった。その母親の写真を胸のところにゼッケンみたいにして、奥崎がつけて『これは戦友の母だ』。なおかつ自分はニューギニアで九死に一生を得た人間だと、泣き、わめき、叫んで日本語でまくしたて、大芝居をうつ。奇跡が起きた。許可が取れたのだ。
第一の目的地はアルソー。奥崎所属の独立工兵三六連隊が死の行進をスタートした地点だと言われている。警察官を同伴して現地に赴くのだが、既に開発が進み、当時の面影がすっかりなくなった状態に奥崎は愕然とした。
次はアベパンダイの日本兵慰霊塔へ。奥崎は亡くなった戦友達のために、海が見えるように村人に頼んで周囲のバナナの木を伐採した。
最終目的地は奥崎が捕虜になった地だったが、遂に一行はたどり着けなかった。それもそのはずで、奥崎の拙い記憶のみで手探りでの探索では困難な作業であるということは言うまでもない。しかも、政情不安定の地で自由に行動できないのである。全く関係のない村落でなし崩し的に撮影はクランクアップされた。
原はこれで開放されると安堵した。しかし、ニューギニアロケの最終日、最悪の事態が起こった。政府にカメラを発見されたのだ。奥崎はいつもの調子で
「取れるものなら、取ってみろ、キサマッ」
と、威嚇するが、反対に逆効果だ。こういった発展途上国での警察機構は日本のそれよりも、自尊心がすこぶる高い。土人などと見くびって不遜な態度を取っていると、最悪な事態を招く。事実、そういった傍若無人な態度で現地官憲を怒らせて、いつまでも日本に帰れない不心得な者も大勢いるのだ。原は、一部だけ差し出して、残りは隠そうと魔が差すのだが、スタッフに咎められた。結果的にフィルムは全て没収され、ニューギニアでの原の努力は水泡に帰した。

ニューギニアから帰国する頃になると、奥崎と原との関係はとても険悪なものとなっていた。奥崎は常日頃から原に対して、
「原さんが私を演出するのは一〇年早い」
「原さんは本当にダメ方ですね」
と言っては、原に無理難題を押しつけていた。原は奥崎の注文によく応えていた。しかし、遂に限界の日がやってきた。ニューギニアから帰国して、東京に帰るバスの中で奥崎は怒りながら
「原さんはですね、何故私のことを「先生」と仰られないんですか?原さんがですね、私のそばにおって、私の判断、行動を見られとろわけですよ。そうしますと、一番最初に私の事を「先生」と言ってくださるんじゃないのかなあ、と思っていたんですが、今まで一度も仰られない。警視庁の刑事が「先生」と呼んでくださるのにですよ。原さんはポリ公以下ですね。私を心から尊敬していると「先生」と言えるはずなのにね」
原は、奥崎のことを「先生」と呼ばされる日がいつかやって来るとは覚悟はしていたが、奥崎を「先生」と呼ぶのは絶対に出来ない相談であった。それ以降、原は奥崎との接触を極力避けた。
失意の下、原はフィルム奪還に全力を注ぐのであったが、遂にフィルムは戻らずじまいに終わる。色々なルートで交渉するが、相手の言い値が、百万、二百万と回を重ねる毎に止めどもなく上がっていくのだ。原はフィルムを諦めざるを得ない。ニューギニアでの記録はインドネシア情報局により没収という無味乾燥なテロップにすり替えざるを得なかった。
更に事件は起こる。奥崎が村本氏の息子を襲撃したのだ。奥崎は山口県の岩国でレンタカーを借り、三回、広島の村本宅を訪問したのだが、三回とも村本本人はいなかった。犯行の日、いつも車を止めていたところに別の車が止まっていたので、奥崎は公安の車だと思い、いなくなるのを待った。
手みやげを持ち、村本宅に行くと、応対したのは今まで居なかった長男だった。身の危険を感じた村本がボディーガードの代わりとして長男を呼んでいたのであろう。奥崎は
「お父さんおられますか」
長男は居ないと答えた。奥崎は村本本人がいないのなら、村本の妻を殺そうと思った。最初から長男を殺す機は無かったのだ。
「お母さんおられますか」
同じく、居ないと返事が。奥崎は長男の顔つき口ぶりから、村本は居留守を使っていると判断した。その時、奥崎にある思いが巡った。村本もニューギニアで他人の長男を殺している。と。奥崎は長男を油断させるために、手みやげの「岩おこし」を渡した隙に、隠していたピストルで長男の胸を打ったのだ。
「コノヤロー」
と言いながら、長男は家の外に逃げていった。奥崎は手応えを感じながら、シズミと最期の握手を交わして警察に自首した。長男は、たまたま担ぎ込まれていた病院で開腹手術の用意があったことが幸いし一命を取り留め、軽傷で済んだ。しかし、長男はその後に精神を病み、通院を余儀なくされる。

