自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著書である父中村仁一が皆様へ遺言としてお伝えしたかった内容を載せております

中村仁一の遺言4   新型コロナについて考える

2020-12-26 17:41:02 | 日記

現在新型コロナウィルスの感染が拡大し、「医療逼迫」や「医療崩壊」

が叫ばれています。

新型コロナウィルスには治療法がありません。だから、入院させても

治るわけではないのです。ですから入院は、他の人に移させないための

隔離であって、本人を治すためではありません。

しかし、治療法がないにもかかわらず8割の人は治っているのです。

なぜでしょう。それは、本人が自分で治すからです。

病気やケガを治す主役は、前述の通り(中村仁一の遺言3)、

本人の自然治癒力なのです。

この自然治癒力の衰えている人(年寄りや持病のある人など)の場合、

手伝ってもらえば助かる人といくら手伝ってもらっても助からない人に

分かれるのです。重症者に人工呼吸器やエクモが装着されますが、

治療法がないわけですから、あれが治すわけではありません。

あなたに替わって時間稼ぎをしてやるから、その間に勝手に

治しなさいというわけです。治せる人は助かりますが、

治せない人は、いのちを落とすということになるのです。

「医療逼迫」が叫ばれている現在、医療資源に限りがある以上、

日本人が一番苦手とする優先順位を考えなくてはいけない時期が

到来しているように思えます。

たしかに、医療はやってみないと どうなるかわからないという

「不確実性」はあります。しかし、90歳過ぎのがん末期の人に

エクモが使用されているなどという話を耳にすると、医療介入すると

助かる可能性の高い人から医療介入すべきではないかと思うのです。

たとえば、持病のある人は持病のない人へ、年寄りは現役世代へ、

同じ年寄りでも自立していない人は自立している人へというふうにです。

これまでも、口から食べられなくなった人に総入れ歯をつくったり、

ひどくぼけた年寄りのペースメーカ装着や人工透析などかなりの

違和感をもっていました。

しかし、今の日本人は、どんな状態でも医療にすがればなんとか

なるのではないかと過大評価していること、それから「死ぬこと」を

考えたくないという状況を鑑みますと、かなりむずかしいのは事実でしょう。

ですが、12月9日のテレビでは日本集中治療医学会が優先順位の

提案をしているのを目にしました。

本人の意思表示がある場合はそれを尊重し、ない場合は家族の

総意でという内容でした。

しかし、家族に決めさせるというのは酷な話です。事前にどういう状態に

なったら、どこまでの医療を希望するかを前もって意思表示をし、

家族と話し合って折り合いをつける習慣を普及させる必要があります。

それが家族に対する思いやりというものです。

*事前指示書(アドヴァンス・ディレクティブ)の用意は家族への思いやり*

Ⅰ死ぬまで何処でどんな風に生きたいか?どこまでの医療を望むか?

  誰にどういう介護を望むか?

 1.脳死を認めるか?

 2.ペースメーカーの装着

 3.心肺停止

   ・心臓マッサージ、電気ショック

   ・気管切開、人口呼吸器

 4.自力で口から飲み食いできなくなった時

   ・そのまま自然に任せる。

   ・できる限り食べさせて欲しい。

   ・鼻チューブ、胃瘻

   ・中心静脈栄養

   ・末梢静脈輸液(いわゆる点滴注射)、大量皮下注射

 5.痛みに対して

   ・麻薬の使用

   ・セデーション(終末期鎮静)

 6.人工透析

 7.輸血

 8.その他

   強力な抗生剤、昇圧剤、強心剤など

 9.最後を迎える場所

   病院、ホスピス、自宅、施設(      )、

   その他(     )

