サンミュージックを設立して来年で40周年を迎えますが、いろいろな思い出があります。なかでも忘れられないのは1986年4月8日、岡田有希子の自殺です。しょっちゅう夢に出てきました。 実は自殺する3日前の4月5日、有希子がボクの家に食事に来たんです。そのときに「私なんかもうダメだから」という暗い話を始めたんですよ。「何だよ。これからレコードも売れて、やっとうちの大きな花になってもらおうと思ってるのに、そんなんじゃ困るよ」と言ったら「いるじゃない、上に」と、のりピーのことを言い出したんです。ちょうど、のりピーもいたのでサインしてあげてよって言ったら、私の部屋に飾ってあった自分の写真に「to のりっぺ」とサインしてくれたんです。 ボクの会長室にはタレントの写真は飾らないようにしているんですが、お前はずっとオレのところのタレントにするからなって意味も込めて、のりピー向けにサインしてくれた有希子の写真だけは飾ってあるんです。精神的なものかもしれませんが、それから夢には出なくなりましたよ。 自殺する前日の夜、思い焦がれていた俳優峰岸徹のところに行ったそうなんです。 ところが、行ったら女性がいた。有希子は2人がいちゃついているのを、外で一晩中聞いていたみたいですね。 早朝にタクシーに乗って東京駅の八重洲口まで送って行ったというタクシー運転手が、車の中で有希子は泣いていたと証言してましたからね。純粋に峰岸にほれていたんだと思いますよ。でも彼女は、電車に乗らず青山の自宅に戻り、ガスをひねり自殺を図った。一晩中、寝てなきゃ神経もおかしくなりますよ。 有希子の自殺未遂を知って、すぐに事務所に連れて来させたんですが、ボクは歯医者に行っていなかったんです。ボクが歯医者から戻ると事務所のビルの下は大騒ぎ。有希子が飛び降り自殺したんです。ボクを待っている間、ボクに(タレントとしての心構えなど)何か小言を言われるのが嫌で、屋上に行って飛び降りたとばかり思っていたんです。 ところが、彼女が残した1冊の日記風のノートを読むと自殺の真相が理解できました。その日記には相手の男性の名前(峰岸)はもちろんのこと、彼女がうれしくて喜ぶさまから、真綿で首を絞められるような心情なども克明につづられていたんです。最後の”さよなら”の言葉は有希子の遺書に感じましたね。その日記は今も会社の金庫に眠ってます。 命日にあたる4月8日にはいまだに多くのファンの方々が、たくさんのお花を飾ってくれます。有希子はいまだに生きているんですね。歌唱力はもちろんのこと、頭もいい子だったから生きていたら歌を作ったり、詞を書いていたりしたかもしれませんよ。 |