実は原は以前に奥崎より神妙な面持ちで
「私は村本を殺そうと思うんです。村本を殺す場面を撮影してください」
その時は原も妻の小林も必死に奥崎を説得し、殺人を思いとどまらせたのだが、遂に奥崎はやってしまった。更に、現役の最高裁判事である宮崎梧一氏にも犯行予告をしていた。(といっても遠藤弁護士主催の酒の席上ではあるが。)奥崎は広島拘置所に収監され、再度囚われの身になるのであった。

奥崎は犯行前に衆議院議員選挙に兵庫一区より立候補した。奥崎の政見放送はNHKの電波に乗り、全国に放映されるが、誰が奥崎が犯行を犯すことを予測できようや。一二月一八日の投票では、定数五に対し九〇二票と、七人の候補者中最下位だった。
「昭和六一年奥崎シズミ死亡」
「昭和六二年奥崎謙三は殺人未遂の罪で懲役一二年の実刑判決」
このテロップを最期に「ゆきゆきて神軍」はラストシーンを迎えた。

奥崎が犯行を実行する前に放映された政見放送の中身は次のような内容だった。カメラの前の奥崎はどこかとなく落ち着かず、目が宙を浮いているような状態だった。

落選確実なこの私が、三度参議院選挙に立候補したのは、国民の一部であります資本家・労働者・サラリーマンの地域住民の利益代表として、国会議員になった政治家には、利益と安全を確保することはもちろんのこと、国民の利益と安全を確保することも出来ないという自明の事実を一人でも多くの人に知っていただき、人類全体の利益と安全を確保できる社会構造を実現できる世界を一日でも早く実現させたいと思っているからなのであります。
政治家と政治が造り守っている国家と国法は、神によって万人が一体に生きるように定められております人類を、対立分立競争させ万人を安泰に生きるようにさせるものであり、人類全体の安全を確保することを大いに妨げる神と人類とを憎むべき敵であります。
だから人類は今日まで、政治家国家国法によって行われた戦争と政治のために、最も多く損害を得てきたのであります。政治家国家国法が今日まで人類に与えてきた損害と比較すると暴力団と犯罪者が今日まで人類に与えてきた損害は中流の生き物にもたらない微々たる者であります。暴力団や犯罪者は政治家が、国家国法によって人類を差別し分裂対立競争させているために発生している結果の一つであります。ですから暴力団や犯罪者をなくす方法は政治家国家国法を無くす以外には無いのであります。
人類の世界に発生する全ての難問題は、人類を差別し、分裂対立競争させる政治家国家国法を原因として発生した結果でありますから、政治家国家国法をなくすことができればなくなるのであります。政治家国家国法の奴隷として今日まで生きてきました人類は、一人残らず無知蒙昧な野蛮人であり、重傷のキチガイでありますから、政治家国家国法が全ての難問題を発生させる原因であるという事実を未だに知っておりません。だから原因の政治家国家国法をなくさないで、結果の不幸と難問題をなくそうとしてきたのであります。
全ての不幸と難問題をなくすために最も必要なことは、全ての不幸と難問題を発生させる原因は政治家国家国法であるという事実と、政治家国家国法をなくさなければならないという事実を知ると言うことであります。
以上の事実を、人類を何回も絶命させることが出来る、大量の核兵器を作り出した無知蒙昧な野蛮人であり、重傷のキチガイであります人類に知らせる手段として、無知蒙昧な野蛮人で重傷なキチガイな人類を象徴している、天皇裕仁と田中角栄と殺したいと私は思いましたが、政治家国家国法を守り飯を食っている警察官の警戒が厳しく、殺すことが出来ませんので、おぼれる者は藁を掴むような気持ちで、無駄徒労に終わると思いましたが、無知蒙昧な野蛮人であり、重傷なキチガイである人類を啓蒙し正気に戻すために、借金をして三度国会議員に立候補したのであります
生まれてから一度も政治家に投票してこなかったことを、誇りに思う私は、政治家や政治家に投票してきた人よりも、正気に近い軽傷のキチガイでありますから、政治家国家国法の正体を見破ることができたのであります。
政治家国家国法のために、私が所属しておりました独立工兵三六連隊の将兵は、ニューギニアにおいて全滅し、生き残った戦友二名は、敗戦後軍法会議にも掛けられず上官によって銃殺されました。
私がニューギニアから生きて帰れましたのは、政治家国家国法を守らず上官を多く殴ってきたのであります。ニューギニアで餓死した戦友の霊を慰めるために、私は戦友を殺した政治家国家国法を討ち滅ぼし、人類全体が一つになって生きていける社会構造を作るために、刑罰を二度受け助力してきました。
しかし人類の無知と怯懦によって守られている政治家国家国法の力は強く、私の弱い力では討ち滅ぼすことはできません。弱い私に力を貸すために投票してくださる、正気に近い軽傷のキチガイの人が兵庫一区の有権者の中に果たして何名いらっしゃるのでありましょうか。
最期に願いまして、人類全体の利益と安全を追求することは無限にできますが、人類の一部の利益を追求することは、無限に出来ないということは出来ないと言うことをお知らせしておきます。
以上で私のへたくそな政見放送は終わります。