Ⅱ死後の問題

 1.葬儀式、告別式、法要

 2.墓地、霊園、散骨、手元供養

 3.遺言、相続

 4.病理解剖

 5.臓器提供

 6.献体

Ⅲ代理人指定

**************************

そうしないと、世界に冠たる現在のいい医療保険制度を若い世代に残し

てやれないことを、私達年寄り世代は、真剣に考えるべきだと思います。

前述の総入れ歯やペースメーカ、人工透析なども本人の希望では

ありません。家族の要望であったり、できることは何でもするという

医療者からの誘導なのです。

年寄りにとっては、ただ生かされればいいのではなく、どんな状態で

生きるかというQ.O.L が問題だと思うのです。

少なくとも、私なら願い下げです。

では、次に対策を考えてみましょう。

まずは、なんといってもかからないようにすることです。

三蜜を避けるということですが、新型コロナ感染のメインは飛沫ですから、

どうやったら防げるかです。

人との距離を2m以上あけることです。2m以上の距離があればマスクの

着用は不要です。ひとりでいる時やひとりでの散歩やジョギングを

する時もマスクはいらないでしょう。

会食も4人以下でと人数が強調されていますが、2人でも対面で

しゃべりながら食べたら危ないのです。

会食では、飲食タイムとおしゃべりタイムをきちんと分け、おしゃべりの

時はマスク着用です。ひとりずつアクリル板で遮へいしてもらうと

なおいいと思います。

これらのことがきちんと守られていれば菅総理の8人会食も問題ないと

思います。飛沫対策がどうであったかが問題なのに、人数の問題に

すり替えて大騒ぎをしてしまったことは残念という外はありません。

また若者に対する自粛要請も もうひとつ効果があがりません。

なぜなら若者は軽く済んで滅多に死ぬことはないと衆知されていますので、

動き回ると他人に移す機会が増えるからといわれてもピンと

こないのでしょう。

しかし、最近、軽症者にも ひどい倦怠感、呼吸困難、関節痛、

味覚障害、嗅覚障害など後遺症が出現することがいわれ始めました。

若者に行動を変えてもらうためには、わが事として考えてもらう必要が

ありますから、この後遺症を強調する以外にはないと思います。

有名タレントが新型コロナにかかり、後遺症でも出るとはずみが

つくのですが。

もう一つは、治す原動力は前述の通り本人の自然治癒力です。これに

影響を与えるのが、過労や睡眠不足や過度のストレス、低栄養です。

これらに注意する必要があります。

ワクチンですが、その接種が欧米で始まりました。

注射してもウィルスの侵入門戸である鼻やのどなどの粘膜に抗体が

できるとは思えませんので感染予防にはならないと思われます。

たとえてみれば、門から玄関を入り座敷にやってきたところで闘うと

いうことでしょうか。門のところで闘うなら感染予防なのです。が座敷に

上がったところで闘うわけですから重度化予防ということになります。

しかし、有効性と安全性に関してはまだよくわかってません。

ただ、副作用に関しては、アレルギー反応以外にも横断性脊髄炎や

多発性硬化症などの重い神経障害が報告されているようです。

これは、医療には不確実性があり、誰に出るかわかりませんから

接種する場合には、こういう副作用に見舞われる可能性があるという

覚悟が必要だと思います。

以上。

2020年12月26日

 


中村 仁一の遺言3 死ぬのに「医療」はいらない。(その2)

2020-12-14 12:08:08 | 日記

(その1からの続き)

2.発熱、咳、嘔吐、下痢、痛みなどの症状には意味がある。

現在、わたし達は、ふつう何か症状が出れば、すぐこれを抑えこもうとします。

けれども、これは体内に異変が起きたので それを元の状態に戻そうとする

身体の反応であることを忘れてはなりません。

わたしは、幸いなことに、生まれてからこの方、一度も入院するという不運に

見舞われたことがありません。「同和園」での20年間も、一度も病気で

欠勤したこともありません。もちろん、風邪をひいて、39度、40度の熱を

出したことは何度もありました。しんどかったですが 3日ぐらいで治りました。

解熱剤や咳止めなど くすりは一切のみませんでした。ただ、いつもと少し違うと

思った時には血液検査をして白血球が増えているかどうかだけを調べました。

もし、白血球が増えていれば細菌感染ですから 抗生剤を服用する必要があるからです。

わたしが抗生剤をのむのは化膿している場合と白血球が増えている場合だけで、

熱が高いからという理由でのんだことはありません。

発熱についていえば、ウィルスや細菌は熱に弱いのです。ですから、身体は

早く治そうとして、わざわざ体温を上昇させているのです。

それをしんどいからといって、解熱剤でムリに下げるのは利敵行為と

なり治るのを遅らせる結果になるのです。

たとえるなら、小高い丘に昇るのに、真っ直ぐ駆け上がるか、ジグザグに

遠回りするかです。ジグザグの方が楽かもわかりませんが時間がかかります。

痛み止めも のんだことはありません。もっとも、わたしの場合には、

頭痛、歯痛、腰痛や踵の剥離骨折ぐらいで、大きい骨を折ったとか 

胃腸に穴があいたり、胆石や腎石などの内臓痛は経験したことはありませんが。

がんの痛みとか内臓痛は別ですが、腰痛などで動かすと痛いということは

動かすなという身体の警告ですから、素直に従う事が第一で痛み止めを

のんで軽くすると動かすことになりますので、治りが遅れることになるのです。

犬、猫は痛ければ、じいっとうずくまっています。犬、猫に学びましょう。

また、悪いものを食べたり、のんだりすると、吐いたり、下したりします。少し

でも早く外へ出してしまおうとする身体の反応で出しきれば止まります。

これを むかつき止めや下痢止めで抑えにかかるのはよくないとおわかり

頂けると思います。

 

