捕虜収容所に差し入れられ、戦後沖縄に戻った三線と所有者の嘉数進さん。遺影は差し入れたとされる嘉数亀助さん=3日、糸満市の自宅
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沖縄戦で米軍の捕虜となり米国ハワイの「砂島収容所」に収容された県人に県系人が差し入れた三線が戦後沖縄に渡り、糸満市内の元捕虜の家族の元に保存されていたことが、3日までに分かった。三線を差し入れた県系人は、食料難に直面した戦後の沖縄を救うため豚550頭を届けたハワイ沖縄連合救済会の中心人物・嘉数亀助さん(1897~1975年)とみられ、当時収容されていた、おいの嘉数清昌さん=享年60歳=が沖縄に持ち帰っていた。三線は6月、再び海を渡り、ハワイで行われる「ハワイ捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭」で演奏される予定。
亀助さんは戦前、10代でハワイに渡って苦学の末に金融会社を起業。県系移民に融資することで社会進出を後押ししたほか、戦後の沖縄を救うため尽力した人物。三線は、当時17歳でハワイの収容所に入っていたおいの清昌さんが戦後、沖縄に持ち帰ったが、来歴は不明だった。今は清昌さんの弟・進さん(72)が所有している。
三線は、琉球三線楽器保存育成会(岸本吉雄会長)に所属する琉球古典音楽の人間国宝・照喜名朝一さんらが今年2月に鑑定した結果、昭和初期に作られた黒木材質の「真壁型」であることが分かった。
三線の棹部分には嘉数家の屋号「前真知田(めーまちた)」が記されていた上、ハワイの亀助さんの家族らが「三線とすしを差し入れた」と証言していたことも確認されており、進さんは「この三線が亀助の物だった可能性が高い。収容所にいたおいに差し入れたのではないか」と話した。
三線は「さんしんの日」の4日、読谷村で開かれるイベントでも披露される。嘉数家の長男だった亀助さん、その末弟の父を経て屋号を継いだ進さんは「三線を家宝に、嘉数家を守っていきたい」と誇らしげに語った。(久場安志)