天皇を殺す旨の演説をそのまま流して良いのだろうかと疑問に思うが、昔は牧歌的な所があったのだろう。
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第一三章 ゆきゆきて神軍 前編

昭和五六年一二月、神戸の奥崎邸を訪れた二人組がいた。映画監督原一男とその妻小林佐知子であった。原一男は今村昌平より渡された「田中角栄を殺すために記す」を読み、奥崎に興味を抱いたのであった。原は今村に奥崎に会いたい旨を伝えると、紹介状代わりと、自分の名刺を原に渡した。
翌年の昭和五七年に、原は再度、奥崎邸に向かった。まだ無名であった原は、奥崎に映画作りを熱く語った。本音は今村に撮って欲しかった奥崎ではあるが、次第に乗り気になったのか、最終的な資金の話まで及んだ。原の妻である小林は資金を一口二〇万で募ると懸命に具体的なプランを説明した。奥崎も乗り気になったように、
「そうですか、私のお金をアテにしてらっしゃったのなら、私はお金がありませんから、映画を作っていただくことをお断りしようと思っていたんです」
「原さんと小林さんが、御自分のためだと思われて、映画を作っていただけるのなら、私の方も甘えてばかりはおれませんから、何とかしなくてはいけませんね」
と、映画作りに意欲的な態度を示す結果となった。奥崎の本心としては、原ではなく今村に映画を撮って欲しかったのだ。かくして「ゆきゆきて神軍」のスタートが決定したわけであるが、完成まで六年弱の歳月が掛かろうとは誰も予測しなかったのだろうか。
「ゆきゆきて神軍」冒頭部分は奥崎の日常や人となりが映し出される。物語は奥崎邸のアップからはじまり、何やら自宅には色々な文章が書かれているが、内容は次の通りだ。

外壁部

 総ての人の生命を平等に尊重することが出来,総ての人が自分を本当に愛することが出来る構造の,神・天意・自然法・人間性に叛く天皇や天皇的な権力者がいない,全人類が一台の自動車の如く組織され,分裂・抗争・対立・競合が完全に絶える真に民主的・文化的・倫理的・衛生的・経済的・科学的・平和・自由・幸福な新世界を,一日も早く実現させる,誠の大義・善・公利・公欲を追求する目的の手段として,無知・狂気・迷信・抗争・偏見・独断・妄想・錯覚・不経済・分裂・対立・搾取・悪無責任・の象徴である,天皇裕仁にパチンコを撃ち・天皇一家のポルノビラを撒き十名の判事・検事の顔に小便と唾をかけて罵倒し,見たことがない名古屋の松井不朽先生から二百万円を頂き,東京拘置所の独房の中から,参議院議員(全国区)選挙に立候補し,自費で再び立候補する決心を固め,自民党員の神戸市市会議員である,溝田弘利と小西徹夫を収賄罪で告発した,殺人・暴行・ワイセツ図画頒布前科三犯の奥崎謙三は,天与の生命がある限り,誠の大義・善・公利・公欲を追求し,何千万年たっても色があせない行動と発言をすることを誓います。