3.「不確実性」と「限界」がある

医療は誰に対してもこうすれば100%こうなるということはいえません。

どこまでも、やってみないと結果がどう出るかわからないという不確実性が

ついて回ります。

たとえば、この治療を行えば95%よくなりますと医者がいったとします。

しかし、それは、あなたは95%の方へ入るといっているわけではありません。

あなたの場合はどうなるかわかりませんが、とにかく95%の方へ入ると

思って賭けて下さいといっているのです。99%でも同様です。1%の方へ

入るかもしれません。

つまり、極論すれば、医療は いのちを担保にしたバクチだということです。

また、年とったものを若返えらすことはできませんし、死ぬのを少々先送り

できても止めることもできませんから「限界」があるということです。

4.目標がなくてはいけない

 それは以下の2つです。これらがないにもかかわらず「死」をただ先送り

するだけに医療を利用するのはお金のムダというものです。

 ①.回復の見込み

 ②.生活の中身(Q.O.L)の向上の可能性

 

5.エビデンス(科学的根拠)の正体

 医療現場では、科学的根拠とか医学的証拠という意味でエビデンスという

言葉がよく使われます。

たしかに統計学的に事実であることに疑いはありませんが、そのまま、

目の前の患者に当てはめることはできません。

 

血圧140未満

血圧120未満

絶対リスク減少

相対リスク減少

死亡率

4.5%

3.3%

1.2%

26.7%

上の表をみて下さい。血圧140未満の場合は死亡率が4.5%ですが、

120未満にすると3.3%と1.2%減ります。これを絶対リスク減少と

いいます。しかし、4.5%のうち1.2%減ったので26.7%減ったとも

いえます。

これを相対リスク減少といいます。どちらも嘘ではありません。

しかし、医療現場では絶対リスク減少は使わず、相対リスク減少を使います。

それは1.2%減少では 誰も注目しませんが 3分の1近く減るといえば

そんなに減るのかとなるからです。

いってみれば、患者恫喝の手段として活用されているわけです。

6.主権在患(原則、患者の許可、承諾が必要)

 医療行為を行うためには、必ず患者の許可、承諾が必要ということです。

しかし、実際には「先生お願いします。」で全権委任した形になっています。

それでも、かなりの苦痛を伴う場合や危険がある場合は、その都度きちんと

説明して承諾を取る必要があります。

本来、医療は切ったり、はつったりする「傷害行為」や撫でたり、もんだり、

時には妙な所へ指を突っ込む「強制ワイセツ行為」を伴うため、患者に

そういう理由なら、痛かったり、辛かったり、苦しかったり、時には恥ずかしい

思いもしなければなりませんが仕方ありませんと理解、納得し、承諾してもらわなければならないからです。

 

7.セカンド・オピニオンの意義は薄れた。

 その医療処置を受けるに際し、複数の医師の意見を聞いて決断した方が

いいとセカンド・オピニオンが推奨されています。

しかし「診療ガイドライン」ができたため、誰に尋ねても、ガイドラインに

添った同じ内容の話しか聞けなくなり、“金太郎飴”オピニオンになって

しまいました。

別の医者のところへ行ったら、同じ内容だったが、説明が上手だったので、

よく理解できたということはあるかもしれませんが。

そして余病併発や後遺症を含めて、どのような結果になろうと それらは

すべて患者が引き受けなければならないことは肝に命じておきましょう。

“お任せ”でいい加減ではすまないのです。

 