シャッター部

田中角栄を殺すために記す
人類を啓蒙する手段として
発行 サン書店 発売 有文社

奥崎は朝早くシャッターを開けて、妻のシズミと共に朝食を摂り、自らでデザインしたトヨタマークⅡを駆って兵庫県養父町に向かった。奥崎賛同者の一人である太田垣俊和氏の結婚式に向かうためだ。太田垣氏は元神大全共闘沖縄で火炎瓶を投げた罪で、逮捕歴がある。奥崎との出会いは入り口の看板を見て心惹かれるものがあったという。すぐに意気投合し、中古の軽自動車を買った。奥崎は婚期の遅れている太田垣氏のために店の入り口に「花嫁求む」の募集広告を出したら、たまたま応募があり、早速レストランで見合いをして話はトントン拍子に進んで今日の日となったのだ。仲人である奥崎は声高らかに次の通り祝辞を述べる。
 「私は太田垣俊和さんと、佐野絹子さんの、婚約を媒酌させていただきました、奥崎謙三でございます。太田垣俊和さんと佐野絹子さんのご結婚おめでとうございます。花婿の太田垣さんは、神戸大学を卒業後、反体制活動をした咎により、前科一犯でございます。媒酌人の私は、不動産業者を殺し、皇居で天皇にパチンコを撃ち、銀座渋谷新宿のデパートの屋上から天皇ポルノビラをまいて、独房生活を一三年九ヶ月おくりました、殺人暴行猥褻の前科三犯でございます。つまり今日の結婚式は、花婿と媒酌人が、ともに反体制活動をした前科者であるが故に実現いたしました、類い稀なる結婚式でございます」
 それからも、マークⅡで東京に乗り込みアジを飛ばしたり、神戸拘置所に独房の寸法を測りに行ったり、法曹会館で行われた、帝銀事件主任弁護士である遠藤誠氏のパーティー席上で司法を批判したりと、奥崎の暴走ぶりが克明に映し出された。尚、遠藤氏は次に紹介する奥崎のスピーチがもとで、法曹会館の使用禁止処分を受けている。
奥崎のスピーチ
「私は、一般庶民よりも、法律の被害を多く受けてきましたので、日本人の中では、法律の恩恵をもっとも多く受けてきました無知・無理・無責任のシンボルである、天皇裕仁に対して、4個のパチンコ玉をパチンコで発射いたしまして、続いて、天皇ポルノビラを、銀座渋谷新宿のデパート屋上からバラまき、その2つの刑事事件に関わった、法律家であるところの二名の判事と八名の検事の顔に、小便と唾をかけておもいきり罵倒いたしました」

「例えば、この法曹会館の横に並んでおります、東京高等裁判所の刑事法廷におきましては、裁判長に向かって手錠をはめられたまま、「貴様は俺の前でそんな高いところに立っている資格はない、降りてきて土下座をさらせ」と怒鳴りました。そして退廷を命ぜられまして、今度は引き続いて午後に、今度は私は「俺の前で土下座をするのはもったいない、穴を掘って入れ!」と申しました。
 
画面中ではスピーチの内容に顔面蒼白の遠藤弁護士が映し出されるが、その後、奥崎の弁護人を無償で引き受ける結果になったことは、やはり遠藤弁護士の人徳によるものであろう。

そして、奥崎が戦友達の墓参に行くことと共に、物語は本題へ入っていくことになる。奥崎は墓前で「岸壁の母」を歌う戦友の母に一番まともな死に方をしたと説明し、一緒にニューギニアに行くことを約束させる。早く母を失った奥崎にとって、戦友の母に尽くすことによって、自分の親孝行としようとしたのではないだろうか。しかし、戦友の母は奥崎がニューギニアに行くことを待たずに、寿命が尽きた結果となった。
 かくして戦友の墓参を続けていく課程で、戦争が終わったのにも関わらず、銃殺事件が起こったことを知った奥崎は真相究明に乗り出す決意を固める。生存者から証言を得るべく神軍の行進が始まるのであった。
 
一人目は元分隊長の所である高見実氏である。生き延びて、平穏に暮らしていた高見氏は、奥崎のいきなりの訪問に面食らう。そこには元上官たる威厳はどこにもない。高見氏は処刑には立ち会っていないと証言した。
 
次に訪問した妹尾氏は、迷惑そうに応対する。それもそのはずで、当時の奥崎は現場に居合わせていないのである。完全に部外者扱いだ。妹尾氏が追求に耐えきれず中座しようとした刹那、奥崎がいきなり掴みかかった。しかし、異常を察知した隣人によって反対に奥崎が取り押さえられてしまう。
「お前さんら、ヤメロ、俺がしぼられてるじゃないか」
この時、原は悠然と様子をカメラに収めていた。奥崎はそれが気に入らないのか、いきなり映画の打ち切りを宣言する。
「原さん、この映画はもうやめましょう」
「私が妹尾幸雄にやられとっても、平気で撮影なさってる方とは一緒に行動できません。私はあのとき、本当に命が危なかったんですよ。私はニューギニアでも死なずに生きて帰ったんです。それが今日、死ぬかも知れなかったんですよ。原さんは人の命が危ないときも撮影なさっていてカメラマンとしては立派だな、と感心しました。しかしカメラマンとしては立派でも、人間として、原さんはダメな方だと思うんです」
「私に妹尾幸雄が馬乗りになっているときに、まあまあと、止めに入って来て欲しかったんです。第一、この映画の主人公は私ですよ。私がご本尊なんですよ。その御本尊がやられているシーンなんて格好悪くて映画を見てくれている人は喜んでくれませんよ」
原は奥崎の勝手さに憤り、絶望し、涙した。しかしその後、奥崎は何事も無かったのかのように撮影の続行を原に伝える。撮影中は、このような辞める辞めないが幾度となく繰り返されていることは、映画を見ている側にとっては知る由もない話であった。
現状では当時の状況を知る関係者を訪問しても固く口を閉ざしたままであることを、知ったか知らずか、以降は銃殺された兵隊の遺族である野村氏と崎本氏が同行することになった。

三人目の訪問先は山梨県石和にある桜田氏だ。この事件の関係者の多くは苗字を変えている。やはり、触れられたくない部分であるのだ。奥崎達の執拗な追求にも動じず、のらりくらりと言い逃れを続ける。不法拘禁の疑いで警察が駆けつけるのだが、刑事は奥崎を引っ張るどころか、深々と慇懃に挨拶しているところを目の当たりにして桜田氏は重い口を開けた。

「あの二人が敵前逃亡、逃亡の罪において銃殺された、ちゅうことをやられてごらんなさい、あんたたちが迷惑するでしょう。」
処刑には加わったが、幸いにも装填された銃弾は不発弾であったということを桜田氏は証言した。

四人目は当時の衛生兵、浜口氏である。既に現役を退き隠居中の身であった。浜口氏によれば野村・吉沢両名は脱走の罪で処刑されたとのこと。軍法会議の記録は残っておらず、記録は「戦病死」。明らかに辻褄が合わない。浜口氏は更にショッキングなことを証言した。
「肉はみな、今日は白か、今日は黒かと言うて、くろんぼか、しろんぼか言うてね、みな、食べました。」
黒は原住民、白は白人兵ということは言うまでもない。更に浜口氏は語る。
「原住民の豚取ったら殺される。」
浜口氏は処刑には参加したが、桜田氏と同様に銃弾は不発と証言した。ここで気になるのは浜口氏の余裕だ。他の処刑に参加した兵隊は緊迫し怯えた表情を見せるのだが、浜口氏にはそれがない。実は事前に奥崎が浜口氏を訪問して根回しを進めていたのであった。
しかし、これを最期にして、処刑された兵隊の遺族が同行することは無かった。理由は撮影スケジュールの一環で、墓参りが入っていたのだが、これが銃殺事件とは無関係の人物であったので、同行する、しないで、奥崎と被害者遺族との間に諍いが起こったのだ。関係ない人物の所に行っても意味がない。色々事情もあるのかも知れないが、全体の都合で処刑された無念を、個人的な都合でねじ曲げるのはいささか傲慢な行為である。

遺族が同行できなくては、証言を得るための大義名分が立たない。代役として、原の母親が候補にあがるが、あっさり拒否。最終的に苦肉の策で奥崎は自分の妻と、友人の桑田博氏を遺族の身代わりとし、元隊長である村本氏の自宅に乗り込んだ。さすがに村本氏の自宅は元将校にふさわしく、今までの登場人物の中の家では一番立派な外見であった。
奥崎の訪問を受けて、村本氏は狼狽している様子だ。かつての指揮官の威風は既に無く、弱々しい老人となっていた。奥崎の追求に村本氏は、敵兵の人肉を喰らったので処刑したと辿々しく答えた。自分は現場にいなくて、拳銃も持っていない、自分は役目柄殺したと言われてもしかたがないと、前置きしながら、
「僕は僕なりにね、とにかく、あのう、みんなを最期迄ね、連れて行く責任がある。ということで、あのう、実際戦場でもって、後ろに下がった人間もおりますよ。僕はみんなを犠牲にしてね、生きて帰るという気持ちは一つもなかった。みんなのために最期までやってきた男だから、天地に恥じることはない」
村本氏の精一杯の遠回しな反論だった。
その後、前述の高見氏、妹尾氏を訪問し、事実が解明された。高見氏、妹尾氏、桜田氏、会川氏、浜口氏の五人が銃殺に参加し、トドメは拳銃で村本氏が行ったという結果だった。これでバラバラだった当事者の点と線は一つになった。事件の更なる核心は後に明らかになることになる。
その衝撃も束の間に、撮影隊は最期の登場人物、奥崎の元上官である山田氏の自宅に向かう。山田氏は、銃殺事件の当事者ではないのだが、別に、部隊内で謀殺事件があったからである。
「ニューギニアで亡くなった人は家族に聞かせられないような死に方してるんだよ」
山田氏は固く口を閉ざす。奥崎は真実を語ることが最高の供養になると、強引に山田氏に証言を迫ると、意を決した様子で封印していた記憶を解放するかの如く、訥々と語った。謀殺したのは部隊の食料を盗み食いしたことが理由であるが、敗戦末期にはどこの部隊でも生じていた。
「原住民は食わない。とても向こうの方がすばしっこいから、こっちが負けちゃうんだ」
「自分だけ、一人だけ生きようとすると、ずるく考える。本人とすれば真剣なんだけど。自分の勢力が一人でも二人でも減れば、今度は自分が狙われる。だけどそれで庇う人もいるわけだ。奴を殺したら不自由だと、俺はそれで助けられた」