8.患者の「最善」と医療者の「最善」は異なる。

 わが国は医療保険制度が充実しているため、あまり金銭的負担の

ことは考えなくてもいい環境になっています。

しかし、本来、患者は自分の「懐具合」や「生き方」「生活背景」「年齢」など

を考えた「最善」の範囲内で、医療者に対してプロとしての「最善」を尽くす

ことを求めるというのが筋だと思います。

◎生まれたものが年月も経て身体の諸機能が衰えて死を迎えるのは

自然です。いかに医学、医療が発達しようと阻止できることではありません。

死は医療の敗北などといわれることもありますが、所詮、医療は死に対して

無力なのです。

病院は治療の場であって、死に場所にふさわしい所ではありません。

それにもかかわらず、現在 病院死は7割強です。

死にゆく人間に最後まで治すための治療を行うのが病院です。

これは、本人を苦しめるだけでなく、大変な医療費のムダ使いです。

現在の いい医療保険制度を 若い者に残してやるためにも わたし達

年寄りは、医療に対する過度の期待を改めなくてはならないと思います。


中村 仁一の遺言3 死ぬのに「医療」はいらない。(その1)

2020-12-13 18:19:09 | 日記

12月に入ると、痰の切れが悪いせいか 咳が頻々と起きるようになり、

しかも痰に血が混じることも増えてきました。

ふつうなら、咳止めの薬や痰を切れ易くする薬、それから止血剤を

服用することになるのでしょうが、わたしは、その手のものは

一切断っています。

たしかに、咳が続くとしんどいですし、エネルギーの消耗もあるとは

思いますが、痰を出そうとして咳が出るのでしょうから、むやみに

止めようとしてはよくないと考えています。

痰は殺された がん細胞の残骸や炎症産物のはずです。

それを体外へ出そうとする自然の働きが咳なのです。

また、がんにより壊れた細胞や死んだ がん細胞に

由来するのが出血でしょうから、止血剤などで止められる

ものではありません。

以上のように考えていますので、くすりは全く服用しないのです。

さらに、みぞおちから右の肋骨の下のおなかの部分が、硬く触れ、

かなり腫れているようです。がんが肝臓に転移しているからと

思われます。そこで、訪問診療医は、エコーの検査をして

確かめようといわれましたが、断りました。

なぜなら、転移がわかったからといって、わたしに何の益する

ところもないわけですから。

ただ、わたしも医者ですから、どういう理由で肝臓が腫れているか

知りたいという気持ちはよくわかります。

(たとえ、わかったとしても、患者には、何のプラスにならないにしても)