「実を言えば、勘が良かったわけ。水のある山無い山、外が見えないジャングルだって見分ける力があるわけ。だから俺を殺したら不自由になるから、殺して食いたいと言う人もいるけど、庇う人も居る。それで助けられた」
嫌々ながら証言を開始した山田氏ではあるが、真実を伝えた後の山田氏の顔は、すっかり憑きものが落ちた穏やかな表情に変わっていた。

戦争とはいえ、既に下級兵士は上官の「食い物」にされていたわけである。どれだけ下級兵士の人権が無視されていたかの一つの例となるのは、中部太平洋のメレヨン島の例である。ここでは補給も途絶し、米軍からも無視される中で敗戦にいたるまで飢餓との闘いが続いたのであるが、同島守備隊は最後まで「軍紀厳正」だったということで、昭和天皇からとくに賞賛の言葉が与えられたのである。
しかし「軍紀厳正」の実態は、飢えのために食糧を盗み出そうと試みた兵士に対する裁判によらない処刑の乱発で保たれていたものだった。食糧の配給も将校と兵士の間では大きな差が付けられていた。その結果、同島からの陸軍の生還者は准士官以上の階級では七割であるのに対し、兵士は二割に満たなかったのである。すなわち餓死の運命は平等に軍人を襲ったわけではなく、明確な階級差がついていた。下級であればあるほど、餓死の比率も多くなったのだ。日本の国民兵たちは敵の弾よりも、日本の職業軍人の手で、より多く殺されたのだ。

フィリピンのミンダナオ島でも相当数のフィリピン人が「食用」されていた。ドキュメンタリー番組で、人肉で生き延びた元日本兵が贖罪のために人知れず訪れるそうだ。事情を知らない現地人は贖罪に来た老人が包んだ、なにがしかの金を受け取っていたが、どうも老人が何をしに来たかわからない様子だ。それもそのはず、老人は通訳を介しているのだ。何を話しているのかは老人は殆どわからないのだろう。場の雰囲気はどうみても、ひなびた村の普通の村祭りに日本人が来ました。といった感だ。何を言いたいのかと言うと、老人はお詫びに来たのだが、フィリピン人の通訳は全く違うことを言って誤魔化しているのだ。この他にも色々な理由を付けては老人から金を引き出しているのだろう。
これは筆者の見聞なのだが、一部を除いて、日本から東南アジア方面で暮らす老人の殆どは現地の言葉を話すことはおろか、理解しようともしない。無理矢理に日本語で通そうとするのだ。そして、持ち金をあの手この手で引っ張り出し尽くし、利用価値が無くなれば、死体になって山に捨てられるというケースが後を絶たない。現地人はヒドイ事をするなと思われがちだが、当の本人は現地語が全く通じない、現地人のことは「土人」扱いして傲岸な態度を取る。となれば、金以外は邪魔でしかないのだ。横井、小野田両氏のケースは例外として、語学はサバイバルに必要不可欠なのだ。海軍は早くから英語の導入に力を入れていたが、陸軍ではそういった努力が無かったらしいので、それも運命の分かれ目とも言えよう。(山下大将は語学堪能だった)
本当に謝罪の気があるのならば、タガログの日常会話位はマスターすべきだ。何十年も経ち、既に誰が住んでいるかもわからない状態の村にいきなりやってきて、しかも他人を介して詫びるということは、見方によっては美談かもしれないが、現地人の感情を察すれば、あまりにも横柄では無いのだろうか。
これは偏見ではないが、フィリピン人は本人が言葉がわからないと知れば、平気でタガログ語で本人そっちのけで密談(といっても小声では無いのだが)を始める。こういった「贖罪」を利用して、反対に食い物にされているケースもあるのだから、どっちもどっちということになる。
「戦友の死肉を食べることによって、戦友の肉は自分の血肉と一緒になり、祖国に帰れることが出来る。だから戦友の肉をたべるのだ」
そう嘯いて、堂々と人肉を貪っていた猛者もいたと証言していた老人がいた。本人は生きることで必死なのだ。

筆者はニューギニア戦線の生き残った方々の手記を読み漁った。殆どが口を揃えたかのように、たまたま手つかずの農園を見つけた、たまたま原住民の家畜を接収できた等、幸運なことがあったから生き残れたような記述が多い。戦後生まれで戦争知らずの筆者がこのようなことを言うのもおこがましいが、ニューギニアは開発もされず、食料も自給自足。先住民も原始時代に近い生活をしている。元来、食料の備蓄が乏しく、本土よりの補給もままならない。そのような地に約二〇万人もの軍勢が投入され、「たまたま」に遭遇することが果たして可能なのであろうか。山田氏のように突発的にでも真実を告白する勇気がある人物ばかりではない。現在とは違って、村社会で生きている人々は少しのスキャンダルで村に居れなくなってしまう。悪しき習慣に縛られていると言えばそれまでであるが、村社会で互いに監視し合うことが、そのままの警察機構となって犯罪の抑制に繋がっていることも否めない。本当ならば真実を告白し贖罪したい気持ちはあるが、それをすると自分の明日からの生活が立ちゆかない。人肉食が生への執着とすれば、真実を隠すこともまた生への執着であるといえよう。実は生き残った帰還兵こそが一番の戦争被害者であるのだ。
人肉食は非か?それは極限状態に置かれなければ理解できないだろう。終戦後も戦争ということには限らず、人肉食事件はあった。

一九七二年にウルグアイのカラスコ国際空港を発った大学のラグビーチームを乗せたウルグアイ空軍機チャーター機は、悪天候のために一晩空港で待機し、チリのサンティアゴに向けて離陸したものの、航空管制の誤誘導によりアンデス山脈のチリとアルゼンチン国境付近のセロ・セレール山の頂点近くに墜落した。
機体はセロ・セレール山の山頂付近に接触して胴体と翼がばらばらになり、さらに胴体は二つに分かれた。機体前部に搭乗していた者の多くは生き残ったものの、事故直後に一二名、翌日までに八人、八日目に一人が死亡した。
ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの三カ国により救助隊が編成され捜索に当たったが、墜落地点がアンデス山中の奥地であったこと、事故機の白い外見が雪に紛れて上空から目視出来なかったことなどが原因で捜索隊は事故機を発見出来ず、捜索は打ち切りになった。その後家族らの依頼によりウルグアイ政府が捜索を再開したものの、その後何も発見できなかったことから再び短期間で打ち切られることとなった。しかしその後も家族による自主捜索活動が継続されていた。
短時間のフライト予定だったため機内食の用意もなく、乗客の持ち込んだ菓子のみという状態で八日目に食料が尽きてしまい、極寒の山中での生存を強いられた生存者たちは、一〇日目に全員の決断により凍死した仲間の遺体を人肉食するという究極の選択を迫られるなど極限状況を体験するに至った。このときまでに二七人が生存していたが、生存者たちはトランジスタラジオで捜索の打ち切りを知り、その後起きた雪崩で八人が死亡した。
これらのことを受けて自力で生還するため、何度か下山のための決死隊を編成し、事故から六〇日後の一二月一二日三名が下山を試み、体力低下と高山病に悩まされながらも、勇気と体力、航空地図を頼りに二名の青年が(一人は途中で連絡のために戻った)九日後の一二月二一日に馬に乗った現地人を発見し、翌日に現地人の手引きで下山に成功した。
下山した青年らの誘導でチリ空軍の救助隊により墜落地点が確認され、翌日には事故後七二日ぶりに全ての生存者が救出されたが、生存者は一六名に減っていた。クリスマス直前のセンセーショナルな救出劇だったため、世界各国の新聞などで「クリスマスの奇跡」として報道され、その後人肉食での生存に対して報道が過熱した。生存者の全てが敬虔なカトリック信者だったため、人肉食の行いに対してローマ教皇が罪に問わないという声明を出した。この事故を機に、
「航空事故の捜索は事故機を発見するまで決して打ち切らない」
というのが世界各国における救助活動の不文律となった。