また血液検査も断りました。くすりをのんでいれば副作用のチェックと

いういいわけもできるでしょうが、何ものんでいませんので この理由づけ

もできません。

結果がどう出ようと今の状態を好転させることはできませんので医療費の

無駄使いになります。

もっとも、血痰が続いている以上、貧血は進むでしょう。しかし わたしは 

どんなに貧血が進んでも、輸血をするつもりはありません。

老人ホームでの体験から、吐血とか大喀血とか 一時的に大量の出血を

生じる場合でなく、徐々に減る場合は、身体の方もそれに慣れ、

かなり貧血が進んだ状態でも耐えられるということを知っているからです。

人工呼吸器の装着も希望しません。Q.O.Lの低下した状態での延命は

願い下げだからです。

ただ、医者の申し出を断れるのは、在宅で療養している場合だけです。

なぜなら、在宅での主役は患者だからです。

病院へ通院している場合や入院の場合は、こうはいきません。

いや、本来は、負担するお金の問題も含めて、患者の了解がなければ

医療行為はできないのですから、在宅と変わらないはずなのです。

しかし病院の場合、医療者主導ですから、自己主張しようものなら、

入院なら、いうことが聞けないなら退院してくれと迫られますし、

通院の場合は、機嫌をそこねて、診てもらえなくなっては困ると

患者側が気を回して黙ってしまうのが現状です。

これは、悪いようにはしないだろうという“お任せ主義”と

恵まれた医療保険制度のおかげで懐具合を患者、医療者の双方が

あまり考慮しなくていいという事情が深く関係していると思われます。

たとえば、75歳以上ですと原則1割負担でさらに高額療養費制度が

ありますので、医療費が1千万円かかろうと2千万円かかろうと、

わずかの負担で済んでしまうことになるのです。

そのため、死が目前に迫っている状態でも、できることは目一杯してくれ

という要望が家族から出されたり、死の当日まで血液検査をされたという

家族の嘆きが聞かれたりするのです。

また、通院でも高血圧や糖尿病の場合、落ち着いている、うまくいっていると

いわれながら、毎月血液検査が行われるという事態が生じるのです。

本来、患者側は、その検査は何のためにするのか、そしてそれをすれば

何がわかって、病状の好転にどう役立つのか尋ね理解した上でOK

しなくてはならないはずなのです。それを放棄して医療側の勝手に

させている状況下では 世界に冠たるいい医療保険制度が破綻し、

若い者に残してやることができなくなることを深刻に考えなくては

いけないと思います。また、多少の延命ができるようになっただけなのに、

マインド・コントロールされ医療に過大な期待を抱かされるようになっています。

しかし、現実は治らない生活習慣病で、日本中病人だらけになっています。

もし発達したというなら、病気が治って、病人が減っていなくては

ならないはずです。

16世紀のフランスの外科医、アンブロワーズ・パレが

「時に治し、しばしば和らげ、常に癒す」といいましたが、発達したといわれる

現代の医療技術も中途半端なもの(ハーフウェイ・テクノロジー)で

本質的には、当時とさほど変わっていないような気がするのです。

だから、高度な医療ほど、助かったとしても重度の障害者を生むことになるのです。

(こんな姿で助かるなら、あの時死んでくれていた方がどれほどよかったか。)

“修繕”に出す前よりひどい状態で生還(軽度の障害が重度の障害になっている)し、

結局、もて余されて施設へということになったりするのです。

 

1.本人に治せないものが他人の医者に治せるはずがない

 日本人は病気やケガは医者やくすりが治してくれると思っています。

だから「どこかに腕のいい先生はいませんか」「特効薬はありませんか」

となるわけです。しかし、病気やケガを治す主役は、本人が

自分で治す力(自然治癒力)なのです。医療者は、お助けマンであり、

くすりはお助け物質、器械はお助けマシーンで、本人の治すのを

手伝う脇役にすぎません。

たとえば、外科医は悪い所を切り取ったり、切れたものをつないだりして

くれますが、くっつけたり、後始末をして再び使えるようにしているのは

当人であって、外科医ではありません。

くすりについても、肺炎にはよく効く抗生剤がありますが、年寄りの

場合には、いくらいい抗生剤を使っても助からない場合があります。

もし、くすりが主役なら死ぬことはないはずです。

器械についても同様です。今、新型コロナの重症者に 人工呼吸器や

エクモが使われています。しかし、あの器械が治してくれるわけでは

ありません。あなたに替わって時間稼ぎをしてやるから、その間に勝手に

治しなさいというわけです。治せる人は助かるのですが、治せない人は、

いのちを落とすのです。いずれにしても 本人の治す力(自然治癒力)が

主役で医療者もくすりも器械も脇役にすぎないことを証明しているのです。

最近は超高齢社会を迎えて、「治す」医療から「支える」医療へ変わらないと

いけないなどといわれています。しかし、「治す」医療などといわれると

医療者が主役のように聞こえます。

正しくは「本人が治すのを手伝う医療」から「本人が治せないものを支え、

死にゆく時に 無用な手出しをして苦しめない医療」になると思います。

(その2へつづく)


中村仁一の遺言2 人生「還り」になったら 生き方変えよう

2020-12-09 12:15:50 | 日記

わたしは、人生を「往き」と「還り」にて分けて

考えた方がいいと思っています。

なぜなら「生き方」を変える必要があると

考えているからです。

「往き」と「還り」の折り返し点は、繁殖を

終えた時です。

「往き」は明日のために今日頑張ろうと

いう姿勢でいいのですが、「還り」になれば、明日が

来るかどうかわかりませんから今日1日

一生懸命生きようと「生き方」を変える必要があるのです。

二度と巡ってこない「今」を感謝して生きろということです。

・人として生まれるは難く、今あるはあり難し

・世の中は今日より外はなかりけり 昨日は過ぎて明日は

 知られず。

・今という 今こそ今が 大事なり 大事の今が 生涯の今

しかし現今の日本人は、いろいろ以前のようにできなく

なったことが増えているはずですが、見かけ上元気ですので

なかなか「還り」の生き方ができにくいのが実情です。

繁殖を終えて生きものとしての賞味期限の切れた

「還り」の生き方の基本を考えてみましょう。

1.「老い方上手」になる。・・・・こだわらず寄り添う

 今の日本人は「医療」を過大評価し、「医療」にすがれば

 「老い」もなんとかなると考え、その結果「老い」が

 受容できない状況になっています。

 ①年寄りはどこか具合いの悪いのが正常。

 ②「老い」を「病」にすり替えない(全部老化で片がつき)

 ③以前に比べ、できなくなったことにこだわらない。

  ・「欠けた歯を惜しまず、残った歯を喜び、抜けた頭髪を

    憂えず、未だ生えている髪を数える」

  ・「失ったものを数えるな、残ったものを生かそう」

    (パラリンピック創始者、ルードウィッヒ グッドマン)

    残存能力を精一杯生かすという受け取り方を変えることが

    重要なのです。

    例えばおいしいお酒も飲んでいるうちに半分になります。

    その時に「もう半分しかない」と思うか「いやいや

    まだ半分もある。」と受け取るかです。

    また、今まで10分で行きつけた場所へ、今は途中で一服して

    30分かかるようになったとします。その時30分もかかるように

    なってしまったと嘆くか、30分かかるが、まだ誰の手も借りず

    に30分かければあそこまで行けると受け取るかです。

  「もう・・・しかできない」か「まだ・・・できる」か、この受け取り

   方の違いは気持ちのハリという点で天と地ほどの開きができます。

   こうして、不具合いと上手に折り合いをつけて生きてみせることが

   大切なのです。

2.「病み方上手」になる・・・とらわれず連れ添う

 完治するものか しないのか、うつる病気は完治するので

 闘病していいと思います。(一部エイズのように完治しないものあり)

 しかし生活習慣病のように完治しないものは闘病せず

 上手につき合う心がけが必要です。

 一病息災、多病息災の心構えです。

 余病がでないように悪い生活習慣をそこそこ改めましょう。

 あまり厳格に頑張ろうとすれば凄いストレスになって

 却って寿命を縮めてしまう可能性すらあります。

 「医療」に関しては、前述のように生活習慣病には完治が

 ないので、すがらず、任せず、生き方に照らして上手に

 利用することです。(「医療」に関しては後に詳述することにします)

 また「健康」にあまり振り回されないのも大事なことです。

 「健康」は人生を豊かに生きるための「手段」であって

 決して「目的」ではありません。

 しかし、現実には目の色変えて「健康のためなら いのちも

 いらない」様相を呈しているのは残念という外はありません。

 たしかに、現実には、年寄りに「健康圧力」「若さ圧力」が

 かかっていますので、仕方がない一面もあるといえます。

 「健診」や「人間ドック」も必ずしも元気で長生きできると

 いう保証はありません。「健康づくり」には役に立たず、

 むしろ「病人づくり」になっているといっても過言では

 ないと思います。

 だいたい、医者は「病気」や「ケガ」という他人の不運不幸が

 メシの種という因果な商売です。それが、医者が増えすぎたため

 無症状の年寄りを「健診」にかり立てて「病人」に仕立てあげて

 いるわけです。

 繁殖を終えるまで生きていれば、検査をすれば何か異常が

 見つかるはずです。しかし、どうこうできるわけではありません。

 知ってあれこれ悩むより「知らない方が幸せ」ということも

 あります。

 繁殖を終えた年寄りの「健診」や「人間ドック」は、よく考えた

 方がいいと思います。

3.「世話され上手」になる。

 前述した通りですが、くり返しますと

 ①自分でできることは精一杯自分でする。

 ②できないことをしてもらった場合、必ず礼をいう。

 ③しょうもない愚痴や弱音を口にしない。

 ④自力でのみ食いできなくなれば「寿命」と受け取るなど

 

4.「死に方上手」になる

 日本人は発達したという言葉に惑わされて医療を過大評価し

 無駄なあらがいをしているように思えてなりません。

 今後、どんなに医療が発達しようと、多少の延命は可能に

 しても「死」を回避することはできないのです。

 わたし達には、生来、穏やかに死ねるしくみは備わって

 いるはずですので「医療」を使って邪魔してはいけないのです。

 自然の摂理に任せることです。その手本を示し、次世代に

 「死」は怖くないことを示し、安心させるという役目を

 果たさなくてはなりません。

 ただ、どんな死に方をするかは、それまでの「生き方」

 「周囲とのかかわり方」「医療の利用の仕方」が

 一般的には反映されるのです。

 今日は昨日の続き、昨日と全く異なる今日はありませんから

 人は生きてきたように死ぬということです。

 そこで、「死を視野」に入れての ふだんの「生き方」が

 大事ということになるのです。

 ですから、「今」をしっかり生きることが大切で、点検、修正を

 くり返しながら、その日まで 生ききろうではありませんか。