手塚治虫氏は「ゆきゆきて神軍」の映画評をまとめた倒語社刊「群論ゆきゆきて神軍」で興味深い手記を書きつづっている。手塚氏の父親が主計少尉として赴任したフィリピンでの二年間の話しだ

「さあみんな集まれ。オレがどんなに苦労してきたか話して聞かせてやるから」
と言って、学校へ出かけようとした我々を並んで座らせた。それから長々とフィリピンでの逃避行の話が始まった。僕は正直の所、感動も同情もしなかった。白けてしまって、さっさと学校に行きたかった。親父の話がメリハリが無くて退屈だっただけでなく、親父が将校として部下にチヤホヤされて、結構ウマイ生活をしていたようだったからである。食糧なんかも部下に調達させて、いの一番に親父が好きなだけ食い、残りを部下が分けているようだった。
そんなところに僕は反発した。なんだ、内地の我々のひどい暮らしの方を、親父に聞かせたいくらいだ。だが、話が進むにつれて、フィリピンの山中の生活がかなりひどいものだったことがわかった。部下が逃げたり餓死したりして、どんどん減っていったらしい。山奥の現地人の村に迷い込んで、部隊は小休止した。ここから先はどうも書くことをはばかりたい。だが、やっぱり続けねばならない。部下が親父の所に来て、
「豚を調達して来ましたので召し上がりますか、隊長殿」
と言った。
「豚が村にいたのか」
「野豚であります。隊長殿にまず召し上がって頂きたいと思います」
あのときは、本当に久しぶりに腹一杯食ったなあ、と親父は言った。更に部隊はあてどもなく山を逃げ回った。再び小さな村があって、そこでも親父は部下に、
「また野豚の肉が、手に入りました」
と言われた。親父は喜んで食った。いつも、いの一番に親父が味わうのだった。どの村でも豚を食べたという。
「あの時も、腹一杯食ったなあ。豚だけはいざとなったら、部下の奴がうまく手に入れてくれよってなあ」
米が一日、二合一石配合という、最低の食料状態で生活していた我々にとって、豚肉の話は唾を飲み込みたいほどであった。だが、親父はもしかしたら極めて、恐ろしい話をしていたのかも知れない。自分は何も知らずに、今、そうでなかったことを祈りたい。本当の野豚であったことを祈りたい。


手塚氏は奥崎のことを、いささか、辟易する「やりたがり」というか、その告発の姿勢がかなりカメラを意識して演技的に見えるとしながらも、親父の遺言代わりの映画であると締めくくっている。このように極限状態では生命力・生の執着が強い者のみしか生き残れない。誰も責めることは出来ないのだ。

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第一二章 ニューギニアへ

 昭和五五年参議院選挙で自身の立候補に対する投票もせぬまま、奥崎は西ニューギニア戦没慰霊祭に前出の井出孫六氏と共に旅立つ。かの地は政情不安定であったのだが、井出氏の実兄が国会議員でもあることにより、入国許可が下りやすくなったのだろう。旅行は六泊七日の日程で、インドネシアの首都ジャカルタから、西イリアンの首都ジャヤプラを経由する行程である。
西イリアンとはニューギニア島の西半分。かつてはオランダ植民地だったが、現在ではインドネシア領で、パプア州(二〇〇二年まではイリアンジャヤ州)と呼ばれている。オランダ領からインドネシア領に移行する間の七ヶ月間、国連暫定統治機構(UNTEA)による暫定統治が行われ、国連西イリアン保安隊(UNSF)が停戦監視と治安維持のために派遣された。奥崎は、その道中ショッキングな話を同行者から聞くことになる。
 同行者は、アメリカ軍の攻撃を受けて、後方基地に敗走する途中で、
「飢えをしのぐために日本兵の肉を食べた」
と、淡々と告白した。他の同行者からも、
「捕虜としていたアメリカ兵を、台湾高砂族の軍属がくれというので引き渡したら、翌日になると肉の多くを切り取られていた死体に変わっていた」
という体験談も聞くことになる。奥崎は食欲をなくすと共に、ニューギニアで日本軍はかなりの人数で人肉を食べていたという事実を痛感する。この事実は奥崎の名を世に知らしめさせる「ゆきゆきて神軍」の一大ファクターとなろうとは、当の奥崎も到底、気づかなかったのではないだろうか。
 この旅で奥崎は、祖国に帰りたくても帰れない無念の思いで餓死した戦友を偲ぶため、もう一度西イリアンへ再訪することを堅く心に刻む。次回はジャカルタを経由せずにポートモレスビー経由で行き、大戦中に自分が彷徨い歩いたコースと同じ場所を歩く心づもりであった。
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